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『 二つの流れのあいだ 』
第九章 もう一度
約束の日、友哉は三十分早く着いた。川辺の売店で温かい紅茶とコーヒーを二つ買い、葵が来るまで河原で待った。
紙袋の中には、店員に勧められた小さな焼き菓子も入っていた。友哉は買ってから、こんなものまで買う必要はなかったと思った。いらないと思うと、捨てるのも惜しい。結局、袋のまま持っていた。
学生のころの自分なら、葵が好きそうかどうかを考えてから買っただろう。今日は自分が食べたいと思ったから買った。それだけのことなのに、少し大人になった気がした。
何でもいいと思うのではなく、二つ用意しておいて、来た人が選べばいい。それくらいのことなら、最初からできたはずだった。
友哉は学生のころの二人を思い出していた。
葵はよく笑った。友哉が建物の話を始めると、少し呆れながらも最後まで聞いた。
あの頃の友哉は、葵が自分を好きでいてくれることを疑わなかった。だから、言わなくても伝わると思っていた。
別れてから何年も経つ。
その間に葵は亮と出会い、亮を失い、自分の人生を一人で進めてきた。
友哉はその時間の外にいた。
取り戻せない時間がある。
そのことは、もう分かっていた。
それでも、言わずに帰るつもりはなかった。河原へ下りず、橋の近くで待った。春を前にした川辺には、薄い色の草が出始めている。学生が二人、コンビニのカップを手に座っている。自転車が通り、犬が立ち止まり、飼い主に引かれて歩き出した。
この場所に来ると、大学生だったころの時間が近くなる。
葵から別れを告げられた日も、同じ川が流れていた。あの日の友哉は、何が悪かったのか分からないまま、葵が去るのを見ていた。
分かっていないことは、今もある。
葵が亮をどのように愛していたのか。亡くなったあと、どんな朝を迎え、どんな夜を過ごしたのか。亮の兄と会おうとしている理由も知らなかった。
知らないまま話すしかなかった。
葵は時刻ちょうどに来た。
紺色のコートを着て、髪は肩まで伸びていた。友哉を見つけると足を緩めたが、立ち止まらずに近づいてきた。
「由美に頼んだんやね」
葵は川上を見て、先に歩き出した。
二人は河原へ下りた。並んで歩くのは、別れて以来だった。友哉は何度も言葉を口にしかけた。そのたび、きれいに話そうとしている自分に気づいた。
仕事で決めることを覚えた。金沢で人と関わった。葵の言葉が分かるようになった。
そんな順番で話せば、自分が変わったことを説明できる。しかし、葵は友哉の報告を聞くために来たのではない。
「見合いするって聞いた」
葵の足が止まった。
「矢部。取引先の人から聞いたらしい」
「前にも来たやろ。亮が亡くなったあと」
「あのときは、ごめん。心配やって言うたけど、自分が会いたかっただけやった」
葵は川を見ていた。
「今日も、俺が会いたくて来た」
友哉は、そこで言葉を止めなかった。止めれば、昔の自分が戻ってくる気がした。
「昔の俺は、葵にはふさわしくなかったと思ってる」
葵の横顔は動かなかった。
「葵の好きなようにしたらええって言いながら、二人のことを全部、葵に決めさせてた。自分の考えを言うて間違うのが怖かった。葵に嫌われるのも怖かった」
葵が小さく息を吐いた。
「仕事をするようになって、決めへんかったら、誰かが代わりに決めるんやって分かった。そしたら、その人が俺の分まで背負うことになる」
「仕事で分かったん?」
「仕事でしか、分からへんかった」
葵は、少しだけ口元を動かした。笑ったのか、笑いかけたのか、友哉には分からない。
葵は、初めて友哉の顔を見た。
友哉は、その目に何があるのか読もうとしなかった。読めると思うことのほうが、間違っていた。
「俺は葵が好きや。もう一度、そばにいてほしい」
言ってしまえば、もっと簡単になると思っていた。言葉は出すまでが難しく、出してしまえば後は相手が困る。昔の友哉は、その後半を知らなかった。実際には、言ったあとから怖くなった。返事を待つ時間まで、自分のものになったような気がした。
