この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 花びらの積もる道 』
第四章 花びらの積もる道
日曜日の朝、亨は洋子を岡山駅まで送ろうかと言った。
「一人で行けます」
洋子は小さな鞄へ水筒を入れながら答えた。
「津山線の乗り場、ちょっと分かりにくいで」
「前に岡山駅から乗ったことあります」
「いつ?」
「家を探してた頃。津山へは行かへんかったけど、乗り場くらい見ました」
「二年前やろ」
「乗り場は逃げません」
「変わってるかもしれへん」
「駅まで送ってもらう間に、電車一本遅れます」
亨は時計を見た。
洋子の言うとおりだった。
玄関で靴を履いた洋子は、薄い色の帽子をかぶった。花屋へ行く日より、少し明るい服を着ている。
「帰り、何時頃になる?」
「順子さんとお昼を食べても、夕方には戻れると思います」
「そうか」
「何か買うてきましょうか」
「いや」
洋子は亨の顔を見た。
「ほんまに、どうしたの?」
「何が?」
「私が津山へ行くと言うてから、ちょっと変よ」
亨は、玄関脇に置かれた洋子の傘を見た。
「久しぶりの遠出やから、気ぃつけてほしいだけや」
「一時間ほどでしょう」
洋子は笑って扉を開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
扉が閉じたあとも、亨はしばらく玄関に立っていた。
津山線に乗れば、洋子は一時間あまりで鶴山公園の近くへ着く。
自分が四十数年訪れていない場所を、今日は順子と洋子が歩く。
亨は洋子の靴があった場所を見た。
そこだけ、細長く埃が残っていた。
洋子が津山駅へ着いた頃、順子は鶴山公園の入口で待っていた。
桜は満開を過ぎ、多くの枝に若い葉が混じり始めている。それでも風が吹くたび、残っていた花びらが途切れずに落ちてきた。
石段の端や石垣の下には、淡い色が幾重にも積もっている。人に踏まれたところだけ、花びらが濃く沈んでいた。
「順子さん」
呼ばれて振り向くと、洋子が坂の下から歩いてきた。
「お待たせしました」
「まだ時間前です」
「駅から迷わんと来られました」
「それはよかったですね」
「少しくらい褒めてください」
「子どもじゃないんでしょう」
千穂へ何度も言った言葉だった。
順子は笑った。
「思うてたより、人がいますね」
「桜が散っても、日曜日ですから」
「上まで行けますか」
「私に聞くんですか」
「案内してくれる人が、先に疲れたら困ります」
「洋子さんこそ、途中で膝が痛いと言わないでくださいね」
「痛うなったら、言います」
「言うんですか」
「黙ってたら、置いていかれるでしょう」
二人は並んで入口を入った。
下りてくる人とすれ違いながら、ゆっくり石段を上がった。
洋子は何度か立ち止まり、石垣を見上げた。
「こんなに高う積んであるんですね」
「お城は残っていませんけど、石垣は残っています」
「うちの人が来たら、動かへんようになりそう」
「石垣が好きなんですか」
「絵を描くんです。岡山城でも、城より石垣を見てる時間の方が長うて」
順子の足が、わずかに遅くなった。
亨もそうだった。
若い頃、ここへ連れてきたとき、亨は石垣の前へ来るたびにスケッチブックを開いた。
「絵を描く人は、一緒に歩く人の時間を考えないんでしょうね」
順子が言った。
「ほんまに。私が先へ行っても、いつまでも同じところにいます」
洋子は笑った。
その横顔の向こうに、白いシャツを着た亨が見えた。
「私を見に来たんか、石垣を見に来たんか、どっちなん」
「石垣は逃げへんけど、順子は先に行ってしまうから」
若い順子は、石垣に勝ったと思って笑った。
「順子さん?」
洋子の声で、石垣に色が戻った。
「どうしました?」
