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『 長崎 名前のない写真 』

 

第五章 浦上九番

 

 翌朝、孝は目を覚ますと、昨夜届いた地図の画像を最初に確認した。

 

 眠っている間に削れていた記憶が、画面を見た瞬間に戻ってくる。祖母の家から伸びた赤い線。その途中にある丸印。そして、終点に記された「浦上九番」という文字。

 

 昨夜は、それが何を意味するのかばかり考えていたが、朝の光の中で見ると、別の疑問が生まれた。

 

 この地図を送ってきた人物は、なぜ自分たちに見せる必要があるのだろう。写真を撮るなと言った。けれど、その一方で、こうして場所を示してくる。近づくなと言いながら、近づくための道を教えているようにも見える。

 

 その矛盾が、かえって不気味だった。朝食の時間になり、三人と合流した。

 

 涼子は昨夜ほとんど眠れなかったらしく、朝から何度もあくびをしている。浩一は地図を見ながら、スマートフォンの現在地と照らし合わせていた。沙羅だけは、地図を見ても何も言わなかった。

 

 祖母が浦上へ向かったことを知っている。

 

 そして、祖母が祭りの日に古い灯籠を持って出かけていたことも思い出している。けれど、そこから先については、まだ何もわからない。孝は、今度こそ沙羅の母親に相談するべきだと思った。

 

 四人だけで判断するには、少しずつ重くなりすぎている。沙羅が母親へ電話をかけた。しばらく話していたが、やがて電話を切る。

 

 祖母はまだ戻っていない。警察にも相談している。

 

 そして、母親は四人に、できれば昨日の写真をすべて見せてほしいと言った。

 

 ただし、その写真を誰かに送ったり、インターネットに載せたりしないこと。それだけを強く念押しされた。

 

 沙羅は、母親に「浦上九番」のことを尋ねなかった。

 

 四人は朝食を終えたあと、予定していた観光地へ向かうことにした。今日の予定は、出島だった。浦上へ行くことは、まだ決めていない。それは四人の中で自然に一致していた。誰かに誘導されるように動くのは避けたかった。

 

*

 

 出島へ向かう道を歩いていると、長崎の街が少しずつ目を覚ましていくのがわかる。

 

 商店のシャッターが開き、店先に商品が並べられている。観光客が増え始め、路面電車の音が建物の間を抜けてくる。昨日までなら、こうした景色を純粋に楽しめたはずだった。

 

 しかし、今の孝には、街の中に過去の痕跡を探してしまう癖がついていた。出島もそうだった。現在は復元された建物が並び、観光地として整備されている。

 

 けれど、この場所がかつて外国との限られた窓口だったことを考えると、そこを行き交った人々の姿が想像できる。外から来たものを受け入れながら、同時に警戒していた時代。

 

 異なる文化や宗教が入り込み、それによって人々の生活も変わっていった。

 

 長崎という街には、そうした「外から来たもの」が何度も積み重なっている。

 

 孝は展示を見ながら、昨日の写真を思い出した。古い家。古い箱。9と17。そして浦上。もしかすると、この数字は単なる番号なのかもしれない。住所。施設番号。あるいは、古い地図の区画。

 

 それなら、なぜ誰かがこれほど隠そうとするのか。展示を見終わったあと、四人は外のベンチで休んだ。

 

 浩一がスマートフォンを見ながら、古い地図について調べていた。現在の浦上周辺と、戦前の地図を重ねてみる。いくつかの地名が消えている。道路も変わっている。

 

 しかし、「九番」という文字が、古い資料の中に何度か登場していた。

 

 ただし、それが何を意味するものなのかはわからない。検索結果の一つに、古い新聞記事の画像が出てきた。記事はかなり古い。文字も読みづらい。

 

 その中に「浦上九番」という言葉がある。

 

 しかし、記事の一部しか表示されないため、何について書かれているのかまではわからなかった。

 

 浩一が画面を保存しようとしたところで、突然、ページが表示されなくなった。もう一度検索する。出てこない。先ほどまで表示されていた記事が、検索結果から消えている。浩一は、しばらく画面を見つめていた。

 

 古いサイトなら、そういうこともある。それでも、昨日から何度も同じような偶然が続いている。

 

 涼子は、何も言わずに浩一のスマートフォンを見ていた。

 

 孝は、そこで初めて、自分たちが知らないうちに何かを調べ始めていることに気づいた。誰かを追いかけているわけではない。事件を解決しようとしているわけでもない。

 

 ただ、自分たちの目の前に出てきたものの意味を知りたいだけだった。

 

 それでも、一度調べ始めれば、次の疑問が生まれる。疑問が生まれれば、また調べる。

 

 そうして気づかないうちに、四人は昨日までとは違う場所へ進み始めていた。

 

*

 

 昼食のあと、沙羅の母親から連絡が入った。祖母の家をもう一度調べたところ、写真が一枚見つかったという。アルバムからなくなっていたものとは別の写真だった。

 

 その写真には、祖母が若い頃に撮ったらしい長崎の街が写っている。母親は、その写真を沙羅へ送った。四人で画面を見る。古い写真だった。

 

 画質が悪く、細かい部分まではわからない。けれど、背景に一つの建物が写っている。白い壁。細い窓。その建物の前に、何人かの人が立っている。その中に、一人だけ顔を隠すようにして立っている人物がいる。

 

 孝は、その人物の姿に見覚えがあるような気がした。けれど、思い出せない。写真の撮影場所もわからない。

 

 沙羅の母親は、この写真について祖母に聞いたことがあるらしい。祖母は、そのとき初めて、こう答えたという。

 

 「長崎には、見つけてはいけない場所がある」

 

 沙羅は、母親にその言葉の意味を尋ねた。返事はすぐには来なかった。やがて届いたのは、意外な内容だった。母親自身も知らない。ただ、祖母が昔からそう言っていたことだけは覚えている。

 

 その直後、母親からもう一つ写真が送られてきた。今度は古い地図だった。

 

 その地図には、昨日届いたものと同じような赤い線が引かれている。けれど、今回は始点が違う。

 

 長崎港から始まり、出島を通り、寺町へ向かい、最後に浦上へ伸びている。一本の線が、長崎の街を横断している。そして、その途中にいくつか数字が書かれていた。9。17。さらに、もう一つ。

 

4。

 

 涼子が地図を拡大した。4の位置は、四人がまだ行っていない場所だった。しかも、その場所には小さな印がつけられている。浩一が現在の地図と重ね合わせる。すると、そこは現在の道路の下にあたっていることがわかった。

 

 道路の下。それだけなら、珍しいことではない。

 

 しかし、古い地図には、その場所から地下へ続く線が描かれていた。水路なのか、地下道なのか、それすらわからない。ただ、線は地図の端で途切れている。その先には、何も書かれていない。四人は、しばらく画面を見つめていた。

 

 やがて沙羅が、母親から届いた最後のメッセージを開いた。

 

 そこには、祖母が昨夜いなくなる直前に残した言葉が記されていた。

 

「九番を見つけたら、四番へ行ってはいけない」

 

 孝は、その文章を読んだ瞬間、昨夜届いた地図を思い出した。そこには九番が示されていた。そして今、四番が現れた。誰かが四人に見せようとしている。そう考えたくなる。

 

 けれど、もしそうなら、なぜ祖母は「四番へ行ってはいけない」と言ったのか。

 

 四人は、すぐに答えを出そうとはしなかった。長崎の街では、夕方の光が少しずつ山の斜面へ移っている。観光客はまだ多い。店からは食事の匂いが漂い、路面電車がいつものように走っている。

 

 その普通の風景の中で、四人だけが一つの古い地図を見ていた。そして孝は、ふと気づいた。

 

 地図に記された「4」の場所。

 

 そこは、今朝四人がホテルを出るとき、何気なく通った場所だった。

 

 つまり、四人は知らないうちに、すでにその近くまで来ていたことになる。

 

 その事実に気づいたとき、孝は初めて、この旅が自分たちの意思だけで進んでいるのではないのかもしれないと思った。それでも、四人はその場所へ向かわなかった。少なくとも、その日のうちは。しかし、その夜。

 

 ホテルへ戻った孝のカメラに、撮った覚えのない一枚の写真が増えていることに気づく。画像の日付は、今日の午後三時十七分。写真には、四人が歩いていた出島の近くの道路が写っている。

 

 その道路の向こうに、見知らぬ老人が立っていた。老人はカメラを見ている。そして、その手には古い鍵が握られていた。

 

 写真の隅には、小さく数字が写り込んでいる。

 

4―9―17

 

 孝は、その数字を見つめながら、昨日までなら偶然だと思っていたことが、もう偶然だけでは説明できなくなっていることを認めざるを得なかった。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第一章 平らな朝

 

 大阪の朝には、坂がなかった。

 

 淀んだ空気の残る地下道を抜け、地上へ出た瞬間に広がるのは、どこまでも平坦でどこまでも灰色の舗装路だった。

 

 駅へ向かう道も、会社までの歩道も、巨大なビルの隙間を縫うように伸びる通りも、幾何学的に整地され、どこまでもフラットだった。

 

 里奈は以前、その平らさを心から便利だと思っていた。

 

 ヒールの高い靴を履いて急いでいても、息が切れることはない。信号の変わり目を計算し、同じ歩調で歩けば、改札を潜る時間も会社のエレベーターに乗る時間も、毎日ほとんど変わらない。すべてが予測できた。

 

 それが、大人になるということなのだと思っていた。

 

 信号が青になれば歩き、赤になれば止まる。時計を見て、電車に乗り、席に座る。

 

 けれど、便利さの代わりに、里奈の暮らしから小さな手触りが一つずつ消えていた。

 

 昼休みに同僚と定食屋へ入っても、何を食べたのか思い出せないことが増えた。

 

 店員の「ありがとうございました」という声を背中で聞きながら、次の仕事の予定を考えている。

 

 帰り道、駅前の花屋に季節の花が並んでいても、足を止める理由がなかった。

 

 ある朝、同じエレベーターに乗った女性と目が合った。毎朝ほとんど同じ時間に乗り合わせる人だったが、里奈はその人の名前どころか、どこの階で降りるのかさえ知らなかった。

 

「お先に失礼します」 

 

 そう言って降りていく背中を見送りながら、里奈はふと、自分もこの街の中では誰かの背景に過ぎないのだと思った。

 

 ところが、大阪の会社に復職して半年ほどが過ぎたころから、その平らな道が妙に引っかかり始めた。

 

 靴底に返ってくる感触はどこまでも均一で、どれだけ歩いても、自分がどこへ向かっているのか分からない。曲がり角を越えても景色は似たまま、信号を渡っても次の信号が待っている。歩数だけが、足元から静かに消えていった。

