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『 風を聴く 』

 

第五章   新幹線の風と、大阪の空

 

十一月中旬。名古屋駅の十五番線ホームには、晩秋の湿った風が冷たく吹き抜けていた。

 

「沙耶香、気分はどうだ? 途中で気分が悪くなったら、いつでも言えよ」

 

父・陽一が、大きなカメラバッグを抱え直しながら何度も沙耶香の顔を覗き込んできた。その声には、娘を伴って遠出することへの安堵と、激しい緊張が入り混じっていた。

 

沙耶香はコートのポケットの中で、祖母から手渡された赤い端切れをぎゅっと握りしめた。手垢で少し柔らかくなった木綿の肌触りだけが、今の沙耶香の現実を繋ぎ止める唯一の命綱だった。

 

「……大丈夫。いける」

 

沙耶香は掠れた声で答え、ホームに滑り込んできた「のぞみ」の白い車体を見つめた。

 

この大阪行きは、沙耶香にとって一年ぶりの「外の世界」への長距離移動だった。

 

旅の理由は、陽一の古い写真家仲間が大阪の古いビルで経営する小さなスタジオで行われる、若手写真家たちのグループ展と、それに伴うポートレートの特別撮影会だった。陽一は主催者からの依頼を受け、一枠の撮影を担当することになっていた。

 

数日前、陽一は沙耶香にこう切り出したのだった。

 

『沙耶香、もしよかったらアシスタントとしてついてきてくれないか。写真を撮れとは言わない。ただ、俺の撮影現場を遠くから見ているだけでいい。大阪の空気を吸うだけでも、何かが変わるかもしれない』

 

二階の部屋で閉ざされていた時間を破るには、あまりにも大きな跳躍だった。しかし、あの裁縫箱の前で祖母と交わした約束、そして父のカメラと向き合った静かな時間が、沙耶香の背中をそっと押していた。

 

ホームのドアが開き、二人は車内へと足を踏み入れた。

 

指定席に腰を下ろし、新幹線が滑らかに動き出す。車窓の風景が徐々に加速し、熱田の街並みが、尾張の田園風景が、高速で後ろへと去っていく。

 

しかし、米原を過ぎたあたりから、沙耶香の身体に異変が起き始めた。

 

車内の密閉された空間、聞き慣れない足音、通り過ぎる乗客たちの無遠慮な視線。それらすべてが、一年前の東京での恐怖の記憶を刺激し始めたのだ。

 

(どこへ行こうとしているの? またあの光の中に飛び込むの? 逃げ場のない場所へ行くの?)

 

頭の中で拒絶の叫びが渦を巻く。

 

「ッ……あ……!」

 

胸が激しく圧迫され、酸素が喉を通らなくなってきた。手足の先から急速に血の気が引き、冷や汗が額を伝い落ちる。

 

「沙耶香!?」

 

隣の陽一が異変に気づき、慌てて沙耶香の肩を抱き寄せた。

 

「息を吸うんだ! 沙耶香、俺を見ろ! ゆっくり吐いて……そう、ゆっくりだ!」

 

「苦しい……っ! お父さん、降りる……! 次の駅で降りて……っ!」

 

パニックに陥った沙耶香の視界が、ぐにゃりと歪む。トンネルに入るたび、車内に反射する蛍光灯の光が、あのストロボの閃光に見えて仕方がなかった。

 

京都駅に停車した瞬間、沙耶香は立ち上がりかけた。だが、陽一は優しく、しかし力強い手で沙耶香の手を握りしめた。その手には、重いカメラを何十年も持ち続けてきた写真家の、ゴツゴツとした硬いタコがあった。

 

「沙耶香、逃げてもいい。京都で降りて戻ったっていいんだ。だがな……この恐怖は、逃げている限りどこまでも追ってくる。俺がついてる。絶対に、お前を一人にはしない」

 

陽一はポケットから、小さなプラスチック製のフィルムケースを取り出し、沙耶香の手のひらに握らせた。

 

「これは、お前が赤ん坊の頃、俺が初めて撮ったモノクロフィルムの空ケースだ。俺の原点は、お前なんだよ。沙耶香」

 

手のひらに伝わる、古びたプラスチックの質感と、父の手の温もり。

 

沙耶香は目を固く閉じ、深く、深く呼吸を繰り返した。爪が赤い端切れとフィルムケースに食い込む。

 

やがて、新幹線はゆっくりと減速し、新大阪駅のホームへと滑り込んだ。

 

心臓はまだ早鐘のように打っていたが、沙耶香は自分の足で、なんとか新幹線のステップを踏み外さずに降り立つことができた。

 

◇

 

新大阪から地下鉄に乗り換え、心斎橋の喧騒を通り抜けて南船場へ向かう道すがら、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

 

晩秋の街風がビル街の谷間を吹き抜け、街頭の銀杏の葉を黄色い雨のように散らしている。陽一は沙耶香の歩幅に合わせるように、少し先をゆっくりと歩いた。その背中を追いかけながら、沙耶香は少しずつ自分の呼吸が整っていくのを感じていた。何かが急激に解決したわけではない。ただ、街をゆく名もなき人々の中に交ざり、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む時間が、新幹線での激しい動悸を静かな余韻へと変えてくれた。

 

たどり着いたのは、昭和初期に建てられたというレトロな雑居ビルだった。

 

黒ずんだ外壁と重厚なアーチ状の窓を持ち、どこか熱田の家に通じる古い木とコンクリートの匂いが漂っている。手動式の蛇腹扉がついたエレベーターで四階へ上がると、目的のスタジオがあった。

 

「やあ、鈴木さん! よく来てくれたね!」

 

出迎えてくれたのは、陽一の長年の友人である白髪の男性・坂本だった。坂本は沙耶香の姿を見ると、深く包み込むような笑みを浮かべた。

 

「沙耶香ちゃんも、よう来てくれた。無理はせんでもええからな。あっちのソファで美味しいお茶でも飲んどって」

 

スタジオの中は天井が高く、北側の大きな窓からやわらかな自然光がたっぷりと降り注いでいた。機材の油の匂いと、炒りたてのコーヒーの甘い香りが満ちている。

 

午後二時、ポートレートの撮影会が始まった。

 

モデルとしてやってきたのは、二十代半ばのダンサーの女性だった。シンプルな白いシャツにジーンズという装いで、自然体な佇まいを見せている。

 

陽一はスタジオの隅で、静かに準備を進めた。

 

他の若手写真家たちが最新の大型ストロボや複雑なディフューザーを組み立てる中、陽一が取り出したのは、あの古い機械式カメラと、一枚の白いレフ板だけだった。

 

「よし、始めようか」

 

陽一は静かな声でモデルに語りかけた。

 

ポーズを細かく指示することはない。「少し窓の方を見て」「そのまま深呼吸してみて」と、語りかけるように、雑談を交えながらシャッターを切っていく。

 

「カシャ」

 

「カシャ……」

 

「そう、いいよ。ほんの少し微笑んでみて」

 

「カシャ」

 

スタジオに響くのは、機械式カメラの素朴で心地よいシャッター音だけだった。

 

陽一のレンズが捉えているのは、モデルの表面的な美しさというよりも、その人がそこにいて、息をし、生きている時間の重みそのもののようだった。北窓からの静かな光が、被写体の輪郭を優しく浮き立たせていく。

 

沙耶香は部屋の隅のソファに身を沈め、その光景をただじっと見つめていた。

 

時折、窓の外を横切る鳩の羽音や、遠く御堂筋を走る車のエンジン音が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

流れていく濃密な、静かな時間。

 

「沙耶香ちゃん」

 

撮影の合間、いつの間にか隣に立っていた坂本が、静かに声をかけてきた。

 

「鈴木さんわな、あんたが引きこもっとった一年間、一度もカメラを捨てへんかったんや。毎晩、家であんたが生まれた日の写真をな眺めてたんやで……」

 

坂本はそれ以上多くを語らず、温かいお茶の入った湯飲みを沙耶香に手渡した。

 

父のシャッター音が、スタジオの空気の中に静かに刻まれ続けている。

 

沙耶香は手元にある赤い端切れを見つめながら、そのシャッター音と、光の中に立つモデルの穏やかな表情を静かに見つめていた。

 

自分を傷つけたのはカメラだった。けれど、父が抱えるカメラは、決して人を消費したり脅かしたりするためのものではない。ただ存在を優しく見つめるためのものなのだということが、スタジオを満たす光と風を通して、沙耶香の胸に深く染み込んできていた。

 

スタジオの大きな窓の隙間から、冷たく、しかし澄み切った大阪の風が吹き込んできた。

 

沙耶香はそっと息を吐き、自分の手足を確かめるように深く座り直した。外の空気を吸い、他人のまなざしがある場所で、こうして息をして座っている。その小さな事実が、彼女の中に新しい静かな地平を開いていた。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十章 誰が四番を開けるのか

 

 病院を出た四人は、すぐにはホテルへ戻らなかった。

 

 夕方の長崎は、昼間よりも静かに見える。山の斜面に沿って建つ家々に明かりが灯り始め、坂道を下る人の姿が長く伸びている。路面電車の音が街の中を横切り、その向こうでは観光客が夕食の店を探して歩いている。

 

 どこにでもある旅先の夕方だった。

 

 けれど、孝たちの頭の中には、祖母の言葉が残っている。九番。十二番。四番。そして、八月九日。それらが一つの出来事につながっていることは、もう疑いようがない。問題は、その先だった。

 

 誰かが今夜、四番を開けると言っている。しかも、その人物は、祖母の家から消えた木箱を持っている。

 

 つまり、四番の場所を知っている。十二番の地下室にも入ることができる。そして、四人がどこにいるのかまで把握している。

 

 そこまで考えると、今回の出来事は、単純な歴史上の秘密を探す話ではなくなる。誰かが、長い年月の中で途切れていた何かを再び動かしている。祖母が守ってきたもの。ユウスケが残した記録。エリアス・ローレンスという外国人。

 

 そして、四番に隠されたもの。それらを今夜、誰かが取り出そうとしている。

 

