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『 花びらの積もる道 』

 

第一章 名前

 

 松山順子が津山へ戻ってきて、半年が過ぎた。

 

 東京から送った段ボール箱は、まだ五つ、寝室の壁際に積んである。必要な食器と衣類だけ抜き出して暮らしているうちに、開けない箱は箪笥と同じになった。上には、読みかけの雑誌まで置いてある。

 

 夫が亡くなったあとも七年間続けたブティックの帳簿。店を飾った布やリボン。夫の服。大学時代の手帳と手紙。

 

 どの箱に何が入っているか、順子は覚えていた。覚えていないふりをしている箱もあった。

 

 四月半ばの朝、窓を少し開けると、桜の季節にしては冷たい風が入り、レースのカーテンを持ち上げた。

 

 この窓から鶴山公園は見えない。通りへ出て少し歩けば、桜に包まれた津山城跡が見える。

 

 桜が咲いたら行くつもりだった。

 

 咲けば人の少ない日にと思い、満開になると、散り始めてからでよいと思った。散ってしまえば、来年もある。

 

 東京へ出る前には、何度も歩いた公園だった。故郷へ戻ってからの方が遠い。

 順子は窓を閉め、湯を沸かした。

 

 朝食はトーストとヨーグルトだけだった。店をしていた頃は、開店前に昼食まで用意した。九時になっても、急がす電話は鳴らない。

 

 洗ったカップを伏せると、遠くで子どもの声がした。一人が何かを叫び、少し遅れて別の子どもが笑った。

 

 順子は壁の時計を見た。

 

 見る必要はなかったが、見ないでいると、午前中までなくなってしまいそうだった。

 

     *

 

 その頃、岡山では、澤口亨(とおる)が烏城公園へ向かっていた。

 

 定年後、妻と岡山へ移り住んで二年になる。体調のよい朝は、自宅から十分足らずの公園まで歩いた。

 

 旭川の近くまで来ると、風に水の冷たさが混じった。

 

 川向こうに岡山城が見えた。烏城(うじょう)と呼ばれる黒い城も、朝の光の中では一色ではない。青みを帯びた壁があり、屋根の下には紫に近い影が落ちている。

 

 亨はいつものベンチへ腰を下ろし、スケッチブックを開いた。

 

 鉛筆で濃く塗ったところへ消しゴムを当て、また別の線を重ねる。何度描いても、同じ黒にはならなかった。

 

 若い頃から絵を描くことは好きだった。会社員の間は、休日にスケッチブックを開く程度である。

 

 定年後の間もない頃、午後になると何度も時計を見る亨に、妻が言った。

 

「描きたいなら、毎日描けばいいでしょう」

 

 あまり簡単に言われたので、亨は少し腹が立った。

 

 翌日、スケッチブックを持って家を出た。

 

 それから晴れた日も曇った日も、同じ城を描いている。

 

 十時前、亨はスケッチブックを閉じた。その日は、市役所で移住者紹介の聞き取りを受けることになっていた。

 

 公園から市役所までは、ゆっくり歩いても間に合う。亨は旭川を離れ、朝の車が行き交う道を歩いた。

 

 市役所の小さな会議室で待っていたのが、松山千穂(ちほ)だった。

 

「おはようございます。先日は、お電話でありがとうございました」

 

 千穂は名刺を差し出した。

 

 四十二歳になったばかりだが、仕事のときは少し上に見られることが多い。母は髪が短いからだと言う。長くしていた頃には、気が強そうに見えると言っていた。

 

 机には聞き取り用紙と、亨が送った絵の写真が並んでいた。

 

「岡山へ移られて、二年になるんですね」

 

「ええ。仕事で何度も来ていましたから、知らない町という感じはありませんでした」

 

「仕事で来るのと、暮らすのとでは違いませんか」

 

「違いました。ゴミを出す日も、近所の病院も、仕事では知りませんから」

 