 

 午前九時になればデスクに座り、パソコンの画面と向き合う。キーボードを叩くカチャカチャという音だけがフロアに響く。

 

 正午になれば周囲とタイミングを合わせてビル内の飲食店やコンビニへ向かい、決められた昼休みに食事を済ませる。

 

 夕方、定時を過ぎたころに片付けを始め、混雑する満員電車に身を揺らす。

 

 職場には嫌な人間がいるわけではない。雑談をすれば笑顔で答えられるし、冗談を言って一緒に笑うこともある。

 

 それでも、夜になって一人で部屋に戻ると、その一日の記憶があまりにも薄く、まるで透明な水のように自分の中をただ滑り落ちて通り抜けていってしまったかのように思えた。

 

 生きているという手応えが、どこにも残っていないのだった。

 

 ある日の夕方、オフィスの蛍光灯が少しずつ間引きされ始める時間帯、隣のデスクの同僚・美紀が帰り支度をしながら言った。

 

「里奈さん、最近ちょっと静かじゃない?」 

 

 デスクトップの電源を落とそうとしていた里奈は、指を止めた。

 

「そうかな。いつも通りだと思うけど」

 

「うーん、前から静かな人だけどさ。なんていうか、最近のは『別の静かさ』なんだよね。心ここにあらず、というか。何か悩んでる?」 

 

 里奈は浅く笑ってごまかそうとした。

 

「そんなの分かるの?」

 

「毎日隣で見てるんだから分かるよ。書類をめくる手も、なんだか遠くを見てるみたいだし」 

 

 美紀はトートバッグの持ち手を肩に掛け、少し心配そうに里奈の顔を覗き込んだ。

 

「無理して周りに合わせなくていいんだよ。疲れたら、どこか遠くへ行けばいいじゃない。有休だって残ってるでしょ」 

 

 その言葉は、会社を出ても消えなかった。

 

 美紀のその軽い、けれど温かい一言が、会社を出て電車に乗り、自分の部屋に帰り着いてからもずっと胸の奥に澱のように残り続けていた。

 

 着替えてから、里奈はベランダへ続く窓を少しだけ開けた。

 

 遠くの幹線道路を走り去るトラックの重い排気音と、ビル風が壁を叩く低い音が届いてくる。潮の匂いはしない。草の匂いもしない。ただ乾燥した都市の匂いだけがあった。

 

 里奈はベッドの端に腰掛け、スマートフォンを取り出すと、アルバムの奥深くに保存してあった写真フォルダを開いた。

 

 一枚目は、尾道の坂の途中で撮った写真だった。

 

 二枚目は、海の向こうに島影が見える夕暮れ。

 

 三枚目には、テルさんが小さく写り込んでいる。

 

 写真の中の自分は、今より少しだけ笑っていた。

 

 そこに広がるのは、鮮烈な記憶の断片だった。

 

 幾重にも折れ曲がり、先が見通せない尾道の急な坂道。

 

 長年の風雨に晒され、味わい深い黒に変色した木造の古い家々。

 

 人がすれ違うのがやっとのような、入り組んだ細い路地。

 

 そして、坂の合間から不意に視界を奪うように現れる、穏やかで青い尾道水道の海。

 

 しばらくの間、里奈は息を呑むようにして画面の中の景色を眺めていた。坂道を上るときの膝の重みや、息を弾ませたあとに吸い込んだ潮風の匂いまでが、ありありと蘇ってくるようだった。

 

 里奈はそっと画面を閉じ、スマートフォンの電源を切った。

 

「帰ろうかな」 

 

 部屋の静寂の中に、ポツリとこぼれ落ちた小さな声。

 

 しかし、その言葉を口にした瞬間、自分でも驚くほどすんなりと、胸の中の迷いが消えていくのが分かった。

 

 窓の外を見た。ビルとビルの間には、相変わらず空の細い切れ端しか見えなかった。それでも、その先に尾道の坂があるような気がした。

 

 以前、尾道で坂を上っていたとき、見知らぬおばあさんに「今日は暑いけん、無理せんようにね」と声をかけられたことがある。ほんの一言だった。里奈はその人の名前も知らない。それでも、あのときの声だけは、今も覚えている。

 

 大阪では、毎日たくさんの人とすれ違う。

 

 尾道では、たった一人の知らない人の声が、何年も残ることがある。

 

 里奈は、その違いを説明できなかった。

 

 もちろん、怖さはあった。

 

 戻ったところで、仕事がすぐ見つかるとは限らない。住む場所だって決め直さなければならない。大阪で積み上げたものを手放したあと、何が残るのかも分からない。

 

 それでも、何も分からないことより、分かりきった毎日をこれから何年も繰り返すほうが怖かった。

 

 遊びに行くためではない。坂を歩き、海の匂いを吸って、あの街で暮らすために戻る。

 

 ただ、決めたあとも、すぐには誰にも言えなかった。

 

「帰る」と口にするたび、それが逃げ道になってしまいそうだった。

 

 決意は速かった。翌週、里奈は上司に退職の意思を伝えた。

 

「本当に、戻るの?」 

 

 上司にそう聞かれたとき、里奈は少しだけ言葉に詰まった。

 

「分かりません。でも、ここに残る理由も、もう分からなくなってしまって」 

 

 それは退職理由としては曖昧だった。けれど、今の里奈には、それ以上うまく言葉にすることができなかった。突然の申し出に上司は驚き、引き留めもされたが、里奈の意志が硬いことを悟ると最後は静かに納得してくれた。

 

 引き継ぎの資料を作り、業務を後輩に引き渡していく日々は、どこか現実感がなかったが、心は軽やかだった。

 

 退職日の前日、美紀と二人で会社の近くの小さなカフェで昼食をとった。

 

「本当に寂しくなるよ、里奈さん」 

 

 美紀はハンバーグにフォークを刺しながら言った。

 

「ごめんね、急に決めちゃって。でも、美紀ちゃんがあの時『どこか行けば』って言ってくれたおかげなんだよ」

 

 「えっ、私のせい? 責任重大じゃん」 

 

 美紀は驚いた顔をしたあと、すぐにいたずらっぽく笑った。

 

「でも、今の里奈さん、すごくいい顔してる。大阪に復職したばかりの時より、ずっと人間らしい顔」

 

「そうかな」

 

「そうだよ。尾道って、そんなにいい場所なの?」

 

「うん。坂道ばかりで大変だけど……自分がちゃんと歩いてるって思える場所だよ」

 

「そっか。遊びに行くから、美味しいもの案内してね」

 

「もちろん」 

 

 二人で笑い合った。その笑顔は、大阪に来てから一番自然なものだった。

 

 休日のたびに、狭い部屋の中にある家具や家財を整理した。賃貸マンションの解約手続きを進め、必要なものと不要なものを仕分けし、ダンボール箱に詰めていく。

 

 一人暮らしを始めたときに揃えた長く使っている食器や、棚に並んでいた古い雑誌や書類も、躊躇うことなく手放した。大阪での暮らしに自分を繋ぎ止めていたものを、一つひとつ解いていくような作業だった。

 

 そして迎えた、最後の夜。

 

 すべての荷物が運び出され、何もなくなった六畳の部屋の中央に、里奈は直接座り込んだ。

 

 フローリングから伝わる冷たさが、心地よかった。

 

 以前の自分であれば、何もないガランとした空間に耐えかねて、深い寂しさに襲われていたはずだった。しかし、その夜の心境はまったく違っていた。

 

 何もなくなり、空っぽになったこの空間は、これから始まる新しい生活を受け入れるための、そのまま新しい場所のように思えた。

 

 里奈は立ち上がり、静かに窓を閉めた。キーを回す鍵の音が、部屋に小さく響いた。

 

 明日からは、あのアスファルトの坂道へ帰る準備をする。

 

 その言葉を胸の中で繰り返すと、不思議と足元が少しだけ軽くなった。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第四章 祭りの灯

 

 写真を送ってきた人物が、どこにいるのか。四人には、それを確かめる方法がなかった。

 

 スマートフォンの画面に残された写真には、つい数分前まで自分たちが立っていた石垣が写っている。撮影された場所は、それほど遠くないはずだった。道路の向こうか、寺の境内へ続く細い道のどこか。

 

 けれど、周囲を見渡しても、それらしい人影はない。観光客が何人か歩いている。自転車も通る。車の音も聞こえる。

 

 どこにでもある昼間の長崎の風景なのに、その中に一人だけ、こちらを見ていた人間がいたことになる。孝は、写真をもう一度拡大した。男の顔ははっきりしない。

 

 意図的に顔を写さなかったのか、それとも距離があったために判別できないのか、それすらわからない。ただ、男が手にしているものだけは、妙にはっきりしていた。小さな灯籠。

 

 昨日から続いている祭りの準備で使われるものらしい。それなら、祭りの関係者なのかもしれない。

 

 長崎の街では、この時期になると各地で祭りや行事が行われる。道路の一角に提灯が掛けられ、商店の前には祭りに使う道具が並び、普段は静かな場所にも人が集まる。そう考えれば、灯籠を持った男がいても不思議ではない。

 

 それでも、四人の写真を撮る理由だけが残った。

 

 沙羅は母親へ写真を転送しようとしたが、途中で指を止めた。

 

 昨日、母親から「9が写っていることは言わないで」と言われている。

 

 それが単なる心配から出た言葉ではないことは、もうわかっている。

 

 けれど、母親が何を知っているのか、沙羅にはまだ何も説明されていなかった。

 

 四人はその場で長く話し合うことを避け、いったんその場所を離れることにした。追いかけることもしない。写真を撮った人物を探すこともしない。今の段階では、それが一番安全だと判断した。

 

 寺町を抜けると、人通りが少しずつ増えてきた。

 

 祭りの準備をしている店もあり、道端には小さな灯籠が並べられている。子どもたちが走り回り、大人たちは店先で何かを確認している。孝は、昨日駅前で感じた長崎とは違う街の表情を見ていた。

 

 観光地として整えられた場所ではなく、そこで暮らしている人たちが、自分たちの行事を迎えるために動いている。その中を四人が歩いている。

 

 自分たちが知らない長崎の時間の中へ、少しずつ入り込んでいるような感覚があった。やがて、通りの角に古い商店が見えてきた。沙羅がそこで立ち止まった。店先に、昨日見た男性がいる。祭りの道具を並べていた人物だった。

 

 男性は四人に気づくと、少しだけ目を細めた。しかし、近づいてくることはなかった。

 

 沙羅も動かなかった。

 

