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『5年越しの手紙』

 

第四章 止まっていた針と、豊中への靴音

 

阪急梅田駅のコンコースの片隅、巨大な円柱の陰に身を寄せながら、美穂は震える手でスマートフォンを取り出した。

 

画面には、予約していた新幹線の指定席チケットが表示されている。

 

新大阪発、午後六時三分。

 

あと二十分。

 

走れば間に合う時間だった。

 

右手に握りしめた白い封筒を見つめる。

 

和紙の冷たい感触が、脳裏に記憶を呼び覚ます。

 

美穂は唇を強く噛み締め、スマートフォンの画面を操作して新幹線の予約を翌日の便へと変更した。

 

そして、哲也へのメッセージ画面を開く。

 

『ごめんね、取材で確認したいことが追加で出てきてしまって、今夜は大阪にもう一泊することになったの。明日には帰るね』

 

送信ボタンを押すと、数十秒もしないうちに哲也から返信が届いた。

 

『了解! 出張お疲れ様。最近ちょっと忙しそうだったから、無理しないでゆっくりしてね』

 

語尾の温かな気遣いに、美穂の胸が締め付けられた。

 

(哲也さん……ごめんね。でも、私、この過去に決着をつけないと、前に進めないの)

 

五年前、姿を消した彼を探して一人で彷徨ったときに耳にした「豊中」という地名。

 

美穂は駅前のビジネスホテルに宿を取り、翌朝早く、阪急宝塚線に乗り込み、豊中駅へと向かった。

 

*

 

翌朝、秋の澄み渡った空気の中、阪急宝塚線の車窓からは大阪北部の静寂な住宅街が流れていた。

 

服部天神、庄内、岡町……駅を通過するたびにガタゴトと鳴る線路の振動が、そのまま美穂の心臓へと響いていく。

 

豊中駅の改札を抜けると、冷たい秋風が美穂の頬を掠めた。

 

駅から伸びる人工デッキを降り、坂道の住宅街へと足を踏み入れた。

 

五年前のあの冬、宛てもなく彼を探し回ったときと同じ坂道。

 

沿道には古い邸宅と新しい住宅が入り組んで立ち並び、庭木からは赤く熟した柿の実が秋の光を受けて揺れていた。

 

坂の中腹、かつて明夫が「親父が昔からやってる小児科なんだ」と愛おしそうに話していた場所へと辿り着いた美穂は、その場に立ち尽くした。

 

そこに広がるのは、木枠の看板を掲げた小児科医院ではなかった。

 

新しく敷き詰められたアスファルト。

 

均等に引かれた白い線。

 

黄色のロック板が光を反射する、だだっ広いコインパーキングだった。

 

「……嘘……」

 

呆然と佇む美穂の背後で、シャリシャリと小さな箒の音が聞こえた。

 

パーキングのすぐ隣、木造の米屋の店頭で、割烹着を着た年配の女性が落ち葉を掃いていた。

 

美穂は乾いた声を振り絞った。

 

「あの……すみません。昔、ここに『藤田医院』がありましたよね……? 孫の明夫さんのご家族を……探しているのですが」

 

女性は竹箒の手を止め、懐かしむような、どこか哀愁を帯びた眼差しで美穂の顔を見つめた。

 

「藤田さんのところかいな。……お医者さんやったお父さんが亡くなってから、もう医院も家も畳んでしもてな。更地になったんよ。……おばあちゃんの和子さんなら、ここから歩いて十分ほどのケアハウスにおるよ。明夫くんが必死になって探して、手配したところや」

 

「和子さんが……ですか?」

 

「そうや。あの子、おばあちゃんのことだけは本当に大切にしとったからな……」

 

女性に教えられた住所をメモし、美穂は深く頭を下げた。

 

パーキングの冷たいアスファルトを見つめ直しながら、胸の中に、未知の胸騒ぎが広がり始めていた。

 

住宅街の最奥にあるケアハウス『陽だまりの家』。

 

ガラス張りの明るいエントランスに入ると、ほのかに消毒液とお茶の匂いが混ざり合った空気が美穂を包み込んだ。

 

受付で事情を話し、面会簿に記入すると、温和な目元をした施設長が出迎えてくれた。

 

「和子さんは今、一階のデイルームでお日様に当たっておられますよ。昔のことと今のことが重なってしまうことも多いのですが……とても穏やかに過ごされています」

 

