この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 長崎 名前のない写真 』

 

第三章 消えた写真

 

 知らない番号から届いたメッセージを、沙羅は何度も読み返していた。

 

 「その写真を撮った場所には、もう行かないでください。」

 

 文章だけを見れば、忠告とも警告とも取れる。けれど、問題は、その相手が四人の行動を知っていることだった。

 

 祖母の家で写真を撮ったことも、その写真の中に「9」という数字が写っていることも、つい先ほどまで四人以外には知られていなかったはずである。

 

 沙羅は画面を閉じたものの、すぐにはスマートフォンをバッグへしまわなかった。海の向こうを眺めながら、母親に連絡するべきか迷っている。孝も、同じことを考えていた。

 

 ここで怖がって旅行を中止するほどのことではない。少なくとも、今のところ誰かに直接危害を加えられたわけではないし、届いた文章も具体的な脅迫ではない。知らない人間からのいたずらという可能性だって残っている。

 

 ただ、いたずらにしては、知っていることが多すぎる。

 

 涼子はさきほど撮った写真をもう一度確認していた。問題の「9」が写っている場所は、祖母の家の居間にある古い木箱のそばだった。写真そのものには、木箱以外に特別なものは見当たらない。

 

 それでも母親は、その数字を他人に知らせるなと言った。そして、ほとんど時間を置かず、別の誰かが同じことを知っていた。浩一がスマートフォンを覗き込みながら、しばらく黙って考えていた。

 

 「この番号、調べられないかな」

 

 孝は首を横に振った。

 

 番号を検索しても、個人のものなら簡単に身元がわかるわけではない。それに、今ここで相手を探そうとすることが、かえって状況を悪くする可能性もある。四人は、結局その場で何もせず、ホテルへ戻ることにした。

 

 帰り道、誰も昨日までのように観光地の話をしなかった。それでも、四人の間に重苦しい沈黙が続いたわけではない。長崎の街は夕方を過ぎても人の往来が多く、土産物店の灯りや飲食店から漏れる声が、歩道まで流れている。

 

 そうした普通の街の様子が、むしろ四人を落ち着かせてくれた。

 

 何か特別な事件が起きているようには見えない。長崎には今日も普通の生活があり、観光客は観光客として歩いている。自分たちだけが、そこに妙な意味を見つけようとしているのではないか。孝は何度もそう考えた。

 

 けれど、ホテルの近くまで戻ったところで、沙羅が足を止めた。

 

 向かい側の歩道に、昼間の祭りの準備をしていた年配の男性が立っていた。男性は四人を見ているわけではない。店先に並べられた祭りの道具を確認しているようだった。

 

 孝が気づいたことに気づいたのか、男性が一度だけこちらを見る。視線が重なった。男性は何もせず、そのまま店の中へ入っていった。

 

 孝は、昼間にこの男性と視線が重なったときの表情を思い出した。祖母のことを知っている。それは間違いない。しかし、それ以上のことはわからない。

 

 男性に尋ねれば何かがわかるかもしれないが、今の段階で自分たちから近づくのはやめておいたほうがいい。少なくとも、沙羅の母親が何かを知っている以上、家族の事情を外から来た三人が勝手に掘り返すべきではない。

 

 ホテルへ戻る。四人はロビーで別れ、それぞれの部屋へ向かった。

 

 ところが、孝が部屋へ入ってしばらくすると、浩一からメッセージが届いた。今から少し話せないか、という。孝は部屋を出た。

 

 廊下の突き当たりにある小さな休憩スペースで、浩一が窓の外を眺めていた。そこからは長崎駅の周辺が見える。夜の街に路面電車が走り、建物の灯りが斜面に沿って広がっている。

 

 浩一は、昼間からずっと考えていたことがあるらしい。あの写真についてだった。

 

 祖母の家で撮った写真には、「9」だけではなく、もう一つ気になるものが写っている。

 

 孝も写真を確認した。木箱の後ろに、壁掛けの古い写真がある。その写真自体は小さく、人物の顔までは判別できない。ただ、写真の右端に、何か白い建物が写っている。浩一は、それが気になっていた。

 

 写真を拡大しながら、長崎の古い地図と照らし合わせているという。しかし、現在の地図では一致する場所が見つからない。

 

 孝は画面を見ながら、昨日祖母の家へ向かう途中で見た石垣のことを思い出した。

 

 あの辺りには、観光案内には載っていない古いものがいくつも残っていた。長崎では、街の姿が何度も変わっている。

 

 埋め立てられた土地もあれば、道路になった場所もある。原爆によって建物が失われ、その後に新しい街がつくられた場所もある。

 

 古い写真の背景を現在の地図だけで探すのは、最初から無理があるのかもしれない。浩一は、それ以上調べるのをやめた。むしろ、調べすぎないほうがいい。そういう結論になった。孝も同じだった。

 

 この旅行は、まだ始まったばかりなのだ。何かがおかしいと感じても、すぐにそれを事件と決めつけてはいけない。

 

 その夜は、それ以上何も起こらなかった。

 

*

 

 翌朝、沙羅がホテルの朝食会場に姿を見せたとき、昨日より表情が明るかった。母親から連絡があり、祖母は大きな怪我はないという。四人の間に、ようやく安堵の空気が戻った。

 

 ただ、祖母は昨夜から親戚の家にいるらしく、詳しいことはまだ聞けていない。本人は元気だというから、とりあえず大きな心配はない。それなら、今日は予定どおり観光できる。浩一がそう考えたのも無理はなかった。

 

 昨日のことは気になる。けれど、祖母が無事なら、それだけで状況は大きく違ってくる。

 

 沙羅も、母親から「友達との旅行を続けて」と言われたらしい。

 

 四人は朝食を済ませ、長崎の街へ出た。最初に向かったのは眼鏡橋だった。

 

 中島川に沿って歩くと、昨日までとは違った長崎が見えてくる。観光客が写真を撮る橋のすぐそばで、地元の人が自転車で通り過ぎる。川面には朝の光が揺れ、石造りの護岸にはところどころ古さが残っていた。

 

 孝は橋の上から川を眺めた。

 

 京都にも川はある。

 

 鴨川のように街の中を大きく流れる川とは違い、中島川はもっと身近で、街の隙間を縫うように続いている。涼子が橋の下を覗き込んでいる。沙羅は川沿いの道を見ていた。そのときだった。沙羅のスマートフォンが鳴った。

 

 母親からだと思ったらしい。しかし、画面に表示された番号は昨日とは違っていた。

 

 沙羅はしばらく画面を見つめたあと、電話に出た。孝たちは少し離れて待った。電話は長くなかった。沙羅が戻ってくる。その表情から、さきほどまでの安心感が消えていた。祖母は親戚の家に到着していなかった。

 

 昨夜、親戚の家へ向かったあと、途中で一人になっていた。親戚の家には、結局到着していない。

 

 母親は、祖母が自分の意思でどこかへ向かったのではないかと考えていたが、警察に確認したところ、その時間帯に祖母が一人で歩いている姿が防犯カメラに映っていた。ただし、その映像には不自然なところがあった。

 

 祖母は、普段なら決して歩かない方向へ向かっていた。浦上方面だった。

 

 四人は川沿いに立ったまま、しばらく動かなかった。昨日までなら、浦上へ行くことを観光の予定として考えただろう。祖母が向かった場所として、その地名が出てきた。

 

 しかも、昨日見た写真には「9」という数字があり、知らない人物からは、その写真を撮った場所へ行くなと言われている。

 

 それでも、沙羅はすぐに浦上へ行こうとは言わなかった。むしろ、三人を見て、申し訳なさそうにしている。ここから先は自分の家族の問題だ。三人まで巻き込むべきではない。その気持ちは、孝にも理解できた。

 

 だからこそ、孝は自分たちから何かを決めるのではなく、まず警察や沙羅の母親に任せるべきだと思った。四人はその日の観光を続けることにした。事件を追うためではない。

 

 沙羅が一人で抱え込まないようにするためでもあり、何より、今はまだ自分たちが何をすべきなのか誰にもわからないからだった。眼鏡橋を離れ、四人は寺町へ向かった。

 

 寺が並ぶ通りには、観光客の姿もあるが、朝の時間帯ということもあり、どこか静かだった。長崎には、キリシタンの歴史だけが残っているわけではない。

 

 多くの寺院があり、海外との交流によって異なる文化が流れ込んできた一方で、それ以前から続いてきた日本の暮らしも残っている。そうしたものが、互いに消し合うことなく同じ街の中にある。

 

 孝は、長崎という街の複雑さを少しずつ理解し始めていた。

 

 そして、その複雑さこそが、今回の出来事を難しくしているのかもしれない。

 

 古い写真一枚を手掛かりにしても、そこから先にはいくつもの時代が重なっている。キリシタンが信仰を守った時代。鎖国の中で外国との窓口になった時代。幕末に新しい世界が流れ込んできた時代。

 

 そして、原爆によって、それまでの街が一瞬で失われた時代。そのすべてが、現在の長崎の中に何らかの形で残っている。昼過ぎ、寺町を抜けたところで、沙羅が足を止めた。道路の向こうに、古い石垣が見えたからだった。

 

 そこは昨日通った道ではない。

 

 けれど、沙羅はその石垣を見て、何かを思い出そうとしているようだった。孝も目を向ける。石垣の一部に、小さな金属板が取り付けられている。観光案内のものではない。古い文字が刻まれているようだが、遠くからでは読めない。

 

 沙羅が近づこうとした。その瞬間、後ろから自転車のベルが鳴った。四人が道の端へ寄る。

 

 自転車が通り過ぎる。その荷台には、祭りの道具らしい木箱が積まれていた。孝は何気なくその木箱を見た。側面に、赤い文字がある。

 

九。

 

 昨日、祖母の家の写真に写っていた数字と同じだった。自転車はそのまま坂を下っていく。ただ、孝の中で、いくつかの出来事が静かにつながり始めていた。祖母の家。古い写真。

 

 「9」という数字。

 

 祭りの道具。そして、浦上へ向かった祖母。まだ、何の意味があるのかはわからない。けれど、少なくとも一つだけはっきりしてきた。この数字は、祖母の家だけに残されているものではない。

 

 長崎の街のどこかに、同じ数字を知っている人間がいる。そして、その人間は、四人の行動を見ている。

 

 孝はそう考えながら、坂の下へ消えていった自転車を見つめていた。そのとき、沙羅のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。送り主は、昨日と同じ知らない番号だった。今度は写真が一枚だけ添付されている。

 

 四人は画面を覗き込んだ。そこに写っていたのは、今いる場所だった。

 

 さっき四人が石垣の前に立っている姿を、少し離れた場所から撮った写真。撮影されたのは、ほんの数分前だった。写真の隅には、見覚えのない男の姿が小さく写っている。その男が誰なのか、四人にはわからない。

 

 ただ、その手には、昨日の写真に写っていたものとよく似た、小さな灯籠が握られていた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 長崎 名前のない写真 』

 

第二章 写真の中の家

 

 祖母の家を出てから、四人はしばらく坂を下った。

 

 先ほどまでいた家が見えなくなると、沙羅はスマートフォンを取り出し、母から届いたメッセージをもう一度読み返した。画面には、短い文章が残っている。――今日、家で撮った写真は消しておいて。理由は書かれていない。

 

 母親から突然そんなことを言われれば、普通なら何か聞き返すだろう。けれど沙羅は、すぐには返信しなかった。歩きながら何度か画面を見ては、電源を落とす。その仕草を見ているうちに、孝の中にも小さな違和感が生まれていた。

 

 祖母の家で写真を撮ったのは、孝だけではない。涼子も何枚か撮っている。

 

 浩一もスマートフォンで室内を撮影していた。

 

 観光旅行なのだから、それ自体は珍しいことではない。古い家に興味を持って写真を撮ることもある。

 

 それなのに、なぜ母親は「今日、家で撮った写真」と限定したのだろう。

 

 しかも、祖母の家を出てすぐだった。孝は歩きながら、カメラの中に残っている写真を思い返した。玄関。庭。居間。古い箪笥。壁に掛かった写真。特に変わったものは写っていない。

 

 そう思いながらも、カメラを取り出して確認する気にはなれなかった。沙羅の家族に関わることなのだから、勝手に調べるようなことは避けたほうがいい。坂の途中に小さな公園があった。四人はそこにあるベンチで休むことにした。

 

 長崎の街は、少し歩いただけでも京都とは違う疲れ方をする。坂道そのものが珍しいというより、平らな場所が少ないため、歩いている間ずっと身体のどこかに力が入っている。沙羅はベンチに座ると、ようやく母親へ返信した。

 

 何を撮った写真なのか。なぜ消さなければならないのか。その二つを尋ねたらしい。

 

