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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

八 涼太の四十五年

 

 涼太が自分の結婚生活について話したのは、その少しあとだった。

 

 妻とは長く一緒に暮らしたが、十年前に離婚している。息子が一人いる。大きな出来事があったわけではない。仕事が忙しくなり、家に帰る時間がずれ、話すことが減った。

 

 離婚する少し前の冬の夜、帰宅した涼太を妻が待っていた。

 

「話があるの」

 

 涼太は仕事のメールを確認してからでいいか、と言った。妻はしばらく黙っていた。

 

「あなた、最近、家にいてもここにいないよね」

 

 その言葉を、涼太は否定できなかった。家族のために働いているつもりだった。それでも、目の前にいる人と話すことを後回しにしてきたことは事実だった。

 

 離婚したあとも、その夜のことは残った。自分だけが悪かったとは思わない。それでも、もっと早く話せばよかったとは思っている。

 

 その後悔は、四十五年前の翔子との別れにも重なった。あの頃も、互いに分かっているつもりでいた。卒業後の進路や住む場所について、譲らなかった。大きな喧嘩があったわけではない。ただ、話し合う時間が足りなかったのだと思う。

 

「離婚してから、少し分かったことがある」

 

 涼太は賀茂川を見ながら言った。

 

「一緒にいることより、話すことのほうが大事だったのかもしれない」

 

 翔子は黙って聞いた。自分にも思い当たることがあった。健二とは長く一緒に暮らした。言葉にしなくても分かることが増えた。それは安心でもあったが、分からなくなったことまで分かったつもりになっていたのではないか。

 

 涼太も翔子も、互いの四十五年を知らない。涼太は、健二と暮らした翔子を知らない。母親になった翔子も、一人で暮らしてきた翔子も知らない。翔子も、涼太がどんな仕事をし、どんな家庭を作り、何を失ってきたのか知らない。

 

 だから二人は、再会したというより、もう一度知り合っているのかもしれない。

 

 四十五年かけてできた空白を、数週間で埋める必要はない。急がずに、少しずつ知ればいい。翔子は、そう思うようになった。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

 

第六章 四番の場所

 

 翌朝、孝は目を覚ますと、枕元に置いたカメラを確かめた。

 

 昨夜見つけた写真が、夢ではなく現実に残っていることを確認したかったのだと思う。液晶画面には、午後三時十七分に撮影された一枚が表示されている。出島近くの道路。その向こうに立つ老人。手にした古い鍵。

 

 そして、写真の隅に残された「4―9―17」。

 

 何度見ても、撮った記憶はない。

 

 カメラを使ったのは確かに自分だったが、昨日の午後三時十七分、孝は出島の建物の中にいた。浩一や涼子と一緒に展示を見ていた時間であり、カメラを手にして外へ出た覚えもない。

 

 撮影時刻だけを考えれば、ホテルの部屋に置かれていたカメラを誰かが操作したことになる。それが一番単純な答えだった。

 

 けれど、ホテルの部屋に置いていたカメラに、誰かが触れたのだとすれば、それはそれで別の問題になる。孝はカメラをバッグへ入れた。フロントへ相談することも考えたが、まず三人に見せるべきだと思った。

 

 朝食会場に行くと、すでに浩一と涼子が来ていた。沙羅は少し遅れて現れたが、昨夜よりも落ち着いた表情をしている。祖母について、母親から新しい連絡はなかった。警察が引き続き捜している。

 

 それ以上のことは、まだわからない。孝は朝食を終えるまで写真の話をしなかった。

 

 人の多い場所で、不安を煽るような話をする気にはなれなかったからである。食事を終え、四人でホテルを出てから、昨夜の写真を見せた。浩一は画像を拡大し、撮影情報を確認した。時刻も日付も間違っていない。

 

 写真は確かに、昨日撮影されたものだった。しかも、カメラ本体には撮影時刻を変更した形跡がない。

 

 つまり、昨日の午後三時十七分に、このカメラで撮影された可能性が高い。涼子が老人の姿を拡大した。顔はやはり判別できない。だが、服装には特徴があった。濃い色の上着。古い形の帽子。そして、右手に持った鍵。鍵は大きい。

 

 現在の住宅などで使われるものとは明らかに違う。

 

 古い建物の扉や倉庫などに使われていたものに見える。沙羅は、写真を見たまま黙っていた。しばらくして、祖母の家にあったものを思い出したという。古い鍵が一つあった。

 

 祖母はそれを普段から小さな布袋に入れて、仏壇の脇に置いていた。何の鍵なのかは知らない。

 

 幼い頃に聞いたことがあるが、祖母は「もう使わない鍵だから」としか答えなかった。

 

 それが、写真の老人が持っている鍵と似ている。もちろん、同じものだとは断定できない。古い鍵など似た形のものはいくらでもある。それでも、また一つ、祖母の家と写真の人物がつながった。孝は、昨夜の地図を開いた。

 

 「4」の場所を現在の地図に重ねてみる。

 

 四人はしばらく画面を眺めていた。そこは、観光地として知られている場所ではなかった。現在は道路になっている。

 

 近くには小さな商店や住宅があるが、観光案内に載っているような施設はない。それなのに、古い地図では、そこに一つの建物が描かれている。建物の名前はない。

 

 ただ、四角い枠と、その脇に「四」という文字がある。

 

 そして、そこから地下へ続くような細い線が伸びていた。四人は、その場所へ行くことを決めた。誰かから命じられたからではない。祖母の行方を捜すためでもない。ましてや、事件を解決するためでもない。

 

 昨日から続いていることが何なのか、自分たちが見たものを自分たちの目で確かめたかった。

 

*

 

 目的地へ向かう途中、孝は何度も周囲を見た。尾行されているという確かな証拠はない。

 

 けれど、写真を送ってきた人物がどこかにいるとすれば、四人の行動を知ることは難しくない。観光客は多い。同じ方向へ歩く人もいる。だから、誰か一人を見つけても、それだけでは何の意味もない。

 

 それでも、孝の中には警戒心が残っていた。やがて、古い地図に示された場所へ近づいた。現在の道路は、何の変哲もない。車が走り、歩道を人が通り、古い家と新しい建物が混じっている。

 

 四人は道路の端に立ち、古い地図と現在の風景を見比べた。地図に描かれていた建物は、もう存在しない。

 

 その場所には、三階建ての建物が建っている。一階には空き店舗があり、シャッターが閉まっていた。建物の脇には、細い路地がある。浩一が古い地図を拡大した。地下へ続く線は、現在の建物の裏側へ伸びている。

 

 つまり、入口が残っているとすれば、そのあたりになる。しかし、勝手に建物へ入ることはできない。

 

 四人は路地へ入らず、周辺を歩いてみることにした。少し進んだところで、古い石垣が現れた。その石垣の一部に、鉄製の小さな扉が埋め込まれている。扉は錆びている。使われている様子はない。だが、そこに小さな鍵穴があった。

 

 孝は写真の老人が持っていた鍵を思い出した。鍵穴の形を見る限り、あの鍵が合う可能性はある。

 

 もちろん、実物がない以上、確認はできない。沙羅が扉を見ている。祖母が持っていた鍵のことを思い出しているのだろう。そのとき、扉の脇に刻まれた文字に気づいた。長い年月でほとんど消えている。

 

 それでも、数字だけは読めた。

 

9

 

 四人の間に、静かな緊張が走った。昨日の灯籠。祖母の家。古い地図。そして、この扉。すべてに同じ数字が残っている。浩一が扉を写真に撮ろうとした。孝は、それを止めなかった。もう、隠す意味がないように思えた。

 

 ところが、シャッターを切った瞬間、路地の奥から物音がした。四人が振り返る。誰もいない。

 

 ただ、路地の先にある建物の影から、何か白いものが一瞬だけ動いた。人の服のようにも見えた。涼子が身を乗り出す。しかし、孝は腕を伸ばして止めた。追いかける必要はない。むしろ、追わないほうがいい。

 

 四人はその場を離れた。来た道を戻り、大通りへ出る。そこまで来て、ようやく沙羅が口を開いた。

 

 孝には答えられなかった。待っていたのかもしれない。偶然通りかかっただけかもしれない。

 

 ただ一つわかるのは、昨日から誰かが四人の行動を知っているらしい、ということだった。

 

*

 

 昼過ぎ、四人は浦上方面へ向かった。それは予定にはなかった。

 

 しかし、祖母が最後に向かった場所として、そこを無視することはできなかった。浦上へ近づくにつれて、街の雰囲気が変わっていく。長崎の歴史を知る上で、ここは避けて通れない場所だった。キリシタンの歴史。弾圧と潜伏。

 

 信仰を守り続けた人々。

 

 そして、一九四五年八月九日。

 

