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『 風を聴く 』

 

第五章   新幹線の風と、大阪の空

 

十一月中旬。名古屋駅の十五番線ホームには、晩秋の湿った風が冷たく吹き抜けていた。

 

「沙耶香、気分はどうだ? 途中で気分が悪くなったら、いつでも言えよ」

 

父・陽一が、大きなカメラバッグを抱え直しながら何度も沙耶香の顔を覗き込んできた。その声には、娘を伴って遠出することへの安堵と、激しい緊張が入り混じっていた。

 

沙耶香はコートのポケットの中で、祖母から手渡された赤い端切れをぎゅっと握りしめた。手垢で少し柔らかくなった木綿の肌触りだけが、今の沙耶香の現実を繋ぎ止める唯一の命綱だった。

 

「……大丈夫。いける」

 

沙耶香は掠れた声で答え、ホームに滑り込んできた「のぞみ」の白い車体を見つめた。

 

この大阪行きは、沙耶香にとって一年ぶりの「外の世界」への長距離移動だった。

 

旅の理由は、陽一の古い写真家仲間が大阪の古いビルで経営する小さなスタジオで行われる、若手写真家たちのグループ展と、それに伴うポートレートの特別撮影会だった。陽一は主催者からの依頼を受け、一枠の撮影を担当することになっていた。

 

数日前、陽一は沙耶香にこう切り出したのだった。

 

『沙耶香、もしよかったらアシスタントとしてついてきてくれないか。写真を撮れとは言わない。ただ、俺の撮影現場を遠くから見ているだけでいい。大阪の空気を吸うだけでも、何かが変わるかもしれない』

 

二階の部屋で閉ざされていた時間を破るには、あまりにも大きな跳躍だった。しかし、あの裁縫箱の前で祖母と交わした約束、そして父のカメラと向き合った静かな時間が、沙耶香の背中をそっと押していた。

 

ホームのドアが開き、二人は車内へと足を踏み入れた。

 

指定席に腰を下ろし、新幹線が滑らかに動き出す。車窓の風景が徐々に加速し、熱田の街並みが、尾張の田園風景が、高速で後ろへと去っていく。

 

しかし、米原を過ぎたあたりから、沙耶香の身体に異変が起き始めた。

 

車内の密閉された空間、聞き慣れない足音、通り過ぎる乗客たちの無遠慮な視線。それらすべてが、一年前の東京での恐怖の記憶を刺激し始めたのだ。

 

(どこへ行こうとしているの? またあの光の中に飛び込むの? 逃げ場のない場所へ行くの?)

 

頭の中で拒絶の叫びが渦を巻く。

 

「ッ……あ……!」

 

胸が激しく圧迫され、酸素が喉を通らなくなってきた。手足の先から急速に血の気が引き、冷や汗が額を伝い落ちる。

 

「沙耶香!?」

 

隣の陽一が異変に気づき、慌てて沙耶香の肩を抱き寄せた。

 

「息を吸うんだ! 沙耶香、俺を見ろ! ゆっくり吐いて……そう、ゆっくりだ!」

 

「苦しい……っ! お父さん、降りる……! 次の駅で降りて……っ!」

 

パニックに陥った沙耶香の視界が、ぐにゃりと歪む。トンネルに入るたび、車内に反射する蛍光灯の光が、あのストロボの閃光に見えて仕方がなかった。

 

京都駅に停車した瞬間、沙耶香は立ち上がりかけた。だが、陽一は優しく、しかし力強い手で沙耶香の手を握りしめた。その手には、重いカメラを何十年も持ち続けてきた写真家の、ゴツゴツとした硬いタコがあった。

 

「沙耶香、逃げてもいい。京都で降りて戻ったっていいんだ。だがな……この恐怖は、逃げている限りどこまでも追ってくる。俺がついてる。絶対に、お前を一人にはしない」

 

陽一はポケットから、小さなプラスチック製のフィルムケースを取り出し、沙耶香の手のひらに握らせた。

 

「これは、お前が赤ん坊の頃、俺が初めて撮ったモノクロフィルムの空ケースだ。俺の原点は、お前なんだよ。沙耶香」

 

手のひらに伝わる、古びたプラスチックの質感と、父の手の温もり。

 

沙耶香は目を固く閉じ、深く、深く呼吸を繰り返した。爪が赤い端切れとフィルムケースに食い込む。

 

やがて、新幹線はゆっくりと減速し、新大阪駅のホームへと滑り込んだ。

 

心臓はまだ早鐘のように打っていたが、沙耶香は自分の足で、なんとか新幹線のステップを踏み外さずに降り立つことができた。

 