 孝は、ホテルへ戻る前に、四人で今後の行動を決める必要があると思った。昨日までなら、好奇心のほうが勝っていたかもしれない。しかし、祖母が病院に運ばれたことで、状況は変わっている。

 

 四人は事件を解決するために長崎へ来たわけではない。

 

 あくまで旅行に来た大学生であり、たまたま親戚の家族に残る古い記憶に触れただけなのだ。だからこそ、無理に踏み込むべきではない。警察に相談するという方法もある。それが一番正しい。

 

 ただし、警察に何を伝えるのかという問題が残る。古い地図がある。知らない番号から写真が届く。祖母が一時的に行方不明になった。

 

 そして、今夜誰かが「四番」を開けると言っている。

 

 それだけなら、警察に相談する理由として十分だろう。しかし、四番の場所がわからない。十二番の地下室を勝手に開けたわけでもない。しかも、祖母自身が長年隠してきたことだ。

 

 不用意に第三者へ話せば、かえって祖母を危険にさらす可能性もある。四人は、その判断を簡単には下せなかった。

 

 そんな中、沙羅が母親へ電話をした。祖母はまだ眠っている。病院の人間からは、今夜は面会を控えるように言われているという。沙羅は、今日聞いたことをすべて話した。九番。十二番。四番。ユウスケ。エリアス・ローレンス。

 

 そして、最後に届いた写真。電話の向こうで、母親は長い沈黙を続けた。

 

 やがて、思いもよらないことを口にした。祖母の家に、もう一つ古い鍵があったという。なくなった木箱と一緒に保管されていたはずのものだ。しかし、今朝確認したときには、それもなくなっていた。

 

 母親は、昨日までその鍵の存在を忘れていた。

 

 祖母が亡くなったあとに整理するつもりだった古い品の一つだったからだという。

 

 けれど、鍵の形を聞いた瞬間、孝はカメラに写っていた老人の姿を思い出した。あの人物が持っていた古い鍵。あれと同じものなのかもしれない。母親は、さらに一つのことを思い出した。

 

 鍵の袋には、祖母の字で小さな紙が入っていた。

 

 そこには「四」とだけ書かれていた。

 

 電話を切ったあと、四人はしばらく歩いた。誰も会話をしない。必要がなかった。今まで積み重なってきた情報が、ようやく一つの形になり始めている。木箱。鍵。四番。そして今夜。

 

 孝は、自分たちが四番へ行くべきなのかどうかを考えた。行けば危険かもしれない。しかし、行かなければ、誰かが四番を開ける。

 

 その人物が何をするつもりなのかはわからない。

 

 祖母が何十年も守ってきたものを、知らない人物に渡してしまう可能性もある。だからといって、四人だけで止められるとも思えなかった。そのとき、浩一が立ち止まった。スマートフォンに、別の情報が表示されている。

 

 昨日調べた古い地図の中に、四番の場所がようやく特定できたという。現在の住所とは一致しない。しかし、昔の地図と現在の道路を重ねると、場所をほぼ絞り込める。そこは、長崎港から離れた山側にある。

 

 現在は駐車場になっているらしい。その地下に、古い建物の基礎が残っている可能性がある。

 

 しかも、現在の所有者は一人ではない。

 

 複数の土地に分割されているため、地下に何かが残っていても、簡単には確認できない。そして、四番へ向かう道の途中には、昔の教会跡がある。昨日、十二番を見つけた場所から、一本の古い道でつながっている。

 

 ここまで来ると、四人はもう「観光の途中で偶然見つけた」という言葉では片づけられなくなっていた。

 

*

 

 その夜、四人はホテルの部屋で地図を広げた。孝が紙に、これまでわかっている場所を書き出していく。長崎港。出島。浦上。九番。十二番。四番。それらを線で結ぶ。すると、奇妙な形が浮かび上がった。

 

 長崎港から出島へ向かい、そこから浦上へ伸びる線は、単純な一直線ではない。いくつかの地点を迂回しながら進んでいる。まるで、誰かが意図的に人を歩かせるために作った道のようだった。浩一は、さらに古い地図を重ねた。

 

 現在の道路を消してみる。すると、一本の古い道が残った。

 

 それは、江戸時代から使われていた可能性のある道だった。長崎が外国との限られた交流を続けていた時代。

 

 異国の人々が入り、宗教が伝わり、弾圧によって信仰が地下へ潜り、幕末には再び外国との交流が広がった。その後、近代化が進み、戦争が始まり、原爆が落ちた。街の姿は何度も変わった。

 

 それでも、道そのものは場所によって残っている。

 

 もしユウスケが記録を守ろうとしていたなら、その道を利用していた可能性がある。

 

 つまり「九番」「十二番」「四番」は、単なる番号ではなく、古い道沿いに設けられた保管場所なのかもしれない。

 

 そして、その場所を知るためには、数字だけでは足りない。写真。地図。鐘の音。それらを組み合わせる必要がある。孝は、昨夜届いた地下室の写真をもう一度開いた。今度は壁だけではなく、床を見る。そこに小さな石がある。

 

 石の形が妙に整っている。拡大すると、表面に十字のような傷が刻まれていた。

 

 その隣に「17」。

 

 さらに、その下に「8」。

 

 孝は、そこで初めて気づいた。数字は場所だけではない。何かを読む順番を示しているのかもしれない。9。17。12。4。8。9。並べ替える必要がある。けれど、何を基準に並べるのかがわからない。歴史の順番なのか。

 

 地理的な順番なのか。それとも、写真を撮った順番なのか。四人は、夜が深くなるまで考えた。

 

 しかし、その答えは出なかった。

 

 そして午前零時を少し過ぎた頃、突然、ホテルの照明が一度だけ暗くなった。すぐに戻る。停電というほどのものではない。しかし、孝のカメラが勝手に起動した。画面に新しい写真が表示される。今度は地下室ではなかった。

 

 長崎の夜景。山の斜面から街を見下ろした写真だった。

 

 その中央に、一本だけ明るく見える道がある。写真の下には時刻が表示されている。

 

23時48分。

 

 撮影場所は、ホテルからかなり離れている。そして、その写真の端に、小さく人影が写っていた。

 

 その人物が立っている場所を拡大すると、背後に古い石造りの壁が見える。その壁には、数字が刻まれていた。

 

4。

 

 四番だった。孝は、カメラを持ったまま立ち上がった。誰かが今、四番にいる。そして、その写真を撮っている人物は、四人に見せるために送った。問題は、その写真を誰が撮ったのかだった。敵なのか。味方なのか。

 

 それとも、祖母が長い年月をかけて探していた誰かなのか。答えはわからない。

 

 ただ、今夜四番で何かが起きている。四人は、ホテルを出る準備を始めた。しかし、そこで孝は、あることに気づいた。カメラの写真には、四番だけが写っているのではない。画面の右下。街灯の影の中に、別の人物がいる。

 

 その人物は、四番の建物を見ている。そして、その手には古い木箱がある。

 

 祖母の家から消えたものと同じだ。さらに、その人物の足元には、もう一人の影が伸びている。写真には一人しか写っていないのに、影は二つある。孝は、画面を拡大した。その瞬間、背後から声がした。

 

 振り返ると、部屋の入口に沙羅が立っていた。孝はカメラを見せた。沙羅は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

 そして、写真の中に写る二つの影を見た瞬間、顔色を変えた。祖母が若かった頃の写真。そこに写っていた少年。その少年の足元にも、同じように二つの影があった。孝は、そこでようやく一つの可能性に気づいた。

 

 黒く塗りつぶされた少年は、消されたのではない。

 

写真から「誰か」を消すために、少年の顔が利用されていたのではないか。

 

 もしそうなら、あの写真に写っていた本当の人物は誰なのか。

 

 そして、今夜四番にいる二人のうち、どちらが木箱を持っている人物なのか。四人は、答えを確かめるためにホテルを出た。長崎の夜は静かだった。けれど、山の向こうでは、誰かがすでに四番の扉を開けようとしている。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第九章 もう一度

 

 約束の日、友哉は三十分早く着いた。川辺の売店で温かい紅茶とコーヒーを二つ買い、葵が来るまで河原で待った。

 

 紙袋の中には、店員に勧められた小さな焼き菓子も入っていた。友哉は買ってから、こんなものまで買う必要はなかったと思った。いらないと思うと、捨てるのも惜しい。結局、袋のまま持っていた。

 

 学生のころの自分なら、葵が好きそうかどうかを考えてから買っただろう。今日は自分が食べたいと思ったから買った。それだけのことなのに、少し大人になった気がした。

 

 何でもいいと思うのではなく、二つ用意しておいて、来た人が選べばいい。それくらいのことなら、最初からできたはずだった。

 

 友哉は学生のころの二人を思い出していた。

 

 葵はよく笑った。友哉が建物の話を始めると、少し呆れながらも最後まで聞いた。

 

 あの頃の友哉は、葵が自分を好きでいてくれることを疑わなかった。だから、言わなくても伝わると思っていた。

 

 別れてから何年も経つ。

 

 その間に葵は亮と出会い、亮を失い、自分の人生を一人で進めてきた。

 

 友哉はその時間の外にいた。

 

 取り戻せない時間がある。

 

 そのことは、もう分かっていた。

 

 それでも、言わずに帰るつもりはなかった。河原へ下りず、橋の近くで待った。春を前にした川辺には、薄い色の草が出始めている。学生が二人、コンビニのカップを手に座っている。自転車が通り、犬が立ち止まり、飼い主に引かれて歩き出した。

 

 この場所に来ると、大学生だったころの時間が近くなる。

 

 葵から別れを告げられた日も、同じ川が流れていた。あの日の友哉は、何が悪かったのか分からないまま、葵が去るのを見ていた。

 

 分かっていないことは、今もある。

 

 葵が亮をどのように愛していたのか。亡くなったあと、どんな朝を迎え、どんな夜を過ごしたのか。亮の兄と会おうとしている理由も知らなかった。

 

 知らないまま話すしかなかった。

 

