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『 花びらの積もる道 』        

 

第二章 花を選ぶ人

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、細い雨が降っていた。

 

 枕元の時計は六時四十分だった。まだ眠れる時間だったが、目を閉じると、昨夜しまい直した段ボール箱の角が浮かんだ。

 

 澤口亨。

 

 名前は顔より始末が悪い。顔なら年月とともに変わるが、名前は二十二歳のままである。

 

 順子は起きてカーテンを開けた。雨に濡れた向かいの屋根で、雀が一羽、身体を丸くしている。

 

 亨が岡山に住んでいると知ったところで、何が変わるわけでもない。

 

 会うつもりはなかった。

 

 会わなければ、何も起きない。

 

 朝食を終え、昨日の新聞を畳んだ。折り目のそばに、指でつけたしわが残っている。手のひらで伸ばしたが、かえって紙が柔らかくなっただけだった。

 

 十時を過ぎた頃、携帯電話を取った。

 

 千穂へかけると、留守番電話に切り替わった。

 

「昨日は、急に切ってごめんなさい。日曜日の展示には行かないけど、来週、岡山へ行きます。都合のいい日を知らせてください」

 

 言い終えてから、〈亨に会うためではありません〉と付け加えそうになった。

 

 順子は電話を切った。

 

 娘と昼食を食べる。店を閉めてから買わなくなった服を見る。岡山へ行く理由なら、二つもあれば十分だった。

 

 昼を過ぎて、千穂から返事が来た。

 

〈水曜日なら、午後から時間を取れます。岡山駅で待ち合わせよう〉

 

 順子は、

 

〈一人で行けます。市役所の近くで待っています〉

 

と返した。

 

〈迎えに行くとは言ってないけど〉

 

 すぐに届いた文字を見て、順子は笑った。

 

 笑ったあと、少し腹が立った。

 

 水曜日、津山駅から列車に乗った。

 

 桜は数日の雨でずいぶん散っている。窓の外を山や田畑が流れていく。枝の先に残る桜は、遠くから見ると、洗って何度も使った薄桃色の布のようだった。

 

 岡山駅へ着いたのは十一時前である。

 

 千穂との約束は一時だった。順子は路面電車に乗り、表町商店街へ向かった。

 

 商店街へ入ると、店先を見る目だけが先に働いた。

 

 春物のブラウス、薄手のジャケット、淡い色のスカーフ。東京にいた頃なら、どれを入口へ出せば人が立ち止まるか、考えながら歩いた。

 

 値札が刺繍を隠している店があった。隣の店では、よく似た色の服を集めすぎて、どれも売れ残りに見える。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 もう自分の店ではない。そう思うと、どの店も気になった。

 

 商店街の中ほどで、小さな花屋が目に入った。

 

 店先に白と黄色の花が並び、その奥に、淡い紫の花を入れた細長い器がある。紫の色はきれいなのに、中央の黄色い花が大きすぎて、ほとんど見えない。

 

 順子は通り過ぎた。

 

 五歩ほど進み、振り返った。

 

 横から見ても、やはり黄色が勝っている。

 

「何か、お探しですか」

 

 店の中から女性が出てきた。

 

 六十代前半くらいだろうか。紺色のエプロンを着け、片手に花鋏を持っている。髪に少し白いものが混じっていたが、染めて隠そうとはしていなかった。

 

「いいえ。見ていただけです」

 

「そうですか」

 

 女性は店へ戻りかけた。

 

 順子はもう一度、紫の花を見た。

 

「この紫、きれいですね」

 

「リューココリーネです。少し香りもありますよ」

 

 女性は一本を抜き、順子へ差し出した。

 

 顔を近づけると、甘い香りの奥に、青い葉を折ったような匂いがした。

 

「もう少し前に置けば、外からも見えるのに」

 

 言ってから、順子は口を閉じた。

 

 女性は店先を振り返った。

 

「黄色が邪魔ですか」

 