 街の上空で起きた出来事によって、それまで積み重ねられてきた生活が一瞬にして失われた。現在の浦上は、普通の街として人々が暮らしている。学校があり、住宅があり、道路を車が走っている。

 

 その当たり前の風景の下に、過去の時間が重なっている。

 

 孝は歩きながら、そのことを強く感じていた。この街では、歴史が過去形にならない。建物がなくなっても、道が変わっても、名前が残る。写真が残る。記憶が残る。そして、誰かがそれを守ろうとする。

 

 だからこそ、「浦上九番」という言葉が何を意味するのか、簡単には判断できなかった。

 

 四人は資料館を訪れ、古い地図や写真を見た。そこには戦前の浦上の街が残されている。現在とは大きく違う。住宅が密集し、細い道が入り組んでいる。その中に、孝は一つの場所を見つけた。

 

 昨日届いた地図に描かれていた「九番」と似た印がある。

 

 それは現在の地図には存在しない。古い住所か、土地の区分だった可能性がある。そして、その近くに小さな建物が描かれている。写真を見た孝は、息を止めた。

 

 そこに写っている建物が、昨日沙羅の母親から送られてきた古い写真の背景とよく似ていた。白い壁。細い窓。建物の前に立つ人々。写真の中では、まだ建物が残っている。

 

 そして、その写真の右端には、顔を隠すように立つ人物がいた。孝は、昨日から何度も見てきたその姿を、もう一度確認した。古い写真の中の人物。

 

 昨夜、カメラに勝手に写り込んでいた老人。服装も姿勢も違う。同一人物だとは考えられない。それでも、右手の位置が同じだった。まるで、何かを握っているように腕を下げている。孝は写真を拡大した。

 

 人物の手元には、わずかに黒い影がある。鍵のようにも見える。ただの影にも見える。

 

 そのとき、沙羅が別の写真を見つけた。同じ場所を、別の角度から撮ったものだった。その写真の隅に、祖母らしき若い女性が写っている。沙羅は、しばらく動かなかった。自分の祖母だと確信できるわけではない。

 

 けれど、母親から聞いていた若い頃の姿とよく似ている。さらに、その女性の隣には、一人の少年が立っている。

 

 写真は古く、顔ははっきりしない。しかし、少年の手には小さな灯籠がある。その灯籠の側面に、数字が刻まれていた。

 

9。

 

 ここで初めて、四人は「9」という数字が、単なる番号ではないのではないかと考え始めた。

 

 それは、人をつなぐ印なのかもしれない。場所を示す番号なのかもしれない。あるいは、何かが起きた日を意味しているのかもしれない。ただ、まだ答えは出ない。資料館を出ると、夕方の空が赤くなり始めていた。

 

 沙羅のスマートフォンが鳴った。母親からだった。祖母が見つかったという。四人は、ようやく安堵した。

 

 ところが、母親の次の言葉を聞いた瞬間、沙羅の表情が変わった。祖母は無事だった。しかし、祖母が見つかった場所は、四人が今日訪れた浦上ではなかった。祖母は、長崎駅の近くにある古い建物の前で発見された。

 

 そして、その建物の壁には、誰かが新しく数字を書いていた。

 

4―9―17。

 

 孝は、そこで昨夜の写真を思い出した。老人。鍵。そして、同じ数字。誰かが四人を誘導している。その可能性が、もう否定できなくなっていた。けれど、もっと気になることが一つあった。

 

 祖母は、発見されたとき、何も持っていなかったという。古い灯籠も。鍵も。そして、祖母が長年大切にしていた一枚の写真も。

 

 すべて消えていた。

 

 その夜、ホテルへ戻った四人は、初めて本気で旅行を中止することを考えた。だが、その判断をする前に、孝のカメラが突然、自動的に電源を入れた。液晶画面に一枚の新しい写真が表示される。

 

 そこに写っていたのは、四人がまだ見たことのない場所だった。古い地下室。壁には無数の数字が刻まれている。

 

 その中央に、一枚の写真が貼られていた。写真に写っているのは、若い頃の沙羅の祖母だった。そして、その隣に立っている少年の顔だけが、黒く塗りつぶされていた。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第三章 猫捜索

 

「猫がおらん」

 

 日差しが傾き始めた午後、ハルさんの家の狭い縁側で、テルさんが不機嫌そうに吐き捨てた。

 

 ハルさんは手元のお茶をゆっくりと啜り、湯呑みを膝の上に置くと、気のない声で返した。

 

「それは猫だからな」

 

「意味が分からん」

 

「猫っちゅうのは、どっかへ行く生き物なんじゃ。人間なら探す前に自分から『いまどこにおる』と電話でもしてくるが、猫はそうはいかん」

 

「電話なんかしてくるわけなかろうが。猫がスマホ打てるかい」

 

 テルさんは眉間にしわを寄せた。

 

「栗原さんとこのミーじゃ。昨日の夕方から姿が見えんようになってな、栗原さんが心配してオロオロしとるんよ。ご飯も喉を通らんって」

 

「昨日からか。そりゃ心配じゃな」

 

「ほうよ」

 

「お前、探したんか」

 

「探したわ」

 

「どこを」

 

「そこらへんじゃ」

 

「……それを世間では『探した』とは言わんのじゃ」

 

 ハルさんはため息をつき、呆れたように首を振った。テルさんはむっとした表情になり、腰の手ぬぐいを硬く握りしめた。

 

「じゃあハルさん、一緒に探してくれ」

 

「いくら?」

 

「三百円」

 

「安い。わしの膝の痛みを舐めるなよ」

 

「猫一匹探すのに三百円もありゃ上等じゃろ」

 

「猫に値段をつけるな」

 

「じゃあ何で最初に『いくら』って聞いたんじゃ」

 

 言いはぐれたハルさんは言葉を詰まらせ、観念したように重い腰を上げた。「よっこいしょ」と声を上げながら立ち上がる。

 

「……たく、骨が折れるわ。栗原さんの家のお茶菓子狙いじゃからな」

 

 二人は格子戸を開け、外へ出た。

 

 坂の向こうから吹いてくる風が、古い町の匂いを運んできた。

 

 尾道の路地は、猫の天国でもあるが、人間にとっては迷路そのものだ。家々の隙間に張り巡らされた細い石段、年月の経った黒い板塀、倒れかけたトタン屋根。車が入っていけない狭い路地が幾重にも交差し、地元の人間でも時々迷うことがある。

 

 歩き出すとすぐに、塀の上で日向ぼっこをしている三毛猫が目に入った。日陰の自転車の前輪の下に丸くなっている黒猫もいれば、すでにシャッターの降りた古い商店の軒先で薄目を開けてあくびをしている猫もいる。

 

「おい、ミー」

 

 テルさんが声をかけると、三毛猫は「ニャ」と一言鳴いて、プイと横を向いた。

 

「違うな。あいつはもっと図々しい顔をしとる」

 

 ハルさんが評する。

 

 栗原さんの愛猫であるキジトラの「ミー」の姿はどこにもなかった。

 

 テルさんは猫を見つけるたびに、腰をかがめて声をかけた。

 

「ミーか?」

 

「……全部違う」

 

 ハルさんが後ろから呆れ顔で突っ込む。

 

「分かって探しておるわ」

 

「分かっとるなら一匹ずつ聞くな」

 

 坂道を上り、人のすれ違えないほど狭い細い路地を抜けたときだった。途中で豆腐屋の店主や、洗濯ものを干していた近所のおばあさんと立ち話をしつつ進む。

 

 路地の角にある石垣の上に、一匹の大きな虎猫が佇んでいた。精悍な顔つきをした野良猫だ。耳の端が少し欠けており、街の裏事情を知り尽くしたような風格がある。

 

 ふつう、人が近づけば素早く姿を消すはずだが、その虎猫は逃げようともせず、じっとテルさんとハルさんの顔を見つめていた。

 

 テルさんが慎重に一歩踏み出す。

 

 すると虎猫はくるりと向きを変え、尾をピンと立てて優雅に歩き出した。少し進んでは振り返り、二人を見る。

 

「……ついて来いってことかね」

 

 ハルさんが呟いた。

 

「怪しいな。騙されておらんか」

 

 テルさんは疑いながらも、虎猫のあとに続いた。

 

 虎猫が足を止めたのは、路地の奥にある古い木造倉庫の前だった。かつては船具の保管に使われていたらしい、傷みの激しい建物だ。壁の木板は黒く腐食し、ツタが絡まりついている。

 

 虎猫は倉庫の前で立ち止まると、ゆっくりと屋根を見上げた。

 

 ふたりも釣られて顔を上げる。

 

 錆びたトタンと瓦が交差する屋根の向こうから、かすかに、けれど切迫した小さな鳴き声が聞こえてきた。

 

『ミィ……ミィ……』

 

「いる」

 

 テルさんが声を弾ませた。

 