「何でもありません」
「少し休みますか」
「まだ上り始めたばかりでしょう」
順子は先へ進んだ。
花びらの積もった一段へ足を置くと、靴底が滑った。
「危ない」
洋子が順子の肘をつかんだ。
「大丈夫です」
「花びらって、見た目より滑るんですね」
順子が足元を確かめるまで、洋子は手を離さなかった。
順子は石垣の下へ目を向けた。
「昔、花見に来た酔っ払いが、石垣から落ちたことがあるそうです」
「ここから?」
「どの石垣だったかまでは知りません。でも、下に桜の花びらがようけ積もっていて、それがクッションになったらしいんです」
「けがは?」
「大騒ぎした割には、軽いけがで済んだって」
洋子は石垣の下をのぞいた。
「そんなこと、ほんまにあるんですか」
「津山では、あることになっています」
洋子が笑った。
「花びらに助けられたんやね」
「本人は次の年も、同じところへ飲みに来たそうですけど」
「懲りへん人やね」
「助けた花びらも、がっかりしたでしょう」
二人は笑いながら、もう一度石垣の下を見た。
「でも」
洋子が言った。
「助かった人やったら、また来てもええんやないですか」
「同じところから落ちなければね」
「今度は気ぃつけて飲んだかもしれません」
「人は、そんなに簡単に変わりませんよ」
「そうかもしれません」
洋子は石段へ戻った。
「でも、次も同じやとは限らへんでしょう」
順子は石垣の下に積もった花びらを見た。
「花屋さんは、酔っ払いにも甘いのね」
「お客さんになるかもしれませんから」
「石垣から落ちる人が、花を買うかしら」
「次の年、花びらにお礼を言いに来たのかもしれません」
「お酒を持って?」
「花は飲めへんから、自分で飲んだんでしょう」
順子は笑った。
二人は石垣の見える場所で休んだ。
洋子が鞄から水筒と小さな菓子を取り出した。
「用意がいいですね」
「花屋では立ってる時間が長いから、休めるときに休むんです」
順子は水筒の蓋へ注がれた茶を受け取った。
少し離れた桜の下で、若い女性が携帯電話を耳に当てている。笑いながら話し、風が吹くと髪を耳へ掛け直した。
「いまは、どこにいても電話ができますね」
洋子も同じ女性を見た。
「昔は、電話するだけでも大変でした」
「順子さんのお家には、電話があったんですか」
「ありました。母が電話交換手をしていたんです」
「電話交換手?」
「ええ。だからなのか、人が電話をしていると、時間が気になって仕方なかったみたいで」
若い女性の笑い声が、風に乗って聞こえてきた。
「学生の頃、実家の電話でいつまでも話していたことがあったんです。そうしたら途中で、母の声が入ってきて」
順子は、母の声をまねた。
「あんたら、いつまで話しょんで」
洋子が吹き出した。
「聞いてはったんですか」
「全部ではないと思います。でも、何を聞かれたか分からないでしょう。向こうも急に黙ってしまって」
「その人、驚いたでしょうね」
「母に謝ってました。電話の向こうから」
「お母さんに?」
「私に謝っても仕方がないと思ったんでしょうね」
「それで切ったんですか」
「いいえ。母がいなくなるのを待って、また話し始めました」
「懲りへんかったんですね」
「若かったですから」
順子は声を出して笑った。
この記憶には、いつも亨がいた。
けれど、いま目に浮かんだのは、受話器の途中へ入ってきた母の顔だった。電話交換手に電話のことで言い返すなと、自分で言って笑っていた。
「その人は、ご主人になった方ですか」
洋子が尋ねた。
順子の笑みが止まった。
「いいえ」
風が吹き、二人の間へ花びらが一枚落ちた。
「そうはならなかった人です」
洋子は膝の上の菓子を包み直した。
「余計なことを聞きました」
「昔の話です」
順子は茶を一口飲んだ。
洋子は茶を足そうとはしなかった。
