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『 花びらの積もる道 』

 

第四章 花びらの積もる道

 

 日曜日の朝、亨は洋子を岡山駅まで送ろうかと言った。

 

「一人で行けます」

 

 洋子は小さな鞄へ水筒を入れながら答えた。

 

「津山線の乗り場、ちょっと分かりにくいで」

 

「前に岡山駅から乗ったことあります」

 

「いつ?」

 

「家を探してた頃。津山へは行かへんかったけど、乗り場くらい見ました」

 

「二年前やろ」

 

「乗り場は逃げません」

 

「変わってるかもしれへん」

 

「駅まで送ってもらう間に、電車一本遅れます」

 

 亨は時計を見た。

 

 洋子の言うとおりだった。

 

 玄関で靴を履いた洋子は、薄い色の帽子をかぶった。花屋へ行く日より、少し明るい服を着ている。

 

「帰り、何時頃になる?」

 

「順子さんとお昼を食べても、夕方には戻れると思います」

 

「そうか」

 

「何か買うてきましょうか」

 

「いや」

 

 洋子は亨の顔を見た。

 

「ほんまに、どうしたの?」

 

「何が?」

 

「私が津山へ行くと言うてから、ちょっと変よ」

 

 亨は、玄関脇に置かれた洋子の傘を見た。

 

「久しぶりの遠出やから、気ぃつけてほしいだけや」

 

「一時間ほどでしょう」

 

 洋子は笑って扉を開けた。

 

「行ってきます」

 

「行ってらっしゃい」

 

 扉が閉じたあとも、亨はしばらく玄関に立っていた。

 

 津山線に乗れば、洋子は一時間あまりで鶴山公園の近くへ着く。

 

 自分が四十数年訪れていない場所を、今日は順子と洋子が歩く。

 

 亨は洋子の靴があった場所を見た。

 

 そこだけ、細長く埃が残っていた。

 

 洋子が津山駅へ着いた頃、順子は鶴山公園の入口で待っていた。

 

 桜は満開を過ぎ、多くの枝に若い葉が混じり始めている。それでも風が吹くたび、残っていた花びらが途切れずに落ちてきた。

 

 石段の端や石垣の下には、淡い色が幾重にも積もっている。人に踏まれたところだけ、花びらが濃く沈んでいた。

 

「順子さん」

 

 呼ばれて振り向くと、洋子が坂の下から歩いてきた。

 

「お待たせしました」

 

「まだ時間前です」

 

「駅から迷わんと来られました」

 

「それはよかったですね」

 

「少しくらい褒めてください」

 

「子どもじゃないんでしょう」

 

 千穂へ何度も言った言葉だった。

 

 順子は笑った。

 

「思うてたより、人がいますね」

 

「桜が散っても、日曜日ですから」

 

「上まで行けますか」

 

「私に聞くんですか」

 

「案内してくれる人が、先に疲れたら困ります」

 

「洋子さんこそ、途中で膝が痛いと言わないでくださいね」

 

「痛うなったら、言います」

 

「言うんですか」

 

「黙ってたら、置いていかれるでしょう」

 

 二人は並んで入口を入った。

 

 下りてくる人とすれ違いながら、ゆっくり石段を上がった。

 

 洋子は何度か立ち止まり、石垣を見上げた。

 

「こんなに高う積んであるんですね」

 

「お城は残っていませんけど、石垣は残っています」

 

「うちの人が来たら、動かへんようになりそう」

 

「石垣が好きなんですか」

 

「絵を描くんです。岡山城でも、城より石垣を見てる時間の方が長うて」

 

 順子の足が、わずかに遅くなった。

 

 亨もそうだった。

 

 若い頃、ここへ連れてきたとき、亨は石垣の前へ来るたびにスケッチブックを開いた。

 

「絵を描く人は、一緒に歩く人の時間を考えないんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「ほんまに。私が先へ行っても、いつまでも同じところにいます」

 

 洋子は笑った。

 

 その横顔の向こうに、白いシャツを着た亨が見えた。

 

「私を見に来たんか、石垣を見に来たんか、どっちなん」

 

「石垣は逃げへんけど、順子は先に行ってしまうから」

 

 若い順子は、石垣に勝ったと思って笑った。

 

「順子さん?」

 

 洋子の声で、石垣に色が戻った。

 

「どうしました?」

 

「何でもありません」

 

「少し休みますか」

 

「まだ上り始めたばかりでしょう」

 

 順子は先へ進んだ。

 

 花びらの積もった一段へ足を置くと、靴底が滑った。

 

「危ない」

 

 洋子が順子の肘をつかんだ。

 

「大丈夫です」

 

「花びらって、見た目より滑るんですね」

 

 順子が足元を確かめるまで、洋子は手を離さなかった。

 

 順子は石垣の下へ目を向けた。

 

「昔、花見に来た酔っ払いが、石垣から落ちたことがあるそうです」

 

「ここから?」

 

「どの石垣だったかまでは知りません。でも、下に桜の花びらがようけ積もっていて、それがクッションになったらしいんです」

 

「けがは?」

 

「大騒ぎした割には、軽いけがで済んだって」

 

 洋子は石垣の下をのぞいた。

 

「そんなこと、ほんまにあるんですか」

 

「津山では、あることになっています」

 

 洋子が笑った。

 

「花びらに助けられたんやね」

 

「本人は次の年も、同じところへ飲みに来たそうですけど」

 

「懲りへん人やね」

 

「助けた花びらも、がっかりしたでしょう」

 

 二人は笑いながら、もう一度石垣の下を見た。

 

「でも」

 

 洋子が言った。

 

「助かった人やったら、また来てもええんやないですか」

 

「同じところから落ちなければね」

 

「今度は気ぃつけて飲んだかもしれません」

 

「人は、そんなに簡単に変わりませんよ」

 

「そうかもしれません」

 

 洋子は石段へ戻った。

 

「でも、次も同じやとは限らへんでしょう」

 

 順子は石垣の下に積もった花びらを見た。

 

「花屋さんは、酔っ払いにも甘いのね」

 

「お客さんになるかもしれませんから」

 

「石垣から落ちる人が、花を買うかしら」

 

「次の年、花びらにお礼を言いに来たのかもしれません」

 

「お酒を持って?」

 

「花は飲めへんから、自分で飲んだんでしょう」

 

 順子は笑った。

 

 二人は石垣の見える場所で休んだ。

 

 洋子が鞄から水筒と小さな菓子を取り出した。

 

「用意がいいですね」

 

「花屋では立ってる時間が長いから、休めるときに休むんです」

 

 順子は水筒の蓋へ注がれた茶を受け取った。

 

 少し離れた桜の下で、若い女性が携帯電話を耳に当てている。笑いながら話し、風が吹くと髪を耳へ掛け直した。

 

「いまは、どこにいても電話ができますね」

 

 洋子も同じ女性を見た。

 

「昔は、電話するだけでも大変でした」

 

「順子さんのお家には、電話があったんですか」

 

「ありました。母が電話交換手をしていたんです」

 

「電話交換手?」

 

「ええ。だからなのか、人が電話をしていると、時間が気になって仕方なかったみたいで」

 

 若い女性の笑い声が、風に乗って聞こえてきた。

 

「学生の頃、実家の電話でいつまでも話していたことがあったんです。そうしたら途中で、母の声が入ってきて」

 

 順子は、母の声をまねた。

 

「あんたら、いつまで話しょんで」

 

 洋子が吹き出した。

 

「聞いてはったんですか」

 

「全部ではないと思います。でも、何を聞かれたか分からないでしょう。向こうも急に黙ってしまって」

 

「その人、驚いたでしょうね」

 

「母に謝ってました。電話の向こうから」

 

「お母さんに?」

 

「私に謝っても仕方がないと思ったんでしょうね」

 

「それで切ったんですか」

 

「いいえ。母がいなくなるのを待って、また話し始めました」

 

「懲りへんかったんですね」

 

「若かったですから」

 

 順子は声を出して笑った。

 

 この記憶には、いつも亨がいた。

 

 けれど、いま目に浮かんだのは、受話器の途中へ入ってきた母の顔だった。電話交換手に電話のことで言い返すなと、自分で言って笑っていた。

 

「その人は、ご主人になった方ですか」

 

 洋子が尋ねた。

 

 順子の笑みが止まった。

 

「いいえ」

 

 風が吹き、二人の間へ花びらが一枚落ちた。

 

「そうはならなかった人です」

 

 洋子は膝の上の菓子を包み直した。

 

「余計なことを聞きました」

 

「昔の話です」

 

 順子は茶を一口飲んだ。

 

 洋子は茶を足そうとはしなかった。

 

洋子さんのご主人とは、長いんですか」

 

 順子が尋ねた。

 

「もう四十年近くになります」

 

「仲がいいんですね」

 

「どうやろ」

 

 洋子は水筒の蓋を持ったまま笑った。

 

「仲が悪かったら、岡山まで一緒に来えへんかったと思います。でも、知らんことも、きっとようけあります」

 

「夫婦なのに?」

 

「夫婦やから、全部知ってると思う方が不思議でしょう」

 

 順子は洋子を見た。

 

「知りたくありませんか」

 

「知って、どうするかによります」

 

「どういう意味ですか」

 

「知ったことで、何かしてあげられるんやったら知りたい。でも、ただ私が安心するためだけやったら、聞かん方がええこともあるでしょう」

 

 洋子は茶を飲み、石垣の向こうに残った桜を見上げた。

 

「うちの人も、私に話してへんことがあると思います」

 

「そう思っていて、平気なんですか」

 

「平気やありません。でも、私にも話してへんことはありますから」

 

 洋子は順子へ顔を向けた。

 

「順子さんにも、あるでしょう」

 

 順子は水筒の蓋に残った茶を見た。

 

「あります」

 

「それで、ご主人と暮らした時間が嘘になるわけやないでしょう」

 

 夫が亡くなる一週間ほど前、病室で古い店の話をしたことがあった。

 

 順子が最初に仕入れた青いワンピースは、一着も売れなかった。夫は、あれは服が悪かったのではなく、店の照明が暗かったのだと言った。

 

 順子は最後まで、服が悪かったのだと思っていた。

 

 どちらが正しかったのか、確かめる前に夫は亡くなった。

 

「洋子さんは、ずいぶん都合よく考えるんですね」

 

「そうせんと、長いこと一緒には暮らせません」

 

「ご主人も、そう思っているかしら」

 

「さあ。あの人は、自分が我慢してると思うてるんやないですか」

 

「違うんですか」

 

「お互いにそう思うてるくらいが、ちょうどええんです」

 

 洋子は水筒の蓋に残った茶を飲み干した。

 

 二人は再び歩き始めた。

 

 少し高い石段の前で、今度は洋子が足を止めた。

 

「ここ、上がれますか」

 

「上がれますよ」

 

 順子は一段上へ上がり、洋子へ手を差し出した。

 

「大丈夫です」

 

 そう言いながら、洋子はその手を取った。

 

 若い頃、同じ場所で亨が順子へ手を差し出した。

 

「順子、そこ滑るで」

 

 白いシャツの袖が、洋子の腕に重なった。

 

 順子は、少し強く洋子の手を引いた。

 

「痛い」

 

「あ、ごめんなさい」

 

「置いていかれるかと思いました」

 

「引っ張ったんでしょう」

 

「人に引っ張られるの、久しぶりやから」

 

 洋子は手を離し、指を一度握った。

 

「大丈夫?」

 

「そこまで年寄りやありません」

 

「さっき、膝が痛いと言ってたでしょう」

 

