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『 花びらの積もる道 』

 

第三章 もう一度、花屋へ

 

 窓辺の紫の花は、五日ほど咲いた。

 

 初めの二日は細い茎をまっすぐ伸ばしていたが、三日目の朝から、少しずつ首を傾け始めた。

 

 順子は水を替え、茎の先を斜めに切った。

 

 一本だけなのに、毎朝気になった。

 

 花が気になるのか、花をくれた人が気になるのか、考えるのはやめた。どちらにしても、窓辺を見る回数が増えたことに変わりはない。

 

 五日目の夕方、紫の花びらが一枚、棚の上に落ちていた。

 

 翌朝には、もう一枚落ちた。

 

 順子は残った花を紙に包み、小瓶を洗った。

 

 空になった瓶を棚へ戻すと、そこだけ四角く色が抜けたように見えた。

 

 昼前、千穂へ電話をかけた。

 

「明日、岡山へ行くけど、お昼は空いてる?」

 

「明日?」

 

「都合が悪いなら、いいのよ」

 

「急に言われても。午後から打ち合わせがあるんよ」

 

「では、十一時半なら?」

 

「一時までなら大丈夫」

 

「市役所の近くで待ってる」

 

「何か用事?」

 

「あなたとお昼を食べるのに、理由が必要なの?」

 

 千穂が少し黙った。

 

「また、あの花屋へ行くつもりでしょう」

 

「どうしてそう思うの」

 

「この前、西川を歩きながら、何度も花を見てたから」

 

「折れないようにしていただけよ」

 

「はいはい」

 

「その言い方、嫌いだわ」

 

「十一時半ね。遅れないで」

 

「あなたこそ」

 

 電話を切ったあと、順子は棚へ戻した小瓶を取り出した。

 

 もう一度洗う必要はなかった。それでも、水道の水ですすいだ。

 

 翌日、前回より一本早い列車で岡山へ向かった。

 

 表町商店街へ着くと、花屋の前で足を止めた。

 

 店先の花は入れ替わっていた。黄色い花はなく、白と淡い桃色の花が並んでいる。奥には緑の枝物があり、通りからもよく見えた。

 

 順子は少し右へ寄り、次に左へ寄って眺めた。

 

「あら」

 

 店の奥にいた洋子が気づいた。

 

 紺色のエプロンで手を拭きながら出てくる。

 

「津山のお客さま」

 

 順子は少し思い出すように、洋子の顔を見た。

 

「ヨーコさん」

 

「覚えててくださったんですね」

 

「花をくださった方の名前ですから」

 

「花を動かされたことも覚えてます」

 

「根に持っているんですか」

 

「今日は何を直されるんやろと思って」

 

 洋子は店先を見た。

 

「どうですか」

 

「今日は、直すところはありません」

 

「ほな、合格ですね」

 

「私が決めることではないでしょう」

 

「この前は決めたやないですか」

 

「頼まれたからです」

 

「頼んだことにしときます」

 

 二人は笑った。

 

「そういえば、お名前を聞いてませんでしたね」

 

 順子は、洋子の胸の名札を見た。

 

「私も、ジュンコです」

 

「ジュンコさん」

 

 洋子は覚えるように、一度呼んだ。

 

「この前の花、長く咲きました」

 

「リューココリーネですね」

 

「名前までは覚えられませんでした」

 

「ええんですよ。名前を覚えてもらうより、また見たいと思ってもらう方がうれしいですから」

 

「花屋さんが、そんなことを言うんですか」

 

「名前を間違えても、花は怒りません」

 

「人は怒りますけどね」

 

「そうですね」

 

 洋子は店先の白い花から、傷んだ葉を一枚取った。

 

「今日は何か、お探しですか」

 

「仏壇に置く花を」

 

「どなたかの?」

 

「夫です」

 

 洋子の手が止まった。

 

「ご命日ですか」

 

「いいえ。月命日でもありません」

 

「そうですか」

 

「何でもない日に飾ったら、いけませんか」

 