洋子さんのご主人とは、長いんですか」
順子が尋ねた。
「もう四十年近くになります」
「仲がいいんですね」
「どうやろ」
洋子は水筒の蓋を持ったまま笑った。
「仲が悪かったら、岡山まで一緒に来えへんかったと思います。でも、知らんことも、きっとようけあります」
「夫婦なのに?」
「夫婦やから、全部知ってると思う方が不思議でしょう」
順子は洋子を見た。
「知りたくありませんか」
「知って、どうするかによります」
「どういう意味ですか」
「知ったことで、何かしてあげられるんやったら知りたい。でも、ただ私が安心するためだけやったら、聞かん方がええこともあるでしょう」
洋子は茶を飲み、石垣の向こうに残った桜を見上げた。
「うちの人も、私に話してへんことがあると思います」
「そう思っていて、平気なんですか」
「平気やありません。でも、私にも話してへんことはありますから」
洋子は順子へ顔を向けた。
「順子さんにも、あるでしょう」
順子は水筒の蓋に残った茶を見た。
「あります」
「それで、ご主人と暮らした時間が嘘になるわけやないでしょう」
夫が亡くなる一週間ほど前、病室で古い店の話をしたことがあった。
順子が最初に仕入れた青いワンピースは、一着も売れなかった。夫は、あれは服が悪かったのではなく、店の照明が暗かったのだと言った。
順子は最後まで、服が悪かったのだと思っていた。
どちらが正しかったのか、確かめる前に夫は亡くなった。
「洋子さんは、ずいぶん都合よく考えるんですね」
「そうせんと、長いこと一緒には暮らせません」
「ご主人も、そう思っているかしら」
「さあ。あの人は、自分が我慢してると思うてるんやないですか」
「違うんですか」
「お互いにそう思うてるくらいが、ちょうどええんです」
洋子は水筒の蓋に残った茶を飲み干した。
二人は再び歩き始めた。
少し高い石段の前で、今度は洋子が足を止めた。
「ここ、上がれますか」
「上がれますよ」
順子は一段上へ上がり、洋子へ手を差し出した。
「大丈夫です」
そう言いながら、洋子はその手を取った。
若い頃、同じ場所で亨が順子へ手を差し出した。
「順子、そこ滑るで」
白いシャツの袖が、洋子の腕に重なった。
順子は、少し強く洋子の手を引いた。
「痛い」
「あ、ごめんなさい」
「置いていかれるかと思いました」
「引っ張ったんでしょう」
「人に引っ張られるの、久しぶりやから」
洋子は手を離し、指を一度握った。
「大丈夫?」
「そこまで年寄りやありません」
「さっき、膝が痛いと言ってたでしょう」
「言うてません。痛うなったら言うと言うただけです」
「同じことよ」
「違います」
二人は笑った。
白い袖は、もう見えなかった。
天守台へ上がると、津山の町が見渡せた。
屋根の間を道路が通り、その向こうに山の稜線が続いている。桜の間から、町の灰色や茶色がのぞいていた。
洋子はしばらく何も言わず、遠くの山と町並みを眺めていた。
「ここで育ったんですね」
「高校を卒業するまでです」
「帰ってきて、よかったですか」
順子は町を見下ろした。
「まだ、分かりません」
「半年でしょう」
「もう半年です」
「同じ半年やのにね」
洋子は手すりへ手を置いた。
「私は岡山へ来て二年ですけど、いまでも、よその町におると思う日があります」
「自分で選んで来たんでしょう」
「選んだことと、慣れることは別です」
「ご主人についてきたんですか」
「一緒に来たんです」
洋子はすぐに言った。
「ついてきたと言うたら、あの人が決めて、私が従うたみたいでしょう」
「違うんですか」
「決めたのは、たぶん私です」
「それなら、ご主人がついてきたのね」
「そう言うたら、あの人は怒るでしょうね」
「男の人は、決めたことだけ自分の手柄にしたがりますから」
