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『 5年越しの手紙 』

 

第二章  記憶の影と、付き合っていた頃の日々

 

新幹線の中で流れる車窓を見つめながら、美穂の脳裏には、どうしても振り払うことのできない「あの頃」の記憶が溢れ出していた。

 

大学の写真サークルの部室。

 

放課後の斜光が差し込む古い木造校舎の三階で、藤田明夫と出会った。

 

明夫は一つ年上で、建築学科に通っていた。

 

いつも部室の隅で、古いカメラ誌や建築の作品集を黙々とめくっているような静かな男だった。

 

二人の距離が縮まったのは、サークルの合宿で訪れた信州の小さな街だった。

 

他の部員たちが華やかな景色や集合写真を撮り合う中、明夫は路地裏の古びた洋館の、歪んだ窓ガラスに反射する光ばかりを静かにレンズに収めていた。

 

「どうして、そんな場所ばかり撮るの?」

 

美穂が声をかけると、明夫は驚いたように振り返り、少し照れくさそうに眼鏡の奥の目を細めた。

 

「人が通り過ぎてしまうような場所にも、ちゃんと時間が残っているからさ。光の当たり方ひとつで、昨日とは違う顔を見せる。そういう静かな時間を留めておきたいんだ」

 

その言葉に、美穂の胸は強く打たれた。

 

明夫の見る世界は、いつも優しく、細やかで、温かかった。

 

交際が始まってからの日々は、穏やかで満ち足りていた。

 

大学を卒業し、美穂が現在の出版社に就職してからも、二人の関係は変わらなかった。

 

週末になると、阿佐ヶ谷の小さな明夫のアパートでよく過ごした。

 

六畳間の畳の上に、明夫が買ってきてくれた安ワインと、美穂が作った簡単な煮込み料理を並べた。

 

明夫は小さなローテーブルの上に建築の図面やスケッチブックを広げ、美穂は横で雑誌の赤字入れをした。

 

「美穂、見て」

 

明夫が見せてくれたスケッチには、木の温もりを大切にした小さな平屋の住宅が描かれていた。

 

「いつか自分の設計事務所を持ったら、こんな家を建てたいんだ。中庭があって、どこにいても小さな光が入ってくるような家」

 

「素敵……。事務所ができたら、私、一番に取材に行くね。『今注目の若手建築家』って、見開きの大特集にしてあげよう」

 

「はは、頼もしいな。じゃあ、その第一号の家には、美穂にも住んでもらわないと」

 

他愛もない会話。

 

けれど、そこには何の疑いもない未来が横たわっていた。

 

明夫の祖母・和子さんが上京してきたときのこともうっすらと覚えている。

 

阿佐ヶ谷の部屋に泊まった和子さんは、「明夫は昔から不器用で、言葉の少ない子やけどな、人の痛みがわかる優しい子なんよ」と、美穂の手を両手で温かく包み込んでくれた。

 

美穂は「知っています。明夫さんの優しさに、いつも助けられています」と笑顔で応えたのだった。

 

それなのに――。

 

五年前の十一月、明夫の父親が病気で倒れたという連絡が入った。

 

大阪の実家へ帰る明夫を阿佐ヶ谷の駅で見送ったとき、明夫は「父さんの経過を見て、週末には戻るよ。美穂、寒くなったから風邪ひくなよ」と言って、美穂の頭を優しく撫でてくれた。

 

それが、明夫の温かな体温を感じた最後の瞬間だった。

 

一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼は戻らなかった。

 

電話をかけてもコール音が鳴り響くだけで出ず、メッセージの既読もつかなくなった。

 

そして十二月のある夕刻。

 

一方的に告げられた別れ。

 

『ごめん。俺たち、もう会えない。……俺のことは、もう忘れてくれ』

 

阿佐ヶ谷のアパートは、家具も荷物もすべて綺麗に消え去り、そこにはただ冷たい畳の匂いだけが残されていた。

 

理由も分からず捨てられたという絶望。

 

当時の美穂の変化に、真っ先に気づいたのは埼玉の実家の両親だった。

 

年末、痩せこけ、青白い顔をして帰省した美穂を見て、母親の恵子は言葉を失ったという。

 

食事を出しても一口か二口で箸を止め、夜になると自室で押し殺した咽び泣きを漏らす娘。

 

『美穂、どうしたの? 明夫さんと何かあったの?』

 

母親が心配して何度も尋ねたが、美穂は『何でもない、ちょっと仕事が忙しいだけ』と首を振るばかりだった。

 

父親の正雄も、居間で新聞を広げながらも、黙って辛そうに娘の様子を伺っていた。

 

年が明けても美穂の塞ぎ込みは治まらず、見かねた母親が東京のアパートまで手料理を持って何度も足を運んでくれた。

 

『美穂、理由は言わなくてもいい。でもね、あなたは何も悪くないことだけは忘れないで。自分を責っちゃダメよ』

 

母の言葉に、美穂は母の膝に顔を埋めて声を上げて泣いた。

 

けれど、心の底に穿たれた「自分は突然捨てられた」という巨大な穴は、どれだけ家族の手厚い愛情を受けても、埋まることはなかった。

 

「理由が分からない」という恐怖だけが、美穂の心の奥に消えない傷として残った。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十四章 墓地に残されたもの

 

 墓地は、観光客が訪れる場所から少し離れた山の斜面にあった。

 

 長崎の街では、坂を上るという行為そのものが、過去へ近づいていくことに似ている。

 

 海に近いところでは新しい建物や商店が並んでいるのに、少し坂を上るだけで、古い石垣や細い路地が現れ、さらにその先には、長い年月を経た墓地が静かに残っている。

 

 四人がたどり着いたとき、午後の光はすでに山の向こうへ傾き始めていた。

 

 入口には小さな案内板があるだけで、墓地全体を説明するようなものはない。観光地として整備された場所ではないため、訪れる人もほとんどいなかった。

 

 沙羅は母親から聞いた住所とスマートフォンの地図を照らし合わせながら、斜面を上っていく。墓石は古いものと新しいものが混在していた。

 

 その中には、長崎らしく、名前の横に洗礼名らしい文字が刻まれた墓もある。日本の墓地でありながら、どこか異なる文化の痕跡が残っている。孝は、ここにもまた長崎という街の複雑さが表れているように感じた。

 

 キリシタンの信仰が伝わり、それが禁じられ、信仰を隠して生きた人々がいた。やがて外国との交流が再び始まり、異国の文化が街に入り込んだ。さらに近代化と戦争を経て、原爆によって街そのものが大きく破壊された。

 

 何度も断絶がありながら、そのたびに何かが残った。人の記憶も、道も、石も、名前も。

 

 そして今、自分たちはその「残ったもの」を探している。

 

 墓地の奥へ進むにつれて、墓石の数が少なくなった。沙羅が立ち止まった。目の前に、古い墓がある。墓石には、祖母から聞いた名前が刻まれていた。孝の祖父の父親。つまり、孝にとっては曾祖父にあたる人物の墓だった。

 

 京都の家では、名前だけは聞いたことがある。しかし、長崎に墓があることは誰も知らなかった。

 

 孝は墓石の前に立ち、しばらく何も言わずに眺めた。祖父は、この場所を知っていたのだろう。父も知らなかった。自分も知らなかった。

 

 それなのに、祖父は長崎から京都へ戻ったあとも、この場所を守るように何かを残していた。

 

 墓の周囲を調べると、石の裏側に小さな金属板が取り付けられているのが見つかった。文字はほとんど消えている。しかし、数字だけは読めた。

 

17―4―9。

 

 四人は黙ってその数字を見つめた。これまで出てきた数字が、ここでも現れた。けれど、今度はその下に、これまでとは違う文字がある。

 

 孝は墓の正面から離れ、裏側へ回った。墓石の背後には、斜面を支える古い石垣がある。そこだけ、周囲より少し石の色が違っていた。近づいて見ると、石と石の間に細い隙間がある。

 

 涼子が指先で触れると、一つの石がわずかに動いた。その奥には、小さな金属製の箱が埋め込まれていた。鍵はかかっていない。

 

 しかし、箱を取り出す前に、孝は周囲を見回した。墓地には誰もいない。山の下を走る車の音だけが聞こえる。

 

 それでも、ここまで何度も誰かに先回りされてきたことを考えると、簡単には手を伸ばせなかった。箱を取り出す。錆びてはいるが、意外なほど軽い。蓋を開けると、中には紙に包まれた小さな木片が入っていた。

 

 木片には、何かの印が刻まれている。十字。

 

 その下に「L」。

 

 そして裏側には、「17」と「9」。

 

 手掛かりとしては、あまりにも少ない。しかし、木片を見た沙羅の顔が変わった。祖母の家にあった古い木箱の側面に、同じ印が刻まれていたという。つまり、この木片は木箱の一部だった可能性がある。木箱は一つではなかった。

 

 何かを運ぶために、同じ印をつけた箱が複数使われていたのかもしれない。孝は、そこで昨夜の四番を思い出した。木箱を持っていた男。箱の中にあった黒い手帳。そして、京都にあるはずだった祖父の箱。

 

 すべてが一つの系統につながっている。問題は、その箱が何を運んでいたのかだった。木片の裏側に小さな溝がある。

 

 それをよく見ると、文字ではなく、何かの記号のようだった。浩一は、古い地図を取り出して照合した。記号は、長崎港の古い荷揚げ場を示すものに似ている。つまり、この木箱は港を経由していた可能性がある。

 

 そこで涼子が、昨日の倉庫を思い出した。十七の印があった倉庫。あそこが箱の中継地点だったのではないか。

 

 九番、十二番、四番は保管場所。十七は港。では、四人がまだ見つけていない数字があるのではないか。その数字を探すため、孝は墓の周囲をもう一度調べた。墓石の脇に、小さな石碑がある。

 

 表面には名前が刻まれているが、風化してほとんど読めない。裏側へ回ると、一行だけ比較的新しい文字が残っていた。

 

「記録は、燃やしてはならない。」

 

 その言葉を見た瞬間、孝は昨夜の四番を思い出した。地下室から上がっていた煙。誰かが古い記録を燃やしていた。つまり、その人物は記録を守る側ではなく、消す側だった。そして、祖父が残した言葉と正反対の行動をしている。

 

 では、なぜ記録を消そうとしているのか。

 

 記録の中に、現在でも知られてはいけない名前があるのか。それとも、記録そのものが、誰かにとって都合の悪い証拠なのか。その答えは、まだ見えない。

 