 返信が来るまでの間、四人はそれぞれ別の方向を見ていた。公園の向こうに住宅が続いている。屋根の高さが少しずつ違い、家と家の隙間から、遠くの山が見える。

 

 孝は、その景色を見ながら、祖母の家で感じたものを思い返していた。あの家には、観光地にはない時間があった。

 

 古い家具や写真が残っているからというだけではない。祖母自身が、何かを守るように暮らしているように感じた。特に印象に残っているのは、居間の壁に掛かっていた一枚の写真だった。

 

 孝は、そこに写っていたものを正確には覚えていない。古い長崎の街並み。何人かの人。その奥に、特徴のある建物。

 

 ただ、写真を撮ったとき、祖母が一瞬こちらを見たことだけは覚えている。その視線を思い出したところで、沙羅のスマートフォンが震えた。母親からだった。沙羅は画面を見て、少し眉を寄せた。浩一が尋ねる。

 

 沙羅はすぐには答えず、母から送られてきた文章を三人にも見せた。

 

 そこには、祖母の家の写真についてではなく、もっと古い話が書かれていた。

 

 祖母は昔から、家の中にある一枚の写真だけは人に見せようとしなかった。

 

 その写真が、今日、アルバムからなくなっていることに母親が気づいたという。沙羅は顔を上げた。

 

 「私、そんな写真があるなんて知らなかった」

 

 それは、三人に話しかけたというより、自分自身に確かめているような言い方だった。孝は、祖母の家で撮った写真を思い出した。

 

 もし母親が心配しているのが、その古い写真そのものではなく、そこに写っているものだったとしたら、自分たちが撮った写真の中にも何かが写り込んでいる可能性がある。それでも、すぐにカメラを確認する気にはなれない。

 

 四人とも、同じことを考えているようだった。やがて沙羅が、母親へもう一度尋ねた。

 

 すると、今度は少し長い返信が届いた。祖母は若い頃から、ある古い写真を持っていた。写真には、戦前の長崎の街が写っている。それだけなら珍しくない。

 

 問題は、その写真に写っている人物について、祖母が誰にも話そうとしなかったことだった。母親自身も、子どもの頃に一度だけ見たことがあるという。そのとき祖母は、写真を取り上げるようにして隠した。

 

 理由を聞いても教えてくれなかった。

 

 ただ、「この写真に写っている人のことは、もう誰も話さないほうがいい」と言われた。

 

 それ以来、母親も写真のことを聞かなかった。孫である沙羅が知らないのも当然だった。涼子は黙ってその文章を読んでいた。さっきまでの旅行気分が、少しずつ遠ざかっている。

 

 けれど、誰も「事件だ」とは考えていない。

 

 長崎には古い家が多く、祖父母の代から残された写真や手紙がある家庭も珍しくないだろう。家族の中だけで守られてきた事情があることも、決して不思議ではない。

 

 むしろ、それを外から来た四人が勝手に掘り起こすほうが間違っている。そう考えた孝は、カメラをバッグへ戻した。それが一番いいと思った。浩一も賛成した。

 

 沙羅は少し迷っていたが、母親からも「今日は友達と過ごして」と言われたらしい。

 

 四人は公園を出た。

 

*

 

 午後は大浦へ向かった。

 

 坂道を歩いていると、街の雰囲気が少しずつ変わっていく。古い洋館や教会が見え始め、観光客の数も増えてきた。

 

 大浦天主堂へ続く道には土産物店が並び、修学旅行生や外国人観光客の姿も多い。沙羅は、三人の歩く速度に合わせながら、建物のことを簡単に説明した。

 

 詳しい歴史を語るというより、この坂を上れば教会が見えるとか、この先を曲がると海が見えるといった、実際に暮らしている人間だから知っている案内だった。それがかえって自然だった。

 

 孝は歩きながら、長崎という街の不思議さを感じていた。教会があり、そのすぐ近くに寺がある。

 

 洋館の向こうに日本家屋があり、坂の下には現代的なビルが建っている。

 

 異なる時代のものが、取り壊されずに残りながら、現在の街の中で一緒に暮らしている。

 

 歴史を一つずつ見ていくというより、街そのものが長い時間を抱えているようだった。

 

 大浦天主堂を見学したあと、四人は坂を下り、少し離れた場所のベンチで休んだ。涼子がスマートフォンの写真を整理している。そこには今日撮った街の写真が並んでいた。坂。石垣。教会。港。そして、祖母の家。

 

 涼子の指が止まった。

 

 画面に映っているのは、祖母の家の居間だった。何気なく撮った一枚。窓のそばに置かれた古い箪笥。壁に掛かった写真。その手前に、小さな木製の箱が写っている。涼子は、そこを拡大した。箱は古びている。

 

 蓋に小さな金具がついている。その金具の形が、妙に気になった。画面を見せられた孝は、写真をしばらく眺めた。

 

 木箱そのものには見覚えがない。祖母の家で見た記憶もない。けれど、箱の横に置かれた紙のようなものに目が止まった。紙には、何か数字が書かれているように見える。写真の解像度では読めない。涼子が元の画像を開き直す。

 

 少し拡大する。数字らしきものが浮かび上がった。

 

9

 

 誰も言葉を発しなかった。そう考えることはできる。

 

 祖母の家には古いものがたくさんあった。数字の一つが写っているくらいなら、何の意味もない。それでも、沙羅は画面を見たまま動かなかった。しばらくして、彼女は母親へ写真を送った。返信はすぐには来なかった。

 

 四人は再び歩き始めた。

 

 坂を下りながら、孝は自分でも説明できない違和感を抱えていた。まだ何も起きていない。

 

 祖母の写真がなくなったことも、古い数字が写っていたことも、単独で考えれば大したことではない。なのに、それらが一つの線になり始めているように感じる。その感覚を、孝は振り払おうとした。

 

 旅行なのだから、余計なことを考えずに楽しめばいい。そう思って、港のほうへ目を向けた。海面に夕方の光が伸びている。遠くに船が見える。その景色を眺めていると、スマートフォンが震えた。沙羅の母親からだった。

 

 届いた文章は短かった。

 

 ただ、今度は「写真を消して」という言葉ではなかった。

 

「その写真、誰にも送らないで。特に、9が写っていることは言わないで」

 

 孝は、そこで初めて胸の奥に冷たいものを感じた。母親は、数字のことを知っている。それも、ただ知っているだけではない。何かを恐れている。

 

 けれど、四人がその意味を尋ねる前に、沙羅のスマートフォンへ、もう一通のメッセージが届いた。今度は母親からではなかった。知らない番号だった。文章は一行だけ。

 

「その写真を撮った場所には、もう行かないでください。」

 

 長崎の港には、夕暮れの光が静かに広がっていた。観光客の笑い声も聞こえる。路面電車が遠くを走っている。街は何も変わっていない。

 

 けれど四人の旅行は、このとき初めて、昨日までとは違う場所へ足を踏み入れていた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

三 三千院の写真

 

 数日後、良子から三千院へ行かないかと連絡が来た。

 

 翔子は少し迷った。安土から帰って以来、あの男性のことを考えている自分が嫌だったわけではない。ただ、考え続けることにも疲れていた。

 

 三千院へ行けば、少しは頭から離れるかもしれない。

 

 そう思って、翔子は出かけることにした。

 

 良子と長谷川と三人で歩き、庭を眺め、しばらく休憩した。

 

 長谷川が鞄からプリントされた写真を取り出した。

 

「安土で撮った写真、整理してたんです」

 

 何枚かの写真を二人に見せる。石段。石垣。木々の間から見える空。三人で歩いている後ろ姿。

 

 翔子は何気なく画面を送った。

 

 その指が止まった。

 

 写真の端に、小さな男性の横顔が写っていた。

 

 安土で、すれ違った男性だった。

 

 翔子の胸が、急に速くなる。

 

「これ……」

 

 長谷川が画面を覗き込んだ。

 

「その男性なら、こっちの写真にも写っていますよ」

 

 長谷川が別の写真を出した。

 

 そこには、男性が笑っている姿があった。隣には、三十代くらいの男性が立っている。親子なのか、知人なのかは分からない。ただ、安土で見た男性と同じ人に見えた。

 

 翔子は写真を見つめた。小さく、顔もよく分からない。それでも今度は、記憶ではなく写真の中にその人がいる。

 

 京都へ帰ってからも、翔子は長谷川からもらった二枚の写真をテーブルの上に置いたままにしていた。片づけようと思えば、すぐに片づけられる。けれど、手が伸びなかった。

 

 安土で見たときは、自分の記憶だけだった。今は、写真の中にその人の姿が残っている。

 

 夕方、翔子は写真を裏返した。白い紙面には何も書かれていない。もう一度表に返す。

 

 健二のことを思い出しても、以前ほど胸が痛まなかった。忘れたわけではない。むしろ、忘れていないからこそ、別の記憶が戻ってきてもいいのかもしれない。

 

 そう考えると、写真を隠す理由がなくなった。翔子は二枚を並べ、食卓の端へそっと置いた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー⑦

 

第十三章 二冊目のノート

 

 テルさんが退院して一週間は、里奈がほとんどの頼まれごとを引き受けた。

 

 春江は、食卓の塩の瓶を戸棚へしまった。テルさんが探すと、何も知らない顔で味噌汁を飲んだ。

 

「ハルさん、塩は?」

 

「こほ……うちには、そんなもんないよ」

 

「昨日まであったよ」

 

「病院の先生が持って帰ったんじゃろ」

 

 テルさんは里奈を見た。

 

「私ではありません」

 

「まだ何も聞いとらんよ」

 

 そう言いながら、醤油差しへ手を伸ばした。

 

 春江が大きく咳をした。

 

「ゲホッ」

 

 テルさんの手が止まった。

 

「今のは怒っとる咳じゃね」

 

「分かっているなら、戻してください」

 

 里奈が言うと、テルさんはおとなしく醤油差しを置いた。

 

 朝食のあと、里奈はノートを開いた。

 

 九時、小川の牛乳。十時、田辺の病院。午後一時、栗原の写真。三時半、上田の家の水道。

 

「上田さんの水道は、直せませんよ」

 

「水が止まらんけえ、見てほしいんじゃって」

 

「見るだけなら行きます。直すのは水道屋さんです」

 

「先に言うん?」

 

「先に言います」

 

 上田の台所では、蛇口から細い水が途切れず落ちていた。里奈は元栓の場所を確かめ、商店街の水道屋へ電話をかけた。修理が終わるまで一緒に待った。

 

 上田が三百円を出したので、里奈は受け取らなかった。

 

「一時間以上かかりましたから、五百円です」

 

「直したんは、水道屋じゃろ」

 

「電話をして、来てもらうまで待つのを頼まれました」

 

 上田はしばらく財布の中を探り、五百円玉を一枚出した。

 

「テルちゃんは三百円じゃったよ」

 

「次はテルさんに頼んでください」

 

「テルちゃんは、水道屋が来る前に帰るけえ」

 

 里奈は笑わなかった。

 

「では、五百円です」

 

 上田も笑わなかった。それでも、次に洗面所の水が流れにくくなったときは、初めから五百円玉を用意して待っていた。

 

 できないことも、前よりはっきり断った。

 

 夕方、知らない男から、駅の近くで声をかけられたことがある。

 

「部屋を片づけてほしい。三百円でええんじゃろ」

 

「初めての方の家へ、一人では行きません」

 

「昼ならええんか」

 

「知っている方から紹介してもらってください」

 

「面倒じゃねえ」

 

「そうですね」

 

 里奈は名前も聞かず、その場を離れた。

 

 坂を一つ上りきったところで初めて振り返ると、男はもういなかった。

 

 頼まれた時刻をノートへ移していくと、午前だけが埋まる日もあれば、午後の一件のために一日を空けておく日もあった。

 

 月の終わりに数えると、一番多い月でも三万一千八百円だった。

 

 家賃の一万円を封筒へ入れ、食費と日用品を引く。大阪に残した預金へ手をつけずに済む月はなかった。

 

 雨の日、靴の底から水がしみた。

 

 新しい靴を買おうと店の前まで行き、値札を見て帰った。翌朝、春江から厚紙をもらい、中敷きの下へ入れた。

 

「こほ……そんなもん、すぐ破れるよ」

 

「今月は持ちます」

 

「来月は?」

 

 里奈は答えず、靴ひもを結んだ。

 

 栗原は、写真を頼むときは里奈を呼ぶようになった。小川は急がない買い物ならテルさん、時間が決まっている病院なら里奈、と使い分けた。

 

 田辺が、里奈の都合がつかない日に、近所の女性と病院へ行くこともあった。

 

 自分が行かなくても、頼まれたことが済む日がある。そのことにほっとする日と、少し寂しくなる日があった。

 