「失敗したことは、妻が決めたことになります」
「便利ですね」
「夫婦ですから」
二人は町を見下ろしたまま笑った。
「帰ってきた人間も、似たようなものです」
順子が言った。
「ほな、私たちは反対から同じところへ来たんですね」
「同じかしら」
「同じやなかったら、それでもかまいません」
洋子は手すりから手を離した。
「そろそろ下りましょうか。上ったからには、下りんと帰れません」
「当たり前でしょう」
「上る前に、そこまで考えてへんかったから」
公園を下りるとき、順子は上ってきた道とは別の道を選んだ。
「さっきの道を戻るんやないんですか」
「こちらからも下りられます」
「遠回りでは?」
「少しだけ」
「私の膝を心配してくれてるんですか」
「同じ景色を二度見ても、仕方がないでしょう」
「上るときと下りるときでは、違う景色かもしれませんよ」
順子は返事をせず、先に歩いた。
洋子は空になった水筒を鞄へ入れ、その少し後ろを歩いた。
足元には花びらが積もっている。
順子はときどき振り返った。
洋子がついてきているか確かめるためだった。
それに気づくたび、昔と同じだと思った。だが、洋子は少し遅れながらも、必ずそこにいた。
入口へ戻る頃には、昼を過ぎていた。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「今度は、岡山を案内します」
「岡山城なら、娘に連れていかれそうになりました」
「ほな、後楽園か、旭川沿いを歩きましょ。京橋から空を飛んだ人の話もありますよ」
「空を?」
「鳥人幸吉という人です」
「鳥人?」
「詳しいことは、そのときに」
「花びらで助かった酔っ払いより、本当らしくないわね」
「こっちは、ほんまです」
「津山の話も、本当かもしれないでしょう」
「ほな、どちらも本当ということにしときましょ」
「ずいぶん簡単ね」
「知らん人の昔の話ですから」
二人は津山駅へ向かって歩いた。
順子は、今日のことを千穂には話さないだろうと思った。
隠すほどのことではない。
だからこそ、自分だけの一日にしておきたかった。
洋子が夕方の列車で岡山へ戻ると、亨は居間で絵を描いていた。
「ただいま」
「お帰り」
「上まで歩けました」
「膝は?」
「大丈夫。順子さんが途中で何度も休んでくれたから」
「そうか」
亨は鉛筆を置いた。
「どんな話、したん?」
「いろいろ」
「いろいろって?」
洋子は帽子を取り、椅子の背へ掛けた。
「花びらに助けられた酔っ払いの話と、電話交換手やったお母さんの話。それから、津山へ帰ってきたこと」
「電話の話?」
「学生の頃、長電話してたら、お母さんが途中へ入ってきたんですって」
洋子は笑った。
「あんたら、いつまで話しょんで、って」
亨の手から、鉛筆が落ちた。
床に当たり、小さな音を立てた。
「どうしたの?」
「手ぇ滑った」
亨は鉛筆を拾った。
「その相手は、ご主人やなかったそうよ」
洋子は何気なく続けた。
「そうはならへんかった人やって」
亨は鉛筆についた埃を指で払った。
「そうか」
「昔の人の話を聞くのは、不思議ね。名前も知らへんのに、ちょっとだけその人を知ったような気になる」
洋子は台所へ向かった。
「お茶、入れましょうか」
「いや、ええ」
「いらんの?」
「ああ」
「朝から、返事が短いね」
「そうか」
「また短い」
洋子は台所へ入り、自分の分だけ湯を沸かし始めた。
亨は描きかけの岡山城へ目を戻した。
順子は、あの夜を覚えていた。
母親に話を聞かれ、二人で声を抑えて笑った夜を。
洋子は何も知らないまま、その話を持って帰ってきた。
亨は鉛筆を紙へ置いた。
一本線を引くと、城の屋根が少し曲がった。
消しゴムを手に取ったが、すぐには消さなかった。