「まさか」

 

 洋子は店の中へ入った。

 

「何でもない日の方が、びっくりしはるかもしれませんね」

 

「生きているときに花を買って帰ったことは、一度もありませんでしたけど」

 

「ほな、なおさらです」

 

「いまさら機嫌を取っても、遅いでしょう」

 

「亡くなった人は、返事をしませんから。こっちの好きなように考えられます」

 

「花屋さんらしくないことを言うのね」

 

「花屋は、生きてる人からお金をいただく仕事ですから」

 

 洋子は白い花を数本選び、淡い緑の葉を添えた。

 

「ご主人は、どんな花がお好きでした?」

 

「花には、興味のない人でした」

 

「ほな、順子さんの好きな花で」

 

「そうなりますね」

 

 洋子は桃色の花を一本加え、少し離れて見た。

 

「これは多いですか」

 

「少し」

 

「やっぱり」

 

 洋子が抜こうとすると、順子は止めた。

 

「でも、残してください」

 

「どうして?」

 

「白と緑だけでは、あの人には上品すぎます」

 

「どんな方やったんですか」

 

「ネクタイを選ばせると、必ずいちばん派手なものを持ってくる人でした」

 

「順子さんが止めた?」

 

「私が、もう一本派手なものを出しました」

 

「ほな、ご主人だけのせいやありませんね」

 

「夫婦ですから。悪趣味も半分ずつです」

 

 洋子は桃色の花を、白い花の間に差し直した。

 

「では、これは残しましょ」

 

 包み紙を広げ、花を載せる。

 

「東京で、ご主人と一緒にお店を?」

 

「表に立っていたのは私です。夫は帳簿を見たり、仕入れの相談に乗ったり」

 

「亡くなられたあとも、続けてはったんですね」

 

「七年ほど」

 

「長いですね」

 

「やめる日を決めなかったら、七年たっただけです」

 

 洋子は包み紙を折る手を止めなかった。

 

「閉めようと思った日は?」

 

「何度もありました」

 

「開けてよかったと思った日は?」

 

「それも、何度も」

 

「同じくらい?」

 

「閉めたい日の方が、少し多かったかもしれません」

 

「それやったら、七年も続きませんよ」

 

「人は、嫌なことの方をよく覚えていますから」

 

「そうですね。うちの主人も、私が作った料理で、おいしくなかったものだけ覚えてます」

 

「おいしいものは?」

 

「黙って食べます」

 

「それは、作った人には分からないわね」

 

「そうなんです」

 

 洋子は花を包みながら笑った。

 

 順子は、夫の派手なネクタイを思い出した。紺色の背広に赤い斜め縞を合わせ、順子が眉をひそめると、似合っている証拠だと言った。

 

 亡くなってからは、そのネクタイを一度も箱から出していない。

 

「洋子さんは、ご自分の店を持とうと思ったことはないんですか」

 

「若い頃はありました」

 

「いまは?」

 

「いまは、雇われてる方が気楽です。店を閉めるかどうかまで、私が決めんでもええから」

 

「開けたい日に開けることもできないでしょう」

 

「そうなんです」

 

 洋子は包み紙の端を折った。

 

「たまに、自分の店やったらと思います。でも、毎日やありません」

 

「後悔しているんですか」

 

「してる日もあります」

 

 洋子は包んだ花を持ち上げ、桃色が正面から見えるように少し回した。

 

「順子さんは、店を閉めたことを後悔してますか」

 

「している日もあります」

 

 洋子がうなずいた。

 

「毎日やなかったら、ええんやないですか」

 

「ずいぶん都合のいい考え方ね」

 

「毎日きちんと後悔するのは、疲れますから」

 

 順子は花を受け取り、代金を払った。

 

 店の時計を見ると、千穂との待ち合わせまで、まだ少し時間がある。

 

「津山の桜は、もう終わりましたか」

 

 洋子が尋ねた。

 

「ほとんど散りました。木には、まだ少し残っています」

 

