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『 二つの流れのあいだ 』

 

第七章 同じ旅館

 

 葵の実家から帰って数か月が過ぎた夏、友哉は会社から一週間の休暇を取った。行き先を決めるまで、時間はかからなかった。もう一度、水棲へ行きたかった。

 

 水棲で過ごす一週間は、旅行というより仕事に近かった。

 

 朝食のあとに建物を見て、午後は修繕の必要な場所を図面へ落とす。夜になると浅野川を歩く。

 

 茜は出版社の仕事を休み、旅館の帳場に立っている。疲れているはずなのに、客が来れば笑顔になる。

 

 友哉は、その笑顔を見ながら、仕事とは誰かの前で自分を整えることでもあるのだと思った。

 

 自分も会社では同じことをしている。疲れていても、施主の前では図面を開き、問題点を説明する。

 

 ただ、旅館ではそれが生活そのものになっていた。

 

 茜が仕事を辞めるか、旅館を続けるか迷っていることを知ったとき、友哉はすぐに答えを出そうとはしなかった。

 

 昔なら、相手が迷っていると、自分の考えを先に渡していた。相手のためだと思っていたが、自分が待つのが苦手だっただけかもしれない。

 

 今は、茜が黙って考えている時間を待てる。相談されれば、自分の考えも言う。ただ、最後の決定まで自分の手に取ることはしない。茜が黙っているあいだ、友哉は湯呑みの縁を指でなぞっていた。

 

 そのことに気づいたのは、旅館で過ごす時間が半ばを過ぎたころだった。

 

 金沢駅の鼓門は、学生のころに見たものと変わらなかった。駅前には新しい店が増え、外国人旅行者の姿が目立っていた。友哉は荷物を持って浅野川まで歩いた。

 

 水棲の玄関には、同じ木の札が掛かっていた。

 

 柱も格子も、遠目には昔と変わらなかった。しかし近づくと、庇の板金が新しくなり、雨樋の一部が取り替えられていた。二階の壁には細い亀裂が増えていた。

 

 引き戸を開けると、帳場に茜がいた。

 

 茜は立ち上がり、学生のころと同じように少し首を傾けた。

 

「連絡せんと来て、ごめん」

 

「宿泊の予約は入ってました。名前を見て、同じ人かなと思ってたんです」

 

 静枝の姿がない。

 

 茜の母は、二週間前から入院していた。春から体調を崩していたが、帳場を休まず、ある朝立てなくなった。過労と貧血で、しばらく治療が必要だという。

 

 和夫と茜で客を減らしながら営業を続けていた。茜は出版社を休職していた。

 

「閉めることも考えたんです」

 

 茜は宿帳を閉じた。

 

「でも、予約してくださってるお客さんがいたから。全部断るのも、お母さんが嫌がって」

 

 客室へ案内される途中、昔と同じ階段が鳴った。

 

「直すところ、ほかにいっぱいあるんです」

 

 茜は、少し困ったように笑った。

 

 友哉は宿泊客として来た。しかし、茜が一人で布団を運んでいるのを見ると、手を貸した。翌朝は玄関を掃き、朝食の膳を広間へ運んだ。

 

 旅館の仕事が分かるわけではない。客から食事の内容を聞かれれば茜を呼び、電話が鳴っても勝手には取らなかった。できることだけを尋ね、その答えを待って動いた。

 

 和夫は最初、客にさせることではないと言った。三日目には、倉庫から替えの座布団を出してくれと頼んだ。

 

 午後、客が出払うと、友哉は建物を見て回った。

 

 水棲で働く日が続くうち、友哉は旅館の一日の流れを覚えていった。

 

 朝は早い。客が起きる前に廊下の掃除が始まり、厨房では和夫が出汁を取る。茜は帳場と厨房を行き来し、電話が鳴れば手を止める。

 

 予約の電話のほかに、ネットから入った予約を確認する作業もある。外国からの客には翻訳の画面を開き、道順を聞かれれば地図を送る。古い旅館なのに、帳場の隅には新しい端末が置かれている。

 

 茜は帳場の新しい端末を見ながら、旅館を残すというのは昔のままにすることではない、と言った。友哉は返事をしなかった。言われなくても、柱の傷を見れば分かる気がした。

 

 昼を過ぎると少し静かになる。その時間に建物の傷んだ場所を調べる。

 

 雨漏りは屋根だけの問題ではない。壁の中へ水が入り、柱の一部まで傷んでいる。修理するなら、見えるところだけでは足りない。

 

 友哉は図面へ書き込んだ。

 

 建物を残すためには、見えない場所へ手を入れる必要がある。

 

 雨漏りの跡、建具の歪み、床の沈み。すぐ危険なものと、次の修繕まで待てるものを分け、簡単な図面に落とした。

 

 茜が図面をのぞき込んだ。友哉は、自分にできることと、できないことを分けて考えた。

 

「旅館の修繕を俺一人ではできへん。調べて、誰に頼むかは考えられる」

 

 学生のころ、この旅館のために自分が何をできるかなど考えたこともなかった。いまなら、自分が学び、働いてきた側から関われる。

 

 休暇の終わる前日、茜と浅野川を歩いた。

 

 夏の川には冬とは違う光があり、橋の下で子どもが水へ足を入れている。向こう岸の店から、食器を重ねる音が聞こえた。

 

「こんなときに言う話じゃないんですけど」

 

 茜は立ち止まらずに言った。

 

「私、友哉さんのこと、ずっと好きでした」

 

 茜は笑った。告白した人の笑い方ではなかった。言わずにいたものを、ようやく手から離した人の顔だった。

 

 友哉はすぐに返事ができなかった。

 

 茜は友哉を見なかった。

 

 茜から気持ちを告げられた夜、友哉は一人で部屋へ戻った。

 

 窓を開けると、浅野川の音が聞こえる。

 

 茜は自分を好きだと言った。

 

 うれしかった。胸の奥が少し熱くなった。その熱を、友哉はすぐに葵の名前で冷まそうとはしなかった。

 

 茜といると、自分の考えを言っても相手の答えを待てる。学生のころの自分なら、そんなことさえ恋愛の始まりだと思っていたかもしれない。

 

 それでも、葵への気持ちは残っている。

 

 残っていることを、茜への返事にしてはいけない。友哉は窓を開け、長いあいだ浅野川の音を聞いた。

 

「今すぐ何かしてほしいわけじゃないです。言わないまま、また京都へ帰られるのが嫌やっただけです」

 

 茜はそこで初めて友哉を見た。目には涙がなかった。それがかえって、長いあいだ考えていたことなのだと分かった。

 

 友哉は、茜の言葉を自分の返事で急いで閉じたくなかった。

 

 二人は橋まで歩き、旅館へ戻った。

 

 出発する朝も、友哉は朝食を運び、客室の布団を片づけた。和夫に建物の図面を渡し、京都へ戻ってから相談できる会社を探すと話した。

 

 玄関で靴を履き、茜に向き直った。

 

「俺には、まだ気持ちを伝えていない人がいる」

 

 茜はしばらく友哉の顔を見た。

 

「その人には、友哉さんのことを決めてもらわないでくださいね」

 茜はそれだけ言って、玄関のほうへ歩いた。友哉は追わなかった。追えば、茜がせっかく自分で言った言葉まで、友哉が受け取る形に変えてしまいそうだった。

 

 友哉は、すぐには答えられなかった。

 

 昔なら、自分が傷つかないように、相手の答えを先に決めていた。茜はそのやり方を見抜いていた。

 

 友哉には、その意味が分かった。

 

 茜はそれ以上何も言わなかった。いつもの声で「気をつけて」とだけ言った。

 

 浅野川の橋を渡る途中、友哉は一度だけ振り返った。水棲は見えなかった。屋根の一部が、通りの家々の間から見えるだけだった。

 

 昔と同じようにあると思っていた旅館も、人が手をかけなければ残らない。

 

 何もしないことが、相手を傷つけないとは限らない。友哉は、仕事でそのことを何度も見るようになった。決めなければ、現場の誰かが決める。遅れれば、別の誰かが頭を下げる。恋愛も、たぶん似ていた。そう思っても、葵へ説明する気にはならなかった。今さら説明しても、昔の時間は戻らない。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第八章 八月八日の記憶

 

 「1945年8月8日」という日付を見つめていると、孝は、これまで自分たちが追いかけてきた数字の意味が、少しずつ別の形を取り始めていることを感じた。

 

 9と17。4。そして、8月8日。

 

 これまで数字は、古い灯籠や地図、写真の片隅に現れていた。それぞれが何を指しているのかはわからなかったが、少なくとも誰かが意図して残した可能性が高い。

 

 その数字が、長崎の歴史の中でもっとも大きな断絶が生まれる前日に結びついている。

 

 それだけで、四人の目の前にあるものの重さが変わった。母親は、紙を手にしたまま黙っている。

 

 その横顔には、驚きよりも、むしろ「いつかこの日が来るのではないか」という覚悟に近いものが浮かんでいた。

 

 孝は、それが気になった。母親は、この紙の存在を初めて知ったわけではないのではないか。

 

 そんな疑いが浮かんだものの、すぐに尋ねることはしなかった。家族の中で長い間隠されてきたことには、それなりの理由がある。まして、祖母が行方不明になり、ようやく戻ってきたばかりなのだ。

 

 ここで無理に聞き出せば、かえって何か大切なものを壊してしまうかもしれない。そのとき、母親が古いアルバムを閉じた。

 

 紙の端を指で撫でるようにしてから、ゆっくりと顔を上げた。

 

 「祖母が、昔、一度だけ話してくれたことがあります」

 

 声は静かだった。それまで聞いていた話とは少し違う。

 