 ノートが二冊目になるころには、朝の海の色が変わっていた。

 

 夏の間は窓から白く光っていた水面が、風の強い日には細かく揺れた。坂を上る人の服も、半袖から上着へ変わった。

 

 二冊目の最初の頁に、里奈はまた小川の名前を書いた。

 

 名前の横には、頼まれたことだけを書いた。聞いた話の中身は書かなかった。預かった金と釣り銭は、その場で一緒に確かめた。

 

 ノートを閉じた午後、里奈は商店街へ下りた。

 

 帰ってくると、春江の家の前に、見慣れない男が立っていた。

 

第十四章 見慣れない男

 

 背広の上着を腕に掛け、小さな鞄を持っている。

 

「お父さん」

 

 男は振り返った。

 

「やっと会えた」

 

 半年ぶりに見た父は、少し痩せていた。髪にも、前より白いものが増えていた。

 

 春江が玄関から出てきた。

 

「こほ……里奈ちゃんのお父さん?」

 

 父は背筋を伸ばした。

 

「娘がお世話になっています」

 

「家賃はもろうとるよ」

 

「それでも、ありがとうございます」

 

「こほ……お礼なら、娘さんに言うたらええ。うちも買い物を頼んどるけえ」

 

 父は里奈を見た。

 

 テルさんは廊下の奥に立っていた。いつものように歌ってもいなければ、父へ話しかけもしなかった。

 

「ここで話す?」

 

 里奈が聞くと、父は家の中をもう一度見た。

 

「外へ出よう」

 

 二人は駅前の喫茶店へ入った。

 

 父はコーヒーを頼み、里奈は何も頼まなかった。

 

「何か飲め」

 

「要らない」

 

「店に悪いだろう」

 

 里奈は紅茶を頼んだ。

 

 運ばれてくるまで、二人は黙っていた。

 

「大阪には戻らない」

 

 里奈が先に言った。

 

「美穂さんという人から、前の課長へ連絡があったそうだ」

 

「前の会社」

 

「その課長が、退職のときの緊急連絡先を見て、うちへ電話してきた。広島の尾道にいると聞いた」

 

「美穂に電話したの?」

 

「お母さんがした。住所までは知らなかった。駅前で聞いても分からんから、商店街を歩いて、三百円で買い物をする大阪の女を知らないかと聞いた」

 

「そんな聞き方をしたの」

 

「ほかに説明のしようがなかった」

 

 父はカップの取っ手に指を掛けたまま、まだ飲まなかった。

 

「知らない人の家へ一人で行って、金をもらっているそうじゃないか」

 

「頼まれたことをしているの」

 

「危ない仕事だと言っていたぞ」

 

「危なくない仕事なんてないでしょう」

 

「言葉の問題じゃない」

 

 父の声が大きくなり、隣の席の客が一度こちらを見た。

 

 里奈はノートを鞄から出した。

 

 誰に、いつ、何を頼まれたか。預かった金をどう記録しているか。夜の依頼や、知らない男性一人の家へは行かないこと。できない仕事は断っていること。

 

 父は黙って聞いた。

 

「ひと月の収支は出しているのか」

 

「出してる」

 

「健康保険は」

 

「払ってる」

 

「年金は」

 

 里奈は答えるまで、少し間が空いた。

 

「今月は、まだ」

 

「預金を使っているんだな」

 

「うん」

 

 父はコーヒーを一口飲んだ。

 

「あのころ、お前はそんな顔で仕事の話をしなかったな」

 

「どんな顔?」

 

「知らん」

 

 父は窓の外を見た。

 

 駅前の道路の向こうで、海が光っていた。

 

「前の課長が、別の部署で欠員が出るかもしれないと言っていた」

 

 里奈は紅茶の中の薄い色を見た。

 

「戻れば雇ってもらえる、という話?」

 

「面接はするそうだ。お前が望むなら、連絡をくれと言っていた」

 

「お父さんが頼んだの?」

 

「向こうから言った」

 

 父は少し間を置いた。

 

「私なら頼んだかもしれんがな」

 

「今日は帰る」

 

「一緒には帰らない」

 

「分かっている」

 

 父は伝票を取った。

 

「だが、この先のことは、よく考えろ。来月の保険料まで、支払いを待ってくれるわけじゃない」

 

「分かってる」

 

「分かっていないから言っている」

 

 父はレジへ向かった。

 

 里奈は少し遅れて立ち上がった。

 

 駅の改札まで見送った。

 

 父は切符を通してから振り返った。

 

「母さんに電話しろ」

 

「うん」

 

「今日中に」

 

「分かった」

 

 それだけ言い、父はホームへ向かった。

 

 里奈は父の姿が見えなくなっても、しばらく改札の前に立っていた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 棚のない商店街 』 ストーリー 9

 

第十七章 空き店舗の向こう側

 

「何の店なの?」

 

 冴がもう一度聞いた。

 

 田島は少しもったいぶるように笑った。

 

「本人から聞いたほうがいい」

 

「それじゃ分からないだろ」

 

「今から会長のところへ行くんだよ」

 

 三人で商店街の奥へ向かった。

 

 冬の夕方は早い。

 

 午後五時を過ぎると、アーケードの中にも薄暗さが入り込んでくる。

 

 ところどころに灯る店の明かりが、昼間とは違った表情を作っていた。

 

 空き店舗の前に来ると、シャッターが半分だけ開いていた。

 

 中から人の声がする。

 

 加藤が出てきた。

 

「来たか」

 

「何の店なんです?」

 

 涼が聞く。

 

「本人から聞いてくれ」

 

 また同じことを言われた。

 

 加藤の後ろから、先日の女性が顔を出した。

 

「すみません。まだ正式には決めていないんですけど」

 

「それでも、いいですよ」

 

 冴が笑った。

 

 女性は少し緊張しながら言った。

 

「小さな食材店をやろうと思っています」

 

「食材?」

 

「はい」

 

 彼女は店の中を見回した。

 

「地元の農家さんから野菜を仕入れて、一人暮らしの人でも買いやすい量で売るんです」

 

 涼は黙って聞いていた。

 

「例えば、大根一本は多い人もいるでしょう。半分とか、少量とか。あと、簡単に料理できるものも置きたい」

 

「八百屋と競合しませんか?」

 

 田島が聞いた。

 

「そこは相談しています」

 

 女性は笑った。

 

「八百屋さんには、今まで通り大きな野菜を売ってもらう。私は少量のものや、料理をしたことがない人向けの商品を扱う」

 

 加藤が頷いた。

 

「役割を分けるわけか」

 

「はい」

 

 女性は続けた。

 

「ここに戻ってきて思ったんです。商店街には、昔からのお店がある。でも、一人暮らしの人が増えているのに、その人たちが買いやすい店が少ない」

 

 涼は少し驚いた。

 

 その考え方は、プロジェクトが始まってから何度も考えてきたことだった。

 

 高齢者。

 

 一人暮らし。

 

 買いやすい量。

 

 歩きやすい商店街。

 

 今まで別々だった問題が、目の前の女性の言葉でつながっていく。

 

「店の名前は?」

 

 志保が聞いた。

 

 その話を聞きつけた井上と志保もやってきた。

 

 女性は少し照れたように笑った。

 

「まだ考え中です」

 

「じゃあ、みんなで考えます?」

 

 志保が言う。

 

「いいんですか?」

 

「もちろん」

 

 その場で六人が店名を考え始めた。

 

 しかし、なかなか決まらない。

 

「小さな台所」

 

「ちょっと硬い」

 

「まちの食卓」

 

「食堂みたい」

 

「よりみち市場」

 

「100円ショップと名前が近すぎる」

 

 笑い声が起きた。

 

 商店街の奥の空き店舗で、久しぶりに人が集まっている。

 

 女性はその様子を見ながら、嬉しそうに笑っていた。

 

 涼は店の奥を見た。

 

 まだ何もない。

 

 棚もない。

 

 商品もない。

 

 それでも、もう空き店舗には見えなかった。

 

 人が使い始めると、場所は変わる。

 

 店というものは、商品だけでできるのではない。

 

 そこに人がいることで、店になる。

 

 その週末、女性の店を商店街の企画に正式に組み込むことが決まった。

 

 新規出店なので、プロジェクトの対象店舗ではない。

 

 しかし、六人はその店を「商店街の次の一歩」として扱うことにした。

 

 100円ショップの商品を売る。

 

 既存店舗へ人を送る。

 

 それだけではなく、商店街に新しい商売が生まれる。

 

 その流れまで作る。

 

 加藤は社内への報告書に、こう書いた。

 

 「空き店舗を埋めることを目的とせず、新たな事業者が出店したくなる環境をつくる」

 

 涼はその一文を読んで、しばらく考えた。

 

 プロジェクトの最初に会社から与えられた命題は、

 

 地方の商店街を有効に再生すること。

 

 あの一行の意味が、半年かけて少しずつ変わってきた。

 

 店を埋める。

 

 人を呼ぶ。

 

 売上を上げる。

 

 それだけではない。

 

 商店街の中で、新しい商売が生まれ続ける状態をつくる。

 

 そこまでできれば、会社のプロジェクトが終わっても、町は動き続けるかもしれない。

 

 それが本当の再生なのではないか。

 

第十八章 最後の〇・八

 

 十二月の売上が締まった。

 

 会議室のスクリーンに数字が出る。

 

 前年同月比、一四・七パーセント。

 

「〇・三足りない」

 

 井上が言った。

 

 田島が頭を抱えた。

 

「あと〇・三かよ」

 

 志保は笑った。

 

「でも、ここまで来た」

 

 加藤は数字を見たまま黙っていた。

 

 目標は一五パーセント。

 

 あと〇・三。

 

 数字だけなら小さい。

 

 しかし、実際に売上を〇・三ポイント上げるのは簡単ではない。

 

「一月で届く?」

 

 田島が聞く。

 

「分からない」

 

 井上が答えた。

 

「年末商戦が終わったので、むしろ一月は落ちる可能性があります」

 

 その言葉で、空気が重くなる。

 

 クリスマスも終わった。

 

 年末の買い物も終わった。

 

 一月は消費が落ちる。

 

 普通なら、数字を上げるには一番難しい時期だった。

 

「何かやろう」

 

 田島が言った。

 

「イベント?」

 

「もうイベントはやった」

 

「セール?」

 

「100円ショップでセールをやっても意味が薄い」

 

「じゃあ、何?」

 

 全員が黙った。

 

 涼は資料を眺めていた。

 

 店舗別の売上。

 

 時間帯別。

 

 客層。

 

 購入商品。

 

 回遊率。

 

 何度も見てきた数字だった。

 

 そのとき、一つの数字が目に入った。

 

「これ」

 

 涼が指をさした。

 

「何?」

 

「夕方の回遊率」

 

 井上が画面を見る。

 

「上がってる」

 

「でも、売上は?」

 

「……あまり変わってない」

 

 涼は考えた。

 

 人は歩いている。

 

 店にも入っている。

 

 なのに、買わない。

 

 なぜか。

 

「商品じゃない」

 

 冴が言った。

 

 涼が顔を上げる。

 

「え?」

 

「夕方に歩く人は、買うものを決めて来てるんじゃない」

 

 冴は数字を見た。

 

「仕事帰りに何となく寄る。だから、店に入っても買う理由が弱い」

 

「じゃあ、買う理由を作る」

 

 志保が言った。

 

「でも、何を?」

 

 冴はしばらく考えていた。

 

 そして、ふと笑った。

 

「福袋」

 

 田島が笑った。

 

「百円ショップの?」

 

「違う」

 

 冴は首を振った。

 

「商店街の福袋」

 

 全員が黙った。

 

「一店舗の商品じゃない」

 

 冴が続ける。

 

「八百屋、食堂、洋品店、100円ショップ。商店街の店の商品を組み合わせて、一つの袋にする」

 

「例えば?」

 

「一人暮らし向け」

 

 冴はホワイトボードに書いた。

 

 小さな野菜。

 

 保存容器。

 

 キッチン用品。

 

 食堂の惣菜券。

 

 靴下。

 

 日用品。

 

「一人暮らしの人が、これを買えば何か一つ生活が楽になる」

 

 涼はその言葉を聞いて、すぐにイメージできた。

 

「高齢者向けもできる」

 

「うん」

 

「新生活向けも」

 

「できる」

 

「子ども向けも」

 

「できる」

 

 井上が計算を始めた。

 

「価格設定は?」

 

「安くする」

 

 田島が言った。

 

「でも、それだと売上が上がらない」

 

「利益じゃなくて、商店街全体の売上を上げるためのもの」

 

 加藤が言った。

 

「ただし、赤字は駄目だ」

 

 そこから六人は、商店街の店主たちと話し合った。

 

 最初は戸惑いもあった。

 