「言うてません。痛うなったら言うと言うただけです」

 

「同じことよ」

 

「違います」

 

 二人は笑った。

 

 白い袖は、もう見えなかった。

 

 天守台へ上がると、津山の町が見渡せた。

 

 屋根の間を道路が通り、その向こうに山の稜線が続いている。桜の間から、町の灰色や茶色がのぞいていた。

 

 洋子はしばらく何も言わず、遠くの山と町並みを眺めていた。

 

「ここで育ったんですね」

 

「高校を卒業するまでです」

 

「帰ってきて、よかったですか」

 

 順子は町を見下ろした。

 

「まだ、分かりません」

 

「半年でしょう」

 

「もう半年です」

 

「同じ半年やのにね」

 

 洋子は手すりへ手を置いた。

 

「私は岡山へ来て二年ですけど、いまでも、よその町におると思う日があります」

 

「自分で選んで来たんでしょう」

 

「選んだことと、慣れることは別です」

 

「ご主人についてきたんですか」

 

「一緒に来たんです」

 

 洋子はすぐに言った。

 

「ついてきたと言うたら、あの人が決めて、私が従うたみたいでしょう」

 

「違うんですか」

 

「決めたのは、たぶん私です」

 

「それなら、ご主人がついてきたのね」

 

「そう言うたら、あの人は怒るでしょうね」

 

「男の人は、決めたことだけ自分の手柄にしたがりますから」

 

「失敗したことは、妻が決めたことになります」

 

「便利ですね」

 

「夫婦ですから」

 

 二人は町を見下ろしたまま笑った。

 

「帰ってきた人間も、似たようなものです」

 

 順子が言った。

 

「ほな、私たちは反対から同じところへ来たんですね」

 

「同じかしら」

 

「同じやなかったら、それでもかまいません」

 

 洋子は手すりから手を離した。

 

「そろそろ下りましょうか。上ったからには、下りんと帰れません」

 

「当たり前でしょう」

 

「上る前に、そこまで考えてへんかったから」

 

 公園を下りるとき、順子は上ってきた道とは別の道を選んだ。

 

「さっきの道を戻るんやないんですか」

 

「こちらからも下りられます」

 

「遠回りでは?」

 

「少しだけ」

 

「私の膝を心配してくれてるんですか」

 

「同じ景色を二度見ても、仕方がないでしょう」

 

「上るときと下りるときでは、違う景色かもしれませんよ」

 

 順子は返事をせず、先に歩いた。

 

 洋子は空になった水筒を鞄へ入れ、その少し後ろを歩いた。

 

 足元には花びらが積もっている。

 

 順子はときどき振り返った。

 

 洋子がついてきているか確かめるためだった。

 

 それに気づくたび、昔と同じだと思った。だが、洋子は少し遅れながらも、必ずそこにいた。

 

 入口へ戻る頃には、昼を過ぎていた。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

「こちらこそ」

 

「今度は、岡山を案内します」

 

「岡山城なら、娘に連れていかれそうになりました」

 

「ほな、後楽園か、旭川沿いを歩きましょ。京橋から空を飛んだ人の話もありますよ」

 

「空を?」

 

「鳥人幸吉という人です」

 

「鳥人?」

 

「詳しいことは、そのときに」

 

「花びらで助かった酔っ払いより、本当らしくないわね」

 

「こっちは、ほんまです」

 

「津山の話も、本当かもしれないでしょう」

 

「ほな、どちらも本当ということにしときましょ」

 

「ずいぶん簡単ね」

 

「知らん人の昔の話ですから」

 

 二人は津山駅へ向かって歩いた。

 

 順子は、今日のことを千穂には話さないだろうと思った。

 

 隠すほどのことではない。

 

 だからこそ、自分だけの一日にしておきたかった。

 

 洋子が夕方の列車で岡山へ戻ると、亨は居間で絵を描いていた。

 

「ただいま」

 

「お帰り」

 

「上まで歩けました」

 

「膝は?」

 

「大丈夫。順子さんが途中で何度も休んでくれたから」

 

「そうか」

 

 亨は鉛筆を置いた。

 

「どんな話、したん?」

 

「いろいろ」

 

「いろいろって?」

 

 洋子は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。

 

「花びらに助けられた酔っ払いの話と、電話交換手やったお母さんの話。それから、津山へ帰ってきたこと」

 

「電話の話?」

 

「学生の頃、長電話してたら、お母さんが途中へ入ってきたんですって」

 

 洋子は笑った。

 

「あんたら、いつまで話しょんで、って」

 

 亨の手から、鉛筆が落ちた。

 

 床に当たり、小さな音を立てた。

 

「どうしたの?」

 

「手ぇ滑った」

 

 亨は鉛筆を拾った。

 

「その相手は、ご主人やなかったそうよ」

 

 洋子は何気なく続けた。

 

「そうはならへんかった人やって」

 

 亨は鉛筆についた埃を指で払った。

 

「そうか」

 

「昔の人の話を聞くのは、不思議ね。名前も知らへんのに、ちょっとだけその人を知ったような気になる」

 

 洋子は台所へ向かった。

 

「お茶、入れましょうか」

 

「いや、ええ」

 

「いらんの?」

 

「ああ」

 

「朝から、返事が短いね」

 

「そうか」

 

「また短い」

 

 洋子は台所へ入り、自分の分だけ湯を沸かし始めた。

 

 亨は描きかけの岡山城へ目を戻した。

 

 順子は、あの夜を覚えていた。

 

 母親に話を聞かれ、二人で声を抑えて笑った夜を。

 

 洋子は何も知らないまま、その話を持って帰ってきた。

 

 亨は鉛筆を紙へ置いた。

 

 一本線を引くと、城の屋根が少し曲がった。

 

 消しゴムを手に取ったが、すぐには消さなかった。

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『 風を聴く 』

 

終章  風のゆくえ

 

奥の部屋から、カタカタ、カタカタと、俊子の踏む足踏みミシンの音が聞こえてくる。規則的で、どこか祈りにも似たそのリズムに合わせて、縁側の陽だまりがわずかに揺れていた。

 

座卓の上には、知人の手を通して小さなギャラリーの片隅に置かれた、素朴な案内ハガキがひっそりと置かれている。それは世界を変えるような大きな成功ではない。けれど、この家で再びそれぞれの時間が動き始めたという、静かな証だった。

 

「沙耶香、ちょっとそのまま動かないで」

 

父・陽一の穏やかな声に、沙耶香の体がほんの一瞬だけ強張った。

 

レンズ。黒く丸い、ガラスの塊。 かつてその暗闇の奥に潜んでいた歪んだ悪意と、身を裂くようなフラッシュの閃光が脳裏をかすめ、彼女の指先が微かに冷たくなる。無理につくらされた笑顔と、奪われかけた尊厳の痛みが、記憶の底で小さく蠢(うごめ)いていた。

 

けれど、今のこの場所には、俊子の踏むミシンの音があった。半世紀以上、この家で生活を縫い続けてきた、命を繋ぐ確かな響きだ。

 

畳の隙間を滑り込んできた春の風がサッシの木枠を揺らし、庭の芽吹き始めた柿の木の匂いを部屋いっぱいに運んでくる。

 

沙耶香は、深く、深く息を吸い込んだ。

 

手元にあるのは、あの時、俊子が持たせてくれた小さな赤い端切れ。何度も指先でなぞり、体温が染み込んだその布地をぎゅっと握りしめると、固く解けなかった胸の奥の結び目が、すーっと解けていく感覚があった。

 

「……うん。いいよ」

 

沙耶香は静かに顔を上げた。

 

他人の要求に応えるための営業用の笑顔でも、怯えを隠すための仮面でもない。この家で傷を抱え、ミシンの音を聴き、温かいお茶を飲んで生きてきた、ただの「私」の顔で、彼女はカメラの向こう側を見つめ返した。

 

陽一のファインダーの奥にあるのは、嘲笑でも欲望でもない。ただ娘を愛し、見守り続けてきた父親の温かな眼差しだけだった。

 

「カシャ」

 

乾いた、小さなシャッター音が静かな茶の間に響いた。

 

ストロボの光はない。そこにあったのは、庭から差し込む春の自然光と、一枚の写真に収められた、沙耶香の穏やかな微笑みだった。

 

「……すごく、良い顔をしてるよ」

 

ファインダーから目を離した陽一が、嬉しそうに目を細めた。 沙耶香は照れくさそうに息を吐き、手の中の赤い端切れを包むように胸に当てた。今日、彼女は自分の表情を、自分の人生を、確かに自分の手に取り戻したのだ。

 

その光景を静かに見届けた俊子は、深く目を細めると、そっとコタツの脇へ視線を戻した。

 

そこには、すっかり包帯の取れた大きな茶トラの猫が、日だまりの中でまどろんでいる。

 

俊子は膝の痛みを堪えながら、ゆっくりと畳に手をつき、猫のそばへと身を寄せた。干し柿のようにカサカサに乾いた手で、そっと背中を撫でる。

 

猫はうっすらと金色の目を開け、俊子の手に「ゴロゴロ……」と喉を鳴らして鼻先を押し当ててきた。

 

あの中年男のような太い声は、もう頭の中には聞こえてこない。会話としての不思議な奇跡は、とうに過ぎ去っていた。けれど、この手のひらに伝わる温もりと、規則的な足音のような鼓動が、何より確かな返事だった。

 

みんな、それぞれの傷を抱えながら、この家で生きている。

 

俊子は畳の上に置かれた足踏みミシンの鉄の滑車に、愛おしそうに指先を滑らせた。

 

「……さてと」

 

俊子が低く呟き、重いペダルにゆっくりと足を載せると、「ギシ……」と懐かしい金属音が響いた。

 

サッシの隙間から滑り込んできた春の風が、庭の柿の木の枝を揺らし、俊子の白髪を優しく撫でて通り抜けていく。

 

カタカタカタ……と再び響き始めたミシンの音と、膝の上の猫の温もりに包まれながら、俊子は穏やかに目を閉じ、静かな風の音に耳を澄ませていた。

 

(了)

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十二章 名前の残された頁

 

 自分の名前が、八十年以上前の長崎で書かれた手帳の頁に残っている。その事実を、孝はすぐには理解できなかった。

 

 写真の見間違いではない。送られてきた画像を拡大しても、そこには確かに「中谷孝」と読める文字がある。しかも、単に名前が記されているだけではない。

 

 黒い手帳の最初の頁には、いくつもの名前が縦に並び、その最後に自分の名前が加えられているように見える。

 

 問題は、その文字がいつ書かれたものなのかだった。

 

 紙の色や筆跡からすれば、すべてが同じ時代に書かれたものとは思えない。古びた茶色の頁に並ぶ名前の一部は、墨が薄くなり、ところどころ読めなくなっている。

 

 それに対して「中谷孝」の四文字だけは比較的新しく、黒々としている。

 

 つまり、誰かが後から書き加えた可能性がある。そう考えれば、わずかに息ができる。八十年前の人間が、現在の自分の名前を知っていたはずはない。それでも、なぜ自分なのかという疑問は消えない。

 

 孝は、写真を保存しているフォルダを開いた。これまで送られてきた画像を時系列に並べていく。祖母の写真、灯籠、石垣、地下室、十二番、そして今届いた四番の内部。どの写真も、撮影者が誰なのかはわからない。

 

 ただ、一つだけ共通していることがある。写真を受け取るたびに、四人は次の場所へ進んでいる。

 

 まるで、誰かが四人をここまで連れてきたように。涼子が画面を覗き込みながら、静かに考えを口にした。

 