 祖母が若かった頃、家族には弟がいた。少年は、八月九日の混乱の中で姿を消した。家族は死亡したものとして扱ったが、遺体が確認されたわけではない。それでも、祖母だけは最後まで納得しなかった。

 

 少年が亡くなったのではなく、誰かに連れていかれたのではないかと考えていたらしい。なぜそんな考えを持ったのか、その理由は祖母自身も語らなかった。

 

 ただ、八月八日の夜、少年が家を出る前に、一人の外国人男性が訪ねてきたという。その男性は、長崎港に関係する仕事をしていた人物だった。

 

 戦争によって外国人との往来が制限される中でも、長崎には海外とのつながりを持つ人々が残っていた。

 

 商取引だけではなく、文化や宗教、人の往来によって築かれてきた関係は、政治的な状況が変わったからといって完全に消えるものではない。その男性が何をしに来たのか。祖母は、そこだけは話さなかった。

 

 ただ、男性が帰ったあと、少年も家からいなくなった。そして翌日、八月九日を迎えた。

 

 家族が暮らしていた地域も大きな被害を受け、家屋や記録の多くが失われた。戦争の混乱の中で、少年の消息を追うことはできなくなった。それでも祖母は、少年が単純に亡くなったとは考えなかった。

 

 その後何十年も、少年が最後にいた場所を探し続けたという。祭りの日に灯籠を持って出かけたのも、そのためだった。灯籠を一つ置き、そこから別の場所へ移動する。それを毎年繰り返していた。まるで、誰かに道を示すように。

 

 話を聞きながら、孝は昨日の地図を思い出していた。

 

 長崎港から出島、寺町、浦上へ伸びていた一本の線。それは単なる観光地を結んだ線ではなかったのかもしれない。祖母が何十年もかけて追い続けた道だった可能性がある。

 

 そして、その道の途中に9や17、4という数字が残されていた。

 

 もしそうなら、「九番から四番へ」という言葉は、ある場所から別の場所へ何かを移したことを意味しているのかもしれない。

 

 何を移したのか。なぜ移す必要があったのか。そして、なぜ八月八日なのか。そこまで考えたとき、浩一がスマートフォンを見せた。古い資料を調べているうちに、ある記録を見つけたという。

 

 戦前の長崎港に関係する外国人の記録だった。名前はすぐには判読できない。

 

 古い文字を画像処理して拡大すると、どうにか一部だけ読める。

 

 そこには、外国人男性の名前と、その人物が使っていた倉庫の場所が記されていた。

 

 そして、その倉庫の住所の横に、小さく「九」の文字がある。

 

 浩一は、その記録をさらに調べた。

 

 現在の地図に重ねると、倉庫があった場所は、長崎港からそれほど離れていない。しかし、そこは現在では建物が建て替えられ、当時の姿は残っていない。それでも、古い地図には地下へ続くような線が描かれている。

 

 昨日見たものと同じだった。孝は画面を見つめた。

 

 これで「地下」というものが、偶然ではなくなったように感じられる。

 

 古い倉庫。地下への入口。祖母の家にあった木箱。浦上の地下室。そして、黒く塗りつぶされた少年の写真。いくつもの断片が、ようやく一つの方向を向き始めている。しかし、そのとき母親が、静かに首を横に振った。

 

 「その場所には行かないほうがいいと思います」

 

 声に迷いはなかった。四人は母親を見る。

 

 母親は、しばらく窓の外を眺めたあと、祖母が数年前に一度だけ口にした言葉を思い出した。

 

 「あの人たちは、まだ探している」

 

 祖母は、そう言ったという。何を探しているのか尋ねても答えなかった。

 

 ただ、八月になると決まって不安そうになり、古いアルバムを確認していた。その理由を母親が理解したのは、今回の出来事が起きてからだった。誰かが、まだ少年の痕跡を探している。そのために祖母の家を調べた。

 

 写真を持ち去った。

 

 祖母を連れ出した。そして今度は、四人が持っている写真を狙っている。そこまで考えれば、四人がこれ以上関わることは危険だった。京都へ戻る。それが一番安全なのかもしれない。しかし、そこで一つの疑問が残った。

 

 なぜ、四人に写真を送る必要があったのか。

 

 誰かが四人を監視しているのであれば、写真を見せる必要などない。むしろ、何も知らせずに放っておいたほうが都合がいいはずだった。それなのに、知らない番号から何度も写真が届く。

 

 近づくなと言いながら、次の場所を示してくる。これは脅迫なのか。

 

 それとも、誰かが四人を利用して、別の人物に何かを伝えようとしているのか。孝には、その違いがまだわからなかった。

 

*

 

 祖母の家を出たあと、四人はすぐにホテルへ戻らず、近くの小さな喫茶店に入った。窓際の席からは坂道を歩く人々が見える。観光客の姿もあれば、買い物袋を提げた地元の人もいる。

 

 長崎という街の中では、何十年も前の出来事を追いかけている四人のほうが、むしろ場違いな存在に思えた。

 

 涼子は、テーブルの上にスマートフォンを置き、これまでに撮った写真を一枚ずつ確認していた。観光で撮った写真。祖母の家。灯籠。石垣。浦上。出島。写真を並べていくと、意外なことに気づく。

 

 「9」が写っている写真には、すべて同じ方向を示すものが写り込んでいた。

 

 最初は気のせいだと思った。しかし、祖母の家の写真では窓。灯籠の写真では路地。石垣では坂。浦上では古い建物。どれも、写真の構図の中で右奥へ視線を誘導するように配置されている。

 

 誰かが撮影した写真なら、意図的にそうした構図にすることもできる。しかし、四人が無意識に撮った写真まで同じ方向を示している。

 

 それは、偶然にしては妙だった。孝は、そこで一つの可能性を考えた。

 

 写真そのものが手掛かりなのではなく、写真を撮った場所を順番にたどることによって、何かが見えてくるのではないか。つまり、9や17は目的地ではない。写真の中にある別の要素を見つけるための印なのかもしれない。

 

 そう考えると、昨日の地下室の写真も違って見えてくる。壁に貼られた祖母の写真。黒く塗りつぶされた少年。そして、その背後にある壁。壁には数字がいくつも刻まれていた。孝は、昨夜撮った写真を再び拡大した。

 

 数字を一つずつ確認する。9。17。4。そして、もう一つ。

 

12。

 

 それまで誰も気づかなかった数字だった。12は、少年の写真のすぐ下に刻まれている。浩一が地図を開く。

 

 もし数字が場所を示しているのなら、12にも対応する場所があるはずだ。古い地図を探す。

 

 すると、現在は存在しない古い住所の中に「十二番」という区画が見つかった。

 

 場所は、長崎港から少し離れた丘の上だった。その付近には、戦前には小さな礼拝所があったらしい。しかし、現在は跡形もない。

 

 さらに調べると、その礼拝所が使われていた時期には、外国人との交流があったことも記録されている。キリシタンの歴史。外国との交流。戦争。原爆。戦後。

 

 これまで別々に見えていた長崎の歴史が、少しずつ一本の線として重なってくる。それは、単なる秘宝探しのような話ではない。誰かが守ろうとした記憶が、時代を越えて残っている。その記憶を、誰かが消そうとしている。

 

 そして、祖母はその間で何十年も何かを守ってきた。そこまで考えたところで、沙羅が窓の外を見た。

 

 道路の向こうに、昨日の車が停まっている。今度は運転席に人影があった。四人は一斉に動かなかった。車内の人物も、こちらを見ているようには見えない。ただ、しばらくすると車が動き出し、坂を下っていく。

 

 孝は、その方向を見ながら、あることに気づいた。車が向かった先は、長崎港ではない。浦上でもない。

 

 昨日の地図に示された「4」の場所へ向かう道だった。

 

 四人は、ここで初めて、相手の動きを待つという選択をした。自分たちから追うのではなく、相手がどこへ向かうのかを見る。それなら危険も少ない。しかし、十分ほど経ったところで、沙羅のスマートフォンが震えた。

 

 知らない番号からだった。今度は文章ではなく、音声ファイルが一つ添付されている。

 

 再生すると、しばらく雑音が続いた。風の音。遠くで人の声がする。そして、その奥から低い声が聞こえた。

 

 「九番を見つけたなら、もう戻れない」

 

 音声はそこで切れている。四人は顔を見合わせた。誰の声なのかはわからない。けれど、最後に一つだけ、はっきり聞こえた音があった。鐘の音。長崎のどこかで鳴っている鐘の音だった。

 

 浩一が、スマートフォンの音声をもう一度再生する。鐘は三回鳴っている。その間隔を聞いていた孝は、ふと気づいた。

 

 昨日見つけた古い地図には、数字だけではなく、いくつかの小さな印があった。その一つが、教会の鐘を示す記号に似ている。

 

 そして、その記号の位置を現在の地図に重ねると、次の場所が浮かび上がった。それは、四人がまだ一度も訪れていない場所だった。山の斜面にある、古い教会跡。そこには現在、建物は残っていない。

 

 しかし、戦前の記録には、その場所について一つの記述が残っていた。

 

「地下に、古い記録を保管する場所あり」

 

 孝は画面を見つめた。そして、ゆっくりと顔を上げた。長崎の街は、夕暮れを迎えようとしている。

 

 この街では、何百年もの間、人が信じ、隠し、守り、失い、また探してきたものが、地面の下に眠っている。四人が今追っているものも、その一つなのかもしれない。ただし、そこへ行けば何かがわかるという保証はない。

 

 むしろ、そこへ行ったことで、今まで知らずに済んでいたことまで知ってしまう可能性がある。それでも、翌朝になれば、四人はその教会跡へ向かうことになる。

 