「うちの商品を一緒に入れる?」

 

「そうです」

 

「それで、いくらで売るの?」

 

「例えば三千円」

 

「中身は?」

 

「各店舗から少しずつ」

 

 八百屋の店主が言った。

 

「面白いけど、うちの野菜は日持ちしないよ」

 

「じゃあ、引換券にしましょう」

 

 志保が言う。

 

「好きな日に取りに来てもらう」

 

「それならできる」

 

 食堂の主人も参加した。

 

「惣菜じゃなくて、食事券にする」

 

 洋品店も、

 

「靴下なら入れられる」

 

 と言った。

 

 100円ショップ側も参加する。

 

 収納用品。

 

 キッチン用品。

 

 掃除用品。

 

 小さな生活用品。

 

 六つの店舗の商品が、一つの袋に入る。

 

 商店街全体を一つの店にする。

 

 その最初の企画を、今度は「商品」そのものにしてしまう。

 

 それは、プロジェクトが始まったときには誰も考えていなかった形だった。

 

 年が明けた。

 

 一月三日。

 

 商店街の入口に、福袋が並んだ。

 

 名前は、

 

「まちの暮らし袋」

 

 志保がつけた。

 

 大きな袋ではない。

 

 持ちやすい大きさ。

 

 中身は、生活に必要なもの。

 

 価格は三千円。

 

 中身の合計金額は、それを少し上回る。

 

 しかし、それ以上に大きかったのは、袋の中身が一つの店の商品ではないことだった。

 

 八百屋の引換券。

 

 食堂の食事券。

 

 100円ショップの商品。

 

 洋品店の商品。

 

 日用品。

 

 そして、袋の中には商店街の地図も入っていた。

 

「これ、いいね」

 

 朝一番に来た女性が言った。

 

「全部使えるの?」

 

「はい」

 

「じゃあ買う」

 

 最初の一袋が売れた。

 

 続いて二袋。

 

 三袋。

 

 午前中だけで二十袋。

 

 昼には四十袋。

 

 夕方には、用意した百袋がほとんどなくなっていた。

 

 井上が売上を確認する。

 

「想定よりかなり早い」

 

「追加できる?」

 

 加藤が聞いた。

 

「引換券なら可能です」

 

「じゃあ追加しよう」

 

 その日の夜、商店街の店主たちは集会所に集まった。

 

 売上を確認する。

 

 100円ショップだけではない。

 

 八百屋。

 

 食堂。

 

 洋品店。

 

 薬局。

 

 それぞれの売上が動いていた。

 

 涼は数字を見ながら、少し不思議な気持ちになった。

 

 商店街全体を一つの店にする。

 

 最初にそう言った。

 

 あれは、100円ショップの商品をジャンル別に分けるという発想から始まった。

 

 それが今は、商店街の店同士が商品をつなぎ、一つの袋にして売っている。

 

 商店街そのものが、一つの商品になりつつある。

 

 加藤が井上に聞いた。

 

「全体の数字は?」

 

「まだ締まってません」

 

「予測は?」

 

 井上は画面を見た。

 

「一五パーセントを超える可能性があります」

 

 誰も歓声を上げなかった。

 

 まだ確定ではない。

 

 けれど、六人の顔には少しだけ笑みがあった。

 

 その夜、帰り道。

 

 涼と冴は二人で歩いていた。

 

「届くかな」

 

 冴が言った。

 

「一五パーセント?」

 

「うん」

 

「届いてほしい」

 

「仕事だから?」

 

 涼は少し考えた。

 

「それだけじゃない」

 

 冴は何も言わなかった。

 

「ここまでやってきたから」

 

「そうだね」

 

 二人は商店街の入口で立ち止まった。

 

 以前なら、ここから駅へ向かうだけだった。

 

 今は、入口にも明かりがある。

 

 案内板がある。

 

 人がいる。

 

 そして、少し奥には新しい店の看板が取り付けられ始めていた。

 

「来週、店が開くね」

 

 冴が言った。

 

「うん」

 

「楽しみ」

 

「俺も」

 

 冴が涼を見る。

 

「涼」

 

「何?」

 

「この仕事が終わっても、ここに来る?」

 

 涼は答えようとした。

 

 しかし、その前にスマートフォンが鳴った。

 

 加藤からだった。

 

 涼が電話に出る。

 

「はい」

 

 加藤の声が聞こえる。

 

「明日の朝、六人全員、会社に来てくれ」

 

「何かありました?」

 

「数字が出た」

 

「一五パーセント?」

 

 電話の向こうで、少し間があった。

 

「それだけじゃない」

 

 涼の表情が変わる。

 

「どういうことです?」

 

「100円ショップ側から、正式な提案が来た」

 

「正式な提案?」

 

「この商店街でやっているモデルを、他の地方都市にも展開したいそうだ」

 

 涼は言葉を失った。

 

 加藤が続ける。

 

「全国展開のために、プロジェクトを会社の正式な新規事業部門にする」

 

 涼は商店街を見た。

 

 一年間だけの実験。

 

 目標を超えれば継続。

 

 下回れば中止。

 

 最初は、それだけだった。

 

 しかし今、その先に別の道が開こうとしている。

 

 電話を切ると、冴が聞いた。

 

「何だった?」

 

 涼はすぐには答えなかった。

 

 やがて、

 

「俺たち、この一年で終わらないかもしれない」

 

 と言った。

 

 冴の顔に、驚きと、ほんの少しの笑みが浮かんだ。

 

「そうなんだ」

 

 商店街の明かりが、二人の足元まで届いていた。

 

 そのとき涼は、初めて気づいた。

 

 このプロジェクトの本当の終着点は、商店街の売上目標ではない。

 

 この町で生まれた仕組みを、次の町へ持っていけるかどうか。

 

 そして、そのとき自分たちは何を残すのか。

 

 その答えは、まだ出ていなかった。

 

 人は歩いている。

 

 店にも入っている。

 

 なのに、買わない。

 

 なぜか。

 

「商品じゃない」

 

 冴が言った。

 

 涼が顔を上げる。

 

「え?」

 

「夕方に歩く人は、買うものを決めて来てるんじゃない」

 

 冴は数字を見た。

 

「仕事帰りに何となく寄る。だから、店に入っても買う理由が弱い」

 

「じゃあ、買う理由を作る」

 

 志保が言った。

 

「でも、何を?」

 

 冴はしばらく考えていた。

 

 そして、ふと笑った。

 

「福袋」

 

 田島が笑った。

 

「百円ショップの?」

 

「違う」

 

 冴は首を振った。

 

「商店街の福袋」

 

 全員が黙った。

 

「一店舗の商品じゃない」

 

 冴が続ける。

 

「八百屋、食堂、洋品店、100円ショップ。商店街の店の商品を組み合わせて、一つの袋にする」

 

「例えば?」

 

「一人暮らし向け」

 

 冴はホワイトボードに書いた。

 

 小さな野菜。

 

 保存容器。

 

 キッチン用品。

 

 食堂の惣菜券。

 

 靴下。

 

 日用品。

 

「一人暮らしの人が、これを買えば何か一つ生活が楽になる」

 

 涼はその言葉を聞いて、すぐにイメージできた。

 

「高齢者向けもできる」

 

「うん」

 

「新生活向けも」

 

「できる」

 

「子ども向けも」

 

「できる」

 

 井上が計算を始めた。

 

「価格設定は?」

 

「安くする」

 

 田島が言った。

 

「でも、それだと売上が上がらない」

 

「利益じゃなくて、商店街全体の売上を上げるためのもの」

 

 加藤が言った。

 

「ただし、赤字は駄目だ」

 

 そこから六人は、商店街の店主たちと話し合った。

 

 最初は戸惑いもあった。

 

「うちの商品を一緒に入れる?」

 

「そうです」

 

「それで、いくらで売るの?」

 

「例えば三千円」

 

「中身は?」

 

「各店舗から少しずつ」

 

 八百屋の店主が言った。

 

「面白いけど、うちの野菜は日持ちしないよ」

 

「じゃあ、引換券にしましょう」

 

 志保が言う。

 

「好きな日に取りに来てもらう」

 

「それならできる」

 

 食堂の主人も参加した。

 

「惣菜じゃなくて、食事券にする」

 

 洋品店も、

 

「靴下なら入れられる」

 

 と言った。

 

 100円ショップ側も参加する。

 

 収納用品。

 

 キッチン用品。

 

 掃除用品。

 

 小さな生活用品。

 

 六つの店舗の商品が、一つの袋に入る。

 

 商店街全体を一つの店にする。

 

 その最初の企画を、今度は「商品」そのものにしてしまう。

 

 それは、プロジェクトが始まったときには誰も考えていなかった形だった。

 

 年が明けた。

 

 一月三日。

 

 商店街の入口に、福袋が並んだ。

 

 名前は、

 

「まちの暮らし袋」

 

 志保がつけた。

 

 大きな袋ではない。

 

 持ちやすい大きさ。

 

 中身は、生活に必要なもの。

 

 価格は三千円。

 

 中身の合計金額は、それを少し上回る。

 

 しかし、それ以上に大きかったのは、袋の中身が一つの店の商品ではないことだった。

 

 八百屋の引換券。

 

 食堂の食事券。

 

 100円ショップの商品。

 

 洋品店の商品。

 

 日用品。

 

 そして、袋の中には商店街の地図も入っていた。

 

「これ、いいね」

 

 朝一番に来た女性が言った。

 

「全部使えるの?」

 

「はい」

 

「じゃあ買う」

 

 最初の一袋が売れた。

 

 続いて二袋。

 

 三袋。

 

 午前中だけで二十袋。

 

 昼には四十袋。

 

 夕方には、用意した百袋がほとんどなくなっていた。

 

 井上が売上を確認する。

 

「想定よりかなり早い」

 

「追加できる?」

 

 加藤が聞いた。

 

「引換券なら可能です」

 

「じゃあ追加しよう」

 

 その日の夜、商店街の店主たちは集会所に集まった。

 

 売上を確認する。

 

 100円ショップだけではない。

 

 八百屋。

 

 食堂。

 

 洋品店。

 

 薬局。

 

 それぞれの売上が動いていた。

 

 涼は数字を見ながら、少し不思議な気持ちになった。

 

 商店街全体を一つの店にする。

 

 最初にそう言った。

 

 あれは、100円ショップの商品をジャンル別に分けるという発想から始まった。

 

 それが今は、商店街の店同士が商品をつなぎ、一つの袋にして売っている。

 

 商店街そのものが、一つの商品になりつつある。

 

 加藤が井上に聞いた。

 

「全体の数字は?」

 

「まだ締まってません」

 

「予測は?」

 

 井上は画面を見た。

 

「一五パーセントを超える可能性があります」

 

 誰も歓声を上げなかった。

 

 まだ確定ではない。

 

 けれど、六人の顔には少しだけ笑みがあった。

 

 その夜、帰り道。

 

 涼と冴は二人で歩いていた。

 

「届くかな」

 

 冴が言った。

 

「一五パーセント?」

 

「うん」

 

「届いてほしい」

 

「仕事だから?」

 

 涼は少し考えた。

 

「それだけじゃない」

 

 冴は何も言わなかった。

 

「ここまでやってきたから」

 

「そうだね」

 

 二人は商店街の入口で立ち止まった。

 

 以前なら、ここから駅へ向かうだけだった。

 

 今は、入口にも明かりがある。

 

 案内板がある。

 

 人がいる。

 

 そして、少し奥には新しい店の看板が取り付けられ始めていた。

 

「来週、店が開くね」

 

 冴が言った。

 

「うん」

 

「楽しみ」

 

「俺も」

 

 冴が涼を見る。

 

「涼」

 

「何?」

 

「この仕事が終わっても、ここに来る?」

 

 涼は答えようとした。

 

 しかし、その前にスマートフォンが鳴った。

 

 加藤からだった。

 

 涼が電話に出る。

 

「はい」

 

 加藤の声が聞こえる。

 

「明日の朝、六人全員、会社に来てくれ」

 

「何かありました?」

 

「数字が出た」

 

「一五パーセント?」

 

 電話の向こうで、少し間があった。

 

「それだけじゃない」

 

 涼の表情が変わる。

 

「どういうことです?」

 

「100円ショップ側から、正式な提案が来た」

 

「正式な提案?」

 

「この商店街でやっているモデルを、他の地方都市にも展開したいそうだ」

 

 涼は言葉を失った。

 

 加藤が続ける。

 

「全国展開のために、プロジェクトを会社の正式な新規事業部門にする」

 

 涼は商店街を見た。

 

 一年間だけの実験。

 

 目標を超えれば継続。

 

 下回れば中止。

 

 最初は、それだけだった。

 

 しかし今、その先に別の道が開こうとしている。

 