 葵は時刻ちょうどに来た。

 

 紺色のコートを着て、髪は肩まで伸びていた。友哉を見つけると足を緩めたが、立ち止まらずに近づいてきた。

 

「由美に頼んだんやね」

 

 葵は川上を見て、先に歩き出した。

 

 二人は河原へ下りた。並んで歩くのは、別れて以来だった。友哉は何度も言葉を口にしかけた。そのたび、きれいに話そうとしている自分に気づいた。

 

 仕事で決めることを覚えた。金沢で人と関わった。葵の言葉が分かるようになった。

 

 そんな順番で話せば、自分が変わったことを説明できる。しかし、葵は友哉の報告を聞くために来たのではない。

 

「見合いするって聞いた」

 

 葵の足が止まった。

 

「矢部。取引先の人から聞いたらしい」

 

「前にも来たやろ。亮が亡くなったあと」

 

「あのときは、ごめん。心配やって言うたけど、自分が会いたかっただけやった」

 

 葵は川を見ていた。

 

「今日も、俺が会いたくて来た」

 

 友哉は、そこで言葉を止めなかった。止めれば、昔の自分が戻ってくる気がした。

 

「昔の俺は、葵にはふさわしくなかったと思ってる」

 

 葵の横顔は動かなかった。

 

「葵の好きなようにしたらええって言いながら、二人のことを全部、葵に決めさせてた。自分の考えを言うて間違うのが怖かった。葵に嫌われるのも怖かった」

 

 葵が小さく息を吐いた。

 

「仕事をするようになって、決めへんかったら、誰かが代わりに決めるんやって分かった。そしたら、その人が俺の分まで背負うことになる」

 

「仕事で分かったん?」

 

「仕事でしか、分からへんかった」

 

 葵は、少しだけ口元を動かした。笑ったのか、笑いかけたのか、友哉には分からない。

 

 葵は、初めて友哉の顔を見た。

 

 友哉は、その目に何があるのか読もうとしなかった。読めると思うことのほうが、間違っていた。

 

「俺は葵が好きや。もう一度、そばにいてほしい」

 

 言ってしまえば、もっと簡単になると思っていた。言葉は出すまでが難しく、出してしまえば後は相手が困る。昔の友哉は、その後半を知らなかった。実際には、言ったあとから怖くなった。返事を待つ時間まで、自分のものになったような気がした。

 

 言ったあと、友哉は川のほうを見た。葵の顔を見るのが怖かった。

 

 葵は視線を川へ戻した。

 

「見合いするから、そう思ったんと違うの」

 

「見合いのこと聞かへんかったら、また黙ってたかもしれへん。そやけど、黙ってた気持ちまで嘘やったわけやない」

 

 友哉は黙って葵の返事を待った。

 

 河原を走っていた子どもが、二人の間を避けて通った。川の音は、学生のころと変わらない。変わったのは、そこに立っている二人だった。

 

「亮のこと、まだ毎日考える」

 

 葵は言った。

 

「朝起きたとき、今日は連絡が来るような気がする日もある。兄さんと会ったら、亮の話をせんでも分かってくれる。ご両親とも、家族みたいにしてもらってたから」

 

 友哉は黙って聞いた。

 

「見合いって言うても、一度、二人で食事しようかって話。結婚を決めたわけやない」

 

「友哉に、今すぐ返事はできひん」

 

 胸の奥が沈んだ。それでも、友哉はその言葉を拒絶に置き換えなかった。

 

「待っててとも言えへんよ」

 

 葵は川を見ていた。友哉は、その言葉を拒絶とも期待とも受け取らなかった。

 

「待つかどうかは、俺が決める」

 

 言ってから、友哉は少し笑った。

 

「そやけど、葵を困らせる待ち方はせえへん」

 

 葵は笑わなかった。ただ、友哉を見ていた。

 

 橋の近くまで戻ると、二人は足を止める。

 

「今日は来てくれて、ありがとう」

 

 友哉が言うと、葵はうなずいた。

 

 それだけで別れた。

 

 葵がすぐに答えを出せないことを、友哉は以前なら不安に思っただろう。

 

 今は、不安なまま待つことができる。

 

 それから先は、葵のものだった。友哉は、橋のたもとで一人になった。渡ってしまえば帰れる。戻れば、また会えるかもしれない。そんなことを考えながら、結局どちらの方向へ行くかだけを自分で決めた。

 

 帰り道、友哉は川面を見ていた。

 

 昔と同じ川なのに、見えるものが違う。

 

 友哉は川を見た。

 それから、橋を渡った。

 

 葵は一人で河原を歩いていた。

 

 友哉の言葉を受け入れたわけではない。亮の兄と会うことをやめたわけでもない。友哉と暮らす自分を考えれば、学生のころの疲れが戻ってくる。

 

 けれど、今日の友哉は、葵の顔を見て言葉を変えなかった。

 

 以前なら、葵が黙ると「嫌やったらええよ」と先に引いた。自分はどちらでもいいという顔をして、葵の答えだけを待った。

 

 今日は、自分が会いたかったと認めた。見合いを聞かなければ黙っていたかもしれないとも言った。立派な言葉ではなかった。だからこそ、葵には友哉の言葉として残った。

 

 亮の兄とは、予定どおり食事をした。

 

 兄は亮と同じ形の目をしていたが、話し方は似ていなかった。二人は亮の学生時代の話をし、事故のあとに残った荷物のことを話した。

 

 食事の終わりに、兄は言った。

 

「両親は、葵さんが家族でいてくれたらと思ってる。でも、亮の代わりに僕と、というのは違うと思う」

 

 葵も、同じことを考えていた。

 

 二人はそれで別れた。

 

 亮とのつながりが切れたわけではなかった。兄と結婚しなくても、亮を忘れる必要はない。そのことを、葵はようやく自分に許せた。

 

 友哉へ連絡したのは、それから二か月後だった。

 

『今度の日曜、会えますか』

 

 友哉から、すぐに返事が来た。

 

『会いたい』

 

 二人は大学の近くで待ち合わせた。

 

 葵が次の行き先を尋ねようとしたとき、友哉は鴨川と言いかけてやめた。

 

「見せたい建物がある。俺が初めて任された店」

 

「バスで二十分くらい。そのあと、葵が行きたいところにも行こう」

 

 葵は少し笑った。

 

 その日、二人は復縁という言葉を使わなかった。

 

 友哉が関わった菓子店を見て、近くの店で昼を食べた。葵が行きたいと言った美術館へ行き、帰りに鴨川を歩いた。

 

 夕方、橋の上で次に会う日を決めた。友哉が候補を二つ出し、葵がそのうち一つを選んだ。

 

 以前なら、葵が決めるまで何も言わなかった。今は、友哉も先に一つ言う。葵も一つ言う。二つの希望が出てくると、予定を決めるのに少し時間がかかる。けれど、その時間が嫌ではなかった。

 

 復縁という言葉より、そのほうが友哉には確かなものに思えた。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第七章 姉妹

 

 数日後、テルさんのもとに京都からの封筒が届いた。中には、千鶴が送ってきた白浜の家族写真が入っていた。

 

 テルさんがそれを文机の上に置き、眼鏡をかけ直して眺めていると、携帯電話が甲高い音を立てた。千鶴からだった。

 

「写真、届いた?」

 

「……届いたわ」

 

『どうだった?』

 

「千鶴、あんたは昔からお調子者みたいな顔をして写っとるな」

 

『私の顔はいいのよ。……お姉ちゃん、全然笑ってないじゃない』

 

「私は昔から写真写りが悪いんじゃ。硬くなるんよ」

 

『そうじゃなくて……』

 

 電話の向こうで、千鶴の声が少しだけ柔らかくなった。遠い記憶の重みを確かめるような、静かな声だった。

 

『お母さんね、あの旅行のこと、よく話してたよ』

 

 テルさんは息を止め、言葉を待った。

 

『お姉ちゃんが家を出ていったあとも、ずっと。あの白浜の海が一番きれいやったねって。お姉ちゃんが焼いたサンマの焼き加減が一番美味しかったねって』

 

「……そうか」

 

『お母さんね、お姉ちゃんが出て行ったこと、怒ってたわけじゃないと思う。最期まで、お姉ちゃんの心配ばかりしてた』

 

 テルさんは立ち上がり、ゆっくりと窓際へ歩いた。外には、坂道を上り下りする風が吹いていた。

 

『ただ……寂しかっただけ。自分を助けるために出て行ったって分かってたから、余計に引き留められなくて、寂しかったんよ。「あの子に苦労をかけた」って、お母さんずっと自分を責めてたんだから』

 

 千鶴の言葉が、何十年もの間テルさんの胸の奥に固まっていた棘を、ゆっくりと溶かしていくようだった。

 

 長女として家を出ることが正解だと信じていた。自分が去ることで家族を助けたのだと、そう思い込むことでしか自分を納得させられなかった。けれど、遺された側にあったのは、感謝よりも深い寂しさと後悔だったのだ。

 

 二十五年という時間は、巻き戻せない。失われた日々も、そのまま残る。

 

 けれど、電話越しに声を交わし、言えなかったことを少しずつ言葉にすることはできる。過去は変わらなくても、そこに抱いていた意味なら、これから変えていけるのかもしれない。

 

「千鶴」

 

『うん?』

 

「また写真、送ってくれ」

 

『何枚でも送るよ。押し入れの中に山ほどあるんだから。お父さんの若い頃のヘンな写真もあるよ』

 

「多すぎると狭い家じゃから困るわ」

 

『ふふ、じゃあ三枚。季節ごとに三枚ずつ送る』

 

 テルさんの口元に、自然と笑みが浮かんだ。

 

「三枚なら許す」

 

 電話を切ったあと、テルさんは写真を丁寧に文机の中央に置いた。

 

 開け放した窓からさっと潮風が吹き込み、写真の端がパタパタと小さく揺れた。そこには、不器用で、けれど確かに存在していた家族の時間が刻まれていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第一章 名前

 