「邪魔というほどではありませんけど」

 

「邪魔なんですね」

 

「少しだけ」

 

 女性は笑い、黄色い花の器を持ち上げた。

 

「どこへ置きましょう」

 

「私が決めるんですか」

 

「言い出した人に決めてもらいましょ」

 

 順子は店先へ出た。

 

「もう少し右へ」

 

「ここ?」

 

「あと、鋏一本分くらい」

 

 女性が、手にしていた鋏を見た。

 

「服を扱うてはった方ですか」

 

「どうして分かったんですか」

 

「花屋やったら、花一本分と言いますから」

 

「東京で、ブティックをしていました」

 

「いまは?」

 

「半年前に閉めて、津山へ戻りました」

 

「津山から?」

 

「娘が岡山にいるんです」

 

 器を横へ動かすと、奥の紫が見えた。白い花との間に少し空きができ、先ほどまで大きく見えた黄色も、かえって形がよくなった。

 

 女性は通りまで出て、順子の隣に立った。

 

「ほんま。こっちの方がええですね」

 

「黄色が悪いわけではないんです。場所が違っただけで」

 

「花は文句を言いませんからね。違う場所に置かれても、そこで咲いてます」

 

「服も同じですよ。似合わない人に買われても、返品には来ませんから」

 

「服は帰ってくることがあるでしょう」

 

「着た人が、もっと恐ろしい顔で来ます」

 

 女性が声を立てて笑った。

 

 笑い方の大きい人だった。店の奥にいた若い店員が、何事かという顔でこちらを見た。

 

 女性は店へ戻り、鋏を台へ置いた。

 

「何か一つ、持って帰りませんか。せっかく津山から来はったんやから」

 

「今日は花を買うつもりではなかったので」

 

「知ってます。やから、一本だけ」

 

 女性は紫の花を細い紙で包んだ。

 

「いただけません」

 

「ほな、店先を直してもろたお礼です」

 

「少し動かしただけでしょう」

 

「その少しが、自分では見えへんかったんです」

 

 順子は包みを受け取った。

 

 店の奥から、若い店員が呼んだ。

 

「ヨーコさん、こちらをお願いできますか」

 

「はーい、今行きます」

 

 順子は、紺色のエプロンに〈YOKO〉と書かれた名札を見た。

 

「ヨーコさん、ですか」

 

 洋子は一瞬驚いたが、順子が名札を見ていることに気づき、笑顔で応えた。

 

「ええ。またいらしてくださいね」

 

「今度は黙って見ます」

 

「言うてください。直すかどうかは、こっちで決めますから」

 

「直さないこともあるんですね」

 

「もちろん」

 

 洋子は笑った。

 

 順子は花を持って店を出た。

 

 商店街を歩きながら、何度か包みを見る。白い紙から紫の花が一本のぞいている。

 

 買ったものなら、値段の分だけ自分のものになる。もらったものは、いつまでたっても、くれた人の顔がついてくる。

 

 千穂と待ち合わせた店へ着くと、娘はすでに席に座っていた。

 

「花なんて買ったの?」

 

「もらったの」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

「どうして?」

 

「店先の花の置き方に口を出したから」

 

 千穂は水の入ったグラスを持ったまま、母を見た。

 

「初めて入った店で?」

 

「初めてだから言えたのよ」

 

「よう分からんわ」

 

「知っている店なら、あとで行きにくくなるでしょう」

 

「やっぱり、悪いことを言った自覚はあるんだ」

 

「悪いことではないわ。少し余計だっただけ」

 

「それを悪いことと言うんじゃない?」

 

 順子は花の包みを隣の椅子へ置いた。

 

 料理が運ばれてくると、二人は千穂の仕事や津山での暮らしについて話した。

 

 順子は亨の名を出さなかった。

 

 千穂も出さなかった。

 

 口にしない名前は、テーブルの上にある塩入れのようだった。使わなくても、二人ともそこにあることを知っている。

 