 互いに相手の存在を確認しただけで、やがて男性のほうが店の奥へ戻っていった。孝は、その様子を見ながら、あることに気づいた。男性が四人を見たのは、沙羅ではない。

 

 正確には、沙羅を見たあと、孝のバッグへ視線を移していた。バッグの中には、昨日撮った写真が入ったカメラがある。

 

 そして、まだ誰にも話していないものがもう一つ入っている。

 

 祖母の家で撮った写真を見たあと、涼子が気になっていた古い木箱について、孝は今朝、写真の中の形を確認するためにカメラを持ち歩いていた。木箱そのものは持っていない。だから男性が何を見たのかはわからない。

 

 ただ、あの視線だけは気になった。

 

 四人はその店の前を通り過ぎた。少し離れたところまで来てから、涼子がようやく口を開いた。けれど、だからといって尋ねるつもりにはなれなかった。

 

 もし本当に何かを知っているなら、こちらから動くことで相手の警戒心を強めるかもしれない。

 

 それに、まだ「9」という数字が何を意味するのかすらわかっていない。

 

 四人は、そのまま観光を続けた。

 

 それは意地でも旅行を続けるということではなく、むしろ普通の時間を取り戻したかったからだった。昼食を済ませ、港へ向かう。

 

 海沿いの道には風が通り、山側とは違った開放感がある。大型船が停泊し、観光客が写真を撮っている。孝もカメラを取り出したが、今日はシャッターを切る回数が少なかった。ファインダーを覗くたび、そこに何かを探してしまう。

 

 昨日までは、ただ景色を撮っていた。今は、景色の中にあるものを疑っている。

 

 それが自分でも嫌だった。

 

 旅行を楽しむために長崎へ来たのだから、何もかも意味ありげに見てしまえば、街そのものを見ることができなくなる。そう考え、孝はカメラをしまった。そのとき、沙羅が海の向こうを見ながら、祖母の話を始めた。

 

 祖母は昔から祭りの日だけ、決まった場所へ出かけることがあったという。子どもの頃の沙羅は、それを単なる習慣だと思っていた。母親に聞いても詳しく教えてくれなかった。

 

 ただ、祭りの日になると祖母は必ず古い灯籠を一つ持って出かけた。

 

 どこへ行くのかを尋ねても、いつも「ちょっと用事がある」と答えるだけだった。

 

 沙羅自身、そのことをすっかり忘れていた。

 

 今回、祖母が行方不明になったことで、昔の記憶が少しずつ戻ってきたらしい。孝は、その話を聞きながら、さきほどの写真を思い出していた。写真の中の男が持っていた灯籠。祭りの日に祖母が持って出かけていたという古い灯籠。

 

 それだけなら、まだ偶然として片づけられる。

 

 しかし、祖母の家にあった写真。

 

 そこに写っていた「9」。

 

 そして、知らない人物から届いた警告。いくつかの出来事が、同じ方向を向き始めている。とはいえ、四人はまだその方向へ進もうとはしなかった。少なくとも、今日のところは。

 

*

 

 夕方になり、四人は再び祭りの準備が進む通りへ戻った。昼間よりも人が増えている。

 

 灯籠には明かりが入り、通りの両側に並んだ店から食べ物の匂いが漂ってくる。子どもたちの声が重なり、遠くでは祭囃子の音も聞こえていた。観光客と地元の人が混じり合っている。

 

 その中にいると、昨日から続いている不穏な出来事も、一時的には遠く感じられた。浩一が屋台の前で立ち止まり、何か買おうとしている。涼子もその横に並んだ。沙羅は少し離れた場所から、通りの様子を眺めていた。

 

 孝は、その姿を見ながら、ふと気づいた。沙羅が見ているのは祭りではない。人の流れの向こう側。

 

 古い路地の入口だった。その路地には、灯籠が一つだけ置かれている。他のものとは少し違う。小さく、古びていて、表面の塗装が剥がれている。沙羅はそこへ近づいた。孝たちも自然に後を追う。

 

 灯籠の側面に、何か文字が刻まれていた。沙羅は顔を近づけた。読めない。長い年月で削れている。

 

 孝もスマートフォンのライトを当てた。そこに浮かび上がったのは、数字だった。

 

9

 

 その下に、もう一つ数字がある。

 

17

 

 沙羅の顔から血の気が引いた。その数字を見たことがあるらしい。祖母の家の古い記録。写真。そして今、祭りの灯籠。すべてに同じ数字が残っている。しかし、沙羅はそれを説明しなかった。説明できなかったのかもしれない。

 

 そのとき、通りの向こうから誰かがこちらへ歩いてきた。昨日の男性だった。

 

 祭りの道具を扱っていた人物である。男性は四人の前まで来ることなく、数メートル手前で立ち止まった。そして、灯籠を見た。次に沙羅を見る。最後に孝のカメラへ視線を移した。

 

 孝は、その瞬間に初めて、男性が自分たちに何かを伝えようとしているのではないかと思った。けれど、男性は何も言わなかった。

 

 ただ、灯籠の横に置かれていた小さな紙を拾い上げると、孝たちから見えないように折りたたみ、そのまま路地の奥へ歩いていった。追うべきではない。四人の誰も、そう口にはしなかった。それでも、全員が同じことを考えていた。

 

 男性が消えた路地の奥には、古い家が数軒並んでいる。そのさらに奥は、坂になっている。

 

 坂の先に何があるのか、ここからは見えない。孝はカメラを持ったまま、しばらくその方向を眺めていた。やがて、祭りの明かりが一斉に灯った。路地の入口に置かれた灯籠も、淡い光を放ち始める。

 

 その光の中で、「9」と「17」の数字だけが、妙にはっきり見えていた。

 

 その夜、四人は何も調べなかった。ホテルへ戻り、それぞれの部屋で過ごした。

 

 しかし、深夜近くになって、孝のスマートフォンに一枚の画像が送られてきた。送り主は、またしても知らない番号だった。画像には、古い長崎の地図が写っている。その中央に、赤い線が一本引かれていた。線の始点は、祖母の家。

 

 終点は、今日見た灯籠のある路地。そして、その二つを結ぶ線の途中に、小さな丸印が一つ付けられている。丸印の横には、古い文字でこう書かれていた。

 

「浦上九番」

 

 孝は画面を見つめたまま、しばらく指を動かせなかった。翌朝、四人が予定している行き先は、浦上ではない。それでも、地図に示された場所が、次に何を意味するのか。そのことだけが、頭から離れなかった。

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『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

五 近江八幡

 

 五日後、返事が届いた。

 

 封筒を手にしただけで、翔子には分かった。

 

 差出人の名前は、前島涼太。

 

 翔子は、しばらく封を切らずにいた。

 

 やがて便箋を取り出した。

 

 短い手紙だった。

 

――安土で見かけたのは、やはり翔子だった。

 

 その一文を読んだとき、翔子は椅子に座った。

 

 涼太も、あの瞬間に自分に気づいていた。

 

 五日間という時間が、急に長く感じられた。

 

 それから数日後、翔子は手紙に書かれていた連絡先へ電話をした。

 

 何度か短い電話を重ねたあと、涼太から会おうと言われた。

 

「近江八幡に来ない?」

 

 翔子は少し驚いた。

 

「どうして近江八幡?」

 

「安土の近くだし、八幡堀を一緒に歩いてみたい」

 

 それで決まった。

 

 近江八幡駅で待ち合わせた。

 

 涼太はすぐに分かった。

 

 安土で一瞬見たときより、今ははっきり顔が見える。それでも、若い頃の面影を探すのに時間はかからなかった。

 

「久しぶり」

 

「本当に久しぶりね」

 

 二人とも笑った。

 

 八幡堀の水は静かだった。二人は船に乗り、しばらく水面を眺めた。

 

 船を降りてから、堀沿いを歩いた。

 

 昔の話をした。大学のこと。安土へ来たこと。別れた日のこと。

 

 それから、知らない四十五年について話した。

 

 翔子は健二と結婚し、彩花を育て、二年前に急性心不全で亡くしたことを話した。涼太は結婚し、十年前に離婚したこと、息子とは今も仲がよく、ときどき一緒に旅行することを話した。

 

 どちらも、若い頃には知らなかった人生だった。

 

 話しているうちに、翔子は不思議な気持ちになった。

 

 安土で見かけた男性は、四十五年前の涼太ではなかった。四十五年近くの時間を生きてきた、六十八歳の涼太だった。

 

 自分も同じだった。

 

 だから、再会したというより、初めて今の相手を知り始めているのかもしれない。

 

 八幡堀の水面に、午後の光が揺れていた。

 

 翔子はその光を見ながら、もう一度だけ涼太の横顔を見た。

 

 今度は、見間違えることはなかった。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 11

 

第二十二章 新規事業部

 

 会社の経営会議で、正式決定が出た。

 

 新規事業部の設立。

 

 名称はまだ仮だった。

 

 目的は、地方商店街の再生支援。

 

 100円ショップ企業との共同事業。

 

 空き店舗の活用。

 

 販売実験。

 

 地域店舗との連携。

 

 そして、全国展開。

 

 六人はそのまま新しい部署へ移ることになった。

 

 加藤が責任者。

 

 井上はデータ分析。

 

 田島は地域連携。

 

 志保はマーケティング。

 

 涼と冴は事業開発。

 

 辞令を受け取った日。

 

 涼は自分の席に戻り、机の上に置かれた辞令を眺めた。

 

 一年前とは違う。

 

 同じ会社なのに、仕事の意味が変わっている。

 

「涼」

 

 冴が呼んだ。

 

「何?」

 

「次の町、決まった」

 

「もう?」

 

「来週、現地調査」

 

 冴は資料を渡した。

 

 そこには、新しい商店街の写真が載っていた。

 

 空き店舗。

 

 古いアーケード。

 

 駅から続く道。

 

 人口。

 

 高齢化率。

 

 人流。

 

 すべての数字が並んでいる。

 

 涼は写真を見た。

 

「また最初からだね」

 

「うん」

 

「100円ショップを入れる?」

 

 冴は笑った。

 

「まだ決めない」

 

「そうだな」

 

 二人は資料を閉じた。

 

「現地を見てから」

 

「うん」

 

 冴は席へ戻っていった。

 

 涼はその背中を見ながら、少しだけ笑った。

 

 一年前。

 

 同じ会議室で、二人は久しぶりに顔を合わせた。

 

 そのときは、過去のことばかり考えていた。

 

 今は違う。

 

 これからのことを考えている。

 

 それが、少し嬉しかった。

 

第二十三章 最後の日

 

 それから五か月が過ぎた。

 

 六月の終わり。

 

 プロジェクトが始まってから、ちょうど一年が経った。

 