 なぜなら、その夜遅く、沙羅の母親から新しい連絡が届いたからだった。祖母が、病院のベッドの上で初めて自分から口を開いた。そして、こう言ったという。

 

「あの子は死んでいない。八月九日の朝、誰かが連れて行った」

 

 その言葉の直後、祖母は一枚の紙を母親に渡した。

 

 そこには、長い年月を経ても消えない筆跡で、たった一つの場所が記されていた。

 

「十二番」

 

 そして、その下には、四人がまだ知らない名前が書かれていた。

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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

十 賀茂川の向こう側

 

 春が深くなった頃、二人は賀茂川のほとりを歩いた。

 

 冬の名残をまだ少し含んだ風が川面を渡っていたが、土手の草はもうすっかり春の色になり、遊歩道を行き交う人の服装も軽くなっている。川辺に腰を下ろして話す若い人たちの姿も増え、犬を連れて歩く人、自転車で通り過ぎる人、ゆっくりと川を眺めながら歩く人が、それぞれの時間を賀茂川の流れの中へ置いていくように見えた。

 

 涼太が少し先を歩いている。

 

 翔子は、その背中を眺めながら歩いた。

 

 四十五年前にも、こんなふうに歩いたことがあった。

 

 あの頃の涼太はもっと若く、背筋も今より伸びていて、歩く速度も速かった。翔子も負けないようについて歩いた。どこへ行くのか決めていなくても、二人で歩いていることが楽しく、日が傾いてくると、まだ帰りたくないと思った。あの頃は、この先に何十年もの時間が待っていることを疑わなかったし、その時間の中で自分たちがどんな人生を送ることになるのかなど、考えもしなかった。

 

 未来を知らないまま歩いてきたのだと、翔子は六十八歳になって初めて実感した。

 

 あのときから四十五年が過ぎている。

 

 川の向こうに目をやると、春の光を受けた木々の葉が風に揺れていた。四十五年前と同じ鴨川が流れているのに、見ている自分はもうあの頃の自分ではない。

 

 翔子には健二と過ごした年月があり、涼太にも、元妻や家族と生きてきた年月がある。笑った日も、腹を立てた日も、うまくいかなかったことも、それぞれの人生に残っている。

 

 それを消して、二人の時間だけを新しく作る必要はない。そこまで生きてきたからこそ、今こうして隣を歩ける。

 

 翔子は、そう思いながら歩いた。

 

 しばらく歩いたところで、涼太が振り返った。

 

「疲れた?」

 

「少し」

 

 そう答えると、涼太はそれ以上何も聞かず、歩く速度を落とした。

 

 翔子も歩幅を合わせる。

 

 それだけだった。

 

 けれど翔子には、その何気ないことが妙に嬉しかった。

 

 若い頃なら、好きだという言葉や、これから先も一緒にいるという約束を求めていたかもしれない。今は、疲れたときに歩く速度を合わせてくれる。そのことのほうが心に残る。

 

 翔子は、涼太の少し後ろを歩きながら、そのことを考えていた。

 

 昔の二人は、もっと先を急いでいた。

 

 今の二人は、急ぐ必要がない。

 

 歩く速度が違えば、どちらかが合わせればいい。

 

 それだけのことが、四十五年を生きてきた二人には大切だった。

 

 賀茂川の水は、二人の足元を離れて、ゆっくりと南へ流れていく。

 

 同じ場所に見えても、そこを流れている水は一瞬ごとに変わっている。

 

 過ぎた時間を取り戻すことも、若い頃の二人に戻ることもできない。それでも、これからの時間は残っている。

 

 そう思うと、翔子の気持ちは少し軽くなった。

 

     *

 

 家に戻ると、玄関には涼太の靴が置かれていた。

 

 以前なら、自分の靴だけが並んでいた場所である。長い一人暮らしの間に、その光景にもすっかり慣れていた。誰かが来れば靴が増え、帰ればまた一足になる。それが当たり前だった。

 

 今は違う。

 

 涼太の靴が一足あるだけで、玄関の空気まで少し違って見える。

 

 洗面所へ行くと、鏡の前には翔子の歯ブラシの隣に、涼太の歯ブラシが一本並んでいる。冷蔵庫を開ければ、翔子一人なら買わなかったものが入っていることもあるし、食卓にはいつの間にか二人分のものを置くことが増えた。

 

 涼太は大阪の家を手放さない。仕事のある日は大阪へ行き、向こうの人間関係や家族との関係も続いている。翔子も、それを変えようとは思わなかった。

 

 翔子には翔子の、涼太には涼太の人生がある。四十五年という時間は、簡単にひとつにはならない。

 

 そこには二人だけにしか分からない出来事があり、喜びも、苦しさも、後悔も、言葉にできない思いも、それぞれの人生の中に残っている。

 

 過ぎた時間を、今の二人に都合のいい形へ並べ直す必要はない。そのまま残して、これからの時間を始めればいい。

 

 夕方になり、食事を済ませる頃には、窓の外が少しずつ暗くなっていた。

 

 涼太は翌朝の仕事のことを考え、大阪へ戻ることにした。

 

 玄関で靴を履く涼太を見ながら、翔子はいつものように「気をつけて」と言った。

 

「明日、戻るよ」

 

「うん」

 

 それ以上の言葉は出てこなかった。

 

 昔なら、別れ際にはもっと何か言いたかっただろうと思う。帰らないでほしいと伝えたくなったかもしれないし、いつ戻ってくるのか何度も確かめたかもしれない。

 

 けれど今は、明日戻ると言われたことだけで十分だった。

 

 戻ってくる人がいる。

 

 それを知っているだけで、見送る寂しさは違っていた。

 

 涼太が玄関のドアを開けると、夜の冷えた空気が細く入り込んできた。

 

 ドアが閉まる。

 

 翔子はしばらくその場に立っていた。

 

 静かだった。けれど、以前とは違う。玄関の靴も、洗面所の歯ブラシも、椅子の位置も、誰かがいた気配を残している。

 

 翔子は、そういうものを眺めながら、少しだけ笑った。

 

 明日になれば、また朝が来る。

 

 そう思って寝室へ向かった。

 

     *

 

 翌朝、翔子はいつもの時間に起きた。

 

 長年の習慣は、生活が変わっても簡単には変わらない。カーテンを開け、窓を少し開ける。朝の光と、まだ冷たさの残る空気が入ってきた。

 

 京都の朝が、ゆっくり動き始めている。

 

 翔子は台所へ行き、湯を沸かした。

 

 コーヒーを淹れるためにカップを出そうとして、手が止まった。

 

 いつもの癖なら、一つでいい。

 

 一人分なら、それで足りる。

 

 けれど、その日は棚の中を少し眺めてから、もう一つのカップを取り出した。

 

 それをテーブルの向かい側に置く。

 

 何か特別なことをするつもりではない。ただ、そうしたかった。

 

 コーヒーを二つのカップに注ぐと、白い湯気が細く立ち上った。翔子はその湯気を眺めながら、ふと四十五年前のことを思い出した。

 

 あの頃の二人には、長い未来があった。どこへでも行ける気がしていた。その未来を、二人は別々に生きてきた。

 

 結婚をして、家族をつくり、それぞれの暮らしを守った。楽しいことも苦しいこともあった。もう二度と会わないと思っていた時期もある。

 

 四十五年後、昔の記憶は思いがけない場所から戻ってきた。

 

 四十五年前へ戻るのでも、若い頃の続きを始めるのでもない。四十五年分の時間をそれぞれに抱えたまま、今の二人として向かい合う。

 

 健二と生きた年月も、涼太が生きてきた年月も消えない。それがあるから、今の二人には若い頃にはなかったものがある。

 

 翔子は、二つのカップを見つめた。

 

 窓の外には賀茂川が見える。

 

 朝の光を受けた川面が、細かな光を散らしながら流れている。

 

 四十五年前にも、同じ川が流れていた。

 

 けれど、あの頃の翔子が見ていた賀茂川と、今の翔子が見る賀茂川は、同じではない。

 

 川は変わらないように見えても、その流れの中には一瞬として同じ水がない。

 

 過ぎてしまった時間は戻らない。だからこそ、今ここにある時間を大切にしたいと思う。

 

 翔子は、二つ目のカップをテーブルの中央へ少しだけ寄せた。

 

 そのとき、玄関のほうから音がした。

 

 鍵が回る音だった。

 

 翔子は顔を上げた。

 

 聞き間違いではない。

 

 もう一度、鍵の回る音がする。

 

 玄関のドアが開いた。

 

「おかえり」

 

 自分でも驚くほど自然に、その言葉が口から出た。

 

「ただいま」

 

 涼太の声が返ってきた。

 

 翔子は、思わず笑った。

 

 涼太は台所へ入ってくると、テーブルの上の二つのカップに気づいた。

 

 何も言わない。

 

 翔子も、何も言わなかった。

 

 涼太が椅子を引き、いつものように腰を下ろす。

 

 翔子は向かい側のカップを涼太の前へ静かに置いた。

 

 窓の外では、賀茂川が流れている。

 

 昨日も、その前の日も、四十五年前も、賀茂川は流れていた。

 

 これから先も、きっと流れ続ける。

 

 流れを眺めながら、翔子はカップに手を添えた。

 

 温かいコーヒーの熱が、指先からゆっくりと伝わってくる。

 

 向かいには涼太がいる。

 

 四十五年前とは違う顔をして、四十五年前とは違う人生を生きてきた涼太が、今、同じ朝の中にいる。

 

 翔子は何も言わず、もう一度カップを両手で包んだ。

 

 窓の向こうで、賀茂川の水が光を受けながら流れていく。

 

