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『 二つの流れのあいだ 』

 

第八章 見合い

 金沢から戻って半年ほど経ったころ、葵が見合いをすると聞いた。

 

 その日から、友哉は仕事の帰りに何度も鴨川へ寄った。

 

 河原を歩く。橋を渡る。コンビニで飲み物を買い、ベンチに座る。

 

 学生のころと同じ道だった。

 

 違うのは、隣に葵がいないことだった。

 

 友哉は、葵を取り戻したいと思っている自分を否定しなくなった。抑えた気持ちはなくなるわけではない。言わないまま残り、別の形で相手へ向かうことがある。

 

 それなら、今度は言う。答えを要求するのではなく、自分がどう思っているのかを伝える。それで葵が離れていくなら、その結果も自分で引き受ける。

 

 京都へ戻って半年後、矢部から連絡があった。

 

 友哉が設計した小さな診療所の改修現場で、二人は壁の下地を確認していた。矢部の会社が施工を請け負っていた。

 

 職人が休憩に入り、矢部は自動販売機の缶コーヒーを二本買った。

 

「葵、見合いするらしいで」

 

 矢部は缶コーヒーを友哉の前へ置いた。缶が机に触れた小さな音が、やけに大きかった。

 

 友哉は受け取った缶を開けなかった。

 

 亮の兄は、事故のあと何度か京都へ来ていた。亮の荷物を整理し、会社との手続きをし、葵とも連絡を取っていたという。

 

「由美から聞いただけや。俺に聞くな」

 

 矢部は友哉の顔を見た。

 

 友哉は答えなかった。

 

 午後の打ち合わせでは、医師の診察室と処置室の間にある扉を残すか塞ぐかを決めた。友哉は利用の仕方を聞き、塞ぐ案を説明した。施主が迷うと、友哉の考えをもう一度尋ねられた。

 

 答えることはできた。

 

 その日の仕事で決めるべきことは、すべて決めた。

 

 見合いの話を聞いた夜、友哉は設計図の前で手を止めた。

 

 明日の現場で決めることは残っている。扉の位置、照明の高さ、手すりの納まり。どれも決められる。

 

 葵のことだけは決められない。

 

 それは当然だった。葵の気持ちは葵のものだからだ。

 

 それでも、自分の気持ちまで黙っている必要はないと思った。言えば相手を困らせるかもしれない。けれど、黙っていれば、自分の中だけで話が終わってしまう。

 

 昔の自分は、葵が何かを言うまで待ち、決まればそれに合わせた。そのほうが相手を困らせずに済むと思っていた。今は、それもまた相手へ判断を押しつけることだと分かる。

 

 友哉は図面を閉じ、スマートフォンを手にした。すぐには誰にも連絡しなかった。まず、自分が何を伝えたいのかを考えた。

 

 葵のことだけが、頭から離れなかった。図面なら、閉じれば目の前から消える。人間はそうはいかない。

 

 亮を失った葵が、亮の兄と会おうとしている。家族とのつながりを残したいのかもしれない。兄を好きになったのかもしれない。周囲に勧められ、断れずにいるだけかもしれない。

 

 どれも友哉の想像だった。

 

 相手のことを考えるなら、いま近づくべきではない。葵は一度、友哉を追い返している。見合いをすると聞いて現れれば、また自分の気持ちを押しつけることになる。

 

 そう考えている間にも、胸の奥が狭くなっていった。今度、葵が誰かと生きることを決めたら、自分は本当に離れなければならない。自分で決めるというのは、自由になることだけではない。選ばなかったものを諦めることでもある。

 

 以前にも、葵が亮と婚約したときに同じことを考えたはずだった。そのときは黙っていた。葵が幸せならそれでいいと、自分に言い聞かせた。

 

 亮を亡くした葵の前へ行ったときも、何を望んでいるのか言えない。心配しているという言葉で、自分の気持ちを隠した。

 

 友哉はようやく、黙って離れることが、なぜこれほど苦しいのかを考えた。

 

 葵を愛していた。

 

 学生のころから、ずっとそうだった。ただ、その気持ちを自分の責任で葵に告げたことがなかった。葵が好きなものに合わせ、葵の望むようにしていれば、そばにいられると思っていた。自分が何を望んでいるかを言葉にしなかったために、その気持ちまで葵へ届かなかった。

 

 いま伝えても、受け入れてもらえないかもしれない。

 

 それでも、自分が一番好きな人に、自分の思いを告げることはできる。振られたあとに悲しむことも、その悲しみから自分で立ち上がることもできる。

 

 見合いのことを考えながら、友哉は自分の机の引き出しを開けた。学生時代の消しゴムや古い定規の下に、金沢で買った小さな菓子の包み紙が残っていた。捨てたつもりだったのに、なぜか取ってあった。

 

 包み紙を指で伸ばしてみる。茜からもらったものではない。旅館の売店で自分が買った菓子だった。そんなものまで残している自分がおかしくなって、友哉は一人で笑った。

 

 人は、忘れたいものだけを残すこともある。忘れたくないものは、案外、何もしなくても残る。

 

 友哉は由美へ連絡した。

 

 大学を卒業してから会っていない。メッセージには、見合いをやめさせたいとは書かなかった。葵と一度だけ話したい。葵が嫌だと言えば、それ以上は頼まないと書いた。

 

 返事が来たのは二日後だった。

 

『葵に聞いてみます』

 

 さらに三日後、場所と時刻だけが届いた。

 

 日曜日の午後四時。鴨川の、大学時代によく歩いた橋のそばだった。