 もし名前を書いたのが昔の人間ではなく、最近になって誰かが手帳を見つけて書き加えたのなら、四人が長崎へ来ることを知っていた人物がいることになる。それなら、なぜ孝なのか。

 

 四人の中で、孝だけを選んだ理由があるはずだった。孝自身には、長崎に特別な縁はない。父も母も京都で暮らしている。

 

 祖父母の代までさかのぼっても、長崎に住んでいたという話は聞いたことがなかった。そのとき、沙羅がふと顔を上げた。写真の端に写っている古い紙を指で示す。そこには、手帳の名前とは別に、もう一つの文字列がある。

 

 「中谷」という姓の横に、何か数字が書かれている。

 

 17。

 

 その下に、細い線でつながれた「京都」という文字があった。

 

 孝は息を止めた。京都。

 

 自分たちが京都の大学生であることを、写真を送っている人物が知っている。それだけなら、大学の情報や旅行の予定を調べればわかる。

 

 しかし、手帳に書かれた「京都」が、自分の名前と結びついている。

 

 偶然とは考えにくい。

 

 浩一が写真を自分のスマートフォンへ転送し、画像の細部を調べ始めた。明るさやコントラストを変えていくと、手帳の頁の下部から別の文字が浮かび上がった。そこには、古い住所らしきものが記されている。京都市内。

 

 そして、その住所の後ろに「中谷」の文字がある。

 

 孝は、自分の家の住所を思い出した。しかし、町名だけを見ると、現在の自宅からそれほど離れていない。偶然なのか。それとも、家そのものではなく、先祖の住所なのか。

 

 ここまで来ると、孝自身も自分の家族について、これまで知らされていなかった何かがあるのではないかと思い始めた。父親に電話する。時間は遅かったが、父はすぐに出た。

 

 孝は長崎で起きていることをすべて話すことはしなかった。ただ、祖父の代以前に長崎と関係のある人物がいなかったか、それだけを尋ねた。電話の向こうで、父はすぐには答えなかった。その沈黙が、孝には気になった。

 

 やがて父が、祖父から一度だけ聞いた話を思い出した。中谷家は、もともと京都の家ではない。

 

 祖父が若い頃に京都へ移り住んだ。それ以前のことについては、父も詳しく聞かされていない。

 

 ただ、祖父の父親が戦後に一時期長崎へいたという話を、子供の頃に聞いたことがあるという。孝は、思わず椅子から立ち上がった。それなら話がつながる。自分の家系にも長崎との接点があった。しかし、父は続けた。

 

 祖父は、その話をするとき、決まって「八月の長崎には近づくな」と言っていた。

 

 理由を尋ねても答えなかった。

 

 そして、その言葉を最後に聞いたのは、祖父が亡くなる少し前だったという。孝は、電話を切ったあともしばらく動けなかった。八月。長崎。自分の家系。そして、四番の手帳に残された自分の名前。

 

 ここまで重なれば、自分が今回の出来事に巻き込まれた理由は、旅行先で偶然写真を撮ったからではないのかもしれない。最初から、自分たちが選ばれていた可能性がある。

 

*

 

 四番の地下では、まだ誰かが動いている。道路の向こうから見える地下入口には、わずかな明かりが残っていた。四人は近づかなかった。先ほどまで見えていた二人の人物も、今は姿を見せない。

 

 ただ、地下の奥から何かを引きずるような音が時折聞こえてくる。その音が途切れるたびに、四人は顔を見合わせた。

 

 そして、突然、地下入口の奥で強い光が走った。続いて、何かが倒れる音がした。誰かが怪我をしたのかもしれない。それでも、四人は動けなかった。

 

 これまでの出来事を考えれば、ここで不用意に近づくことがどれほど危険なのかはわかっている。ところが、その直後、地下から一人の男が出てきた。先ほど木箱を持っていた人物だった。しかし、木箱はもう持っていない。

 

 男は周囲を見回し、道路の反対側にいる四人に気づいた。数秒間、視線が重なる。男は逃げなかった。

 

 むしろ、こちらへ歩いてきた。孝は身構えた。けれど、男が近づくにつれて、その顔に見覚えがあることに気づいた。長崎駅を出た初日。祖母の家へ向かう途中。そして、十二番へ向かったとき。何度も遠くから見ていた人物だった。

 

 男は四人の前で立ち止まった。年齢は五十代半ばくらいに見える。

 

 服装は普通で、旅行者といっても不自然ではない。ところが、その手に一枚の写真を持っている。それは、祖母の若い頃の写真だった。男は写真を孝に渡した。写真の裏には、見慣れない文字が書かれている。

 

「この少年を探しているのは、私ではない。」

 

 男は、それ以上何も言わなかった。ただ、四人を見ながら、地下室の奥を指した。そして、そこに残されたもう一人の人物について、初めて口を開いた。自分が追っていたのは、あの人物だったという。

 

 四人がその男を見ると、地下入口の奥から別の人影が現れた。その人物は、先ほどまで木箱を持っていた男とは違っていた。

 

 ただ、その右手に古い鍵が握られている。

 

 鍵には「4」と刻まれている。

 

 その人物は階段を上がり、四人を見ると、ゆっくりと帽子を取った。孝は、その顔を見て言葉を失った。見覚えがあった。しかし、長崎で会った人物ではない。京都にいる人物だった。大学で顔を合わせたこともある。

 

 ただ、親しい関係ではない。それでも、その人物がなぜここにいるのかは、孝には理解できなかった。

 

 男は、手にした鍵を見せながら、四人に向かって言った。

 

 「四番は、もう開いている。あとは、中を見るだけだ」

 

 その声を聞いた瞬間、孝はぞっとした。この人物は、四人が長崎へ来ることを知っていた。そして、孝が手帳の頁を見ることも知っていた。では、誰がこの人物に情報を渡しているのか。

 

 その答えを考えるより先に、地下から先ほどの男が飛び出してきた。手には黒い手帳がある。しかし、顔には明らかな動揺が浮かんでいた。

 

 手帳を開く。最初の頁を見せる。そこには、確かに孝の名前がある。だが、その下には、これまで誰も見ていなかった一行が続いていた。

 

「中谷の子が来たとき、記録を渡すこと」

 

 孝は、その文字を見つめた。自分が長崎へ来ることは、最近になって決まった。大学の仲間と旅行をすることも、数か月前までは予定されていなかった。

 

 それなのに、古い手帳には「中谷の子が来たとき」と書かれている。

 

 まるで、いつか自分のような人物が来ることを、昔の人間が知っていたかのようだった。しかし、そこで男が首を横に振った。これは予言ではない。もっと現実的な意味があるという。

 

 この記録は、ずっと誰かから誰かへ渡されてきた。中谷という家が長崎を離れるとき、記録の一部を京都へ持って行った。

 

 そして、次の世代に戻すための条件として、「中谷の子が来たとき」という言葉が残された。

 

 つまり、孝の家には、長崎から持ち出された何かが残っている可能性がある。その何かが何なのかは、まだわからない。ただ、それを持っている人物が、今も京都にいる。その事実だけは、はっきりした。

 

 孝は父との電話を思い出した。祖父が言っていた。

 

 「八月の長崎には近づくな」

 

 あの言葉は、単なる戦争の記憶ではなかったのかもしれない。祖父は、自分の家が何を持っているのかを知っていた。だから、長崎へ行くなと言った。そして、その秘密を次の世代に伝えなかった。

 

 伝えれば、誰かが探しに来るからだ。

 

 そう考えれば、今回の旅行が偶然だったとしても、孝が長崎へ来たことで、長いあいだ眠っていた秘密が再び動き始めたことだけは説明できる。しかし、まだ一つだけ説明できないことがある。誰が、四人の旅行を知っていたのか。

 

 誰が、最初の写真を撮ったのか。誰が、祖母の家から木箱を持ち出したのか。

 

 そして、誰が孝の名前を知っていたのか。地下から出てきた男は、その答えを知っているようだった。男が指を向けた先に、一台の車が停まっている。その車の後部座席に、誰かが乗っている。車の窓が少し下がった。

 

 暗闇の中から、女の顔が現れた。沙羅は、その顔を見た瞬間、息をのんだ。

 

 祖母の病室で、母親と一緒に写っていた古い写真。そこに若い女性として写っていた人物と、よく似ている。しかし、あり得ない。その女性は、すでに亡くなっているはずだった。車は、そのまま走り去った。

 

 残された四人は、何が起きたのか理解できないまま立っていた。やがて、地下室から出てきた男が、静かに話し始めた。

 

 四番に残されていたのは、金や宝物ではない。人の名前だった。

 

 長崎に生き、外国へ渡り、宗教を変え、名前を変え、戦争によって記録から消えた人々。その名前を、誰かが何十年も記録してきた。そして、その記録の最後に、孝の名前が加えられた。

 

 なぜなら、孝の家が、その記録の一部を現在まで保管していたからだという。その言葉を聞いた瞬間、孝は自分の家を思い出した。父が話していた祖父の言葉。八月の長崎には近づくな。

 

 そして、祖父の家には、今も一つだけ開けてはいけない古い箱が残っている。孝は、京都へ帰ったら、その箱を探さなければならないと思った。しかし、そのとき男が、思いがけないことを口にした。箱は、もう京都にはない。

 

 四人が長崎へ来る前に、誰かが持ち出したという。

 

 そして、その人物が今、向かっている場所を知っている。男が示した先は、長崎駅の方向だった。そこには、京都へ向かう新幹線の時刻が表示された案内板がある。

 

 つまり、四人が長崎へ来た最初の日から、誰かは帰りの予定まで知っていたことになる。孝は、そこでようやく気づいた。自分たちは長崎の謎に巻き込まれたのではない。

 

自分たちが長崎へ来ることそのものが、誰かにとって必要だったのだ。

 

 そして、その理由はまだ、四人には知らされていない。翌朝、京都へ戻る予定だった。ところがその夜、四人のホテルの部屋に、一通のメールが届いた。差出人は、孝の父親だった。本文には、短い文章しかなかった。

 

「今、祖父の箱が見つかった。中にお前の名前が書かれた写真が入っている。帰ってくる前に、長崎で確認してほしいことがある」

 

 その直後、添付された写真が開いた。そこには、戦後間もない長崎の街が写っていた。焼け跡の中に立つ数人の人々。その中央に、若い男がいる。顔ははっきり写っていない。

 

 けれど、その男が手にしている古い箱には、見覚えのある文字が刻まれていた。

 

「九番」

 

 そして、その写真の裏側には、現在の日付で書かれた一行があった。

 

「これで終わりではない。京都に戻れば、次の記録が始まる。」

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第九章 夜行バスと朝の電車

 

 深夜の梅田。日付が変わる少し前、夜行バスの乗り場には大きな荷物を抱えた人たちが静かに並んでいた。

 

 里奈はボストンバッグを両手で持ち直し、ステップを踏みしめて車内へ向かった。

 

 指定された窓際の席に深く腰を下ろし、冷たいガラスにそっと額を寄せる。

 

 定刻の午前零時半、バスは静かに滑り出した。

 

 車窓の向こうを、深夜の大阪の街並みが流れていく。街灯の光、高層ビルの窓から漏れる残業の明かり、高速道路の防音壁。

 

 これまで数年間、自分を包み込み、そして少しずつ心を擦り減らしていった平坦な街が、後方へと遠ざかっていく。

 

