【5】より続いて、最終回はある方よりいただいた文献資料に見る里耀洞をご紹介する。
実は奇遇にも同業のお友達であるRKパパさんのお知り合いが物件のご近所にお住まいで、パパさんがその方に何かご存じでないか聞いてくださった結果、おそらくは「宇治田原町史」の該当部分であろう写しをメールでいただいたというわけ。なんというありがたき幸せ…。
それを読んで、不明点・疑問点をほぼ知ることができたので、先人の功績を後世に残す意味で、記事中では伏せてきた具体的な集落名もあえてそのままに、こうしてネット上で公開しようということである。まずは、RKパパさん並びにその先輩さんに心より御礼申し上げます。
ではさっそく。まずは里耀洞の概要から。
“里耀洞は禅定寺地域では俗に「マンボウ」と呼ばれている。これは大峯山系から宇治川へと流下する谷水を禅定寺区へ流下させるために山を掘り抜いてつくったトンネルの水道の名称で、トンネルの完成時に一般から名称を公募し、中内清一郎の案によって命名されたもので、里を益々発展させる願いを込めた名である。(以下略)”
…ということで、地理院地図にて全体を俯瞰すると、こう。
宇治川の谷から大峰山系を隔てて東側に位置する禅定寺地区に水を引くと、こういう話だ。
資料においては
“大峯山から発する瀬羅谷川の川下、禅定寺区下手の小字西海道地区は、瀨羅谷川から流出した岩石や土砂が堆積してできた土地であるので、特に水もちが悪く、田の用水も途中で水が土地に滲みこむ状況で、軽度の旱魃などでも水不足に困り、したがってこの地域の住民は、水についての苦労の多い土地であった。大峯山系から北流して宇治川へ落下する谷川の水を何とか禅定寺区に引けないものかと、かねてから強い願望を持っていたのである。”
と表現されている。
コンクリート三面張りに改修された現在の姿からは想像をたくましくするより他ないが、
かつては水が沁み込んでしまうような住民泣かせの川だったという瀨羅谷川。やはり背景は水利確保の苦労を解消する、という目的だった。
次に、実際に隧道掘削に至るまでの経過を。
“大正の初期、宇治田原村では村内の地図を正確なものに改めるために、測量製図技師である山中左武郎に、宇治田原全域の測量および製図を依頼した。山中技師が禅定寺区内の測量を開始したとき、区長から前記の住民の願望を聴き、北流している谷水を禅定寺区へ引水するための設計を依頼した。山中技師は住民の願望に応えるには水道トンネルが必要であり、その地点としては瀨羅谷川の上流地点である禅定寺区小字大峯四番地であると定めた。”
区長さんはこの千載一遇のチャンスに飛び付いたんですなあ。
“禅定寺区長西谷政次郎は山中技師より設計書を受けとるや、直ちに区民に知らせ、工事着工のため区民の意思統一をはかった。
経費は区費と一部受益者負担を加味した予算をつくり、施工段階に入った。
施工は区民全体で当たることにし、工事の指揮は当時地元で土木関係の仕事をしていた、奥村伊三郎・岡本精太郎に依頼した。以上の経過を経て区民あげてこの大工事にとりかかった。”
実際の準備期間がとのくらいだったのかは明記されていないが、この好機を逃すまいと区を挙げて一気に推し進めたような勢いを感じる。
”現地は大峯山系の現大峯林道の地下に、南北方向に長さ八十メートル、坑道はたて二メートル横一メートルの大きさで、南北両方から同時に着手し、中心部に向かって掘り進めた。”
あら…100mほどというわたくしの脳内測量による見立てはハズレ。延長は80mだったと。
坑道のサイズに関しては現物を見れば…
縦2m×横1mと言われれば…まあギリその通りかなあ、って感じ。先人の動画で見ると、奥はもっと狭そうだったけど。
“作業はツルハシや鍬で、掘った土砂は後方へ送るなど人海戦術で行なわれたが、土木技術が幼稚であったためか、中央部へ向かったものの坑道が合致せず、トンネルが貫通できなかった。やむをえず一時工事を中止した。”
残念ながら「両側から掘った時あるある」に陥ってしまったということで、工事中断に至ったということはなかなかの誤差だったことがうかがえる。せっかくの区を挙げての工事だったのに、さぞかし無念だっただろう。
それにしても…「土木技術が幼稚」との表記は、まあそうだったんだろうけど、工事を指揮した両名のことを考えると、いささか気の毒なような…。
が、これで隧道計画が挫けることはなかった。
“山中技師に工事誤差訂正の再設計を依頼して、技師の指図により工事を再開した。
工事はまずトンネル内部の改良を行ない、次に未通部分の掘鑿を進め、ついに待望の貫通をすることができた。(現在トンネル内部を観察すると当時の苦労のあとがしのばれる。)”
ここでも工事中断の期間がどのくらいだったのかは書かれていないが、ここまで進めていれば、この期に及んで工事を放棄することは有り得なかっただろう。
先人の動画には、誤差をすり合わせた際の痕跡がしっかりと納められていた。わたくしも願わくばここまで到達したかったなあ…。
ともあれ、隧道はここに無事完成した。
“貫通によって水道としての役割を果たすために、下部を粘土と石灰を混ぜたシックイで固めた。なお貫通と同時にトンネルの名称をどうするかについて禅定寺区に公募したところ「里耀洞」と決定した。”
公募によって決定した、この名称。
非常にいい名前だと思う。
ちなみに今回の資料でも我が疑問が唯一解決しなかったのが、この扁額がだれの揮毫なのかということ。区長、あるいは村長?
