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『 風を聴く 』
第六章 泥の中の線引きと、静寂の訪れ
大阪からの帰還から一ヶ月が過ぎ、季節は本格的な冬を迎えていた。
熱田の家での生活は、表向きは以前と同じ穏やかさを取り戻したように見えた。しかし、家をめぐる問題は根本的な解決を見たわけではなく、未だくすぶり続けていた。
十二月の半ば、冷たい雨が一日中降り続く午後。
再び玄関の引き戸が開いた。今度は京子一人ではなく、雄一と、そして不動産屋のスーツを着た中年男性が同行していた。
「お義母さん、わざわざ雨の中ごめんなさいね。でもね、田中さんが親切にわざわざ現地を見に来てくれたのよ」
京子はどこか得意気な様子で上がり込んできた。不動産屋の男は、古い天井や湿った柱を値踏みするような目で見回している。
「お義母さん、これ以上引き延ばしても良いことはありませんよ。雄一だって体調を崩しかけているんです。家を売って、みんなで少しずつ分ければ、全員が楽になれるんですから」
京子の言葉には、追い詰められた人間特有の執念のような重みがあった。
畳の上に座っていた俊子は、静かに目を閉じていた。膝の痛みは冬の寒さで増し、両手は寒さに震えている。
「叔母さん、勝手に人を連れてこないでください!」
駆け下りてきた沙耶香が、強い声で言い放った。
「またあなたね……! 沙耶香ちゃん、大人たちの真剣な話を邪魔しないでちょうだい!」
「邪魔なんてしてない! 私はこの家を残したいの! ここは……おばあちゃんの思い出だけじゃなくて、私たちがもう一度やり直すための場所なんだから!」
「そんなキレイ事で家計が助かるわけないでしょうが!」
京子が叫んだその時、茶の間のサッシの窓から、悲痛な鳴き声が響き渡った。
「ニャァァァン……!」
いつもとは違う、低く引き裂くような声だった。
沙耶香と俊子がハッと振り返ると、雨に濡れた縁側に、あの茶トラの猫が横たわっていた。
右の後ろ脚が不自然に曲がり、泥と血で汚れている。どこかで車にはねられたか、他の強い野良猫と争って酷い怪我を負ったようだった。寒さと痛みで全身を激しく震わせている。
「猫ちゃん……!?」
沙耶香が悲鳴を上げて駆け寄った。
「な、何よ気味の悪い……! 野良猫なんてほっときなさいよ!」京子が不快そうに顔を歪めた。
だが、俊子はゆっくりと、しかし確かな足取りで立ち上がった。膝の痛みを忘れたかのようにすり足で近づき、泥だらけの猫を自分の膝の上へ抱き上げた。
ハッカの匂いが漂う俊子の湿布の上に、猫の冷たい泥と血が滲んでいく。
「沙耶香、タオルと温かい湯たんぽを……!」
「うん!」
沙耶香は走ってタオルを取りに向かった。
不動産屋の男が気まずそうに咳払いをした。
「……あの、奥さん。家のご相談は、また後日ということに……」
「そうね……ちょっと、今日は散々だわ!」
京子は吐き捨てるように言い、雄一の手を引っ張って雨の中へと去っていった。
静まり返った茶の間で、沙耶香と俊子は猫の泥を丁寧に拭き取り、毛布で包み込んだ。やがて帰宅した陽一の車で近くの動物病院へ運び、処置を受けた。
幸いにも骨折は軽度で、命に別状はなかった。
数日後。怪我をした猫は、茶の間のコタツの脇に置かれた段ボール箱の中で、穏やかに眠っていた。後ろ脚には白い包帯が巻かれている。
俊子がそっと撫でると、猫はうっすらと目を開けた。
しかし——
あの中年男のような声は、もう俊子の頭の中に響いてはこなかった。
猫はただ、「ゴロゴロ……」と喉を鳴らし、俊子の手に自分の鼻先を押し当ててくるだけだった。
言葉としての奇跡は終わったのだ。
けれど、俊子の心には寂しさはなかった。言葉がなくても、この温もりと命の重みが通じ合っていることを、俊子も、沙耶香も、深く理解していたからだ。