 その向こうに京都の街が広がっている。翔子は、今まで歩いてきた道を思った。

 

 長かった。だからこそ、四十五年前の二人には見えなかった景色が、今は見えている。

 

 向かいでは、涼太もカップを手にしている。

 

 言葉はなかった。それでも、その沈黙は寂しくなかった。

 

 翔子は窓の外へ目を戻した。

 

 賀茂川は、何も知らないように、いつもの速さで流れている。

 

 その流れを見ながら、翔子は静かにコーヒーを口にした。

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『 風を聴く 』

 

第三章  迫る足音と、畳の上の葛藤

 

ガラガラと激しい音を立てて玄関の引き戸が開いたのは、日の傾きかけた午後四時過ぎのことだった。

 

「お義母さん、入りますよ」

 

挨拶もそこそこに履物を脱ぎ捨て、上がりこんできたのは俊子の義理の妹にあたる京子だった。その後ろから、夫の雄一が所在なげに頭を下げながら続いて入ってくる。

 

京子は手に持っていたスーパーのポリ袋を茶の間のテーブルへ「ドン」と遠慮がちに置いた。中には安売りの煎餅と箱入りの栄養ドリンクが入っている。

 

「いやぁ、今日も暑いねぇ。お義母さん、お身体どうですか。膝、相変わらず痛むんでしょう」

 

京子は甲高い声でまくし立てながら、座布団も勧められないうちに畳の上へドカリと腰を下ろした。その目線は、茶の間の煤けた天井や、角の剥げかけたタンスの隅々までを素早く舐めるように動いている。

 

「京子さん、雄一さん。わざわざすまないねぇ。お茶でも入れようかい」

 

俊子が膝に手を当てて立ち上がろうとすると、雄一が慌てて手を出して制した。

 

「あ、いいですいいですお袋、座っててください。僕らが勝手にやりますから」

 

雄一の顔には濃い疲労の色が刻まれていた。今年で六十になる雄一は、長年勤めた地元の中堅自動車部品メーカーで昨年役職定年を迎え、給与は全盛期の三分の一近くまで下がっていた。さらに、一人息子の住宅ローンの連帯保証人になっており、その返済補填と、パート勤めで肩を壊した京子のマッサージ通い代で、家計は常に火の車だった。

 

「お義母さんね、単刀直入に言わせてもらうけど」

 

京子が膝を乗り出し、声を一段低くした。

 

「この家の件、そろそろ本気で考えてもらわないと困るのよ。先週も言ったでしょう? 不動産屋の田中さんがね、今のうちに売れば、土地代だけで二千八百万円は下らないって言ってるの。この辺りも最近は建売住宅が増えてきて、今が一番の売り時なのよ」

 

「……」

 

俊子は黙って冷めたお茶の湯飲みを見つめた。

 

「お義母さんだって、もう八十八でしょう? 正直いつ倒れたっておかしくない年齢じゃない。こんな古い木造住宅で一人暮らしなんて、万が一火事でも出したらどうするの? 陽一さん夫婦だって、自分の暮らしで手いっぱいで、お義母さんの介護なんてできるわけないじゃない」

 

「京子、言い方がちょっときついぞ……」

 

雄一が横から弱々しく口を挟んだが、京子はそれを溜息混じりに遮った。

 

「きつく言いたくて言ってるんじゃないわよ。雄一さん、あなただって昨日の夜、通帳見て頭抱えてたじゃない。……お義母さん、雄一だって退職金も減らされて、毎月本当にギリギリなのよ。亡くなったお義父さんが残してくれたこの土地を整理できれば、少しは息が突けるの。……身勝手なのは分かってるのよ。でもね、私たちだって、どうしようもないの」

 

京子の声に混ざる震えと切実さは、容赦なく俊子の胸を突いた。

 

悪意から言っているのではないことは、俊子にも分かっていた。京子たちもまた、物価高と将来への不安、減っていく蓄えの中で追い詰められているのだ。余裕のない人間が放つ言葉は、時に暴力以上の重みを持って人に襲いかかる。

 

「京子さん。この家はね……」

 

俊子がゆっくりと口を開きかけた時、台所の陰から由香里が姿を見せた。お茶を載せたお盆を手にしているが、その表情は硬くこわばっていた。

 

「叔母さん、失礼です。お義母さんはまだここでお元気に暮らしていらっしゃいます。家を売るなんて、お義母さんの意向を無視して進める話ではありません」

 

「あら、由香里さん」

 

京子は顔を曇らせ、力なく首を左右に振った。

 

「意向を無視してるわけじゃないのよ。あなたたちだって、本当は困ってるんじゃないの? 二階の……沙耶香ちゃんのことだってあるでしょう。あの子、もう一年もあんな状態で……東京のマンションのキャンセル料やら何やらで、陽一さんの給料だって限界じゃない。家を整理すれば、沙耶香ちゃんのこれからのことだって、少しは選択肢が増えるかもしれないでしょう?」

 

京子の目には、単なる欲深さだけではない、この家全体が行き詰まっていることへの歪んだ焦りと憐れみが浮かんでいた。

 

「沙耶香のことは関係ありません!」

 

由香里の声が怒りで震えた。お盆の上の湯飲みが「カタカタ」と小さく音を立てる。

 

「関係なくないでしょう! 一族の問題なのよ! 陽一さんはどこへ行ったの? 今日は休日でしょう?」

 

「陽一は……撮影の仕事です」

 

「仕事? どうせ大した稼ぎにもならない単発の撮影でしょう。カメラマンなんて不安定な職業に固執して、家族を養う責任も果たせないで……」

 

「お父さんを悪く言わないで!」

 

突如、二階から響き渡った叫び声に、茶の間の全員が息を呑んだ。

 

階段を激しい足音を立てて駆け下りてきたのは、沙耶香だった。髪はボサボサで、目元は赤く腫れ上がっている。

 

「沙耶香……!」由香里が驚いて駆け寄ろうとするが、沙耶香はそれを振り払い、京子を鋭い眼光で睨みつけた。

 

「何も知らないくせに勝手なこと言わないで! お父さんは必死で働いてる! おばあちゃんも、この家でずっと暮らしたいって言ってるじゃないの! 私たちのことを言い訳にして、おばあちゃんからこの家を奪わないで!」

 

沙耶香の剣幕に、京子は一瞬気押されて息を呑んだ。

 

京子の視線が、目の前で激しく肩を揺らす沙耶香の青白い顔、やつれた目元、そしてボサボサの髪へと向けられた。

 

その目に走ったのは、怒りだけではなかった。

 

一年ぶりに見る姪の痛々しい姿に対する、居心地の悪い動揺と、痛みを直視できない人間特有の目を背けるような狼狽だった。京子は小さく唇を震わせ、何かを言いかけて……言葉を呑み込んだ。

 

「……沙耶香ちゃん。あなた……そんな風になっちゃって……」

 

京子の声からトゲが抜け、かわりに悲痛な呆れが零れ落ちた。

 

「……もういいわ。今日は帰りましょう」

 

京子は立ち上がり、逃げるようにバッグを持ち上げた。雄一も小さく頭を下げ、妻の後に続いた。

 

「京子さん、雄一さん。苦しい思いをさせて、本当に申し訳ないねぇ……」

 

俊子が畳の上に手をつき、低く頭を下げた。京子は玄関の引き戸の手前で立ち止まり、振り返ることなく、静かに呟いた。

 

「……お義母さん。私たちはね、誰も悪者になりたくないだけなのよ」

 

引き戸が静かに閉まり、余計に重い静寂が残された茶の間に落ちた。

 

沙耶香は膝から崩れ落ちるように畳の上に座り込み、荒い息をついていた。

 

「沙耶香……」

 

由香里が手を伸ばそうとしたが、沙耶香は「触らないで!」と拒絶し、再び二階へと駆け上がってしまった。

 

茶の間には、気まずい静寂と、冷めきったお茶だけが残された。

 

俊子は静かに目を閉じ、胸の奥で重く溜まった息を吐き出した。

 

その時、サッシの隙間から滑り込んできた茶トラの猫が、俊子の膝のすぐ脇にそっと寄ってきた。

 

金色の瞳で俊子を見上げ、静かに耳をピクピクと動かしている。

 

――(まったく人間ってのは、狭い縄張りと金銭(カネ)のために、どうしてあんなに醜く吼え立てるのかねぇ)

 

猫の呆れたような声が、俊子の頭の中に届いた。

 

俊子は小さく苦笑し、カサカサに乾いた手で猫の背中を撫でた。

 

「困ったもんだねぇ……。みんな、生きるのに一生懸命なだけなんだよ」

 

――(一生懸命ねぇ。外の冷たい風に吹かれて、自分の足で獲物の一匹でも捕まえてくれば、あんな無駄な苛立ちも吹き飛ぶんだがな)

 

猫はフンと鼻を鳴らし、俊子の膝に小さく頭を押し当ててきた。その温もりが、俊子の凍えかけた心に微かな温かさを運んできてくれた。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第六章 遅すぎる日

 

 友哉が三年目の春を終えてから、さらに一年が過ぎたころ、亮が葵と婚約したことを聞いた。

 

 河原町の店で飲んでいるとき、矢部が取引先の担当者から聞いたと言った。

 

「西村、葵と婚約したらしい。来月から海外やて」

 

 矢部は事務的に言った。余計な顔をしないようにしているのが、友哉には分かった。だから、かえって胸に入ってきた。

 

 亮の会社は東南アジアのホテル建設に設備担当として加わっていた。期間は一年半。葵とは帰国後に式を挙げるらしい。

 

 友哉は、おめでとうと言う相手もいないまま、そうかと答えた。

 

 葵が、自分とは別の人と生きることを決めた。

 