あともちろん、あんだけ泥が堆積していたために洞床が漆喰で仕上げられていることはわからなかった。
“最大の要点である水道トンネルが完成したので、次に大峯山系北側の谷川から水を取り入れる取水工事(三つの谷から三本)と、トンネルの南側でトンネルを通った水が勾配三〇度の坂道を瀨羅谷川と合流するための工事にとりかかった。”
取水に関しては三方向だったか~。実は、後付けながらそんな気もしていた…いや、マジで(笑)。
これは北側坑口上からの取水方向振り返りだが、
わたくしが確認したのは写真左方向のルートで、確かに途中で分岐するパイプを見た気がする。写真を撮ってないんだけれど。そして、写真右方向からも取水してそうだな~というのは漠然と思っていたのだが、なぜか確認しなかった。
そして、
ここが隧道南側、三〇度の急勾配だが、工事は大変だっただろうな~。
“この工事も多数の区民の人海戦術を用い、材料を里より現場への運搬(粘土や石灰など)、溝を掘り、溝の三面をシックイで固める作業など多くの人が分担して作業を進めた。
水道はのちにコンクリートで補強された。現在はパイプを通した。”
こういうのは、
コンクリートで固められてからの姿なんだろうな。「現在はパイプを通した」とか、完成後をえらく端折ってあるなあ(笑)。
“全工事が完了し、水道に水が流れ、里耀洞の有難さを住民が味わった時点で竣工式を行なった。式は区長西出孝太郎が主催した。また竣工碑は、自然石に「竣工記念碑」および「昭和九年四月」と刻んで建立した。ここに永年の禅定寺区民の願望が達成できたのである。”
竣工式を主催したとされる区長・西出孝太郎氏の名前は、実は記事の中でも登場している。
禅定寺集落近くのタンク前にあった竣工碑に、発起人の筆頭としてその名が刻まれていたのだった。
ところで、昭和9年に区長を務めていた人物が昭和36年にまだご存命だったのだろうか。比較的若くして区長をされていて、かつその後の戦争を生き延びられたのなら、まあ有り得るか。こんなこと書いたら失礼かな…。
そして、やはり先人の動画にもあった通り、
埋もれているが、実は「昭和九年四月」と刻まれていたんですな~。
資料には、“取水路を水量豊かな泉水の谷まで七〇〇メートル延長” するため、昭和21年に宇治田原村によって村費を投じた追加工事が行われたことも記載されている。“これにより水量が増し、この事業の効果がさらに増したのである。” ということだが、この「泉水の谷」がどこのことなのかは調べられていない。
また、昭和41年にはこの泉水の谷から里耀洞を通り、岩山区長山地域(“山上の台地で、軽度の日照りでも井戸水が亡くなる土地” )まで約4キロの水道パイプが設けられたともある。
その長山(おとのやま)地区、
場所を調べてみたら、このあたり(中央の十字グリッド)。
田原川や禅定寺川も近い場所なのに、台地上ということではるか離れた大峰山の北側から水を引かねばならなかったとは。地形というのは、平面の地図を見ているだけではわからない、面白いもんだなあ…。
ご提供いただいた資料でわかったのはここまで。工事の時間経過にまつわる部分がいまいち不明確だったのは少し残念ではあるが、それを除けばほぼ全容解明といっていいだろう。改めてこの素晴らしくも極めてドメスティックな土木遺産を知ることができて良かった。
最後に再度、ソフスプさん、路地裏にひとりさん、RKパパさんとその先輩さんに心からの感謝を。今年はいい年になりそう…かな?
