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『 風を聴く 』
第四章 裁縫箱の秘密と、遠いシャッター
激しい言い争いから数日が過ぎても、鈴木家に落ちた暗い影は晴れなかった。
だが、二階の部屋に再び閉じこもった沙耶香の心の中には、これまでとは違う微かな波紋が広がっていた。親族からの容赦ない言葉、追い詰められた家族の姿、そして何より、身体を小さく丸めて謝っていた祖母・俊子の姿が、頭から離れなかったのだ。
「おばあちゃんを、これ以上追い詰めたくない……」
十一月に入り、熱田の街を吹き抜ける風はいよいよ冷たさを増していた。
ある日の午後。由香里が買い出しに出かけ、家の中がしんと静まり返っている。
沙耶香は意を決し、重い足取りで一階へと下りていった。
茶の間では、俊子が一人、日当たりの悪い縁側に背を向け、畳の上に座っていた。その膝前には、黒漆塗りの大きな木箱が置かれている。俊子が半世紀以上使い続けてきた、古びた裁縫箱だった。
「……おばあちゃん」
沙耶香の小さな声に、俊子はゆっくりと顔を上げた。
「……おや、沙耶香。降りてきたのかい」
俊子の顔に、暖かな日だまりのような笑みが浮かぶ。沙耶香は恐る恐る近寄り、畳の上に正座した。
俊子は裁縫箱のフタを静かに開けた。箱を開けた瞬間、古い木綿の匂いと、甘く香ばしいミシン油の匂い、そして長年蓄積された裁縫針の金属臭が、ふわりと茶の間に広がった。
箱の中には、色とりどもの木綿糸や絹糸の糸巻き、歪んだ竹尺、使い込まれて黒ずんだ裁ちバサミ、そして幾重にも重ねられた色とりどりの小さな布の端切れが、ギッシリと詰まっていた。
「おばあちゃん、何してるの?」
「うん。針の整理をしとかんと、もう目が見えなくなってねぇ。どれが何の針やら分からんようになってしもうとる」
俊子は指の関節が太く曲がった手で、裁縫箱の底から一枚の小さな布切れを取り出した。
それは、鮮やかな朱色に白い小花模様が散りばめられた、手のひらサイズの赤い端切れだった。端は粗くほつれ、時代の経過とともに少し褪色しているが、どこかぬくもりを感じさせる風合いを保っている。
「これはね……」俊子は愛おしそうにその布を撫でた。「沙耶香、お前さんがが生まれた時にね、私が作って贈ったお宮参りの着物の、残りの端切れなんだよ」
沙耶香は目を見張った。
「私の……?」
「そうさ。あの頃はまだ私も元気でね。陽一が『女の子が生まれたよ、母さん』って泣きそうな顔で報告しに来てねぇ。嬉しくて嬉しくて、夜通しミシンを踏んで、この生地で小さな着物を縫ったんだ」
俊子は端切れを沙耶香の手のひらの上にそっと載せた。
木綿のやわらかい肌触りが、沙耶香の指先に伝わってくる。
「洋裁ってのはね、沙耶香。切れてしまった布を、針と糸で一つひとつ繋ぎ合わせていく作業なんだ。途中で糸がこんがらがったり、針目が歪んだりすることもある。だけどね、間違えたら一度糸をほどいて、もう一度縫い直せばいいんだよ」
俊子は沙耶香の凍えた手を、温かい両手で包み込んだ。
「人間も同じだよ。途中で形が崩れても、傷がついても、何度だって縫い直せる。焦らんでいい。一歩進んで怖くなったら、二歩下がればいいんだ。この端切れみたいに、自分のペースで縫い合わせていけばいいんだよ」
沙耶香の胸の奥で、固く冷たく凍りついていた何かが、しずくとなって溶け出していく感覚があった。
涙がポロポロとこぼれ落ち、赤い端切れの上に小さなシミを作った。
「おばあちゃん……私……怖かったの。自分が壊れてしまったみたいで……外に出るのが、人が……カメラが怖くて……」
「わかっとるよ、わかっとる。お前さんは何も悪くないんだからね」
俊子は沙耶香の背中を、優しいリズムでさすり続けた。
サッシの隙間から滑り込んできた茶トラの猫が、二人のすぐ脇にそっと身を寄せ、丸くなった。
――(しょうがねぇ泣き虫な孫娘だな。だが……泣くだけの体力が残っているなら、まだ見込みはあるぜ)
猫の呆れたような声が俊子の頭に響く。俊子は猫の頭にそっと触れ、沙耶香には聞こえない声で小さく「もちろん、そうさ」と微笑んだ。
◇
その日の夕方。大きなカメラバッグを肩に下げた父・陽一が仕事から帰宅した。
玄関で靴を脱ぐ陽一の顔には、連日の営業活動と撮影の疲れが濃く滲んでいた。
茶の間へ入ってきた陽一は、コタツの脇で俊子の手伝いをしている沙耶香の姿を見つけると、ハッと足を止めた。
「……沙耶香」
陽一は言葉を呑み込み、肩から下ろしたカメラバッグのファスナーを静かに開けた。