 千穂が笑った。

 

「そういうことも紹介したいんです。観光ではなく、ここで暮らして初めて見えたものを」

 

「失敗した話も書くんですか」

 

「できれば」

 

「それなら、妻に聞いた方が多いでしょうね」

 

 亨も笑った。

 

 岡山へ移った理由、いまの暮らし、絵を再び描き始めた時期。千穂は用紙へ書き込みながら、ときどき予定になかった質問を加えた。

 

「京都の大学だったんですね」

 

 学歴の欄を見て、千穂が顔を上げた。

 

「母も同じ大学です」

 

「そうですか」

 

「澤口さんより一つ下だと思います。昭和三十四年生まれですから」

 

「ご出身は?」

 

「津山です」

 

 亨の手が、膝の上のスケッチブックで止まった。

 

「お母さまのお名前を伺ってもいいですか」

 

「松山順子です」

 

 亨は目を伏せた。

 

「ご結婚されて、名字が変わっているかもしれませんね。大学時代のお名前は?」

 

「小坂です。小坂順子」

 

 会議室の外を、台車が通り過ぎた。車輪の音が遠ざかっても、亨は顔を上げなかった。

 

「ご存じなんですか」

 

「ええ」

 

 スケッチブックの角を、親指で一度なぞった。

 

「同じ学年でした」

 

「母も覚えているかもしれません」

 

「どうでしょう」

 

「今度、聞いてみます」

 

 亨は何か言いかけ、口を閉じた。

 

「そうですか」

 

 千穂は聞き取り用紙へ目を戻した。そこには〈妻と岡山へ移住〉と、自分の字で書いてあった。

 

 聞き取りが終わったのは、十一時半を過ぎた頃だった。

 

 亨を見送ったあと、千穂は用紙をファイルへ入れ、絵の写真を封筒へ戻した。一枚だけ表裏を間違えて入れ、すぐに直した。

 

 母へ電話をかけようとしたところで、昼の打ち合わせが始まった。

 

 電話をかけたのは、一時を過ぎてからだった。

 

 順子は昼食を終え、ダイニングテーブルに新聞を広げていた。

 

「もしもし。お母さん、いま大丈夫?」

 

「電話に出たんだから、大丈夫でしょう」

 

「出ても大丈夫じゃないときがあるでしょう」

 

「それなら、先に聞かずに切ればいいのよ」

 

「相変わらずね」

 

「何が?」

 

「何でもない」

 

「何でもない人は、電話してこないでしょう」

 

 千穂は一度息をついた。

 

「今度の日曜日、岡山に来ない?」

 

「何かあるの?」

 

「表町の空き店舗で、小さな展示をするんよ。岡山へ移ってきた人の暮らしを紹介するの」

 

「市役所は、そんなこともするの?」

 

「市役所だけでするわけじゃないよ。商店街や市民団体の方たちと一緒に」

 

 千穂が展示の内容を話している間、順子は新聞の折り目を指で押さえていた。

 

「今日、絵を描いている人の聞き取りをしたの。岡山城や旭川の絵を描く人で、定年後に奥さんと岡山へ移ってきたんだって」

 

「画家なの?」

 

「本人は違うと言ってた。体調のいい午前中は烏城公園を歩いて、午後に絵を描いてるみたい」

 

「元気なのか悪いのか、分からない人ね」

 

「六十八歳だから、お母さんより一つ上かな」

 

「年齢まで聞いたの?」

 

「紹介文に必要だから」

 

 千穂は、そこで少し声を変えた。

 

「その人、お母さんと同じ大学だった」

 

「京都に大学がいくつあると思ってるの」

 

「だから、同じ大学だって」

 

 順子は新聞から目を上げた。

 

「卒業した年も近かったから、母も同じ大学だと話したの。名前を聞かれて、松山順子ですと答えたら、結婚して名字が変わっているかもしれないから、大学時代の名前はって」

 