「おったな。……で、どうやって上がるんじゃ?」

 

 ハルさんは腕を組み、高く聳える倉庫の壁を見上げた。おばあさん二人で登れるような高さではない。

 

「ハルさん、肩車してくれ」

 

「命を落とす気か。わしが潰れるわ」

 

 途方に暮れて二人が見合っていたそのとき、坂の下からカツカツと忙しない足音が近づいてきた。大きなボストンバッグを肩に担いだ若い男が、息を切らしながら歩いてくるのが見えた。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第五章 決める仕事

 

 友哉は大学を卒業し、京都市内の設計会社へ入った。

 

 住宅の改修や、小さな店舗の設計を多く扱う会社だった。歴史的な建物の保存だけをするわけではない。古い家へ新しい台所を入れ、使われなくなった部屋を事務所に変え、予算のなかで残せるものを決める。

 

 入社したばかりの友哉に、建物の行く末を決める仕事は回ってこなかった。現場の寸法を測り、図面を直し、役所へ出す書類を揃えた。

 

 それでも、決めなければ先へ進まないことは毎日あった。

 

 図面の数字が現場と合わない。先輩へ聞こうとすると、先にどうするつもりかと尋ねられる。二つの方法を並べると、どちらを選ぶのかと返される。

 

「間違っててもええから、先に自分の案を言え」

 

 上司の野口から、何度も言われた。

 

 現場から戻った夕方、野口は友哉の机の横へ立った。

 

「今日、施主さんに何を説明した?」

 

「柱を残す方法と、替える方法です」

 

「それだけ?」

 

 友哉は図面を見た。

 

「残した場合の費用と、工期も」

 

「じゃあ、吉沢君はどっちがいいと思ってる?」

 

 友哉は少し考えた。

 

「残したほうです」

 

「最初からそう言えばええやん」

 

 野口はそれだけ言って自分の席へ戻った。

 

 友哉は、少し拍子抜けした。もっと理由を聞かれると思っていた。けれど、仕事では自分の考えを言ったあとに、必要な理由を足せばいいらしい。全部を完璧に説明してからでなければ口を開けないと思っていた自分のほうが、仕事を難しくしていた。

 

 設計会社へ入って半年ほど経ったころ、友哉は初めて現場で怒られた。

 

 図面の寸法を一つ間違えていた。大きな事故にはならなかったが、職人が予定を変えることになった。

 

 事務所へ戻ると、野口は怒鳴らなかった。ただ、なぜその数字を選んだのかを聞いた。

 

 友哉は答えた。前の図面をそのまま写したからだと。

 

 野口は、写した理由ではなく、自分で確かめなかった理由を聞いた。

 

 友哉は何も言えない。

 

 間違えれば、図面を引き直す。現場へ謝りに行く。材料を発注したあとなら、金がかかる。

 

 仕事では、前の人がそうしたからという理由は通らない。自分で見て、自分で決める。その結果を自分で引き受ける。

 

 友哉はその数字を見ながら、前の図面を写しただけで、自分では確かめなかったことを思い出した。

 

 それからしばらくして、友哉は古い住宅の改修現場に関わった。

 

 施主は高齢の夫婦で、長く住んできた家をできるだけ残したいと言った。けれど、冬になると台所が寒く、階段には手すりが必要だった。

 

 友哉は図面を引きながら、残すことと変えることの境目を考えた。

 

 古い建具を残すなら、断熱の方法を別に考える必要がある。手すりを付ければ、壁の一部を補強しなければならない。

 

 どちらかを選べば、別のところへ影響が出る。現場では、それを「納まり」と呼ぶ。人間のほうにも、たぶん同じようなものがある。けれど、そこには図面がない。

 

 友哉は図面の上で、残す線と消す線を何度も引き直す。

 葵の顔が一瞬浮かんだ。

 友哉は図面へ目を戻した。仕事は仕事だった。昔なら、何でも一つの答えへつなげていたかもしれない。今は、そのままにしておける。

 

 矢部は父親の建築会社へ入った。

 

 会うたびに言ったが、最初の一年は現場の掃除と資材運びがほとんどだった。二年目から見積書を作り、職人と現場へ行くようになった。

 

 友哉と矢部は、月に一度ほど飲んだ。学生時代と違い、仕事の話が増えた。

 

 金沢の茜とは、ときどき連絡を取った。

 

 茜は地元の出版社に就職した。観光案内や地域の小冊子を作る会社で、旅館の仕事は週末に手伝っているという。

 

 友哉が担当した町家改修の記事を、茜の会社が載せたこともあった。

 

『友哉さん、名前出てましたね』

 

『端に一行だけ』

 

『一行でも、決めた仕事でしょう』

 

 友哉は、その言葉にすぐ返事ができなかった。

 

 三年目の春、古い店舗を菓子店へ改修する仕事で、友哉は初めて一つの現場を任された。

 

 残してほしいと店主が言った柱は、内部まで腐食していた。補強して残すこともできるが、費用は大きく増える。新しい柱へ替えれば予算には収まる。

 

 友哉は一晩考え、翌日、店主に両方の方法を説明した。

 

「吉沢さんは、どっちがええと思います?」

 

 友哉は、逃げ道がなくなった気がした。学生のころなら、店主が決めやすいように両方の良さを並べて終わっていたかもしれない。

 

 逃げられない聞き方だった。

 

「残したいです。ただ、見えないところまで全部昔のままにする必要はないと思います。傷んだ部分を替えて、この柱がここにあった形を残します」

 

 言い終わると、店主はすぐに答えなかった。友哉も急かさなかった。柱には、長く触られてきた手の跡が黒く残っている。

 

 店主はしばらく柱を見てから、友哉の案で頼むと言った。

 

 決まったあとも、不安は消えなかった。工事が終わり、店が開き、その柱のそばで客が菓子を選んでいるのを見たとき、ようやく息ができた。

 

 帰りの電車で、友哉はその日のことを思い返した。大きな決断をしたわけではない。柱を残すかどうかを決めただけだった。それでも、自分の考えを先に言ったことが、以前より少しだけ自然になっていた。

 

 駅を出るころには、もう暗くなっていた。友哉は明日の予定を思い、必要な図面を思い出した。仕事のことを考えながら歩くと、葵のことが頭から消えるわけではない。それでも、二つを同じ場所に置いて歩けるようになっていた。

 

 菓子店の柱を残す工事が終わった夜、友哉は一人で店の前に立った。

 

 閉店後のガラス越しに、昼間は見えなかった柱の継ぎ目が見えた。

 

 古い部分と新しい部分は、完全には馴染んでいない。それでも、店主は残してよかったと言った。

 

 友哉はその言葉を聞きながら、昔の自分なら、もっときれいに見せようとしたかもしれないと思った。

 

 傷を隠し、違いを消し、最初からそうだったようにする。

 

 けれど、残すことは、何も変えないことではない。

 

 新しい材は新しいまま、古い材は古いまま残る。昼の光が当たれば、その違いはよく見える。それでも店は一つだった。友哉は、それでいいと思った。

 

 鴨川へ向かう道で、友哉は葵の顔を思い出した。連絡はしなかった。いまは、連絡しないことを自分で選んだ。

 

 葵が、なぜしんどかったのか、今なら少しだけ分かるような気がする。分かった、と言い切るほどの自信はない。あの頃の葵の顔を思い出すと、まだ胸の奥に小さな棘が残っている。

 

 葵が選ぶたび、友哉は横で「それでええ」と言っていた。

 あのときは、それで葵が自由になると思っていた。

 今なら、葵が一人で二人分を選んでいたことが分かる。

 

 スマートフォンを取り出したが、葵の名前は開かなかった。

 

 通知には、会社の連絡と宅配便の到着予定、それから学生時代の同級生が送ってきたどうでもいい動画が一つ並んでいた。人が死んだ夜でも、荷物は届くし、誰かは動画を送ってくる。世の中は、こちらの事情に合わせて速度を落としてくれない。

 

 そのことが、友哉にはありがたいような、腹立たしいような気がした。

 

 いまさら分かったと伝えることが、葵のためになるとは思えなかった。

 

 スマートフォンをポケットへ戻した。

 それでよかったのかは、分からない。分からないままでも、翌朝は会社へ行かなければならない。目覚ましを止め、顔を洗い、冷蔵庫の牛乳を飲む。人間は、分からないことを抱えたままでも、案外きちんと朝飯を食べる。

 

 分かったからといって、葵に連絡はしなかった。大学を卒業する前、葵が同じ学部の西村亮と付き合っていることを、矢部から聞いていた。

 

 亮は建築設備を学び、卒業後は海外の仕事もある設備会社へ入った。大学で何度か顔を見たことがある。課題の班が同じになったこともあった。

 

