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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十二章 名前の残された頁

 

 自分の名前が、八十年以上前の長崎で書かれた手帳の頁に残っている。その事実を、孝はすぐには理解できなかった。

 

 写真の見間違いではない。送られてきた画像を拡大しても、そこには確かに「中谷孝」と読める文字がある。しかも、単に名前が記されているだけではない。

 

 黒い手帳の最初の頁には、いくつもの名前が縦に並び、その最後に自分の名前が加えられているように見える。

 

 問題は、その文字がいつ書かれたものなのかだった。

 

 紙の色や筆跡からすれば、すべてが同じ時代に書かれたものとは思えない。古びた茶色の頁に並ぶ名前の一部は、墨が薄くなり、ところどころ読めなくなっている。

 

 それに対して「中谷孝」の四文字だけは比較的新しく、黒々としている。

 

 つまり、誰かが後から書き加えた可能性がある。そう考えれば、わずかに息ができる。八十年前の人間が、現在の自分の名前を知っていたはずはない。それでも、なぜ自分なのかという疑問は消えない。

 

 孝は、写真を保存しているフォルダを開いた。これまで送られてきた画像を時系列に並べていく。祖母の写真、灯籠、石垣、地下室、十二番、そして今届いた四番の内部。どの写真も、撮影者が誰なのかはわからない。

 

 ただ、一つだけ共通していることがある。写真を受け取るたびに、四人は次の場所へ進んでいる。

 

 まるで、誰かが四人をここまで連れてきたように。涼子が画面を覗き込みながら、静かに考えを口にした。

 

 もし名前を書いたのが昔の人間ではなく、最近になって誰かが手帳を見つけて書き加えたのなら、四人が長崎へ来ることを知っていた人物がいることになる。それなら、なぜ孝なのか。

 

 四人の中で、孝だけを選んだ理由があるはずだった。孝自身には、長崎に特別な縁はない。父も母も京都で暮らしている。

 

 祖父母の代までさかのぼっても、長崎に住んでいたという話は聞いたことがなかった。そのとき、沙羅がふと顔を上げた。写真の端に写っている古い紙を指で示す。そこには、手帳の名前とは別に、もう一つの文字列がある。

 

 「中谷」という姓の横に、何か数字が書かれている。

 

 17。

 

 その下に、細い線でつながれた「京都」という文字があった。

 

 孝は息を止めた。京都。

 

 自分たちが京都の大学生であることを、写真を送っている人物が知っている。それだけなら、大学の情報や旅行の予定を調べればわかる。

 

 しかし、手帳に書かれた「京都」が、自分の名前と結びついている。

 

 偶然とは考えにくい。

 

 浩一が写真を自分のスマートフォンへ転送し、画像の細部を調べ始めた。明るさやコントラストを変えていくと、手帳の頁の下部から別の文字が浮かび上がった。そこには、古い住所らしきものが記されている。京都市内。

 

 そして、その住所の後ろに「中谷」の文字がある。

 

 孝は、自分の家の住所を思い出した。しかし、町名だけを見ると、現在の自宅からそれほど離れていない。偶然なのか。それとも、家そのものではなく、先祖の住所なのか。

 

 ここまで来ると、孝自身も自分の家族について、これまで知らされていなかった何かがあるのではないかと思い始めた。父親に電話する。時間は遅かったが、父はすぐに出た。

 

 孝は長崎で起きていることをすべて話すことはしなかった。ただ、祖父の代以前に長崎と関係のある人物がいなかったか、それだけを尋ねた。電話の向こうで、父はすぐには答えなかった。その沈黙が、孝には気になった。

 

 やがて父が、祖父から一度だけ聞いた話を思い出した。中谷家は、もともと京都の家ではない。

 

 祖父が若い頃に京都へ移り住んだ。それ以前のことについては、父も詳しく聞かされていない。

 

 ただ、祖父の父親が戦後に一時期長崎へいたという話を、子供の頃に聞いたことがあるという。孝は、思わず椅子から立ち上がった。それなら話がつながる。自分の家系にも長崎との接点があった。しかし、父は続けた。

 