 ただ、四番の地下で撮られた写真には、黒い手帳だけでなく、もう一冊の薄い冊子が写っていた。昨夜は誰もそこまで確認していなかった。孝は写真を拡大した。冊子の表紙には、数字がある。

 

17。

 

 そして、その下に小さく「B」と書かれている。

 

 B。港の倉庫。その場所と関係があるのかもしれない。四人は墓地を出る前に、もう一度だけ墓を振り返った。そこには、何十年も誰にも知られなかった祖先の墓がある。

 

 その墓を見ていると、孝は自分の家族が長崎との関係を隠していた理由が少しずつわかってきたような気がした。秘密を守るためだったのだ。けれど、それだけではない。

 

 何かを守るためには、同時に何かを失わなければならないことがある。名前を捨てる。住所を変える。過去を語らない。

 

 そうしてまで守らなければならなかったものが、ここにはある。

 

 四人が墓地を出ようとしたとき、坂の下に一台の車が停まっているのが見えた。昨夜の車とは違う。しかし、運転席にいる人物は、こちらを見ていた。孝は足を止めた。車は動かない。ただ、数分ほどそのまま停まっていた。

 

 やがて、運転席の窓が下がった。

 

 男が顔を出した。昨夜、四番で会った男だった。男は車から降りると、四人を見上げた。その表情には、昨日までとは違う疲れが見えた。長いあいだ何かを追い続けてきた人間の顔だった。

 

 そして、男は孝の手にある木片を見ると、初めて驚いた表情を見せた。

 

 その木片をどこで見つけたのか、と尋ねる代わりに、男はゆっくり墓地の奥を見た。

 

 やがて、祖先の墓を確認すると、ようやく自分が何を探しているのかを明かした。彼は、孝の祖父と一度だけ会ったことがあるという。もちろん、孝の祖父はすでに亡くなっている。

 

 それでも、その人物は祖父から最後に預かったものを、今まで返せずにいた。それが黒い手帳だった。四番で見つかったものとは別の手帳。もう一冊ある。しかも、それは長崎にはない。男が長年探しているものでもあった。

 

 京都にある。孝の家のどこかに。その話を聞いたとき、孝は父から届いたメールを思い出した。

 

 祖父の箱が見つかった。中には孝の名前が書かれた写真があった。けれど、父はまだ箱の中身をすべて確認していない。つまり、もう一冊の手帳が箱の中に残っている可能性がある。

 

 男は、京都へ戻る前に一つだけ伝えておきたいことがあると言った。

 

 四番で記録を燃やそうとしていた人物は、記録そのものを消したいのではない。もっと恐ろしいことをしようとしている。記録を書き換えようとしているのだという。歴史から名前を消すだけなら、古い記録を燃やせばいい。

 

 しかし、別の名前に置き換えてしまえば、後世の人間はそれを本当の歴史だと思う。長崎の歴史の中で、誰がどこへ行き、何をしたのか。

 

 その記録を書き換えられることは、過去を隠すだけではなく、現在にまで影響する。だからこそ、四番に残されている名前を守らなければならない。男はそこまで話すと、孝の手にある木片を見つめた。その印を知っているという。

 

 それは、記録を運ぶ者につけられた印だった。

 

 そして、最後の記録を運んだ人物の名前が、高瀬宗一郎だった。孝は、そこで一つの疑問を口にした。では、なぜ祖父がその記録を持っていたのか。男はすぐには答えなかった。

 

 長崎から京都へ記録を運んだのは、高瀬宗一郎ではない。その人物は、別にいる。

 

 そして、その人物が持っていたものを、戦後になって孝の祖父が引き継いだ。その理由は、記録を守る人間が次々に亡くなったからだった。原爆によって失われた命。戦争によって離散した家族。海外へ渡った人々。

 

 それらの間を縫うようにして、記録だけが残った。最後に残った一人が、孝の祖父だった。

 

 だから祖父は、何も語らなかった。語れば、その記録を探す者が現れる。しかし、祖父が亡くなったことで、守る人間がいなくなった。そして今、孝がその記録を受け取る時期が来た。男はそう言った。

 

 孝には、それが運命のような言葉に聞こえた。けれど、すぐに違うと思い直した。祖父が守っていたのは、運命などではない。

 

 誰かが生きていたという事実だった。名前を残すこと。それだけのために、多くの人間が人生を使ってきた。

 

 それを知ったとき、孝は初めて、自分の名前が古い手帳に書かれていた意味を理解した。自分が特別な人間だからではない。

 

 「次に記録を渡す人間」として、自分の名前が書かれたのだ。

 

 そして、その役割を引き受けるかどうかは、自分で決めなければならない。

 

*

 

 その日の夕方、四人はようやくホテルへ戻った。京都へ帰る列車は翌日に変更した。父から送られてきた写真をもう一度確認する。祖父。外国人の男。そして、その背後にある京都の家。写真の端には、小さな箱が写っている。

 

 孝は、その箱に刻まれた印を拡大した。九番でも、十二番でも、四番でも、十七でもない。

 

 今まで一度も見たことのない数字だった。

 

「一番」

 

 その瞬間、四人の間に新しい緊張が走った。九番から始まったと思っていた。十二番へ進み、四番へたどり着いた。十七番は港にある。それなら、一番はどこなのか。そして、なぜ一番だけがこれまで記録に出てこなかったのか。

 

 孝は写真をさらに拡大した。箱の横に、祖父の手が写っている。その指先に、紙が挟まっている。

 

 そこには住所が書かれていた。京都。孝が生まれた家。現在、父が暮らしている家だった。しかし、その住所の下には、見慣れない一行がある。

 

「地下に入口あり」

 

 孝は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。自分の家には地下室などない。少なくとも、家族はそんなものがあるとは一度も言っていない。

 

 けれど、祖父が残した古い家の図面を調べれば、確認できるかもしれない。

 

 長崎で始まったと思っていた謎は、京都へ戻ることで終わるのではなかった。むしろ、ここからが本当の始まりだった。そして四人はまだ知らない。

 

 京都の家の地下にある「一番」が、長崎で守られてきた記録の最初の頁ではなく、**最後に書き加えられた頁**とつながっていることを。

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『 花びらの積もる道 』

 

第六章 開けなかった箱

 

 千穂の間違いは、そのあとも続いた。

 

 会議の開始時刻を三十分早く手帳へ書き、誰も来ない部屋で一人待った。

 

 出展者へ返す写真を別の封筒へ入れ、宛名を書く前に気づいた。

 

 電話を受けながら用件をメモしたはずなのに、受話器を置くと、相手の名前だけがなかった。

 

 どれも、その場で直せた。

 

 誰かを怒らせたわけでもない。金銭的な損害も出ていない。

 

 そのことが、かえって気になった。

 

 小さな間違いは、謝れば終わる。終わるので、次の間違いまで誰も覚えていない。

 

「松山さん、この頃、少し変ですよ」

 

 同じ展示を担当する後輩に言われた。

 

「何が?」

 

「同じことを何度も確認しているから」

 

「間違えないために確認してるの」

 

「確認したことを、また確認してます」

 

「それの何が悪いの?」

 

「悪いとは言ってません」

 

 後輩は机の上の書類へ目を落とした。

 

「ただ、前は一度で合うてましたから」

 

 悪意がないことは分かっていた。

 

 千穂は書類の端を揃えた。

 

「展示が終われば落ち着くから」

 

「それなら、ええんですけど」

 

 後輩は自分の席へ戻った。

 

 千穂はパソコンの画面を見た。

 

 亨から届いたメールが開いたままになっている。

 

〈本日はありがとうございました。絵の返却については、展示終了後に改めてご連絡ください〉

 

 仕事上の短い文章だった。

 

 母のことは一言も書かれていない。

 

 千穂はメールを閉じた。

 

 閉じてから、もう一度開いた。

 

 文章は同じだった。

 

 午後、展示会場から電話が入った。

 

「今日の三時から、商店街の方たちとの打ち合わせですよね」

 

 現地の担当者が言った。

 

 千穂は手帳を開いた。

 

 打ち合わせは、翌日の三時と書いてある。

 

「明日ではありませんか」

 

「今日で伺っていますが」

 

「少々お待ちください」

 

 千穂は共有の予定表を開いた。

 

 今日の日付の欄に、打ち合わせの予定があった。

 

 自分が手帳へ書き写すとき、一日ずらしていた。

 

「申し訳ありません。すぐに伺います」

 

 資料を鞄へ入れ、上司の席へ行った。

 

「打ち合わせの日付を間違えていました。いまから表町へ行ってきます」

 

 上司は壁の時計を見た。

 

「私が行きます」

 

「でも、私の担当です」

 

「いまから行っても、落ち着いて話せないでしょう」

 

「大丈夫です」

 

「大丈夫ではないから、間違えたんじゃないですか」

 

 強く叱られたわけではなかった。

 

 上司は手元の書類を裏返し、場所を空けた。

 

「資料を置いてください」

 

「説明は私の方が」

 

「松山さん」

 

 名前を呼ばれ、千穂は口を閉じた。

 

「今日は帰ってください」

 

「体調は悪くありません」

 

「体調が悪くなくても、休んだ方がいい日はあります」

 

 千穂は鞄から資料を出した。

 

 上司は受け取り、中を確かめた。

 

「この資料で全部ですね」

 

「はい」

 

 答えたあと、不安になった。

 

「少し待ってください。確認します」

 

「いま確認したでしょう」

 

「念のためです」

 

 千穂は資料を取り返し、一枚ずつ数えた。

 

 必要なものは揃っていた。

 

「全部あります」

 

「そうですか」

 

 上司はもう一度受け取った。

 

「気をつけて帰ってください」

 

 机へ戻り、途中の仕事を片づけようとすると、

 

「明日でいいです」

 

と、背中から声がした。

 

 市役所を出ると、まだ三時前だった。

 

 西川沿いには明るい日差しが残り、ベンチでは親子が菓子を食べていた。母親が袋を持ち、子どもが中へ手を入れている。同じ菓子を何度もつかむので、母親が袋を遠ざけた。

 

 千穂は岡山駅まで歩いた。

 

 自宅へ帰るつもりだった。

 

 改札の前で津山線の時刻を見た。

 

 次の列車は十五分後に出る。

 

 千穂は津山行きの切符を買った。

 

 母には連絡しなかった。

 

 列車の中で何度か携帯電話を出した。電話帳から〈母〉を開き、発信の印に指を置いた。

 

 押さずに閉じた。

 