 その事実を前にしても、友哉の生活は続いた。翌朝には現場へ行き、午後は改修を希望する家の調査をした。梁の位置を測り、床下を覗き、夕方には事務所で図面を直した。

 

 仕事をしている間だけは、葵のことを考えなかった。昼休みにスマートフォンを見ると、葵の名前があるような気がして、画面を伏せた。実際には会社の連絡しか来ていない。来ていないのに、少し腹が立った。誰に腹を立てているのか、自分でも分からなかった。

 

 亮が亡くなったのは、海外へ渡って八か月後だった。

 

 建設現場から宿舎へ戻る途中、乗っていた車が事故に遭った。同乗していた現地の技術者と亮が亡くなった。

 

 矢部から電話があったのは、その日の夜、十時を過ぎてからだった。

 

「亮、どうしたんや」

 

「俺にも分からん。取引先から聞いただけや」

 

 矢部はそこで一度、言葉を切った。何をどこまで話していいのか、自分にも分からないようだった。

 矢部の声が少し遠く聞こえた。友哉は、電話を耳から離してからもしばらく、受話口の向こうにいる亮を待っているような気がした。

 

 友哉は電話を切ったあとも、しばらく事務所の机から動けなかった。

 

 亮の顔を思い出した。大学の演習で、設備の配管をどこへ通すか意見が分かれたとき、亮は自分の案を図面へ描き、友哉の案もその横へ描いた。二枚を見比べ、こっちのほうが短いから友哉のでいこうと言った。

 

 友哉が負けたくないと思っていた相手は、もういなかった。

 

 葬儀には行かなかった。

 

 行ってはいけないと思ったわけではない。葵のそばへ行けば、また自分の気持ちを持ち込んでしまう気がした。

 

 大学の同級生だった者たちが何人か参列したことを、あとで由美から聞いた。葵は亮の両親のそばに座り、ほとんど顔を上げなかったという。

 

 亮の葬儀のあと、友哉は何度か葵へ連絡しようとしてやめた。

 

 メッセージを打っては消す。大丈夫かと書けば、何が大丈夫なのか分からない。何かできることがあればと言えば、できないことを押しつけるように思える。

 

 結局、何も送らなかった。

 

 それが正しいとも思えなかった。正しいことをしたいのに、何もしないことしか選べない夜がある。スマートフォンの画面は暗くなり、友哉の顔だけがぼんやり映った。

 

 葵の今の生活を、友哉は知らない。

 どの距離から近づけばいいのかも分からない。

 

 だから、しばらく時間を置いた。

 

 葬儀からひと月ほど経ったころ、友哉は葵の実家を訪ねた。仕事の忙しさに追われるうち、葵のことを考えない時間も増えていた。けれど、ふとした瞬間に、あの日の玄関が浮かぶ。時間が経てば自然に落ち着くと思っていたが、実際には、消えるのではなく、考えられる形に変わっていった。

 

 行く前に連絡はしなかった。電話に出てもらえなければ何も伝えられないと思った。何を伝えたいのか、自分でもはっきりしていなかった。

 

 葵が玄関へ姿を見せる。

 

 髪は後ろで束ね、化粧をしていなかった。痩せたというより、体のなかから何かが抜けてしまったように見えた。

 

「矢部から聞いた。心配で」

 

 友哉の言葉を聞くと、葵の顔が変わった。

 

「こんなときに来るなんて、やっぱりあんたは私のこと考えてへんのやね」

 

 葵の声は静かだった。その静かさが、友哉には怖い。怒鳴られれば、謝ることもできる。けれど、静かな人の傷には、どこへ手を置けばいいのか分からない。

 

 葵の声は大きくなかった。怒鳴られるより、友哉には近づけなかった。

 

 亮を亡くした葵に、昔の恋人である自分が会いに来る。そのことが葵にどう見えるかを、友哉は玄関の前に立つまで考えていなかった。

 

 心配だから来た。それは本当だった。その言葉の奥に、もう一度自分を見てほしいという気持ちがなかったとは言えない。

 

 友哉は、それ以上何も言わずに帰った。

 

 葵は扉を閉めたあと、玄関に座り込んだ。

 

 友哉の顔を見た瞬間、学生のころの自分が戻ってきた。あのころの自分なら、友哉が来た理由を最後まで聞いたかもしれない。亮を失った自分が、友哉に何を求めるのか考えたかもしれない。

 

 そのことが耐えられなかった。

 

 亮がいなくなったところへ、友哉が立っているように見えた。友哉がそうしようとしたのではないと分かっていても、玄関の扉を開けておくことはできなかった。

 

 友哉は駅まで歩いた。

 

 駅へ着くと、売店で温かい紅茶を買った。すぐに電車へ乗る気にはならず、駅を出てから歩いた。

 

 遠回りになる道を選んだのは、すぐに部屋へ帰りたくなかったからだ。

 

 心配していた。

 それだけではなかった。

 

 葵の人生の中に、もう一度自分の場所ができるのではないか。そんな期待が、玄関へ立った瞬間には確かにあった。

 

 その期待を自分で認めるのが嫌だった。

 

 帰り道、友哉は「心配で」と言った自分の声を何度も思い出した。そのたび、足が少し遅くなった。

 

 友哉は、買った紅茶の蓋を指で押した。まだ温かかったが、開ける気にはならなかった。歩いているうちに冷めてしまうだろうと思った。

 

 歩きながら、昔の自分と同じように、今も傷つくことを避けようとしているのではないかと考えた。

 

 会社では、図面の前で「どちらでもいい」と言わなくなった。

 違うと思えば違うと言う。人の話も最後まで聞く。

 そのくせ、葵の前へ立つと、昔の癖が戻る。

 

 それでも葵の前に立つと、昔と同じところへ戻っていた。心配だと言えば、心配している自分を許してもらえる気がした。会いたいと言えば、自分の願いを認めることになる。それが怖くて、別の言葉に隠した。

 

 玄関の前で閉じた扉を思い出す。

 

 駅までの道で、友哉は一度だけ立ち止まった。

 それから、また歩いた。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第四章 坂の上の若者

 

 若い男は使い込まれた大きなボストンバッグを肩に担ぎ、どこか焦ったような足取りで坂道を上ってきた。汗が額から滴り落ちている。

 

 テルさんはその顔に見覚えがあった。

 

「和樹じゃろ」

 

「あ、テルさん。ハルさんも」

 

 和樹は坂の下にある干物屋『山崎屋』の息子だった。高校を卒業してから、ずっと父親と一緒に店をやっている。潮風と魚の匂いがしみついた作業着ではなく、今日は見慣れない街着を着ていた。どこか固い表情をしている。

 

「ちょうどええところへ来たわ」

 

 テルさんが言う。

 

「何ですか?」

 

「猫」

 

 和樹は手で日よけを作りながら、古い倉庫の屋根を見上げた。

 

「また猫ですか?」

 

「また?」

 

「近所の猫が、よくあそこに上がるんですよ。高いところが好きなくせに、降りられなくなるみたいで。先月も黒猫を助けました」

 

 和樹は手慣れた様子で倉庫の脇へ歩いていき、木組みの陰に隠されていた古い竹梯子を見つけ出した。埃と蜘蛛の巣がついているのを手で払い落とす。

 

「これなら上れます」

 

 そう言ったものの、和樹は梯子に手をかけたまま、すぐには動かなかった。視線が、地面に置いた自分の大きなバッグへと落ちる。

 

 テルさんはその鞄と、和樹のどこか硬い表情をじっと見つめた。

 

「どこ行くん」

 

「……大阪です」

 

「旅行かい?」

 

「仕事です」

 

 和樹は短く答えると、少し困ったように頭をかいた。

 

「今日、親父と喧嘩したんです」

 

「それで大阪へ逃げるんか」

 

「逃げるんじゃないです。前から行くのは決めてました。向こうの居酒屋で働いて、いつか自分の店を持ちたいと思ってて。でも……最後にあいつと一言二言やりあって、そのまま飛び出してきただけです」

 

 和樹が料理を好きになったのは、まだ小学生のころだった。

 

 店の隅で父親の仕事を眺めながら、余った干物を炙って食べたことがある。

 

 父親は「焦がすなよ」と言いながら、焼き上がった魚を一番食べやすい大きさにほぐしてくれた。

 

 あのときは、ただ旨いと思った。

 

 大人になってから、和樹はその魚を客に出す側になった。けれど、父親と同じやり方をすることだけが、自分の将来ではないとも思っていた。

 

「親父の店を嫌いなわけじゃないんです。ただ、自分で一からやってみたいんです」

 

「じゃあ喧嘩は関係ないじゃないか」

 

 和樹は拍子抜けしたように、ふっと笑った。

 

「……たぶん」

 

 テルさんは容赦なく、古い梯子を指さした。

 

「猫を助けてから行け」

 

「……分かりましたよ」

 

 和樹は苦笑いしながら鞄を置き、梯子を倉庫の軒先にしっかりと立てかけた。一段ずつ踏みしめるたび、古い竹がギシギシと重い音を立てる。

 

「いました! 瓦の隙間に挟まってます」

 

 屋根の上から声が響いた。しかし、ミーは怯えているのか、瓦とトタンの奥深くへ逃げ込もうとしていた。

 

「届くか?」

 

 ハルさんが下から叫ぶ。

 

「あとちょっとです……痛っ! 引っかかれた……よし、捕まえた!」

 

 和樹が身を乗り出す。その間、テルさんは下で必死に梯子の脚を両手で押さえていた。

 

「落ちるなよ」

 

「大丈夫ですって」

 

「若いもんはな、だいたい大丈夫と言って落ちるんじゃ。わしの知り合いも昔……」

 