施設長に導かれ、静かな廊下を歩く。

 

突き当たりの大きなガラス窓からは、やわらかな秋の木漏れ日が出入りの激しい車椅子を優しく照らしていた。

 

その光の真ん中に、白髪をきれいに切り揃えた小さな女性が、車椅子に深く腰掛けて外の庭を眺めていた。

 

――和子さんだった。

 

かつて阿佐ヶ谷の部屋で「明夫をよろしくお願いしますね」と美穂の手を包んでくれたあのおばあちゃん。

 

美穂は胸が詰まり、車椅子の脇へ歩み寄り、その前にそっとかがみ込んだ。

 

「和子さん……お久しぶりです。白石美穂です。覚えていますか……?」

 

和子さんはゆっくりと首を巡らせ、ぽかんとした瞳で美穂を見つめた。

 

やがて、和子さんのシワの寄った目元が、ふっと蕾がほころぶように緩んだ。

 

痩せた温かな手が伸びてきて、美穂の右手を固く包み込む。

 

「あら……咲恵さんかいな。忙しいのに、今日も来てくれたんか」

 

「え……?」

 

美穂の手の中で、指先がかすかに震える。

 

「咲恵さん、今度来る時はな、甘いリンゴを持ってきてな。明夫も咲恵さんも、いつも仕事帰りに寄ってくれて……ほんまに、ありがとな……」

 

和子さんは愛おしそうに美穂の手を撫で続けた。

 

その温もりは本物だったが、向けられている情愛の対象は、自分ではなかった。

 

ふと車椅子の側面のポケットに目をやると、そこに小さな木製のフォトフレームが差し込まれていた。

 

写真の中では、和子さんを真ん中に挟んで、穏やかな笑みを浮かべる明夫と、上品で優しそうな女性が肩を寄せていた。

 

裏側には、角張ったあの明夫のペン字で、『2024年 秋 家族で』と書き添えられている。

 

咲恵さん――それが、いまの明夫の妻の名前だった。

 

和子さんの中では、美穂はもう、明夫の妻になっていた。

 

「……はい。和子さん」

 

美穂は声を整え、和子さんの手を優しく包み返した。

 

「……今度、持ってきてもらいますね。明夫さんのために」

 

和子さんは「そうかい、ありがとうねぇ」と満足そうに何度も頷き、再び穏やかな顔で庭の木漏れ日へと視線を戻した。美穂は静かに立ち上がり、深々と頭を下げてデイルームをあとにした。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十六章 炎の向こう側

 

 玄関のチャイムが、もう一度鳴った。

 

 その音を聞きながら、孝は地下の木箱から滑り出た紙を見つめていた。祖父の筆跡は、長崎の冊子に残されていたものよりも細く、ところどころ震えている。

 

 それでも、その一行だけは、書き手が何十年ものあいだ胸の奥にしまい続けてきた記憶を、ようやく言葉にしようとしているように見えた。

 

「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」

 

 その意味を考えようとしたとき、玄関の向こうで父の声がした。訪ねてきた男と何か話している。

 

 距離があるため、言葉までは聞き取れない。ただ、父の声に警戒の色が混じっていることだけはわかった。孝は、紙を折ってポケットに入れた。それから、木箱の蓋を閉じる。まだ開けるべきではない。

 

 祖父がそう残したのなら、少なくとも今、この場所で開ける理由はない。

 

 何より、外にいる人物が誰なのかを確かめるほうが先だった。四人は地下の空間から上がった。父は玄関の扉を開けていなかった。

 

 インターホンのモニターに映っているのは、長崎の墓地で会った男だった。男は玄関前に立ったまま、こちらを見上げている。

 

 孝は、その顔を見ているうちに、長崎で感じた違和感の正体が少しわかってきた。この男は、四人を追っているのではない。四人よりもずっと前から、この家を探していた。そして、ようやく辿り着いたのだ。父が扉を開けた。

 

 男は一歩だけ中へ入り、玄関に立ったまま家の中を見回した。そこに懐かしさがあるようにも、警戒しているようにも見える。長崎で会ったときとは、明らかに様子が違っていた。

 

 墓地では、彼は四人に対して警戒心を隠そうとしなかった。しかし今は、その警戒心の奥に、長い時間をかけて探し続けた場所へようやく戻ってきた人間のような疲労が滲んでいる。彼は父に名乗った。

