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『二つの流れのあいだ』
第一章 分からない
昼休み、吉沢友哉は製図室を出て、学食の端の席に座った。
矢部辰雄は向かいに座ったが、桂木葵のことは聞かなかった。
窓の外では、学生が何人も中庭を横切っている。設計課題の模型を抱えて走る者もいれば、スマートフォンを見ながらゆっくり歩く者もいる。
友哉は箸を持ったまま、味噌汁の湯気を見ている。
矢部が何か言いかけ、やめた。
その沈黙が、今はありがたかった。矢部は聞かない。聞かないくせに、何かを知っている顔だけはしている。友哉は味噌汁の湯気を見た。湯気は上へ行けば消える。人の話は、口から出ると、なかなか消えてくれない。
葵と最後に一緒に食事をした日のことを思い出す。葵は店を決め、友哉はそこへついていった。帰り道、葵が来月どこかへ行かないかと聞いた。友哉は、葵が行きたいところならどこでもいいと答えた。
そのとき、葵の顔が一瞬だけ曇ったことを思い出す。
友哉は、あれが何を意味していたのか、今になっても分からない。
分からないことは、忘れてしまえばいいと思っていた。ところが、忘れたつもりのものほど、味噌汁の湯気みたいな顔をして、急に目の前へ出てくる。
十二月の京都は、午後三時を過ぎると早くも夕方の気配を帯びた。
設計演習を終えた学生たちが、模型の箱やノートパソコンを抱えて校舎から出てくる。中庭には銀杏の葉が残り、何人もの靴に踏まれて、黄色から茶色へ変わっていた。製図室の窓にはまだ明かりがあり、提出を控えた学生が机に向かっている。
友哉と矢部は、正門へ続く通路を歩いている。
矢部は、講評で教員から模型の階段が急すぎると言われた学生の話をしている。本人は、人が転げ落ちる勢いまで計算したと言い張ったらしい。
友哉は一度だけ笑った。
桂木葵と何かあったらしい。矢部が知っているのは、それだけだった。いつもの喧嘩なら、友哉はもう少し腹を立てるか、自分から笑い話にした。今回は、何を聞いても「分からへん」としか言わなかった。
正門の近くでは、講義を終えた学生が何人か立ち話をしていた。市バスが来る時刻を確かめている者もいた。サークルの立て看板を外す音が、冷え始めた校内に響いていた。
その中から由美が姿を見せる。
「吉沢君、ちょっとええ?」
葵と同じ学部で、よく一緒にいる友人だった。
「葵、最近ちょっと変やねん。本人に聞いても何も言わへんし。吉沢君、時々一緒にいたやろ。何かあったん?」
矢部は黙って友哉を見た。
何かあったのかと聞かれても、友哉には一つの出来事を挙げられなかった。
葵が話の途中で黙ることは、何度かあった。「もうええ」と言われたこともある。友哉は、話が終わったのだと思っている。何かを決めるときに返事を急かされても、葵の好きにしたらいいと答えた。しばらく機嫌が悪くても、放っておけば元に戻った。
二人が付き合い始めたのは、その年の春だった。一般教養の講義で隣になり、帰りに鴨川まで歩いた。建物の話になると急に言葉が増える友哉を、葵は面白いと言った。友哉は、何を話しても最後まで聞く葵といると楽だった。
初めて映画へ行ったとき、作品も映画館も葵が決めた。友哉が何でもいいと言うので、葵は笑いながら選んだ。その笑いがなくなったのがいつだったのか、友哉は覚えていなかった。
それが一つにつながっているとは、友哉は考えなかった。小さいことは小さいまま消えていくものだと思っていた。小さいものほど、たまると場所を取ることを知らなかった。
別れる前の数週間を思い返しても、友哉には大きな出来事が浮かばない。二人で昼を食べ、講義のあとに歩き、夜になればそれぞれの部屋へ帰る。写真を撮ったり、映画を見たり、休日に少し遠くまで出かけたりもした。外から見れば、どこにでもある恋人同士だった。
ただ、葵が何かを話そうとすると、友哉は最後まで聞く前に、自分なりの結論を出していたのかもしれない。疲れているなら帰ればいい。迷っているなら急がなくていい。嫌ならやめればいい。どれも間違ってはいない。だからこそ、自分が何を望んでいるのかを言わないことまで、正しいことのように思っていた。
友哉は、それを優しさだと思っていた。自分が一歩引けば、葵は楽になる。そういうつもりだった。実際、葵は文句を言わなかった。だから余計に安心していた。人間は、相手が黙っていると、自分に都合のいいほうへ意味を決めてしまう。友哉も例外ではなかった。葵が黙れば待つ。葵が決めれば、それでいいと言う。二人の間に波風が立たないことを、仲がいいことと勘違いしていた。
けれど、何も決めないまま続く時間にも、少しずつ重さがたまっていく。葵が笑わなくなったのは、その重さを先に見つけたのが葵だったからかもしれない。友哉はまだ、それに名前をつけられない。
「葵、何か言うてた?」
「ううん。何も言わへんから、気になってるんやけど」
由美も、何が起きているのかは知らないようだった。
正門の外に市バスが停まり、学生たちが走っていく。いつもと変わらない大学の午後だった。そのなかで葵だけが、自分にも由美にも話さない何かを抱えていた。
友哉は初めて、二人の間にあるものが、いつものようには戻らないのかもしれないと感じた。