 松山順子が津山へ戻ってきて、半年が過ぎた。

 

 東京から送った段ボール箱は、まだ五つ、寝室の壁際に積んである。必要な食器と衣類だけ抜き出して暮らしているうちに、開けない箱は箪笥と同じになった。上には、読みかけの雑誌まで置いてある。

 

 夫が亡くなったあとも七年間続けたブティックの帳簿。店を飾った布やリボン。夫の服。大学時代の手帳と手紙。

 

 どの箱に何が入っているか、順子は覚えていた。覚えていないふりをしている箱もあった。

 

 四月半ばの朝、窓を少し開けると、桜の季節にしては冷たい風が入り、レースのカーテンを持ち上げた。

 

 この窓から鶴山公園は見えない。通りへ出て少し歩けば、桜に包まれた津山城跡が見える。

 

 桜が咲いたら行くつもりだった。

 

 咲けば人の少ない日にと思い、満開になると、散り始めてからでよいと思った。散ってしまえば、来年もある。

 

 東京へ出る前には、何度も歩いた公園だった。故郷へ戻ってからの方が遠い。

 順子は窓を閉め、湯を沸かした。

 

 朝食はトーストとヨーグルトだけだった。店をしていた頃は、開店前に昼食まで用意した。九時になっても、急がす電話は鳴らない。

 

 洗ったカップを伏せると、遠くで子どもの声がした。一人が何かを叫び、少し遅れて別の子どもが笑った。

 

 順子は壁の時計を見た。

 

 見る必要はなかったが、見ないでいると、午前中までなくなってしまいそうだった。

 

     *

 

 その頃、岡山では、澤口亨(とおる)が烏城公園へ向かっていた。

 

 定年後、妻と岡山へ移り住んで二年になる。体調のよい朝は、自宅から十分足らずの公園まで歩いた。

 

 旭川の近くまで来ると、風に水の冷たさが混じった。

 

 川向こうに岡山城が見えた。烏城(うじょう)と呼ばれる黒い城も、朝の光の中では一色ではない。青みを帯びた壁があり、屋根の下には紫に近い影が落ちている。

 

 亨はいつものベンチへ腰を下ろし、スケッチブックを開いた。

 

 鉛筆で濃く塗ったところへ消しゴムを当て、また別の線を重ねる。何度描いても、同じ黒にはならなかった。

 

 若い頃から絵を描くことは好きだった。会社員の間は、休日にスケッチブックを開く程度である。

 

 定年後の間もない頃、午後になると何度も時計を見る亨に、妻が言った。

 

「描きたいなら、毎日描けばいいでしょう」

 

 あまり簡単に言われたので、亨は少し腹が立った。

 

 翌日、スケッチブックを持って家を出た。

 

 それから晴れた日も曇った日も、同じ城を描いている。

 

 十時前、亨はスケッチブックを閉じた。その日は、市役所で移住者紹介の聞き取りを受けることになっていた。

 

 公園から市役所までは、ゆっくり歩いても間に合う。亨は旭川を離れ、朝の車が行き交う道を歩いた。

 

 市役所の小さな会議室で待っていたのが、松山千穂(ちほ)だった。

 

「おはようございます。先日は、お電話でありがとうございました」

 

 千穂は名刺を差し出した。

 

 四十二歳になったばかりだが、仕事のときは少し上に見られることが多い。母は髪が短いからだと言う。長くしていた頃には、気が強そうに見えると言っていた。

 

 机には聞き取り用紙と、亨が送った絵の写真が並んでいた。

 

「岡山へ移られて、二年になるんですね」

 

「ええ。仕事で何度も来ていましたから、知らない町という感じはありませんでした」

 

「仕事で来るのと、暮らすのとでは違いませんか」

 

「違いました。ゴミを出す日も、近所の病院も、仕事では知りませんから」

 

 千穂が笑った。

 

「そういうことも紹介したいんです。観光ではなく、ここで暮らして初めて見えたものを」

 

「失敗した話も書くんですか」

 

「できれば」

 

「それなら、妻に聞いた方が多いでしょうね」

 

 亨も笑った。

 

 岡山へ移った理由、いまの暮らし、絵を再び描き始めた時期。千穂は用紙へ書き込みながら、ときどき予定になかった質問を加えた。

 

「京都の大学だったんですね」

 

 学歴の欄を見て、千穂が顔を上げた。

 

「母も同じ大学です」

 

「そうですか」

 

「澤口さんより一つ下だと思います。昭和三十四年生まれですから」

 

「ご出身は?」

 

「津山です」

 

 亨の手が、膝の上のスケッチブックで止まった。

 

「お母さまのお名前を伺ってもいいですか」

 

「松山順子です」

 

 亨は目を伏せた。

 

「ご結婚されて、名字が変わっているかもしれませんね。大学時代のお名前は?」

 

「小坂です。小坂順子」

 

 会議室の外を、台車が通り過ぎた。車輪の音が遠ざかっても、亨は顔を上げなかった。

 

「ご存じなんですか」

 

「ええ」

 

 スケッチブックの角を、親指で一度なぞった。

 

「同じ学年でした」

 

「母も覚えているかもしれません」

 

「どうでしょう」

 

「今度、聞いてみます」

 

 亨は何か言いかけ、口を閉じた。

 

「そうですか」

 

 千穂は聞き取り用紙へ目を戻した。そこには〈妻と岡山へ移住〉と、自分の字で書いてあった。

 

 聞き取りが終わったのは、十一時半を過ぎた頃だった。

 

 亨を見送ったあと、千穂は用紙をファイルへ入れ、絵の写真を封筒へ戻した。一枚だけ表裏を間違えて入れ、すぐに直した。

 

 母へ電話をかけようとしたところで、昼の打ち合わせが始まった。

 

 電話をかけたのは、一時を過ぎてからだった。

 

 順子は昼食を終え、ダイニングテーブルに新聞を広げていた。

 

「もしもし。お母さん、いま大丈夫?」

 

「電話に出たんだから、大丈夫でしょう」

 

「出ても大丈夫じゃないときがあるでしょう」

 

「それなら、先に聞かずに切ればいいのよ」

 

「相変わらずね」

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

「何でもない人は、電話してこないでしょう」

 

 千穂は一度息をついた。

 

「今度の日曜日、岡山に来ない?」

 

「何かあるの?」

 

「表町の空き店舗で、小さな展示をするんよ。岡山へ移ってきた人の暮らしを紹介するの」

 

「市役所は、そんなこともするの?」

 

「市役所だけでするわけじゃないよ。商店街や市民団体の方たちと一緒に」

 

 千穂が展示の内容を話している間、順子は新聞の折り目を指で押さえていた。

 

「今日、絵を描いている人の聞き取りをしたの。岡山城や旭川の絵を描く人で、定年後に奥さんと岡山へ移ってきたんだって」

 

「画家なの?」

 

「本人は違うと言ってた。体調のいい午前中は烏城公園を歩いて、午後に絵を描いてるみたい」

 

「元気なのか悪いのか、分からない人ね」

 

「六十八歳だから、お母さんより一つ上かな」

 

「年齢まで聞いたの?」

 

「紹介文に必要だから」

 

 千穂は、そこで少し声を変えた。

 

「その人、お母さんと同じ大学だった」

 

「京都に大学がいくつあると思ってるの」

 

「だから、同じ大学だって」

 

 順子は新聞から目を上げた。

 

「卒業した年も近かったから、母も同じ大学だと話したの。名前を聞かれて、松山順子ですと答えたら、結婚して名字が変わっているかもしれないから、大学時代の名前はって」

 

「教えたの?」

 

「小坂です、小坂順子ですと言ったら、急に黙って」

 

 順子の指が新聞の端をつまんだ。紙に小さなしわができた。

 

「それで、その人は何て?」

 

「同じ学年にいたと言ってた」

 

「名前は?」

 

「澤口さん。澤口亨さんという人」

 

 向かいの家の物干し台で、白いシャツが揺れていた。袖が風を含み、こちらへ手招きするように持ち上がる。

 

「お母さん、知ってる?」

 

 順子は立ち上がり、窓を閉めた。

 

「同じ学年に、そういう人がいたと思う」

 

「向こうも同じ言い方をした」

 

「そう」

 

「知ってるなら、展示を見に来ない? 澤口さんの絵も出るから」

 

「行かない」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「まだ、日曜日の予定も聞いてないでしょう」

 

「誰が来ても行かない」

 

「澤口さんと、何かあったの?」

 

「何もない」

 

「何もない人は、そんな声を出さないでしょう」

 

 順子は窓の鍵を掛けた。

 

 金属音が、部屋の中で思いのほか大きく響いた。

 

「昔、付き合っていた人?」

 

 順子は答えなかった。

 

「その人に、私のことをこれ以上話さないで」

 

「住所なんて知らないよ」

 

「住所だけじゃない。電話番号も、このマンションの名前も」

 

「お母さん」

 

「仕事中なんでしょう」

 

「いまは母親と話してる」

 

「私のことで仕事を止めないで」

 

 しばらくして、千穂が言った。

 

「分かった」

 

「会議があるんでしょう」

 

「切るね」

 

「遅れないようにしなさい」

 

「もう職場にいるよ」

 

 電話が切れた。

 

 順子は携帯電話を耳に当てたまま、窓辺に立っていた。

 

 白いシャツは、まだ手を振っている。

 

 澤口亨。

 

 四十数年、口にしなかった名前である。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱を見下ろした。一番下の箱には、大学四回生の年に使っていた紺色の手帳が入っている。亨の下宿の電話番号も、消さずに残したはずだった。

 

 上の箱を一つ床へ下ろした。

 

 二つ目へ手を掛けたところで、やめた。

 

 電話番号が残っていたとしても、いまは知らない誰かが出るか、呼び出し音さえ鳴らないだろう。

 

 順子は床へ下ろした箱を、元の場所へ戻した。少し曲がって置かれたので、角を壁に合わせて押した。

 

 財布と鍵を鞄へ入れ、外へ出た。

 