 

 その名前を聞いて、孝は驚いた。高瀬ではない。エリアスでもない。

 

 それは、長崎で見た古い記録の中に一度だけ登場した名前だった。

 

川村誠一。

 

 孝は、その名前を聞いた瞬間、祖父の冊子を思い出した。

 

 名前の横に「京都」と書かれていた人物。

 

 その人物がどこへ移ったのかについては、記録が途切れていた。まさか、生きているとは思っていなかった。男は、長崎で起きていることをすべて話すつもりはないと言った。

 

 ただ、四人が長崎から持ち帰ったものがあるなら、それを見せてほしいという。父は応じなかった。当然だった。

 

 見ず知らずの男が突然現れ、祖父の箱を見せてほしいと言っている。しかも、その男は長崎で四人を追うように現れ、今度は京都の自宅まで来ている。信用できる理由など、どこにもない。それでも川村は帰ろうとしなかった。

 

 玄関の脇に置かれた古い写真立てに目を向け、その中にある一枚の写真を見つけると、静かに近づいた。それは、孝が子供の頃に撮った家族写真だった。祖父も写っている。川村は、その写真の祖父をしばらく見つめた。

 

 そして、懐かしむように目を細めた。

 

 その表情を見て、孝はようやく、この男が祖父と本当に会ったことがあるのだと感じた。長崎で聞いた話が、初めて現実のものとしてつながった。祖父と川村は、戦後になってから何度か会っていた。

 

 川村の父親もまた、長崎で記録を守る側にいたという。しかし、原爆によって多くのものが失われた。家族も、家も、記録も。

 

 それでも、川村の父親は一つだけ持ち出した。古い記録の束だった。それを預かったのが、高瀬宗一郎だった。そして高瀬が亡くなる前に、さらに別の人物へ渡した。それが孝の祖父だった。

 

 つまり、孝の祖父は最初から記録の持ち主だったわけではない。受け取った最後の人物だった。

 

 川村は、その経緯を話しながら、長崎で起きていることを説明した。近年、古い資料を調べている人物がいる。

 

 その人物は歴史研究者を装って、長崎各地に残る古文書や個人蔵の記録を集めている。表向きには、失われつつある資料を保存する活動だった。けれど、本当の目的は別にある。記録を集めたあと、一部を書き換える。

 

 名前を入れ替え、日付を変え、関係を断ち切る。

 

 そうすることで、かつて存在した人間のつながりを別の歴史へ置き換えてしまう。なぜそんなことをする必要があるのか。そこまで話したところで、川村は言葉を止めた。彼にも、すべての理由はわかっていないという。

 

 ただ一つ確かなのは、過去を書き換えれば、現在の人間関係まで変わってしまうということだった。

 

 長崎には、キリシタンの時代から幕末の開港、外国人居留地、戦争、原爆、戦後復興へと続く長い歴史がある。その過程では、表に残った歴史だけでは説明できない人々の移動があった。誰が誰を助けたのか。

 

 誰が誰に記録を渡したのか。誰が国境を越えて逃げたのか。

 

 そうした細かな事実の一つが変わるだけで、後の歴史の見え方は大きく変わる。だから記録は守られなければならなかった。孝はそこで、祖父の言葉を思い出した。

 

「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」

 

 川村は、その文章を知らなかった。孝が見せると、しばらく黙って読み返した。そして、初めて動揺した。祖父がそれを書いたことを、川村は知らなかったという。だが、その文章の意味には心当たりがある。

 

 原爆が投下された日、祖父は長崎にいた。そのこと自体は、すでにわかっていた。

 

 しかし、祖父が見たものについては、家族にも誰にも語らなかった。川村によれば、祖父はその日、爆心地から少し離れた場所にいた。そこで炎を見た。当然、街のいたるところで火が上がった。

 

 しかし、祖父が最後まで忘れられなかったのは、その炎ではない。焼け跡の中で、一人の少年が何かを探していた。

 

 少年が探していたのは、家族でも食べ物でもなかった。一冊の小さな手帳だった。その手帳には、戦前から長崎に住んでいた人々の名前が記されていた。宗教を理由に迫害された者。外国人との関係を疑われた者。

 

 戦時中に監視された者。それぞれが、なぜそこにいたのか。どこへ移ったのか。誰とつながっていたのか。

 