 祖父は、その話をするとき、決まって「八月の長崎には近づくな」と言っていた。

 

 理由を尋ねても答えなかった。

 

 そして、その言葉を最後に聞いたのは、祖父が亡くなる少し前だったという。孝は、電話を切ったあともしばらく動けなかった。八月。長崎。自分の家系。そして、四番の手帳に残された自分の名前。

 

 ここまで重なれば、自分が今回の出来事に巻き込まれた理由は、旅行先で偶然写真を撮ったからではないのかもしれない。最初から、自分たちが選ばれていた可能性がある。

 

*

 

 四番の地下では、まだ誰かが動いている。道路の向こうから見える地下入口には、わずかな明かりが残っていた。四人は近づかなかった。先ほどまで見えていた二人の人物も、今は姿を見せない。

 

 ただ、地下の奥から何かを引きずるような音が時折聞こえてくる。その音が途切れるたびに、四人は顔を見合わせた。

 

 そして、突然、地下入口の奥で強い光が走った。続いて、何かが倒れる音がした。誰かが怪我をしたのかもしれない。それでも、四人は動けなかった。

 

 これまでの出来事を考えれば、ここで不用意に近づくことがどれほど危険なのかはわかっている。ところが、その直後、地下から一人の男が出てきた。先ほど木箱を持っていた人物だった。しかし、木箱はもう持っていない。

 

 男は周囲を見回し、道路の反対側にいる四人に気づいた。数秒間、視線が重なる。男は逃げなかった。

 

 むしろ、こちらへ歩いてきた。孝は身構えた。けれど、男が近づくにつれて、その顔に見覚えがあることに気づいた。長崎駅を出た初日。祖母の家へ向かう途中。そして、十二番へ向かったとき。何度も遠くから見ていた人物だった。

 

 男は四人の前で立ち止まった。年齢は五十代半ばくらいに見える。

 

 服装は普通で、旅行者といっても不自然ではない。ところが、その手に一枚の写真を持っている。それは、祖母の若い頃の写真だった。男は写真を孝に渡した。写真の裏には、見慣れない文字が書かれている。

 

「この少年を探しているのは、私ではない。」

 

 男は、それ以上何も言わなかった。ただ、四人を見ながら、地下室の奥を指した。そして、そこに残されたもう一人の人物について、初めて口を開いた。自分が追っていたのは、あの人物だったという。

 

 四人がその男を見ると、地下入口の奥から別の人影が現れた。その人物は、先ほどまで木箱を持っていた男とは違っていた。

 

 ただ、その右手に古い鍵が握られている。

 

 鍵には「4」と刻まれている。

 

 その人物は階段を上がり、四人を見ると、ゆっくりと帽子を取った。孝は、その顔を見て言葉を失った。見覚えがあった。しかし、長崎で会った人物ではない。京都にいる人物だった。大学で顔を合わせたこともある。

 

 ただ、親しい関係ではない。それでも、その人物がなぜここにいるのかは、孝には理解できなかった。

 

 男は、手にした鍵を見せながら、四人に向かって言った。

 

 「四番は、もう開いている。あとは、中を見るだけだ」

 

 その声を聞いた瞬間、孝はぞっとした。この人物は、四人が長崎へ来ることを知っていた。そして、孝が手帳の頁を見ることも知っていた。では、誰がこの人物に情報を渡しているのか。

 

 その答えを考えるより先に、地下から先ほどの男が飛び出してきた。手には黒い手帳がある。しかし、顔には明らかな動揺が浮かんでいた。

 

 手帳を開く。最初の頁を見せる。そこには、確かに孝の名前がある。だが、その下には、これまで誰も見ていなかった一行が続いていた。

 

「中谷の子が来たとき、記録を渡すこと」

 

 孝は、その文字を見つめた。自分が長崎へ来ることは、最近になって決まった。大学の仲間と旅行をすることも、数か月前までは予定されていなかった。

 

 それなのに、古い手帳には「中谷の子が来たとき」と書かれている。

 

 まるで、いつか自分のような人物が来ることを、昔の人間が知っていたかのようだった。しかし、そこで男が首を横に振った。これは予言ではない。もっと現実的な意味があるという。