 商店街を抜け、鶴山公園の見える通りまで歩いた。家族連れが順子を追い越し、子どもの持った風船が、母親の肩に何度も当たっていた。

 

 城跡は、満開を少し過ぎた桜に包まれている。

 

 大学三回生の春、順子は亨を津山へ連れてきた。

 

 二人で鶴山公園を歩いた。亨は石垣の前へ来るたびに足を止め、順子が先へ進んでも、しばらくスケッチを続けていた。

 

 あのとき、順子は笑った。石垣に勝ったと思った。

 

 四十数年たっても、石垣はそこにあった。

 

 花見客の一団が、公園へ向かって歩いていく。

 

 順子は一度、その後ろへついた。十歩ほど歩いてから道を外れ、来た方へ戻った。

 

     *

 

 市役所を出た亨は、自宅へ帰る前に、もう一度烏城公園へ立ち寄った。

 

 朝のベンチは空いていた。

 

 スケッチブックを開いたが、鉛筆は動かなかった。

 

 小坂順子。

 

 結婚して、松山順子になった。

 

 東京でブティックを営み、半年前に津山へ戻った。

 

 千穂の話したことは、それだけだった。わずかなことなのに、亨の知らない四十数年が、机の上に一度に広げられたようだった。

 

 家へ戻ると、妻の洋子は近所の花屋へ出ていた。

 

 ダイニングテーブルに、

 

〈今日は少し遅くなります。夕食は七時頃〉

 

と書いたメモがあった。

 

 亨はメモを冷蔵庫へ磁石で留め、二階へ上がった。

 

 小さな部屋には、描きかけの絵が立てかけてある。岡山城、旭川、後楽園の木立、西川沿いの散歩道。

 

 人物を描いたものはなかった。

 

 亨は机の一番下の引き出しから、茶色い包みを取り出した。

 

 紐をほどくと、古いスケッチが一枚出てきた。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。顔は描き込んでいない。それでも、少し上げた右手と、こちらへ向けた肩の角度だけで、順子だと分かった。

 

 亨は机に白い便箋を置いた。

 

 日付を書き、その下に、

 

〈松山順子様〉

 

 と書いた。

 

 小坂ではなく、松山と書いた。

 

 それだけで、便箋が急によそよそしいものになった。

 

 書こうとしていた言葉は、いずれも小坂順子へ向けたものだった。二十二歳の順子なら分かることも、松山順子には説明しなければならない。説明した途端、どれも言い訳になりそうだった。

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 白い面に、窓からの光が当たった。

 

 夕方、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま」

 

 洋子が細長い包みを抱えて帰ってきた。

 

 亨が一階へ下りると、洋子は玄関で靴を脱いでいるところだった。

 

「それは?」

 

「今日、店に残った花。まだ十分きれいだから、もらってきたの」

 

 包みを開くと、淡い黄色の花が現れた。傷んだところはなく、どれもしっかり花びらを開いている。

 

「売れ残りなんて言ったら、花に悪いわね」

 

 洋子は花を一本ずつ取り出した。

 

「今日は選ばれなかっただけ」

 

「明日は選ばれるかもしれない」

 

「明日は店にないもの」

 

「そうか」

 

「うちに来たんだから、ここで咲けばいいの」

 

 洋子は花瓶へ水を入れ、茎を切り始めた。鋏の音が、夕方の部屋に小さく響いた。

 

「展示に出す絵は描けた?」

 

「まだ」

 

「同じ城を、ずっと描いているのに?」

 

「同じにならないんだ」

 

「同じにする必要があるの?」

 

 洋子は一本だけ短く切った。

 

「前の絵と違っても、今日見えた城なら、それでいいでしょう」

 

 花を花瓶へ入れ、少し離れて眺める。

 

「一本、多いかな」

 

「僕には分からない」

 

「でしょうね」

 

 洋子は中央の花を一本抜いた。隠れていた細い葉が見えた。

 

「今日、何かあった?」

 

「どうして?」

 

「朝より疲れた顔をしているから」

 

 亨は窓辺の花を見た。

 

「昔の知り合いの名前を聞いた」

 

「会ったの?」

 

「いや」

 

「会いたい人?」

 

 亨はすぐには答えなかった。

 

「分からない」

 

「ずいぶん昔の人なんでしょう」

 

「そうだ」

 

 洋子は、誰なのかとは聞かなかった。

 

 抜いた花の茎をもう一度切り、台所にあった細い瓶へ挿した。

 

「これなら二本とも生きるわね」

 

「一本じゃないのか」

 

「花瓶が二つになったから、二本よ」

 

 洋子は当然のように言った。

 

「相手にも、相手の花瓶があるでしょうね」

 

 亨は洋子を見た。

 

 洋子は窓辺の花の向きを直していた。

 

「夕食の支度をするわね」

 

 台所へ入る洋子の手には、短く切った花があった。

 

 亨は一人で窓辺に残った。

 

 店で選ばれなかった花が、岡山の家で咲いている。

 

 二階の机には、松山順子と書いた便箋が伏せてある。

 

 亨は階段へ目をやった。

 

 洋子が台所で包丁を使い始めた。規則正しい音を聞きながら、亨は椅子へ座った。

 

 便箋を取りに戻るには、まだ夕食まで時間があった。

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『 風を聴く 』

 

第四章  裁縫箱の秘密と、遠いシャッター

 

激しい言い争いから数日が過ぎても、鈴木家に落ちた暗い影は晴れなかった。

 

だが、二階の部屋に再び閉じこもった沙耶香の心の中には、これまでとは違う微かな波紋が広がっていた。親族からの容赦ない言葉、追い詰められた家族の姿、そして何より、身体を小さく丸めて謝っていた祖母・俊子の姿が、頭から離れなかったのだ。

 

「おばあちゃんを、これ以上追い詰めたくない……」

 

十一月に入り、熱田の街を吹き抜ける風はいよいよ冷たさを増していた。

 

ある日の午後。由香里が買い出しに出かけ、家の中がしんと静まり返っている。

 

沙耶香は意を決し、重い足取りで一階へと下りていった。

 

茶の間では、俊子が一人、日当たりの悪い縁側に背を向け、畳の上に座っていた。その膝前には、黒漆塗りの大きな木箱が置かれている。俊子が半世紀以上使い続けてきた、古びた裁縫箱だった。

 

「……おばあちゃん」

 

沙耶香の小さな声に、俊子はゆっくりと顔を上げた。

 

「……おや、沙耶香。降りてきたのかい」

 

俊子の顔に、暖かな日だまりのような笑みが浮かぶ。沙耶香は恐る恐る近寄り、畳の上に正座した。

 

俊子は裁縫箱のフタを静かに開けた。箱を開けた瞬間、古い木綿の匂いと、甘く香ばしいミシン油の匂い、そして長年蓄積された裁縫針の金属臭が、ふわりと茶の間に広がった。

 

箱の中には、色とりどもの木綿糸や絹糸の糸巻き、歪んだ竹尺、使い込まれて黒ずんだ裁ちバサミ、そして幾重にも重ねられた色とりどりの小さな布の端切れが、ギッシリと詰まっていた。

 

「おばあちゃん、何してるの?」

 

「うん。針の整理をしとかんと、もう目が見えなくなってねぇ。どれが何の針やら分からんようになってしもうとる」

 

俊子は指の関節が太く曲がった手で、裁縫箱の底から一枚の小さな布切れを取り出した。

 

それは、鮮やかな朱色に白い小花模様が散りばめられた、手のひらサイズの赤い端切れだった。端は粗くほつれ、時代の経過とともに少し褪色しているが、どこかぬくもりを感じさせる風合いを保っている。

 

「これはね……」俊子は愛おしそうにその布を撫でた。「沙耶香、お前さんがが生まれた時にね、私が作って贈ったお宮参りの着物の、残りの端切れなんだよ」

 

沙耶香は目を見張った。

 

「私の……?」

 

「そうさ。あの頃はまだ私も元気でね。陽一が『女の子が生まれたよ、母さん』って泣きそうな顔で報告しに来てねぇ。嬉しくて嬉しくて、夜通しミシンを踏んで、この生地で小さな着物を縫ったんだ」

 

俊子は端切れを沙耶香の手のひらの上にそっと載せた。

 

木綿のやわらかい肌触りが、沙耶香の指先に伝わってくる。

 

「洋裁ってのはね、沙耶香。切れてしまった布を、針と糸で一つひとつ繋ぎ合わせていく作業なんだ。途中で糸がこんがらがったり、針目が歪んだりすることもある。だけどね、間違えたら一度糸をほどいて、もう一度縫い直せばいいんだよ」

 

俊子は沙耶香の凍えた手を、温かい両手で包み込んだ。

 

「人間も同じだよ。途中で形が崩れても、傷がついても、何度だって縫い直せる。焦らんでいい。一歩進んで怖くなったら、二歩下がればいいんだ。この端切れみたいに、自分のペースで縫い合わせていけばいいんだよ」

 

沙耶香の胸の奥で、固く冷たく凍りついていた何かが、しずくとなって溶け出していく感覚があった。

 

涙がポロポロとこぼれ落ち、赤い端切れの上に小さなシミを作った。

 

「おばあちゃん……私……怖かったの。自分が壊れてしまったみたいで……外に出るのが、人が……カメラが怖くて……」

 

「わかっとるよ、わかっとる。お前さんは何も悪くないんだからね」

 

俊子は沙耶香の背中を、優しいリズムでさすり続けた。

 

サッシの隙間から滑り込んできた茶トラの猫が、二人のすぐ脇にそっと身を寄せ、丸くなった。

 

――(しょうがねぇ泣き虫な孫娘だな。だが……泣くだけの体力が残っているなら、まだ見込みはあるぜ)

 

猫の呆れたような声が俊子の頭に響く。俊子は猫の頭にそっと触れ、沙耶香には聞こえない声で小さく「もちろん、そうさ」と微笑んだ。

 

◇

 

その日の夕方。大きなカメラバッグを肩に下げた父・陽一が仕事から帰宅した。

 