今度こそ、完結。
【4】より続く。
果たして、例のアヤシイ窪みはビンゴだった。
これが里耀洞の反対側坑口
…のはずだが、いや~これは…
ほぼ全埋まりですやん。
そしてよく見ると、本来の隧道坑口は数m奥。この埋没したコンクリートポータル含めた手前部分は、言わば暗渠化されたようだ。コンクリートの風合いを見ると、後年の改修でこうなったっぽい。
その、本来の坑口(たぶん)の胸壁となるのがここらへんだが、
特筆すべきものは見つからなかった。
「本来の坑口」前から振り返る、坑口前の景。
埋まっていて見えないが、取水地点からのパイプは写真左の太い木の裏側からこちらに延びてきている。
さて、問題の?コンクリートポータルだが、
いわば暗渠のフタみたいなもんなので、当然扁額もなし。本来どのくらいの断面サイズだったのかはもはやわからず、欠円アーチがのぞくのみだ。
当然内部を確認してみたが、
これは…無理だ~。
果たして閉塞しているのかどうか…ズームしてみた。
…ムム。
もうちょい…。
見える範囲では閉塞はしてないようだ。なぜかいきなり右にカクッと曲がってるようだが、閉塞ではない。それにしては、先ほどあまり空気の流れを感じられなかったのはなぜだろう。途中のどっかで閉塞してるのか?
頭の中で、ざっくりと両側の坑口位置をイメージしてみる。隧道の延長はおおむね…100mほどだろうか。90m以下ではないと思う、たぶん。
隧道を掘ってまで水を引くというのは、いかに切実に安定した水利の獲得が望まれていたか、ということ。以前に記事にした稲山隧洞や明護隧道もそうだったが、「希求」という言葉がしっくりくる重みを感じる。
この里耀洞は特に、掘削そのものもさることながら、並々ならぬ手間をかけて維持管理されてきたことが偲ばれ、その先人たちのたゆみない営みに、しばし想いをはせた。
いや~、隧道について、これ以上確認すべきことはない。大満足で撤収だ。
あとはひとつだけ。最初に隧道から登ってきた、「施業路その3」。それを下って行った先を確かめたい。
赤ラインが今から向かう方向、青ラインを下ると隧道へ戻る。まあ、あくまでオマケだ。
その「施業路その3」は、
羊歯ロードだった(笑)。
だっさいネーミングだが、こんだけ羊歯が繁茂してる道ってけっこう珍しい気がする。
羊歯ロードは、ほどなく中途半端な広場で終わっていた(改めて見れば、ちゃんとあの看板に延長186mって書いてあった)。羊歯以外には特に見るべきものはなかったが、これで完全に思い残すことなし。
羊歯ロードのすぐ下が隧道のある谷なので、
こっから降りてショートカットした。
降り立ったところは、
隧道のある掘割手前の平場だった。送水パイプがあるからほんとわかりやすいわ~(笑)。
ここからは来た道を淡々と戻った。
そして、瀬羅谷川の少ない水ではドロドロの長靴がきれいにならなかったので、
タンクからほとばしる水をお借りして、洗い流させてもらった。
この水こそが、里耀洞を経て山の向こうから引かれてきた水。こういう形で先人の偉業の恩恵を受けるのも失礼かもだが…。
まずは、この物件を知るきっかけとなったソフスプさんの記事「水路隧道を目指せ!」(前・後編)を。素晴らしい土木遺産を教えていただき、本当にありがとうございました。
帰ってから改めてこの里耀洞のことをググってみたのだが、マジで情報がない。そしてソフスプさんの記事以外で唯一見つけたのが、ある動画だった。