 電話を切ると、冴が聞いた。

 

「何だった?」

 

 涼はすぐには答えなかった。

 

 やがて、

 

「俺たち、この一年で終わらないかもしれない」

 

 と言った。

 

 冴の顔に、驚きと、ほんの少しの笑みが浮かんだ。

 

「そうなんだ」

 

 商店街の明かりが、二人の足元まで届いていた。

 

 そのとき涼は、初めて気づいた。

 

 このプロジェクトの本当の終着点は、商店街の売上目標ではない。

 

 この町で生まれた仕組みを、次の町へ持っていけるかどうか。

 

 そして、そのとき自分たちは何を残すのか。

 

の女性の言葉でつながっていく。

 

「店の名前は?」

 

 志保が聞いた。

 

 いつの間にか彼女と井上も来ていた。

 

 女性は少し照れたように笑った。

 

「まだ考え中です」

 

「じゃあ、みんなで考えます?」

 

 志保が言う。

 

「いいんですか?」

 

「もちろん」

 

 その場で六人が店名を考え始めた。

 

 しかし、なかなか決まらない。

 

「小さな台所」

 

「ちょっと硬い」

 

「まちの食卓」

 

「食堂みたい」

 

「よりみち市場」

 

「100円ショップと名前が近すぎる」

 

 笑い声が起きた。

 

 商店街の奥の空き店舗で、久しぶりに人が集まっている。

 

 女性はその様子を見ながら、嬉しそうに笑っていた。

 

 涼は店の奥を見た。

 

 まだ何もない。

 

 棚もない。

 

 商品もない。

 

 それでも、もう空き店舗には見えなかった。

 

 人が使い始めると、場所は変わる。

 

 店というものは、商品だけでできるのではない。

 

 そこに人がいることで、店になる。

 

 その週末、女性の店を商店街の企画に正式に組み込むことが決まった。

 

 新規出店なので、プロジェクトの対象店舗ではない。

 

 しかし、六人はその店を「商店街の次の一歩」として扱うことにした。

 

 100円ショップの商品を売る。

 

 既存店舗へ人を送る。

 

 それだけではなく、商店街に新しい商売が生まれる。

 

 その流れまで作る。

 

 加藤は社内への報告書に、こう書いた。

 

 「空き店舗を埋めることを目的とせず、新たな事業者が出店したくなる環境をつくる」

 

 涼はその一文を読んで、しばらく考えた。

 

 プロジェクトの最初に会社から与えられた命題は、

 

 地方の商店街を有効に再生すること。

 

 あの一行の意味が、半年かけて少しずつ変わってきた。

 

 店を埋める。

 

 人を呼ぶ。

 

 売上を上げる。

 

 それだけではない。

 

 商店街の中で、新しい商売が生まれ続ける状態をつくる。

 

 そこまでできれば、会社のプロジェクトが終わっても、町は動き続けるかもしれない。

 

 それが本当の再生なのではないか。

 

第十八章 最後の〇・八

 

 十二月の売上が締まった。

 

 会議室のスクリーンに数字が出る。

 

 前年同月比、一四・七パーセント。

 

「〇・三足りない」

 

 井上が言った。

 

 田島が頭を抱えた。

 

「あと〇・三かよ」

 

 志保は笑った。

 

「でも、ここまで来た」

 

 加藤は数字を見たまま黙っていた。

 

 目標は一五パーセント。

 

 あと〇・三。

 

 数字だけなら小さい。

 

 しかし、実際に売上を〇・三ポイント上げるのは簡単ではない。

 

「一月で届く?」

 

 田島が聞く。

 

「分からない」

 

 井上が答えた。

 

「年末商戦が終わったので、むしろ一月は落ちる可能性があります」

 

 その言葉で、空気が重くなる。

 

 クリスマスも終わった。

 

 年末の買い物も終わった。

 

 一月は消費が落ちる。

 

 普通なら、数字を上げるには一番難しい時期だった。

 

「何かやろう」

 

 田島が言った。

 

「イベント?」

 

「もうイベントはやった」

 

「セール?」

 

「100円ショップでセールをやっても意味が薄い」

 

「じゃあ、何?」

 

 全員が黙った。

 

 涼は資料を眺めていた。

 

 店舗別の売上。

 

 時間帯別。

 

 客層。

 

 購入商品。

 

 回遊率。

 

 何度も見てきた数字だった。

 

 そのとき、一つの数字が目に入った。

 

「これ」

 

 涼が指をさした。

 

「何?」

 

「夕方の回遊率」

 

 井上が画面を見る。

 

「上がってる」

 

「でも、売上は?」

 

「……あまり変わってない」

 

 涼は考えた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 長崎 名前のない写真 』

 

第一章 長崎駅

 

 長崎駅を出ると、海から来た風が思いのほか強く頬を撫でた。

 

 京都を出るときには、まだ夏の朝の蒸し暑さが身体にまとわりついていたのに、駅前へ出た途端、潮の匂いを含んだ風がそれを少しだけ押し流してくれる。空は高く、山の斜面には家々が重なるように建っていた。

 

 その景色を見た瞬間、中谷孝は、これまで写真でしか知らなかった長崎が、思っていたよりずっと近い場所にあるような気がした。

 

 駅前の広場では、観光客がそれぞれの方向へ歩き始めている。キャリーケースを引く人もいれば、スマートフォンを片手に案内板を探している人もいる。路面電車の線路が道路を横切り、その向こうには市街地が続いていた。

 

 孝は、持っていた小さなカメラをバッグから取り出した。普段なら、初めて訪れた街では、まず一枚撮る。

 

 けれど、ファインダーを覗く前に、山の斜面へ目が向いた。京都にはない景色だった。

 

 街が平らに広がるのではなく、建物が山へ向かって積み上がっている。家と家の間を縫うように坂道が伸び、その先にさらに別の家が見える。地図を見ただけではわからない街の形が、目の前にそのまま現れていた。

 

 後ろから浩一の声がした。

 

 高木浩一は、肩から下げたバッグを持ち直しながら、山の斜面を眺めている。京都の大学では孝と同じ学部に通っていて、今回の旅行も最初に言い出したのは浩一だった。その隣には米田涼子がいる。

 

 涼子は駅前の案内板をスマートフォンで撮影していた。画面を見せながら、何かを話している。孝は笑った。

 

 何気ないやり取りだったが、涼子は案内板と山の斜面を見比べている。その会話を聞いて、孝はようやく旅行が始まったという気がした。

 

 京都では三人とも大学の講義やアルバイトに追われている。夏休みに入ってからも、それぞれ予定があり、四人でまとまった時間を取るのは簡単ではなかった。

 

 それでも浩一が長崎へ行こうと言い出し、涼子が乗り気になり、孝も特に予定がなかったことから話がまとまった。もう一人、長崎で合流する人がいる。中村沙羅。

 

 京都で浩一と親しくしている親戚の子で、現在は長崎で暮らしている。今回の旅行では、彼女が地元を案内してくれることになっていた。その沙羅から、駅に着いたら連絡してほしいと言われている。

 

 孝がスマートフォンを取り出したところで、浩一が先に画面を覗き込んだ。沙羅からのメッセージは届いていなかった。駅前で待つことにした。孝は再び周囲を見渡した。長崎という街は、観光地として知っているつもりだった。

 

 大浦天主堂、グラバー園、出島、眼鏡橋、平和公園。学校で習った歴史もある。写真で見た場所も多い。

 

 けれど、実際に駅前に立ってみると、それらが単独で存在しているわけではないことがわかる。この街には、この街の時間がある。

 

 外国との交流が盛んだった時代もあれば、キリシタンへの厳しい弾圧があった時代もある。幕末には海外へ向かう人や海外から来る人たちがこの港を通り、近代化の波が押し寄せた。

 

 そして八月九日という日を境に、街の姿は大きく変わった。そんな長い時間の上に、今の長崎がある。

 

 孝はそこまで考えて、自分でも少し意外に思った。

 

 単なる観光旅行のつもりだったのに、駅を出たばかりで、妙に歴史のことが気になっている。そのとき、スマートフォンが震えた。沙羅からだった。駅の東口にいるという。三人は案内板を頼りに歩き始めた。

 

 しばらくすると、向こうから一人の女性が歩いてくるのが見えた。

 

 白いシャツに、薄い色のパンツ。肩から小さなバッグを下げている。観光客とは少し違う歩き方をしているのが、遠目にもわかった。周囲の建物を確かめることもなく、迷わずこちらへ向かってくる。浩一が手を上げた。

 

 沙羅も気づいたらしい。四人が揃った。初対面の孝と沙羅は簡単に挨拶を交わした。沙羅が笑った。

 

 その様子を見て、涼子が駅前の景色を見回した。沙羅はすぐには答えず、駅前の向こうに見える山を見た。そして、少し考えてから、歩き出した。

 

 「まず、普通の長崎を見たほうがいいと思う」

 

 観光名所を案内するのではなく、最初にそう言ったことが、孝には少し意外だった。沙羅は大通りを避け、駅から少し離れた道へ入っていく。観光客の姿が減っていく。商店の前を通り、住宅街へ入る。

 

 古い家と新しい家が並び、その間を細い坂が上っている。孝は歩きながら、何度も振り返った。

 

 駅前の大きな建物が少しずつ遠ざかっている。代わりに、長崎で暮らす人たちの生活が近くなってくる。洗濯物。自転車。小さな商店。玄関先に置かれた植木鉢。観光地の写真には写らないものばかりだった。

 

 それが、なぜか新鮮だった。坂の途中で、沙羅が立ち止まった。古い石垣の前だった。

 

 石垣には小さな祠が組み込まれている。観光案内板もない。説明する札もない。

 

 ただ、道を歩いている人なら見落としてしまいそうな場所に、古い祠が残されている。沙羅は祠を見ていた。孝は、その横顔を見ながら、初めて少しだけ不思議に思った。沙羅は長崎の案内役として来ている。

 

 だから、この街のことを多少知っていてもおかしくない。

 

 けれど、いま見つめている祠には、観光客に向けるような視線がなかった。昔から知っている場所を見るような目だった。そのことを尋ねようとしたとき、沙羅のスマートフォンが鳴った。

 

 画面を見た沙羅の表情が、ほんの少し変わった。母親からの連絡だった。

 

 内容を確認したあと、沙羅はスマートフォンをバッグへ戻した。三人は顔を見合わせた。もちろん、断る理由はない。沙羅が先に歩き始める。その後ろを三人がついていく。坂道の先に、古い家が見えてきた。白い壁。木製の雨戸。

 

 小さな庭。

 

 観光地にある古い町家とは違い、いまも誰かが暮らしている普通の家だった。沙羅が玄関を開ける。中から、少し湿った木の匂いがした。祖母は奥の部屋にいた。四人が挨拶をすると、祖母は笑顔を見せた。

 

 そして、孝たち三人を一人ずつ見る。最後に沙羅へ目を戻した。沙羅が頷く。祖母は嬉しそうに笑った。

 

 それから、ふと孝の手元にあるカメラを見た。ほんの一瞬だけ、視線が止まった。孝は気づかなかったふりをした。旅行に来た学生がカメラを持っている。それだけのことだ。そう思った。しかし、その日の夕方。

 

 四人が祖母の家を出たあと、沙羅の母から一通の連絡が届くことになる。

 

「今日、家で撮った写真は消しておいて」

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

二 安土の石段

 

 安土城跡へ向かう日は、朝からよく晴れていた。

 

 京都を出る頃にはまだ少し肌寒かったが、空は明るい。翔子は歩きやすい靴を選んだ。六十八歳になってから、出かけるときに最初に考えるのは、どれだけ長く歩けるかになった。

 

 良子と待ち合わせ、長谷川と合流する。三人で石段を上り始めた。

 

 大手道は幅が広く、石段がまっすぐ上へ伸びている。

 

 長谷川は歩きながら、安土城が一五七六年に築かれたこと、標高一九九メートルの安土山にあったこと、岐阜と京都を結ぶ要所だったことなどを話した。

 

「この石段、ずいぶん幅がありますね」

 

 良子が言うと、長谷川は頷いた。

 

「この幅なら、馬に乗ったまま大手門まで馬で行けるように考えられていたんじゃないか、と見る人もいます」

 

 翔子は石段を見た。人が二人、三人と並んでも余裕がある。

 

 若い頃なら、そんなことは考えずに歩いていた。

 

 長谷川の説明を聞きながら、翔子は石の表面を眺めた。

 

 何百年もの時間を踏んできた石。その上を、今の自分も歩いている。

 

 途中で、翔子は前方から歩いてくる一人の男性とすれ違った。

 

 ほんの一瞬だった。

 

 年齢は自分と同じくらいに見えた。

 

 白髪が混じっている。眼鏡をかけていたかどうかも、はっきりしない。

 