「不吉な話は降りてからにしてください!」

 

 格闘すること数分、和樹は腕に赤く引っかき傷を作りながらも、ミーをしっかりと抱き抱えて降りてきた。

 

 ミーは無傷だった。栗原さんの家へ連れて行くと、栗原さんは涙ぐみながら何度も頭を下げ、冷えた缶ジュースと自家製の漬物を手渡した。

 

 栗原さんの家を出たあと、テルさんは立ち去ろうとする和樹の背中に声をかけた。

 

「和樹」

 

「はい?」

 

「大阪でもな、困ったら意地を張らんと誰かに頼め」

 

「……急に人生相談ですか」

 

「猫一匹助けられん人間が、一人で生きていけるかい。困ったときは頼むんじゃ。頼られたほうも、案外嫌じゃないもんじゃぞ。お前の親父だって、頼られりゃ嬉しいはずじゃ」

 

 和樹は一瞬驚いた顔をしたが、やがて爽やかに笑った。

 

「覚えておきます」

 

 テルさんはすっと手を出した。

 

「三百円」

 

「えっ、何でですか?」

 

「今の説教代じゃ」

 

 和樹は呆れ果てた顔をしながらも、財布から百円玉を三枚取り出し、テルさんの手のひらに載せた。

 

「高いなあ」

 

「安いくらいじゃわ」

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第七章 塗りつぶされた少年

 

 写真を見つけたとき、孝は、しばらくそれを現実のものとして受け止めることができなかった。

 

 カメラの液晶に映っているのは、古い地下室だった。壁は湿気を含み、ところどころ黒ずんでいる。天井から細い管が何本も下がり、床には木箱や古びた道具が置かれている。現在も使われている場所には見えない。

 

 その壁の中央に、一枚の写真が貼られていた。若い頃の沙羅の祖母。そして、その隣に立つ少年。

 

 少年の顔だけが、黒いもので塗りつぶされている。

 

 写真そのものを誰かが加工したのか、それとも長い年月の中で顔の部分だけが損なわれたのか、画面からは判断できない。ただ、黒い部分は偶然できた傷には見えなかった。人の顔を意識して消したような形をしている。

 

 四人は、ホテルの部屋に集まっていた。

 

 誰も大きな声を出さない。

 

 窓の外では、長崎の夜がいつものように続いている。路面電車が通り、道路を車が走り、遠くの建物にはいくつもの明かりが灯っている。その普通の夜景と、カメラの中にある地下室の写真との落差が、かえって不気味だった。

 

 浩一が写真の撮影情報を確認する。昨日の写真と同じだった。

 

 午後三時十七分。ただし、撮影場所を示す位置情報は残っていない。孝はカメラを手に取ったまま、写真を何度も見直した。地下室の壁。写真。数字。そして、右下に写っている古い木箱。その木箱には、見覚えがあった。

 

 祖母の家にあったものと同じ形をしている。

 

 もちろん、同じものだと断定することはできない。古い木箱など、似たようなものはいくらでもある。

 

 それでも、ここまで同じものが続けば、偶然という言葉だけでは済ませにくい。

 

 沙羅は写真を見つめながら、自分の祖母がなぜこの場所に写っているのかを考えていた。祖母が若かった頃。まだ戦争が終わっていない時代なのか、それとも戦後なのか。写真だけではわからない。

 

 けれど、隣にいる少年については、祖母から一度も聞いたことがなかった。

 

 沙羅が知っている祖母の家族の写真には、父親や母親、兄弟の姿は残っている。それなのに、この少年だけは見た記憶がない。しかも、その顔は黒く消されている。

 

 誰かが意図的に隠したのだとすれば、隠さなければならない理由があったはずだった。孝は、昨夜母親から送られてきた写真を開いた。若い祖母が写っていた、あの古い写真である。二枚を並べる。

 

 撮影された時代は違うように見えるが、祖母の服装や髪型から考えると、それほど大きく離れていない可能性もある。

 

 そして、どちらの写真にも「9」がある。

 

 さらに「17」。

 

 その数字が何を示しているのか、まだわからない。

 

 ただ、数字そのものよりも気になるのは、数字が残されている場所だった。写真。灯籠。石垣。地図。そして今度は地下室。それぞれ違う場所にありながら、同じものを示しているように見える。

 

 その夜、四人は初めて、これまでの出来事を一つの流れとして整理した。

 

 最初は祖母の家だった。

 

 何気なく撮った写真に「9」が写っていた。

 

 その直後、母親から写真を消すよう言われ、さらに知らない番号から同じような警告が届いた。

 

 その後、祭りの灯籠に「9」と「17」が刻まれているのを見つけた。

 

 古い地図には「浦上九番」と記され、さらに「4」の場所が示された。

 

 その場所には、古い石垣と鍵穴が残っていた。そして浦上で、祖母の若い頃の写真が見つかった。

 

 最後に、祖母自身が姿を消し、写真と鍵と灯籠を失った状態で発見された。そこまで整理すると、偶然だと考えるほうが難しかった。誰かが何かを守っている。あるいは、誰かが何かを隠している。そのどちらなのかはわからない。

 

 ただ、その秘密が、祖母の若い頃から現在まで続いていることだけは確かなようだった。孝は、ここで一つのことを提案した。明日、もう一度祖母の家へ行ってみる。母親が許してくれるなら、家の中を見せてもらう。

 

 写真を探すためではない。地下室の写真と、祖母の家とのつながりを確認するためである。

 

 沙羅はすぐには答えなかった。

 

 祖母が無事に見つかった以上、これ以上関わらないほうがいいのかもしれない。それは誰もがわかっていた。しかし、祖母が見つかったことで、逆に一つの疑問が強くなっている。

 

 なぜ祖母は、四人が長崎へ来る直前になって、あの古い写真を残したのか。そして、なぜ誰かは、四人にそれを見せようとしているのか。その答えを知らないまま京都へ帰ることは、今となっては難しかった。

 

*

 

 翌朝、沙羅の母親から連絡があった。祖母は病院で検査を受けているが、大きな怪我はない。意識もはっきりしている。ただ、昨日どこにいたのかについては、ほとんど話そうとしないという。

 

 母親は四人が祖母の家を見たいという話を聞くと、しばらく考えたあと、来てもいいと言った。ただし、一人で動かないこと。そして、何か見つけても勝手に持ち出さないこと。四人は約束した。

 

 祖母の家へ向かう道は、昨日までとは違って見えた。同じ坂道。同じ石垣。同じ家並み。

 

 けれど、そこに隠されたものがあるかもしれないと思って見ると、街の細部が妙に目につく。古い家の軒下。閉じた扉。石垣に残る小さな穴。道路の端に埋め込まれた金属板。

 

 長崎では、古いものがそのまま残っていることが珍しくない。

 

 だからこそ、何かを見つけても、それが特別なものなのか、単なる古いものなのか判断しにくい。祖母の家に着くと、母親が待っていた。四人を見ると、少し疲れた表情を見せた。

 

 それでも、昨日までとは違い、もう何も隠そうとはしていないようだった。居間へ通される。写真を撮った場所。古い箪笥。木箱。壁の写真。すべて昨日までと同じだった。ただ、一つだけ違う。木箱がなくなっていた。

 

 母親に尋ねると、祖母が病院へ運ばれる前に、家の中を整理したときには確かにあったという。しかし、その後なくなっている。誰かが持ち出した可能性がある。けれど、家には外から侵入された形跡がない。鍵も壊されていない。

 

 つまり、持ち出した人物は、この家に自由に入れる人間だった可能性が高い。沙羅は、しばらく何も言わなかった。やがて母親が、古いアルバムを一冊持ってきた。それは祖母の部屋にあったものだった。表紙は傷んでいる。

 

 中の写真もかなり古い。母親は一枚ずつ確認しながら、祖母が若かった頃の写真を探した。

 

 そして、一枚の写真の前で指が止まった。そこに、昨日の地下室に貼られていた写真と同じ人物が写っていた。若い祖母。その隣にいる少年。今度は顔が黒く塗りつぶされていない。少年は、まっすぐカメラを見ている。

 

 年齢は十歳前後だろうか。母親は、その写真を見たまま動かなかった。沙羅が顔を上げる。

 

 初めて見る祖母の写真だった。しかし、母親の反応は、それ以上のことを知っているように見えた。長い沈黙のあと、母親がようやく話した。この少年は、祖母の弟だった。

 

 ただし、家族の中では、その存在について話してはいけないことになっていた。なぜなのか。母親自身も、幼い頃には教えられていなかった。

 

 ただ、祖母の母親から、「あの子のことは忘れなさい」と言われていたという。

 

 少年の名前も、正確には知らない。戸籍にも、残っている記録と残っていない記録がある。戦争と原爆によって、多くの記録が失われている。そのため、何が事実で、何が家族の記憶なのか、母親にも判断できない。

 

 けれど、祖母だけは少年のことを忘れていなかった。

 

 毎年、祭りの日になると灯籠を持って出かけていたのは、その少年のためだったのかもしれない。

 

 その話を聞いた瞬間、孝の中で「9」と「17」の意味が変わった。

 

 単なる番号ではない可能性がある。誰かの生きた時間を示しているのかもしれない。生まれた日。亡くなった日。あるいは、別の出来事が起きた日。母親は、もう一枚の写真を取り出した。

 

 その写真には、祖母と少年の二人が写っている。背景には、白い壁の建物。そして、その建物の脇に、古い地下への入口がある。

 

 孝は写真を見た瞬間、昨日のカメラに映った地下室を思い出した。同じ場所かもしれない。そう考えたとき、母親が静かに写真を裏返した。裏面には、鉛筆で文字が書かれている。年月日。そして、短い言葉。