 最初の商店街を訪れる最後の日が来た。

 

 新しい部署の仕事が始まる前に、六人で挨拶に行くことになった。

 

 朝から商店街は忙しかった。

 

 文房具店には学生。

 

 キッチン用品店には主婦。

 

 よりみち台所には近所の人。

 

 八百屋には高齢者。

 

 洋品店には若い女性。

 

 誰かが特別に呼び込んでいるわけではない。

 

 それぞれが自分の目的で歩いている。

 

 涼は商店街の入口に立った。

 

 最初に来たときと同じ場所。

 

 しかし、もうシャッター通りには見えなかった。

 

 空き店舗はまだ少し残っている。

 

 全部が埋まったわけではない。

 

 商店街の問題がすべて解決したわけでもない。

 

 売上が増えたとはいえ、これから先も競争は続く。

 

 人口が減る問題も消えない。

 

 大型商業施設もなくならない。

 

 ネット通販もなくならない。

 

 100円ショップが万能なわけでもない。

 

 それでも、この町には新しい選択肢が生まれた。

 

 それでいい。

 

 涼はそう思った。

 

 隣に冴が来た。

 

「何考えてるの?」

 

「最初の日のこと」

 

「私も」

 

 二人は商店街を歩き始めた。

 

 文房具店。

 

 キッチン用品店。

 

 掃除用品店。

 

 収納用品店。

 

 日用品店。

 

 季節商品店。

 

 そして、よりみち台所。

 

 六店舗だった実験と、その後に加わった店は、もう商店街の風景の一部になっている。

 

 案内所の電器店では、今日も店主が誰かに道を教えていた。

 

「文房具なら、あっち」

 

 そんな声が聞こえる。

 

 涼は笑った。

 

「もう、俺たちがいなくても大丈夫だな」

 

「うん」

 

 冴も笑った。

 

「それが一番いいんじゃない?」

 

 商店街の中央まで来たとき、冴が立ち止まった。

 

「ねえ」

 

「何?」

 

「今度は、私たちが作るんじゃなくて」

 

「うん」

 

「その町の人たちが考えたものを、私たちが手伝う仕事にしたい」

 

 涼は頷いた。

 

「そのほうがいい」

 

 二人はまた歩き始めた。

 

 少し先で、あの老人が歩いていた。

 

 手には買い物袋。

 

 文房具店で買ったものらしい。

 

 老人は途中で立ち止まり、案内板を見た。

 

 そして、キッチン用品の店へ向かって歩いていく。

 

 涼はその後ろ姿を見た。

 

 最初の日には、100円ショップを探していた人。

 

 今は商店街を歩いている。

 

 それだけだった。

 

 それだけなのに、涼には一年間の仕事がそこに全部入っているように思えた。

 

「涼」

 

 冴が呼んだ。

 

「行こう」

 

「うん」

 

 二人は商店街の出口へ向かった。

 

 振り返る。

 

 いくつもの店。

 

 いくつもの看板。

 

 人の声。

 

 笑い声。

 

 シャッターの上がる音。

 

 店主と客のやり取り。

 

 それらが一つの町の音になっていた。

 

 最初に涼が考えたのは、100円ショップの棚を商店街に置くことだった。

 

 今、その棚はもう重要ではない。

 

 棚が人を呼んだのではない。

 

 棚をきっかけに、人と店がつながった。

 

 店と店がつながった。

 

 商店街と人がつながった。

 

 そして、町の中に「次は何をしよう」という気持ちが生まれた。

 

 それが、再生なのかもしれない。

 

 駅へ向かう途中、冴が言った。

 

「来週、新しい町だね」

 

「うん」

 

「今度は、どんな町かな」

 

 涼は少し考えた。

 

「行ってみないと分からない」

 

「そうだね」

 

 冴が笑う。

 

「じゃあ、また最初から」

 

「最初から」

 

 二人は駅へ向かって歩いた。

 

 その背中を、午後の光が追いかけていた。

 

 商店街には、今日も人が歩いている。

 

 誰かが買い物をしている。

 

 誰かが店を開けている。

 

 誰かが新しいことを考えている。

 

 そして、まだシャッターの下りた店もある。

 

 物語は終わっていない。

 

 町も、仕事も、人も。

 

 明日になれば、また新しい一日が始まる。

 

 その一日を、どうするのか。

 

 それを決めるのは、そこにいる人たちだった。

 

 涼は駅の階段を上った。

 

 隣には冴がいる。

 

 そのことを、今度はもう、特別なことだとは思わなかった。

 

 ただ、自然だった。

 

 そして二人は、新しい町へ向かう電車に乗った。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第二章 金沢へ

 

 葵と別れて三週間が過ぎた。友哉は講義とアルバイトを続けていたが、生活の形だけが元のままで、中身がどこか抜けているようだった。製図室では課題に向かい、書店では客に本を渡す。帰れば一人分の食事を作る。その繰り返しだった。

 

 矢部は、葵の話をしなかった。食堂で向かいに座っても、仕事のことや大学のくだらない話しかしない。友哉が味噌汁を冷ましていると、何も言わず自分のコーヒーを飲んでいる。

 

 ある日の帰り、二人で鴨川沿いを歩いた。十二月半ばの川辺には、制服姿の高校生が座り、向こう岸をランニングする人の息が白く見えた。

 

 矢部はしばらく黙って歩いたあと、紙コップの縁を指でなぞった。

 

「なぁ、金沢に雪見に行かへんか?」

 

 友哉は矢部を見た。

 

「雪なら京都にも降るやろ」

 

「兼六園の雪吊り。一回、実物見といたほうがええやろ。建築の学生として」

 

「……ほんまに、それだけ?」

 

「細かいこと言うな。近江町市場もある」

 

「魚や蟹が目当てやろ」

 

 矢部は一瞬だけ黙った。

 

「それもある」

 

 友哉は吹き出した。久しぶりに、葵のこととは関係のないことで笑った気がした。

 

 矢部は、友哉が笑ったのを確かめるように横目で見たが、何も言わなかった。しばらく歩いてから、何でもないことのように、宿はもう押さえてあると言った。

 

 友哉は鴨川を見た。京都で毎日見ている川だった。金沢へ行く理由が本当に雪吊りなのか、魚や蟹なのか、それとも別の何かなのかは、もう聞かなかった。

 

 矢部は父親が小さな建築会社を経営していた。大学では経営を学んでいるが、設計課題の提出前になると友哉の製図室へ来て、模型の壁を押さえたり、切り屑を掃いたりした。建築のことは友哉より知らないはずなのに、現場の話になると急に詳しくなった。

 

「学生の旅行なんて、急なほうがおもろいやろ」

 

 矢部はそう言って笑った。友哉は、その笑いに誘われるように、久しぶりに予定のない日を思い浮かべた。

 

 京都で毎日見ている町家や寺の屋根を、友哉は課題の対象として測ったことがある。所有者へ話を聞くときは、教員が先に連絡をしてくれた。自分から町の人へ声をかけたことは、ほとんどなかった。

 

 金沢は、地図と写真でしか知らない。京都から遠い町ではないのに、そこで暮らす人の顔は一人も浮かばなかった。

 

 自分から行くと決めてから、友哉は少し驚いた。自分から決めることが、こんなに簡単なことだったとは思わなかった。

 

 一週間後、二人は京都駅のホームに立った。

 

 大きな荷物を持った家族、仕事へ向かう会社員、イヤホンをした学生。友哉は、その中に混ざって立った。

 

 葵と別れてから初めて、これからどこへ行くかを自分で決めた気がする。

 

 矢部は朝から元気だった。駅弁を二つ買い、一つを友哉へ渡した。友哉は断らずに受け取った。

 

 列車が動き出すと、京都の街が少しずつ遠ざかる。見慣れた屋根の間から、寺の木立が見えなくなる。

 

 友哉は、京都を離れれば葵のことを考えなくなると思っていた。実際には逆だった。景色が変わるたび、葵ならどう言うだろうと思う。

 

 それでも、以前のように、その答えを先回りして拾おうとは思わなかった。誰かの「こうしたい」を先に想像して、それに合わせておけば、間違いは少ない。けれど、そのやり方では、自分がどこにいるのか分からなくなる。葵ならどう言うかを考える前に、自分の胸の中へ一度だけ手を入れてみる。そこに何があるのか、自分でもまだよく分からない。

 

 自分なら、どう感じるのか。それを先に考えてみる。誰かの答えを借りずに考えるのは、友哉にとって案外むずかしいことだった。

 

 小さなことだったが、友哉には新しい感覚だった。

 

 金沢へ向かう新幹線の中で、矢部は何度かスマートフォンを見ていた。雪の予報は午後からになっていた。

 

 友哉は窓の外を見た。京都を離れると、見慣れた建物の高さが少しずつ変わっていく。駅の周辺に新しい建物が増え、住宅が続き、やがて窓から見えるものが土地の色へ変わった。

 

 葵と別れてから、友哉は遠くへ行く気にならなかった。講義とアルバイトと部屋。その三つの間を行き来していれば、余計なことを考えずに済む。

 

 それでも金沢へ行くと決めた。逃げるつもりはない、と自分に言い聞かせた。人間は逃げるときほど、立派な理由を用意する。友哉はそこまで立派になれなかった。何かを始めるほど元気でもない。ただ、同じ道を行ったり来たりすることには、少し疲れていた。

 

 車内販売のない列車で、矢部が買ってきたコーヒーを一つ渡してくる。友哉は礼を言って受け取った。二人はそれ以上、葵の話をしなかった。

 

 金沢駅に着いても、雪はなかった。矢部は駅前で空を見上げ、話が違うと言った。

 

「午後から降るらしいで」

 

「雪を見に来た俺より、なんでお前のほうが調べてんねん」

 

 駅を出ると、雲が京都より低く見えた。風には湿り気があり、頬へ細かなものが触れる。雨なのか雪なのか、まだ決めかねているような空だった。

 

 二人は荷物を預けず、歩いて宿へ向かった。

 

 大きな通りを外れると、古い家の隣に新しい店がある。町家の格子は京都でも見慣れていたが、屋根の傾きや軒の深さが少し違う。冬の雨や雪を受けるための形が、通りの幅にも表れていた。

 

 友哉は歩く速度を落とした。矢部が少し先から振り返る。

 

「お前の、建物見たら遅なるやつ」

 

 やがて川が見える。

 

 鴨川より狭い。そのぶん、向こう岸の家々が近く、橋も町のなかに収まって見える。水が町を横切っているというより、町のほうが川へ寄ってきたようだった。

 

 友哉は川の名前を確かめようとして、矢部を見た。矢部はスマートフォンで何かを調べていた。

 

