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『 二つの流れのあいだ 』
最終章 川のほとりで
それから一年ほどが過ぎた秋、友哉と葵は金沢へ行った。
金沢駅を出ると、葵は空を見上げた。
「京都より、雲が近いな」
「俺も最初、そう思った」
二人は旅館まで歩いた。
友哉は建物の説明をしようとして、途中でやめた。葵は軒や格子より、店先で話す人や、自転車で通り過ぎる学生を見ていた。
「まだ着いたばっかりやん」
学生のころ、友哉が何かを尋ねると、葵はすぐに答えを出そうとした。いまは、答えを急がない葵の言葉を、そのまま受け取れる。
水棲では、静枝が帳場に戻っていた。以前より少し痩せていたが、声は変わらなかった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
言ったあとで、友哉は自分でも驚いた。旅館へ戻ってきただけなのに、帰宅したときの言葉が自然に出た。
友哉は葵を紹介した。声に出してみると、その言葉まで自分のものになった気がした。
茜も奥から姿を見せる。出版社へ復職し、今は旅館の案内冊子を作っているという。
葵と茜は頭を下げた。
打ち合わせを終えた夕方、二人は浅野川の橋に立った。
学生のころ、友哉が一人で来たときには、この川が自分の生活とは別の場所にあるように感じた。
今は、葵の肩がすぐ隣にある。
水棲には人が暮らし、町には店があり、橋の向こうには学校へ向かう学生がいた。川は、その全部の間を流れていた。
京都へ帰れば鴨川がある。金沢には浅野川がある。
どちらがいいか、という話ではないらしい。
友哉はそう思ったが、口には出さなかった。
葵の隣に立っていると、昔なら話したくなったことが、いくつかそのまま残った。言わないことが我慢ではなくなると、人は少し楽になるらしい。
しばらく二人で川を見た。
秋の水は穏やかだった。家々に灯りがつき、向こう岸の窓にも人影が動いている。誰かが夕飯を食べ、誰かが風呂を沸かし、誰かが明日の弁当のことを考えている。そういうことまで、川の向こうにはある。
「鴨川より小さいやろ」
「小さいというより、近い」
葵は欄干に手を置いた。
「友哉が、京都に住んでるだけやったって気づいた川は、これ?」
「茜さんから聞いたん?」
「聞いた」
葵は笑った。
「人の話、前より聞くようになったんやね」
友哉は返事をしなかった。
褒められたのか、からかわれたのか、よく分からなかった。昔なら、どちらかを決めようとしただろう。今は、そのままにしておけた。
「鴨川と浅野川、どっちが好き?」
「難しいな」
「昔なら、どっちでもええって言うたやろ」
「そうやったな」
友哉は川を見た。
「葵と歩いた時間が長いから、鴨川かな」
そこで一度、言葉を切った。
「でも、浅野川も好きや」
「欲張り」
「二つとも川やから」
葵は笑った。
友哉は、その笑いを見ながら、これでよかったと思った。何がよかったのかは、まだ分からない。
葵は川を見たまま、友哉の手に自分の手を重ねた。
「長町。見せたい建物がある」
「私、近江町も行きたい」
「ほな、午前に長町。昼から近江町」
「うん」
それだけ決めると、葵は先に歩き出した。
友哉も歩いた。
旅館へ戻る道で、葵は明日の朝は少しゆっくりしたいと言った。友哉は、それなら朝食の時間をずらしてもらおうと言った。
「旅館の人に迷惑ちゃう?」
「聞いてみる」
「前なら、勝手に決めへんかった?」
「聞いてから決める」
「それ、ちょっとだけ進歩やね」
葵が笑う。
友哉は、褒められたことにしておいた。
友哉も笑った。
旅館の灯りが近づいてくる。
その灯りの向こうに、静枝がいて、茜がいて、和夫がいて、知らない客が何人かいる。明日の朝になれば、また布団を上げ、味噌汁をよそい、誰かが忘れ物をして、誰かが急いで駅へ向かう。
川は、その横を何も言わずに流れている。
友哉は、ふと鴨川のことを思った。
帰れば、またあの川を見るだろう。
浅野川を知ったからといって、鴨川が変わるわけではない。帰れば、いつもの橋があり、いつもの人が河原を歩いている。
それでも次に鴨川を見たとき、向こう岸の家の窓まで少し見える気がする。見えないものが見えるようになったわけではない。ただ、見る時間が少し長くなった。
二人は橋を渡った。
旅館の戸を開けると、奥から茜の声がした。
「お帰りなさい」
葵が先に頭を下げた。
「ただいま」
友哉も言った。
今度は、驚かなかった。
外では浅野川が流れている。
今時分、京都でも鴨川が流れている。
友哉は二つの流れの間に立っているように感じた。