 

「九番から四番へ」

 

 誰が書いたのかはわからない。けれど、その文字を見た瞬間、四人は息をのんだ。昨日の地図と同じだった。9から4へ。その意味を考えるより先に、家の外で物音がした。誰かが門を開けたような音だった。母親が立ち上がる。

 

 孝たちも振り返った。玄関へ続く廊下の向こうに、人影が見える。

 

 しかし、それは訪問者ではなかった。窓から差し込んだ光が作った影だった。全員が緊張を解いた。そのとき、沙羅がふと窓の外を見た。道路の向こうに、一台の車が停まっている。昨日も見た車だった。

 

 四人が石垣の前にいたとき、少し離れた場所に停まっていた。車内には誰もいない。

 

 それでも、しばらくすると車が動き出した。ゆっくり坂を下り、見えなくなる。母親は、その車を見て顔色を変えた。車種を知っているようだった。そして、ようやく四人に話した。

 

 祖母が若かった頃、この街には一人の外国人男性がいた。祖母の家族と関わりがあった人物だった。

 

 戦前の長崎で、海外との交易に関わる仕事をしていたらしい。その人物が残したものの中に、古い地図と一冊の記録があった。しかし、その記録は原爆によって失われたとされている。

 

 ところが、祖母は晩年になってから、その記録が失われていないと言い始めた。誰かが持っている。そして、その人物が今もそれを探している。母親は、そこまで話してから口を閉じた。四人は何も言わなかった。

 

 長崎の歴史の中に、キリシタンの時代、外国との交流、戦争、原爆、そして戦後の復興がある。その大きな歴史の隙間に、一つの家族の記憶が埋もれていた。しかし、その記憶を探しているのは家族だけではない。

 

 昨日から四人を見ている誰かがいる。その人物は、祖母のことを知っている。写真を知っている。

 

 そして、「9」と「4」の意味を知っている。

 

 母親がアルバムを閉じようとしたとき、最後のページに一枚の小さな紙が挟まっていることに孝が気づいた。紙を取り出す。そこには、見覚えのない文字があった。

 

「四番は、まだ開いていない。」

 

1945年8月8日。

 

 その日付を見た瞬間、孝は背筋が冷たくなった。翌日は、八月九日。長崎の歴史が決定的に変わった、その前日だった。

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『 賀茂川の向こう側 ――68歳からの物語 』

 

九 そばにいる

 

 涼太が大阪の家を手放せないことも、翔子には分かっていた。元妻と選んだ家具や息子の写真、仕事机が残っている。

 

「全部捨てるのは無理だな」

 

「捨てなくていいんじゃない?」

 

 翔子は答えた。自分も健二の物を全部処分できない。人の人生は、必要な物だけを選んで持っていけるほど簡単ではない。

 

 涼太は大阪の家を残すことにした。仕事のある日は大阪へ行き、月の何日かを京都で過ごす。完全に一緒になると決める前に、二人でいる時間を重ねていく。その曖昧さが、今の二人にはちょうどよかった。

 

 ある夜、翔子は寝室の前で立ち止まった。健二と使っていた家具が残っている。涼太がそこへ入ることに、突然ためらいが生まれた。

 

「無理に変えなくていいよ」

 

 涼太はそう言った。

 

「俺も、大阪の家を全部消すつもりはない」

 

 翔子は顔を上げた。過去を消さなくても、今の暮らしは始められる。その言葉が、すっと胸に入ってきた。

 

 涼太の物が少しずつ家に増えていった。最初は歯ブラシ一本だった。それがシャツになり、仕事用の鞄になった。物が増えるたび、家の輪郭が少しずつ変わっていく。

 

 翔子はもう「いつまで続くのだろう」と考えなかった。今日一緒に食事をし、明日の予定を話す。その積み重ねの先で、次の形が見えてくる。

 

 結婚するのか。籍を入れるのか。家をどうするのか。大阪の仕事をどうするのか。考えれば現実の問題はいくらでも出てくる。だから二人は、まだ決めなかった。

 

 涼太が大阪へ戻る夕方、玄関が閉まると家は少し静かになる。それでも、帰る場所が別にあっても、心には隣にいた人の気配が残っている。

 

 夜になって、涼太から短いメッセージが届く。

 

――着いた。

 

 翔子は、

 

――お疲れさま。

 

 と返した。

 

 それだけだった。若い頃なら、もっと話した。もっと会いたいと言った。もっと先のことを確かめようとした。今は、無事に着いたことが分かればいい。

 

 翌朝、翔子はカーテンを開けた。静かな朝の中に、また会いたい人がいる。

 

 未来というのは、十年先のことだけではない。次に会う日も、今日の夕方も、明日の朝も、今の翔子には未来だった。

 

 六十八歳になって、そんな未来ができたことを、翔子は静かに嬉しいと思った。

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『 風を聴く 』

 

第二章   二階の暗闇と、奪われた光

 

一階の茶の間から伸びる古い木造階段は、斜度が急で、一段踏みしめるたびに「ミシミシ……」と湿った悲鳴を上げた。

 

その階段を上がった突き当たりにあるのが、沙耶香の部屋だった。

 

ドアの隙間からは、昼間であっても一切の光が漏れてこない。重厚な遮光カーテンが二重に締め切られ、薄っぺらい室内には濃密で冷たい暗闇が淀んでいた。

 

部屋に充満しているのは、締め切った部屋特有の埃っぽい空気と、飲みかけのペットボトルから漂うわずかなポリエチレンの匂い、そして皮膚の奥から発せられるような汗の匂いだった。

 

沙耶香はベッドの上で丸くなり、膝を抱えるようにして頭まで薄い毛布をかぶっていた。

 

スマホの画面から放たれる青白い光だけが、毛布の隙間から漏れ、彼女の青白い頬と落ち窪んだ目元を浮かび上がらせている。

 

「……っ」

 

指先がSNSの画面をスクロールするたび、心臓が肋骨の内側を「ドクン、ドクン」と不規則に叩いた。

 

タイムラインには、かつてモデル事務所に所属していた頃の知り合いや、同年代のモデルたちの華やかな投稿が並んでいる。ストロボの光を浴びながらカメラの前で笑顔を見せる姿、アパレルの撮影風景、自分らしく生きていることを誇る言葉たち。

 

かつては自分も、その光の中にいたはずだった。

 

被写体としてレンズの前に立ち、表現者の一部になれることが自分の誇りだと信じて疑わなかった。

 

すべてが崩れ去ったのは、一年前の秋のことだ。

 

ポートレートの自主制作で知り合った男から「良い撮影スポットがある」と誘われ、ついていった都内のアパートの地下スタジオ。そこにあったのは、まっとうな撮影などではなかった。

 

ドアに鍵をかけられた瞬間の金属音。逃げ場のない狭い部屋で向けられた、執拗で冷酷なレンズ。拒絶する声をかき消すような荒い息遣いと、無遠慮に焚かれるストロボのフラッシュ。アダルトモデルとしてのポーズを強いられ、性的で過激な要求を突きつけられた悪夢のような時間。

 

ピカッ、ピカッと強烈な光が視界を白く染め上げるたび、自分という人間の尊厳が剥ぎ取られ、消費されるモノとして刻み込まれていく恐怖。

 

レンズの奥にある、歪んだ欲望を含んだ瞳。

 

「モデルなんて、撮られてナンボだろ? 嫌なら最初からこんな仕事すんなよ」

 

男が放った嘲笑が、今も耳の奥で鼓膜を破らんばかりに反響していた。

 

警察に駆け込んだものの、証拠の不十分さや「同意の上だったのではないか」という無神経な取り調べの言葉に二次被害を受け、沙耶香の心は完全にポッキリと折れた。

 

外へ出ようとすると吐き気が止まらなくなり、街中でカメラを抱えた人影を見るだけで過呼吸を起こした。レンズを向けられることは当然のこと、カメラの存在そのものが自分を切り刻む凶器に変わってしまったのだ。

 

逃げるように東京のアパートを引き払い、熱田の祖母の家へ逃げ帰ってきてから一年。

 

沙耶香は、二階の部屋から一歩も出ない生活を続けていた。

 

「沙耶香、入るわよ」

 

コンコン、とノックもそこそこにドアが開き、母・由香里が入ってきた。

 

部屋に差し込んできた廊下の光に、沙耶香は「うっ」と眩しそうに目を細め、毛布を固くかぶり直した。

 

「また暗い部屋でスマホ見て……。カーテンくらい開けたらどうなの? 風を通さないと体に悪いわよ」

 

由香里の声には、隠しきれない苛立ちと疲弊が滲んでいた。

 

由香里は部屋の奥へと歩き、遮光カーテンをシャッと強く引き開けた。突如として差し込んできた秋の強い陽光が、部屋の埃をキラキラと浮き立たせ、沙耶香の散らかった服の山を惨めに照らし出した。

 

「やめてよ! 開けないでって言ってるでしょ!」

 

沙耶香は毛布の中から悲鳴のような声を張り上げた。

 

「いつまでそうやって泣き寝入りしているつもりなの? もう一年よ? 働くなり何なり、これからどうするのか少しは考えなさい!」

 

「ほっといてよ! 私の勝手でしょ!」

 

「勝手じゃないわよ! あなたの部屋の費用だって、東京のキャンセル料だって、誰が出したと思っているの? お父さんだって、あなたのことでずっと心を痛めて……」

 

「お父さんにお金を払ってもらったから何!? お父さんだって、私の気持ちなんて何も分かってないじゃない! カメラマンのくせに、私の本当の姿なんて見てくれたことなかった癖に!」

 

感情を爆発させる沙耶香の言葉に、由香里は息を呑み、悔しそうに唇を噛み締めた。

 