「展示の準備はできたの?」

 

 順子が尋ねた。

 

「だいたい。あとは紹介文を整えて、絵を掛ける位置を決めるくらい」

 

「澤口さんの絵は、もう届いているの?」

 

 千穂が箸を止めた。

 

「昨日、預かったよ」

 

「そう」

 

「見る?」

 

「見ない」

 

「それなら、どうして聞いたの」

 

「仕事が進んでいるのかと思っただけ」

 

「ほかの人の展示品は聞かないのに?」

 

「いちいち聞いていたら、料理が冷めるでしょう」

 

 順子は魚を一口大に切った。

 

 千穂も箸を動かした。

 

「お母さん、ずるいね」

 

「魚の取り方が?」

 

「そういうところ」

 

「焼き魚に、ずるい食べ方なんてあるの?」

 

 千穂は返事をしなかった。

 

 昼食を終えると、順子は西川沿いを歩いてから津山へ戻ると言った。

 

「市役所まで来たのに?」

 

「あなたは仕事があるでしょう」

 

「午後は時間を取ったと言ったでしょう」

 

「四十二歳の娘に、一日中ついて歩いてもらわなくても大丈夫よ」

 

「お母さんが来ると言ったから空けたんよ」

 

「では、西川まで一緒に歩く?」

 

「そこまでついてきてほしいのは、お母さんでしょう」

 

「嫌なら、来なくていいのよ」

 

「行くよ」

 

 千穂はため息をついて席を立った。

 

 西川緑道公園の木々には、若い葉が出始めていた。水のそばを歩くと、車の音が少し遠くなる。

 

 順子は紫の花を持ったまま、ゆっくり歩いた。

 

「津山へ戻って、どう?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「どうって?」

 

「暮らしやすい?」

 

「東京より静かね」

 

「そういうことじゃなくて」

 

「質問が悪いのよ」

 

「一人で寂しくない?」

 

 順子は前を向いたまま歩いた。

 

「あなたが結婚しないことを聞くと怒るのに、私が一人なのは心配するのね」

 

「同じじゃないでしょう」

 

「何が違うの?」

 

「お母さんは、お父さんがいたから」

 

「いた人がいなくなれば、二人分、静かになるとでも思ってるの?」

 

 千穂が黙った。

 

 順子は少し強く言いすぎたと思った。思ったが、言葉は戻ってこなかった。

 

「ごめん」

 

 千穂が言った。

 

「どうして、あなたが謝るの」

 

「聞いたから」

 

「聞かれなければ、寂しくないわけでもないでしょう」

 

 西川の水に、揺れた木の影が映っている。細い流れの上で、葉の形が伸びたり縮んだりした。

 

「でも、お母さん、東京から戻って半年なのに、まだ何も始めてないでしょう」

 

 順子は千穂を見た。

 

「何か始めないと、暮らしていることにならないの?」

 

「そういう意味じゃないけど」

 

「朝起きて、ご飯を食べて、洗濯をしているわ」

 

「それは暮らしてるというより、汚さんようにしてるだけでしょう」

 

「ずいぶん失礼ね」

 

「だって、段ボール箱もまだ開けてないでしょう」

 

「誰から聞いたの?」

 

「前に行ったとき、見たから」

 

「あれは箪笥代わりよ」

 

「上に雑誌が置いてあった」

 

「立派に家具として使ってるでしょう」

 

 千穂が笑った。

 

 順子も、少し遅れて笑った。

 

 手にした紫の花が、歩くたびに白い紙の中で揺れる。

 

「今日、初めて会った人に、津山へ戻ったことを話したわ」

 

「花屋の人?」

 

「ええ」

 

「私には何も話さないのに」

 

「あなたは聞きすぎるから」

 

「知らない人の方が話しやすいこともあるんだね」

 

 千穂の声に、細い棘があった。

 