「教えたの?」

 

「小坂です、小坂順子ですと言ったら、急に黙って」

 

 順子の指が新聞の端をつまんだ。紙に小さなしわができた。

 

「それで、その人は何て?」

 

「同じ学年にいたと言ってた」

 

「名前は?」

 

「澤口さん。澤口亨さんという人」

 

 向かいの家の物干し台で、白いシャツが揺れていた。袖が風を含み、こちらへ手招きするように持ち上がる。

 

「お母さん、知ってる?」

 

 順子は立ち上がり、窓を閉めた。

 

「同じ学年に、そういう人がいたと思う」

 

「向こうも同じ言い方をした」

 

「そう」

 

「知ってるなら、展示を見に来ない? 澤口さんの絵も出るから」

 

「行かない」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「まだ、日曜日の予定も聞いてないでしょう」

 

「誰が来ても行かない」

 

「澤口さんと、何かあったの?」

 

「何もない」

 

「何もない人は、そんな声を出さないでしょう」

 

 順子は窓の鍵を掛けた。

 

 金属音が、部屋の中で思いのほか大きく響いた。

 

「昔、付き合っていた人?」

 

 順子は答えなかった。

 

「その人に、私のことをこれ以上話さないで」

 

「住所なんて知らないよ」

 

「住所だけじゃない。電話番号も、このマンションの名前も」

 

「お母さん」

 

「仕事中なんでしょう」

 

「いまは母親と話してる」

 

「私のことで仕事を止めないで」

 

 しばらくして、千穂が言った。

 

「分かった」

 

「会議があるんでしょう」

 

「切るね」

 

「遅れないようにしなさい」

 

「もう職場にいるよ」

 

 電話が切れた。

 

 順子は携帯電話を耳に当てたまま、窓辺に立っていた。

 

 白いシャツは、まだ手を振っている。

 

 澤口亨。

 

 四十数年、口にしなかった名前である。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱を見下ろした。一番下の箱には、大学四回生の年に使っていた紺色の手帳が入っている。亨の下宿の電話番号も、消さずに残したはずだった。

 

 上の箱を一つ床へ下ろした。

 

 二つ目へ手を掛けたところで、やめた。

 

 電話番号が残っていたとしても、いまは知らない誰かが出るか、呼び出し音さえ鳴らないだろう。

 

 順子は床へ下ろした箱を、元の場所へ戻した。少し曲がって置かれたので、角を壁に合わせて押した。

 

 財布と鍵を鞄へ入れ、外へ出た。

 

 商店街を抜け、鶴山公園の見える通りまで歩いた。家族連れが順子を追い越し、子どもの持った風船が、母親の肩に何度も当たっていた。

 

 城跡は、満開を少し過ぎた桜に包まれている。

 

 大学三回生の春、順子は亨を津山へ連れてきた。

 

 二人で鶴山公園を歩いた。亨は石垣の前へ来るたびに足を止め、順子が先へ進んでも、しばらくスケッチを続けていた。

 

 あのとき、順子は笑った。石垣に勝ったと思った。

 

 四十数年たっても、石垣はそこにあった。

 

 花見客の一団が、公園へ向かって歩いていく。

 

 順子は一度、その後ろへついた。十歩ほど歩いてから道を外れ、来た方へ戻った。

 

     *

 

 市役所を出た亨は、自宅へ帰る前に、もう一度烏城公園へ立ち寄った。

 

 朝のベンチは空いていた。

 

 スケッチブックを開いたが、鉛筆は動かなかった。

 

 小坂順子。

 

 結婚して、松山順子になった。

 

 東京でブティックを営み、半年前に津山へ戻った。

 

 千穂の話したことは、それだけだった。わずかなことなのに、亨の知らない四十数年が、机の上に一度に広げられたようだった。

 

 家へ戻ると、妻の洋子は近所の花屋へ出ていた。

 

 ダイニングテーブルに、

 