 自分の考えをはっきり言う男だった。人の意見を聞かないのではなく、違えば違うと言い、そのあとにどうするかを話した。

 

 葵が亮を選んだ理由を、友哉は聞いていない。

 

 聞かなくても、自分との違いばかりが目についた。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第二章 十五年ぶりの電話

 

 尾道の坂の上にある古びた木造家屋の庭先で、テルさんは洗濯物を干していた。

 

 海からの風が、今日は一段と強い。潮の匂いを乗せた強い突風が吹き抜けるたび、竹の物干し竿がぎしぎしと音を立てて軋んだ。

 

 テルさんはしわの寄った白いシャツの裾を両手で丁寧に引き伸ばし、頑丈な木製の洗濯ばさみでしっかりと挟み込んだ。

 

「飛んでいくなよ」

 

 誰に聞かせるでもなく、風にはためく洗濯物にそう話しかける。

 

 長年、この坂の上の古い家で一人で暮らしているテルさんにとって、家の中や庭にある物たちに声をかけるのは、ごく当たり前の日常の仕草だった。

 

 庭の隅には、先代から受け継いだ小さな花壇がある。そこには紫陽花や百日草が植えられており、時期になると小さな花を咲かせる。

 

 テルさんは毎朝、井戸水を汲んで花壇に撒くのを欠かさない。

 

 そのとき、格子戸越しに家の中から甲高い電子音が響いた。

 

 電話だった。

 

 テルさんは手を止め、腰をかばうようにしながらゆっくりと家の中へ入った。

 

 黒ずんだ廊下の突き当たり、畳の部屋の文机の上に置かれているのは、使い込まれて塗装の剥げかけた古い携帯電話だった。画面には小さな傷が幾つも入っている。

 

 画面には、何年も登録されたまま、一度も点滅することのなかった名前が表示されていた。

 

 ――千鶴。

 

 京都に嫁いだ、三つ下の妹だった。

 

「……何じゃろ」

 

 独り言を呟きながら、テルさんは不器用な手つきで通話ボタンを押した。耳に受話口を当てる。

 

「もしもし」

 

『お姉ちゃん?』

 

 スピーカー越しに聞こえてきたその声を聞いた瞬間、テルさんの皺の刻まれた表情が、ぴくりと動いた。

 

 かすかに掠れた、けれど聞き覚えのある高めの声。幾年月を経ても変わらない、妹の声音だった。

 

「千鶴か」

 

『うん』

 

「どうした」

 

『どうしたって……電話しただけよ』

 

「十五年ぶりに?」

 

 受話音の向こうで、千鶴がふっと小さく息を漏らして笑った。

 

『そうね。十五年ぶり』

 

 それ以上、二人はすぐには言葉を重ねることができなかった。

 

 十五年のあいだに、互いの声を聞かないまま過ぎた誕生日も、正月も、家族の知らせもあった。話そうと思えば話せたのに、どちらも最初の一言を見つけられなかった。

 

 それでも、互いに電話を切ろうとはしなかった。細い回線の向こうで、尾道の風の音と京都の部屋の静けさだけが、途切れずに続いていた。

 

『……元気?』

 

 千鶴が問いかける。

 

「元気じゃよ」

 

『本当に? どこも悪くない?』

 

「私は丈夫なんよ。病院なんか滅多に行かんわ」

 

 昔、体調を崩して周囲に無理やり病院へ連れて行かれたことなど綺麗さっぱり忘れたような口ぶりに、受話器の向こうの千鶴が苦笑する気配が伝わってきた。

 

『ふふ、昔からそういう強がりだけは変わらないね。お母さんもよく言ってたよ、「テルは頑固で強がりだから」って』

 

「お袋がそんなこと言っとったんかい」

 

『言ってたよ。何度も』

 

 テルさんも、口元を緩めた。

 

 それから二人は、取り立てて重要なわけでもない、たわいもない近況を二言三言かわし、そのまま静かに電話を切った。

 

 だが、一度繋がった糸が切れることはなかった。

 

 翌週の同じ時間帯にも、千鶴から電話があった。

 

「今日は京都も雨よ」

 

「こっちは風が強いわ」といった、気候の話から始まる短い会話。

 

 その次の週の土曜の夕方にも、また電話が鳴った。

 

 十五年の空白は、一気に埋まるわけではない。けれど、毎週の短いやり取りが、固く閉ざされていた扉を少しずつ押し開けていった。

 

 数週間後の夜、京都の古い町家で、千鶴は押し入れの奥深くにしまい込んであった茶箱を取り出した。

 

 埃を払い、蓋を開けると、中には黄色く変色した紙箱や古い写真が何枚も重なっていた。長年触れられていなかった紙の匂いが、ふわっと部屋に広がった。

 

 その束を一枚一枚手繰り寄せていた千鶴の手が、ふと止まった。

 

 和歌山の白浜で撮った一枚の写真だった。

 

 青い海と白い砂浜を背にして、家族四人がぎこちなく並んでいる。

 

 中央には、若き日の父親が破顔一番、大きな笑顔を浮かべて立っている。その隣の母親は、カメラを意識して少し照れたような、はにかんだ表情を浮かべていた。

 

 幼い千鶴は親の前にしゃがみ込み、無邪気に両手を大きく広げている。

 

 そして、テルさんはその輪の少し端の方に、すっと背筋を伸ばして立っていた。

 

 写真を裏返すと、鉛筆の薄い文字で「昭和四十八年 八月 白浜」と書かれていた。

 

 千鶴はその写真を灯りの下に引き寄せ、しばらくの間、じっと見つめ続けた。

 

 写真の中の若いテルさんの目は、どこか遠くを見つめているようでもあり、家族を静かに見守っているようでもあった。自分を殺して家族を支えようとしていた姉の幼さが、そこに残っていた。

 

 千鶴は吐息を漏らすと、机の引き出しから上質な和紙の封筒を取り出した。写真の端を傷つけないようにそっと中に入れ、丁寧に封をした。

 

 この一枚を、尾道にいる姉に送ることにした。

 

 封筒を持つ指先には、長いあいだ閉じていた記憶の重みが残っていた。

 

 十五年という時間を、一枚の写真が埋めることはできない。それでも、写真には写真にしかできない仕事がある。言葉になる前の時間を、そのまま手渡すことだ。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第五章 浦上九番

 

 翌朝、孝は目を覚ますと、昨夜届いた地図の画像を最初に確認した。

 

 眠っている間に削れていた記憶が、画面を見た瞬間に戻ってくる。祖母の家から伸びた赤い線。その途中にある丸印。そして、終点に記された「浦上九番」という文字。

 

 昨夜は、それが何を意味するのかばかり考えていたが、朝の光の中で見ると、別の疑問が生まれた。

 

 この地図を送ってきた人物は、なぜ自分たちに見せる必要があるのだろう。写真を撮るなと言った。けれど、その一方で、こうして場所を示してくる。近づくなと言いながら、近づくための道を教えているようにも見える。

 

 その矛盾が、かえって不気味だった。朝食の時間になり、三人と合流した。

 

 涼子は昨夜ほとんど眠れなかったらしく、朝から何度もあくびをしている。浩一は地図を見ながら、スマートフォンの現在地と照らし合わせていた。沙羅だけは、地図を見ても何も言わなかった。

 

 祖母が浦上へ向かったことを知っている。

 

 そして、祖母が祭りの日に古い灯籠を持って出かけていたことも思い出している。けれど、そこから先については、まだ何もわからない。孝は、今度こそ沙羅の母親に相談するべきだと思った。

 

 四人だけで判断するには、少しずつ重くなりすぎている。沙羅が母親へ電話をかけた。しばらく話していたが、やがて電話を切る。

 

 祖母はまだ戻っていない。警察にも相談している。

 

 そして、母親は四人に、できれば昨日の写真をすべて見せてほしいと言った。

 

 ただし、その写真を誰かに送ったり、インターネットに載せたりしないこと。それだけを強く念押しされた。

 

 沙羅は、母親に「浦上九番」のことを尋ねなかった。

 

 四人は朝食を終えたあと、予定していた観光地へ向かうことにした。今日の予定は、出島だった。浦上へ行くことは、まだ決めていない。それは四人の中で自然に一致していた。誰かに誘導されるように動くのは避けたかった。

 

*

 

 出島へ向かう道を歩いていると、長崎の街が少しずつ目を覚ましていくのがわかる。

 

 商店のシャッターが開き、店先に商品が並べられている。観光客が増え始め、路面電車の音が建物の間を抜けてくる。昨日までなら、こうした景色を純粋に楽しめたはずだった。

 

 しかし、今の孝には、街の中に過去の痕跡を探してしまう癖がついていた。出島もそうだった。現在は復元された建物が並び、観光地として整備されている。

 

