この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 風を聴く 』
終章 風のゆくえ
奥の部屋から、カタカタ、カタカタと、俊子の踏む足踏みミシンの音が聞こえてくる。規則的で、どこか祈りにも似たそのリズムに合わせて、縁側の陽だまりがわずかに揺れていた。
座卓の上には、知人の手を通して小さなギャラリーの片隅に置かれた、素朴な案内ハガキがひっそりと置かれている。それは世界を変えるような大きな成功ではない。けれど、この家で再びそれぞれの時間が動き始めたという、静かな証だった。
「沙耶香、ちょっとそのまま動かないで」
父・陽一の穏やかな声に、沙耶香の体がほんの一瞬だけ強張った。
レンズ。黒く丸い、ガラスの塊。 かつてその暗闇の奥に潜んでいた歪んだ悪意と、身を裂くようなフラッシュの閃光が脳裏をかすめ、彼女の指先が微かに冷たくなる。無理につくらされた笑顔と、奪われかけた尊厳の痛みが、記憶の底で小さく蠢(うごめ)いていた。
けれど、今のこの場所には、俊子の踏むミシンの音があった。半世紀以上、この家で生活を縫い続けてきた、命を繋ぐ確かな響きだ。
畳の隙間を滑り込んできた春の風がサッシの木枠を揺らし、庭の芽吹き始めた柿の木の匂いを部屋いっぱいに運んでくる。
沙耶香は、深く、深く息を吸い込んだ。
手元にあるのは、あの時、俊子が持たせてくれた小さな赤い端切れ。何度も指先でなぞり、体温が染み込んだその布地をぎゅっと握りしめると、固く解けなかった胸の奥の結び目が、すーっと解けていく感覚があった。
「……うん。いいよ」
沙耶香は静かに顔を上げた。
他人の要求に応えるための営業用の笑顔でも、怯えを隠すための仮面でもない。この家で傷を抱え、ミシンの音を聴き、温かいお茶を飲んで生きてきた、ただの「私」の顔で、彼女はカメラの向こう側を見つめ返した。
陽一のファインダーの奥にあるのは、嘲笑でも欲望でもない。ただ娘を愛し、見守り続けてきた父親の温かな眼差しだけだった。
「カシャ」
乾いた、小さなシャッター音が静かな茶の間に響いた。
ストロボの光はない。そこにあったのは、庭から差し込む春の自然光と、一枚の写真に収められた、沙耶香の穏やかな微笑みだった。
「……すごく、良い顔をしてるよ」
ファインダーから目を離した陽一が、嬉しそうに目を細めた。 沙耶香は照れくさそうに息を吐き、手の中の赤い端切れを包むように胸に当てた。今日、彼女は自分の表情を、自分の人生を、確かに自分の手に取り戻したのだ。
その光景を静かに見届けた俊子は、深く目を細めると、そっとコタツの脇へ視線を戻した。
そこには、すっかり包帯の取れた大きな茶トラの猫が、日だまりの中でまどろんでいる。
俊子は膝の痛みを堪えながら、ゆっくりと畳に手をつき、猫のそばへと身を寄せた。干し柿のようにカサカサに乾いた手で、そっと背中を撫でる。
猫はうっすらと金色の目を開け、俊子の手に「ゴロゴロ……」と喉を鳴らして鼻先を押し当ててきた。
あの中年男のような太い声は、もう頭の中には聞こえてこない。会話としての不思議な奇跡は、とうに過ぎ去っていた。けれど、この手のひらに伝わる温もりと、規則的な足音のような鼓動が、何より確かな返事だった。
みんな、それぞれの傷を抱えながら、この家で生きている。
俊子は畳の上に置かれた足踏みミシンの鉄の滑車に、愛おしそうに指先を滑らせた。
「……さてと」
俊子が低く呟き、重いペダルにゆっくりと足を載せると、「ギシ……」と懐かしい金属音が響いた。
サッシの隙間から滑り込んできた春の風が、庭の柿の木の枝を揺らし、俊子の白髪を優しく撫でて通り抜けていく。
カタカタカタ……と再び響き始めたミシンの音と、膝の上の猫の温もりに包まれながら、俊子は穏やかに目を閉じ、静かな風の音に耳を澄ませていた。
(了)