「知らない人は、明日になれば忘れてくれるもの」

 

「忘れんかもしれんよ」

 

「それなら、困るわね」

 

「また会いたい?」

 

「誰に?」

 

「花屋の人」

 

 順子は包みからのぞく花を見た。

 

「花をもらったから、一度くらいは買いに行かないと悪いでしょう」

 

「それを、また会いたいと言うんじゃない?」

 

「あなたは、何でも大げさにするのね」

 

 千穂はそれ以上言わなかった。

 

 帰りの列車で、順子は紫の花を膝に置いた。

 

 窓の外が夕方の色へ変わっていく。津山へ着く頃には、細い茎が少し曲がっていた。

 

 家に帰ると、小さなガラス瓶へ水を入れ、窓辺に置いた。

 

 一本だけでは寂しく見えた。

 

 けれど、何本か足せば、洋子が選んだ紫がほかの色に紛れてしまう。

 

 順子は一本のままにした。

 

 少し離れると、何もなかった窓辺に、小さな色が残った。

 

 同じ頃、岡山の家では、洋子が夕食の支度をしていた。

 

「今日ね、津山から来はった人に、店先の花を直されたんよ」

 

 鍋の火を弱めながら言った。

 

 亨は食卓で新聞を読んでいた。

 

「腹、立たへんかったんか」

 

「いいえ。面白かったから、動かしてみたの」

 

「何が面白かったんや」

 

「あと鋏一本分、右へって」

 

「鋏?」

 

「花屋やったら、花一本分と言うでしょう。東京でブティックをしてはった人なの」

 

 亨の指が、新聞の端で止まった。

 

「いまは?」

 

「半年前に店を閉めて、津山へ戻ったんですって」

 

「名前は?」

 

「聞かへんかった」

 

 洋子は鍋を見たまま答えた。

 

「そうか」

 

「どんな人やった?」

 

「人の店の花を勝手に直す人」

 

「勝手に直したんか」

 

「私が直させたの」

 

 洋子は味見をし、塩をひとつまみ入れた。

 

「今度、岡山へ来はったら、また寄ってくれるかもしれへん」

 

「そうか」

 

「服と花の飾り方は、似てるところがあるのね。話してたら、面白そうな人やった」

 

 亨は新聞へ目を戻した。

 

 東京でブティックをしていた。半年前に津山へ戻った。

 

 それだけなら、同じような人がほかにいてもおかしくはない。

 

 それでも亨には、順子以外の顔が浮かばなかった。

 

「花もあげたのよ」

 

「何の花を?」

 

「リューココリーネ。紫の」

 

「そうか」

 

「知ってるの?」

 

「いや」

 

「さっきから、知ってる人みたいに返事するから」

 

 亨は紙面をめくった。まだ読んでいない面を通り過ぎ、先ほどまで見ていた面がもう一度出た。

 

「ちょっと考えごとしてたんや」

 

「絵のこと?」

 

「そうや」

 

 洋子は鍋の蓋を少しずらした。湯気が細く上がる。

 

「今日の城は、どんな黒やった?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「見てへんかったのね」

 

「見てたよ」

 

「見ても、覚えてへん日もあります」

 

 洋子はそれ以上聞かず、食器を並べ始めた。

 

 亨は新聞を畳んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

 名前を呼んだものの、その先が出てこなかった。

 

「箸、これでええのか」

 

「何年、一緒に暮らしてるんですか」

 

 洋子は亨の前から客用の箸を取り、いつもの箸と入れ替えた。

 

「今日は、そっちでもよかったんですけどね」

 

「どうして?」

 

「少しくらい、よその人みたいで」

 

 洋子は笑って台所へ戻った。

 

 食卓には二人分の箸が並び、窓辺には昨日持ち帰った淡い黄色の花が咲いている。

 

 その花を少し横へ動かせば、何か別のものが見えるのかもしれなかった。

 

 亨は手を伸ばさなかった。