 けれど、この場所がかつて外国との限られた窓口だったことを考えると、そこを行き交った人々の姿が想像できる。外から来たものを受け入れながら、同時に警戒していた時代。

 

 異なる文化や宗教が入り込み、それによって人々の生活も変わっていった。

 

 長崎という街には、そうした「外から来たもの」が何度も積み重なっている。

 

 孝は展示を見ながら、昨日の写真を思い出した。古い家。古い箱。9と17。そして浦上。もしかすると、この数字は単なる番号なのかもしれない。住所。施設番号。あるいは、古い地図の区画。

 

 それなら、なぜ誰かがこれほど隠そうとするのか。展示を見終わったあと、四人は外のベンチで休んだ。

 

 浩一がスマートフォンを見ながら、古い地図について調べていた。現在の浦上周辺と、戦前の地図を重ねてみる。いくつかの地名が消えている。道路も変わっている。

 

 しかし、「九番」という文字が、古い資料の中に何度か登場していた。

 

 ただし、それが何を意味するものなのかはわからない。検索結果の一つに、古い新聞記事の画像が出てきた。記事はかなり古い。文字も読みづらい。

 

 その中に「浦上九番」という言葉がある。

 

 しかし、記事の一部しか表示されないため、何について書かれているのかまではわからなかった。

 

 浩一が画面を保存しようとしたところで、突然、ページが表示されなくなった。もう一度検索する。出てこない。先ほどまで表示されていた記事が、検索結果から消えている。浩一は、しばらく画面を見つめていた。

 

 古いサイトなら、そういうこともある。それでも、昨日から何度も同じような偶然が続いている。

 

 涼子は、何も言わずに浩一のスマートフォンを見ていた。

 

 孝は、そこで初めて、自分たちが知らないうちに何かを調べ始めていることに気づいた。誰かを追いかけているわけではない。事件を解決しようとしているわけでもない。

 

 ただ、自分たちの目の前に出てきたものの意味を知りたいだけだった。

 

 それでも、一度調べ始めれば、次の疑問が生まれる。疑問が生まれれば、また調べる。

 

 そうして気づかないうちに、四人は昨日までとは違う場所へ進み始めていた。

 

*

 

 昼食のあと、沙羅の母親から連絡が入った。祖母の家をもう一度調べたところ、写真が一枚見つかったという。アルバムからなくなっていたものとは別の写真だった。

 

 その写真には、祖母が若い頃に撮ったらしい長崎の街が写っている。母親は、その写真を沙羅へ送った。四人で画面を見る。古い写真だった。

 

 画質が悪く、細かい部分まではわからない。けれど、背景に一つの建物が写っている。白い壁。細い窓。その建物の前に、何人かの人が立っている。その中に、一人だけ顔を隠すようにして立っている人物がいる。

 

 孝は、その人物の姿に見覚えがあるような気がした。けれど、思い出せない。写真の撮影場所もわからない。

 

 沙羅の母親は、この写真について祖母に聞いたことがあるらしい。祖母は、そのとき初めて、こう答えたという。

 

 「長崎には、見つけてはいけない場所がある」

 

 沙羅は、母親にその言葉の意味を尋ねた。返事はすぐには来なかった。やがて届いたのは、意外な内容だった。母親自身も知らない。ただ、祖母が昔からそう言っていたことだけは覚えている。

 

 その直後、母親からもう一つ写真が送られてきた。今度は古い地図だった。

 

 その地図には、昨日届いたものと同じような赤い線が引かれている。けれど、今回は始点が違う。

 

 長崎港から始まり、出島を通り、寺町へ向かい、最後に浦上へ伸びている。一本の線が、長崎の街を横断している。そして、その途中にいくつか数字が書かれていた。9。17。さらに、もう一つ。

 

4。

 

 涼子が地図を拡大した。4の位置は、四人がまだ行っていない場所だった。しかも、その場所には小さな印がつけられている。浩一が現在の地図と重ね合わせる。すると、そこは現在の道路の下にあたっていることがわかった。

 

 道路の下。それだけなら、珍しいことではない。

 

 しかし、古い地図には、その場所から地下へ続く線が描かれていた。水路なのか、地下道なのか、それすらわからない。ただ、線は地図の端で途切れている。その先には、何も書かれていない。四人は、しばらく画面を見つめていた。

 

 やがて沙羅が、母親から届いた最後のメッセージを開いた。

 

 そこには、祖母が昨夜いなくなる直前に残した言葉が記されていた。

 

「九番を見つけたら、四番へ行ってはいけない」

 

 孝は、その文章を読んだ瞬間、昨夜届いた地図を思い出した。そこには九番が示されていた。そして今、四番が現れた。誰かが四人に見せようとしている。そう考えたくなる。

 

 けれど、もしそうなら、なぜ祖母は「四番へ行ってはいけない」と言ったのか。

 

 四人は、すぐに答えを出そうとはしなかった。長崎の街では、夕方の光が少しずつ山の斜面へ移っている。観光客はまだ多い。店からは食事の匂いが漂い、路面電車がいつものように走っている。

 

 その普通の風景の中で、四人だけが一つの古い地図を見ていた。そして孝は、ふと気づいた。

 

 地図に記された「4」の場所。

 

 そこは、今朝四人がホテルを出るとき、何気なく通った場所だった。

 

 つまり、四人は知らないうちに、すでにその近くまで来ていたことになる。

 

 その事実に気づいたとき、孝は初めて、この旅が自分たちの意思だけで進んでいるのではないのかもしれないと思った。それでも、四人はその場所へ向かわなかった。少なくとも、その日のうちは。しかし、その夜。

 

 ホテルへ戻った孝のカメラに、撮った覚えのない一枚の写真が増えていることに気づく。画像の日付は、今日の午後三時十七分。写真には、四人が歩いていた出島の近くの道路が写っている。

 

 その道路の向こうに、見知らぬ老人が立っていた。老人はカメラを見ている。そして、その手には古い鍵が握られていた。

 

 写真の隅には、小さく数字が写り込んでいる。

 

4―9―17

 

 孝は、その数字を見つめながら、昨日までなら偶然だと思っていたことが、もう偶然だけでは説明できなくなっていることを認めざるを得なかった。

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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

七 二人分

 

 涼太の家族の話が出たのは、二人が何度か会うようになってからだった。大阪の家には、独立した息子がいる。ある夕食のあと、息子から電話があった。

 

「父さん、最近京都に行ってるんだって?」

 

「うん」

 

「誰かいるの?」

 

 涼太は少し黙ってから、昔付き合っていた人がいることを話した。息子は母親のことを尋ねた。離婚して十年になる。忘れたわけではない、と涼太は答えた。

 

 電話を切ったあと、涼太は翔子にその話をした。翔子にも娘がいる。親が新しい人生を始めることを、子どもが簡単に受け止められるとは限らない。だからといって、子どものためだけに残りの人生を決める必要もない。その境目を、翔子は慎重に考えていた。

 

 彩花が来た日、翔子は涼太のことを話した。昔付き合っていたこと。最近、よく会っていること。家にも来るようになったこと。

 

「お母さん、最近、楽しそうだね」

 

「そう?」

 

「うん」

 

 それから彩花は少し考え、父親がいなくなってから、まだそんなに時間が経っていない気がする、と言った。翔子はその言葉を責めることができなかった。

 

「お父さんを忘れてないよ」

 

「うん。分かってる」

 

 彩花が帰ったあと、翔子は健二の写真を見た。誰かを好きになることは、誰かを忘れることではない。そう思うと、胸の中にあった小さな罪悪感が少しほどけた。

 

 その頃から、涼太が翔子の家へ来ることが増えた。昼食だけの日もあれば、夕食まで一緒にいる日もある。涼太は惣菜を買ってきて、翔子は味噌汁を温める。食後には、涼太が自然に皿を洗う。

 

 そこに「恋人らしい」場面はほとんどない。けれど、翔子には、そのほうがよかった。大学生だった頃には知らなかった今の涼太が、台所に立っている。白髪が増え、肩も少し丸くなった背中を見ていると、四十五年という時間が急に身近になった。

 

 ある日、涼太が棚の奥にあるコーヒーカップを見つけた。健二が使っていたものだった。

 

「まだ使ってるのか」

 

「うん。まだ使えるから」

 

 涼太は、それ以上何も言わなかった。その沈黙が、翔子にはありがたかった。健二の時間を消して、涼太の時間に置き換える必要はない。二つの時間が同じ家にあってもいい。

 

 そう思えるようになった頃、翔子は気づいた。一人で生きていけることと、一人でいたいことは同じではない。

 

 その違いを認めることに、もう以前ほどのためらいはなかった。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第四章 帰る町

 

 京都へ戻った日の夜、友哉は荷物を片づけた。金沢で買った菓子と小さな土産が机の上に残った。

 

 葵のために買ったものではない。それでも、もし一緒にいたら渡していただろうと思う。

 

