知られざる土木遺産・里耀洞訪問記【6】 (京都府綴喜郡宇治田原町) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

【5】より続いて、最終回はある方よりいただいた文献資料に見る里耀洞をご紹介する。

 

 

実は奇遇にも同業のお友達であるRKパパさんのお知り合いが物件のご近所にお住まいで、パパさんがその方に何かご存じでないか聞いてくださった結果、おそらくは「宇治田原町史」の該当部分であろう写しをメールでいただいたというわけ。なんというありがたき幸せ…。

 

それを読んで、不明点・疑問点をほぼ知ることができたので、先人の功績を後世に残す意味で、記事中では伏せてきた具体的な集落名もあえてそのままに、こうしてネット上で公開しようということである。まずは、RKパパさん並びにその先輩さんに心より御礼申し上げます。

 

 

 

 

ではさっそく。まずは里耀洞の概要から。

 

“里耀洞は禅定寺地域では俗に「マンボウ」と呼ばれている。これは大峯山系から宇治川へと流下する谷水を禅定寺区へ流下させるために山を掘り抜いてつくったトンネルの水道の名称で、トンネルの完成時に一般から名称を公募し、中内清一郎の案によって命名されたもので、里を益々発展させる願いを込めた名である。(以下略)”

 

 

 

 

…ということで、地理院地図にて全体を俯瞰すると、こう。

宇治川の谷から大峰山系を隔てて東側に位置する禅定寺地区に水を引くと、こういう話だ。

 

 

資料においては

“大峯山から発する瀬羅谷川の川下、禅定寺区下手の小字西海道地区は、瀨羅谷川から流出した岩石や土砂が堆積してできた土地であるので、特に水もちが悪く、田の用水も途中で水が土地に滲みこむ状況で、軽度の旱魃などでも水不足に困り、したがってこの地域の住民は、水についての苦労の多い土地であった。大峯山系から北流して宇治川へ落下する谷川の水を何とか禅定寺区に引けないものかと、かねてから強い願望を持っていたのである。”

 

と表現されている。

 

 

 

 

 

コンクリート三面張りに改修された現在の姿からは想像をたくましくするより他ないが、

かつては水が沁み込んでしまうような住民泣かせの川だったという瀨羅谷川。やはり背景は水利確保の苦労を解消する、という目的だった。

 

 

 

 

 

次に、実際に隧道掘削に至るまでの経過を。

“大正の初期、宇治田原村では村内の地図を正確なものに改めるために、測量製図技師である山中左武郎に、宇治田原全域の測量および製図を依頼した。山中技師が禅定寺区内の測量を開始したとき、区長から前記の住民の願望を聴き、北流している谷水を禅定寺区へ引水するための設計を依頼した。山中技師は住民の願望に応えるには水道トンネルが必要であり、その地点としては瀨羅谷川の上流地点である禅定寺区小字大峯四番地であると定めた。”

 

 

区長さんはこの千載一遇のチャンスに飛び付いたんですなあ。

 

 

“禅定寺区長西谷政次郎は山中技師より設計書を受けとるや、直ちに区民に知らせ、工事着工のため区民の意思統一をはかった。

経費は区費と一部受益者負担を加味した予算をつくり、施工段階に入った。

施工は区民全体で当たることにし、工事の指揮は当時地元で土木関係の仕事をしていた、奥村伊三郎・岡本精太郎に依頼した。以上の経過を経て区民あげてこの大工事にとりかかった。”

 

 

実際の準備期間がとのくらいだったのかは明記されていないが、この好機を逃すまいと区を挙げて一気に推し進めたような勢いを感じる。

 

 

 

 

 

”現地は大峯山系の現大峯林道の地下に、南北方向に長さ八十メートル、坑道はたて二メートル横一メートルの大きさで、南北両方から同時に着手し、中心部に向かって掘り進めた。”

 

あら…100mほどというわたくしの脳内測量による見立てはハズレ。延長は80mだったと。

 

 

 

 

 

坑道のサイズに関しては現物を見れば…

縦2m×横1mと言われれば…まあギリその通りかなあ、って感じ。先人の動画で見ると、奥はもっと狭そうだったけど。

 

 

“作業はツルハシや鍬で、掘った土砂は後方へ送るなど人海戦術で行なわれたが、土木技術が幼稚であったためか、中央部へ向かったものの坑道が合致せず、トンネルが貫通できなかった。やむをえず一時工事を中止した。”

 

 

残念ながら「両側から掘った時あるある」に陥ってしまったということで、工事中断に至ったということはなかなかの誤差だったことがうかがえる。せっかくの区を挙げての工事だったのに、さぞかし無念だっただろう。

それにしても…「土木技術が幼稚」との表記は、まあそうだったんだろうけど、工事を指揮した両名のことを考えると、いささか気の毒なような…。

 

 

 

が、これで隧道計画が挫けることはなかった。

 