玄関で靴を脱ぐ陽一の顔には、連日の営業活動と撮影の疲れが濃く滲んでいた。

 

茶の間へ入ってきた陽一は、コタツの脇で俊子の手伝いをしている沙耶香の姿を見つけると、ハッと足を止めた。

 

「……沙耶香」

 

陽一は言葉を呑み込み、肩から下ろしたカメラバッグのファスナーを静かに開けた。

 

取り出したのは、漆黒の金属ボディが使い込まれて鈍い光を放つ、古い機械式の一眼レフカメラだった。デジタルカメラ全盛の時代にあって、陽一が三十年以上愛用し続けている相棒だ。そして、沙耶香が生まれた日に、父として彼女の成長を記録するために買い求めた記念のカメラでもあった。

 

陽一はカメラを両手でしっかりと抱え、沙耶香から五メートルほど離れた部屋の端に立った。

 

「……沙耶香」

 

陽一の低い声には、微かな震えが混ざっていた。

 

「お前に……無理をさせるつもりはない。だが、俺はカメラマンだ。言葉でうまく言えないから……カメラでしか、お前と向き合えないんだ」

 

陽一がゆっくりとカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。

 

その瞬間——

 

「カチリ」という機械的な操作音が、沙耶香の鼓膜を刺した。

 

沙耶香の頭の中で、一年前の記憶が閃光とともに蘇った。閉ざされた地下室、威圧的な男たち、逃げ場のない視線、そして執拗に向けられたレンズ。

 

「っ……あ……!」

 

全身の血が引いていく。激しい動悸が胸を襲い、息が吸えなくなった。沙耶香は両手で頭を抱え込み、畳の上へ倒れ込むように身体を丸めた。

 

「沙耶香!」

 

陽一が青ざめた顔で駆け寄ろうとした。

 

「来ないで……っ! カメラを……向けないで……!」

 

沙耶香の悲鳴のような叫び声が部屋に響き渡った。荒い呼吸が漏れ、身体がガタガタと震える。

 

「すまん……っ、沙耶香、すまん! 俺が焦った……!」

 

陽一は自分のしでかしたことの愚かさに打ちひしがれ、カメラを畳の上に投げ出すように置くと、頭を抱えて座り込んだ。

 

その時、俊子が静かに立ち上がった。

 

すり足で歩み寄ると、畳の上に転がった漆黒のカメラの上から、古い風呂敷をそっと被せた。レンズの存在感を、柔らかい布で覆い隠したのだ。

 

俊子は泣きじゃくる沙耶香の隣にしゃがみ込み、その肩を抱きしめた。

 

「陽一。気持ちはわかるがね、焦っちゃいかんよ。傷口はね、急して引っ張ったら余計に開いてしまうんだ」

 

「……母さん……俺は……俺は父親として、あいつに何もしてやれなくて……」

 

陽一は両手で顔を覆い、肩を震わせた。

 

沙耶香は俊子の胸の中で、祖母から手渡された赤い端切れを、爪が食い込むほど固く握りしめていた。

 

怖かった。死ぬほど怖かった。カメラのレンズは、今なお自分を切り刻む刃物に見えた。

 

けれど——自分に向かってカメラを構えた父の瞳が、決して男たちのような汚い欲望ではなく、深い悲しみと祈りに満ちていたことを、沙耶香の心の片隅は確かに捉えていた。

 

翌日の午後。

 

部屋に引きこもっていた沙耶香は、意を決して一階へ下りていった。

 

茶の間では、陽一が一人、座卓の上で風呂敷を外したカメラのレンズを、専用の布で黙々と拭いていた。その背中はどこか小さく見えた。

 

「……お父さん」

 

沙耶香の掠れた声に、陽一が弾かれたように振り返った。

 

沙耶香は畳を踏みしめ、陽一から一番遠い部屋の隅、床の間の柱の脇に立った。脚はまだ微かに震えている。手の中には、あの赤い端切れが握られていた。

 

「……もう一度、試してみて」

 

陽一は息を呑んだ。

 

「沙耶香……しかし、昨日あんなことが……」

 

「……すごく遠くからでいい。部屋の端っこから……レンズを見ないようにするから……」

 

沙耶香は唇を強く噛み締め、視線を床の間の畳の目へと落とした。全身の皮膚が粟立つような恐怖が襲ってくる。それでも、逃げ出さなかった。

 

陽一は立ち上がり、慎重に距離をとった。茶の間の最も遠い対角線上に立ち、息を殺してカメラを構えた。

 

「……行くぞ」

 

陽一の声が響く。

 

「カシャ」

 

静かな茶の間に、乾いたシャッター音が一つ、ぽつりと響いた。

 

ストロボの光はない。ただ、庭の柿の木越しに差し込む秋のやわらかな自然光だけが、部屋を満たしている。

 

音を聞いた瞬間、沙耶香は思わず目を固く閉じた。胸が締め付けられるような緊張感が走る。

 

しかし——痛みは来なかった。恐怖の閃光も、自分を脅かす悪意も入ってこなかった。

 

ゆっくりと目を開けると、ファインダーから目を離した陽一が立っていた。その目元には、大きな涙が溜まっていた。

 

「……撮れたよ、沙耶香。ありがとう……」

 

陽一の声は絞り出すようだった。

 

沙耶香は深く、深く息を吐き出した。手の中の赤い端切れが、じんわりと自分の体温で温かくなっていた。

 

完全な克服には程遠い。カメラはまだ怖い。けれど、途切れていた父と娘の間の「糸」が、ほんの少しだけ繋ぎ合わされた瞬間だった。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第九章 十二番の地下室

 

 翌朝、四人は前日の疲れを残したまま、ホテルのロビーに集まった。誰も朝食を急いで食べようとはしなかった。これまでなら、長崎で過ごせる時間を惜しむように予定を確認し、次にどこへ行くかを決めていただろう。

 

 しかし今は、観光のために作った予定表が、ほとんど意味を失っている。

 

 沙羅の母親から届いた紙には、「十二番」という文字と、その下に一人の人物の名前が書かれていた。

 

エリアス・ローレンス。

 

 外国人の名前だった。

 

 母親にも、その人物が何者なのかはわからない。ただ、祖母がその名前を見せられたとき、はっきりと反応したという。病院のベッドの上で、長いあいだ閉じていた目を開き、紙を握ったまま何かを言おうとした。

 

 しかし、声にはならなかった。その後、祖母は眠ってしまった。

 

 母親は、その紙を写真に撮って沙羅へ送った。

 

 孝は、その名前を見たとき、昨日調べた古い記録を思い出した。長崎港に関係していた外国人の中に、似た名前がある。しかし、記録は断片的で、同一人物なのかはわからない。

 

 浩一が古い資料を検索すると、やがて一つの記録が見つかった。一九三〇年代の長崎港の記録だった。

 

 そこには、エリアス・ローレンスという人物が、海外から入ってきた物資の管理に関係していたことが記されている。商人なのか、通訳なのか、あるいは港湾関係者なのか、その身分ははっきりしない。

 

 しかし、記録の末尾に興味深い一文があった。

 

「浦上方面の宗教関係者と交流あり」

 

 けれど、四人には十分だった。キリシタンの歴史。外国との交流。長崎港。浦上。そして、祖母の弟である少年。

 

 それらを結びつける人物として、エリアス・ローレンスという名前が現れた。問題は、その人物が何を少年に託したのかだった。ホテルを出る前、孝は昨夜の音声をもう一度聞いた。

 

 「九番を見つけたなら、もう戻れない」

 

 声の主は、四人が九番を見つけたことを知っている。

 

 昨夜、四人が十二番について調べ始めたことも、相手は知っている可能性がある。つまり、四人が何をしているのかを見ている人物がいる。

 

 それを考えると、十二番へ向かうことそのものが、相手の思惑に乗ることになる。それでも四人は向かうことにした。理由は、祖母の弟について何かを知るためだけではなかった。

 

 祖母が何十年も守り続けてきたものが何なのかを確かめたかった。

 

 それを知らないまま京都へ戻れば、きっと長崎を離れたあとも、ずっと引っかかる。ただし、昨日までとは違って、四人は一人で動かないことを決めた。常に四人で行動する。人の少ない場所へ行くときは、誰かに行き先を知らせる。

 

 何か異変があれば、その場から離れる。観光に来た大学生としては、ごく当たり前の判断だった。

 

 事件を解決する必要などない。危険な場所へ踏み込む必要もない。ただ、目の前にあるものを確認し、危ないと感じたら引き返す。その線だけは越えない。

 

*

 

 十二番の場所は、山の斜面に近いところにあった。

 

 現在の住所とは一致しないため、古い地図を頼りに歩くしかない。道路は途中から細くなり、住宅の間を縫うように続いている。観光客の姿はほとんどなく、時折、近所の人が通り過ぎる程度だった。

 

 古い地図には、そこに小さな礼拝所があったと記されている。

 

 現在、その建物は残っていない。ただ、斜面の一部だけが不自然に平らになっていた。周囲には雑草が生え、古い石がいくつか残っている。浩一が地図を確認し、現在位置と照らし合わせる。ほぼ一致していた。

 

 ここが十二番だった可能性が高い。孝は周囲を見回した。何か特別なものがあるようには見えない。古い石。

 

 崩れかけた壁。木の根に押し上げられた地面。しかし、涼子が少し離れた場所で立ち止まった。地面から、鉄の輪が出ている。雑草に覆われていて、今まで誰も気づかなかった。

 

 四人で周囲の草を少しだけ払うと、石でできた蓋のようなものが現れた。鉄の輪は、その蓋を持ち上げるためのものらしい。

 

 ただし、四人だけで動かすには重すぎた。しかも、勝手に開けていいものなのかもわからない。孝はスマートフォンで周囲を撮影した。そのとき、画面の端に人影が入った。振り返る。斜面の下に、誰かが立っている。

 

 昨日の老人ではなかった。年齢は四十代くらいに見える。こちらを見ている。

 