 友哉は箱を開けず、そのまま引き出しへ入れた。

 

 大学へ戻ると、講義はいつも通りだった。教員は提出された模型について話し、学生たちはメモを取る。

 

 友哉は図面の余白へ、金沢で見た階段の納まりを描いた。古い階段を全部取り替えるのではなく、傷んだところだけ直す方法だった。

 

 隣の学生が、画面を見ながら「これ、生成AIに聞いたら早い」と言った。別の学生が、でも課題は自分で考えろと先生に言われた、と笑った。友哉は聞きながら、建物も人間も、早く答えを出すことだけが正しいわけではないと思った。けれど、昔の自分なら、その考えさえ誰かの受け売りにしていたかもしれない。

 

 講義が終わっても、友哉はしばらく製図室に残った。

 

 以前なら、葵へ連絡する時間だった。今は連絡しない。

 

 そのことを寂しいと思いながら、それでも自分で決めたこととして受け止めた。

 

 夕方、鴨川へ出る。

 

 水はいつも通り流れている。金沢へ行ったことで、川が変わったわけではない。自分が川を見る位置だけが変わった。

 

 金沢にいたのは四日間だった。

 

 兼六園の雪吊りを見た。長町の土塀を歩き、金沢城の石垣を見た。石川近代文学館では、展示された原稿の書き直しに足が止まった。

 

 矢部は、建物を見に来たのか人の消した字を見に来たのか分からないと言った。

 

 友哉にも分からない。

 

 ただ、京都にいるときより、立ち止まることが増えていた。茜が旅館について話すとき、静枝が宿泊客の名前を呼ぶとき、和夫が市場から届いた魚を確かめるとき、その人が何を見ているのか気になった。

 

 帰る日の朝、茜は大学の講義があると言って、浅野川の橋まで見送りに来た。

 

「今度は京都にも来てください」

 

 友哉はその言葉を、社交辞令だとは思わなかった。だからこそ、すぐに返事ができなかった。

 

 茜は橋の向こうを見た。

 

「行きたいです。鴨川も、もう一度見たいし」

 

「友哉さん、京都の何を知ってるんですか」

 

 友哉は笑った。自分も同じだった。京都に住んでいる。それだけで、京都を知っているつもりになっていた。

 

 橋の上で茜と別れた。友哉は一度だけ振り返った。茜はまだそこにいたが、川のほうを見ていた。

 

 京都へ戻ると、大学もアパートも出かける前と変わっていなかった。

 

 金沢から戻ったばかりの週末、友哉は洗濯物を干しながら、旅館の窓から見た屋根を思い出していた。京都の屋根にも雪は積もる。けれど、金沢の屋根は雪が来ることを最初から知っているように見えた。

 

 物の形には、その場所で暮らしてきた時間が残る。そう考えると、京都の古い家も、ただ古いから残っているわけではない気がした。誰かが直し、誰かが住み続け、誰かがまた直す。その繰り返しの途中に、自分が一日だけ立っていたのだと思った。

 

 友哉はベランダから通りを見下ろした。向かいの家では、洗濯物を取り込む女性がいた。隣のマンションでは、宅配便の配達員が何度もインターホンを鳴らしている。金沢で見たものと同じではない。それでも、町は建物だけでできていないということだけは、少し分かった。

 

 翌朝、友哉はいつもの道を歩いた。角のクリーニング店が開き、店の人が道路へ水を撒いている。向かいの古い家は、一階だけが喫茶店に改装されている。毎日通っていたのに、店主の顔も、家に住んでいる人のことも知らなかった。

 

 友哉は大学へ向かう途中で、何度も足を止めた。

 

 以前なら、古い家を見つけると外観だけを見ていた。格子の形、軒の高さ、改修された部分。写真に残して、あとで課題の参考にする。

 

 その日は、店の前を掃く人が気になった。

 

 向かいの家から出てきた女性と挨拶を交わしている。クリーニング店の前では、店主がシャッターを上げながら隣の店へ声をかけた。

 

 建物だけを見ていたときには、見えていなかった町が広がっていた。

 

 友哉は少し遠回りをして大学へ向かった。遅刻するほどではない。これまでなら選ばなかった道だった。

 

 広いと思った。

 

 以前から同じ幅だったはずなのに、向こう岸までの距離が目についた。河原には一人で本を読む人も、並んで座る恋人たちもいた。人は多いのに、それぞれの間には何もない場所が残されていた。

 

 浅野川では、橋の上に立てば向こう岸の家の窓が見えた。どちらがいいということではない。違う川を知ったことで、毎日見ていた川の形が初めて見えた。

 

 友哉は三度、葵の名前を開いては閉じた。四度目に短い文を打ち、送信した。送ってしまうと、急に画面を見るのが嫌になった。

 

『話したい』

 

 返事はその日の夜に来た。

 

『何を?』

 

 友哉は画面を見ながら考えた。金沢へ行ったこと。知らない人と話したこと。自分が京都では町の人とほとんど関わっていなかったこと。

 

 それらを葵に話そうとして、やめた。話しているうちに、また自分の答えを聞かせることになりそうだった。

 

『会って話したい』

 

 二日後、二人は大学の近くの喫茶店で会った。

 

 葵はコートを脱がず、友哉の向かいに座った。注文した紅茶には手をつけなかった。

 

「いろんな人に会って、少し分かった気がする」

 

 葵は黙っていた。

 

「俺、前は葵に何でも決めさせてた。そやけど、今度は――」

 

「もう一回、やり直したい」

 

 葵の目が、友哉から外れた。

 

「金沢へ四日行って、何が分かったん?」

 

 言い返せなかった。

 

「友哉が何か考えたんは分かる。でも、私は、もう戻らへん」

 

 葵は紅茶を一口も飲まず、席を立つ。

 

 友哉は追わなかった。

 

 金沢で少し違う自分になったと思っていた。けれど葵には、旅行から帰った友哉が、自分の答えを持ってきただけに見えたのかもしれない。

 

 その答えを、葵が受け取ると思っていた。断られることまで、友哉は考えていなかった。

 

 その夜、友哉は仕事から戻ると、冷蔵庫の扉を開けた。卵が二つと、半分残った豆腐がある。葵と付き合っていたころなら、冷蔵庫の中身を見て、明日の夕食を一緒に決めることもあった。今は一人で決める。決めると言っても、卵を焼くか豆腐を味噌汁に入れるか、それだけのことだった。

 

 それでも、その小さな選択を自分でしていることが、以前より少し大事に思えた。人間は大きな決断だけで変わるのではない。毎日の小さなところで、自分の手を使っているかどうかでも、少しずつ変わるのかもしれない。

 

 数日後、矢部は水棲へ電話をかけた。

 

 友哉には知らせなかった。

 

 茜が京都へ行きたいと言っていたことを思い出し、大学の建築展を見に来ないかと誘った。旅館の建物について学生に聞けるかもしれないと付け加えると、茜は一度母に相談すると答えた。

 

 翌週、来られるという連絡があった。

 

 矢部が友哉に話したのは、その前日だった。

 

「明日、京都駅、十一時」

 

 友哉は食堂の箸を置いた。

 

「京都見たい言うてたやろ」

 

「俺に何も言わんと呼んだん?」

 

「言うたら、また考えるやろ。来てええんか、俺が案内してええんか、葵に悪ないか」

 

 友哉は矢部を見た。

 

「考えへんでええ日もある」

 

 矢部は、言ったあとで友哉を見なかった。友哉にとって、その言葉は妙に残った。考えることをやめるのではなく、考えた末に何もしないのでもない。ただ、その日だけは決めていいということだった。

 

 矢部は残っていたうどんを食べた。

 

 翌日、京都駅の中央口から茜が出てきた。金沢で会ったときと同じ紺色のコートだった。矢部を見つけて手を上げ、隣にいる友哉に気づくと、少しだけ歩みが遅くなった。

 

「聞いてませんでした」

 

 二人が矢部を見る。

 

「京都案内、俺一人では心細いやろ」

 

 建築展を見たあと、矢部は父親から呼ばれたと言って帰った。

 

「最初から、そのつもりやったんでしょう」

 

 茜は矢部の背中を見ながら笑った。

 

「友哉さん、迷惑でした?」

 

「昨日は迷惑やと思った。今は、来てくれてよかった」

 

 口にしてから、以前なら言わなかった言葉だと思った。

 

 二人は友哉の大学へ行った。製図室には模型と図面が残り、茜は友哉の課題を一つずつ見た。旅館の階段や柱について質問し、友哉は分かる範囲で答えた。

 

 大学を出ると、友哉のアパートまで歩いた。

 

「京都って、もっとどこも観光地やと思ってました」

 

 茜はコインランドリーとコンビニの間にある細い道を見た。

 