 リクライニングを少し倒し、目を閉じた。仕事を辞め、部屋を引き払い、慣れ親しんだ街を去る。大きな決断をしたはずなのに、胸の奥は驚くほど静かだった。焦りも不安もなく、深夜の高速道路を走る規則的な振動だけが心地よく全身に伝わっていた。

 

 午前二時過ぎ、バスはサービスエリアで短い休憩に入った。

 

 羽織りを一枚手に取り、ステップを降りる。ひんやりとした深夜の空気に、排気ガスとかすかな草の匂いが漂っていた。自販機の白い光のもとで温かい缶コーヒーを買い、湯気立てる缶を両手で包み込む。

 

 離れた場所でトラックの運転手たちが低い声で笑い合い、別の場所では若者たちが旅行の目的地を話していた。誰もがそれぞれの目的を持って移動し、日常はどこでも絶え間なく続いていく。

 

「私の日常も、ここからまた始まるんだ」

 

 缶コーヒーを飲み干してバスに戻ると、今度は自然と重い睡魔が襲ってきた。心地よい揺れの中で、里奈は深い眠りについた。

 

「東福山に到着します」

 

 車内の小さなアナウンスで目が覚めた。

 

 時計は午前五時過ぎ。カーテンの隙間から差し込む光は、まだ夜と朝の境界線にあった。

 

 薄暗い空の下に浮かぶ知らない駅前の明かり。ボストンバッグを肩に掛け、バスを降りると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。

 

 尾道までは、ここから電車に乗り換えなければならない。

 

 駅へ向かう道を歩きながら、里奈は少しだけ笑った。昔なら乗り換えの手間を面倒に思ったかもしれない。けれど今は、その一つひとつが、自分で選んだ道の途中にあることが嬉しかった。

 

 静まり返ったホームで静かに尾道の天気(晴れ)を確認し、バッグの中にある鍵の感触を確かめる。

 

 六時半を過ぎたころ、ホームに黄色い始発列車が入ってきた。

 

 乗り込むと車内には静寂が満ちていた。福山、備後赤坂、松永、東尾道。駅に停まるたび、欠伸をする学生や作業服姿の男性が乗ってきて、朝の街が少しずつ動き始めていく。

 

 そして、松永を過ぎて線路がゆるやかなカーブを描いた瞬間だった。

 

 窓の外に広がる景色は、もはや大阪のそれとは完全に異なっていた。

 

 入り組んだ山々の緑。古い瓦屋根が連なる小さな家々。そして、朝日を反射してキラキラと黄金色に輝く、穏やかな海。

 

 幾重にも重なる、懐かしい急な坂道。

 

 里奈は窓ガラスに再び額を寄せ、息をのんだ。

 

「帰ってきた……」

 

 誰に聴かせるでもなく、小さく呟いた。その声は、朝の光の中に優しく溶けていった。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

第八章 画面の向こう

 

 初夏の陽気が心地よい午前、尾道の商店街に東京のテレビ局の撮影クルーがやってきた。大きなカメラを担いだ男と、マイクを持った若い女性アナウンサーが、通りかかる町の人々に次々と声をかけている。

 

 坂を下りて日用品の買い出しに出ていたテルさんも、運悪く(あるいは運良く)呼び止められてしまった。

 

「すみません! 尾道で元気に暮らしている人生の先輩として、少しお話を伺ってもいいですか?」

 

 アナウンサーが弾んだ声でマイクを向ける。テルさんは立ち止まり、怪訝そうにカメラを見つめた。

 

「元気じゃない日もあるわ」

 

 いきなりのカウンターに、アナウンサーは一瞬怯んだものの、プロの笑顔を取り戻して続けた。

 

「そ、そうですか! では、普段の『元気の秘訣』は何でしょうか?」

 

 テルさんは少し首を捻り、至極当然といった顔で答えた。

 

「食べる」

 

「おお、食生活ですね!主に何を食べますか?」

 

「腹が減ったら、目の前にあるものを食べる」

 

 後ろでカメラを構えるスタッフから、こらえきれない忍び笑いが漏れた。アナウンサーは汗を拭いながら、食い下がった。

 

「なるほど……シンプルなのが一番ですね!

 

運動などは何かされていますか?」

 

「猫を追いかける」

 

「猫、ですか?」

 

「栗原さんとこのミーがすぐ高いところへ逃げるからの。追いかけて捕まえるのが日課じゃ」

 

「は、はあ……。では最後に!長生きの秘訣を一言お願いします!」

 

 テルさんはレンズを真っ直ぐに見つめ、微塵の迷いもなく言い放った。

 

「まだ死んでないから分からん」

 

 その場にいたスタッフも、遠巻きに見ていた近所の人々も爆笑した。

 

 テルさんだけが、何がそんなにおかしいのか分からないという顔をしていた。

 

 テルさんは「変なことを聞く子らじゃ」と首を振ると、買い物袋を下げてそのまま坂を上っていった。

 

 数日後、その模様が昼の情報番組で全国に放送された。

 

 画面の隅にはテロップで、

 

『尾道の元気なおばあちゃん テルさん(年齢不詳)』 と誇らしげに映し出されていた。

 

*

 

 そのころ、大阪の賃貸マンションで最後の荷造りを終えた里奈は、床に座り込んでテレビを眺めていた。

 

 ダンボール箱が壁際にうずたかく積まれ、生活感の消えた殺風景な部屋。静けさを紛らわすために何気なくつけていた画面の中に、不意に見たことのある景色が飛び込んできた。

 

 尾道の商店街。古びたアーケード。

 

 昔ながらの書店や商店が並ぶ街並み。

 

 そして、マイクに向かってぶっきらぼうに持論をかますテルさんの姿だった。

 

 画面の端には、心配そうに後ろで見守るハルさんの姿も小さく映り込んでいる。

 

「ふふっ……相変わらずだなあ」

 

 里奈は思わず吹き出した。

 

 その笑い声を聞いた瞬間、帰ることへの不安が少しだけ軽くなった。

 

 画面の中のテルさんは、テレビ局が用意した言葉には乗らず、自分の言葉だけを返していた。ハルさんも、横で呆れたように笑っている。

 

 里奈はその二人をしばらく見つめ、それからリモコンでテレビを消した。部屋は再び静まり返った。

 

 床に置いたボストンバッグを確かめる。財布、家の鍵、スマートフォン、明日の夜行バスのチケット。

 

 里奈はゆっくりと立ち上がり、誰もいなくなった部屋を一度だけ見渡した。壁に残った家具の跡が、ここで過ごした時間を物語っていた。

 

「よし」

 

小さく呟き、ドアノブに手をかける。もう、後ろを振り返る必要はなかった。

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『 二つの流れのあいだ 』

 

最終章 川のほとりで

 

 それから一年ほどが過ぎた秋、友哉と葵は金沢へ行った。

 

 金沢駅を出ると、葵は空を見上げた。

 

「京都より、雲が近いな」

 

「俺も最初、そう思った」

 

 二人は旅館まで歩いた。

 

 友哉は建物の説明をしようとして、途中でやめた。葵は軒や格子より、店先で話す人や、自転車で通り過ぎる学生を見ていた。

 

「まだ着いたばっかりやん」

 

 学生のころ、友哉が何かを尋ねると、葵はすぐに答えを出そうとした。いまは、答えを急がない葵の言葉を、そのまま受け取れる。

 

 水棲では、静枝が帳場に戻っていた。以前より少し痩せていたが、声は変わらなかった。

 

「お帰りなさい」

 

「ただいま」

 

 言ったあとで、友哉は自分でも驚いた。旅館へ戻ってきただけなのに、帰宅したときの言葉が自然に出た。

 

 友哉は葵を紹介した。声に出してみると、その言葉まで自分のものになった気がした。

 

 茜も奥から姿を見せる。出版社へ復職し、今は旅館の案内冊子を作っているという。

 

 葵と茜は頭を下げた。

 

 打ち合わせを終えた夕方、二人は浅野川の橋に立った。

 

 学生のころ、友哉が一人で来たときには、この川が自分の生活とは別の場所にあるように感じた。

 

 今は、葵の肩がすぐ隣にある。

 

 水棲には人が暮らし、町には店があり、橋の向こうには学校へ向かう学生がいた。川は、その全部の間を流れていた。

 

 京都へ帰れば鴨川がある。金沢には浅野川がある。

 

 どちらがいいか、という話ではないらしい。

 

 友哉はそう思ったが、口には出さなかった。

 

 葵の隣に立っていると、昔なら話したくなったことが、いくつかそのまま残った。言わないことが我慢ではなくなると、人は少し楽になるらしい。

 

 しばらく二人で川を見た。

 

 秋の水は穏やかだった。家々に灯りがつき、向こう岸の窓にも人影が動いている。誰かが夕飯を食べ、誰かが風呂を沸かし、誰かが明日の弁当のことを考えている。そういうことまで、川の向こうにはある。

 

「鴨川より小さいやろ」

 

「小さいというより、近い」

 

 葵は欄干に手を置いた。

 

「友哉が、京都に住んでるだけやったって気づいた川は、これ?」

 

「茜さんから聞いたん?」

 

「聞いた」

 

 葵は笑った。

 

「人の話、前より聞くようになったんやね」

 

 友哉は返事をしなかった。

 

 褒められたのか、からかわれたのか、よく分からなかった。昔なら、どちらかを決めようとしただろう。今は、そのままにしておけた。

 

「鴨川と浅野川、どっちが好き?」

 

「難しいな」

 

「昔なら、どっちでもええって言うたやろ」

 

「そうやったな」

 

 友哉は川を見た。

 

「葵と歩いた時間が長いから、鴨川かな」

 

 そこで一度、言葉を切った。

 

「でも、浅野川も好きや」

 

「欲張り」

 

「二つとも川やから」

 

 葵は笑った。

 

 友哉は、その笑いを見ながら、これでよかったと思った。何がよかったのかは、まだ分からない。

 

 葵は川を見たまま、友哉の手に自分の手を重ねた。

 

「長町。見せたい建物がある」

 

「私、近江町も行きたい」

 

「ほな、午前に長町。昼から近江町」

 

「うん」

 

 それだけ決めると、葵は先に歩き出した。

 

 友哉も歩いた。

 

 旅館へ戻る道で、葵は明日の朝は少しゆっくりしたいと言った。友哉は、それなら朝食の時間をずらしてもらおうと言った。

 

「旅館の人に迷惑ちゃう?」

 

「聞いてみる」

 

「前なら、勝手に決めへんかった?」

 

「聞いてから決める」

 

「それ、ちょっとだけ進歩やね」

 

 葵が笑う。

 友哉は、褒められたことにしておいた。

 

 友哉も笑った。

 

 旅館の灯りが近づいてくる。

 

 その灯りの向こうに、静枝がいて、茜がいて、和夫がいて、知らない客が何人かいる。明日の朝になれば、また布団を上げ、味噌汁をよそい、誰かが忘れ物をして、誰かが急いで駅へ向かう。

 

 川は、その横を何も言わずに流れている。

 

 友哉は、ふと鴨川のことを思った。

 

 帰れば、またあの川を見るだろう。

 

 浅野川を知ったからといって、鴨川が変わるわけではない。帰れば、いつもの橋があり、いつもの人が河原を歩いている。

 

 それでも次に鴨川を見たとき、向こう岸の家の窓まで少し見える気がする。見えないものが見えるようになったわけではない。ただ、見る時間が少し長くなった。

 

 二人は橋を渡った。

 

 旅館の戸を開けると、奥から茜の声がした。

 

「お帰りなさい」

 

 葵が先に頭を下げた。

 

「ただいま」

 

 友哉も言った。

 