◇

 

新大阪から地下鉄に乗り換え、心斎橋の喧騒を通り抜けて南船場へ向かう道すがら、二人はほとんど言葉を交わさなかった。

 

晩秋の街風がビル街の谷間を吹き抜け、街頭の銀杏の葉を黄色い雨のように散らしている。陽一は沙耶香の歩幅に合わせるように、少し先をゆっくりと歩いた。その背中を追いかけながら、沙耶香は少しずつ自分の呼吸が整っていくのを感じていた。何かが急激に解決したわけではない。ただ、街をゆく名もなき人々の中に交ざり、冷たい空気を胸いっぱいに吸い込む時間が、新幹線での激しい動悸を静かな余韻へと変えてくれた。

 

たどり着いたのは、昭和初期に建てられたというレトロな雑居ビルだった。

 

黒ずんだ外壁と重厚なアーチ状の窓を持ち、どこか熱田の家に通じる古い木とコンクリートの匂いが漂っている。手動式の蛇腹扉がついたエレベーターで四階へ上がると、目的のスタジオがあった。

 

「やあ、鈴木さん! よく来てくれたね!」

 

出迎えてくれたのは、陽一の長年の友人である白髪の男性・坂本だった。坂本は沙耶香の姿を見ると、深く包み込むような笑みを浮かべた。

 

「沙耶香ちゃんも、よう来てくれた。無理はせんでもええからな。あっちのソファで美味しいお茶でも飲んどって」

 

スタジオの中は天井が高く、北側の大きな窓からやわらかな自然光がたっぷりと降り注いでいた。機材の油の匂いと、炒りたてのコーヒーの甘い香りが満ちている。

 

午後二時、ポートレートの撮影会が始まった。

 

モデルとしてやってきたのは、二十代半ばのダンサーの女性だった。シンプルな白いシャツにジーンズという装いで、自然体な佇まいを見せている。

 

陽一はスタジオの隅で、静かに準備を進めた。

 

他の若手写真家たちが最新の大型ストロボや複雑なディフューザーを組み立てる中、陽一が取り出したのは、あの古い機械式カメラと、一枚の白いレフ板だけだった。

 

「よし、始めようか」

 

陽一は静かな声でモデルに語りかけた。

 

ポーズを細かく指示することはない。「少し窓の方を見て」「そのまま深呼吸してみて」と、語りかけるように、雑談を交えながらシャッターを切っていく。

 

「カシャ」

 

「カシャ……」

 

「そう、いいよ。ほんの少し微笑んでみて」

 

「カシャ」

 

スタジオに響くのは、機械式カメラの素朴で心地よいシャッター音だけだった。

 

陽一のレンズが捉えているのは、モデルの表面的な美しさというよりも、その人がそこにいて、息をし、生きている時間の重みそのもののようだった。北窓からの静かな光が、被写体の輪郭を優しく浮き立たせていく。

 

沙耶香は部屋の隅のソファに身を沈め、その光景をただじっと見つめていた。

 

時折、窓の外を横切る鳩の羽音や、遠く御堂筋を走る車のエンジン音が途切れ途切れに聞こえてくる。

 

流れていく濃密な、静かな時間。

 

「沙耶香ちゃん」

 

撮影の合間、いつの間にか隣に立っていた坂本が、静かに声をかけてきた。

 

「鈴木さんわな、あんたが引きこもっとった一年間、一度もカメラを捨てへんかったんや。毎晩、家であんたが生まれた日の写真をな眺めてたんやで……」

 

坂本はそれ以上多くを語らず、温かいお茶の入った湯飲みを沙耶香に手渡した。

 

父のシャッター音が、スタジオの空気の中に静かに刻まれ続けている。

 

沙耶香は手元にある赤い端切れを見つめながら、そのシャッター音と、光の中に立つモデルの穏やかな表情を静かに見つめていた。

 

自分を傷つけたのはカメラだった。けれど、父が抱えるカメラは、決して人を消費したり脅かしたりするためのものではない。ただ存在を優しく見つめるためのものなのだということが、スタジオを満たす光と風を通して、沙耶香の胸に深く染み込んできていた。

 

スタジオの大きな窓の隙間から、冷たく、しかし澄み切った大阪の風が吹き込んできた。

 

沙耶香はそっと息を吐き、自分の手足を確かめるように深く座り直した。外の空気を吸い、他人のまなざしがある場所で、こうして息をして座っている。その小さな事実が、彼女の中に新しい静かな地平を開いていた。