取り出したのは、漆黒の金属ボディが使い込まれて鈍い光を放つ、古い機械式の一眼レフカメラだった。デジタルカメラ全盛の時代にあって、陽一が三十年以上愛用し続けている相棒だ。そして、沙耶香が生まれた日に、父として彼女の成長を記録するために買い求めた記念のカメラでもあった。
陽一はカメラを両手でしっかりと抱え、沙耶香から五メートルほど離れた部屋の端に立った。
「……沙耶香」
陽一の低い声には、微かな震えが混ざっていた。
「お前に……無理をさせるつもりはない。だが、俺はカメラマンだ。言葉でうまく言えないから……カメラでしか、お前と向き合えないんだ」
陽一がゆっくりとカメラを構え、ファインダーを覗き込んだ。
その瞬間——
「カチリ」という機械的な操作音が、沙耶香の鼓膜を刺した。
沙耶香の頭の中で、一年前の記憶が閃光とともに蘇った。閉ざされた地下室、威圧的な男たち、逃げ場のない視線、そして執拗に向けられたレンズ。
「っ……あ……!」
全身の血が引いていく。激しい動悸が胸を襲い、息が吸えなくなった。沙耶香は両手で頭を抱え込み、畳の上へ倒れ込むように身体を丸めた。
「沙耶香!」
陽一が青ざめた顔で駆け寄ろうとした。
「来ないで……っ! カメラを……向けないで……!」
沙耶香の悲鳴のような叫び声が部屋に響き渡った。荒い呼吸が漏れ、身体がガタガタと震える。
「すまん……っ、沙耶香、すまん! 俺が焦った……!」
陽一は自分のしでかしたことの愚かさに打ちひしがれ、カメラを畳の上に投げ出すように置くと、頭を抱えて座り込んだ。
その時、俊子が静かに立ち上がった。
すり足で歩み寄ると、畳の上に転がった漆黒のカメラの上から、古い風呂敷をそっと被せた。レンズの存在感を、柔らかい布で覆い隠したのだ。
俊子は泣きじゃくる沙耶香の隣にしゃがみ込み、その肩を抱きしめた。
「陽一。気持ちはわかるがね、焦っちゃいかんよ。傷口はね、急して引っ張ったら余計に開いてしまうんだ」
「……母さん……俺は……俺は父親として、あいつに何もしてやれなくて……」
陽一は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
沙耶香は俊子の胸の中で、祖母から手渡された赤い端切れを、爪が食い込むほど固く握りしめていた。
怖かった。死ぬほど怖かった。カメラのレンズは、今なお自分を切り刻む刃物に見えた。
けれど——自分に向かってカメラを構えた父の瞳が、決して男たちのような汚い欲望ではなく、深い悲しみと祈りに満ちていたことを、沙耶香の心の片隅は確かに捉えていた。
翌日の午後。
部屋に引きこもっていた沙耶香は、意を決して一階へ下りていった。
茶の間では、陽一が一人、座卓の上で風呂敷を外したカメラのレンズを、専用の布で黙々と拭いていた。その背中はどこか小さく見えた。
「……お父さん」
沙耶香の掠れた声に、陽一が弾かれたように振り返った。
沙耶香は畳を踏みしめ、陽一から一番遠い部屋の隅、床の間の柱の脇に立った。脚はまだ微かに震えている。手の中には、あの赤い端切れが握られていた。
「……もう一度、試してみて」
陽一は息を呑んだ。
「沙耶香……しかし、昨日あんなことが……」
「……すごく遠くからでいい。部屋の端っこから……レンズを見ないようにするから……」
沙耶香は唇を強く噛み締め、視線を床の間の畳の目へと落とした。全身の皮膚が粟立つような恐怖が襲ってくる。それでも、逃げ出さなかった。
陽一は立ち上がり、慎重に距離をとった。茶の間の最も遠い対角線上に立ち、息を殺してカメラを構えた。
「……行くぞ」
陽一の声が響く。
「カシャ」
静かな茶の間に、乾いたシャッター音が一つ、ぽつりと響いた。
ストロボの光はない。ただ、庭の柿の木越しに差し込む秋のやわらかな自然光だけが、部屋を満たしている。
音を聞いた瞬間、沙耶香は思わず目を固く閉じた。胸が締め付けられるような緊張感が走る。
しかし——痛みは来なかった。恐怖の閃光も、自分を脅かす悪意も入ってこなかった。
ゆっくりと目を開けると、ファインダーから目を離した陽一が立っていた。その目元には、大きな涙が溜まっていた。
「……撮れたよ、沙耶香。ありがとう……」
陽一の声は絞り出すようだった。
沙耶香は深く、深く息を吐き出した。手の中の赤い端切れが、じんわりと自分の体温で温かくなっていた。
完全な克服には程遠い。カメラはまだ怖い。けれど、途切れていた父と娘の間の「糸」が、ほんの少しだけ繋ぎ合わされた瞬間だった。