 今度は、驚かなかった。

 

 外では浅野川が流れている。

 

 今時分、京都でも鴨川が流れている。

 

 友哉は二つの流れの間に立っているように感じた。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十一章 四番の向こう側

 

 ホテルを出た四人は、すぐに四番へ向かうことをやめた。

 

 急いで現場へ行けば、そこで何が起きているのかを確かめられるかもしれない。しかし、それは同時に、写真を送ってきた人物の思惑どおりに動くことでもある。ここ数日、自分たちは何度も誰かに先回りされている。

 

 写真を見つければ、その直後に別の写真が届き、場所を調べれば、その場所へ誘導するような手掛かりが現れる。祖母の家に行けば木箱が消え、十二番へ行けば「開けるのは、四人ではない」という紙が残されていた。

 

 偶然にしては出来すぎている。

 

 それなら、今夜四番へ向かうことも、誰かにとっては予定の中に入っているのではないか。孝は、そう考えた。

 

 四人はホテルの近くにある遅い時間まで営業している店に入り、奥の席を借りた。窓から見える道路には、まだ観光客の姿がある。誰かが写真を撮り、誰かが笑いながら坂道を歩いている。

 

 その普通の光景を眺めていると、自分たちだけが別の時間の中に入り込んでしまったような気がした。

 

 沙羅は、病院から聞いた祖母の言葉を何度も思い返していた。ユウスケは死んでいない。八月九日の朝、誰かが連れて行った。

 

 それが祖母の記憶違いではないとすれば、ユウスケには原爆投下後の消息があることになる。しかし、そこから先の記録は見つかっていない。戦争直後の長崎では、多くの人が行方を失い、家族の記憶だけが残った。

 

 名前すら確認できない人も少なくなかった。それでも祖母は、弟が生きていると信じ続けた。

 

 その執念が、単なる家族への思いだけだったのか、それとも本当に生存を示す何かを知っていたのかは、まだわからない。沙羅が持っている祖母の写真をテーブルの上に置いた。若い祖母と少年。

 

 そして、その背後にいる外国人らしい男性。これまで何度も見てきた写真だった。しかし、今は違って見える。

 

 孝は写真を拡大し、少年の足元を確認した。二つの影。それは昨日気づいたものと同じだった。

 

 ただ、もう一度よく見ると、影の一つは少年のものではないようにも見える。光の方向を考えれば、少年の背後にいる人物の影が伸びているだけなのかもしれない。写真の角度が少し歪んでいるため、正確な判断はできない。

 

 それでも、二つの影がこの物語の中で何度も現れることには、何か意味があるように思えた。涼子が、これまで撮った写真を一つずつ並べた。祖母の家。灯籠。石垣。浦上。十二番。そして、昨夜届いた四番の写真。

 

 並べてみると、それぞれの写真に共通するものが見えてくる。建物そのものではない。影の方向だった。

 

 長崎では坂が多く、建物の位置も複雑であるため、同じ時間帯に撮った写真でなければ影の方向から位置関係を判断するのは難しい。それでも、写真の中に残っている影を地図に重ねていくと、一つの方向が浮かんできた。

 

 四番から、さらに西へ向かう線だった。その先には、海ではなく山がある。

 

 そして、その山の向こう側には、現在は使われていない古い道が残っている。浩一が地図を拡大した。その道の近くには、小さな記号がある。教会のようにも見える。しかし、現在の地図には何も記されていない。

 

 古い地図だけに残る場所だった。そのとき孝は、昨日十二番で見つけた紙を思い出した。

 

 「開けるのは、四人ではない」

 

 あの言葉は、四番の地下室を開けるなという意味ではなかったのかもしれない。四人には開けられない。正確には、四人が開けるべきものではない。では、誰が開けるのか。その答えを探すため、四人はホテルへ戻った。

 

 そこで孝は、もう一度母親へ連絡することを提案した。今夜、四番へ向かうことは伝えない。

 

 代わりに、祖母が知っていたエリアス・ローレンスという人物について何か記憶がないか尋ねてもらう。母親はしばらく考えてから、祖母の古い手帳を探してみると言った。それから二十分ほど経った頃、電話がかかってきた。

 

 母親の声は、いつもより緊張していた。手帳が見つかった。

 

 祖母の部屋の奥にある古い箱の中に入っていたという。そこには、日付のほか、いくつかの外国人の名前が書かれていた。その中に、エリアス・ローレンスがある。

 

 しかし、母親が驚いたのは、その名前の横に書かれていた日本語だった。

 

「この人は、ユウスケを連れて行った人ではない」

 

 祖母自身の字だった。つまり、これまで四人が考えていた前提が間違っている可能性がある。エリアス・ローレンスはユウスケを助けた人物ではある。けれど、八月九日の朝、少年を連れて行った人物ではない。

 

 ならば、誰が連れて行ったのか。その人物について、手帳には別の名前が残されていた。

 

高瀬宗一郎。

 

 孝は、その名前を聞いた瞬間、妙な既視感を覚えた。どこかで見た名前だった。しかし、すぐには思い出せない。浩一が検索を始める。戦前の長崎。港湾関係。宗教関係者。

 

 いくつかの条件を組み合わせて調べていくと、やがて一件の古い資料が見つかった。

 

 そこには、高瀬宗一郎という人物が、戦前の長崎で古い建物の保存や修復に関わっていたことが記されていた。専門家というほどではない。

 

 しかし、外国人居留地や寺院、教会など、長崎に残る古い建築物の調査に関わっていた。さらに資料を追うと、戦後間もない時期にも活動していた記録がある。その後、消息は途切れている。

 

 だが、最後に名前が出てくる場所があった。四番。

 

 古い地図の「四番」と、高瀬宗一郎という人物の名前が結びついている。

 

 四人は、ようやく理解し始めた。四番に隠されているのは、単なる古い記録ではない。ユウスケが残した何かを、高瀬宗一郎が受け取った。そして、それを誰かが現在まで守ってきた。祖母は、その流れを知っていた。

 

 だからこそ、長い年月をかけて四番を探していた。しかし、ここで新たな疑問が生まれる。

 

 高瀬宗一郎は、なぜユウスケを連れて行ったのか。少年を救ったのか。それとも、別の目的があったのか。

 

 そして、現在四番を開けようとしている人物は、高瀬宗一郎の後継者なのか。その答えを探すため、孝は最後に一つだけ写真を確認した。祖母の若い頃の写真。少年。外国人男性。そして、写真の端に写っているもう一人の人物。

 

 これまで背景の一部だと思っていた。しかし、拡大すると、その人物の服装がはっきり見えた。

 

 古い作業服。胸元に、小さな金属製の札がついている。

 

 そこには「T」と読める文字が刻まれていた。

 

 高瀬宗一郎の「T」なのかもしれない。

 

 孝はそう思った。ところが、その人物の顔をさらに拡大した瞬間、全員が黙った。顔立ちははっきりしない。それでも、年齢を考えればあり得ないはずのことに気づく。

 

 写真に写っている人物は、現在、四番へ向かっている男とよく似ていた。もちろん、同一人物であるはずがない。写真は八十年以上前のものだからだ。

 

 ならば、似ているのは偶然なのか。それとも、親子なのか。四人の中で、最初にその可能性を口にしたのは涼子だった。高瀬宗一郎には、戦後に家族がいたのではないか。

 

 もし子供がいて、その子供が父親の記録を受け継いでいたなら、現在まで秘密が残っている理由も説明できる。しかし、それを確認するには、四番にいる人物を調べなければならない。四人は、その夜、四番へ向かうことを決めた。

 

 ただし、近づきすぎない。何かが起きていることを確認し、危険なら戻る。その程度にとどめる。

 

 長崎の夜道を歩きながら、孝は何度も周囲を見た。観光客の姿が少なくなるにつれ、街の表情が変わっていく。坂の途中から見える夜景は美しかった。

 

 けれど、その美しさの中に、戦争も、宗教も、外国との交流も、人の死も、すべてが重なっているように感じられた。この街は、何かを忘れたのではない。忘れられないものを抱えたまま、現在まで続いている。

 

 そう思ったとき、前方に古い石垣が見えた。四番だった。

 

 現在は駐車場になっている場所の奥に、古い石積みが残っている。人影はない。しかし、石垣の一部だけが新しくなっていた。誰かが最近、そこを触ったらしい。孝たちは道路の向こう側から様子を見た。

 

 やがて、石垣の前に一人の男が現れた。昨夜の写真に写っていた人物だった。手には、祖母の家から消えた木箱を持っている。

 

 男は周囲を確認すると、石垣の一部に手をかけた。すると、隠されていた扉がゆっくり開いた。その瞬間、四人は思わず息をのんだ。扉の向こうには、地下へ続く階段がある。男は木箱を抱えたまま、階段を下りていく。

 

 ただ、その直後、別の人物が現れた。今度は、反対側からだった。

 

 その人物は、男が地下へ消えるのを確認すると、ゆっくり石垣へ近づいた。そして、四人のいる方向を見た。暗くて顔は見えない。それでも、孝にはその人物がこちらを見ていることだけはわかった。

 

 次の瞬間、その人物が懐中電灯を点けた。光が一度だけ四人を照らした。そして、消えた。逃げるように走るわけでもない。

 

 ただ、地下への入口とは反対の方向へ歩いていく。孝は、その後ろ姿を見ながら、妙な違和感を覚えた。どこかで見たことがある。その歩き方。肩の傾き。そして、右手を少し上げる癖。思い出せない。

 

 しかし、その人物が誰なのかを考えているうちに、沙羅が小さく息をのんだ。彼女は、その人物の姿を見たことがあった。長崎へ来た初日。

 

 駅を出たところで、祖母の家から電話がかかってきたとき、道路の向こうに立っていた人物。あのときは気に留めなかった。観光客の一人だと思っていた。

 

 しかし、今になって考えれば、四人が長崎へ来た最初の日から、すでに誰かが近くにいたことになる。そして、その人物が去ったあと、地下から小さな音が聞こえた。金属が落ちるような音だった。

 

 四人は、道路の向こうにある石垣を見つめた。誰も近づこうとはしなかった。やがて、地下への入口から、細い煙が上がった。

 

 火事ではない。何かを燃やしている。

 

 孝は、その瞬間、四番に隠されているものが「記録」だけではないことを悟った。

 

 誰かが今、古い記録を消そうとしている。しかも、その人物は木箱を持ってきた男とは別だった。つまり、二人いる。記録を探している者と、それを消そうとしている者。そして四人は、その二人の間に入り込んでしまった。

 

 そのとき、孝のスマートフォンが震えた。画面には、知らない番号から新しい写真が届いている。

 

 四番の地下室。木箱が開かれている。その中には、古い紙束と一冊の黒い手帳が入っていた。そして写真の隅に、手書きの文字がある。

 

「これが、長崎で消された名前の始まりだ。」

 

 孝は画面から目を離せなかった。しかし、次に届いた写真を見た瞬間、さらに大きな衝撃を受ける。黒い手帳の最初のページ。そこには、長い年月の間、祖母が守ってきた少年の名前が書かれていた。ユウスケ。

 

 その横に、もう一つの名前が並んでいる。そして、その名前は、現在四人が追っている人物のものではなかった。

 

中谷孝。

 

 自分の名前だった。

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『 風を聴く 』

 

第六章   泥の中の線引きと、静寂の訪れ

 

大阪からの帰還から一ヶ月が過ぎ、季節は本格的な冬を迎えていた。

 