〈今日は少し遅くなります。夕食は七時頃〉

 

と書いたメモがあった。

 

 亨はメモを冷蔵庫へ磁石で留め、二階へ上がった。

 

 小さな部屋には、描きかけの絵が立てかけてある。岡山城、旭川、後楽園の木立、西川沿いの散歩道。

 

 人物を描いたものはなかった。

 

 亨は机の一番下の引き出しから、茶色い包みを取り出した。

 

 紐をほどくと、古いスケッチが一枚出てきた。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。顔は描き込んでいない。それでも、少し上げた右手と、こちらへ向けた肩の角度だけで、順子だと分かった。

 

 亨は机に白い便箋を置いた。

 

 日付を書き、その下に、

 

〈松山順子様〉

 

 と書いた。

 

 小坂ではなく、松山と書いた。

 

 それだけで、便箋が急によそよそしいものになった。

 

 書こうとしていた言葉は、いずれも小坂順子へ向けたものだった。二十二歳の順子なら分かることも、松山順子には説明しなければならない。説明した途端、どれも言い訳になりそうだった。

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 白い面に、窓からの光が当たった。

 

 夕方、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま」

 

 洋子が細長い包みを抱えて帰ってきた。

 

 亨が一階へ下りると、洋子は玄関で靴を脱いでいるところだった。

 

「それは?」

 

「今日、店に残った花。まだ十分きれいだから、もらってきたの」

 

 包みを開くと、淡い黄色の花が現れた。傷んだところはなく、どれもしっかり花びらを開いている。

 

「売れ残りなんて言ったら、花に悪いわね」

 

 洋子は花を一本ずつ取り出した。

 

「今日は選ばれなかっただけ」

 

「明日は選ばれるかもしれない」

 

「明日は店にないもの」

 

「そうか」

 

「うちに来たんだから、ここで咲けばいいの」

 

 洋子は花瓶へ水を入れ、茎を切り始めた。鋏の音が、夕方の部屋に小さく響いた。

 

「展示に出す絵は描けた?」

 

「まだ」

 

「同じ城を、ずっと描いているのに?」

 

「同じにならないんだ」

 

「同じにする必要があるの?」

 

 洋子は一本だけ短く切った。

 

「前の絵と違っても、今日見えた城なら、それでいいでしょう」

 

 花を花瓶へ入れ、少し離れて眺める。

 

「一本、多いかな」

 

「僕には分からない」

 

「でしょうね」

 

 洋子は中央の花を一本抜いた。隠れていた細い葉が見えた。

 

「今日、何かあった?」

 

「どうして?」

 

「朝より疲れた顔をしているから」

 

 亨は窓辺の花を見た。

 

「昔の知り合いの名前を聞いた」

 

「会ったの?」

 

「いや」

 

「会いたい人?」

 

 亨はすぐには答えなかった。

 

「分からない」

 

「ずいぶん昔の人なんでしょう」

 

「そうだ」

 

 洋子は、誰なのかとは聞かなかった。

 

 抜いた花の茎をもう一度切り、台所にあった細い瓶へ挿した。

 

「これなら二本とも生きるわね」

 

「一本じゃないのか」

 

「花瓶が二つになったから、二本よ」

 

 洋子は当然のように言った。

 

「相手にも、相手の花瓶があるでしょうね」

 

 亨は洋子を見た。

 

 洋子は窓辺の花の向きを直していた。

 

「夕食の支度をするわね」

 

 台所へ入る洋子の手には、短く切った花があった。

 

 亨は一人で窓辺に残った。

 

 店で選ばれなかった花が、岡山の家で咲いている。

 

 二階の机には、松山順子と書いた便箋が伏せてある。

 

 亨は階段へ目をやった。

 

 洋子が台所で包丁を使い始めた。規則正しい音を聞きながら、亨は椅子へ座った。

 

 便箋を取りに戻るには、まだ夕食まで時間があった。