「鶴山公園は、桜で有名ですよね」

 

「ええ」

 

「一度、行ってみたいと思うてるんです」

 

「岡山からなら、遠くはないでしょう」

 

「近いところほど、行かへんものです」

 

「東京にいた頃、東京タワーへ行ったことはありませんでした」

 

「私も岡山城には、主人に連れられて一度行っただけです」

 

「今度の日曜日なら、まだ少しは残っているかもしれません」

 

「案内してくださるんですか」

 

「入口までなら」

 

「石段があるんでしょう」

 

「思っているより上りますよ」

 

「順子さんが上れるんやったら、私も上れます」

 

「私の方が年上です」

 

「三つくらいでしょう」

 

「どうして分かるんですか」

 

「花屋は、お客さまの年齢を考えて花を選ぶこともありますから」

 

「失礼な花屋さんね」

 

「ほな、同じくらいということにしときます」

 

「同じくらいなら、私が上れたからといって、洋子さんが上れるとは限らないでしょう」

 

「負けず嫌いですね」

 

「足腰の話です」

 

 二人は笑った。

 

「日曜日の十時に、入口でどうでしょう」

 

「行きます」

 

 洋子はすぐに答えた。

 

 店を出てしばらくしてから、順子は、自分が鶴山公園へ行く約束をしたことに気づいた。

 

 津山へ戻って半年、一人では近づけなかった場所である。

 

 洋子は昔の順子を知らない。

 

 先に石段を上り、誰かが追ってくるか確かめていた順子を知らない。

 

 知らない人の前では、いまの年齢で歩ける。

 

 順子はそう思った。

 

 千穂との昼食では、花屋の話をしなかった。

 

 夫に供える花を買ったことも、日曜日に鶴山公園へ行くことも、あえて話すほどではないと思った。

 

 千穂は展示の準備で忙しいらしく、料理を食べながら何度も腕時計を見た。

 

「落ち着かないわね」

 

「一時から打ち合わせがあるから」

 

「それなら、急いで食べればいいでしょう」

 

「お母さんがゆっくり食べるから」

 

「私に合わせなくてもいいのよ」

 

「合わせんかったら、あとで早く帰ったって言うでしょう」

 

「言わないわよ」

 

「前に言った」

 

「いつ?」

 

「二年前」

 

「二年前のことを、まだ覚えているの?」

 

「お母さんの娘だから」

 

 千穂は水を飲んだ。

 

「澤口さんの絵、今日、会場へ運ぶことになってる」

 

 順子は箸を止めなかった。

 

「そう」

 

「展示に来ないのは、澤口さんがいるから?」

 

「その話はしないと言ったでしょう」

 

「言ってない。聞いただけ」

 

「同じことよ」

 

「昔の同級生なんでしょう」

 

「それだけよ」

 

「それだけなら、どうして」

 

 順子は箸を置いた。

 

「千穂」

 

 強く言ったつもりはなかった。

 

 千穂は口を閉じた。

 

「人には、話したくないこともあるの」

 

「私には?」

 

「娘だから話せないこともあるでしょう」

 

 千穂はテーブルの端に目を落とした。

 

「そう」

 

 その返事は、納得した声ではなかった。

 

 料理の皿には、千穂の嫌いな椎茸が一つ残っている。子どもの頃なら、順子が食べてやった。

 

 千穂は箸でそれをつまみ、口へ入れた。

 

 順子は何も言わなかった。

 

 昼食を終えると、千穂は市役所へ戻った。

 

 順子は一人で岡山駅へ向かった。

 

 白い花の間から、桃色が一本だけ高くのぞいている。包みの中へ押し戻しても、歩くうちにまた顔を出した。

 

 その夜、洋子は夕食のあとで、日曜日に津山へ行くことを亨に話した。

 

「この前、店に来はった順子さんが、鶴山公園を案内してくれるの」

 

 亨は湯呑みを持ったまま顔を上げた。

 

「鶴山公園?」

 

「桜はだいぶ散ったそうやけど、まだ少し残ってるみたい」

 