 しかし、目が合うと、すぐに背を向けて歩き出した。孝は追わなかった。代わりに、その人物が歩いていく方向だけを確認した。その先には、小さな道路がある。そして、道路の向こうに白い車が停まっていた。昨日見た車とは違う。

 

 人物が乗り込む。車は静かに走り去った。四人は、その場を離れた。

 

 十二番の蓋を開けることはしなかった。

 

 この場所については、まず地元の人間か、管理している人物に確認する必要がある。そう判断したからだ。ところが、斜面を下りている途中、沙羅が何かを見つけた。古い石垣の隙間に、紙が挟まっている。

 

 誰かが意図的に差し込んだようだった。

 

 紙には、鉛筆で一つの文章が書かれている。

 

「開けるのは、四人ではない。」

 

 それを読んだとき、孝は妙な感覚に襲われた。これは脅迫ではない。むしろ、四人に開けさせないための警告に見える。つまり、ここにいる誰かは、四人を危険から遠ざけようとしている。では、誰が。そして、なぜ四人なのか。

 

 その答えは、まだ見えなかった。

 

*

 

 昼過ぎ、四人は長崎市内へ戻った。昼食を取りながら、これからどうするかを考える。昨日までなら、ここで次の観光地を決めていただろう。

 

 しかし、今は観光地の名前よりも、十二番の地下に何があるのかが気になっている。それでも、勝手に開けることはしない。その判断を崩さなかったのは、沙羅だった。祖母のことを思えば、何としてでも確かめたい気持ちはある。

 

 しかし、祖母が長い年月をかけて守ってきたものなら、それを無理に開けることが正しいとは限らない。その考え方は、孝にも納得できた。謎を解くことより、人を巻き込まないことのほうが大切だ。

 

 ところが、その日の夕方、予想していなかった人物から連絡が来た。祖母だった。

 

 病院から、沙羅のスマートフォンへ短い電話が入った。声は弱い。けれど、意識ははっきりしている。祖母は、沙羅が長崎へ来ていることを知っている。そして、四人が何かを調べていることも知っていた。

 

 しばらく黙ったあと、祖母は一つだけ尋ねた。十二番へ行ったか。沙羅が答える。

 

 すると祖母は、少し安心したように息を吐いた。そして、初めて自分から、四人に会いたいと言った。場所は病院。その日のうちに来てほしい。ただし、一人ではなく、四人で来るように。

 

 病院へ向かう途中、孝はその意味を考えていた。祖母は、これまで四人を危険から遠ざけようとしていた。

 

 それなのに、今度は自分から四人を呼んでいる。何か状況が変わったのだろう。病院の病室に入ると、祖母はベッドの上で目を閉じていた。沙羅が近づくと、ゆっくり目を開ける。痩せた顔だった。

 

 けれど、目だけは驚くほどしっかりしていた。祖母は四人を順番に見た。そして、孝の手にあるカメラに視線を止めた。

 

 しばらくして、祖母は沙羅に何かを尋ねた。カメラの写真を見たか。沙羅が頷く。祖母は目を閉じた。それから、長い時間をかけて話し始めた。少年の名前は、**ユウスケ**。それが祖母の弟だった。

 

 ただし、家族が呼んでいた名前は別にあった。戸籍上の名前と、家族が使っていた名前が違っていた。なぜそうなったのか。

 

 祖母は、それを説明する前に、エリアス・ローレンスの名前を口にした。その人物は、少年を助けようとしていた。戦争が終わる前、長崎には外国とのつながりを持つ人々が残っていた。

 

 その中には、信仰や人道的な理由から、迫害されていた人々を密かに助けようとする者もいた。ユウスケは、その人物を通じて、ある記録を預かった。それは宗教の記録だけではなかった。外国との交易に関する記録。人の移動。

 

 名前を変えた人々。戦時中に消された住所。

 

 そして、長崎の地下に残された複数の保管場所についての記録だった。なぜそんなものが必要だったのか。祖母は、そこだけははっきり説明しなかった。ただ、戦争によって記録が失われることを恐れた人々がいた。

 

 何が起きたのかを後世に残すために、いくつかの場所へ分散して保管した。

 

 その一つが「九番」。

 

 そして、最後の保管場所が「十二番」だった。

 

 しかし、八月九日の朝、すべてが変わった。ユウスケは、エリアス・ローレンスの助けを受けながら十二番へ向かった。その後、原爆が投下され、二人は離れた。祖母は、自分だけが生き残ったことを長いあいだ悔やんでいた。

 

 けれど、数年後、家の中に一枚の紙が残されていることに気づいた。そこには、ユウスケの筆跡でこう書かれていた。

 

「四番に移す。」

 

 祖母は、それがユウスケの最後の記録だと思っていた。

 

 ところが、その後、誰かが「四番」を探し始めた。

 

 祖母は何十年も、その人物から記録を守ってきた。そして今、その秘密が再び動き始めた。祖母は、孝たちを見つめた。その目には、これまでになかった強い光があった。

 

 「あなたたちが来たから、もう隠しておけないと思ったの」

 

 その一言を最後に、祖母は目を閉じた。病室には、機械の小さな音だけが残った。四人はしばらく動かなかった。

 

 これまで追っていた「九番」は、終点ではなかった。

 

 九番は、何かを守るための場所。十二番は、それを保管するための場所。

 

 そして「四番」は、その先にある。

 

 しかも、ユウスケ自身がそこへ移したと記録している。問題は、何を移したのかだった。

 

 病院を出たあと、孝はカメラの中に残っている地下室の写真をもう一度見た。黒く塗りつぶされた少年。

 

 その下に刻まれた「12」。

 

 そして、そのさらに下に、今まで見落としていた小さな文字がある。拡大すると、ようやく読めた。それは数字ではなかった。

 

「8・9」

 

 孝は、その二つの日付を見て、息を止めた。八月九日。原爆が投下された日。しかし、その写真が撮影された時刻は、午後三時十七分だった。

 

 そして、その時刻は、これまで何度も現れている「17」と一致する。

 

 九番。十二番。四番。17。8・9。それぞれが別々の意味を持っているのではない。一本の記録を、誰かが分割して残しているのかもしれない。そして、その記録を最後に完成させられるのは、四人ではない。

 

 孝は、その可能性に気づいた瞬間、昨夜の警告を思い出した。

 

「開けるのは、四人ではない。」

 

 では、誰が開けるのか。その答えを考えるより先に、孝のスマートフォンが震えた。知らない番号から、今度は写真が一枚だけ届いている。そこには、十二番の地下室へ続く階段が写っていた。階段の途中に、一人の男が立っている。

 

 その男はカメラに背を向けている。そして、その手には古い木箱がある。

 

 祖母の家から消えた木箱だった。写真の下には、短い文章が添えられていた。

 

「今夜、四番を開ける。」

 

 その瞬間、孝は初めて理解した。自分たちは謎を追っていたのではない。誰かが、四人の前で謎を動かしていたのだ。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

第八章 見合い

 金沢から戻って半年ほど経ったころ、葵が見合いをすると聞いた。

 

 その日から、友哉は仕事の帰りに何度も鴨川へ寄った。

 

 河原を歩く。橋を渡る。コンビニで飲み物を買い、ベンチに座る。

 

 学生のころと同じ道だった。

 

 違うのは、隣に葵がいないことだった。

 

 友哉は、葵を取り戻したいと思っている自分を否定しなくなった。抑えた気持ちはなくなるわけではない。言わないまま残り、別の形で相手へ向かうことがある。

 

 それなら、今度は言う。答えを要求するのではなく、自分がどう思っているのかを伝える。それで葵が離れていくなら、その結果も自分で引き受ける。

 

 京都へ戻って半年後、矢部から連絡があった。

 

 友哉が設計した小さな診療所の改修現場で、二人は壁の下地を確認していた。矢部の会社が施工を請け負っていた。

 

 職人が休憩に入り、矢部は自動販売機の缶コーヒーを二本買った。

 

「葵、見合いするらしいで」

 

 矢部は缶コーヒーを友哉の前へ置いた。缶が机に触れた小さな音が、やけに大きかった。

 

 友哉は受け取った缶を開けなかった。

 

 亮の兄は、事故のあと何度か京都へ来ていた。亮の荷物を整理し、会社との手続きをし、葵とも連絡を取っていたという。

 

「由美から聞いただけや。俺に聞くな」

 

 矢部は友哉の顔を見た。

 

 友哉は答えなかった。

 

 午後の打ち合わせでは、医師の診察室と処置室の間にある扉を残すか塞ぐかを決めた。友哉は利用の仕方を聞き、塞ぐ案を説明した。施主が迷うと、友哉の考えをもう一度尋ねられた。

 

 答えることはできた。

 

 その日の仕事で決めるべきことは、すべて決めた。

 

 見合いの話を聞いた夜、友哉は設計図の前で手を止めた。

 

 明日の現場で決めることは残っている。扉の位置、照明の高さ、手すりの納まり。どれも決められる。

 

 葵のことだけは決められない。

 

 それは当然だった。葵の気持ちは葵のものだからだ。

 

 それでも、自分の気持ちまで黙っている必要はないと思った。言えば相手を困らせるかもしれない。けれど、黙っていれば、自分の中だけで話が終わってしまう。

 

 昔の自分は、葵が何かを言うまで待ち、決まればそれに合わせた。そのほうが相手を困らせずに済むと思っていた。今は、それもまた相手へ判断を押しつけることだと分かる。

 

 友哉は図面を閉じ、スマートフォンを手にした。すぐには誰にも連絡しなかった。まず、自分が何を伝えたいのかを考えた。

 

 葵のことだけが、頭から離れなかった。図面なら、閉じれば目の前から消える。人間はそうはいかない。

 

 亮を失った葵が、亮の兄と会おうとしている。家族とのつながりを残したいのかもしれない。兄を好きになったのかもしれない。周囲に勧められ、断れずにいるだけかもしれない。

 

 どれも友哉の想像だった。

 

 相手のことを考えるなら、いま近づくべきではない。葵は一度、友哉を追い返している。見合いをすると聞いて現れれば、また自分の気持ちを押しつけることになる。

 