 そうした記録だった。少年は、その手帳だけを探していた。そして、祖父は少年を助けた。これが、すべての始まりだった。孝は、長崎で見つけた黒い手帳を思い出した。あれは単なる名簿ではなかった。

 

 何十年にもわたって、人間の移動と関係を記録したものだった。そして、その最初の頁には、まだ知られていない名前がある。

 

 川村は、孝が持っている木片を見た。その印は、少年が持っていた手帳にもあったという。では、その少年は誰だったのか。川村は、そこで初めて祖父の本名を口にした。孝の祖父は、少年から手帳を受け取った。

 

 しかし、少年自身は、その後行方がわからなくなった。死んだのか。海外へ渡ったのか。別の名前で生きたのか。

 

 誰にもわからない。ただ、少年が最後に残した言葉だけが記録されている。

 

「名前を消さないでほしい。」

 

 その言葉を聞いたとき、孝は胸の奥に重いものが落ちるような感覚を覚えた。長崎で見つけた記録の意味が、ようやく見えてきた。それは秘密を守るための記録ではなかった。忘れられないための記録だった。

 

 誰かが生きていたことを、誰かを愛していたことを、誰かを助けたことを、戦争や災害や時代の都合によって消さないために残されたものだった。祖父が守っていたのは、秘密ではない。人間だった。

 

 そのことを理解した瞬間、孝は地下の木箱を思い出した。一番。最後の名前。祖父が最後に守った記録。

 

 川村は、箱を開けるべきではないと言った。

 

 少なくとも、ここにいる全員が内容を理解できる準備ができていないうちは。しかし孝は、もう迷っていなかった。

 

 祖父が何十年も守ったものなら、自分が知らないままにしておく理由もない。地下へ戻る。床下の空間は、先ほどよりも暗く感じられた。木箱を取り出し、長崎で見つけた鍵を差し込む。鍵は、驚くほど静かに回った。蓋を開ける。

 

 中には、黒い布で包まれた一冊の手帳があった。

 

 その表紙には「1」とだけ刻まれている。

 

 そして、その横に小さな紙片が置かれていた。紙には祖父の字で、こう書かれていた。

 

「この名前だけは、私の代で終わらせる。」

 

 孝は、その意味を理解できなかった。

 

 なぜ、名前を残すために生きてきた祖父が、この名前だけは終わらせようとしたのか。手帳を開く。最初の頁には、長崎で見た人々の名前が並んでいた。その中に、これまで一度も出てこなかった人物の名前がある。

 

 その人物の横には、住所ではなく、一つの記号が記されている。

 

 そして、その記号の意味を説明するように、祖父の筆跡が続いていた。

 

「この人物が、すべての始まりである。」

 

 孝は、名前を読んだ。その瞬間、沙羅が息をのんだ。その名前は、沙羅の祖母が話していた人物と同じだった。さらに、その下には、驚くべき記述があった。その人物は、キリシタンの家系に生まれた。

 

 しかし、長崎で外国人と接触するようになり、幕末には外国との交易に関わった。明治になってから京都へ移り、その後、孝の家の土地を手に入れた。つまり、孝の家そのものが、長崎から京都へ移された記録の一部だった。

 

 長崎から京都へ。宗教弾圧の時代から開港へ。外国との交流から戦争へ。そして原爆から戦後へ。

 

 一冊の手帳は、単なる家族の記録ではなく、長崎と京都を結ぶ一人の人間の人生を中心にして、何代もの人々の歴史をつないでいた。だが、最後の頁には、さらに別の名前があった。それは、現在生きている人物の名前だった。

 

 孝は、その名前を見て、手帳を閉じた。自分たちが長崎で出会った人物ではない。

 

 長崎で自分たちを追っていた人物でもない。もっと身近な人物。これまで四人が何度も話をしていた人物だった。そして、その名前の横には、祖父の筆跡で一言だけ記されている。

 

「この人だけは、何も知らない。」

 

 その瞬間、孝はようやく気づいた。

 

 これまで自分たちが「敵」だと思っていた人物の中に、本当は敵ではない人間がいる。

 

 逆に、味方だと思っていた人物の中に、記録を書き換えようとしている人間がいる。長崎で起きたことは、まだ終わっていない。むしろ、京都へ戻ったことで、謎は最も近い場所へ移ってきたのだった。

 