 二人が橋を渡り終えたころ、細かな雪が落ちてきた。

 

 旅館「水棲」は、細い道の先にあった。

 

 水棲の部屋へ荷物を置いたあと、友哉は窓を少し開けた。冷たい空気が入り、障子がわずかに揺れる。

 

 向こうの家の屋根に雪が積もっている。まだ薄い。けれど、京都で見る雪とは違い、町の屋根が雪を受けるために作られていることが分かった。

 

 友哉は窓を閉め、部屋の中を見回す。畳の一部は新しく、襖の縁には古い傷が残っている。すべてを新しくしてしまえば、もっと簡単に手入れできるはずなのに、そうしていない。

 

 人が暮らす場所には、図面の数字だけでは決められないものがある。襖の傷は、直せばきれいになる。けれど、その傷をつけた子どもがもう大人になっていると聞けば、残しておきたいと言う人もいるだろう。建築の本には、そういう相談は載っていない。

 

 そのことを考えながら、友哉は自分の鞄を押し入れの隅へ置いた。押し入れの奥から、前の客が落としたらしい子どもの靴下が片方だけ出てきた。茜が見つければ、たぶん帳場へ持っていくだろう。友哉は拾い上げ、畳んで机の端へ置いた。自分が何をしに来たのか、そのとき少し分からなくなった。

 

 木造二階建て。玄関の庇はあとから直したものらしく、古い柱との接合部に新しい金物が見える。二階の格子は一部だけ材の色が違った。古さを揃えて見せるのではなく、傷んだところから手を入れてきた建物だった。

 

 友哉が軒を見上げていると、矢部が引き戸を開けた。

 

「泊まる前から点検すな」

 

 玄関には、床板を磨いた匂いが残っていた。

 

 帳場から五十代の女性が姿を見せる。

 

「京都からご予約の吉沢様と矢部様ですね。お待ちしておりました」

 

 嶋倉静枝と名乗った。女将だった。

 

 二人が宿帳を書いていると、階段から若い女性が降りてきた。紺色のセーターに黒いパンツ、髪を後ろで一つに束ねていた。

 

「茜、お部屋へご案内して」

 

 女性は嶋倉茜と名乗った。地元の大学に通う三回生だった。

 

 茜は先に立って階段を上がった。一段ごとに、木が小さく鳴る。

 

「この階段、最初からですか」

 

 友哉が尋ねると、茜は振り返った。

 

「最初がいつか、分からないんです」

 

 茜は手すりへ目をやった。

 

「建物は何度も直してますから。いつからって言うの、難しいんです」

 

 友哉は手すりに触れた。人の手が当たるところだけ、木の色が深くなっていた。

 

 創業何年と答えなかったことが気になった。古いことより、直しながら使ってきたことを先に話す人に、初めて会った。

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『二つの流れのあいだ』

 

第一章 分からない

 

 昼休み、吉沢友哉は製図室を出て、学食の端の席に座った。

 

 矢部辰雄は向かいに座ったが、桂木葵のことは聞かなかった。

 

 窓の外では、学生が何人も中庭を横切っている。設計課題の模型を抱えて走る者もいれば、スマートフォンを見ながらゆっくり歩く者もいる。

 

 友哉は箸を持ったまま、味噌汁の湯気を見ている。

 

 矢部が何か言いかけ、やめた。

 

 その沈黙が、今はありがたかった。矢部は聞かない。聞かないくせに、何かを知っている顔だけはしている。友哉は味噌汁の湯気を見た。湯気は上へ行けば消える。人の話は、口から出ると、なかなか消えてくれない。

 

 葵と最後に一緒に食事をした日のことを思い出す。葵は店を決め、友哉はそこへついていった。帰り道、葵が来月どこかへ行かないかと聞いた。友哉は、葵が行きたいところならどこでもいいと答えた。

 

 そのとき、葵の顔が一瞬だけ曇ったことを思い出す。

 

 友哉は、あれが何を意味していたのか、今になっても分からない。

 

 分からないことは、忘れてしまえばいいと思っていた。ところが、忘れたつもりのものほど、味噌汁の湯気みたいな顔をして、急に目の前へ出てくる。

 

 十二月の京都は、午後三時を過ぎると早くも夕方の気配を帯びた。

 

 設計演習を終えた学生たちが、模型の箱やノートパソコンを抱えて校舎から出てくる。中庭には銀杏の葉が残り、何人もの靴に踏まれて、黄色から茶色へ変わっていた。製図室の窓にはまだ明かりがあり、提出を控えた学生が机に向かっている。

 

 友哉と矢部は、正門へ続く通路を歩いている。

 

 矢部は、講評で教員から模型の階段が急すぎると言われた学生の話をしている。本人は、人が転げ落ちる勢いまで計算したと言い張ったらしい。

 

 友哉は一度だけ笑った。

 

 桂木葵と何かあったらしい。矢部が知っているのは、それだけだった。いつもの喧嘩なら、友哉はもう少し腹を立てるか、自分から笑い話にした。今回は、何を聞いても「分からへん」としか言わなかった。

 

 正門の近くでは、講義を終えた学生が何人か立ち話をしていた。市バスが来る時刻を確かめている者もいた。サークルの立て看板を外す音が、冷え始めた校内に響いていた。

 

その中から由美が姿を見せる。

 

「吉沢君、ちょっとええ?」

 

 葵と同じ学部で、よく一緒にいる友人だった。

 

「葵、最近ちょっと変やねん。本人に聞いても何も言わへんし。吉沢君、時々一緒にいたやろ。何かあったん?」

 

 矢部は黙って友哉を見た。

 

 何かあったのかと聞かれても、友哉には一つの出来事を挙げられなかった。

 

 葵が話の途中で黙ることは、何度かあった。「もうええ」と言われたこともある。友哉は、話が終わったのだと思っている。何かを決めるときに返事を急かされても、葵の好きにしたらいいと答えた。しばらく機嫌が悪くても、放っておけば元に戻った。

 

 二人が付き合い始めたのは、その年の春だった。一般教養の講義で隣になり、帰りに鴨川まで歩いた。建物の話になると急に言葉が増える友哉を、葵は面白いと言った。友哉は、何を話しても最後まで聞く葵といると楽だった。

 

 初めて映画へ行ったとき、作品も映画館も葵が決めた。友哉が何でもいいと言うので、葵は笑いながら選んだ。その笑いがなくなったのがいつだったのか、友哉は覚えていなかった。

 

 それが一つにつながっているとは、友哉は考えなかった。小さいことは小さいまま消えていくものだと思っていた。小さいものほど、たまると場所を取ることを知らなかった。

 

 別れる前の数週間を思い返しても、友哉には大きな出来事が浮かばない。二人で昼を食べ、講義のあとに歩き、夜になればそれぞれの部屋へ帰る。写真を撮ったり、映画を見たり、休日に少し遠くまで出かけたりもした。外から見れば、どこにでもある恋人同士だった。

 

 ただ、葵が何かを話そうとすると、友哉は最後まで聞く前に、自分なりの結論を出していたのかもしれない。疲れているなら帰ればいい。迷っているなら急がなくていい。嫌ならやめればいい。どれも間違ってはいない。だからこそ、自分が何を望んでいるのかを言わないことまで、正しいことのように思っていた。

 

 友哉は、それを優しさだと思っていた。自分が一歩引けば、葵は楽になる。そういうつもりだった。実際、葵は文句を言わなかった。だから余計に安心していた。人間は、相手が黙っていると、自分に都合のいいほうへ意味を決めてしまう。友哉も例外ではなかった。葵が黙れば待つ。葵が決めれば、それでいいと言う。二人の間に波風が立たないことを、仲がいいことと勘違いしていた。

 

 けれど、何も決めないまま続く時間にも、少しずつ重さがたまっていく。葵が笑わなくなったのは、その重さを先に見つけたのが葵だったからかもしれない。友哉はまだ、それに名前をつけられない。

 

「葵、何か言うてた?」

 

「ううん。何も言わへんから、気になってるんやけど」

 

 由美も、何が起きているのかは知らないようだった。

 

 正門の外に市バスが停まり、学生たちが走っていく。いつもと変わらない大学の午後だった。そのなかで葵だけが、自分にも由美にも話さない何かを抱えていた。

 

 友哉は初めて、二人の間にあるものが、いつものようには戻らないのかもしれないと感じた。

 

 由美と別れたあと、矢部は食堂へ寄ろうと言った。友哉は首を振った。

 

 矢部の言い方に棘はなかった。そのことが、友哉にはかえって堪えた。

 

 大学を出て、鴨川まで歩いた。河原では学生が自転車を止めて話し、犬を連れた人がゆっくり歩いている。橋の下で楽器を吹いている音が、風に切れながら届いた。

 

 友哉は葵へ電話をかけた。

 

 呼び出し音が六回鳴って切れた。もう一度かける気にはならなかった。

 

 電話には出なかった葵から、翌日の夕方になって短いメッセージが届いた。

 

『鴨川で話したい』

 

 場所は、二人が講義のあとによく歩いた橋の近くだった。

 

葵は先に来ている。手袋をしたまま欄干に両手を置き、川を見ている。友哉が横へ並んでも、しばらく顔を向けなかった。

 

「由美に、何か聞いた?」

 

「何も。心配してたで」

 

 葵は手袋の指を一本ずつ握った。

 

「この前のこと、まだ怒ってるん?」

 

 友哉には、それ以外の聞き方が思いつかない。

 

 葵は顔を上げた。怒っているようには見えない。友哉が知っている、何かを言い返す前の顔とも違っていた。

 

「もう、我慢できひん」

 

 葵は言ったあと、すぐに川へ目を戻した。言い切ったことを自分で聞き直すのが怖いように見えた。

 

 その言葉が何を指すのか、友哉にはすぐ分からない。

 

「友哉は優しいけど、いつも私に決めさせるやろ。どこへ行くかも、何を食べるかも。これからどうしたいかも」

 

「葵の好きなほうでええと思ってただけや」

 

「それがしんどいねん」

 

 その声には怒りより疲れがあった。怒っている人なら、もっと大きな声を出せる。葵は、もう大きな声を出す力を使いたくないのかもしれなかった。

 

 映画は葵が選んだ。食事をする店も、先に名前を挙げるのは葵だった。友哉は、それでよければ賛成した。違うと思ったことはない。

 

 葵が迷っているときには、どちらでもいいと言った。急がなくていいとも言った。決めつけないことが、葵を大切にすることだと思っていた。

 

「嫌やったら、言うてくれたらよかったやん」

 