路地裏にひとりさんによるこの動画(勝手にリンクさせていただいている)には、宇治田原町史などを丹念に調査されたのか、ネットでは一切調べられなかった貴重な情報がてんこ盛り。それにリスペクトを表すべく、記事内では現地でのわたくしの主観に限定し、ここで知った情報は一切書かなかった。
そしてその情報の価値はもとより、探索という面でもわたくしの上をいく(洞内もっと奥を見られますぞ)非常に良質なドキュメンタリー。わたくしが垂れ流してるような「逝ってきた動画」とは雲泥の差!な素晴らしい内容なので、ぜひご覧いただきたい。
探索時間は、約3時間。
ゆっくりじっくり、年始一発目として最高な、濃密な探索だった。
最後の最後に。ここは危険を伴う可能性があるし、地域に水をもたらす現役のライフラインでもある。万が一場所を特定して訪問する際は自己責任で、また節度ある態度でぜひよろしく。自分を棚に上げるとはこのことだが。
以上、完結…
のつもりだったが、素晴らしい情報をいただいたので、それを最終回【6】としてご紹介する。
【3】より続く。
進入したのは20mいくかいかないか、くらい。それでも洞内には9分ほど滞在したようだ。つうか、進むのに時間がかかるからってのも大きいが。
充分に堪能したので、撤収。
去り際に、ありがとうのタッチ(笑)。扁額に触れる隧道は嬉しい。
狭い水路の掘割に覆いかぶさった植生が、
隧道を秘匿するかのような、そんな坑口前の景を戻っていく。
掘割を抜けたところで振り返ったその時、
掘割に向かって右側に、上へと登ってゆく踏跡を見つけた。
来た時にはチラ見えした隧道にまっしぐらだったので気付かなかった。ちょっと辿ってみようか。
登ってゆくと、程なく
ほぼ廃道状態の林道に出た。林道っつうか、作業道的な?
もうちょい先で景色が開けてるようなのでさらに進むが、
ちなみに作業道?は、
逆方向、すなわち下る方向にも延びていた。こっちも後で辿ってみよう。
さて、作業道は先ほどの場所からすぐに、
きれいな舗装林道に出た。これは振り返っての撮影。
記事的には大サービスの(笑)看板。
やはりさっきのは森林施業用の仮設道路と書かれており、今出てきた道は「その3」だそう。
この舗装林道を少し辿って「その4」を探したり(見つけられなかった)して遊んでからこの場所に戻ってきて…不思議なことに、ここに至るまでに全然考えていなかったことをふと考えた。本来ならずっと考えていてもおかしくなかったことを。
「そういえばさあ、
隧道の反対側、探せるんじゃないの?」
いや、アプローチ場所以外はまったく下調べもなしに来たもんだから、記事で見たとおりの隧道に到達し、少し内部を見られただけで大満足し、マジでそれ以上のことは考えてなかったのだった。
が、こうして来てみると隧道上には舗装林道が走り、そこから隧道反対側がありそうな谷筋にも降りていけそうなのを認識して初めて、その考えがよぎった。いや、これは逝っとかなアカンやろ。
が、そう簡単に見つけられるかどうか…って、
わずか2分ほどでアヤシイ窪みはっけーーん!
あまりにわかりにくいと思うので、イメージ線を書き加えた。これ、もうほぼ決まりじゃないかね?
が、切り立っていたのでその場で降りるのは自重し、
もう少し下って行った。
すると…あっ!