 その夜、四人は誰も眠れなかった。窓の外では、京都の街が静かに夜を深めている。

 

 孝は机の上に置いた一冊の手帳を見つめていた。長崎で始まったと思っていた旅は、もう旅ではない。自分の家族が何を守り、何を隠し、何を失ってきたのか。それを確かめるための時間になっていた。

 

 そして手帳の最後に残された現在の名前が、明日の朝になれば、四人の前に現れることになる。その人物が何も知らないのなら、なぜ祖父は名前を残したのか。

 

 もし、何かを知っているのなら、なぜ祖父は「何も知らない」と書いたのか。

 

 孝は、まだ答えを出せなかった。ただ一つだけ、確かなことがある。

 

 長崎の街で出会った謎は、京都へ戻った今も、四人のすぐそばで息をしている。

 

 そして、明日になれば、その謎の中心にいる人物と向き合わなければならない。その人物の名前を、孝はもう一度手帳で確認した。そこには、こう書かれていた。

 

米田涼子。

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『 花びらの積もる道 』

 

第八章 短い電話

 

 休暇の一日目、千穂は目覚まし時計を止めたあとも、布団の中にいた。

 

 眠っていたわけではない。

 

 仕事へ行く時間が過ぎ、いつもなら西川沿いを歩いている頃になっても、身体を起こせなかった。

 

 枕元の携帯電話には、職場からの連絡は入っていない。

 

 二日間は仕事のメールも見ないようにと、上司から言われていた。

 

 見てはいけないと思うと、見たいものだった。

 

 千穂は携帯電話を取り、職場のメールを開こうとした。暗証番号を入れるところで閉じた。

 

 展示会場で何か起きていないだろうか。

 

 亨の絵は無事に返されるだろうか。

 

 礼状は正しい宛先へ届くだろうか。

 

 引き継ぎに書き忘れたことはなかったか。

 

 仕事のことをやめようとすると、今度は母の部屋で見た封筒が浮かんだ。

 

〈費用の半分です〉

 

 半分とは、何の半分だったのだろう。

 

 金額を二つに分ければ、責任も二つに分かれるのか。

 

 母はその金を使わなかった。返しもせず、捨てもせず、千穂が生まれたあとまで持っていた。

 

 千穂は寝返りを打った。

 

 自分が生まれたとき、母は失った子どもを思い出した。

 

 そう聞いた瞬間から、昔の記憶まで違って見えた。

 

 熱を出した夜、母が朝までそばにいたこと。

 

 小学校の入学式で、父より先に泣いたこと。

 

 店へ連れていかれ、何枚も服を着替えさせられたこと。

 

「その色は、千穂には暗いわ」

 

 母はそう言って、次の服を出した。

 

 千穂は着替えるのが嫌で泣いた。

 

 あのとき母が見ていたのは、自分だったのだろうか。

 

 午前十時を過ぎた頃、順子から電話がかかってきた。

 

 千穂は画面を見たまま、すぐには出なかった。

 

 呼出音が切れた。

 

 しばらくして、もう一度鳴った。

 

「もしもし」

 

「今日は仕事でしょう」

 

 順子は挨拶より先に言った。

 

「休み」

 

「平日に?」

 

「休暇を取ったの」

 

「自分で?」

 

 千穂は答えなかった。

 

「仕事で何かあったのね」

 

「少し間違いが続いただけ」

 

「どんな間違い?」

 

「日付を一日間違えたり、礼状を入れ忘れたり」

 

「それで休まされたの?」

 

「休むように言われただけ。三日後には戻る」

 

 順子は黙った。

 

「私と亨のことを知ってから?」

 

「お母さんのせいだとは言ってない」

 

「でも、前にはなかったことでしょう」

 

「分からない」

 

「千穂」

 

「ほんまに分からんの。仕事をしてても、急に考えるから。お母さんは、どうして一人で病院へ行ったんだろうって。澤口さんは、そのあと普通に就職して、結婚したのかなって。お父さんは、何も知らずにお母さんと暮らしたのかなって」

 

 順子は何も言わなかった。

 

「知らん方がよかったのかもしれない」

 

 千穂が言った。

 

「でも、もう知ってしもうたから」

 

「そうね」

 

「どうしたら、知らなかったときみたいに戻れるの」

 

「戻れないわ」

 

 順子は静かに答えた。

 