 仕事で間違いを重ねていること。上司から帰るように言われたこと。母と亨のことが頭から離れないこと。

 

 どれから話しても、母には同じことを言われる気がした。

 

 私のせいにしないで。

 

 津山駅へ着いたのは、五時前だった。

 

 順子は、突然訪ねてきた娘を見て驚いた。

 

「どうしたの」

 

「別に」

 

「仕事は?」

 

「早く終わった」

 

「そんな顔で?」

 

 順子は千穂を玄関へ入れた。

 

 上着を受け取ろうとすると、千穂は自分で椅子の背へ掛けた。

 

「夕食、食べていく?」

 

「何でもいい」

 

「何でもいいが、いちばん困るのよ」

 

「あるものでええよ」

 

「あるものを言っても、あなたは食べたくないと言うでしょう」

 

「今日は言わない」

 

「今日だけ?」

 

「お母さん、何でも聞き返さんと気が済まんの?」

 

「あなたが何も言わないからでしょう」

 

 千穂は黙った。

 

 目の下に、薄い影がある。

 

「仕事で何かあったの」

 

「何もない」

 

 順子は娘の顔を見た。

 

 以前、自分も同じ言葉を使った。

 

「千穂」

 

「少し休ませて」

 

 千穂は寝室へ入り、壁際の段ボール箱の前へ腰を下ろした。

 

「まだ開けてないの?」

 

「必要のないものだから」

 

「半年もそのままなら、捨てればいいでしょう」

 

「簡単に言わないで」

 

「私が片づけようか」

 

「触らなくていい」

 

 順子の声が強くなった。

 

 千穂は箱から母へ目を移した。

 

「その中にも、私には見せられないものがあるの?」

 

「いま、その話をしているんじゃないでしょう」

 

「何の話をしてるの。お母さんは何も話さんじゃない」

 

「仕事で何があったのか、先に話しなさい」

 

「お母さんと澤口さんのことを考えてて、日付を間違えた」

 

 順子の表情が変わった。

 

「私たちのことと、あなたの仕事は関係ないでしょう」

 

「そう言われても、頭から離れんのよ」

 

「昔、付き合っていた。それだけ話したでしょう」

 

「それだけで、どうしていまも会えないの?」

 

「千穂」

 

「お父さんと結婚したあとも、ずっと澤口さんのことを思ってたの?」

 

「何を言ってるの」

 

「だったら、どうして」

 

「あなたに説明する必要はないわ」

 

「私が仕事で会わなければ、聞かない。でも二人とも、私の前で何かを隠してる。澤口さんは何も言わない。お母さんは会うことさえ拒む。それで関係ないと言われても、分からんよ」

 

「分からなくていいこともあるの」

 

「誰が決めるの?」

 

 順子は何も返さなかった。

 

 千穂の肩が、小さく上下していた。

 

 怒っているのではない。息を整えようとしている。

 

 順子は、台所へ水を取りに行こうとした。

 

「どこへ行くの」

 

「水を持ってくるだけよ」

 

「いらない」

 

「喉が渇いているでしょう」

 

「お母さんは、そうやって違うことをする」

 

「水を持ってくることが?」

 

「話したくないことがあると、窓を閉めたり、お茶を入れたりする」

 

 順子は寝室の入口で立ち止まった。

 

「今日は帰りなさい」

 

「もう列車に乗りたくない」

 

「では、ここで休みなさい。箱には触らないで」

 

 千穂が立ち上がった。

 

「どうして、そんなに触らせたくないの」

 

「あなたには関係のないものだから」

 

「また、それ?」

 

 順子は一番下の箱を奥へ押そうとした。

 

 上に載っていた箱が傾いた。

 

 千穂が手を伸ばして支えた。

 

 下の箱の底が、片側だけ抜けた。

 

 古い手帳や封筒が床へ滑り落ちた。

 

 順子は膝をついた。

 

「触らないで」

 

 千穂も、散らばったものへ手を伸ばした。

 

 二人の間に、一通の封筒が落ちていた。

 

〈小坂順子様〉

 

 古い字で書かれている。

 

 差出人は、澤口亨だった。

 

順子が封筒を取ろうとした。

 

 千穂の手が先に触れた。

 

「返して」

 

「これ、澤口さんから?」

 

「返しなさい」

 

 封筒は長い年月で糊が弱くなっていた。千穂が持ち上げると口が開き、折り畳まれた便箋と古い紙幣が落ちた。

 

 順子は紙幣を拾った。

 

 千穂は便箋を見た。

 

 読もうとしたわけではなかった。

 

 開いた紙の中央に、短い文章があった。

 

〈先日は渡せなかったので送ります。費用の半分です。足りなければ知らせてください〉

 

「何の費用?」

 

 順子は紙幣を封筒へ戻そうとした。古い札は幅が合わず、角が引っ掛かった。

 

 床には、病院の領収書も落ちていた。

 

 産婦人科の名前と、大学四回生の冬の日付がある。

 

「お母さん」

 

 千穂が領収書へ手を伸ばした。

 

「見ないで」

 

 順子は先に拾い、紺色の手帳へ挟んだ。

 

「何の手術?」

 

「知らなくていい」

 

「また、それ?」

 

 千穂の声が震えた。

 

「澤口さんとの間に、何があったの」

 

 順子は床へ座ったまま、封筒を見た。

 

 四十数年前、津山の母へ電話をかけた夜を思い出した。

 

「何かあったん?」

 

 母は、すぐに気づいた。

 

「何もない。声が聞きたかっただけ」

 

 順子はそう答えた。

 

 受話器の向こうで、母はしばらく黙っていた。

 

 その夜に言えなかったことを、いま娘が聞いている。

 

「子どもができたの」

 

 千穂の顔から表情が消えた。

 

「私と、亨の間に」

 

 部屋の外で、冷蔵庫の音が止まった。

 

 静かになったのではなかった。

 

 それまで鳴っていたものが、一つなくなっただけだった。

 

「産まなかったの?」

 

「産めなかった」

 

「澤口さんに、そう言われたの?」

 

 順子は首を振った。

 

「何も言わなかった」

 

「何も?」

 

「少し考えさせてほしいと言ったまま、答えを出さなかった」

 

「どれくらい待ったの」

 

「覚えてない」

 

「覚えてないわけないでしょう」

 

「毎日待っていたから、何日だったかは覚えてないの」

 

 順子は古い紙幣を見た。

 

「私の身体は待ってくれなかった。それで、一人で病院を探した」

 

「一人で行ったの?」

 

「来なくていいと言ったから」

 

「それで、本当に来なかったの?」

 

 順子は、紙幣の角を指で伸ばした。

 

 千穂は壁へ背を預け、その場に座り込んだ。

 

「このお金、あとから送ってきたの?」

 

「そう」

 

「受け取ったんだ」

 

「返そうと思った」

 

「返してないじゃない」

 

「返すには、手紙を書かなければならなかったから」

 

「お金だけ送り返せばよかったでしょう」

 

「そうね」

 

「使わなかったの?」

 

「使えると思う?」

 

「じゃあ、どうして持ってたの」

 

 順子は答えなかった。

 

 古い紙幣は、いまでは店へ持っていっても使えるかどうか分からない。使わなかったことで、許さなかったつもりだった。

 

 捨てなかったことで、何を残したかったのかは分からない。

 

「どうして、いままで」

 

 千穂が言った。

 

「誰に話せばよかったの」

 

「お父さんは知ってたの?」

 

「全部は話していない」

 

「どこまで?」

 

「前に好きだった人がいたことは知ってた」

 

「子どものことは?」

 

 順子は首を振った。

 

「私が生まれたときは?」

 

「何?」

 

「その子のことを思い出した?」

 

 順子はすぐに否定できなかった。

 

 千穂の目が揺れた。

 

「思い出したの?」

 

「思い出したことはある」

 

 千穂は顔を伏せた。

 

「でも、あなたを代わりだと思ったことは一度もない」

 

「同じじゃないの」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

「思い出すことと、代わりにすることは違うでしょう」

 

「生まれたばかりの私を見ながら、別の子を思い出したんでしょう」

 

「そうよ」

 

 順子は嘘をつかなかった。

 

 千穂の顔が上がった。

 

「あなたが生まれたとき、私はうれしかった。指が五本あることも、爪が小さかったことも覚えてる。看護婦さんが、髪の多い赤ちゃんだと言ったことも」

 

「そんなことを聞いてるんじゃない」

 

「でも、私はそのことを覚えてる」

 

 順子は娘へ手を伸ばしかけた。

 

 千穂は、わずかに身体を引いた。

 

 順子は手を膝へ戻した。

 

「うれしいだけじゃなかったんでしょう」

 

「そうよ」

 

「怖かった?」

 

「怖かった」

 

「何が?」

 

「あなたまで、いなくなるんじゃないかと思った」

 

「私は、その子じゃない」

 

「分かってる」

 

「分かってたら、そんなふうに思わないでしょう」

 

「人は、分かっていることだけを思うわけじゃないのよ」

 

「ずるい言い方」

 

「そうね」

 

 順子は床に散らばった手帳や封筒を集めた。

 

 亨から送られた紙幣を封筒へ戻そうとしたが、指が震え、また角が引っ掛かった。

 

 千穂が手を伸ばした。

 

 順子は封筒を渡さなかった。

 

「入らないんでしょう」

 

「入るわよ」

 

「さっきから入ってないじゃない」

 

「古くなって、封筒が縮んだの」

 

「紙は、そんなに縮まないよ」

 

「では、お札が大きくなったんでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「こんなときまで、何を言ってるの」

 

「入らないんだから、仕方ないでしょう」

 

 順子は紙幣を二つ折りにしようとした。

 

「折らない方がいいよ」

 

「もう折り目がついてるわ」

 

「そうだけど」

 

 千穂は手を引いた。

 

 順子は紙幣を元の折り目に沿って畳み、封筒へ入れた。

 

 窓の外が暗くなり始めている。

 

 千穂が立ち上がった。

 

「帰るの?」

 

「少し外を歩いてくる」

 

「もう暗くなるわよ」

 

「子どもじゃない」

 

 千穂は上着を取り、玄関へ向かった。

 

「千穂」

 

 順子が呼び止めた。

 

 娘は振り返らなかった。

 

「あなたに、亨を憎んでほしくて話したんじゃない」

 

 千穂は玄関の扉に手を掛けた。

 

「お母さんが話したんじゃない。私が見つけたの」

 

 扉が閉まった。

 

 順子は散らばったものを一つずつ箱へ戻した。

 

 手帳。

 