“山中技師に工事誤差訂正の再設計を依頼して、技師の指図により工事を再開した。

工事はまずトンネル内部の改良を行ない、次に未通部分の掘鑿を進め、ついに待望の貫通をすることができた。(現在トンネル内部を観察すると当時の苦労のあとがしのばれる。)”

 

ここでも工事中断の期間がどのくらいだったのかは書かれていないが、ここまで進めていれば、この期に及んで工事を放棄することは有り得なかっただろう。

先人の動画には、誤差をすり合わせた際の痕跡がしっかりと納められていた。わたくしも願わくばここまで到達したかったなあ…。

 

 

 

ともあれ、隧道はここに無事完成した。

 

 

“貫通によって水道としての役割を果たすために、下部を粘土と石灰を混ぜたシックイで固めた。なお貫通と同時にトンネルの名称をどうするかについて禅定寺区に公募したところ「里耀洞」と決定した。”

 

 

 

 

公募によって決定した、この名称。

非常にいい名前だと思う。

 

ちなみに今回の資料でも我が疑問が唯一解決しなかったのが、この扁額がだれの揮毫なのかということ。区長、あるいは村長?

あともちろん、あんだけ泥が堆積していたために洞床が漆喰で仕上げられていることはわからなかった。

 

 

 

“最大の要点である水道トンネルが完成したので、次に大峯山系北側の谷川から水を取り入れる取水工事(三つの谷から三本)と、トンネルの南側でトンネルを通った水が勾配三〇度の坂道を瀨羅谷川と合流するための工事にとりかかった。”

 

 

取水に関しては三方向だったか~。実は、後付けながらそんな気もしていた…いや、マジで(笑)。

 

 

 

これは北側坑口上からの取水方向振り返りだが、

わたくしが確認したのは写真左方向のルートで、確かに途中で分岐するパイプを見た気がする。写真を撮ってないんだけれど。そして、写真右方向からも取水してそうだな~というのは漠然と思っていたのだが、なぜか確認しなかった。

 

 

 

 

 

そして、

ここが隧道南側、三〇度の急勾配だが、工事は大変だっただろうな~。

 

 

“この工事も多数の区民の人海戦術を用い、材料を里より現場への運搬(粘土や石灰など)、溝を掘り、溝の三面をシックイで固める作業など多くの人が分担して作業を進めた。

水道はのちにコンクリートで補強された。現在はパイプを通した。”

 

 

 

 

こういうのは、

コンクリートで固められてからの姿なんだろうな。「現在はパイプを通した」とか、完成後をえらく端折ってあるなあ(笑)。

 

 

 

 

“全工事が完了し、水道に水が流れ、里耀洞の有難さを住民が味わった時点で竣工式を行なった。式は区長西出孝太郎が主催した。また竣工碑は、自然石に「竣工記念碑」および「昭和九年四月」と刻んで建立した。ここに永年の禅定寺区民の願望が達成できたのである。”

 

 

 

 

竣工式を主催したとされる区長・西出孝太郎氏の名前は、実は記事の中でも登場している。

禅定寺集落近くのタンク前にあった竣工碑に、発起人の筆頭としてその名が刻まれていたのだった。

 

ところで、昭和9年に区長を務めていた人物が昭和36年にまだご存命だったのだろうか。比較的若くして区長をされていて、かつその後の戦争を生き延びられたのなら、まあ有り得るか。こんなこと書いたら失礼かな…。

 

 

 

 

 

そして、やはり先人の動画にもあった通り、

埋もれているが、実は「昭和九年四月」と刻まれていたんですな~。

 

 

 

 

 

 

資料には、“取水路を水量豊かな泉水の谷まで七〇〇メートル延長” するため、昭和21年に宇治田原村によって村費を投じた追加工事が行われたことも記載されている。“これにより水量が増し、この事業の効果がさらに増したのである。” ということだが、この「泉水の谷」がどこのことなのかは調べられていない。

また、昭和41年にはこの泉水の谷から里耀洞を通り、岩山区長山地域(“山上の台地で、軽度の日照りでも井戸水が亡くなる土地” )まで約4キロの水道パイプが設けられたともある。

 

 

 

 

その長山(おとのやま)地区、

場所を調べてみたら、このあたり(中央の十字グリッド)。

 

田原川や禅定寺川も近い場所なのに、台地上ということではるか離れた大峰山の北側から水を引かねばならなかったとは。地形というのは、平面の地図を見ているだけではわからない、面白いもんだなあ…。

 

 

 

 

 

 

ご提供いただいた資料でわかったのはここまで。工事の時間経過にまつわる部分がいまいち不明確だったのは少し残念ではあるが、それを除けばほぼ全容解明といっていいだろう。改めてこの素晴らしくも極めてドメスティックな土木遺産を知ることができて良かった。

 

 

最後に再度、ソフスプさん、路地裏にひとりさん、RKパパさんとその先輩さんに心からの感謝を。今年はいい年になりそう…かな?

 

 

 

今度こそ、完結。