 千穂は目を閉じた。

 

 大丈夫よ、と言ってもらいたかったのかもしれない。

 

 何が大丈夫なのかは分からなかった。

 

「でも、あなたが背負うことではないの」

 

「そう言われても、頭から出ていかない」

 

「分かってる」

 

「お母さんには分からんよ。お母さんは、ずっと知ってたんだから」

 

 順子は返事をしなかった。

 

「ごめん。もう少し寝る」

 

「何か食べなさい」

 

「あとで」

 

「冷蔵庫に何かあるの?」

 

「ある」

 

「何が?」

 

「知らない」

 

「それでは、ないのと同じでしょう」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「電話、切るよ」

 

「そう」

 

 千穂は電話を切った。

 

 順子は津山の部屋で、消えた画面を見ていた。

 

 娘に話さなかったのは、守るためだと思っていた。

 

 自分の過去は自分の中に置いておけばよい。夫にも、娘にも、持たせる必要はない。

 

 だが、偶然知った千穂は、事実だけを渡され、その置き場所を持っていなかった。

 

 順子は寝室へ入り、段ボール箱の前へ座った。

 

 底をテープで留めた箱には、古い封筒と手帳が戻してある。

 

 亨から送られた金も、そのままだった。

 

 箱の蓋を開けた。

 

 封筒を取り出しかけ、戻した。

 

 亨に会いたいとは思わない。

 

 許すつもりもなかった。

 

 順子は箱を閉めた。

 

 立ち上がると、膝にテープの切れ端がついていた。指で取り、屑籠へ捨てた。

 

 岡山では、その日の午後、展示の撤去が行われた。

 

 亨は指定された時刻に表町の会場へ出向いた。

 

 自宅へ届けてもらう予定だったが、朝になってから、自分で取りに行くと連絡した。

 

 会場では、千穂の後輩が作品を包んでいた。

 

「お世話になりました」

 

 亨が声をかけると、後輩は手を止めた。

 

「こちらこそ、ありがとうございました。アンケートでも、澤口さんの絵がよかったという声が多かったです」

 

「松山さんは?」

 

 尋ねてから、仕事を外れた質問だと思った。

 

「昨日からお休みです」

 

「体調を崩しはったんですか」

 

「少し疲れてるみたいで。展示が始まる前から、ずっと忙しかったですから」

 

 後輩は、それ以上話さなかった。

 

 亨も聞けなかった。

 

 包まれた絵を抱え、表町商店街を歩いた。

 

 少し先に、洋子の働く花屋がある。

 

 店先で、洋子が若い店員と花の器を動かしていた。

 

 亨に気づくと、手を上げた。

 

「絵、取りに来たの?」

 

「うん」

 

「もう終わったんやね」

 

「今日で」

 

「あとで、ゆっくり見せて」

 

 洋子は店員に呼ばれ、奥へ戻った。

 

 店先の花は、白と薄い桃色だった。

 

 少し離れたところに、黄色い花が一鉢置かれている。

 

 順子が動かしたのだろうか。

 

 洋子が自分で動かしたのだろうか。

 

 亨には分からなかった。

 

 亨は絵を抱え直し、その場を離れた。

 

 家へ帰ると、絵を二階へ運んだ。

 

 机には、宛名だけを書いた便箋が伏せてある。

 

〈松山順子様〉

 

 亨は便箋を裏返した。

 

 手紙を書くことばかり考えていた。

 

 書けば、自分の言いたいことを相手へ送れる。

 

 順子が読みたいかどうかは、書き終えてから考えるつもりでいた。

 

 それでは、四十数年前と変わらない。

 

 自分の時間で考え、順子の時間を待たせる。

 

 亨は便箋を引き出しへ戻した。

 

 その頃、順子は岡山市役所の代表番号へ電話をかけていた。

 

「移住された方の展示について、お尋ねしたいのですが」

 

「どのようなことでしょうか」

 

「出展されていた澤口亨さんへ、伝言をお願いできますか」

 

「個人の連絡先はお伝えできませんが、こちらからご本人へ確認することはできます」

 

「それで結構です」

 

「お名前を伺ってもよろしいですか」

 

 順子は一度、息を吸った。

 

「松山順子です」

 

 小坂ではなく、いまの姓を名乗った。

 

「澤口さんに、千穂のことで話があります、と伝えてください。私の電話番号を渡していただいて構いません」

 