 けれど、すれ違う瞬間に見えた目元と、口元の線に、翔子はなぜか視線を止めた。

 

 男性も、一度こちらを見た。

 

 目が合ったような気がした。

 

 それだけだった。

 

 翔子は数歩進んでから、思わず振り返った。

 

 男性はもう別の観光客の向こうにいた。

 

 涼太に似ている。

 

 そう思った。

 

 けれど、涼太だとは思わなかった。

 

 いや、思えなかった。

 

 もし、あの人が涼太だったら。

 

 二人が最後に顔を合わせたのは、大学を卒業する頃だった。

 

 それから、四十五年近く会っていない。そんなことが本当に起こるのだろうか。

 

 翔子は前を向いた。良子と長谷川は少し先を歩いている。

 

「どうしたの?」

 

 良子が振り返った。

 

「ううん。何でもない」

 

 翔子はそう答えた。

 

 そのあとも長谷川の説明は続いた。

 

 石垣のこと、城の構造のこと、信長がここで過ごした四年間のこと。

 

 良子が質問するたび、長谷川の歩く速度が少し落ちる。

 

 翔子はその後ろを歩きながら、さっきの男性がいた場所を何度も見た。

 

 けれど、もう姿はない。石段と観光客の背中だけが続いている。

 

 帰りの電車で、良子が撮った写真を見せてくれた。

 

 翔子は画面を覗き込みながら、何も言わなかった。

 

 似た人を見ただけ。そう言えば、それで終わる。なのに、口に出す気にはなれなかった。

 

 京都へ戻ると、いつもの家が待っていた。

 

 窓を開け、湯を沸かし、コーヒーを淹れる。

 

 いつもの順番なのに、手が一度だけ止まった。

 

 カップを置いたとき、安土で見た男性の目元が、また浮かんだ。

 

 涼太だったのだろうか。

 

 もし違っていたら、自分は何をこんなに考えているのだろう。

 

 翔子は自分でも可笑しくなった。たった一度、すれ違っただけなのに。

 

 翌日も、その次の日も、ふとした瞬間に男性の顔が浮かんだ。

 

 顔全体は思い出せない。目元と口元だけが残り、その曖昧さがかえって気になった。

 

 昔の涼太の顔を、翔子ははっきり思い出せなくなっていた。

 

 残っているのは、歩く速度や振り返る仕草のほうだった。

 

 だからこそ、目の前を通り過ぎた男性の姿が、記憶のどこかに触れたのかもしれない。

 

 翔子は、まだ答えを出そうとはしなかった。

 

 ただ、もう一度その人を見たいと思った。それだけだった。、

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー⑥

 

第十章 歌わない朝

 

 朝、里奈は静けさで目を覚ました。

 

 窓の向こうが白んでいた。

 

 いつもなら、テルさんの下手な英語が聞こえる時間だった。

 

 音楽プレーヤーは机の上に置かれたままだった。イヤホンは畳へ落ちている。

 

「テルさん」

 

 返事がなかった。

 

 肩へ触れると、体が重く揺れた。

 

「テルさん」

 

 里奈は廊下へ飛び出した。

 

「春江さん!」

 

 自分の声が、家の中で大きく響いた。

 

 春江が杖をついて出てきた。

 

「どうしたん」

 

「テルさんが起きません」

 

 救急車を呼んだ。

 

 住所は番地まで答えられた。

 

「倒れた方の年齢は?」

 

「四十歳くらいです」

 

「正確には分かりますか」

 

 里奈は春江を見た。春江も首を横に振った。

 

 救急隊員は、昨日の様子や持病、飲んでいる薬を尋ねた。

 

「分かりません」

 

 里奈は何度も同じ答えをした。

 

 毎日一緒にいたのに、テルさんのことを何も知らなかった。

 

 担架が狭い階段を下ろされていく。里奈は上着だけを羽織り、救急車へ乗った。

 

 春江は玄関に立っていた。

 

「一緒に行かなくていいんですか」

 

「私は坂を下りるほうが時間がかかるよ。あんた、行きんさい」

 

 扉が閉まる直前、春江が小さく咳をした。

 

「こほ……起きたら、朝ご飯食べんさい言うて」

 

 病院の待合室で、里奈はこの一週間のことを考えた。

 

 歌を途中でやめた朝。坂の途中で立ち止まる回数が増えたこと。上がり框へ置かれた買い物袋。

 

 一つずつなら、どれも理由のあることに見えた。暑い日だった。重い袋だった。歌詞は初めから曖昧だった。

 

 毎日見ていたことと、分かっていたことは同じではなかった。

 

 名前を呼ばれた。

 

 医師は、意識は戻っていると最初に言った。

 

 里奈の膝から力が抜けた。

 

「今のところ、命に関わるような異常は見つかっていません。ただ、意識を失った原因を調べる必要があります。今日は入院して、詳しい検査をしましょう」

 

「私が何かすればよかったんでしょうか」

 

「倒れた時刻も分かりませんから、今は何とも言えません。発見して救急車を呼んだ。それで十分です」

 

 十分ではないと思った。

 

 病室のテルさんは、いつもより小さく見えた。

 

「朝ご飯、食べんさいって」

 

 里奈は言った。

 

「誰が?」

 

「春江さんです」

 

「里奈ちゃんは食べた?」

 

「まだです」

 

「ほんなら、里奈ちゃんに言うたんよ」

 

 声は弱かったが、いつものテルさんだった。

 

「家へ戻って、取ってきてほしいもんがあるんよ」

 

「何ですか」

 

「音楽を聴くやつが載っとる台。あれの下に封筒を貼っとる」

 

「封筒ですか」

 

「そう。それを持ってきて」

 

「分かりました」

 

「封筒の中も見て」

 

「見ません」

 

「お札が抜けとっても、分からんじゃろ」

 

「誰が抜くんですか」

 

「知らんよ。じゃけえ数えて」

 

 テルさんは少し笑い、目を閉じた。

 

第十一章 テーブルの下

 

 春江の家へ戻ると、食卓に朝食が二人分残っていた。

 

「どうじゃった?」

 

「意識は戻りました。詳しい検査をするそうです」

 

「そう」

 

 春江はそれ以上聞かなかった。

 

「怖くないんですか」

 

「怖いよ」

 

 春江は冷めた味噌汁を温め直した。

 

「怖がっても、検査は早うならんけえ」

 

 里奈は二階へ上がった。

 

 音楽プレーヤーが載った小さな台を持ち上げると、裏側に茶色い封筒が貼られていた。

 

 端が何度も貼り直され、テープが重なっている。

 

 中を見てもいいと言われたことを思い出した。

 

 封を開けた。

 

 一万円札が二十枚入っていた。

 

 いちばん下に、古い葉書が一枚あった。

 

 角が丸くなり、宛名の文字も薄れていた。消印には京都とあった。

 

 裏には、短い文だけが残っていた。

 

 〈父さんが倒れました。母さんは、帰るなら駅まで迎えに行くと言っています。返事だけでもください。千鶴〉

 

 里奈は畳へ座り込んだ。

 

 里奈は、三百円を数えることで、テルさんの暮らしまで分かったつもりになっていた。

 

 葉書には日付があった。十五年以上前だった。

 

 テルさんが京都へ帰ったのか、その返事を出したのかは分からなかった。

 

 封筒の古い紙の匂いを嗅いでも、その金が何のために置かれていたのかは分からなかった。

 

 封筒を鞄へ入れ、一階へ下りた。

 

「病院へ戻ります」

 

「お金、あった?」

 

 春江が言った。

 

「知っていたんですか」

 

「知らんよ。テルちゃんが隠すところは、だいたい決まっとるけえ」

 

「二十万円ありました」

 

「ほう」

 

「驚かないんですか」

 

「私のお金じゃないけえ」

 

 春江は弁当箱を差し出した。

 

「これ、持っていきんさい」

 

「テルさんのですか」

 

「病院のご飯が出るじゃろ。あんたのよ」

 

 病室で封筒を渡すと、テルさんは中を確かめ、ベッド脇の引き出しへ入れた。

 

「葉書も見たん?」

 

「見ていいと言ったでしょう」

 

「お金だけのつもりじゃった」

 

「千鶴さんは?」

 

「妹」

 

 テルさんは枕元の水を一口飲んだ。

 

「高校を出た春に、父親と喧嘩して家を出たんよ。尾道の喫茶店で働かせてもろうてね。あの葉書が来たときは、帰る服まで買うた」

 

「帰らなかったんですか」

 

「何を言うか決まらんかった。明日考えよう思うた」

 

 テルさんは目を閉じた。

 

「その明日が、長うなった」

 

「返事は?」

 

「書いたよ」

 

「出したんですか」

 

 テルさんは答えなかった。

 

 里奈は封筒へ目を落とした。

 

「この二十万円は、京都へ帰るためですか」

 

「最初はね。手ぶらで帰ったら格好悪い思うた。五万円貯まったら、十万円あったほうがええ。十万円貯まったら、もう少しあったほうがええ」

 

「どうやって貯めたんですか」

 

「喫茶店を辞めたときに残ったお金と、三百円を少しずつ。帰る日が決まらんけえ、使う日も来んかった」

 

「今は?」

 

「病院代にちょうどええね」

 

 テルさんは引き出しを閉めた。

 

「里奈ちゃん」

 

「はい」

 

「話せる人がおるうちに、話しときんさい」

 

「両親にですか」

 

「誰でもええよ。言わんかったことは、あとから重うなるけえ」

 

     

 家へ戻ると、春江が玄関で言った。

 

「小川さんから電話」

 

「テルさんのことですか」

 

「違うよ。牛乳がないんじゃって」

 

「断りますか」

 

「頼まれたのは、あんたじゃろ」

 

 里奈は二階へ上がった。

 

 鞄へノートと財布を入れた。

 

 小川の頁を開き、牛乳の横に今日の日付を書いた。

 

「行ってきます」

 

 春江は食卓から里奈を見た。

 

「病院へ?」

 

「スーパーです」

 

 里奈は坂を下りた。

 

第十二章 戻らなかった人

 

 倒れてから二日目の午後、テルさんの検査結果が出た。

 

 医師は、頭や心臓に大きな異常は見つからなかったと説明した。疲れと水分不足に、血圧の変動が重なった可能性があるという。ただ、意識を失った原因を一つに決めることはできないため、もうしばらく様子を見ることになった。

 

「血圧が少し高いですから、定期的に診てもらってください。無理をしないこと。食事も、塩分を控えて」

 

 テルさんはうなずいた。

 

「りんごは食べてもええですか」

 

「果物は食べすぎなければ」

 

「一日三個は?」

 

「多いですね」

 

 テルさんは残念そうな顔をした。

 

 テルさんが戻らないあいだも、朝になると電話は鳴った。

 

 小川の牛乳を届け、田辺と病院まで歩いた。靴屋の主人は、テルさんはいつ帰るのかと聞いたあとで、荷物を一つ受け取ってほしいと言った。

 

 春江は毎晩、食卓に茶碗を三つ出した。二つしか使わないと分かると、一つを伏せて戸棚へ戻した。

 

 里奈は頼まれごとを終えてから病院へ行った。テルさんは二日目には窓際まで歩き、三日目には看護師から、廊下で歌わないよう注意されていた。

 

 退院したのは、倒れてから五日目だった。

 

 病院から春江の家まで、二人はゆっくり歩いた。坂の下で何度も休んだ。

 

「家へ電話したん?」

 

 テルさんが聞いた。

 

「まだです」

 

「そう」

 

 テルさんは坂の途中で立ち止まった。

 

「私は、もう少しここにいます」

 

「そう」

 

「頼まれたことも続けます。でも、一人で行かない家と、断ることを、ノートの最初に書きます。時間のかかることは、先に金額を決めます」

 

「面倒じゃねえ」

 

「面倒にしておかないと、続きません」

 

 テルさんは少し笑った。

 

「賢うなったね」

 

「りんごは食べていません」

 

 二人はまた坂を上った。

 

 春江の家の前には、小川が立っていた。手に牛乳の空き瓶を持っている。

 

「テルちゃん、もう大丈夫なん?」

 

「歌えるよ」

 

「歌は休んでもええよ」

 

 小川は里奈へ三百円を差し出した。

 

「昨日の分」

 

「もう受け取りました」

 

「あれは牛乳の分。これは、ちゃんと来てくれた分」

 

「同じです」

 

「ほんなら来週の分」

 

「まだ買っていません」

 

「先に払うたら、来週も来るじゃろ」

 

 里奈は迷ったあと、受け取った。

 

「来週、卵は?」

 

「要らんよ。まだ四個あるけえ」

 

 小川は坂を下りていった。

 

 テルさんが里奈の手の三百円を見た。

 