 病院の領収書。

 

 亨の封筒。

 

 夫のネクタイを買った店の古い伝票まで出てきた。

 

 順子は一番上に封筒を置いた。

 

 箱の底は抜けている。

 

 持ち上げれば、また全部落ちる。

 

 順子は箱をその場所に置いたまま、寝室の明かりを消した。

 

 暗くなっても、白い封筒だけがしばらく見えていた。

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『 あの人は、今 』

 

第六章 仕事になっていく

 

最初の依頼から三か月。

 

問い合わせは少しずつ増えた。

 

テレビに出たわけでもない。

 

大きな広告を打ったわけでもない。

 

最初の依頼者が知人に話し、その知人がまた別の人に話した。

 

口コミだった。

 

依頼内容は様々だった。

 

高校時代の親友。

 

昔の職場の同僚。

 

若い頃に一度だけ会った人。

 

転勤で離れた元上司。

 

そして、かつて好きだった人。

 

恋愛感情が絡む依頼は慎重にした。

 

相手の生活を乱す可能性がある。

 

何のために探すのか。

 

会えなかった場合、どうするのか。

 

相手が連絡を拒否した場合、受け入れられるのか。

 

答えが曖昧なら、仕事を受けなかった。

 

売上だけを考えれば、受けたほうがいい。

 

しかし、二人は最初のルールを崩さなかった。

 

その代わり、調査そのものの質を上げた。

 

古い新聞。

 

図書館。

 

学校の同窓会資料。

 

自治体の公開情報。

 

企業の沿革。

 

地域の記録。

 

本人が公開している情報。

 

必要に応じて、弁護士や行政書士にも相談した。

 

調査員を名乗って街を歩き回るような仕事にはしなかった。

 

机の前で資料を眺める時間のほうが長い。

 

資料の中に残っているのは、住所だけではない。転勤、退職、引っ越し、誰かの記憶。そういう小さな跡を追っていくと、人の時間が見えてくる。

 

その感覚が、二人の会社を少しずつ形にしていった。

 

第七章 母の京都

 

会社が半年を迎えた頃、尾道の父から電話があった。

 

母の写真を整理していたら、古い手紙が出てきたという。

 

京都からの手紙だった。

 

父から送られてきた写真を見る。

 

古い便箋。

 

差出人の名前は消えていた。

 

最後の一行だけが読めた。

 

――もし、いつかまた会える日が来たら、あの頃の続きを話しましょう。

 

恭一は画面を見つめた。

 

母が最後に思い出していた京都の友人。

 

その人から届いた手紙。

 

父が言っていた、思い出す人。

 

別々だったものが、一つにつながり始めた。

 

その夜、岩城に話した。

 

会社として受けた依頼ではない。

 

母のことだ。

 

仕事と私生活の境目が初めて曖昧になった。

 

恭一は決めた。

 

母のことは、会社の仕事にはしない。

 

自分が息子として調べる。

 

第八章 京都の四月

 

京都へ着いたとき、桜はほとんど散っていた。

 

川沿いには薄い花びらが残っている。

 

地面の隅に寄り集まり、風が吹くと少しだけ動いた。

 

母の写真に写っていた喫茶店を探した。

 

店はもうなかった。

 

建物も建て替えられている。

 

近所の古い店で話を聞くと、昔そこに喫茶店があったことは分かった。

 

当時の店主は亡くなっていた。

 

家族が覚えていたのは、よく写真を撮る若い男だった。

 

店の手伝いをしていたらしい。

 

客を勝手に撮るような男だったという。

 

恭一は名前を聞いた。

 

知らない名前だった。

 

だが、その瞬間、母のアルバムにあった「京都 四月」が、ただの文字ではなくなった。

 

母は尾道から京都へ来ていた。

 

誰かに会うために。

 

その可能性が高くなった。

 

写真の中の母は、誰かに見られている顔ではなく、誰かを見ている顔をしていた。

 

恭一は、写真の中の母をしばらく見ていた。

 

自分が子供の頃、母は朝になると必ずカーテンを開けた。雨の日でも同じだった。暗い部屋が嫌いだったのだと思う。機嫌の悪い朝には、新聞を畳む音が妙に大きかった。

 

そんな母にも、自分の知らない時間があった。

 

そのことが、恭一には少し悔しかった。母のことなら何でも知っているつもりでいたわけではない。それでも、母が自分の知らない顔を持っていたことを、息子として素直には受け入れられなかった。

 

第九章 写真の男

 

写真に写っていた男の名前を手掛かりに調べる。

 

過去の住所。

 

会社。

 

古い写真館。

 

地域の記録。

 

いくつかの線が見えた。

 

だが、決め手がない。

 

そんな中、母の友人から手紙が届いた。

 

そこには、写真の男について書かれていた。

 

男は、母が若い頃に好きだった人だった。

 

二人は京都へ行こうとしていた。

 

男は先に京都へ行った。

 

母も京都へ行った。

 

ところが、母は戻ることを選んだ。

 

父のところへ。

 

その女性は、二人が喧嘩した理由も話した。

 

どちらが正しかったのかではない。

 

二人とも、自分だけが傷ついたと思っていた。

 

だから謝れなかった。

 

その小さな行き違いが、四十年を越えて残った。恭一は、母にも自分の知らない時間があったのだと思った。

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『 5年越しの手紙 』

 

第一章  踏み出せない一歩と、擦れ違う演奏会

 

都心の夜景を見下ろす、築地のWeb出版社。

 

午後七時を回り、フロアの照明が少し落とされたオフィスで、白石美穂はパソコンの画面に向かってカタカタとキーボードを叩いていた。

 

二十八歳。

 

ライフスタイルWebメディア『Transit』のシニアエディターとして、過密な編集スケジュールをこなす毎日を送っている。

 

「美穂ちゃん、今日の入稿、チェック終わったよ」

 

低く落ち着いた声とともに、デスクの脇に温かいマグカップが置かれた。

 

香ばしいほうじ茶の香りが立ち上る。

 

見上げると、同僚でありパートナーでもある佐伯哲也が、優しく目を細めて微笑んでいた。

 

三十歳。

 

メディア事業部の営業デスクを務める彼は、社内でも信頼が厚く、誰に対しても分け隔てなく誠実な男だった。

 

「ありがとう、哲也さん。助かる……」

 

「無理しないでね。明日からの大阪出張も控えてるんだから」

 

二人の関係が始まって、もう二年になろうとしていた。

 

周囲の同僚たちからも「お似合いのカップル」として温かく見守られており、哲也は美穂の仕事に対する熱意を誰よりも理解し、支えてくれていた。

 

先月には、彼から「来年の春あたり、品川か恵比寿あたりで一緒に住む部屋を探さないか」という言葉ももらっていた。

 

(本当なら……すごく幸せなはずなのに)

 

美穂は温かいマグカップを両手で包み込みながら、胸の奥に落ちている小さな冷たい澱(おり)を感じていた。

 

哲也のことは、心から大切に思っている。

 

彼の優しさも、誠実さも、自分に向けられる真っ直ぐな好意も、すべて愛おしい。

 

けれど――彼の踏み込んだ申し出に対して、美穂はどうしても「はい」とうなずくことができなかった。

 

一緒に暮らす物件のサイトを見せられても、どこか言葉を濁し、深い関係へと踏み出す最後の最後で、無意識に一歩引いてしまう。

 

「美穂」哲也が少し表情を曇らせ、美穂の顔を覗き込んだ。

 

「……どうしたの? 最近、どこか遠くを見ているみたいだ。僕、何か気に触ること言ったかな」

 

「ううん、そんなことないの。哲也さんは何も悪くないよ。ただ……ちょっと仕事の疲れが溜まってるだけ」

 

美穂は咄嗟に作り笑いを浮かべ、視線を画面に戻した。

 

心の中で自分が嫌になる。

 

なぜ自分は、こんなにも自分を大切にしてくれる哲也に対して、心の本当の扉を開くことができないのか。

 

理由を説明しようにも、自分自身がその理由に向き合うことを恐れ、頑なに心を閉ざしてしまっていた。

 

「哲也さーん! 今日の打ち合わせ資料、確認してもらっていいですか?」

 

屈託のない明るい声とともに立ち上がったのは、半年前に入社してきた編集部の若手、杉村愛香だった。

 

二十四歳の愛香は、人懐っこく素直な性格で、誰からも愛されるタイプだった。

 

彼女が哲也に向ける親しみやすさはごく自然なもので、そこに悪意や計算らしきものは感じられない。

 

「あ、愛香ちゃん。いいよ、今行く」

 

哲也が美穂のデスクを離れ、愛香の席へと向かう。

 

愛香は「ありがとうございます!」と笑顔を向け、PC画面を覗き込ませた。

 

美穂が自ら作った距離の隙間に、愛香がごく自然に収まっている。

 

哲也も愛香を無下に扱うようなことはしない。

 

美穂は手元の書類を整理するフリをしながら、ぎゅっと唇を噛み締め、視線を落とした。

 

胸の痛み。

 

けれど、自分自身が哲也との距離を拒み、彼の手をほどいている以上、愛香の自然体な振る舞いを責める権利などどこにもないのだ。

 

*

 

その日の夜、哲也は美穂を会社の近くの静かなイタリアンバルに誘った。

 

ワイングラスを傾けながら、哲也がポケットから二枚のチケットを取り出した。

 

「これ……今週の木曜日の夜、サントリーホールであるサックスとピアノのコンサートなんだ。美穂、前に行きたいって言ってたでしょ? 奇跡的に良席が取れたんだ」

 

チケットに記された日付は、美穂が大阪へ出張する前日の夜だった。

 

「……ごめん、哲也さん」美穂は目を伏せた。「木曜日は、大阪出張の最終準備があって……夜遅くまで編集部に残らなきゃいけないの。せっかく取ってくれたのに、本当にごめんね」

 

それは半分は本当で、半分は嘘だった。

 

準備は繰り上げれば終わるものだった。

 

けれど、コンサートの後の穏やかな時間の中で、哲也から再び将来のことを切り出されるのが怖くて、逃げてしまったのだ。

 

哲也は一瞬、寂しげな笑みを浮かべた。

 

「そうか……仕事なら仕方ないね。気をつかわないで」

 

「……誰か、他の人と行ってきて。無駄にしちゃうのは勿体ないから」

 

自分が口にした言葉でありながら、胸がちくちくと痛んだ。

 

哲也は小さく息を吐き、「わかった。考えておくよ」とだけ言った。

 

そして、木曜日の夜。

 