熱田の家での生活は、表向きは以前と同じ穏やかさを取り戻したように見えた。しかし、家をめぐる問題は根本的な解決を見たわけではなく、未だくすぶり続けていた。

 

十二月の半ば、冷たい雨が一日中降り続く午後。

 

再び玄関の引き戸が開いた。今度は京子一人ではなく、雄一と、そして不動産屋のスーツを着た中年男性が同行していた。

 

「お義母さん、わざわざ雨の中ごめんなさいね。でもね、田中さんが親切にわざわざ現地を見に来てくれたのよ」

 

京子はどこか得意気な様子で上がり込んできた。不動産屋の男は、古い天井や湿った柱を値踏みするような目で見回している。

 

「お義母さん、これ以上引き延ばしても良いことはありませんよ。雄一だって体調を崩しかけているんです。家を売って、みんなで少しずつ分ければ、全員が楽になれるんですから」

 

京子の言葉には、追い詰められた人間特有の執念のような重みがあった。

 

畳の上に座っていた俊子は、静かに目を閉じていた。膝の痛みは冬の寒さで増し、両手は寒さに震えている。

 

「叔母さん、勝手に人を連れてこないでください!」

 

駆け下りてきた沙耶香が、強い声で言い放った。

 

「またあなたね……! 沙耶香ちゃん、大人たちの真剣な話を邪魔しないでちょうだい!」

 

「邪魔なんてしてない! 私はこの家を残したいの! ここは……おばあちゃんの思い出だけじゃなくて、私たちがもう一度やり直すための場所なんだから!」

 

「そんなキレイ事で家計が助かるわけないでしょうが!」

 

京子が叫んだその時、茶の間のサッシの窓から、悲痛な鳴き声が響き渡った。

 

「ニャァァァン……!」

 

いつもとは違う、低く引き裂くような声だった。

 

沙耶香と俊子がハッと振り返ると、雨に濡れた縁側に、あの茶トラの猫が横たわっていた。

 

右の後ろ脚が不自然に曲がり、泥と血で汚れている。どこかで車にはねられたか、他の強い野良猫と争って酷い怪我を負ったようだった。寒さと痛みで全身を激しく震わせている。

 

「猫ちゃん……!?」

 

沙耶香が悲鳴を上げて駆け寄った。

 

「な、何よ気味の悪い……! 野良猫なんてほっときなさいよ!」京子が不快そうに顔を歪めた。

 

だが、俊子はゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。膝の痛みを忘れたかのようにすり足で近づき、泥だらけの猫を自分の膝の上へ抱き上げた。

 

ハッカの匂いが漂う俊子の湿布の上に、猫の冷たい泥と血が滲んでいく。

 

「沙耶香、タオルと温かい湯たんぽを……!」

 

「うん!」

 

沙耶香は走ってタオルを取りに向かった。

 

不動産屋の男が気まずそうに咳払いをした。

 

「……あの、奥さん。家のご相談は、また後日ということに……」

 

「そうね……ちょっと、今日は散々だわ!」

 

京子は吐き捨てるように言い、雄一の手を引っ張って雨の中へと去っていった。

 

静まり返った茶の間で、沙耶香と俊子は猫の泥を丁寧に拭き取り、毛布で包み込んだ。やがて帰宅した陽一の車で近くの動物病院へ運び、処置を受けた。

 

幸いにも骨折は軽度で、命に別状はなかった。

 

数日後。怪我をした猫は、茶の間のコタツの脇に置かれた段ボール箱の中で、穏やかに眠っていた。後ろ脚には白い包帯が巻かれている。

 

俊子がそっと撫でると、猫はうっすらと目を開けた。

 

しかし——

 

あの中年男のような声は、もう俊子の頭の中に響いてはこなかった。

 

猫はただ、「ゴロゴロ……」と喉を鳴らし、俊子の手に自分の鼻先を押し当ててくるだけだった。

 

言葉としての奇跡は終わったのだ。

 

けれど、俊子の心には寂しさはなかった。言葉がなくても、この温もりと命の重みが通じ合っていることを、俊子も、沙耶香も、深く理解していたからだ。

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『 花びらの積もる道 』

 

第三章 もう一度、花屋へ

 

 窓辺の紫の花は、五日ほど咲いた。

 

 初めの二日は細い茎をまっすぐ伸ばしていたが、三日目の朝から、少しずつ首を傾け始めた。

 

 順子は水を替え、茎の先を斜めに切った。

 

 一本だけなのに、毎朝気になった。

 

 花が気になるのか、花をくれた人が気になるのか、考えるのはやめた。どちらにしても、窓辺を見る回数が増えたことに変わりはない。

 

 五日目の夕方、紫の花びらが一枚、棚の上に落ちていた。

 

 翌朝には、もう一枚落ちた。

 

 順子は残った花を紙に包み、小瓶を洗った。

 

 空になった瓶を棚へ戻すと、そこだけ四角く色が抜けたように見えた。

 

 昼前、千穂へ電話をかけた。

 

「明日、岡山へ行くけど、お昼は空いてる?」

 

「明日?」

 

「都合が悪いなら、いいのよ」

 

「急に言われても。午後から打ち合わせがあるんよ」

 

「では、十一時半なら?」

 

「一時までなら大丈夫」

 

「市役所の近くで待ってる」

 

「何か用事?」

 

「あなたとお昼を食べるのに、理由が必要なの?」

 

 千穂が少し黙った。

 

「また、あの花屋へ行くつもりでしょう」

 

「どうしてそう思うの」

 

「この前、西川を歩きながら、何度も花を見てたから」

 

「折れないようにしていただけよ」

 

「はいはい」

 

「その言い方、嫌いだわ」

 

「十一時半ね。遅れないで」

 

「あなたこそ」

 

 電話を切ったあと、順子は棚へ戻した小瓶を取り出した。

 

 もう一度洗う必要はなかった。それでも、水道の水ですすいだ。

 

 翌日、前回より一本早い列車で岡山へ向かった。

 

 表町商店街へ着くと、花屋の前で足を止めた。

 

 店先の花は入れ替わっていた。黄色い花はなく、白と淡い桃色の花が並んでいる。奥には緑の枝物があり、通りからもよく見えた。

 

 順子は少し右へ寄り、次に左へ寄って眺めた。

 

「あら」

 

 店の奥にいた洋子が気づいた。

 

 紺色のエプロンで手を拭きながら出てくる。

 

「津山のお客さま」

 

 順子は少し思い出すように、洋子の顔を見た。

 

「ヨーコさん」

 

「覚えててくださったんですね」

 

「花をくださった方の名前ですから」

 

「花を動かされたことも覚えてます」

 

「根に持っているんですか」

 

「今日は何を直されるんやろと思って」

 

 洋子は店先を見た。

 

「どうですか」

 

「今日は、直すところはありません」

 

「ほな、合格ですね」

 

「私が決めることではないでしょう」

 

「この前は決めたやないですか」

 

「頼まれたからです」

 

「頼んだことにしときます」

 

 二人は笑った。

 

「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」

 

 順子は、洋子の胸の名札を見た。

 

「私も、ジュンコです」

 

「ジュンコさん」

 

 洋子は覚えるように、一度呼んだ。

 

「この前の花、長く咲きました」

 

「リューココリーネですね」

 

「名前までは覚えられませんでした」

 

「ええんですよ。名前を覚えてもらうより、また見たいと思ってもらう方がうれしいですから」

 

「花屋さんが、そんなことを言うんですか」

 

「名前を間違えても、花は怒りません」

 

「人は怒りますけどね」

 

「そうですね」

 

 洋子は店先の白い花から、傷んだ葉を一枚取った。

 

「今日は何か、お探しですか」

 

「仏壇に置く花を」

 

「どなたかの?」

 

「夫です」

 

 洋子の手が止まった。

 

「ご命日ですか」

 

「いいえ。月命日でもありません」

 

「そうですか」

 

「何でもない日に飾ったら、いけませんか」

 

「まさか」

 

 洋子は店の中へ入った。

 

「何でもない日の方が、びっくりしはるかもしれませんね」

 

「生きているときに花を買って帰ったことは、一度もありませんでしたけど」

 

「ほな、なおさらです」

 

「いまさら機嫌を取っても、遅いでしょう」

 

「亡くなった人は、返事をしませんから。こっちの好きなように考えられます」

 

「花屋さんらしくないことを言うのね」

 

「花屋は、生きてる人からお金をいただく仕事ですから」

 

 洋子は白い花を数本選び、淡い緑の葉を添えた。

 

「ご主人は、どんな花がお好きでした?」

 

「花には、興味のない人でした」

 

「ほな、順子さんの好きな花で」

 

「そうなりますね」

 

 洋子は桃色の花を一本加え、少し離れて見た。

 

「これは多いですか」

 

「少し」

 

「やっぱり」

 

 洋子が抜こうとすると、順子は止めた。

 

「でも、残してください」

 

「どうして?」

 

「白と緑だけでは、あの人には上品すぎます」

 

「どんな方やったんですか」

 

「ネクタイを選ばせると、必ずいちばん派手なものを持ってくる人でした」

 

「順子さんが止めた?」

 

「私が、もう一本派手なものを出しました」

 

「ほな、ご主人だけのせいやありませんね」

 

「夫婦ですから。悪趣味も半分ずつです」

 

 洋子は桃色の花を、白い花の間に差し直した。

 

「では、これは残しましょ」

 

 包み紙を広げ、花を載せる。

 

「東京で、ご主人と一緒にお店を?」

 

「表に立っていたのは私です。夫は帳簿を見たり、仕入れの相談に乗ったり」

 

「亡くなられたあとも、続けてはったんですね」

 

「七年ほど」

 

「長いですね」

 

「やめる日を決めなかったら、七年たっただけです」

 

 洋子は包み紙を折る手を止めなかった。

 

「閉めようと思った日は?」

 

「何度もありました」

 

「開けてよかったと思った日は?」

 

「それも、何度も」

 

「同じくらい?」

 

「閉めたい日の方が、少し多かったかもしれません」

 

「それやったら、七年も続きませんよ」

 

「人は、嫌なことの方をよく覚えていますから」

 

「そうですね。うちの主人も、私が作った料理で、おいしくなかったものだけ覚えてます」

 

「おいしいものは?」

 

「黙って食べます」

 

「それは、作った人には分からないわね」

 

「そうなんです」

 

 洋子は花を包みながら笑った。

 

 順子は、夫の派手なネクタイを思い出した。紺色の背広に赤い斜め縞を合わせ、順子が眉をひそめると、似合っている証拠だと言った。

 

 亡くなってからは、そのネクタイを一度も箱から出していない。

 

「洋子さんは、ご自分の店を持とうと思ったことはないんですか」

 

「若い頃はありました」

 

「いまは?」

 

「いまは、雇われてる方が気楽です。店を閉めるかどうかまで、私が決めんでもええから」

 

「開けたい日に開けることもできないでしょう」

 

「そうなんです」

 

 洋子は包み紙の端を折った。

 

「たまに、自分の店やったらと思います。でも、毎日やありません」

 

「後悔しているんですか」

 

「してる日もあります」

 

 洋子は包んだ花を持ち上げ、桃色が正面から見えるように少し回した。

 

「順子さんは、店を閉めたことを後悔してますか」

 

「している日もあります」

 

 洋子がうなずいた。

 

「毎日やなかったら、ええんやないですか」

 

「ずいぶん都合のいい考え方ね」

 

「毎日きちんと後悔するのは、疲れますから」

 

 順子は花を受け取り、代金を払った。

 

 店の時計を見ると、千穂との待ち合わせまで、まだ少し時間がある。

 