 言った瞬間、友哉は自分の言葉が妙に便利なのに気づいた。葵が言わなかったことにすれば、自分は聞かなかったことを考えなくて済む。便利な言葉は、たいてい誰か一人にだけ便利である。

 

 言ってしまってから、友哉は口をつぐんだ。自分の言葉が、川面へ落ちた小石のように遅れて効いてくる。これでは、言わなかった葵のほうが悪いことになる。

 

 葵はしばらく友哉を見ていた。

 

 その言葉のほうが、友哉にはこたえた。いつ言われたのか思い出せない。聞いていなかったつもりもない。聞いたのに、聞いたことにしなかったのかもしれない。帰ってから、机の引き出しを開けた。葵が置いていったヘアゴムが一本、消しゴムと一緒に入っていた。いつからそこにあるのかも思い出せない。捨てるほどのものではない。だからといって、見つけるたびに胸が痛む。友哉は引き出しを閉めた。

 

 夏休みの旅行を決めるとき、葵は一度、「友哉が行きたいところへ行きたい」と言った。友哉は気を遣わせているのだと思い、葵の行きたいところでいいと答えた。秋になって、来年も一緒にいると思うかと聞かれたときには、先のことは分からないと言った。

 

 葵が聞きたかったのは、予定ではなかったのかもしれない。そう思ったのは、ずっとあとだった。あのときの自分なら、旅行先を三つくらい挙げて、それで話が済んだと思っていた。

 

「友哉は、決めへんことで間違わんようにしてるだけやと思う」

 葵は泣きながら、それでも友哉を責めるような顔をしなかった。責める相手がもう目の前にいないような、遠い目だった。

 

 葵の目から涙が落ちた。すぐに手袋で拭ったが、もう一度落ちた。

 

 友哉は手を伸ばしかけた。触れていいのか分からず、下ろした。

 

「もう会わへん」

 

 その短い言葉のあとに、川の音が妙に大きく聞こえた。友哉は、何か言えばこの言葉を引き戻せるような気がした。けれど、引き戻してはいけないとも思った。

 

 葵は、それを友哉に相談しなかった。相談してしまえば、また友哉が「どっちでもええ」と言う気がした。

 

 帰る方向は途中まで同じだったが、葵は一人で河原を上がった。友哉はついていかなかった。

 

 何が葵にそこまで言わせたのか、考えようとした。しかし、思い出せるのは葵の言葉ばかりだった。その言葉の前に、自分が何をしてきたのかは、うまくつながらなかった。

 

 川の向こうに明かりが増えていく。

 

 京都に住んで三年近くになる。鴨川はいつでもそこにあった。友哉は、その日初めて、広い河原に自分一人が残されたように感じた。

 

 鴨川からの帰り、友哉は一人でコンビニへ入った。葵が好きだった菓子が新商品になっている。手を伸ばしかけて、やめた。

 

 買って帰る理由はない。

 

 それだけのことなのに、商品を棚へ戻すまでに少し時間がかかった。

 

 部屋へ戻ると、机の上には設計課題の模型がある。明日の講評までに直さなければならない。友哉はカッターを持ったが、模型のどこを直すべきなのか分からなくなった。

 

 建物なら、図面を見れば寸法が分かる。間違えば消して引き直せる。人の気持ちは、線を引いて確かめることができない。消しゴムをかけた跡だけが残るようなこともある。

 

 その夜、友哉は課題をほとんど進めないまま眠った。机の上には、切りかけの模型が残っている。朝になれば続きをやる。それだけのことなのに、朝が来るのが少し嫌だった。

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『 棚のない商店街 』 ストーリー 10

 

第十九章 次の町

 

 翌朝、六人は会社の会議室に集まった。

 

 いつもの会議室だった。

 

 壁際のホワイトボード。

 

 大きなモニター。

 

 窓の外に並ぶビル。

 

 けれど、六人の気持ちはいつもと違っていた。

 

 加藤が資料を開いた。

 

「昨日、黒田さんから正式な提案が来た」

 

 画面に一枚の資料が映る。

 

 そこには、今回の実証実験の結果がまとめられていた。

 

 商店街全体の売上。

 

 来店者数。

 

 店舗間の回遊率。

 

 100円ショップ各社の商品別売上。

 

 既存店舗への波及効果。

 

 新規出店。

 

 そして、空き店舗率。

 

 最初は三八パーセントだった数字が、大きく下がっている。

 

「実証実験としては成功です」

 

 加藤が言った。

 

 田島が小さく息を吐いた。

 

 志保は画面を見ながら笑っている。

 

 井上は、すでに次の資料を開いていた。

 

「ここからが問題です」

 

 加藤が言った。

 

 画面が切り替わる。

 

 全国展開。

 

 候補地域、十三都市。

 

 最初の一年で三都市。

 

 次年度に十都市。

 

 その先は全国へ。

 

「本気なんだ」

 

 田島が言った。

 

「本気らしい」

 

 加藤は頷いた。

 

「ただし、会社としても大きな投資になる。だから、今回の六人を中心に新規事業部を正式に立ち上げたいという話です」

 

 誰もすぐには答えなかった。

 

 半年以上前。

 

 同じ会議室で、六人は「地方の商店街を有効に再生すること」という一行を渡された。

 

 あのときは、何をすればいいのか誰も分からなかった。

 

 今は違う。

 

 やるべきことが多すぎるくらい分かっている。

 

「新規事業部ってことは……」

 

 志保が聞いた。

 

「俺たち、このまま続けるんですか?」

 

「その可能性が高い」

 

 加藤はそう言った。

 

 田島が笑った。

 

「じゃあ、一年で終わらないんだ」

 

「まだ正式決定じゃない」

 

「でも、ほぼ決まりでしょう?」

 

「会社の経営会議を通ればな」

 

 井上が資料を見ながら言った。

 

「候補地って、もう決まってるんですか?」

 

「三都市」

 

 加藤が答える。

 

「それぞれ商店街の状況が違う」

 

 画面に三つの地図が並んだ。

 

 一つは人口三万人ほどの地方都市。

 

 一つは観光客が多い町。

 

 もう一つは、駅前の商店街が大型ショッピングセンターに囲まれている町。

 

「同じ方法でいけるんですか?」

 

 涼が聞いた。

 

「それを考えるのが次の仕事だ」

 

 加藤は涼を見た。

 

「最初の町で成功したからといって、そのまま持っていけばいいとは思ってない」

 

 涼は頷いた。

 

 その言葉に、妙な安心感があった。

 

 会社は成功した企画を、そのままコピーしようとしているわけではない。

 

 少なくとも今のところは。

 

「最初の商店街と同じことをするんじゃなくて、最初の商店街で何を学んだかを持っていく」

 

 冴が言った。

 

 加藤が頷く。

 

「そういうこと」

 

 涼はその言葉を聞きながら、商店街の地図を思い出していた。

 

 あの町では、空き店舗があった。

 

 人もいた。

 

 しかし、店へ入る理由がなくなっていた。

 

 だから100円ショップの商品をジャンルごとに分けた。

 

 それが始まりだった。

 

 だが、次の町も同じとは限らない。

 

 もし空き店舗が少なければ。

 

 もし高齢者がもっと多ければ。

 

 もし商店街の中に100円ショップがすでにあれば。

 

 もし既存の店主たちが強く反対したら。

 

 最初の成功は、次の町では弱点になるかもしれない。

 

「だから」

 

 加藤が言った。

 

「次は、最初から正解を持っていかない」

 

 六人が加藤を見る。

 

「現地へ行って、またゼロから考える」

 

 涼は少し笑った。

 

 それが、このチームらしかった。

 

第二十章 戻ってきた商店街

 

 最初の商店街では、一月の売上が確定した。

 

 前年同月比一五・八パーセント。

 

 目標達成だった。

 

 井上が数字を読み上げたとき、田島が両手を上げた。

 

「やった!」

 

 志保が笑う。

 

「本当に届いた」

 

 加藤は静かに頷いた。

 

「これで、第一段階は終了だ」

 

 涼は数字を見ていた。

 

 一五・八。

 

 わずか〇・八。

 

 けれど、その数字の中には、半年以上の時間が入っている。

 

 最初の電話。

 

 企業との交渉。

 

 空き店舗の掃除。

 

 商品を運んだ日。

 

 売れない店。

 

 案内板。

 

 夕方の買い物。

 

 商店街の店主たちとの衝突。

 

 そして、少しずつ変わっていった人たち。

 

 数字だけでは分からないものが、そこにはたくさんあった。

 

 午後、六人は商店街へ向かった。

 

 会社から正式な発表がある前に、一度、自分たちの目で見ておきたかった。

 

 駅を出る。

 

 最初に来た日と同じ駅。

 

 同じ道路。

 

 同じ商店街。

 

 しかし、見えるものが違っていた。

 

 入口の看板。

 

 案内所。

 

 100円ショップの店舗。

 

 新しく開いた食材店。

 

 昔からの八百屋。

 

 洋品店。

 

 食堂。

 

 人がいる。

 

 歩いている。

 

 立ち止まっている。

 

 店に入っている。

 

「最初の日、ここに来たとき覚えてる?」

 

 志保が言った。

 

「覚えてる」

 

 田島が答えた。

 

「人がいないと思った」

 

「俺も」

 

 井上が言う。

 

「でも、人はいたんだよな」

 

 涼は商店街を見た。

 

 最初から、人はいなかったわけではない。

 

 人はいた。

 

 ただ、商店街にいる理由がなくなっていただけだった。

 

 文房具店に入ると、最初の日に会った店主がいた。

 

「あら」

 

 店主が笑った。

 

「また来たの」

 

「最後の報告に来ました」

 

 涼が言う。

 

「最後?」

 

「プロジェクトとしては一区切りです」

 

「そう」

 

 店主は少し寂しそうな顔をした。

 

「じゃあ、もう来ないの?」

 

「いや」

 

 涼は笑った。

 

「また来ます」

 

「仕事が終わっても?」

 

「仕事が終わっても」

 

 店主は笑った。

 

「それならいい」

 

 そのとき、入口から声がした。

 

「すみません」

 

 涼が振り返る。

 

 高齢の男性だった。

 

 見覚えがある。

 

 最初の日、商店街で100円ショップの場所を尋ねた男性。

 

 あの日と同じように、小さなメモを持っている。

 

 涼は思わず笑った。

 

「何をお探しですか?」

 

 男性はメモを見せた。

 

「ボールペン」

 

「こちらです」

 

 店主が案内する。

 

 男性は棚の前に立った。

 

 以前より商品が増えている。

 

 しかし、棚には大きな表示がある。

 

 黒。

 

 青。

 

 赤。

 

 太字。

 

 細字。

 