「来週も行かんといけんね」

 

 里奈は硬貨をポケットへ入れた。

 

「約束しましたから」

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

『 棚のない商店街 』 ストーリー 8

 

第十六章 商店街の外から来る人

 

 十一月の終わり。

 

 商店街には、少しずつ冬の気配が入り始めていた。

 

 朝の空気が冷たい。

 

 八百屋の店先には大根や白菜が並び、夕方になると買い物袋を提げた人の姿が増える。

 

 半年近く前まで、同じ時間帯の商店街はもっと静かだった。

 

 シャッターの下りた店が目立ち、人が歩いていても、それぞれが目的の店へ向かうだけだった。

 

 今は違う。

 

 立ち止まる人がいる。

 

 案内板を見る人がいる。

 

 店から出て、次の店へ向かう人がいる。

 

 それでも、一五パーセントには届いていない。

 

 数字は、いつもそこにあった。

 

 会議室のスクリーンに映るたび、六人の気持ちを少しずつ重くする。

 

「一三・一パーセント」

 

 井上が言った。

 

「先月より〇・五上がりました」

 

「悪くない」

 

 加藤が答える。

 

「でも、あと一・九」

 

 志保が言う。

 

「残り二か月」

 

 田島が椅子に深く座った。

 

「二か月で一・九か」

 

「簡単ではない」

 

 加藤はそう言った。

 

「だから、今までと同じことをやるのはやめよう」

 

 涼は顔を上げた。

 

「同じことをやめる?」

 

「うん」

 

 加藤は資料を閉じた。

 

「この半年、俺たちは商店街の中を見てきた。次は外を見る」

 

 商店街の外。

 

 その言葉が、涼には少し新鮮だった。

 

 これまでずっと、商店街の中に人をどう歩かせるかを考えてきた。

 

 入口から奥へ。

 

 100円ショップから既存店舗へ。

 

 店から店へ。

 

 しかし、そもそも商店街へ来ていない人をどうするか。

 

 そこまでは、深く考えていなかった。

 

「商店街の外に、何がある?」

 

 冴が聞いた。

 

 井上が地図を表示した。

 

「駅」

 

「それは分かる」

 

 田島が笑う。

 

「その先」

 

 井上が地図を縮小する。

 

「住宅地があります。駅の反対側には大型スーパー。少し離れたところにホームセンター。あと、バス停」

 

「競合だらけだな」

 

 志保が言った。

 

「だから、人がそっちへ流れてる」

 

「だったら、競合と同じことをしない」

 

 冴が言った。

 

「何をする?」

 

 冴は地図を見たまま考えていた。

 

「商店街に来る理由を作る」

 

「また同じじゃない?」

 

 涼が言う。

 

「今までとは少し違う」

 

 冴が顔を上げた。

 

「商品じゃなくて、人を呼ぶ」

 

 その日の午後、六人は駅へ向かった。

 

 商店街の入口から駅までは、歩いて十分ほど。

 

 途中に小さな公園がある。

 

 ベンチが三つ。

 

 滑り台が一つ。

 

 平日の昼間は、ほとんど人がいない。

 

 さらに駅前には、使われていない小さなスペースがあった。

 

 以前は臨時の売店があったらしい。

 

 今は何もない。

 

「ここ、使えないかな」

 

 冴が言った。

 

「駅の敷地だから、許可が必要」

 

 井上が答える。

 

「でも、交渉はできる」

 

 加藤は腕を組んだ。

 

「何をする?」

 

 冴は少し笑った。

 

「商店街の出張所」

 

「出張所?」

 

「一日だけ、商店街を駅前に持ってくる」

 

 田島が笑った。

 

「それ、商店街じゃないだろ」

 

「全部持ってくる必要はない」

 

 冴は続けた。

 

「例えば、八百屋のおすすめ野菜。食堂の惣菜。100円ショップの季節商品。それを駅前で紹介する」

 

「売るの?」

 

「売ってもいい。でも、目的は売上じゃない」

 

 冴は駅の改札を見た。

 

「商店街を知らない人に、存在を知ってもらう」

 

 涼は少し考えた。

 

 これまでの企画は、商店街へ来た人をどう回遊させるかだった。

 

 今度は逆。

 

 商店街のほうから、人のいる場所へ出ていく。

 

「やってみよう」

 

 加藤が言った。

 

 駅前での出張販売が決まったのは、それから二週間後だった。

 

 駅側との調整。

 

 商店街側との調整。

 

 出店する店舗の選定。

 

 100円ショップ各社への説明。

 

 簡単ではなかった。

 

 それでも、これまで半年間積み上げてきた実績があった。

 

 「商店街の実験」という言葉だけでは、誰も動かなかったかもしれない。

 

 しかし今は、数字がある。

 

 来店者が増えた。

 

 売上が増えた。

 

 空き店舗に人が入った。

 

 それを示すことができた。

 

 駅前イベントの前日。

 

 商店街では準備が進んでいた。

 

 八百屋の店主が野菜を箱に詰める。

 

 食堂の主人が惣菜を確認する。

 

 100円ショップでは、冬用品を選ぶ。

 

 手袋。

 

 小さな湯たんぽ。

 

 収納用品。

 

 掃除用品。

 

 季節に合わせた商品が並んだ。

 

「結構本格的になったね」

 

 志保が言った。

 

「最初はもっと小さくやるつもりだった」

 

 田島が箱を運びながら答える。

 

「人間、欲が出るんだよ」

 

「売上?」

 

「それもある」

 

 田島は商店街を見た。

 

「この町が変わっていくのが見えると、もっとやりたくなる」

 

 その言葉に、誰も笑わなかった。

 

 全員が同じ気持ちだった。

 

 翌朝。

 

 駅前に小さなテントが並んだ。

 

 「商店街の出張所」

 

 大きな文字が掲げられている。

 

 通勤客が通り過ぎる。

 

 最初は誰も立ち止まらない。

 

 八時。

 

 九時。

 

 十時。

 

 午前十時半、一人の女性が足を止めた。

 

「商店街?」

 

「はい」

 

 志保が答える。

 

「ここから歩いて行けるところです」

 

「知ってるわ。昔、よく行った」

 

「今もやっています」

 

「そうなの?」

 

 女性は驚いた。

 

「最近、あまり行ってなかったから」

 

「よかったら、地図だけでも」

 

 志保が紙を渡す。

 

 女性は地図を見た。

 

「こんなに店が増えたの?」

 

「空いていた店舗を使って、100円ショップの商品をジャンルごとに販売しています」

 

「へえ」

 

 女性の目が少し変わった。

 

「ちょっと見てみようかしら」

 

「ぜひ」

 

 女性は地図をバッグに入れた。

 

 それから、一人、また一人と立ち止まる人が増えた。

 

 駅前で売れた商品は多くない。

 

 それでも、地図を持って帰る人が増えた。

 

 昼過ぎには、百枚用意した地図がなくなった。

 

「追加、持ってきます!」

 

 志保が走った。

 

 涼はその様子を見ていた。

 

 商品が売れる以上に、地図がなくなったことが嬉しかった。

 

 人が商店街を知る。

 

 それだけでも意味がある。

 

 夕方、駅前の出張所を片付けていると、見覚えのある女性が近づいてきた。

 

 先月、商店街に店を出したいと言っていた女性だった。

 

「今日、見に来たんです」

 

「どうでした?」

 

 冴が聞く。

 

「面白いですね」

 

「何か決まりました?」

 

 女性は首を横に振った。

 

「まだ」

 

 そして、商店街の地図を指でなぞった。

 

「でも、だんだん分かってきました」

 

「何がですか?」

 

「私が何をしたいのか」

 

 冴は黙って聞いた。

 

「昔、私はこの商店街で買い物をしていました」

 

 女性は言った。

 

「でも、結婚して外へ出て、戻ってきたら店が減っていた」

 

「はい」

 

「だから、昔の商店街を取り戻したいと思っていたんです」

 

 女性は少し笑った。

 

「でも、今日ここに来て、違うなと思いました」

 

「違う?」

 

「昔に戻すんじゃなくて、新しい商店街にすればいいんですよね」

 

 冴はその言葉を聞いて、涼を見る。

 

 涼も同じことを考えていた。

 

 元に戻す必要はない。

 

 この町に今必要な形を作る。

 

 それは、プロジェクトの最初には誰も言葉にできなかった考えだった。

 

「どんな店をやりたいんですか?」

 

 涼が聞いた。

 

 女性は少し迷ってから答えた。

 

「まだ秘密です」

 

「秘密?」

 

「決まったら、一番に皆さんに言います」

 

 そう言って笑った。

 

 女性が帰ったあと、田島が言った。

 

「気になるな」

 

「俺も」

 

「もしかして、競合する店だったりして」

 

 冗談だった。

 

 しかし、その言葉を聞いた瞬間、涼は何かが引っかかった。

 

 競合。

 

 商店街に新しい店が入る。

 

 それは、既存の店にとって必ずしも歓迎できることではない。

 

 再生と競争は、同じ場所で起こる。

 

 人が増えれば、店も増える。

 

 店が増えれば、競争も増える。

 

 これまで六人が考えていた「再生」は、少し単純すぎたのかもしれない。

 

 十二月に入った。

 

 前年同月比一四・二パーセント。

 

 目標まで、あと〇・八。

 

 残り一か月。

 

 会議室で数字を見た田島が立ち上がった。

 

「いける」

 

 井上は頷いた。

 

「数字だけなら」

 

「何か問題がある?」

 

 加藤が聞く。

 

 井上は次のページを開いた。

 

「既存店舗の中に、売上が落ちているところがあります」

 

「どこ?」

 

「洋品店」

 

 全員が黙った。

 

 商店街の古くからある洋品店。

 

 駅前の出張販売を始めてから、むしろ客が減っていた。

 

「理由は?」

 

「まだ分かりません」

 

 涼は椅子から立った。

 

「見に行こう」

 

 洋品店へ向かう。

 

 店主は、いつもと変わらない顔で店に立っていた。

 

「最近、売上が落ちてるって聞きました」

 

 涼が言う。

 

「そうだね」

 

 店主は笑った。

 

「でも、あんたたちのせいじゃないよ」

 

「何かありましたか?」

 

「駅前でいろいろやってるでしょう」

 

「はい」

 

「人は増えた」

 

 店主は店の外を見た。

 

「でも、みんな若いんだよ」

 

 涼は黙った。

 

「うちが扱ってるのは、昔からの服が多い。今の人には合わないんだろうね」

 

「だったら、変えますか?」

 

 冴が聞いた。

 

「何を?」

 

「売るもの」

 

 店主は笑った。

 

「簡単に言うけどね」

 

「分かっています」

 

 冴は店内を見た。

 

「でも、この店をなくしたくないなら、変えるしかない」

 

 店主はしばらく黙っていた。

 

「この歳で、新しいことをやれって?」

 

「そうじゃありません」

 

 冴は首を振った。

 

「今までのものを捨てる必要はないです」

 

「じゃあ?」

 

「今のお客さんに合わせて、少しだけ増やす」

 

 涼が言った。

 

「例えば、靴下。手袋。雨の日の商品。100円ショップでは扱えないもの」

 

 店主は考えた。

 

「それなら、できるかもしれない」

 

「価格帯も変える」

 

「全部高くするのか?」

 

「逆です」

 

 涼は笑った。

 

「入口に、手頃な商品を置く」

 

 店主が少し笑った。

 

「なるほどね」

 

 その日の帰り、冴と涼は二人で商店街を歩いた。

 

「少しずつ変わってきたね」

 

 冴が言った。

 

「何が?」

 

「商店街の人たち」

 

 涼は頷いた。

 

「最初は、俺たちが何かを持ってくると思ってた」

 

「今は?」

 

「自分たちで考えるようになってる」

 

 冴は歩きながら、少し笑った。

 

「それが一番大事なんじゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

 二人の間に、しばらく沈黙が続いた。

 

 以前なら気まずかった沈黙が、今はそうでもない。

 

 仕事の話をしているうちに、昔のような距離感が少しだけ戻っている。

 

 けれど、そのことを二人とも口にはしなかった。

 

 商店街の入口に近づいたところで、冴が突然立ち止まった。

 

「涼」

 

「ん?」

 

「大学の頃のこと、覚えてる?」

 

 涼は答えなかった。

 

 冴は商店街の明かりを見たまま続けた。

 

「私たち、あの頃は何でも話してたよね」

 

「そうだった」

 

「別れてから、ほとんど話さなくなった」

 

「うん」

 

「どうしてだったんだろう」

 

 涼は少し考えた。

 

 答えは、ずっと胸の奥に残っていた。

 

 けれど、今まで言葉にしたことはない。

 

「俺が逃げたから」

 

 冴が振り返った。

 

「何から?」

 

