この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 続編 尾道の坂を下って 』
第六章 夢のカリフォルニア
和樹が去った数日後の午後、ハルさんの家にはゆったりとした時間が流れていた。
茶の間の押入れを整理していたテルさんが、奥の段ボール箱の中から四角い黒い物体を見つけ出した。
プラスチックの表面が白く曇り、持ち手がついた古いポータブルカセットレコーダーだった。
「これまだ動くんか」
「動くからそこに置いとるんじゃ」
ハルさんは長火鉢の脇で湯呑みを持ち上げながら答えた。
テルさんは乾いた布でレコーダーの埃を拭うと、自分がいつも使っている小さなカセットテープレコーダーからテープを取り出した。
埃を拭いたばかりのポータブルカセットテープレコーダーの電源をコンセントにさしてテープを入れた。
太い再生ボタンを力いっぱい押し込むと、ガチャリ、と重い機械音が響く。
ボリュームを回すと、いつものママス&パパスの『夢のカリフォルニア』が流れ始めた。
ハルさんがポツリと言った。
「ほら見てごらん、ちゃんと動いた」
「古い言うても、うちの使うてるのより高いやつじゃからね」
「あんたいつもその曲やね。他のは聴かんの?」
「出かける時はこれだけ、何度でも聴けるように中学の友達にダビングしてもろうた」
「よう飽きんことやね」
ハルさんはあきれて言った。
テルさんは視線を落とし、畳の目を見つめたまま遠い目をした。
「……これ、白浜へ行ったときに車の中で何度もかかっとった」
「家族でか?」
「うん」
父親がまだ健在で、母親も肌がツヤツヤとして若かった頃だ。千鶴もまだ小学生で、後部座席で歌に合わせて無邪気に体を揺らしていた。父親が中古で買ったボロ車で、途中でエンストしそうになりながら和歌山まで行ったのだった。
海で泳ぎ、熱い砂浜を裸足で走り回り、夜になれば小さな旅籠で刺身を食べた。
誰かが何かを言えば、みんなで顔を見合わせて笑っていた。テルさんの人生の中で、最も眩しく、最も満ち足りていた時間だった。
だが、その一年の終わりに、父親は病気で呆気なく逝ってしまった。
父親を失った家を守るため、母親は朝から夜遅くまで働くようになった。テルさんは二十代半ばで家を出た。自分がいなくなれば、食いぶちが一人分減り、母親の負担が軽くなるはずだと、自分に言い聞かせた。
それが長女としての正しい選択だと、当時は信じていた。
「私はな……あのとき家を出れば、全部うまくいくと思っとったんよ」
テルさんの声は小さく、音楽に紛れそうだった。
ハルさんは温かいお茶を一口飲み、静かに問いかけた。
「全部?」
「……ほうよ。私が我慢して出ていけば、お母さんも千鶴も楽になれると。自分の気持ちなんて、どうでもええと思っておった」
沈黙が流れた。曲が終わるとまた始まった。
ハルさんは壁に飾られた古い尾道の風景写真を見上げながら、静かに言った。
「お母さんは、それで本当に良かったんかい。子どもに身を引かれて喜ぶ親はおらんと思うがな」
テルさんは答えなかった。答えられなかった。
母親の顔を思い出そうとすると、白浜の海ばかりが浮かんだ。
あの日の母親が本当に何を思っていたのか、テルさんにはもう確かめる術がない。
ただ、カセットテープから流れるメロディを、じっと耳を澄ませて聴き続けた。やがてテープが終わってカシャっとボタンが戻った。テルさんはそれを見て、深く息を吐き出した。