言ったあと、友哉は川のほうを見た。葵の顔を見るのが怖かった。
葵は視線を川へ戻した。
「見合いするから、そう思ったんと違うの」
「見合いのこと聞かへんかったら、また黙ってたかもしれへん。そやけど、黙ってた気持ちまで嘘やったわけやない」
友哉は黙って葵の返事を待った。
河原を走っていた子どもが、二人の間を避けて通った。川の音は、学生のころと変わらない。変わったのは、そこに立っている二人だった。
「亮のこと、まだ毎日考える」
葵は言った。
「朝起きたとき、今日は連絡が来るような気がする日もある。兄さんと会ったら、亮の話をせんでも分かってくれる。ご両親とも、家族みたいにしてもらってたから」
友哉は黙って聞いた。
「見合いって言うても、一度、二人で食事しようかって話。結婚を決めたわけやない」
「友哉に、今すぐ返事はできひん」
胸の奥が沈んだ。それでも、友哉はその言葉を拒絶に置き換えなかった。
「待っててとも言えへんよ」
葵は川を見ていた。友哉は、その言葉を拒絶とも期待とも受け取らなかった。
「待つかどうかは、俺が決める」
言ってから、友哉は少し笑った。
「そやけど、葵を困らせる待ち方はせえへん」
葵は笑わなかった。ただ、友哉を見ていた。
橋の近くまで戻ると、二人は足を止める。
「今日は来てくれて、ありがとう」
友哉が言うと、葵はうなずいた。
それだけで別れた。
葵がすぐに答えを出せないことを、友哉は以前なら不安に思っただろう。
今は、不安なまま待つことができる。
それから先は、葵のものだった。友哉は、橋のたもとで一人になった。渡ってしまえば帰れる。戻れば、また会えるかもしれない。そんなことを考えながら、結局どちらの方向へ行くかだけを自分で決めた。
帰り道、友哉は川面を見ていた。
昔と同じ川なのに、見えるものが違う。
友哉は川を見た。
それから、橋を渡った。
葵は一人で河原を歩いていた。
友哉の言葉を受け入れたわけではない。亮の兄と会うことをやめたわけでもない。友哉と暮らす自分を考えれば、学生のころの疲れが戻ってくる。
けれど、今日の友哉は、葵の顔を見て言葉を変えなかった。
以前なら、葵が黙ると「嫌やったらええよ」と先に引いた。自分はどちらでもいいという顔をして、葵の答えだけを待った。
今日は、自分が会いたかったと認めた。見合いを聞かなければ黙っていたかもしれないとも言った。立派な言葉ではなかった。だからこそ、葵には友哉の言葉として残った。
亮の兄とは、予定どおり食事をした。
兄は亮と同じ形の目をしていたが、話し方は似ていなかった。二人は亮の学生時代の話をし、事故のあとに残った荷物のことを話した。
食事の終わりに、兄は言った。
「両親は、葵さんが家族でいてくれたらと思ってる。でも、亮の代わりに僕と、というのは違うと思う」
葵も、同じことを考えていた。
二人はそれで別れた。
亮とのつながりが切れたわけではなかった。兄と結婚しなくても、亮を忘れる必要はない。そのことを、葵はようやく自分に許せた。
友哉へ連絡したのは、それから二か月後だった。
『今度の日曜、会えますか』
友哉から、すぐに返事が来た。
『会いたい』
二人は大学の近くで待ち合わせた。
葵が次の行き先を尋ねようとしたとき、友哉は鴨川と言いかけてやめた。
「見せたい建物がある。俺が初めて任された店」
「バスで二十分くらい。そのあと、葵が行きたいところにも行こう」
葵は少し笑った。
その日、二人は復縁という言葉を使わなかった。
友哉が関わった菓子店を見て、近くの店で昼を食べた。葵が行きたいと言った美術館へ行き、帰りに鴨川を歩いた。
夕方、橋の上で次に会う日を決めた。友哉が候補を二つ出し、葵がそのうち一つを選んだ。
以前なら、葵が決めるまで何も言わなかった。今は、友哉も先に一つ言う。葵も一つ言う。二つの希望が出てくると、予定を決めるのに少し時間がかかる。けれど、その時間が嫌ではなかった。
復縁という言葉より、そのほうが友哉には確かなものに思えた。