二人を繋ぐ空気は、冷たく刺々しい刃物のように研ぎ澄まされていた。

 

由香里は溜息をつき、ドアの取っ手に手をかけた。

 

「……おばあちゃんがね、下でお茶を淹れてくれたわよ。少しは降りてきて、顔を見せたらどう? いつまでもあの人に心配かけるんじゃないわよ」

 

バタン、とドアが重く閉じられ、部屋に再び静寂が戻った。

 

カーテンの隙間から差し込む一すじの光の中に、埃が静かに舞っている。

 

沙耶香は毛布の中で膝を抱え、声を押し殺して泣いた。悔しさと、申し訳なさと、どうしようもない自分への憎しみが胸の奥から押し寄せてくる。

 

自分でも分かっているのだ。祖母の俊子が、脚の痛みを堪えながら自分のために食事を作ってくれていることも、心配して声をかけてくれていることも。

 

けれど、光の下へ出るのが怖かった。カメラの前に立ち、笑顔を作ることを強いられたトラウマから抜け出せなかった。

 

その時だった。

 

「カリ、カリ、カリ……」

 

部屋の窓の外、古びたアルミサッシの網戸から、微かな音が聞こえた。

 

沙耶香が涙を拭い、そっと毛布から顔を出すと、開け放たれた窓の縁に、大きな茶トラの猫が立ち上がっていた。

 

右の耳が欠けた、近所でよく見かける野良猫だ。

 

猫はサッシの木枠に前足の爪を立て、「カリ、カリ」とリズミカルに掻いている。

 

指先で引っ掻くのを止め、部屋の中にいる沙耶香と目が合うと、逃げるでもなく、金色の大きな瞳でじっと沙耶香の顔を見つめてきた。

 

「……何よ」

 

沙耶香が掠れた声で呟くと、猫は「フン」と鼻を鳴らすように息を吐き、窓枠の上にドカリと腰を下ろした。

 

その姿はまるで、この部屋の重苦しい暗闇など最初から存在しないかのように、あまりにも平然としていた。

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『 風を聴く 』

 

第一章  昭和の記憶と、古いミシンの声

 

八畳の茶の間の柱で、黒漆塗りの柱時計が「カチ……コチ……」と、重く湿った金属音を刻んでいた。

 

半世紀以上、この鈴木家の歳月を見守り続けていた大振りな柱時計だ。文字盤の白い漆喰には細かな亀裂が走り、真鍮製の振り子がゆらりと揺れるたび、振り子室のガラス窓に秋の薄光が小さく反射する。

 

昭和二十七年二月十二日。俊子が亡き夫・貞男とともにこの熱田の地に小さな家を建て、足踏みミシンを持ち込んでお直しと洋裁の店を開いたあの日から、この時計は変わらぬ刻みを続けている。

 

毎週日曜日の朝、俊子が背伸びをして真鍮のネジを巻くたび、「ギシギシ、ガチリ」と骨身に響く手応えを返してきた。八十八歳になった今では、そのネジを回すだけでも手首の関節へ走る痛みを耐えなければならない。

 

ふと柱時計の短針と長針を見やると、午後二時十二分を指していた。

 

「……ふぅ」

 

俊子は飴色の陶器の湯飲みを持ち上げ、冷めかけた渋茶を細く喉へ流し込んだ。

 

立ち上がろうとするたび、膝の関節の中で乾いた骨同士が擦れ合うような鈍い感覚が走る。畳の上に両手をつき、一度「よっこいしょ」と息を整えなければ体が持ち上がらない。すり足をしなければ一歩も進めない自分の足元を見つめながら、俊子は静かに小さな息を吐き出した。

 

茶の間を満たしているのは、庭の古ぼけた柿の木越しに差し込む、黄みを帯びた秋の陽光だけだった。

 

畳の縁は緑の糸がすっかり擦り切れ、い草の匂いはとうの昔に失われている。代わりに部屋を満たしているのは、朝晩に膝へ貼り替える湿布薬のツンとしたハッカの匂いと、古い木造家屋特有の湿ったホコリの匂いだった。

 

俊子の視線は、床の間の脇に置かれた大きな黒い塊へと自然に向けられた。

 

古い風呂敷を被せられた、足踏みミシンである。

 

風呂敷の隙間から覗く「SINGER」の金文字は、長年の油と汗ですっかり擦れかけていた。その鋳物のミシンは、俊子が二十代半ばの折、戦後の混沌とした時代を生き抜くために、夫と二人で工面して買い求めた人生の相棒だった。

 

夫の貞男は、病に倒れて三十代の若さで逝ってしまった。幼い息子の陽一を抱え、路頭に迷いそうになった俊子を支えたのは、この一台のミシンだった。

 

近所の人々から持ち込まれる着物の仕立て直し、ズボンの裾上げ、子供の通学バッグの縫製。

 

昼夜を問わず、鋳物の重いペダルを「カタカタカタカタ……」と踏み鳴らし続けた日々。滑車が勢いよく回り、ミシン油の甘く香ばしい匂いが部屋中に漂う中で、型紙に引いた線のうえをハサミが「シャキリ、シャキリ」と心地よい音を立てて進んでいく。針穴に細い糸を通し、幾重にも重なった硬い布地を貫く瞬間の、胸がすくような緊張感と達成感。あの音が、あの手触りが、俊子と息子を生かしてくれたのだった。

 

だが、今、目の前にかざした自分の手を見つめてみる。

 

指の関節は太く歪に曲がりくねり、皮膚は干し柿のようにカサカサに乾いている。ペダルを踏み込む足力も、細かな針穴を見極める視力も、すべては時の流れの中に置いてきてしまった。

 

俊子は膝の上でしわくちゃの手をさすり、静かに目を細めた。

 

サッシの鍵を閉め忘れていた縁側から、「ギィ……」と木枠が擦れ合う微かな音が聞こえた。

 

引き戸がわずか数センチだけ開き、ひんやりとした秋の冷気がすーっと畳の表面を流れ込んでくる。ホコリを軽く舞い上げたその隙間から、毛並みの乱れた大きな茶トラの猫が、滑り込むように姿を現した。

 

右の耳の先がサクラの花びらのように大きく欠けている。鼻筋には一本の薄い白傷痕があり、野良猫にしては骨太でガッシリとした体つきをしていた。どこか世の中の酸いも甘いも噛み分け、すべてを舐めきったような不遜な雰囲気を漂わせている猫だった。

 

猫は音もなく畳の上を歩き、俊子の座布団からちょうど一歩だけ離れた日当たりの良い場所にドカリと腰を下ろした。そして、金色の大きな瞳で俊子の顔をじっと見つめてきた。

 

「……やあ。今日も来たのかい」

 

俊子が話しかけても、猫は擦り寄ってくるわけでもなく、前足に唾液をつけて耳の後ろを面倒そうに撫で上げるだけだった。

 

その瞬間——

 

俊子の頭の中に、音としての声ではなく、意味が直接刻み込まれるような不思議な感覚が流れ込んだ。少し低く、世擦れした中年男のような太い響きを伴っている。

 

――(相変わらず、ハッカの匂いが鼻につく部屋だな、ばあさん。少しは換気でもしたらどうだ)

 

俊子は静かに微笑んだ。ここ数ヶ月、午後のこの刻限になると繰り返されている、二人だけの対話だ。

 

「この年になるとね、湿布は着物と同じで身につけておらんとおちつかんのだよ。ハッカの匂いが嫌なら、外の冷たい風でも嗅いでおればいいがね」

 

俊子が呟くように答えると、猫は毛繕いする前足をピタリと止め、俊子の曲がった膝と腫れぼったい関節を見やった。

 

――(骨がキーキーと安っぽいトタンみたいに軋んでいるのが、庭の塀のところまで聞こえてくるぜ。そんな体で、何をぼんやり考えているんだ?)

 

「昔のことさ。あのミシンでね、服をたくさん縫ったもんだよ。一日が飛ぶように過ぎていったねぇ……。あの頃は夜が明けるのも忘れて針を動かしておったよ」

 

俊子が部屋の隅のミシンへ視線を送ると、猫はぴくぴくと髭を揺らした。

 

――(過去の思い出に浸るってヤツか。人間ってのは本当に不便な生き物だな。過ぎ去った昔のことばかり追いかけて、今、自分の鼻の頭を吹き抜けていく風の匂いにも気づかないんだからな)

 

「生意気な猫だねえ……」

 

俊子は小さく苦笑した。

 

猫は大きくあくびをひとつすると、ピンク色の口内を見せ、前足を胸の下に深く折り込んで、後ろ足をすべて体の下に丸く収める姿勢をとった。

 

――(まあいいさ。この部屋で聴く風の音は、外のカラスどもの汚い鳴き声や、野良犬の遠吠えよりはマシだ。少し休ませてもらうぜ)

 

「ゆっくりしていきな。あいにく煮干しは切らしておるけどね」

 

俊子は目を閉じ、猫の隣でゆっくりと息を吸い込んだ。

 

縁側を吹き抜けていく秋風が、庭の柿の木の乾燥した葉を「シャラシャラ……」と乾いた音で揺らしている。

 

その時、頭上から微かな音が聞こえた。

 

「ギシ……」

 

二階の古い木造の床板が、そっと体重をかけるように重く軋む音。続いて、小さな固形物を床に落としたような「コツン」という乾いた音が響いた。

 

俊子は静かに目を開け、黒ずんだ天井を見上げた。猫もまた、欠けた右耳をピクピクと動かし、金色の瞳を天井の板目へと向けた。

 

一年前から遮光カーテンで固く閉ざされたままの、孫娘・沙耶香の部屋から聞こえる音だった。』