 男性は一本を手に取った。

 

「これ」

 

 試し書きをする。

 

「前に買ったのと同じかな」

 

 店主が笑った。

 

「覚えてますよ」

 

「そうだった?」

 

「最初のお客さんでしたから」

 

 男性は少し照れたように笑った。

 

「そうだったね」

 

 ボールペンを一本買った。

 

 それから、メモ帳を手に取る。

 

「これも」

 

 店主が袋に入れる。

 

 男性は店を出る。

 

 そのまま帰るのかと思った。

 

 しかし、案内板の前で立ち止まった。

 

「台所用品は?」

 

 店主が答える。

 

「商店街の真ん中です」

 

「じゃあ、見ていこうかな」

 

 男性は歩き出した。

 

 涼はその背中を見ていた。

 

 最初の日と同じ人。

 

 同じボールペン。

 

 けれど、違う。

 

 あの日は100円ショップを探していた。

 

 今日は商店街を歩いている。

 

 涼はそれだけで十分だと思った。

 

第二十一章 新しい店

 

 商店街の奥では、あの女性の店が開店していた。

 

 店名は、

 

「よりみち台所」

 

になった。

 

 小さな店だった。

 

 野菜。

 

 豆腐。

 

 調味料。

 

 一人分の料理に使いやすい量の商品。

 

 簡単なレシピも置いてある。

 

 店の入口には、今日のおすすめが書かれていた。

 

「いらっしゃい」

 

 女性が笑う。

 

「どうですか?」

 

 冴が聞く。

 

「忙しいですよ」

 

 女性は嬉しそうだった。

 

「思ってたより忙しい」

 

「よかった」

 

「でもね」

 

 女性は笑った。

 

「八百屋さんに怒られました」

 

「え?」

 

「うちができてから、八百屋さんの売上が落ちるんじゃないかって」

 

 涼が驚く。

 

「どうなりました?」

 

「逆でした」

 

 女性は笑った。

 

「私の店で少量を買った人が、今度は八百屋さんで買うようになった」

 

 冴が笑う。

 

「商店街の中で使い分けるようになったんですね」

 

「そう」

 

 女性は店の奥を見た。

 

「一つの店で全部買う必要がなくなったんです」

 

 その言葉に、涼は立ち止まった。

 

 一つの店で全部買う。

 

 それは、これまで便利さの象徴だった。

 

 大型店。

 

 ショッピングセンター。

 

 100円ショップ。

 

 何でも一か所にある。

 

 けれど、全部が一つの店にある必要はないのかもしれない。

 

 店を分けても、つながっていればいい。

 

 むしろ、分かれているからこそ、人は歩く。

 

 人と話す。

 

 店を知る。

 

 町を知る。

 

「どうしたの?」

 

 冴が聞いた。

 

「いや」

 

 涼は笑った。

 

「この企画、最初に思ってたよりずっと大きいなと思って」

 

「そうだね」

 

 冴も笑った。

 

 午後、六人は商店街の会長のところへ行った。

 

「一年間、お世話になりました」

 

 加藤が頭を下げる。

 

 会長は笑った。

 

「一年なんて、あっという間だったな」

 

「本当に」

 

「最初は、どうせ一年で終わると思ってた」

 

 田島が笑う。

 

「言ってましたね」

 

「今もそう思ってるよ」

 

 会長が笑った。

 

「会社の仕事だからな」

 

 そして、少しだけ表情を変えた。

 

「でも」

 

 商店街を見る。

 

「ここはもう、前の商店街には戻らないと思う」

 

 涼が顔を上げた。

 

「それは、いい意味で?」

 

「もちろん」

 

 会長は笑った。

 

「前より忙しい」

 

「大変じゃないですか?」

 

「大変だよ」

 

 即答だった。

 

「でも、店が忙しいほうがいい」

 

 その言葉に、六人は笑った。

 

「それにね」

 

 会長は続けた。

 

「最近、商店街の店主がよく話すんだ」

 

「何を?」

 

「次は何をやろうかって」

 

 涼はその言葉を聞いた。

 

 次は何をやろうか。

 

 それは、プロジェクトが始まった頃には聞いたことのない言葉だった。

 

 あの頃は、

 

 どうすればいい。

 

 誰が来る。

 

 いつまで続く。

 

 店は埋まるのか。

 

 そんな言葉ばかりだった。

 

 今は違う。

 

 次は何をやろうか。

 

 自分たちの町のことを、自分たちで考えている。

 

 それなら、プロジェクトは成功したのかもしれない。

 

 売上だけではなく。

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「 尾道の坂を下って 」  ⑧ー⑧

 

第十五章 返事をしない五日間

 

 その夜、里奈は母へ電話をかけた。

 

 呼び出し音が一度鳴っただけで、母は出た。

 

「里奈?」

 

「今日中に電話しろって、お父さんが」

 

「お父さんに言われなかったら、しなかったの」

 

 里奈は答えなかった。

 

 電話の向こうで、テレビの音が小さくなった。

 

「どんなところに住んでいるの」

 

「古い家。坂の上」

 

「寒くない?」

 

「まだ大丈夫」

 

「冬の服、ほとんど置いていったでしょう」

 

「送って」

 

 初めて、自分から実家へ何かを頼んだ。

 

 母はすぐには返事をしなかった。

 

「どこへ送ればいいの」

 

 里奈は春江の家の住所を伝えた。番地は、もう見なくても言えた。

 

「帰ってこいとは言わないの?」

 

「言ってほしいの?」

 

「分からない」

 

「いちばん困る答えね」

 

 春江と同じことを、母も言った。

 

 里奈は少し笑った。

 

「お父さんは、何て?」

 

「よく考えろって」

 

「なら、よく考えなさい」

 

 母はそれ以上聞かなかった。

 

 電話を切ると、机の上に父が置いていった名刺があった。前の課長の名前と、会社の電話番号が、父の字で裏に書かれている。

 

 里奈は名刺をノートへ挟んだ。

 

 翌朝も、電話はしなかった。

 

 小川の牛乳を買い、栗原の写真を受け取り、田辺の診察日を確かめた。

 

 小川は牛乳を冷蔵庫へ入れながら聞いた。

 

「お父さん、帰ったん?」

 

「帰りました」

 

「里奈ちゃんも帰れ言われた?」

 

「言われたような、言われなかったような」

 

「来週の牛乳は?」

 

「まだいます」

 

「ほんなら、また頼む」

 

 小川は三百円を渡した。

 

 来週もいると答えた自分に、里奈は少し安心した。同時に、来月のことは答えていないと気づいた。

 

 二日目の夜、月の収入をもう一度数えた。

 

 三万一千八百円。これまでで一番多かった月の数字だった。

 

 机の引き出しには、かかとの減った靴の値段を書いた紙が入っていた。その下には、健康保険の納付書と、手をつけた預金の残高を書いた紙があった。

 

 里奈は今月の収入から納付額を引いた。残った数字を、靴の値段を書いた紙と見比べた。

 

 里奈は名刺をノートから出した。

 

 まだ電話はしなかった。

 

 三日目、靴屋の主人に呼び止められた。

 

「十分、店を見とって」

 

「これから田辺さんのところです」

 

「十分ぐらい、ええじゃろ」

 

「三時なら来られます」

 

「今、行きたいんよ」

 

「では、今日はできません」

 

 主人は困った顔をした。

 

「テルちゃんは?」

 

「海岸のほうへ行きました」

 

「ほんなら三時にする」

 

 主人は店へ戻った。

 

 三時に行くと、丸椅子が一つ出してあった。

 

「遅いよ」

 

「三時です」

 

「分かっとる」

 

 主人は腕時計を見せた。針は三時になるところだった。

 

 十分後、主人は本当に戻ってきた。

 

「今日は早かったですね」

 

「あんた、次は帰るじゃろ」

 

 主人は五百円玉を一枚出した。

 

「三百円です」

 

「前に待たせた分」

 

「それは田辺さんへ払ってください」

 

 里奈は五百円玉を受け取らず、用意されていた百円玉を三枚取った。

 

 四日目、実家から段ボール箱が届いた。

 

 セーターと厚い靴下の間に、新しい運動靴が入っていた。

 

 値札は外してあった。

 

 靴の中に、母の字で紙が一枚入っていた。

 

〈合わなければ替えます〉

 

 帰ってこいとも、そこで頑張れとも書かれていなかった。

 

 里奈は古い靴から厚紙を抜いた。水を吸って柔らかくなり、端が崩れていた。

 

 新しい靴を履き、坂を下りた。

 

 足の裏に石段の角を感じなかった。

 

 五日目の昼、里奈は駅前まで下りた。

 

 海沿いのベンチに座り、名刺の番号へ電話をかけた。

 

「水野です」

 

 名乗ると、前の課長はすぐに分かった。

 

「お父さんから聞きました。欠員が出るそうですね」

 

「来月、一人辞める。前と同じ営業事務だが、部署は別になる」

 

「電話も取りますか」

 

「取るよ」

 

 海の向こうを船が横切った。白い波が、遅れて岸へ届いた。

 

「また取れなくなるかもしれません」

 

「そうかもしれない」

 

 課長は、簡単に大丈夫だとは言わなかった。

 

「面接で、今の水野さんにできることと、できないことを聞く。それで会社が決める。水野さんも、戻るかどうか決めたらいい」

 

「いつまでに返事をすればいいですか」

 

「一週間。急がなくていい」

 

 里奈は、海を見た。

 

「もう五日、考えました」

 

 その場では、面接を受けるとだけ答えた。

 

 電話を切ってからも、里奈はしばらくベンチに座っていた。

 

 尾道へ来た日は、海が見えたから電車を降りた。

 

 今、目の前にある海は、どこかへ行けとも、ここへ残れとも言わなかった。

 

 里奈は自分で立ち上がった。

 

第十六章 帰るほうへ

 

 父が帰ってから五日目の晩、里奈はテルさんに、父との話と、前の課長へ電話をしたことを話した。

 

 二人は春江の家の前の石段に座っていた。坂の下を電車が通り、音だけが屋根の間を上ってきた。

 

「お父さん、正しいと思いますか」

 

「知らん」

 

「テルさんなら、何と言いますか」

 

「大阪へ戻りんさい」

 

 里奈はテルさんを見た。

 

「どうしてですか」

 

「働いて、稼げるだけ稼いで、親孝行もしんさい」

 

「テルさんまで、そんなことを言うんですか」

 

「四十になっても、まだ頼まれ仕事がしたかったら、尾道へ帰ってくればええ」

 

「四十まで十年あります」

 

「すぐよ」

 

「テルさんは待てるんですか」

 

「待たんよ」

 