「その人と?」

 

「一人で案内してもろたら、あかんの?」

 

「いや」

 

「あなたも来る?」

 

「僕は」

 

 亨は湯呑みを置いた。

 

「やめとく」

 

「石段が嫌なん?」

 

「そうやない」

 

「ほな、花屋の女が二人で歩いたら、長うなるから?」

 

「順子さんは、もう花屋やないやろ」

 

 洋子は亨を見た。

 

「よう覚えてるのね」

 

「君が話したから」

 

「あなた、私の話を聞いてたんやね」

 

「いつも聞いてるよ」

 

「返事せえへんから、聞いてへんのかと思うてました」

 

 洋子は自分の湯呑みに茶を足した。

 

「名字は聞いた?」

 

 亨が尋ねた。

 

 洋子の手が止まった。

 

「どうして、そんなに名字が気になるの」

 

「いや」

 

「順子さんは順子さんでしょう」

 

「そうやけど」

 

「東京でブティックをしてはったけど、ご主人を亡くして、半年前に津山へ戻ったんですって」

 

「本人が、そう言うたんか」

 

「ええ。今日は、ご主人のお仏壇に供える花を買うてくれました」

 

 亨は湯呑みに目を落とした。

 

 茶の表面に、天井の明かりが映っている。

 

「鶴山公園は、石段が多いよ」

 

「行ったことあるの?」

 

「学生の頃に、一度」

 

「誰と?」

 

 亨は顔を上げた。

 

 洋子は湯呑みを口へ運ぶ。

 

「聞いたらあかんかった?」

 

「昔の友人と」

 

「男の人?」

 

「いや」

 

「女の人ね」

 

 洋子は茶を飲んだ。

 

「昔のことやったら、そう言うたらええのに」

 

「聞かれたから答えただけや」

 

「聞かれへんかったら、言わへんかったでしょう」

 

「わざわざ言うことでもないから」

 

「そうやね。昔の女の人と桜を見た話なんて、妻に聞かせるもんやありません」

 

 洋子は穏やかな声で言った。

 

 亨は返事ができなかった。

 

「この頃、膝が痛むことがあるやろ」

 

「歩けへんほどやありません」

 

「無理せん方がええ」

 

「順子さんにも、同じこと言われました」

 

「ほかの日にしたらどうや」

 

 洋子は亨を見た。

 

「どうして?」

 

「桜の時期は、人が多いから」

 

「もう満開は過ぎてます」

 

「それでも、日曜日は混むよ」

 

「入口まで行って、無理やったら帰ります」

 

 洋子は湯呑みを盆へ戻した。

 

「そんなに心配やったら、一緒に来たらええでしょう」

 

「いや、それは」

 

「来えへんのね」

 

「気ぃつけて」

 

「はい」

 

 洋子は食器を重ね、台所へ運んだ。

 

 亨は一人で食卓に残った。

 

 しばらくして、台所から洋子の声がした。

 

「鶴山公園の石垣は、きれい?」

 

「ああ」

 

「桜と、どっちがきれい?」

 

「比べるもんやないよ」

 

「昔の女の人は?」

 

 亨は振り返った。

 

 洋子は流しに向かったまま、食器を洗っている。

 

「何?」

 

「いま、何て言うた?」

 

「昔の女の人は、石垣と桜のどっちを見てたんやろと思って」

 

「さあ」

 

「覚えてへんのね」

 

 水の音が続いた。

 

 亨は二階へ上がった。

 

 机の引き出しを開け、茶色い包みから古いスケッチを取り出した。

 

 鶴山公園の石垣の前で、若い順子が振り返っている。

 

 桜は描かれていなかった。

 

 順子の肩と、上げた右手と、石垣だけがあった。

 

 亨は絵を裏返した。

 

 裏には、小さな字で日付が書いてある。

 

 今度の日曜日、順子と洋子が同じ石段を歩く。

 

 亨は裏返した絵を机に置いたまま、引き出しを閉めた。