「津山の桜は、もう終わりましたか」

 

 洋子が尋ねた。

 

「ほとんど散りました。木には、まだ少し残っています」

 

「鶴山公園は、桜で有名ですよね」

 

「ええ」

 

「一度、行ってみたいと思うてるんです」

 

「岡山からなら、遠くはないでしょう」

 

「近いところほど、行かへんものです」

 

「東京にいた頃、東京タワーへ行ったことはありませんでした」

 

「私も岡山城には、主人に連れられて一度行っただけです」

 

「今度の日曜日なら、まだ少しは残っているかもしれません」

 

「案内してくださるんですか」

 

「入口までなら」

 

「石段があるんでしょう」

 

「思っているより上りますよ」

 

「順子さんが上れるんやったら、私も上れます」

 

「私の方が年上です」

 

「三つくらいでしょう」

 

「どうして分かるんですか」

 

「花屋は、お客さまの年齢を考えて花を選ぶこともありますから」

 

「失礼な花屋さんね」

 

「ほな、同じくらいということにしときます」

 

「同じくらいなら、私が上れたからといって、洋子さんが上れるとは限らないでしょう」

 

「負けず嫌いですね」

 

「足腰の話です」

 

 二人は笑った。

 

「日曜日の十時に、入口でどうでしょう」

 

「行きます」

 

 洋子はすぐに答えた。

 

 店を出てしばらくしてから、順子は、自分が鶴山公園へ行く約束をしたことに気づいた。

 

 津山へ戻って半年、一人では近づけなかった場所である。

 

 洋子は昔の順子を知らない。

 

 先に石段を上り、誰かが追ってくるか確かめていた順子を知らない。

 

 知らない人の前では、いまの年齢で歩ける。

 

 順子はそう思った。

 

 千穂との昼食では、花屋の話をしなかった。

 

 夫に供える花を買ったことも、日曜日に鶴山公園へ行くことも、あえて話すほどではないと思った。

 

 千穂は展示の準備で忙しいらしく、料理を食べながら何度も腕時計を見た。

 

「落ち着かないわね」

 

「一時から打ち合わせがあるから」

 

「それなら、急いで食べればいいでしょう」

 

「お母さんがゆっくり食べるから」

 

「私に合わせなくてもいいのよ」

 

「合わせんかったら、あとで早く帰ったって言うでしょう」

 

「言わないわよ」

 

「前に言った」

 

「いつ?」

 

「二年前」

 

「二年前のことを、まだ覚えているの?」

 

「お母さんの娘だから」

 

 千穂は水を飲んだ。

 

「澤口さんの絵、今日、会場へ運ぶことになってる」

 

 順子は箸を止めなかった。

 

「そう」

 

「展示に来ないのは、澤口さんがいるから?」

 

「その話はしないと言ったでしょう」

 

「言ってない。聞いただけ」

 

「同じことよ」

 

「昔の同級生なんでしょう」

 

「それだけよ」

 

「それだけなら、どうして」

 

 順子は箸を置いた。

 

「千穂」

 

 強く言ったつもりはなかった。

 

 千穂は口を閉じた。

 

「人には、話したくないこともあるの」

 

「私には?」

 

「娘だから話せないこともあるでしょう」

 

 千穂はテーブルの端に目を落とした。

 

「そう」

 

 その返事は、納得した声ではなかった。

 

 料理の皿には、千穂の嫌いな椎茸が一つ残っている。子どもの頃なら、順子が食べてやった。

 

 千穂は箸でそれをつまみ、口へ入れた。

 

 順子は何も言わなかった。

 

 昼食を終えると、千穂は市役所へ戻った。

 

 順子は一人で岡山駅へ向かった。

 

 白い花の間から、桃色が一本だけ高くのぞいている。包みの中へ押し戻しても、歩くうちにまた顔を出した。

 

 その夜、洋子は夕食のあとで、日曜日に津山へ行くことを亨に話した。

 

「この前、店に来はった順子さんが、鶴山公園を案内してくれるの」

 

 亨は湯呑みを持ったまま顔を上げた。

 

「鶴山公園?」

 

「桜はだいぶ散ったそうやけど、まだ少し残ってるみたい」

 

「その人と?」

 

「一人で案内してもろたら、あかんの?」

 

「いや」

 

「あなたも来る?」

 

「僕は」

 

 亨は湯呑みを置いた。

 

「やめとく」

 

「石段が嫌なん?」

 

「そうやない」

 

「ほな、花屋の女が二人で歩いたら、長うなるから?」

 

「順子さんは、もう花屋やないやろ」

 

 洋子は亨を見た。

 

「よう覚えてるのね」

 

「君が話したから」

 

「あなた、私の話を聞いてたんやね」

 

「いつも聞いてるよ」

 

「返事せえへんから、聞いてへんのかと思うてました」

 

 洋子は自分の湯呑みに茶を足した。

 

「名字は聞いた?」

 

 亨が尋ねた。

 

 洋子の手が止まった。

 

「どうして、そんなに名字が気になるの」

 

「いや」

 

「順子さんは順子さんでしょう」

 

「そうやけど」

 

「東京でブティックをしてはったけど、ご主人を亡くして、半年前に津山へ戻ったんですって」

 

「本人が、そう言うたんか」

 

「ええ。今日は、ご主人のお仏壇に供える花を買うてくれました」

 

 亨は湯呑みに目を落とした。

 

 茶の表面に、天井の明かりが映っている。

 

「鶴山公園は、石段が多いよ」

 

「行ったことあるの?」

 

「学生の頃に、一度」

 

「誰と?」

 

 亨は顔を上げた。

 

 洋子は湯呑みを口へ運ぶ。

 

「聞いたらあかんかった?」

 

「昔の友人と」

 

「男の人?」

 

「いや」

 

「女の人ね」

 

 洋子は茶を飲んだ。

 

「昔のことやったら、そう言うたらええのに」

 

「聞かれたから答えただけや」

 

「聞かれへんかったら、言わへんかったでしょう」

 

「わざわざ言うことでもないから」

 

「そうやね。昔の女の人と桜を見た話なんて、妻に聞かせるもんやありません」

 

 洋子は穏やかな声で言った。

 

 亨は返事ができなかった。

 

「この頃、膝が痛むことがあるやろ」

 

「歩けへんほどやありません」

 

「無理せん方がええ」

 

「順子さんにも、同じこと言われました」

 

「ほかの日にしたらどうや」

 

 洋子は亨を見た。

 

「どうして?」

 

「桜の時期は、人が多いから」

 

「もう満開は過ぎてます」

 

「それでも、日曜日は混むよ」

 

「入口まで行って、無理やったら帰ります」

 

 洋子は湯呑みを盆へ戻した。

 

「そんなに心配やったら、一緒に来たらええでしょう」

 

「いや、それは」

 

「来えへんのね」

 

「気ぃつけて」

 

「はい」

 

 洋子は食器を重ね、台所へ運んだ。

 

 亨は一人で食卓に残った。

 

 しばらくして、台所から洋子の声がした。

 

「鶴山公園の石垣は、きれい?」

 

「ああ」

 

「桜と、どっちがきれい?」

 

「比べるもんやないよ」

 

「昔の女の人は?」

 

 亨は振り返った。

 

 洋子は流しに向かったまま、食器を洗っている。

 

「何?」

 

「いま、何て言うた?」

 

「昔の女の人は、石垣と桜のどっちを見てたんやろと思って」

 

「さあ」

 

「覚えてへんのね」

 

 水の音が続いた。

 

 亨は二階へ上がった。

 

 机の引き出しを開け、茶色い包みから古いスケッチを取り出した。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。

 

 桜は描かれていなかった。

 

 順子の肩と、上げた右手と、石垣だけがあった。

 

 亨は絵を裏返した。

 

 裏には、小さな字で日付が書いてある。

 

 今度の日曜日、順子と洋子が同じ石段を歩く。

 

 亨は裏返した絵を机に置いたまま、引き出しを閉めた。

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『 花びらの積もる道 』        

 

第二章 花を選ぶ人

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、細い雨が降っていた。

 

 枕元の時計は六時四十分だった。まだ眠れる時間だったが、目を閉じると、昨夜しまい直した段ボール箱の角が浮かんだ。

 

 澤口亨。

 

 名前は顔より始末が悪い。顔なら年月とともに変わるが、名前は二十二歳のままである。

 

 順子は起きてカーテンを開けた。雨に濡れた向かいの屋根で、雀が一羽、身体を丸くしている。

 

 亨が岡山に住んでいると知ったところで、何が変わるわけでもない。

 

 会うつもりはなかった。

 

 会わなければ、何も起きない。

 

 朝食を終え、昨日の新聞を畳んだ。折り目のそばに、指でつけたしわが残っている。手のひらで伸ばしたが、かえって紙が柔らかくなっただけだった。

 

 十時を過ぎた頃、携帯電話を取った。

 

 千穂へかけると、留守番電話に切り替わった。

 

「昨日は、急に切ってごめんなさい。日曜日の展示には行かないけど、来週、岡山へ行きます。都合のいい日を知らせてください」

 

 言い終えてから、〈亨に会うためではありません〉と付け加えそうになった。

 

 順子は電話を切った。

 

 娘と昼食を食べる。店を閉めてから買わなくなった服を見る。岡山へ行く理由なら、二つもあれば十分だった。

 

 昼を過ぎて、千穂から返事が来た。

 

〈水曜日なら、午後から時間を取れます。岡山駅で待ち合わせよう〉

 

 順子は、

 

〈一人で行けます。市役所の近くで待っています〉

 

と返した。

 

〈迎えに行くとは言ってないけど〉

 

 すぐに届いた文字を見て、順子は笑った。

 

 笑ったあと、少し腹が立った。

 

 水曜日、津山駅から列車に乗った。

 

 桜は数日の雨でずいぶん散っている。窓の外を山や田畑が流れていく。枝の先に残る桜は、遠くから見ると、洗って何度も使った薄桃色の布のようだった。

 

 岡山駅へ着いたのは十一時前である。

 

 千穂との約束は一時だった。順子は路面電車に乗り、表町商店街へ向かった。

 

 商店街へ入ると、店先を見る目だけが先に働いた。

 

 春物のブラウス、薄手のジャケット、淡い色のスカーフ。東京にいた頃なら、どれを入口へ出せば人が立ち止まるか、考えながら歩いた。

 

 値札が刺繍を隠している店があった。隣の店では、よく似た色の服を集めすぎて、どれも売れ残りに見える。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 もう自分の店ではない。そう思うと、どの店も気になった。

 

 商店街の中ほどで、小さな花屋が目に入った。

 

 店先に白と黄色の花が並び、その奥に、淡い紫の花を入れた細長い器がある。紫の色はきれいなのに、中央の黄色い花が大きすぎて、ほとんど見えない。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 五歩ほど進み、振り返った。

 

 横から見ても、やはり黄色が勝っている。

 

「何か、お探しですか」

 

 店の中から女性が出てきた。

 

 六十代前半くらいだろうか。紺色のエプロンを着け、片手に花鋏を持っている。髪に少し白いものが混じっていたが、染めて隠そうとはしていなかった。

 

「いいえ。見ていただけです」

 

「そうですか」

 

 女性は店へ戻りかけた。

 

 順子はもう一度、紫の花を見た。

 

「この紫、きれいですね」

 

「リューココリーネです。少し香りもありますよ」

 

 女性は一本を抜き、順子へ差し出した。

 

 顔を近づけると、甘い香りの奥に、青い葉を折ったような匂いがした。

 