予定通り残業をしていた美穂の耳に、編集部の給湯室から愛香の声が届いた。

 

「ええ、今夜哲也さんとサントリーホールなんです。美穂さんが行けなくなっちゃったみたいで、代わりに誘っていただいて……すごく楽しみ!」

 

愛香の声に浮ついた自慢の響きはなく、ただ素直に楽しみにしている様子だった。

 

だからこそ、美穂の心にはいっそう重く響いた。

 

悲しい。

 

苦しい。

 

それなのに、自分からその手を解いてしまったのだ。

 

夜九時半。

 

すべての出張準備を終え、美穂がオフィスを出ようとしたとき、スマートフォンの画面が光った。

 

哲也からのメッセージだった。

 

『コンサート終わったよ。愛香ちゃんも喜んでくれてた。……でもね、やっぱり僕は、美穂と一緒に行きたかったな。美穂と聴きたかった』

 

画面に浮かんだその一文を見た瞬間、美穂の目からハラハラと涙がこぼれ落ちた。

 

どこまでも誠実で、自分を求めてくれる哲也の言葉。

 

それが痛いほど嬉しく、そして同時に、自分の不甲斐なさがたまらなく情けなかった。

 

どうしても彼との心の距離を縮められないまま、美穂は翌朝、逃げるような想いを抱えて品川駅から新幹線に乗り込み、大阪への出張へと向かったのだった。

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『 続編 尾道の坂を下って 』

 

最終章 花火の夜

 

 その日は、尾道の夏を告げる住吉神社の祭りの夜だった。

 

 夕刻が近づくにつれ、尾道水道の沿道には色鮮やかな露店が立ち並び、ソースの焦げた匂いや甘い綿菓子の香りが潮風に乗って漂い始めた。

 

 浴衣を着た子どもたちが下駄の音をカランコロンと鳴らして駆け抜け、遠くの対岸にも祭りの灯りがポツポツと点り始める。町全体が、年に一度の特別な熱気に包まれていた。

 

 駅の改札口前で、大きなボストンバッグを抱えた和樹が佇んでいた。

 

 いよいよ、大阪行きの電車に乗る時間が迫っている。見送りに来ていたのは、テルさん一人だった。

 

「忘れ物はないんか」

 

 テルさんが腰に手を当てて尋ねる。

 

「ないですよ」

 

「本当に?」

 

「たぶん」

 

「『たぶん』じゃ困るんじゃ。切符はあるんか」

 

 和樹は苦笑いしながら鞄のポケットをまさぐり、乗車券と父親からもらった古い写真を確かめた。

 

「大丈夫です。全部入ってます」

 

「それならええ」

 

 テルさんは短く頷いた。

 

 ホームに黄色い警告音が響き、ゆっくりと電車が滑り込んできた。和樹はドアの前で立ち止まり、テルさんに向かって軽く頭を下げた。

 

「テルさん、親父のこと、たまに見てやってください」

 

「あんな頑固オヤジ、誰も見たくもないわ」

 

 テルさんはそっぽを向いたが、扉が閉まる直前、思い出したように財布をガサガサと漁り始めた。増えた小銭の中から、小さな銀色のコインを三枚取り出すと、和樹の手の中に強引に押し付けた。

 

「これ持っていけ」

 

「……また三百円ですか?」

 

「今度は返さなくてええ。投げて捨てるなり、好きにしろ」

 

「何に使えばいいんですか」

 

「困ったときに自分で考えろ。大阪の街で腹が減ったら、これでうどんでも食え」

 

和樹は手のひらの三百円を見つめ、やがて爽やかな笑顔を浮かべた。

 

「……ありがとうございます。行ってきます」

 

 プシューッとドアが閉まり、電車がゆっくりと走り出す。窓越しに和樹が手を振るのを、テルさんは小さく手を振り返しながら見送った。電車が夜の闇へと消えていくまで、テルさんはホームに立ち続けていた。

 

 ヒュゥゥゥゥ……と、空を切り裂くような高い音が響いた。

 

 ドーン!

 

 一発目の大きな花火が尾道の夜空に打ち上がり、大輪の光が海面を鮮やかに染め上げた。遅れて届くお腹に響く重低音が、尾道水道の街並みに重く反響する。

 

 その音を、ハルさんの家の茶の間で、ポータブルレコーダーが静かに拾っていた。

 

 ハルさんは新しい乾電池に入れ替えたカセットレコーダーを窓際に置き、録音ボタンを押していた。花火の音、遠くの波音、人々の歓声、露店の笛の音。街に満ちるあらゆる生きている音が、磁気テープの中に重ねられていく。

 

 その頃、坂の下から一人の女性が歩いてきていた。

 

 両手に重い荷物を持った里奈だった。

 

 足元のアスファルトの感触。踏み締めるたびに太腿にかかる確かな負荷。少し歩いただけで息が上がり、胸の奥が温かくなる。

 

 平らじゃない道を、里奈は噛み締めるように歩いていた。

 

 坂の途中で、寺の石垣にもたれかかって花火を見上げていたテルさんが、足音に気づいて振り返った。

 

 二人の視線が交差する。

 

 里奈は立ち止まり、額の汗を拭うと、深く息を吸い込んだ。

 

「……ただいま」

 

 テルさんはしばらくの間、黙って里奈の顔を見つめていた。何ヶ月か前よりも少し痩せたような、けれどどこか吹っ切れたような晴れやかな表情。

 

 テルさんは深く刻まれた顔のシワを少しだけ緩め、いつものぶっきらぼうな声で言った。

 

「腹、減っとるか?」

 

 里奈は拍子抜けしたように、けれど心底嬉しそうに笑った。

 

「少し」

 

「じゃあ、何か食べて帰ろう。栗原さんとこで煮物をもらったんじゃ」

 

「うん」

 

 二人は並んで坂を歩き始めた。

 

 里奈がなぜ戻ってきたのか、大阪で何があったのか、テルさんは聞かなかった。ただ、当たり前のように隣を歩いた。

 

 ヒュゥゥゥ……ドーン!

 

 二発目、三発目の花火が打ち上がり、夜空を赤や金に染め上げた。

 

 坂の上から、祭りの提灯の明かりが温かく二人を照らしている。

 

 里奈はふと足を止め、振り返って坂の下を見た。

 

 遠くの大阪にも、京都にも、これから大阪へ向かう和樹の先にも、それぞれの夜がある。

 

 上り坂の途中で立ち止まる人もいれば、来た道を戻る人もいる。知らない町へ向かう人もいる。

 

 その途中で、誰かとすれ違う。猫を捜す。古いカセットの歌を聴く。三百円を渡したり、手渡されたりする。

 

 そういうことが、あとになって思いがけず残ることもある。

 

 ハルさんの家の窓から、カセットレコーダーの小さな回る音が聞こえる気がした。

 

 花火の音。潮騒の音。祭りの熱気。そして、坂道を行き交う人々の足音。

 

 テルさんが振り返る。

 

「どうした、里奈。足が止まっとるぞ」

 

「今朝早くについて、ずーっと歩いていたんです」

 

「朝から、ずーっとかい。若いね」

 

「尾道は久しぶりだから、海沿いも山沿いもこの前に来た時は、ほとんど歩けてなかったので、ぶらぶら歩いてたんです」

 

「どうだった?」

 

 テルさんは打ち上がる花火を見ながら聞いた。

 

 里奈の目には涙が溢れて、花火が二重にも三重にも滲んで見えた。

 

「無理して帰っとこんでも良かったのに」

 

 その横顔を見てテルさんが言った。

 

「無理してません。久しぶりに会えたんですよ」

 

 テルさんは里奈の荷物に手をかけた。

 

「明日から、いやでも会えるよ」

 

 二人が坂の方を振り返ると、今夜も温かい灯りがついていた。

 

(おわり)

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十三章 京都へ戻る前に

 

 翌朝になっても、四人の気持ちは長崎の街から離れなかった。

 

 ホテルの窓から見える山の斜面には、昨夜と同じように家々が並び、その間を細い坂道が縫うように続いている。路面電車が通り過ぎ、朝の街が少しずつ動き始めている。観光地として見れば、どこにでもある旅先の朝なのだろう。

 

 けれど、孝には、その景色の一つ一つが別の意味を持って見えた。

 

 自分たちは長崎の歴史を見に来た。

 

 キリシタンの歴史を知り、外国との交流によって形づくられた街を歩き、原爆によって一度大きく姿を変えた街が、どのように現在へ続いているのかを見てみたいと思っていた。

 

 ところが、いつの間にか、その歴史の中に自分の家の名前が入り込んでいた。

 

 しかも、それは祖父の代より前の話であり、本人さえ詳しく知らなかった過去だった。

 

 朝食を終えたあと、四人はすぐに荷物をまとめず、テーブルの上に昨夜の写真を並べた。九番。十二番。四番。そして、祖父の箱。

 

 それぞれが別々の出来事だと思っていたものが、少しずつ一本の線につながり始めている。ただし、その線の先に何があるのかは、まだ見えない。

 

 むしろ、わかってきたことよりも、わからなくなったことのほうが多かった。たとえば、エリアス・ローレンスの存在である。

 

 彼はユウスケを助けた人物なのか、それとも単にユウスケと関わっただけなのか。高瀬宗一郎との関係も不明なままだった。

 

 さらに、四番に現れた二人の男のうち、一人は古い記録を守ろうとしているように見え、もう一人はそれを探しているように見えたが、どちらが味方なのかさえ断定できない。

 

 そして何より、昨夜、車の窓から顔を見せた女性のことがある。沙羅が見覚えのある顔だと言った女性。祖母の古い写真に写っていた人物によく似ていた。

 

 しかし、写真に写っている女性は、祖母と同じ世代の人間だった。仮に本人であれば、現在生きているとは考えにくい。ならば、娘なのか、孫なのか。あるいは、顔立ちが似ているだけの別人なのか。それすら確認できていない。

 

 四人の中で、最も現実的な判断をしたのは涼子だった。

 

 まず祖母の母親、つまり沙羅の曽祖母にあたる人物について、家族関係を確認する必要がある。そこから辿れば、昨夜の女性が誰なのか見えてくるかもしれない。だが、沙羅は首を横に振った。母親に聞けば、たぶん何か知っている。

 

 けれど、今の段階で聞けば、祖母が隠してきたことを無理に掘り返すことになる。その躊躇には、孝にも理解できるものがあった。歴史を調べることと、家族の記憶に踏み込むことは、同じではない。

 

