#182 ブラックユーモア ~「後生鰻」~ | 鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

鑑賞歴50年オトコの「落語のすゝめ」

1956年に落語に出逢い、鑑賞歴50余年。聴けばきくほど奥深く、雑学豊かに、ネタ広がる。落語とともに歩んだ人生を振り返ると共に、子や孫達、若い世代、そして落語初心者と仰る方々に是非とも落語の魅力を伝えたいと願っている。

ある大家(たいけ)の旦那、隠居の身になって時間を持て余していたが信心を始め、神社仏閣へお詣りするのを楽しみとするようになり、毎朝、近くのお寺へお詣りするのを日課とした。そして生き物を大切にすることにこだわるようになり、犬や猫などの生き物が殺されそうになった場面に出くわした時は、仏心が起きて金に糸目を付けずに買い取って逃がしてやるようになった。

ある日、鰻屋の前を通りかかると、主人がまな板の上で鰻を割こうとしている。「亭主、その鰻を殺すのかい?」「へい、奥の客のご注文で」「そんな殺生をするでない。私が買い取ろう。いくらだい?」。亭主は鰻の代金をもらい、(ざる)に入れて隠居に渡す。「これからは漁師に捕まるような所へ来るでないぞ」と隠居は鰻に説教して、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて店の前の川に“ドボーン”と捨てて逃がしてやった。「ああ、いい後生(極楽往生を願って良い行いをすること)をした」と隠居はご満悦であった。

 

次の日の次の日も同じ事が何度も繰り返された。鰻屋は隠居が信心に憑りつかれていることに気付き、隠居の姿が見えるとまな板と包丁それに鰻を持ち出して待ち受けるようになった。不漁だとかの口実を設けては次第に鰻の値段をつり上げて行き、店で売るよりは何倍も儲けるようになった。隠居は金を惜しむ気持ちは一切なかったが毎日鰻が殺される場面に出くわすのは方角が良くないのであろうと、お詣りの道を変えることにし、鰻屋の前を通らないようにした。

 

数日後、隠居は久し振りに鰻屋の前の道を歩くことにし、鰻屋がこれを見付けた。ところがその日は本当に不漁で鰻の入荷がないので休業にすることにしていた。しかし、久し振りの金づるを見逃すわけにはいかない。「かかあ、何か生き物はいないか?」と声を掛けると共に自分も辺りを見回すが、いつもそこらで寝そべっている猫さえいない。「そうだ、かかあ、うちの赤ん坊を連れて来い」と命じる。女房が連れて来た赤ん坊をまな板に載せ、包丁を振りかざして隠居を待つ。

「おいおい、赤ん坊を割くのかい?」「へい、奥の客のご注文で」「そんなことがあるもんか。殺生を見逃すわけにはいかない、私が買い取りましょう。いくらだい?」「ちょうど赤ん坊が不漁で…」。高額の代金を払い、亭主から渡された赤ん坊を抱き抱えて、「こういう家に二度と生まれて来るでないぞ」と赤ん坊に説教し、南無阿弥陀仏と念仏を唱えて前の川にドボーン。

「“凝っては思案に(あた)わず(物事に熱中すると冷静な判断が出来なくなる)”、お後が宜しいようで」。

 

正味6分ほどの短い「後生鰻(ごしょううなぎ)」という噺で、持ち時間に合わせてマクラを調節して、本当に次の出番の人の準備が整うまでのつなぎ的な一席の性格を持った噺と言えようか。

 

サゲの所ではつい釣られて笑ってしまうが、決してあってはならない話である。こういう類の笑話を昔はブラックユーモアと言った。しかし、不倫、虐め、虐待など倫理観の乱れが大きく、何でもありの感がある昨今、この噺が寄席から消えて行くのではないかと危惧している。

 

 

(東大寺・奈良 2011年)

 

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