 友哉のアパートは、築二十年ほどの三階建てだった。外壁の一部が塗り直され、色がわずかに違っている。

 

 茜は向かいの古い家を見ていた。

 

「あそこ、誰が住んでるんですか」

 

「学生やと思う。会ったら頭下げるくらい」

 

「大学までの道で、知ってる人は?」

 

 友哉は歩いてきた道を振り返った。

 

「管理人さんと、食堂の人くらいかな」

 

「三年住んでるんですよね」

 

 責められたわけではない。茜は、自分が金沢で尋ねられたことを京都で尋ね返しているだけだった。

 

 茜と京都を歩いた日、友哉は自分のアパートの前で足を止めた。

 

 三年近く住んでいた。駅までの道も、近くのスーパーも知っている。けれど、隣の家の人の顔を知らなかった。茜はそれを責めなかった。だからこそ、友哉には答えにくかった。

 

 建物の中には、朝から機嫌の悪い人も、洗濯物を干す人も、隣へ醤油を借りに行く人もいる。図面には、そういう人は一人も描かれていない。友哉は、自分がその部分をほとんど見てこなかったことに気づいた。

 

 その日の帰り、友哉は食堂で店員に名前を呼ばれた。いつも同じ席に座るから覚えられていただけだったが、それだけで少しうれしかった。古い町家も、改装した店も、寺の屋根も見た。けれど、そこに住む人とはほとんど話したことがない。

 

「俺、京都に住んでるだけやったんかもしれへん」

 

 言葉にすると、少し情けなかった。三年も住んで、知っているのは建物の形ばかりだった。

 

 茜は何も言わなかった。

 

 鴨川へ出ると、茜は橋の上で足を止める。

 

 河原では学生がボールを投げ合い、少し離れて恋人たちが座っていた。自転車が何台も通り過ぎていた。

 

「浅野川と、どっちが好き?」

 

 友哉は、聞いたあとで自分が昔と同じ質問をしていることに気づいた。答えをもらいたいのではなく、自分の中にある二つを並べてみたかった。

 

 友哉が聞くと、茜はしばらく二つの岸を見た。

 

「浅野川は、向こうの人が何してるか見えます。鴨川は、見えない代わりに、こっちで好きにしていられる」

 

「決めなくていいんじゃないですか。違う川なんですから」

 

 二人は河原へ下りる。

 

 金沢の話をした。大学の話をした。茜は卒業後、出版社を受けたいが、母から旅館を手伝ってほしいとも言われていると話した。

 

「どっちにするんですか」

 

「今、決めることと、決めないことを決めるのは違うでしょう」

 

 茜は川を見ながら言った。友哉は、その言葉をすぐには理解できなかった。けれど、分からないまま覚えておこうと思った。

 

 友哉には、その違いがすぐには分からない。

 

 葵から、何でも私に決めさせると言われたことを思い出した。葵は、すべての答えを友哉に出してほしかったのではないのかもしれない。一緒に考えている友哉の考えを、聞きたかっただけなのかもしれない。

 

 そう思ったところで、あの日の葵の気持ちまで分かったわけではない。分からないものを、分かったことにしない。そのくらいは、前よりできるようになった。

 

 川上から風が吹き、茜の髪が頬にかかった。茜は話しながらそれを耳へ戻した。

 

 対岸の道に、葵がいた。

 

 由美と並んで歩いていたが、葵だけが河原を見ている。友哉と目が合ったのかは分からない。葵はすぐ前を向き、由美と歩いていった。

 

 友哉は声をかけなかった。

 

 茜はそれ以上聞かなかった。

 

 その少し前、由美から散歩に誘われ、葵は久しぶりに鴨川まで来ていた。友哉が金沢で知り合った女性を京都へ案内していることは、何も知らなかった。

 

 友哉は、その女性の話を聞いていた。以前のように、相手が話し終えるのを待っているだけではない。ときどき自分から何かを言い、女性が答えると、また考えていた。

 

 自分と別れたことで変わったのか、その女性と会ったから変わったのか。葵には分からなかった。

 

 ただ、友哉が変わり始めたからといって、自分が戻らなければならないわけではない。葵は由美と並び、河原から目を離した。

 

 浅野川と鴨川は、遠く離れた別の川だった。金沢へ行くまで、友哉のなかで二つが並ぶことはなかった。いまは鴨川を見ると浅野川を思い出し、違う町を知ったことで、京都で毎日見ていた人の姿も少し気になるようになった。

 

 見えるようになったからといって、分かったわけではない。そのことだけは、急いで結論にしなくてもよかった。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第三章 浅野川の朝

 

 朝食のあと、友哉は一人で旅館の周りを歩いた。雪は屋根の上に残っていたが、道路は人が歩ける程度に溶けていた。

 

 店の前では、年配の男性が雪を端へ寄せていた。通り過ぎる人が挨拶をすると、男性も手を止めて返す。

 

 友哉も頭を下げた。

 

 それだけのことなのに、少し気持ちが軽くなる。

 

 角を曲がると、浅野川が見えた。昨夜より明るい。川底の石がところどころ見え、雪の残る岸と水の境目がはっきりしていた。

 

 橋の上に立つと、向こう岸の家の台所から人の声が聞こえる。窓を開けているわけではない。けれど、生活の音が川を越えてくる。

 

 鴨川では、河原の広さのために音が遠くなる。浅野川は、町のすぐそばを流れていた。

 

 友哉は、その違いを覚えておこうと思った。建物の違いだけでなく、人と町の距離の違いとして。

 

 夕食には、治部煮、焼き魚、蟹の酢の物が並んだ。料理を作ったのは茜の父、嶋倉和夫だった。

 

 矢部は一口ごとにうまいと言い、近江町市場の店を茜に聞いた。友哉は広間の柱を見ていた。床から一メートルほどのところで継がれ、下だけ新しい材に替わっている。

 

「あの柱、根継ぎしてますね」

 

 茜が振り返った。

 

「傷んだ下の部分だけ替えてる。全部取り替えんでも残せるから」

 

「建築、勉強してるんですか」

 

 茜は友哉の顔ではなく、柱の継ぎ目を見ていた。人そのものより、いま話題になっているものを見ているらしい。その距離感が、友哉には心地よかった。

 

「まだ勉強してるだけ」

 

 友哉は、少しだけ背筋を伸ばした。建築の話になると、葵と付き合っていたころも言葉が増えた。その記憶が浮かび、すぐに口を閉じる。

 

 茜は柱を見ていた。

 

「毎日見てるのに、知りませんでした」

 

 友哉は少し得意になった。葵なら、そういうときに笑った。褒めているのか、呆れているのか分からない笑い方だった。

 

 友哉は食事へ目を戻した。

 

 夜になって雪が強くなった。浅野川を見に行くと言い出したのは矢部だったが、玄関へ下りる前に、明日の予定を調べると言って部屋へ戻った。

 

 雪の夜、浅野川の音は思っていたより近かった。

 

 橋の下を流れる水は暗く、街灯が途切れる場所では何も見えない。けれど、音だけは途切れずに続いていた。

 

 友哉は欄干に手を置いた。京都にいるときも川はいつも流れている。鴨川を見れば、今日が終わることも、次の日が来ることも自然に思えた。

 

 浅野川では、まだ何も知らない。その知らなさが、かえって静かだった。

 

 茜は川を見ていた。友哉は横顔を見ながら、葵なら今の沈黙をどう受け取っただろうと考えた。

 

 以前なら、その問いだけで気持ちが重くなった。今は、考えたあとで川へ目を戻せる。

 

 葵と茜を比べているわけではない。ただ、違う人と同じ場所に立つことで、自分が相手によってどう変わるのかが少し見え始めていた。

 

 玄関では、茜が案内すると言って待っていた。

 

 友哉は矢部を呼びに戻ろうとした。

 

「矢部さんから、友哉さんと行ってきたらって言われました」

 

 茜はもうコートを着ていた。

 

 外へ出ると、雪が街灯の明かりのなかへ斜めに落ちていた。橋を渡る人は少なく、向こう岸の家には明かりがあった。鴨川の夜より、川の音が近くにあった。

 

 茜は欄干に手を置いた。

 

「鴨川は、夜でも人が多い」

 

「一度だけ行きました。みんな、好きなところに座ってて、自由やなと思いました」

 

 茜は川を見ていた。

 

「人との距離が近いんです。いいこともあるけど、見せたくないことまで近くなることもあります」

 

 茜はそこで言葉を切った。友哉は続きを待った。待っている自分に気づいて、少し驚いた。

 

 友哉は、何を見せたくないのか聞こうとした。茜の横顔を見て、やめた。

 

 聞かないことと、相手の言葉を待つことは、同じではない。そんなことを、友哉は少しずつ考え始めていた。

 

「旅館、継ぐんですか」

 