 歴史上の人物なら、名前を調べ、資料を読み、わからなければ仮説を立てればいい。しかし、家族の過去には、生きている人間の感情が残っている。知らないほうがよかったことまで知ってしまう可能性がある。

 

 それでも、今回は避けて通れそうになかった。孝の父から届いたメールが、そのことをはっきり示している。

 

 祖父の箱が見つかった。中に孝の名前が書かれた写真が入っている。帰る前に、長崎で確認してほしいことがある。最後の一文が気になった。父は、何を確認してほしいのか書いていない。

 

 孝が電話をかけると、父はしばらく黙ったあと、ようやく話し始めた。祖父の箱を見つけたのは、父ではなかった。

 

 家の物置を整理していたとき、箱の存在に気づいたらしい。鍵はなかったが、蓋はすでに少し開いていた。中を確認すると、古い写真と紙の束が入っていた。そして、一枚の写真に孝の名前が書かれていた。

 

 父が不思議に思って裏返すと、写真の裏には日付があった。

 

1986年8月9日。

 

 孝が生まれるより前の写真だった。

 

 そのため、父は最初、孝の名前ではなく別の「孝」という人物のことだと思ったという。

 

 しかし、写真の裏に書かれた住所を見て考えが変わった。そこは、現在の孝の家の住所と同じ地域だった。

 

 父はそこで初めて、祖父が残したものが、自分の家族と長崎を結ぶ何かではないかと考えた。さらに、箱の底には一枚の紙が敷かれていた。そこには、祖父の字でこう書かれていた。

 

「長崎で九番を見たら、京都へ戻る前に海を見ること。」

 

 孝は、その言葉を聞いた瞬間、昨夜までの出来事が頭の中で一気につながった。九番。海。京都へ戻る前。それは、四人がこれから行くべき場所を示しているのではないか。父は続けた。

 

 祖父は長崎から帰ってきたあと、しばらくの間、毎年八月九日に海を見に行っていたらしい。どこの海なのかはわからない。ただ、京都に住んでからも、その習慣だけは何年も続いていた。孝は電話を切ると、四人の顔を見た。

 

 誰も「観光に行こう」とは言わなかった。

 

 けれど、もう一度だけ長崎の海を見る必要があることは、全員が理解していた。

 

*

 

 四人が向かったのは、長崎港だった。

 

 朝の港には、観光客だけでなく、仕事へ向かう人や船を待つ人の姿がある。海は穏やかで、昨夜までの緊張が嘘のようだった。孝は、港の端に立って海を見た。祖父は、何を見ていたのだろう。海そのものなのか。船なのか。

 

 それとも、その向こうにある場所なのか。

 

 九番で見つけた古い記録には、外国人との交流や宗教に関する名前がいくつも残されていた。長崎には、外から人が入り、外へ人が出ていく歴史がある。

 

 江戸時代には限られた場所だけが海外との窓口となり、幕末には外国人居留地が生まれ、近代には港がさらに大きな役割を担った。その一方で、浦上には長いあいだ信仰を守り続けた人々がいた。

 

 そして、原爆によって街の多くが失われた。それでも港は残った。

 

 船が出入りし、人が行き来し、記憶もまた別の土地へ運ばれていった。

 

 孝は、祖父の箱も、そのようにして長崎から京都へ運ばれたのではないかと思った。ところが、海を眺めていると、涼子が少し離れた場所から孝を呼んだ。港の古い倉庫の一つに、見覚えのある印があるという。

 

 四番で見たものと同じだった。

 

 小さな十字と、その下に刻まれた数字。

 

17。

 

 孝は倉庫へ近づいた。扉には鍵がかかっている。観光客が勝手に入れる場所ではない。それでも、印の位置だけは確認できた。四番の地下室で見つけたものと同じ形だった。すると、浩一が古い地図を取り出した。

 

 倉庫の位置を確認する。そこから海側へ線を引くと、長崎港の一角にある小さな桟橋へつながる。

 

 さらに地図を遡ると、そこには戦前の港湾施設があったことがわかった。つまり、九番、十二番、四番は、それぞれ独立した場所ではない。人と物を移動させるための経路に沿っている。

 

 記録を守る人間が、必要なものを一か所に置かず、複数の場所へ分散していた可能性が高い。そのとき、沙羅が倉庫の前に置かれていた古い金属板に気づいた。錆びていて読みにくい。けれど、そこには英語と日本語が並んでいる。

 

 そして、その下に小さく「L」と刻まれていた。

 

 ローレンス。四人は顔を見合わせた。エリアス・ローレンスは、単なる外国人ではなかった。この港を使って、何かを運んでいた可能性がある。何を運んだのか。人なのか。書類なのか。宗教に関わるものなのか。

 

 それとも、もっと別のものなのか。まだわからない。ただ、孝には一つの仮説が浮かんだ。

 

 四番に残されていた「名前」の記録は、人間そのものを隠すためのものだったのではないか。

 

 禁教の時代、信仰を持つことを知られれば命に関わることがあった。

 

 外国との往来が厳しく制限されていた時代には、外国人と接触すること自体が危険だった。

 

 そして戦争になれば、敵国と関係する人物の名前はさらに危険なものになる。だから、名前を消した。あるいは、別の名前に置き換えた。けれど、本当に消してしまえば、その人が生きていた証までなくなる。

 

 そこで誰かが、秘密の記録として名前を残した。九番。十二番。四番。それぞれに分けて。

 

 長崎という街の歴史の裏側には、表の歴史には残らなかった人々の記録が、ひっそりと受け継がれてきたのかもしれない。孝は、そこまで考えてから、ふと違和感を覚えた。ならば、なぜ自分の名前がそこにあるのか。

 

 自分の家族は、何を受け継いだのか。その答えは、京都にある祖父の箱の中に残されているはずだった。

 

*

 

 港を離れる頃には、昼近くになっていた。京都へ戻る列車の時間が迫っている。四人は駅へ向かった。しかし、途中で沙羅のスマートフォンが鳴った。母親からだった。祖母が目を覚ましたという。

 

 そして、目を覚ました祖母が最初に尋ねたのは、沙羅たちがもう京都へ帰ったかどうかだった。

 

 沙羅がまだ長崎にいると伝えると、祖母は少し黙り、それから一つだけ伝えてほしいことがあると言った。四番へ行ったか。沙羅は答えなかった。すると祖母は、それでいい、と言った。行ったことを責めているのではない。

 

 ただ、四番を見たのなら、もう長崎を離れてはいけないという。理由を尋ねると、祖母はこう答えた。

 

 「京都に帰る前に、もう一人だけ会わなければならない」

 

 その名前を聞いた瞬間、沙羅の表情が変わった。

 

 祖母が口にしたのは、高瀬宗一郎でも、エリアス・ローレンスでもなかった。昨夜、四番の前から立ち去った人物でもない。それは、四人がまだ一度も聞いたことのない名前だった。

 

中谷孝の祖父。

 

 孝は、言葉を失った。祖父はもう亡くなっている。会えるはずがない。しかし、祖母は続けた。会うのは本人ではない。祖父が最後まで守っていた場所へ行けばいい。そこには、祖父が誰にも渡さなかった最後の記録が残っている。

 

 場所を尋ねると、祖母は一度だけ咳き込み、それから静かに住所を告げた。長崎市内。四番から遠くない。

 

 しかも、その場所は現在、観光案内には載っていない小さな古い墓地だった。電話が切れたあと、四人は駅へ向かう足を止めた。京都へ戻る列車は、まだ間に合う。しかし、ここで帰れば、二度と見つけられないかもしれない。

 

 孝は、自分の中にある恐怖と好奇心が、ようやく同じ方向を向いたことを感じていた。これはもう、自分だけの問題ではない。

 

 祖母も、父も、亡くなった祖父も、そして長崎で何十年ものあいだ名前を守ってきた人々も、どこかで同じ一本の線につながっている。四人は駅とは反対の道へ歩き始めた。その途中、孝は何気なく後ろを振り返った。

 

 駅の前に、一人の女性が立っている。昨夜、車の窓から顔を見せた人物だった。女性はこちらを見ている。

 

 追ってくる様子はない。ただ、孝たちがどちらへ向かうのかを確かめているようだった。孝が立ち止まると、女性はゆっくり手を上げた。その手には、一枚の白い封筒があった。

 

 そして女性は、それを駅前のベンチに置くと、そのまま人混みの中へ消えていった。孝が封筒を拾う。表には何も書かれていない。中には、一枚の写真だけが入っていた。写真は、長崎ではなかった。京都だった。

 

 孝が生まれる前の、古い京都の町並み。写真の中央に、若い祖父が立っている。

 

 その隣には、見知らぬ外国人男性がいる。そして、二人の後ろに、現在の孝の家が写っていた。写真の裏には、こう記されていた。

 

「長崎で始まったのではない。」

 

 その下に、もう一行。

 

「すべては、京都から始まった。」

 

 孝は写真を握ったまま、しばらく動かなかった。長崎を調べるために来たはずだった。

 

 けれど、自分たちが追いかけていた謎の出発点は、最初から長崎ではなかったのかもしれない。そして、その先にあるのは、祖父の過去だけではない。孝自身の家に、今も残されている何かだった。

 

 四人は、京都へ帰る列車を見送った。

 

 そして、祖母から告げられた古い墓地へ向かって歩き始めた。長崎で過ごす予定だった最後の日が、もう一日延びることになった。しかし四人はまだ知らなかった。墓地で待っているのが、祖父の残した記録だけではないことを。

 

 そして、その墓地には、四番の地下室で見つかった黒い手帳の最後の頁に記された名前が、もう一つ残されていることを。』

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『 花びらの積もる道 』

 

第五章 小さな間違い

 

 鶴山公園で洋子と別れてから数日後、千穂の担当する展示が始まった。

 

 表町の空き店舗には、岡山へ移ってきた人たちの写真や文章が並んだ。県外から飲食店を開いた夫婦。子どもの進学をきっかけに来た家族。定年後に移り住んだ亨と洋子。

 

 亨の紹介文の横には、旭川から見た岡山城の絵が掛けられていた。

 

 黒い城の周りには、思いのほか多くの色が使われている。川面には薄い青と灰色が重なり、空には淡い黄色が残っていた。近くで見ると、何度も線を消した跡が分かった。

 

 初日の朝、千穂は開場前の店内を一人で見て回った。

 

 説明文を読み、写真の傾きを直し、来場者用の用紙を入口へ置く。

 

 亨の絵の前で足が止まった。

 

