知られざる土木遺産・里耀洞訪問記【2】 (京都府綴喜郡宇治田原町) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

【1】より続く。

 

 

 

 

…あっ。

 

って言われても?ですわな(笑)。

が、ここまでわたくしを導いてきた送水パイプがにわかに斜面を登り始めたことに気付いた瞬間、先にあるモノにも気付いた。

 

 

 

 

 

見事にステルスなそのモノに接近してみれば…

それは確かにソフスプさんの記事で見た「竣工記念」の石碑。

 

 

 

 

 

 

 

その側面には、

「昭和九年」と刻まれている。

 

これは、あると知ってなければ見落としても不思議ではないステルスっぷり。しかも竣工記念って、なにが竣工したっていうのだ?…って思ってしまうだろう。

 

けども、もし同業者ならば、嗅ぎつける…かもしれない。

 

 

 

 

 

これは、瀬羅谷川から見上げた景。


中央ちょい左上に竣工碑があるんだが、そのステルスっぷりもさることながら…

 

わかるだろうか?目前から斜面の上に向かって延びている溝…的なものの痕跡が。写真ではわかりにくいと思うが、肉眼ではけっこうしっかり見えていた。これが、竣工碑に昭和九年竣工と刻まれたものに違いない。


 

 

 

 

 

​​​​ターゲットは、

この溝的なもの=水路遺構を遡った先にある。

 

つまり目指す物件は、水路隧道である。バラしちゃった(笑)。

 

 

 

 

 

登る途中で、

一旦離脱していた送水パイプが再度合流。

 

水路がこの状態ということは、維持管理が追い付かなくてある時期に放棄され、代替として送水パイプが設置されたってことだろう。つまり、隧道は現役ということだ。

 

ちなみに上の写真では、金属で被覆された先代とおぼしきパイプも写っている。

 

下にあったタンクそばの碑文には、昭和三十六年四月竣工とあった。この時に水路の維持管理を諦め、パイプによる導水にスイッチされたのではないか。現在のパイプは水路を初代とすると三代目なのかな?

 

 

 

 

 

 

登りきって徐々に勾配がゆるむと、水路も徐々に往年の姿を現し始める。

しかし…想像を絶する細さ。こんな細くて浅い水路で先ほどの急勾配を流れ下って…大丈夫だったのか?いや、そもそもこの程度の水を引くだけで事足りたたのか?

 

まぁ、崩れてしまってわからないが、もっと深かったのかも。きっとそうだ(推測)。

 

 

 

 

 

 

 

切り通しを抜けると

ひときわ荒れた雰囲気になるが、水路は(そして送水パイプも)しっかりと導いてくれる。こっちだよ、と。

 

 

 

 

 

 

これをクリアしたところで、

捉えた。

 

これまた写真ではわからないだろうが、肉眼ではその黒い影をしっかりと認識できた。思わず、ゾクリと。

 

 

 

 

 

 

もうちょい接近…。

どうだろうか。見えた…かな?

 

このチラリズムには、久々にグッとキタ。これは…素晴らしい…。

 

 

 

 

 

 

気が急いて薮に踏み込めば、

なるほど、こういうお出迎えね。そういうことね(謎)。

 

 

 

 

 

 

 

竣工記念碑から13分、最奥のお宅からだと46分。

記事で見て衝撃を受けた、まさにあの姿が。これは感動だ…。

 

 

 

 

 

【3】に続く。