 聞いてから、友哉は余計なことを聞いた気がした。茜の人生に、初対面の自分が線を引くような質問だった。

 

 茜は友哉を見て、少し笑った。

 

「京都の人って、初めて会った日にそこまで聞くんですか」

 

 茜は川面へ目を戻した。すぐには答えなかった。友哉は、答えない時間にも返事があることを、まだ知らなかった。

 

「まだ決めてません。出版社で働いてみたいと思ってるので」

 

 友哉は、聞けば答えてくれることもあるのだと知った。

 

 翌朝、矢部が眠っているうちに一人で外へ出た。

 

 雪はやみ、屋根と植木に薄く残っていた。犬を散歩させる老人、自転車で通り過ぎる高校生、店先を掃く人。前日に見た観光の町ではなく、人が一日を始める町が広がっていた。

 

 古い家の前で、年配の女性が竹箒を軒へ伸ばしていた。枯れ葉に届かない。友哉が見ていると、女性のほうから声をかけてきた。

 

「お兄さん、悪いんやけど、あれ取ってもらえんかね」

 

 頼まれたことが、なぜかうれしかった。役に立つほどのことではない。それでも、観光客として歩くのとは違う朝になった。

 

 友哉は竹箒を受け取った。背伸びをすると、乾いた葉がまとまって落ちた。

 

「ありがとう。近くの人?」

 

「京都から来ました。水棲に泊まってます」

 

「嶋倉さんとこ。あそこはよう手ぇ入れとる」

 

 旅館の名前より先に、暮らしている人の名前が出てくる。

 

「建物、見たら分かるんか」

 

 女性は友哉の顔を見て笑った。

 

「軒ばっかり見て歩いとったから」

 

 見られていたのは自分のほうだった。

 

 旅館へ戻り、玄関を開ける。

 

「ただいま」

 

 言ったあとで、友哉は自分でも驚いた。旅館へ戻ってきただけなのに、帰宅したときの言葉が出た。

 

 口から出て、友哉は足を止めた。

 

 花を生け替えていた静枝が顔を上げた。

 

「お帰りなさい」

 

「すみません。旅館やのに」

 

「どうして謝るんです。いい言葉ですよ」

 

 静枝は笑いながら言った。花を生ける手は止まらない。言葉を直すより、花の向きを直すほうが簡単なのかもしれなかった。

 

 静枝は花の向きを少し変えた。

 

「何度も来てくださる方には、ただいまとおっしゃるお客様もいます」

 

 その日の午前、茜が近江町市場へ仕入れに行くことになった。和夫が会合で出られず、静枝は帳場を離れられない。

 

 友哉は、自分も行っていいかと聞いた。

 

「観光じゃないですよ」

 

「荷物持つ。邪魔やったら帰る」

 

 茜は少し考え、裏からもう一台の自転車を出してきた。

 

 市場では、魚屋も八百屋も茜を知っていた。和夫が来ない理由を聞き、静枝の腰の具合まで尋ねる。茜はそのたびに答え、友哉を京都から来た宿泊客だと紹介した。

 

 店先には電子決済の小さな札が並んでいた。昔ながらの木箱の横に、見慣れない四角いコードが貼ってある。古い町は、古いままでは商売ができないらしい。友哉はそれを見て、少し安心した。残すことと変えることは、建物だけの話ではなかった。

 

「宿泊客に荷物持たせとるんか」

 

 魚屋の主人が笑った。

 

「自分からついてきたんです」

 

「変わった兄ちゃんやな」

 

 友哉は、鰤の入った箱を持ち直した。

 

 京都では、毎日同じ食堂へ行っても、料理を受け取るときに礼を言うだけだった。アパートの管理人とは、家賃と設備の話しかしたことがない。古い建物を見に町へ出ても、格子や軒の写真を撮って帰った。

 

 金沢に来て二日も経っていないのに、名前も知らない人から箒を渡され、魚屋から変わった兄ちゃんと呼ばれていた。

 

 不思議だった。けれど、嫌ではなかった。知らない人に声をかけられると、胸のどこかが少しだけほどける。京都では、ほどける前に帰ってしまっていたのかもしれない。

 

 市場での仕入れを終えると、二人は旅館へ戻った。

 

 市場から戻ったあと、友哉は玄関先で靴を脱ぎながら、自分が旅館の中を少し知っていることに気づいた。

 

 朝、和夫が魚を受け取る場所。静枝が帳場で電話を取る場所。茜が出入りする裏口。客が通る廊下と、働く人が使う狭い通路。

 

 建物の図面には、こういう違いは描かれない。

 

 同じ一つの建物でも、使う人によって通る場所が違う。そこに生活が重なっていた。

 

 友哉は、建築を学んで三年になる。けれど、建物を使う人の一日を考えたことはほとんどなかった。

 

 そのことが少し恥ずかしかった。頬が熱くなるほどではない。ただ、図面の余白に、最初からあったはずの線を一本見落としていたような気がした。帰ってから見つければ、もっと恥ずかしい。友哉は図面を丸めず、そのまま鞄へ入れた。

 

「友哉さん、昨日よりよう喋りますね」

 

 茜は笑ったが、からかっているようには聞こえなかった。友哉は返事を探した。京都で黙っていた理由を、金沢の人に説明するのは難しかった。

 

「京都では、あんまり喋らない人なんですか」

 

 友哉には答えられなかった。京都で自分がどういう人間だったのか、京都を離れて初めて聞かれた気がする。

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『 鴨川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

六 会わない時間

 

 涼太が待ち合わせに来なかった。午後一時。一時十分。一時半。翔子は何度もスマートフォンを見た。メッセージはない。電話をかけても出ない。

 

 以前なら、少し遅れているだけだと思っただろう。電車が遅れているのかもしれない。仕事が長引いたのかもしれない。けれど、今は違った。事故ではないか。倒れているのではないか。そんな考えが次々に浮かんだ。自分でも驚いた。涼太が来ないだけで、こんなに落ち着かなくなる。

 

 そのことが、翔子の中に残った。若い頃なら、相手が来なければ腹を立てただろう。今は、怒るより先に心配になる。自分も同じように年を取っている。二時近くになって、涼太が走ってきた。

 

「悪い。スマホの電池が切れてた」

 

 翔子は何も言わなかった。怒る気にもなれない。

 

「どうした?」

 

「……事故にでも遭ったのかと思った」

 

 涼太の顔から笑いが消えた。

 

「ごめん」

 

 それだけだった。帰り道、翔子は一人で賀茂川を歩いた。川面が光っている。風が少し冷たい。涼太が元気でいる。それだけで、こんなに安心する。

 

 会える日は嬉しい。来ない日は心配になる。帰ったあとは少し寂しい。また会いたいと思う。翔子は、その気持ちに無理に名前をつけなかった。

 

 そんな小さな心配が、いつの間にか生活の中へ入ってきた。数日後、今度は涼太から電話があった。

 

「この前、心配かけたから」

 

「もういいわよ」

 

「そう言われると、余計に悪かったと思うな」

 

 翔子は笑った。

 

「じゃあ、次から気をつけて」

 

「分かった」

 

 それで話は終わった。けれど、その日から涼太は、京都へ来る前に必ず連絡するようになった。翔子も、涼太が大阪へ帰るときには、

 

「着いたら連絡して」

 

 と言うようになった。

 

 約束というほどのものではない。それでも二人の間には、いつの間にか小さな習慣ができていた。会わない時間にも、相手がいる。それが翔子には新しかった。

 

 誰かが自分の生活に入ってくれば、食事の時間を考え、予定を合わせ、相手の体調まで気にすることになる。生活は少し面倒になる。それなのに、その面倒が嫌ではない。一人の暮らしは自由だったが、二人で過ごすには、その自由を少し手放す必要がある。翔子は、その不自由さを久しぶりに心地よいと思った。

 

 夫と暮らしていた頃は、誰かを心配することが日常だった。健二が帰る時間を気にする。食事を用意する。体調を気にする。長い結婚生活の中では、それらは愛情なのか義務なのか分からなくなっていた。今は違う。

 

 自分から選んで、誰かのことを気にしている。その違いが、翔子には少し嬉しかった。一人で何でもできることだけが、自立ではないのだと思った。

 

 会わない時間があると、かえって相手の存在が分かる。帰れば、それぞれの生活へ戻る。それでも一人になると、さっきまで隣にいた人を思い出す。そのことが、翔子には少し怖く、同時に嬉しくもあった。

 

 その夜、翔子は久しぶりに早く眠った。朝、目を覚ますと、涼太から短いメッセージが届いていた。

 

――今日はありがとう。

 

 翔子は、何に対する「ありがとう」なのだろうと思った。来てくれたことか。心配させたことか。それとも、何も言わずに隣にいたことか。考えているうちに、どれでもいいような気がした。