〈知らない町ではなく、これから暮らす町として岡山を見るようになりました〉

 

 千穂が聞き取りをもとに書いた文章である。

 

 その下には、亨の言葉として、

 

〈同じ景色でも、昨日と今日では違って見えます〉

 

と添えた。

 

 写真の角が少し浮いていた。千穂は両手で押さえた。

 

 手を離すと、また同じところが浮いた。

 

 開場すると、近所の人や買い物途中の客が少しずつ入ってきた。大きな展示ではない。それでも昼前には、十人ほどが店内にいる時間もあった。

 

「この絵を描いた方、今日は来られますか」

 

 年配の女性に尋ねられ、千穂は受付の予定表を見た。

 

「午後一時頃に来られる予定です」

 

「岡山城の話を聞いてみたいわ」

 

「お伝えしておきます」

 

 女性は絵の前へ戻った。

 

 千穂は予定表へ印をつけようとして、手を止めた。

 

 亨が来るのは一時ではない。

 

 二時だった。

 

 予定表には、はっきり二時と書いてある。数字の二には、千穂自身が赤い丸までつけていた。

 

 女性を追いかけた。

 

「すみません。澤口さんが来られるのは二時でした」

 

「あら、そうなの」

 

「申し訳ありません」

 

「それなら、買い物してから戻ってきます」

 

 女性は気にした様子もなく店を出た。

 

 時間を一つ間違えただけだった。

 

 千穂は受付へ戻り、予定表をもう一度見た。

 

 二時という数字が、一時に見えるはずはない。

 

 それでも、口から出たのは一時だった。

 

 午後、亨は予定どおり二時前に来た。

 

 絵の前で待っていた女性に声をかけられ、岡山城について話し始めた。

 

「黒いお城ですけど、黒だけでは描けないんですね」

 

「そうなんです。黒やと思うてるものの中にも、いろんな色がありますから」

 

 女性は絵へ顔を近づけた。

 

「ここは、紫ですか」

 

「黒にしたかったんですけどね」

 

「紫に見えます」

 

「ほな、紫なんでしょう」

 

 亨が笑った。

 

 千穂は受付から二人を見ていた。

 

 母は、亨の名前を聞いただけで窓を閉めた。住所も電話番号も教えるなと言った。

 

 いま絵の前で笑っている男性と、母の閉めた窓が結びつかなかった。

 

 亨が女性との話を終え、受付へ来た。

 

「今日は、何時までおったらええですか」

 

「四時までお願いしています」

 

 千穂は予定表を指で確かめてから答えた。

 

「先ほど、時間を間違えて伝えてしまって」

 

「僕の来る時間を?」

 

「一時と。すぐに訂正しました」

 

「そうですか」

 

「ご迷惑はかけていません」

 

 亨は千穂の顔を見た。

 

「疲れてるんやないですか」

 

「大丈夫です」

 

「展示が始まるまでは、忙しかったでしょう」

 

「仕事ですから」

 

 少し強い声になった。

 

 亨は何も言わず、入口に置かれた用紙を一枚取った。

 

 表を見て、裏を見た。

 

「これ、裏にも書くところがあるんですね」

 

「はい。ご意見があれば」

 

「表だけやと思うてました」

 

「そう思う方もいるかもしれませんね」

 

 千穂は用紙の置き方を変えた。

 

 裏にも記入欄があると分かるよう、一枚だけ裏返して置いた。

 

 それだけで少し落ち着いた。

 

 夕方、展示を閉め、市役所へ戻った。

 

 机の上には、別の部署から届いた書類が置かれていた。展示の報告をまとめる前に、その書類へ目を通さなければならない。

 

 パソコンを開くと、朝送ったメールへの返信が来ていた。

 

〈添付されている紹介文が、別の方のものになっています。ご確認ください〉

 

 千穂は送信済みのメールを開いた。

 

 亨の絵の写真に、飲食店を開いた夫婦の紹介文を添付していた。

 

 ファイル名はよく似ている。

 

 それでも、送る前には必ず開いて確かめてきた。今日だけ確かめなかったのか、確かめたのに見ていなかったのか、思い出せなかった。

 

 正しいファイルを送り直した。

 

〈大変失礼いたしました〉

 

と書き、送信ボタンを押した。

 

「松山さん」

 

 隣の席から同僚が声をかけた。

 

「もう七時ですよ」

 

 時計を見ると、思っていたより一時間近く遅かった。

 

「いま終わります」

 

「最近、遅いですね」

 

「展示が始まったばかりだから」

 

 千穂は書類を片づけ、パソコンの電源を切った。

 

 机の上に、赤いボールペンが一本残った。自分のものではないと思い、隣の机へ置いた。

 

 隣の同僚が見た。

 

「それ、松山さんのですよ」

 

「そうだった?」

 

「名前、貼ってあります」

 

 ペンには〈松山〉と書いた細いシールが巻かれていた。

 

 千穂は黙って鞄へ入れた。

 

 市役所を出ると、昼の暖かさが消え、風が冷たくなっていた。

 

 西川緑道公園の近くまで歩き、途中のベンチへ腰を下ろした。

 

 帰宅する人たちが、足早に通り過ぎていく。

 

 千穂は携帯電話を取り出し、母へ電話をかけた。

 

 三度鳴って、順子が出た。

 

「もしもし」

 

「お母さん、いま大丈夫?」

 

「今日は、そちらから聞くのね」

 

「いつも聞いてるでしょう」

 

「仕事は終わったの?」

 

「いま帰るところ」

 

 千穂は西川の水面を見た。街路樹の影が、街灯の光で揺れている。

 

「展示が始まったよ」

 

「そう」

 

「澤口さんの絵も掛けた」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「今日、会場に来た」

 

「そう」

 

「お母さんと、付き合っていたの?」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

 千穂は返事を待った。

 

「そうよ」

 

 予想していた言葉だった。

 

 それでも、知らなかった頃へは戻れなくなった。

 

「いつ頃?」

 

「大学生の頃」

 

「どうして別れたの」

 

「その話はしたくない」

 

「澤口さんも、何も話さない」

 

「亨に聞いたの?」

 

 順子の声が変わった。

 

「聞いてない。向こうから話すことではないと言われた」

 

「そのとおりよ」

 

「二人とも、相手に聞けと言って、聞いたら話さない」

 

「あなたに関係のないことだから」

 

「関係のない人を、私の仕事へ持ち込まないで」

 

 順子が黙った。

 

 千穂自身にも、なぜそんな言い方をしたのか分からなかった。

 

 亨を展示へ呼んだのは自分である。母の名前を出したのも自分だった。

 

 水の上を、小さな葉が一枚流れてきた。街灯の下へ入ると見え、光を過ぎると消えた。

 

「ごめん」

 

 千穂は言った。

 

「今日、少し疲れてるみたい」

 

「仕事で何かあったの?」

 

「何もない」

 

 母が使ったのと同じ言葉が、口から出た。

 

「千穂」

 

「もう帰る。切るね」

 

 電話を切り、携帯電話を鞄へ入れた。

 

 画面が消える直前、時刻が七時二十六分と表示された。

 

 千穂はもう一度取り出して見た。

 

 七時二十六分だった。

 

 翌朝、千穂は出勤してすぐ、展示会場へ届ける来場者用の用紙を封筒へ入れた。

 

 宛名を書き、庁内便の箱へ入れた。

 

 席へ戻ると、机の上に同じ用紙が残っている。

 

 封筒へ入れたのは、別の会議で使う資料だった。

 

 千穂は立ち上がり、庁内便の箱へ走った。

 

 回収前だった。封筒はまだ残っている。

 

 封を開け、書類を入れ替えた。

 

 誰にも迷惑はかからなかった。

 

 千穂は古い封筒を細かく破り始めた。

 

 四つに破れば捨てられるのに、八つに破った。さらに半分にしようとして、紙で指の腹を切った。

 

 血は出なかった。

 

 白い筋だけが、しばらく残った。

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『 あの人は、今 』

 

第三章 仕事にする

 

翌朝、二人は紙に事業内容を書いた。

 

最初の案は、「旧友・知人の所在調査」。

 

岩城が眉をしかめた。

 

固すぎる。

 

そこで恭一が書いた。

 

「あの人は、今」

 

テレビ番組のようだと岩城は笑った。

 

会社名にはしない。

 

けれど、仕事の意味はそれで十分伝わる。

 

事業として成立するかを調べると、思っていた以上に難しかった。

 

最大の問題は個人情報だった。

 

昔の同級生だからといって、現在の住所を勝手に教えていいわけではない。

 

探し出した相手が、依頼者との再会を望んでいるとも限らない。

 

依頼者に住所を渡すこと自体が危険な場合もある。

 

二人は、ここで一度立ち止まった。

 

そこで恭一は、父に電話した。

 

母の昔の友人について、何か手掛かりがないか尋ねた。

 

父は、古いアルバムならあると言った。

 

翌日、尾道から一冊のアルバムが届いた。

 

ページをめくる。

 

若い母がいる。

 

恭一が生まれる前の写真もある。

 

その中に、何人かの女性が写っていた。

 

名前はない。

 

ただ、写真の裏に母の字で、

 

「京都 四月」

 

とだけ書かれた写真があった。

 

それだけだった。

 

だが、それで十分だった。

 

住所が見つかったからといって、その人が見つかったことにはならない。残された断片を拾っていくうちに、知らなかった時間の輪郭が少しずつ浮かぶ。

 

学校。

 

会社。

 

住んでいた町。

 

古い名簿。

 

同窓会。

 

新聞記事。

 

地域の記録。

 

そして何より、依頼者が覚えている記憶。

 

二人は事業の形を変えた。

 

人を探すのではなく、つながりを探す。

 

本人の現在住所を依頼者へ渡すことはしない。

 

まず本人を確認する。

 

依頼者から連絡を取りたいという意思を伝える。

 

相手が了承した場合だけ、両者をつなぐ。

 

断られた場合は、相手の情報を依頼者へ渡さない。

 

探すことと、会わせることを別の仕事にする。

 

それが、二人の最初のルールになった。

 

第四章 つむぐリサーチ

 

会社を作るとなると、夢だけでは済まない。

 

登記。

 

事務所。

 

電話。

 

ウェブサイト。

 

銀行口座。

 

税理士。

 

契約書。

 

そして、売上。

 

岩城は数字に強かった。

 

恭一は人と話すことが得意だった。

 

役割は自然に分かれた。

 

岩城が経理と業務設計。

 

恭一が依頼者との面談と調査。

 

会社名は、

 