 そう考えている間にも、胸の奥が狭くなっていった。今度、葵が誰かと生きることを決めたら、自分は本当に離れなければならない。自分で決めるというのは、自由になることだけではない。選ばなかったものを諦めることでもある。

 

 以前にも、葵が亮と婚約したときに同じことを考えたはずだった。そのときは黙っていた。葵が幸せならそれでいいと、自分に言い聞かせた。

 

 亮を亡くした葵の前へ行ったときも、何を望んでいるのか言えない。心配しているという言葉で、自分の気持ちを隠した。

 

 友哉はようやく、黙って離れることが、なぜこれほど苦しいのかを考えた。

 

 葵を愛していた。

 

 学生のころから、ずっとそうだった。ただ、その気持ちを自分の責任で葵に告げたことがなかった。葵が好きなものに合わせ、葵の望むようにしていれば、そばにいられると思っていた。自分が何を望んでいるかを言葉にしなかったために、その気持ちまで葵へ届かなかった。

 

 いま伝えても、受け入れてもらえないかもしれない。

 

 それでも、自分が一番好きな人に、自分の思いを告げることはできる。振られたあとに悲しむことも、その悲しみから自分で立ち上がることもできる。

 

 見合いのことを考えながら、友哉は自分の机の引き出しを開けた。学生時代の消しゴムや古い定規の下に、金沢で買った小さな菓子の包み紙が残っていた。捨てたつもりだったのに、なぜか取ってあった。

 

 包み紙を指で伸ばしてみる。茜からもらったものではない。旅館の売店で自分が買った菓子だった。そんなものまで残している自分がおかしくなって、友哉は一人で笑った。

 

 人は、忘れたいものだけを残すこともある。忘れたくないものは、案外、何もしなくても残る。

 

 友哉は由美へ連絡した。

 

 大学を卒業してから会っていない。メッセージには、見合いをやめさせたいとは書かなかった。葵と一度だけ話したい。葵が嫌だと言えば、それ以上は頼まないと書いた。

 

 返事が来たのは二日後だった。

 

『葵に聞いてみます』

 

 さらに三日後、場所と時刻だけが届いた。

 

 日曜日の午後四時。鴨川の、大学時代によく歩いた橋のそばだった。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第六章 夢のカリフォルニア

 

 和樹が去った数日後の午後、ハルさんの家にはゆったりとした時間が流れていた。

 

 茶の間の押入れを整理していたテルさんが、奥の段ボール箱の中から四角い黒い物体を見つけ出した。

 

 プラスチックの表面が白く曇り、持ち手がついた古いポータブルカセットレコーダーだった。

 

「これまだ動くんか」

 

「動くからそこに置いとるんじゃ」

 

 ハルさんは長火鉢の脇で湯呑みを持ち上げながら答えた。

 

 テルさんは乾いた布でレコーダーの埃を拭うと、自分がいつも使っている小さなカセットテープレコーダーからテープを取り出した。

 

 埃を拭いたばかりのポータブルカセットテープレコーダーの電源をコンセントにさしてテープを入れた。

 

 太い再生ボタンを力いっぱい押し込むと、ガチャリ、と重い機械音が響く。

 

 ボリュームを回すと、いつものママス&パパスの『夢のカリフォルニア』が流れ始めた。

 

 ハルさんがポツリと言った。

 

「ほら見てごらん、ちゃんと動いた」

 

「古い言うても、うちの使うてるのより高いやつじゃからね」

 

「あんたいつもその曲やね。他のは聴かんの?」

 

「出かける時はこれだけ、何度でも聴けるように中学の友達にダビングしてもろうた」

 

「よう飽きんことやね」

 

 ハルさんはあきれて言った。

 

 テルさんは視線を落とし、畳の目を見つめたまま遠い目をした。

 

「……これ、白浜へ行ったときに車の中で何度もかかっとった」

 

「家族でか?」

 

「うん」

 

 父親がまだ健在で、母親も肌がツヤツヤとして若かった頃だ。千鶴もまだ小学生で、後部座席で歌に合わせて無邪気に体を揺らしていた。父親が中古で買ったボロ車で、途中でエンストしそうになりながら和歌山まで行ったのだった。

 

 海で泳ぎ、熱い砂浜を裸足で走り回り、夜になれば小さな旅籠で刺身を食べた。

 

 誰かが何かを言えば、みんなで顔を見合わせて笑っていた。テルさんの人生の中で、最も眩しく、最も満ち足りていた時間だった。

 

 だが、その一年の終わりに、父親は病気で呆気なく逝ってしまった。

 

 父親を失った家を守るため、母親は朝から夜遅くまで働くようになった。テルさんは二十代半ばで家を出た。自分がいなくなれば、食いぶちが一人分減り、母親の負担が軽くなるはずだと、自分に言い聞かせた。

 

 それが長女としての正しい選択だと、当時は信じていた。

 

「私はな……あのとき家を出れば、全部うまくいくと思っとったんよ」

 

 テルさんの声は小さく、音楽に紛れそうだった。

 

 ハルさんは温かいお茶を一口飲み、静かに問いかけた。

 

「全部?」

 

「……ほうよ。私が我慢して出ていけば、お母さんも千鶴も楽になれると。自分の気持ちなんて、どうでもええと思っておった」

 

 沈黙が流れた。曲が終わるとまた始まった。

 

 ハルさんは壁に飾られた古い尾道の風景写真を見上げながら、静かに言った。

 

「お母さんは、それで本当に良かったんかい。子どもに身を引かれて喜ぶ親はおらんと思うがな」

 

 テルさんは答えなかった。答えられなかった。

 

 母親の顔を思い出そうとすると、白浜の海ばかりが浮かんだ。

 

 あの日の母親が本当に何を思っていたのか、テルさんにはもう確かめる術がない。

 

 ただ、カセットテープから流れるメロディを、じっと耳を澄ませて聴き続けた。やがてテープが終わってカシャっとボタンが戻った。テルさんはそれを見て、深く息を吐き出した。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第五章 山崎屋の灯り

 

 その夜、商店街の脇道に暖簾を掲げる干物屋『山崎屋』の店内には、父親が一人で佇んでいた。

 

 木製の作業台の上には、明日の競りに回すための干物の箱が整然と積まれている。

 

 アジ、サバ、カマス。塩分を含んだ海風と魚の乾いた独特の匂いが染みついた土間で、父親は黙々と手を動かし、箱の角を揃えていた。長年使い込まれた包丁や網が、壁に整然と掛けられている。

 

 和樹が大阪へ向かうことは、もう決まっている。

 

 先ほど店を飛び出していった息子の足音を、父親は作業の手を止めることなく聞いていた。理由を尋ねることも、引き留めることもしなかった。不器用な親子だった。言葉を出せば出すほど、お互いの角が立ってしまう。

 

 父親は、いつもと同じように網を拭き、床を掃き、閉ざされた店内の空気を入れ替えるために勝手口の戸を少しだけ開けておいた。

 

 やがて店じまいの時間になり、父親は重い木製のガラガラ戸を下ろした。

 

 ガラガラ、バタン。

 

 静かな街に、戸が閉まる無骨な音が響く。鍵をかけようと手を伸ばした、その時だった。

 

 戸の隙間から、勢いよく人影が滑り込んできた。息を切らした和樹だった。

 

「……忘れ物か」

 

 父親は振り返りもせず、低い声で言った。

 

「店の鍵」

 

 和樹は自分のポケットを指さした。

 

「予備のやつ、置きっぱなしだったから」

 

 父親は作業台の上に置かれていた使い古しの真鍮の鍵を手に取ると、和樹の方へ放るように差し出した。

 

「持っていけ」

 

「いいの?」

 

「なくすなよ」

 

 和樹は戸惑いながらも、その重みのある金属の鍵を受け取った。ひんやりとした感触が手のひらに残る。

 

「……父さん」

 

「何じゃ」

 

「俺が戻ってきても、この店、まだある?」

 

 父親は手を止め、ゆっくりと和樹の方を振り返った。頑固そうな眉間のしわは深かったが、その奥の目はどこか静かだった。

 

「知らん」

 

「そこは、あるって言ってよ」

 

「店は生き物じゃ。街が変われば店も変わる。先の事まで約束できる親がどこにおる。残したけりゃ、お前が継げばよかったんじゃ」

 

 和樹は口を結び、黙り込んだ。

 

 父親は何も言わずに奥の帳場へ歩いていくと、古い木製の引き出しから一枚の写真を丸めて取り出してきた。フチが黄色く変色した、白黒に近いカラー写真だった。

 

 そこに写っていたのは、まだ若く、精悍な顔つきをした父親と、幼い和樹を抱っこして柔らかく笑う亡き母親の姿だった。後ろには開店当初の山崎屋の看板が写っている。

 

「これ、持っていけ」

 

「……俺が?」

 

「他に誰がおる」

 

 和樹は躊躇いがちに写真を受け取った。表面をなぞると、古い紙のざらついた感触が伝わってきた。

 

 父親は照れくさそうに背を向け、作業台の掃除を再開した。

 

「勝手に行け。自分の足で立って見せろ」

 

 和樹は写真をポケットにしまい、強く頷いた。

 

 その重みを確かめるように、ポケットの上からそっと手を当てた。

 

 古い紙の感触が、これから離れていく町と、まだ離れきれない家の両方を思わせた。

 

「うん」

 

 しばしの沈黙が流れた。潮風が勝手口から吹き抜け、天井から下がった裸電球をかすかに揺らした。

 

 背中を向けたまま、父親がポツリと付け加えた。

 

「……倒れたら、いつでも戻ってこい」

 

 和樹の口元が、自然と緩んだ。

 

「分かった。行ってくる」

 

 店の外へ出ると、夜の尾道の空気はひんやりと澄んでいた。

 

 数歩歩いて振り返ると、山崎屋の木枠の隙間から、オレンジ色のあたたかい灯りが漏れていた。和樹はその灯りをしっかりと目に焼き付けると、駅へと続く坂道を力強く歩き始めた。