「もう少し前に置けば、外からも見えるのに」

 

 言ってから、順子は口を閉じた。

 

 女性は店先を振り返った。

 

「黄色が邪魔ですか」

 

「邪魔というほどではありませんけど」

 

「邪魔なんですね」

 

「少しだけ」

 

 女性は笑い、黄色い花の器を持ち上げた。

 

「どこへ置きましょう」

 

「私が決めるんですか」

 

「言い出した人に決めてもらいましょ」

 

 順子は店先へ出た。

 

「もう少し右へ」

 

「ここ?」

 

「あと、鋏一本分くらい」

 

 女性が、手にしていた鋏を見た。

 

「服を扱うてはった方ですか」

 

「どうして分かったんですか」

 

「花屋やったら、花一本分と言いますから」

 

「東京で、ブティックをしていました」

 

「いまは?」

 

「半年前に閉めて、津山へ戻りました」

 

「津山から?」

 

「娘が岡山にいるんです」

 

 器を横へ動かすと、奥の紫が見えた。白い花との間に少し空きができ、先ほどまで大きく見えた黄色も、かえって形がよくなった。

 

 女性は通りまで出て、順子の隣に立った。

 

「ほんま。こっちの方がええですね」

 

「黄色が悪いわけではないんです。場所が違っただけで」

 

「花は文句を言いませんからね。違う場所に置かれても、そこで咲いてます」

 

「服も同じですよ。似合わない人に買われても、返品には来ませんから」

 

「服は帰ってくることがあるでしょう」

 

「着た人が、もっと恐ろしい顔で来ます」

 

 女性が声を立てて笑った。

 

 笑い方の大きい人だった。店の奥にいた若い店員が、何事かという顔でこちらを見た。

 

 女性は店へ戻り、鋏を台へ置いた。

 

「何か一つ、持って帰りませんか。せっかく津山から来はったんやから」

 

「今日は花を買うつもりではなかったので」

 

「知ってます。やから、一本だけ」

 

 女性は紫の花を細い紙で包んだ。

 

「いただけません」

 

「ほな、店先を直してもろたお礼です」

 

「少し動かしただけでしょう」

 

「その少しが、自分では見えへんかったんです」

 

 順子は包みを受け取った。

 

 店の奥から、若い店員が呼んだ。

 

「ヨーコさん、こちらをお願いできますか」

 

「はーい、今行きます」

 

 順子は、紺色のエプロンに〈YOKO〉と書かれた名札を見た。

 

「ヨーコさん、ですか」

 

 洋子は一瞬驚いたが、順子が名札を見ていることに気づき、笑顔で応えた。

 

「ええ。またいらしてくださいね」

 

「今度は黙って見ます」

 

「言うてください。直すかどうかは、こっちで決めますから」

 

「直さないこともあるんですね」

 

「もちろん」

 

 洋子は笑った。

 

 順子は花を持って店を出た。

 

 商店街を歩きながら、何度か包みを見る。白い紙から紫の花が一本のぞいている。

 

 買ったものなら、値段の分だけ自分のものになる。もらったものは、いつまでたっても、くれた人の顔がついてくる。

 

 千穂と待ち合わせた店へ着くと、娘はすでに席に座っていた。

 

「花なんて買ったの?」

 

「もらったの」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

「どうして?」

 

「店先の花の置き方に口を出したから」

 

 千穂は水の入ったグラスを持ったまま、母を見た。

 

「初めて入った店で?」

 

「初めてだから言えたのよ」

 

「よう分からんわ」

 

「知っている店なら、あとで行きにくくなるでしょう」

 

「やっぱり、悪いことを言った自覚はあるんだ」

 

「悪いことではないわ。少し余計だっただけ」

 

「それを悪いことと言うんじゃない?」

 

 順子は花の包みを隣の椅子へ置いた。

 

 料理が運ばれてくると、二人は千穂の仕事や津山での暮らしについて話した。

 

 順子は亨の名を出さなかった。

 

 千穂も出さなかった。

 

 口にしない名前は、テーブルの上にある塩入れのようだった。使わなくても、二人ともそこにあることを知っている。

 

「展示の準備はできたの?」

 

 順子が尋ねた。

 

「だいたい。あとは紹介文を整えて、絵を掛ける位置を決めるくらい」

 

「澤口さんの絵は、もう届いているの?」

 

 千穂が箸を止めた。

 

「昨日、預かったよ」

 

「そう」

 

「見る?」

 

「見ない」

 

「それなら、どうして聞いたの」

 

「仕事が進んでいるのかと思っただけ」

 

「ほかの人の展示品は聞かないのに?」

 

「いちいち聞いていたら、料理が冷めるでしょう」

 

 順子は魚を一口大に切った。

 

 千穂も箸を動かした。

 

「お母さん、ずるいね」

 

「魚の取り方が?」

 

「そういうところ」

 

「焼き魚に、ずるい食べ方なんてあるの?」

 

 千穂は返事をしなかった。

 

 昼食を終えると、順子は西川沿いを歩いてから津山へ戻ると言った。

 

「市役所まで来たのに?」

 

「あなたは仕事があるでしょう」

 

「午後は時間を取ったと言ったでしょう」

 

「四十二歳の娘に、一日中ついて歩いてもらわなくても大丈夫よ」

 

「お母さんが来ると言ったから空けたんよ」

 

「では、西川まで一緒に歩く?」

 

「そこまでついてきてほしいのは、お母さんでしょう」

 

「嫌なら、来なくていいのよ」

 

「行くよ」

 

 千穂はため息をついて席を立った。

 

 西川緑道公園の木々には、若い葉が出始めていた。水のそばを歩くと、車の音が少し遠くなる。

 

 順子は紫の花を持ったまま、ゆっくり歩いた。

 

「津山へ戻って、どう?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「どうって?」

 

「暮らしやすい?」

 

「東京より静かね」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「質問が悪いのよ」

 

「一人で寂しくない?」

 

 順子は前を向いたまま歩いた。

 

「あなたが結婚しないことを聞くと怒るのに、私が一人なのは心配するのね」

 

「同じじゃないでしょう」

 

「何が違うの?」

 

「お母さんは、お父さんがいたから」

 

「いた人がいなくなれば、二人分、静かになるとでも思ってるの?」

 

 千穂が黙った。

 

 順子は少し強く言いすぎたと思った。思ったが、言葉は戻ってこなかった。

 

「ごめん」

 

 千穂が言った。

 

「どうして、あなたが謝るの」

 

「聞いたから」

 

「聞かれなければ、寂しくないわけでもないでしょう」

 

 西川の水に、揺れた木の影が映っている。細い流れの上で、葉の形が伸びたり縮んだりした。

 

「でも、お母さん、東京から戻って半年なのに、まだ何も始めてないでしょう」

 

 順子は千穂を見た。

 

「何か始めないと、暮らしていることにならないの?」

 

「そういう意味じゃないけど」

 

「朝起きて、ご飯を食べて、洗濯をしているわ」

 

「それは暮らしてるというより、汚さんようにしてるだけでしょう」

 

「ずいぶん失礼ね」

 

「だって、段ボール箱もまだ開けてないでしょう」

 

「誰から聞いたの?」

 

「前に行ったとき、見たから」

 

「あれは箪笥代わりよ」

 

「上に雑誌が置いてあった」

 

「立派に家具として使ってるでしょう」

 

 千穂が笑った。

 

 順子も、少し遅れて笑った。

 

 手にした紫の花が、歩くたびに白い紙の中で揺れる。

 

「今日、初めて会った人に、津山へ戻ったことを話したわ」

 

「花屋の人?」

 

「ええ」

 

「私には何も話さないのに」

 

「あなたは聞きすぎるから」

 

「知らない人の方が話しやすいこともあるんだね」

 

 千穂の声に、細い棘があった。

 

「知らない人は、明日になれば忘れてくれるもの」

 

「忘れんかもしれんよ」

 

「それなら、困るわね」

 

「また会いたい?」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

 順子は包みからのぞく花を見た。

 

「花をもらったから、一度くらいは買いに行かないと悪いでしょう」

 

「それを、また会いたいと言うんじゃない?」

 

「あなたは、何でも大げさにするのね」

 

 千穂はそれ以上言わなかった。

 

 帰りの列車で、順子は紫の花を膝に置いた。

 

 窓の外が夕方の色へ変わっていく。津山へ着く頃には、細い茎が少し曲がっていた。

 

 家に帰ると、小さなガラス瓶へ水を入れ、窓辺に置いた。

 

 一本だけでは寂しく見えた。

 

 けれど、何本か足せば、洋子が選んだ紫がほかの色に紛れてしまう。

 

 順子は一本のままにした。

 

 少し離れると、何もなかった窓辺に、小さな色が残った。

 

 同じ頃、岡山の家では、洋子が夕食の支度をしていた。

 

「今日ね、津山から来はった人に、店先の花を直されたんよ」

 

 鍋の火を弱めながら言った。

 

 亨は食卓で新聞を読んでいた。

 

「腹、立たへんかったんか」

 

「いいえ。面白かったから、動かしてみたの」

 

「何が面白かったんや」

 

「あと鋏一本分、右へって」

 

「鋏?」

 

「花屋やったら、花一本分と言うでしょう。東京でブティックをしてはった人なの」

 

 亨の指が、新聞の端で止まった。

 

「いまは?」

 

「半年前に店を閉めて、津山へ戻ったんですって」

 

「名前は?」

 

「聞かへんかった」

 

 洋子は鍋を見たまま答えた。

 

「そうか」

 

「どんな人やった?」

 

「人の店の花を勝手に直す人」

 

「勝手に直したんか」

 

「私が直させたの」

 

 洋子は味見をし、塩をひとつまみ入れた。

 

「今度、岡山へ来はったら、また寄ってくれるかもしれへん」

 

「そうか」

 

「服と花の飾り方は、似てるところがあるのね。話してたら、面白そうな人やった」

 

 亨は新聞へ目を戻した。

 

 東京でブティックをしていた。半年前に津山へ戻った。

 

 それだけなら、同じような人がほかにいてもおかしくはない。

 

 それでも亨には、順子以外の顔が浮かばなかった。

 

「花もあげたのよ」

 

「何の花を?」

 

「リューココリーネ。紫の」

 

「そうか」

 

「知ってるの?」

 

「いや」

 

「さっきから、知ってる人みたいに返事するから」

 

 亨は紙面をめくった。まだ読んでいない面を通り過ぎ、先ほどまで見ていた面がもう一度出た。

 

「ちょっと考えごとしてたんや」

 

「絵のこと?」

 

「そうや」

 

 洋子は鍋の蓋を少しずらした。湯気が細く上がる。

 

「今日の城は、どんな黒やった?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「見てへんかったのね」

 

「見てたよ」

 

「見ても、覚えてへん日もあります」

 

 洋子はそれ以上聞かず、食器を並べ始めた。

 

 亨は新聞を畳んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

 名前を呼んだものの、その先が出てこなかった。

 

「箸、これでええのか」

 

「何年、一緒に暮らしてるんですか」

 

 洋子は亨の前から客用の箸を取り、いつもの箸と入れ替えた。

 

「今日は、そっちでもよかったんですけどね」

 

「どうして?」

 

「少しくらい、よその人みたいで」

 

 洋子は笑って台所へ戻った。

 

 食卓には二人分の箸が並び、窓辺には昨日持ち帰った淡い黄色の花が咲いている。

 

 その花を少し横へ動かせば、何か別のものが見えるのかもしれなかった。

 

 亨は手を伸ばさなかった。