 里奈は腹が立った。

 

「私に続けろと言うと思っていました」

 

「一回も言うとらんよ」

 

「では、今までのことは何だったんですか」

 

「里奈ちゃんが勝手にしたんじゃろ」

 

「勝手にって——」

 

 テルさんが手を出した。

 

「三百円」

 

「何ですか」

 

「あんたの悩みを聞いたんじゃけ。ほら」

 

「まだ三十分たっていません」

 

「長うなりそうじゃけ、先にもらう」

 

 里奈は財布から百円玉を三枚出した。腹が立っていたので、テルさんの手へ一枚ずつ強く置いた。

 

「痛いよ」

 

「仕事でしょう」

 

「追加料金かと思うた」

 

 里奈は笑ってしまった。

 

 笑うと、目に涙が浮かんだ。

 

「戻ったら、負けたことになりませんか」

 

「誰に?」

 

「分かりません」

 

「ほんなら、勝たんでもええじゃろ」

 

 二人は黙って海を見た。

 

 今日は靴屋へ三時に行った。朝に呼ばれても、三時なら行けると言った。主人は不満そうな顔をしたが、三時まで待った。

 

 明日も同じことができるかは分からない。大阪へ戻れば、また電話の音が怖くなるかもしれない。

 

 けれど今度は、エレベーターの前で立ち尽くすより先に、自分にできないことを言えるかもしれなかった。

 

「私、大阪へ戻ります」

 

 里奈が言った。

 

「そう」

 

「もう少し驚いてください」

 

「私が言うたんじゃけ」

 

「寂しくないんですか」

 

「三百円で聞くよ」

 

「もう払いました」

 

「ほんなら、あと二十分話して」

 

 里奈は、何も話さなかった。

 

 テルさんも急かさなかった。

 

 二人の前を、最後の電車の明かりがゆっくり通り過ぎた。

 

最終章 尾道の坂を下って

 

 里奈が尾道を離れる朝、春江はいつもどおり七時に朝食を出した。

 

 味噌汁と卵焼きと、少し焦げた鮭だった。

 

「今日ぐらい、豪華にしてくれてもいいでしょう」

 

「鮭があるよ」

 

「焦げています」

 

「焦げたところは、テルちゃんにあげんさい」

 

 テルさんが自分の皿を里奈の前へ出した。

 

「卵焼きと替えて」

 

「嫌です」

 

 三人で朝食を食べた。

 

 春江は、別れの言葉を何も言わなかった。

 

 里奈が鞄を持って玄関へ出ると、紙袋を一つ渡した。中にはりんごが二つ入っていた。

 

「頭がようなるけえ」

 

「それはテルさんの話です」

 

「一つはテルちゃんが入れた。もう一つは私」

 

「ありがとうございます」

 

「肉じゃが、まだ少し硬いよ」

 

「今度来たときは、柔らかくします」

 

「いつ来るん?」

 

「分かりません」

 

「いちばん困る答えじゃね」

 

 春江はそう言って、引き戸を閉めた。

 

 テルさんがキャリーバッグを持った。

 

「自分で持てます」

 

「知っとるよ」

 

「では、返してください」

 

「駅まで三百円」

 

「取りすぎです」

 

 二人で坂を下りた。

 

 里奈が初めて上った坂とは違う道だった。半年の間に何度も通ったのに、その朝は町が少し遠く見えた。

 

 家の中から食器の音がした。洗濯物を干す人がいた。寺の鐘が一度鳴った。

 

 商店街で、小川が待っていた。

 

「大阪へ帰るんじゃって?」

 

「はい」

 

「来週の牛乳は?」

 

「テルさんに頼みました」

 

「卵は要らんよ」

 

「まだあるんですか」

 

「昨日買うたけえ」

 

 小川は里奈の手へ百円玉を三枚載せた。

 

「何のお金ですか」

 

「今までの分」

 

「毎回もらいました」

 

「ほんなら、大阪で最初に頼まれたことの分」

 

「まだ何も頼まれていません」

 

「先に払うたら、誰かに頼まれるじゃろ」

 

 里奈は返そうとした。

 

 小川はもう背を向けていた。

 

 駅のホームで、里奈はテルさんからキャリーバッグを受け取った。

 

「テルさん。四十歳になったら、戻ってくるかもしれません」

 

「遅いねえ」

 

「そのときまで元気でいてください」

 

「十年も?」

 

「待たなくていいです」

 

「ほんなら、帰ってこんでもええよ」

 

「そう言われると、帰ってきたくなります」

 

 電車が入ってきた。

 

 里奈は乗り込み、窓際に立った。

 

 半年前、里奈はこのホームで列車を降りた。

 

 扉が閉まった。

 

 テルさんが何か言ったが、聞こえなかった。

 

 里奈は窓へ耳を近づけた。

 

 テルさんは口の横に手を当て、もう一度言った。

 

「三百円、もろうてないよ」

 

 里奈が財布を出す前に、電車が動き始めた。

 

 テルさんの姿が小さくなり、駅の屋根の向こうへ消えた。

 

   

 数か月後、里奈は大阪の同じ会社で働いていた。

 

 復職ではなく、欠員が出た部署で改めて雇われた。以前と同じ営業事務だった。

 

 昼前、隣の席の同僚が電話を切り、大きく息を吐いた。

 

「どうしたの?」

 

「工事の日程が合わなくて。三か所へ電話しないといけないんだけど、見積書も今日までで」

 

「電話は、いつまで?」

 

「一か所は昼まで。あとの二つは夕方でもいい」

 

「私は一時から打ち合わせがあるから、昼までの一か所ならできる」

 

「それ、私に頼む?」

 

 同僚は里奈を見た。

 

「いいの?」

 

「頼むなら」

 

「お願いします」

 

「分かりました」

 

 里奈は相手の会社名と担当者、昼までに決めることを紙に書いた。残りの二か所には、同僚の名前が残った。

 

 書いた紙を手元へ置き、受話器を取った。

 

     

 尾道では、テルさんが坂を下っていた。

 

 右手に牛乳、左手に封筒を持っている。

 

 イヤホンはしていなかった。

 

 下手な英語で、「夢のカリフォルニア」を歌っていた。

 

 坂の下から声がした。

 

「テルちゃん、三十分ええ?」

 

 靴屋の主人が、店の前に丸椅子を二つ出していた。

 

「今、急いどる」

 

「帰りでええけえ」

 

「三百円?」

 

「今日は五百円払う」

 

「長うなるん?」

 

「長うなる」

 

「ほんなら、三百円でええよ」

 

 テルさんは、帰りに寄ると約束した。

 

 海は、屋根と屋根の間に見えたり、消えたりした。

 

 テルさんは道を確かめることもなく、頼まれた家へ向かって、尾道の坂を下りていった。

 

(完) 2026 / 07 / 25

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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

四 写真の向こう側

 

 大阪から彩花が帰ってきたのは、その数日後だった。

 

 彩花は三十五歳。母親の家に来ると、冷蔵庫を開けたり、郵便物を見たり、必要なことを手伝ったりする。翔子の様子が少し違うことにも、すぐ気づいた。

 

 テーブルの上に写真が二枚置かれている。

 

「お母さん、この写真どうしたの?」

 

 翔子は少し迷ってから、正直に話した。

 

 安土で見かけた男性のこと。涼太に似ていたこと。三千院で長谷川が撮った写真に、その人が写っていたこと。

 

 彩花は黙って写真を見た。

 

「この人、お父さんが聞いたら怒るかな」

 

 翔子がそう言うと、彩花はすぐには答えなかった。

 

「たぶん、怒るかもしれない。でも、お母さんが今、少しでも楽しく過ごせるなら、それでいいと思う」

 

 翔子は娘の顔を見た。

 

 翔子は返事をせず、写真の端を指で押さえた。父親を忘れていいと言われたわけではない。けれど、忘れないまま先へ進んでもいいのだと、娘は言ってくれているように思えた。

 

「写真、もっと大きくできない?」

 

 彩花が言った。

 

「お父さんのパソコンとプリンター、まだ使えるでしょう」

 

 二人で写真を拡大した。

 

 大きくすると、顔はかえってぼやけた。それでも、目元と口元の形が少し分かる。

 

 翔子は画面を見つめた。

 

「お母さん、この人なの?」

 

 翔子は答えられなかった。

 

「分からない。でも……似てる」

 

 その夜、翔子は二枚の写真を枕元に置いた。

 

 翌朝、押し入れを開けた。

 

 大学の卒業アルバムがあるはずだった。

 

 古い箱を一つずつ動かす。アルバムは、奥のほうにあった。

 

 ページをめくる。

 

 学生時代の自分の写真がある。その少し先に、涼太の写真があった。

 

 翔子は、しばらくその顔を見つめた。

 

 四十五年前の自分と涼太。

 

 どうして別れたのだろう。

 

 理由は、はっきりと思い出せなかった。大きな喧嘩をしたわけではない。どちらかが裏切ったわけでもない。ただ、卒業後の進路や住む場所について、互いに譲らなかった。その程度のことだったのだと思う。

 

 翔子は、もう一度涼太の写真を見た。

 

 そのとき、口元の近くに小さなほくろがあることに気づいた。

 

 翔子は立ち上がった。

 

 拡大した写真を取りに行く。

 

 画面の男性の口元を見る。

 

 ぼやけている。けれど、同じ場所に、かすかな黒い点が見える。

 

 翔子は息を止めた。

 

 やっぱり、涼太だったのだ。

 

 そう思った瞬間、胸の奥にあったものがほどけた。安心したのか、懐かしかったのか、自分でも分からない。目に涙が浮かんだ。

 

 四十五年前の恋人が、あの安土にいた。

 

 しかも、向こうもこちらを見た。

 

 そこで初めて、涼太も自分に気づいたのではないかと思った。

 

 その日の午後、卒業アルバムの近くにあった古い同窓会名簿を探した。前島涼太の名前と住所が残っている。

 

 電話番号はなかった。

 

 翔子は、電話をかけるより手紙のほうがいいと思った。突然電話をして、相手の生活に入り込むのはためらわれた。手紙なら、相手が自分の都合で返事を決められる。

 

 便箋を出した。

 

 何を書けばいいのか分からない。

 

 安土で見かけたこと。写真に写っていたこと。もしかしたら、あなたではないかと思っていること。

 

 それだけを書いた。

 

 もし自分が涼太だと分かったのなら、涼太も自分に気づいたのだろうか。

 

 確かめたかった。

 

 翔子は手紙を封筒に入れた。

 

 ポストへ向かう。

 

 投函したあと、胸の奥が少し軽くなった。もう、自分にできることはない。