お懐かしや、送水パイプ(笑)。
パイプは先ほど見えた隧道坑口らしき窪みの方から延びてきていた。つうことはやはり、先ほどの窪みが隧道であり、このパイプが向かう先が取水地点ということになる。
ならば…と、隧道は後回しにしてまずはパイプを追いかけた。
すると、わずか数十mほどで、
この箱に到達して終了。
まとめると…この谷(名称不明)の上流からの水がここで一旦集められ、ここから送水パイプにより隧道を抜けて瀬羅谷へと引かれてあの集落近くのタンクへ送られてる、という状況だと思う。思うんだが…
とりあえず現在は、このほっそいパイプで事足りる程度の水量しか必要ない、ということなんだろうか。失礼ながら、この程度でもちゃんと意味がある(役に立ってる)んだろうか。なんか釈然としないな…。
取水方向はここまで見れば充分だろう。
やはり隧道が気になるので、ここで引き返した。
そして…ものの2分で、アヤシイ窪みの前へと出た。すると…
【5】に続く。
【2】より続く。
その存在をひた隠すような薮のどん詰まりに、目的の隧道はうずくまっていた。そう、「うずくまる」と表現したいほどに、それは小さかった。
正対。
ソフスプさんのブログで見たとおりの(当たり前だ)姿だったが、こんなに小さいとは。ちなみに、これは普通に立って撮ってる。
まずは観察だ。
一見してコンクリートポータルだとわかるが、アーチ環、帯石、笠石、そして扁額と、古めかしい隧道の構造様式を踏襲している。水路と同時期の竣工だとすれば、この隧道も昭和九年モノってことになるが、果たして。
このポータルにおいてもっとも目を引くものは、やはりこの扁額。達筆でありつつも平明な筆致で書かれた、
その名も里耀洞。
「りようどう」と読むのだろう。いい名前だ。落款はないけど、誰の揮毫だろうか。
胸壁のコンクリを至近で観察すると、
横向きの筋がたくさん入っている。これは…場所打ちコンクリートを施工した痕かな?状態は悪くないようだ。
胸壁と地山の隙間には、
石を詰めてある。
非常に小ぶりながらも、力を入れて大切に造られたポータル、そんな印象を持った。素晴らしい。
さて、こうなると後は当然…
洞内探索だ。
ポータルのコンクリートアーチはわずか1mほど、その先は三角屋根的な合掌桁に。ソフスプさんのところで見て以来、実はこれが非常に気になっていた。まさか石桁じゃないだろうな、って。実際に見た結果、石じゃなくてコンクリ桁だった。さすがに、ねえ。
ここまで導いてくれた送水パイプが、当然ながらと言うか、そのまま突っ込んでいる。これをさらに追いかけていくことになる。
喜び勇んで…と言いたいところだが、
一歩目で思い知らされた。これはちょっとヤバいなと。
コレはあまり進まないほうがよさそう…かな?理由は後ほど。
奥の様子を、ちょっとズームで。
右に左にうねりながら、まだまだ続いてる雰囲気…。あそこに落ちてるのはなんだ?
まあ、進めるところまで進んでみよう…。
合掌桁の終わりがどうなってるかと振り返ってみると、
天井部との間には、やはり石が詰められていた。
ちなみに、先ほどあれはなんだ?と思ったのは
ペットボトルだった。ちゃんちゃん。
さて…上の写真でもなんとなく伝わると思うのだが、
最初の一歩目から、堆積した泥がエグかったのよね、この隧道。
摺子の泥濘地獄以来、こういうのあんま気が進まない(笑)のだが、ここのは深さこそそれほどではないものの、粘度は申し分なし。一歩ずつ引っこ抜くのに苦労する感じで、しかもこの小さな洞内。入り口付近は常時中腰で、なかなかの苦行で、これそうそう進めないぞ、と。
しかし、まだ諦めたくはない。
もうちょっと進んでみる…が、実は気になることは他にもあった。
入洞してからの写真が白っぽいのにお気づきだろうか。そう、洞内にはあまり空気の流れが感じられず、高い湿気が靄となって滞留していたんである。
ここにはソフスプさんの記事を見ただけの状態で来ている。ソフスプさんは入洞されなかったため、すでに完全なる「未知の世界」に入っているわけで。隧道として現役でも、送水パイプによる導水に切り替わっているからには、隧道そのものは閉塞していても不思議じゃないわけだ。それは非常に、よろしくない。
さらに気になったのは、こういうとこにはつきもののコウモリさんの姿が全く見当たらなかったこと。これらを考え合わせると…
「万が一にも、一酸化炭素中毒で死にたくない」
モチロンっすよね~。
つうわけで、ここで撤退を決めた。
奥を照らしてみたが、まだまだ続いてる。
ズーーム。
どうなってんだろうなあ、この奥…。
気にはなるが、そもそも全長がどのくらいあるのかもわかってないんだから…。撤収の判断は間違ってなかったと思う。この写真でも洞内の澱んだ靄の感じがちょっとわかるかと。
泥濘地獄の中では、向きを変えるのもプチ苦労。
一歩一歩引っこ抜きながら…
最後にお約束の
鉄板の構図。
こうして見ると、そこはかとなく棚橋隧道のような「鍵穴感」があるなあ。大きさは全然違うけど。
いやはや…
ちょっと疲れちゃった(笑)。
ともあれ、
何事もなく生還。
【4】に続く。
























