 

 この記録は、ずっと誰かから誰かへ渡されてきた。中谷という家が長崎を離れるとき、記録の一部を京都へ持って行った。

 

 そして、次の世代に戻すための条件として、「中谷の子が来たとき」という言葉が残された。

 

 つまり、孝の家には、長崎から持ち出された何かが残っている可能性がある。その何かが何なのかは、まだわからない。ただ、それを持っている人物が、今も京都にいる。その事実だけは、はっきりした。

 

 孝は父との電話を思い出した。祖父が言っていた。

 

 「八月の長崎には近づくな」

 

 あの言葉は、単なる戦争の記憶ではなかったのかもしれない。祖父は、自分の家が何を持っているのかを知っていた。だから、長崎へ行くなと言った。そして、その秘密を次の世代に伝えなかった。

 

 伝えれば、誰かが探しに来るからだ。

 

 そう考えれば、今回の旅行が偶然だったとしても、孝が長崎へ来たことで、長いあいだ眠っていた秘密が再び動き始めたことだけは説明できる。しかし、まだ一つだけ説明できないことがある。誰が、四人の旅行を知っていたのか。

 

 誰が、最初の写真を撮ったのか。誰が、祖母の家から木箱を持ち出したのか。

 

 そして、誰が孝の名前を知っていたのか。地下から出てきた男は、その答えを知っているようだった。男が指を向けた先に、一台の車が停まっている。その車の後部座席に、誰かが乗っている。車の窓が少し下がった。

 

 暗闇の中から、女の顔が現れた。沙羅は、その顔を見た瞬間、息をのんだ。

 

 祖母の病室で、母親と一緒に写っていた古い写真。そこに若い女性として写っていた人物と、よく似ている。しかし、あり得ない。その女性は、すでに亡くなっているはずだった。車は、そのまま走り去った。

 

 残された四人は、何が起きたのか理解できないまま立っていた。やがて、地下室から出てきた男が、静かに話し始めた。

 

 四番に残されていたのは、金や宝物ではない。人の名前だった。

 

 長崎に生き、外国へ渡り、宗教を変え、名前を変え、戦争によって記録から消えた人々。その名前を、誰かが何十年も記録してきた。そして、その記録の最後に、孝の名前が加えられた。

 

 なぜなら、孝の家が、その記録の一部を現在まで保管していたからだという。その言葉を聞いた瞬間、孝は自分の家を思い出した。父が話していた祖父の言葉。八月の長崎には近づくな。

 

 そして、祖父の家には、今も一つだけ開けてはいけない古い箱が残っている。孝は、京都へ帰ったら、その箱を探さなければならないと思った。しかし、そのとき男が、思いがけないことを口にした。箱は、もう京都にはない。

 

 四人が長崎へ来る前に、誰かが持ち出したという。

 

 そして、その人物が今、向かっている場所を知っている。男が示した先は、長崎駅の方向だった。そこには、京都へ向かう新幹線の時刻が表示された案内板がある。

 

 つまり、四人が長崎へ来た最初の日から、誰かは帰りの予定まで知っていたことになる。孝は、そこでようやく気づいた。自分たちは長崎の謎に巻き込まれたのではない。

 

自分たちが長崎へ来ることそのものが、誰かにとって必要だったのだ。

 

 そして、その理由はまだ、四人には知らされていない。翌朝、京都へ戻る予定だった。ところがその夜、四人のホテルの部屋に、一通のメールが届いた。差出人は、孝の父親だった。本文には、短い文章しかなかった。

 

「今、祖父の箱が見つかった。中にお前の名前が書かれた写真が入っている。帰ってくる前に、長崎で確認してほしいことがある」

 

 その直後、添付された写真が開いた。そこには、戦後間もない長崎の街が写っていた。焼け跡の中に立つ数人の人々。その中央に、若い男がいる。顔ははっきり写っていない。

 

 けれど、その男が手にしている古い箱には、見覚えのある文字が刻まれていた。

 

「九番」

 

 そして、その写真の裏側には、現在の日付で書かれた一行があった。

 

「これで終わりではない。京都に戻れば、次の記録が始まる。」