「つむぐリサーチ株式会社」

 

とした。

 

探すだけではない。

 

昔の関係を、もう一度つなぐ。

 

その意味を込めた。

 

事務所は大阪市内の小さなビルの一室だった。

 

広さは十数坪。

 

窓の外には隣のビルの壁が見える。

 

机を二つ置き、応接用の椅子を四つ置いた。

 

壁には何も飾らなかった。

 

人の人生を扱う会社なのだから、こちらの生活感を持ち込まないほうがいい。

 

ウェブサイトには、派手な写真を使わなかった。

 

代わりに、

 

「あの人は、今どうしているのだろう。」

 

という一文を載せた。

 

料金も明記した。

 

初回相談は無料。

 

基本調査は三万円。

 

追加調査は内容によって別途。

 

本人への連絡は、同意を得てから。

 

そして一番下に、

 

「再会を約束する仕事ではありません。」

 

と書いた。

 

人は、会えば必ず幸せになるわけではない。

 

そこだけは、最初から分かっていた。

 

第五章 最初の依頼

 

最初の依頼が来たのは、会社を始めて十九日目だった。

 

電話を取ったのは恭一だった。

 

六十代くらいの女性だった。

 

昔の同級生を探してほしいという。

 

恭一は決めていた質問を一つずつした。

 

名前。

 

最後に会った時期。

 

学校。

 

当時の住所。

 

分かる家族。

 

仕事。

 

写真。

 

覚えている友人。

 

依頼者は、ほとんど答えられなかった。

 

名前は分かる。

 

高校も分かる。

 

しかし、それ以外は曖昧だった。

 

最後に一つだけ、はっきりした記憶があった。

 

卒業してから、京都へ行った。

 

恭一の手が止まった。

 

母のアルバムを思い出した。

 

調査は難航した。

 

同姓同名が多い。

 

卒業名簿の住所は古い。

 

インターネットにも情報がない。

 

岩城が過去の電話帳を調べ、恭一が学校関係の公開情報を辿った。

 

三日目に、古い会社案内のPDFに同じ名前を見つけた。

 

京都の小さな会社だった。

 

そこから、少しずつ現在につながる情報が見えた。

 

一週間後、京都に住んでいる可能性が高いことが分かった。

 

恭一は依頼者に電話した。

 

見つかった可能性はある。

 

しかし、本人の意思を確認する必要がある。

 

そこで手紙を送った。

 

依頼者の名前は伏せた。

 

連絡を取りたくなければ、何もしなくていい。

 

返事がなければ、それを意思表示として扱う。

 

八日後、返事が来た。

 

再会を断っていた。

 

理由は書かれていない。

 

依頼者は泣かなかった。

 

ただ、探してくれてありがとうと言った。

 

電話を切ったあと、恭一は机の前に座ったまま動かなかった。

 

会社を始める前、二人はもっと単純な仕事だと思っていた。

 

探して、見つけて、喜んでもらう。

 

現実は違った。

 

見つけたあとに、会わないという選択がある。

 

その選択まで含めて、引き受けなければならない。

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『 あの人は、今 』

 

第一章 夏の尾道

 

尾道の夏は、海から来る風まで暑い。

 

村瀬恭一は、庭先の縁台に腰を下ろしていた。

 

帰省するのは一年ぶりだった。

 

昨年は、母の葬儀のために帰ってきた。

 

今回の帰省には、昨年までと違う重さがあった。母のいない家へ戻るということに、身体のほうがまだ慣れていない。

 

家は、思っていたほど静かではない。

 

冷蔵庫が低く唸り、エアコンが水を落とし、隣家の犬が昼寝から起きて鳴く。人が一人いなくなっただけなのに、家は以前と同じように生活を続けている。

 

恭一は、その音を聞きながら、母がいなくなったことだけが家から抜け落ちているような気がした。

 

庭では、父の俊哉がカメラを手入れしていた。

 

六十九歳になった父は、母が亡くなってから以前より写真を撮るようになった。

 

母が生きていた頃は、父がカメラを持って出掛けようとすると、母が呆れたような顔をしていた。

 

「また撮るの」

 

そう言いながら、玄関まで出てきて、父の帽子を直してやることがあった。父は嫌がるくせに、その手が離れるまで動かなかった。

 

今は、聞く人も、直してくれる人もいない。

 

父がレンズを外し、柔らかな布で丁寧に拭いている。

 

その手つきだけは、昔から変わらなかった。

 

母の遺影を撮ったのも、手にしているカメラだった。

 

「お前、まだ良い人が見つからんのか」

 

父はカメラから目を離さずに言った。

 

恭一は苦笑した。

 

「こっちは良いと思っても、相手が俺をそうは思わないって感じかな」

 

父は笑わなかった。

 

真面目に答えを聞いていたらしい。

 

しばらくして、レンズを取り付けながら、

 

「難しいもんだな」

 

と言った。

 

父から恋愛の心配をされるのは、なんとも妙な気分だった。

 

だが、その父ももうすぐ七十になる。

 

昔なら、七十歳というのはずいぶん遠い年齢だった。

 

今は、父の背中を見ていると、そう遠くない年齢に思える。

 

「去年、こっちへ帰ってきて母さんを看取っただろ」

 

父が言った。

 

「うん」

 

「亡くなる少し前にな、名前は忘れてたみたいだけど、京都へ引っ越した友達のことを、何度も言ってた」

 

恭一は父を見る。

 

「京都の?」

 

「そう。誰だったか俺には分からんかったけどな」

 

父はカメラの底を覗き込んだ。

 

「懐かしそうに言うんだよ。何度も同じ話をするから、もうええよって言ったこともある」

 

母は晩年、昔のことをよく話した。

 

最近のことは忘れるのに、何十年も前の話になると、不思議なほど細かかった。

 

誰かが着ていた服。

 

雨の日の匂い。

 

学校帰りに食べた菓子。

 

そういう、本人以外にはどうでもいいようなことを、大切そうに話していた。

 

「俺もな」

 

父がカメラを布で包んだ。

 

「母さんみたいに、思い出す奴が何人かいる」

 

そこで一度、言葉を切った。

 

「もう会うことはないだろうけどな」

 

父は立ち上がり、カメラを肩に掛けた。

 

「どこ行くん?」

 

「写真撮ってくる」

 

「暑いよ」

 

「暑いから撮れるもんもある」

 

そう言って、父は庭を出ていった。

 

恭一は、その後ろ姿を見送った。

 

父の歩き方が、少し小さくなったように思えた。

 

親父も年を取ったな。

 

そう思ったところで、携帯電話が鳴った。

 

画面には、会社の同僚、岩城の名前が出ている。

 

「もしもし」

 

「村瀬、驚くなよ」

 

電話の向こうの声が妙に低かった。

 

「会社、やばい」

 

「何が?」

 

「外資に乗っ取られた」

 

一瞬、意味が分からなかった。

 

会社が買われた。

 

それだけなら、ニュースでもよく聞く話だ。

 

だが、岩城の次の言葉で、恭一の背筋が伸びた。

 

「俺たち、切られるかもしれん」

 

蝉が鳴いていた。

 

庭の向こうでは、父がもう見えなくなっている。

 

青天の霹靂とは、こういうことなのだろう。

 

頭では分かっている。

 

ところが、現実味がない。

 

電話を切って数分もしないうちに、その言葉が少しずつ身体の中へ入ってきた。

 

仕事。

 

給料。

 

大阪の部屋。

 

三十二歳。

 

そして、まだ何者にもなれていない自分。

 

恭一は立ち上がった。

 

「岩城、俺、そっち行くわ。詳しい話、聞かせてくれ」

 

その日の夕方、恭一は大阪へ戻ることにした。

 

父には、会社で急な話が出た、とだけ伝えた。

 

玄関まで見送りに来た父は、

 

「飯、ちゃんと食えよ」

 

と言った。

 

母が生きていた頃も、父は同じことを言っていた。

 

恭一は、その言葉を聞いて初めて、母がいないことをもう一度思い出した。

 

第二章 会社を辞める

 

会社は、翌月から名前が変わった。

 

机も変わらなかった。

 

パソコンも変わらない。

 

社員証のロゴだけが変わった。

 

それなのに、そこにいる人間の顔は、以前とは違って見えた。

 

誰も口にはしなかったが、皆、自分の値段を計算していた。

 

会社にとって、自分は幾らの人間なのか。

 

そして、切られるとしたら、いつなのか。

 

恭一の部署は再編の対象になった。

 

岩城が先に辞めた。

 

恭一も、その二週間後に退職届を出した。

 

会社を辞めるとき、人間はもっと感傷的になるものだと思っていた。

 

実際には違った。

 

貸与されたパソコンを返し、机の引き出しを空にし、最後に社員証を受付へ返す。

 

それだけだった。

 

建物を出ると、外はいつも通りの大阪だった。

 

人が歩き、信号が変わり、タクシーが走っている。

 

世界は、自分が会社を辞めたことなど知らない。

 

それが少し腹立たしく、同時にありがたかった。

 

岩城と二人で、新しい事業を始めようという話になった。

 

しかし、二人とも「何をするか」が決まっていなかった。

 

喫茶店。

 

ファミリーレストラン。

 

岩城のアパート。

 

二人は場所を変えて話し合った。

 

動画制作。

 

中古家電。

 

高齢者向けの買い物代行。

 

企業の営業代行。

 

どれも、それらしい。

 

そして、どれも二人でなければならない理由がなかった。

 

問題は、そこだった。

 

ある夜、二人は遅くまで話した。

 

帰宅してからも眠れず、恭一は天井を見ていた。

 

そのとき、尾道の庭が浮かんだ。

 

父の手。

 

カメラ。

 

そして、あの言葉。

 

――京都へ引っ越した友達。

 

名前は忘れている。

 

でも、会いたがっていた。

 

恭一はベッドから起き上がった。

 

携帯電話を手に取る。

 

時刻は午前一時を回っていた。

 

それでも岩城へ電話を掛けた。

 

「人を探す仕事って、どうかな」

 

電話の向こうで、岩城が黙った。

 

恭一は、自分でもまだ形になっていない考えを言葉にした。

 

「昔の友達とか、昔の同僚とか、昔好きだった人とか。何十年も会ってない人を探してほしいっていう人、いるんじゃないかな」

 

探偵とは違う。

 

浮気相手でも家出人でもない。

 

人生の途中で離れてしまった誰か。

 

あの人は、今どうしているのか。

 

ただ、それを知りたい人たちだ。

 

父の言葉が、仕事の種になった。