由美と別れたあと、矢部は食堂へ寄ろうと言った。友哉は首を振った。
矢部の言い方に棘はなかった。そのことが、友哉にはかえって堪えた。
大学を出て、鴨川まで歩いた。河原では学生が自転車を止めて話し、犬を連れた人がゆっくり歩いている。橋の下で楽器を吹いている音が、風に切れながら届いた。
友哉は葵へ電話をかけた。
呼び出し音が六回鳴って切れた。もう一度かける気にはならなかった。
電話には出なかった葵から、翌日の夕方になって短いメッセージが届いた。
『鴨川で話したい』
場所は、二人が講義のあとによく歩いた橋の近くだった。
葵は先に来ている。手袋をしたまま欄干に両手を置き、川を見ている。友哉が横へ並んでも、しばらく顔を向けなかった。
「由美に、何か聞いた?」
「何も。心配してたで」
葵は手袋の指を一本ずつ握った。
「この前のこと、まだ怒ってるん?」
友哉には、それ以外の聞き方が思いつかない。
葵は顔を上げた。怒っているようには見えない。友哉が知っている、何かを言い返す前の顔とも違っていた。
「もう、我慢できひん」
葵は言ったあと、すぐに川へ目を戻した。言い切ったことを自分で聞き直すのが怖いように見えた。
その言葉が何を指すのか、友哉にはすぐ分からない。
「友哉は優しいけど、いつも私に決めさせるやろ。どこへ行くかも、何を食べるかも。これからどうしたいかも」
「葵の好きなほうでええと思ってただけや」
「それがしんどいねん」
その声には怒りより疲れがあった。怒っている人なら、もっと大きな声を出せる。葵は、もう大きな声を出す力を使いたくないのかもしれなかった。
映画は葵が選んだ。食事をする店も、先に名前を挙げるのは葵だった。友哉は、それでよければ賛成した。違うと思ったことはない。
葵が迷っているときには、どちらでもいいと言った。急がなくていいとも言った。決めつけないことが、葵を大切にすることだと思っていた。
「嫌やったら、言うてくれたらよかったやん」
言った瞬間、友哉は自分の言葉が妙に便利なのに気づいた。葵が言わなかったことにすれば、自分は聞かなかったことを考えなくて済む。便利な言葉は、たいてい誰か一人にだけ便利である。
言ってしまってから、友哉は口をつぐんだ。自分の言葉が、川面へ落ちた小石のように遅れて効いてくる。これでは、言わなかった葵のほうが悪いことになる。
葵はしばらく友哉を見ていた。
その言葉のほうが、友哉にはこたえた。いつ言われたのか思い出せない。聞いていなかったつもりもない。聞いたのに、聞いたことにしなかったのかもしれない。帰ってから、机の引き出しを開けた。葵が置いていったヘアゴムが一本、消しゴムと一緒に入っていた。いつからそこにあるのかも思い出せない。捨てるほどのものではない。だからといって、見つけるたびに胸が痛む。友哉は引き出しを閉めた。
夏休みの旅行を決めるとき、葵は一度、「友哉が行きたいところへ行きたい」と言った。友哉は気を遣わせているのだと思い、葵の行きたいところでいいと答えた。秋になって、来年も一緒にいると思うかと聞かれたときには、先のことは分からないと言った。
葵が聞きたかったのは、予定ではなかったのかもしれない。そう思ったのは、ずっとあとだった。あのときの自分なら、旅行先を三つくらい挙げて、それで話が済んだと思っていた。
「友哉は、決めへんことで間違わんようにしてるだけやと思う」
葵は泣きながら、それでも友哉を責めるような顔をしなかった。責める相手がもう目の前にいないような、遠い目だった。
葵の目から涙が落ちた。すぐに手袋で拭ったが、もう一度落ちた。
友哉は手を伸ばしかけた。触れていいのか分からず、下ろした。
「もう会わへん」
その短い言葉のあとに、川の音が妙に大きく聞こえた。友哉は、何か言えばこの言葉を引き戻せるような気がした。けれど、引き戻してはいけないとも思った。
葵は、それを友哉に相談しなかった。相談してしまえば、また友哉が「どっちでもええ」と言う気がした。
帰る方向は途中まで同じだったが、葵は一人で河原を上がった。友哉はついていかなかった。
何が葵にそこまで言わせたのか、考えようとした。しかし、思い出せるのは葵の言葉ばかりだった。その言葉の前に、自分が何をしてきたのかは、うまくつながらなかった。
川の向こうに明かりが増えていく。
京都に住んで三年近くになる。鴨川はいつでもそこにあった。友哉は、その日初めて、広い河原に自分一人が残されたように感じた。
鴨川からの帰り、友哉は一人でコンビニへ入った。葵が好きだった菓子が新商品になっている。手を伸ばしかけて、やめた。
買って帰る理由はない。
それだけのことなのに、商品を棚へ戻すまでに少し時間がかかった。
部屋へ戻ると、机の上には設計課題の模型がある。明日の講評までに直さなければならない。友哉はカッターを持ったが、模型のどこを直すべきなのか分からなくなった。
建物なら、図面を見れば寸法が分かる。間違えば消して引き直せる。人の気持ちは、線を引いて確かめることができない。消しゴムをかけた跡だけが残るようなこともある。
その夜、友哉は課題をほとんど進めないまま眠った。机の上には、切りかけの模型が残っている。朝になれば続きをやる。それだけのことなのに、朝が来るのが少し嫌だった。