「卒業して、仕事が決まって、環境が変わって……」

 

 涼は言葉を探した。

 

「冴は先に東京へ行くことが決まってた。俺は地元に残ることになった」

 

「うん」

 

「そのとき、俺は勝手に思ったんだ」

 

「何を?」

 

「このまま続けても、どこかで終わるって」

 

 冴は黙っていた。

 

「だから、終わる前に終わらせた」

 

 冬の風が二人の間を抜けた。

 

 冴はしばらく何も言わなかった。

 

 やがて、

 

「私も、そう思ってた」

 

 と言った。

 

 涼が顔を上げる。

 

「だから別れたの?」

 

「うん」

 

「俺だけじゃなかったんだ」

 

「そう」

 

 冴は少し笑った。

 

「二人とも怖かったんだと思う」

 

 涼も笑った。

 

 それ以上、何も言わなかった。

 

 けれど、長い間胸の中にあったものが、ほんの少しだけ動いた気がした。

 

 そのとき、商店街の奥から田島が走ってきた。

 

「二人とも、ここにいたのか!」

 

「どうした?」

 

「加藤さんから連絡!」

 

 田島は息を切らしていた。

 

「例の新規出店の女性、店が決まった」

 

「どこ?」

 

「奥の空き店舗」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

 そこは、半年間ほとんど誰も使おうとしなかった店舗だった。

 

「何の店?」

 

 冴が聞く。

 

 田島は少し笑った。

 

「それが……」

 

 そこで言葉を切った。

 

「100円ショップと競合する店じゃない」

 

「じゃあ?」

 

「逆だよ」

 

 田島が答えた。

 

「この商店街に今までなかった店らしい」

 

 涼は商店街の奥を見た。

 

 冬の夕暮れの中で、空き店舗のシャッターが一枚だけ残っている。

 

 その向こうに、半年後の商店街を変えることになる新しい店が入ろうとしていた。

この作品は盗用禁止です。

AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。

 

 

 

『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

一 ひとりの朝

 

 朝の支度は、誰かに見せるものではない。だからこそ、翔子は最近、自分がどんな順番で一日を始めるのかをよく考えるようになった。

 

 若い頃は、朝は一日の入口にすぎなかった。仕事へ行くために起き、家族を送り出し、帰ってきてからの用事まで頭の中に並べていた。今は、朝そのものに時間を使える。急ぐ理由がないことに、最初は戸惑った。

 

 急がなくていい朝には、急がないからこそ見えるものがある。湯気の向こうの窓、机に落ちる光、昨日のまま置かれた新聞。翔子はそれらを眺めながら、自分がまだここで暮らしていることを思う。

 

 健二がいなくなってから、家の広さまで変わったように思える日がある。同じ部屋、同じ家具なのに、音の届き方が違う。誰かがいる家では、物音は生活の一部になる。一人になると、物音の一つ一つが自分に向かってくる。

 

   その朝、翔子は食器棚を開けた。

 

 健二が使っていた湯飲みが、奥に残っている。手に取ることはせず、翔子はそのまま棚を閉めた。

 

 三村翔子、六十八歳。

 

 夫の健二が亡くなって、二年になる。

 

 その二年が長かったのか短かったのか、翔子にはよく分からない。

 

 亡くなった直後の数か月は、一日がひどく長かった。朝になっても、昼になっても、夜になっても、時間だけがなかなか先へ進まない。けれど、二年が近づく頃になると、逆に月日が早く流れているように感じるようになった。

 

 カレンダーをめくるたび、季節が一つずつ消えていく。

 

 桜が咲き、暑い夏が来て、秋になり、冬を越した。

 

 それらが繰り返して、また春が近づいている。

 

 京都市北区の家で、翔子は一人で暮らしている。

 

 朝は決まった時間に起きる。

 

 目覚まし時計が鳴る前に目を覚ますことが多い。長年の習慣というものは、夫がいなくなっても身体の中に残っているらしい。

 

 布団から出ると、まずカーテンを開ける。

 

 窓を少しだけ開ける。

 

 季節によって匂いは変わる。雨の翌日は土の匂いがするし、春先にはどこか湿った草の匂いが混じる。夏の朝は、まだ太陽が高くないのに空気が重い。

 

 朝の空気を吸い込み、翔子は今日も一日が始まると思う。

 

 台所へ行き、湯を沸かす。

 

 コーヒーを淹れる。

 

 以前なら、この時間には健二がいた。

 

 新聞をめくる音がして、テレビの音がして、ときどき咳払いが聞こえた。

 

 健二は朝からよくテレビを見る人だった。

 

 翔子が台所で朝食を用意している間にも、ニュースを見ながら、誰に話しかけるでもなく小さな声で何かを言う。

 

 政治家の発言に文句をつけたり、天気予報を聞いて「今日は暑くなるらしいな」と言ったりする。

 

 翔子は返事をすることもあったし、聞き流すこともあった。

 

 そういう何でもない声が、家の中にはずっとあった。

 

 今は静かだ。

 

 時計の秒針まで聞こえるような気がする朝もある。翔子は以前なら、その音を寂しいと思った。今は、時間がちゃんと進んでいる証拠だと思う。

 

 静かになったことにも、少しずつ慣れてきた。

 

 最初の頃は、テレビをつけないと落ち着かなかった。

 

 音がないことが、夫の不在をそのまま知らせているように感じたからだ。

 

 今では、朝の静けさも嫌いではない。

 

 静けさは、最初は空白だった。今では、その中に自分の考えを置ける。翔子は朝の十分ほどを、何もしない時間にすることが増えた。

 

 窓の外を眺め、今日の天気を考え、昼に何を食べるか決める。それだけで、一日の始まりには十分だった。

 

 鳥の声が聞こえる。

 

 遠くを走る車の音がする。

 

 隣の家の玄関が開く音もする。

 

 小さな音まで、以前よりよく聞こえる。

 

 二人分の食器をしまった棚を開けると、手が止まることがある。

 

 健二が使っていた湯飲み。

 

 少し欠けた皿。

 

 来客用に買ったのに、結局ほとんど使わなかった茶碗。

 

 捨てようと思ったこともある。

 

 けれど、捨てられなかった。

 

 物が惜しいわけではない。そこにあった時間までなくなってしまう気がするのだ。

 

 翔子は、そんな自分を少し可笑しいと思う。

 

 もう二年も経っている。

 

 いつまでも過去にしがみついているつもりはない。

 

 健二との生活は、長かった。

 

 良いことばかりではなかったし、喧嘩もした。

 

 若い頃には、もっと違う人生があったのではないかと思ったこともある。

 

 それでも、最後まで一緒にいた人である。

 

 亡くなったからといって、その時間まで消えるわけではない。物の形で残っているものもある。

 

 娘の彩花は三十五歳。

 

 仕事もあるし、自分の生活がある。

 

 近くに住んでいるわけではないが、電話はくれる。

 

 ときどき家にも来る。

 

 翔子は、そのたびに「大丈夫だから」と言う。

 

 彩花は、以前ほど「本当に大丈夫?」とは聞かなくなった。

 

 それが翔子にはありがたかった。

 

 人に心配されると、自分が弱くなったように感じることがある。彩花の優しさが嫌なわけではない。ただ、「大丈夫?」と何度も聞かれると、大丈夫であり続けなければならないような気持ちになる。

 

 心配され続けるのも、案外疲れる。

 

 翔子も、もう大丈夫だと思う。朝の支度も、買い物も、病院の手続きも、一人でできる。

 

 ただ、夫がいなくなったことで、家の中に空いた場所があることは分かっていた。

 

 その場所を、誰かで埋めようとは思わない。

 

 六十八歳になって、恋愛をするなどとは考えたこともない。

 

 「恋愛」という言葉そのものが、少し遠い。

 

 若い頃なら、誰かを好きになれば、これからどうなるのかを考える。

 

 結婚するのか。

 

 一緒に暮らすのか。

 

 仕事はどうするのか。

 

 家族はどうするのか。

 

 先には、いくらでも時間がある。

 

 六十八歳の自分には、それがない。

 

 もちろん、まだ時間はある。ただ、若い頃のように「これから何十年もある」とは考えない。だから翔子は、一人の暮らしを受け入れようとしていた。

 

 そんな頃、翔子はSNSを通じて安田良子と知り合った。

 

 きっかけは、近江の城跡を紹介する投稿だった。

 

 翔子はもともと歴史が好きだったわけではない。

 

 ただ、夫が亡くなってから、休日に一人で家にいる時間が増え、スマートフォンを見ることも増えた。

 

 そこで偶然、良子の写真を見つけた。

 

 古い石垣。

 

 山道。

 

 誰もいない城跡。

 

 写真の下には短い文章が添えられていた。

 

 翔子は何度かその投稿を見ているうちに、良子とメッセージを交わすようになった。

 

 良子は六十二歳。

 

 よく歩き、よく笑う人だった。

 

 翔子より六歳若いだけなのに、ずいぶん行動的に見える。

 

 近江の城跡へ行ったかと思えば、次の週には奈良の古い町を歩いている。

 

 写真を見せてもらううちに、翔子も少しずつ外へ出るようになった。

 

 外へ出ると、家の中で考えていたことが案外小さく思える。道を歩き、店に入り、人の声を聞く。それだけで気持ちの向きが変わる。翔子は、そんな変化を少しずつ楽しむようになった。

 

 画面の中で近江の城跡や古い町並みの写真を見せてもらううちに、いつしか実際に会うようになった。

 

 最初に会った日は、駅の近くの喫茶店だった。

 

 写真で見るより、良子はよく笑った。

 

 話も早かった。

 

 翔子が何かを考えている間に、良子は次の話題へ進んでいる。

 

 その勢いが、翔子には心地よかった。

 

 良子といると、若返ったような気はしない。六十八歳の自分を、そのまま外へ連れ出してもらう感じがする。

 

 無理に若く振る舞う必要もない。家の中だけで終わっていた生活から、一歩外へ出る。そのくらいの距離が翔子にはちょうどよかった。

 

 自分の生活には、いつの間にか「予定外」のことが少なくなっていた。

 

 良子と会うと、その予定外が少しだけ戻ってくる。

 

 ある日、良子が言った。

 

「安土城跡、歩いてみない?」

 

 長谷川駿という男性も一緒だという。

 

 翔子は、少し考えてから返事をした。

 

 安土。

 

 その地名を見た瞬間、胸の奥で古いものが動いた。

 

 四十五年前の記憶だった。

 

 大学三年の頃。

 

 翔子には、前島涼太という恋人がいた。

 

 涼太も、今は六十八歳になっている。

 

 四十五年前、二人は安土城跡へ行った。

 

 何を話したかは、ほとんど覚えていない。

 

 昼ご飯を食べた場所も、帰りにどの電車に乗ったのかも覚えていない。

 

 写真も残っていない。

 

 けれど、石段を上ったことは覚えている。

 

 涼太が少し先を歩き、翔子が後ろからついていった。

 

 ときどき涼太が振り返った。

 

 翔子が遅れると、何も言わずに歩く速度を落とした。

 

 たったそれだけの記憶だった。

 

 それなのに、安土という文字を見ただけで、あの頃の空気まで戻ってくるようだった。

 

 翔子は、しばらくスマートフォンの画面を見つめた。

 

 送信する前に、名前をもう一度確認した。間違えて別の人に送ったらどうしよう、と考える。そんな心配をする自分が可笑しくなった。

 

 四十五年近く会っていない人に連絡することのほうが、送信先を間違えることよりずっと大きな出来事なのに。

 

 翔子は小さく息を吐き、指を動かした。

 

 そして、良子に返事をした。

 

「行ってみようかな」

 

 送信したあとも、胸のざわつきは消えなかった。

 

 翔子は、夫が亡くなってから「一人」という言葉の手触りが変わったと思っている。以前の一人は、誰かが帰ってくるまでの時間だった。今は、玄関の鍵が回る音を待つ必要がない。待たなくていいことは自由だったが、ときどき、その自由が広すぎると感じることもあった。

 

 朝食を終えると、翔子は洗濯機を回した。白いシャツが二枚、タオルが三枚。洗濯物はそれだけだった。洗い終わるまでの時間に、窓辺の鉢植えへ水をやる。以前なら、健二のシャツが一枚混じっていた。そんなことを思いながら、翔子は物干し竿にタオルを掛けた。

 

 予定表を開く。空白が並んでいる。以前なら、その白さが気になっただろう。今は、図書館へ行く日も、何もしない日も、自分で決められる。自由というものは、誰かに与えられるより、自分で使い方を覚えるほうが難しいのかもしれない。

 

 翔子は鉛筆で、来週の欄に小さく丸をつけた。何の予定にするかは決めていない。ただ、空白のままにしておかない日を一つ作ってみたかった。