 職員が番号を復唱した。

 

 順子は一つずつ聞いた。

 

 最後の数字だけ、職員が間違えた。

 

「そこは、七です」

 

「失礼いたしました。七ですね」

 

「はい」

 

 電話を切ると、順子はダイニングテーブルの前へ座った。

 

 自分の電話番号なのに、紙へ書いて確かめた。

 

 間違っていなかった。

 

夕方近く、市役所から亨へ連絡が入った。

 

「松山順子さんから、伝言をお預かりしています」

 

 亨は椅子から立ち上がった。

 

「千穂さんのことで、お話があるそうです」

 

 職員が電話番号を読み上げた。

 

 亨は机にあった紙へ書いた。

 

 最後の数字は七だった。

 

「もう一度、お願いします」

 

 数字を一つずつ復唱した。

 

「以上で間違いありません」

 

「ありがとうございます」

 

 電話を切った。

 

 紙を机へ置いた。

 

 四十数年前、順子の実家の番号は暗記していた。公衆電話から何度もかけた番号だった。

 

 手帳を見なくても、指が勝手に動いた。

 

 いま目の前にあるのは、松山順子の番号である。

 

 亨は受話器を取った。

 

 一度置いた。

 

 もう一度取った。

 

 数字を押すと、呼出音が鳴った。

 

 一度目。

 

 二度目。

 

 三度目で、順子が出た。

 

「もしもし」

 

 四十数年ぶりに聞く声だった。

 

 若い頃より低く、落ち着いていた。

 

 それでも、順子の声だと分かった。

 

「澤口です」

 

 電話の向こうで、短い沈黙があった。

 

「連絡をいただいたと聞きました」

 

「千穂が、仕事を休まされました」

 

「今日、会場で聞きました」

 

「私たちのことを知ってから、間違いが続いているそうです」

 

「そうですか」

 

「そうですか、だけ?」

 

 亨は受話器を握り直した。

 

「すみません」

 

「私に謝るんですか」

 

「いや」

 

「では、誰に?」

 

 亨は答えられなかった。

 

「このままにはできません」

 

「はい」

 

 順子は黙った。

 

 亨が次に何を言うか、待っている。

 

 昔も、順子は待った。

 

 亨は考えると言った。

 

 考えている間にも、時間は過ぎていた。

 

「会うて、話せませんか」

 

 亨が言った。

 

 電話の向こうで、順子が息をした。

 

「千穂のためです」

 

「分かってます」

 

「岡山で会います。あの子を呼ぶ前に、二人で話しましょう」

 

「どこにしますか」

 

「旭川の京橋の近くで」

 

「分かりました」

 

「明後日の午後二時」

 

「行きます」

 

 用件は、それだけだった。

 

 元気だったかとは聞かなかった。

 

 結婚したことも、夫を亡くしたことも、洋子と暮らしていることも、互いに知っていた。

 

 知っているだけで、何も尋ねなかった。

 

「では、明後日に」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 亨は受話器を置かなかった。

 

 順子も切らなかった。

 

 電話の向こうから、ごく小さな音が聞こえた。

 

 時計か、冷蔵庫か、順子が指で何かを触っている音かもしれない。

 

「何か?」

 

 順子が言った。

 

「いや」

 

「では、切ります」

 

「はい」

 

 電話が切れた。

 

 通話時間は、二分四十七秒だった。

 

 亨は受話器を置いた。

 

 四十数年前、順子の母に長電話を叱られた夜、二人は一時間近く話していた。

 

 何を話したのかは、ほとんど覚えていない。

 

 母親の声が途中へ入ったことだけは、二人とも覚えていた。

 

 順子は津山の部屋で、携帯電話をテーブルへ置いた。

 

 画面には、登録していない番号が残っている。

 

 澤口亨。

 

 名前を登録する必要はなかった。

 

 明後日に会えば、そのあと電話をすることはない。

 

 順子はそう思った。

 

 番号を消そうとして、指を止めた。

 

 消すのは、会ってからでよい。

 

 台所へ行き、湯を沸かした。

 

 茶葉を入れすぎ、濃い茶になった。

 

 一口飲んだが、淹れ直さなかった。

 

 岡山では、亨が二階から下りてきた。

 

 洋子は居間で、新聞を畳んでいた。

 

「電話、長かった?」

 

「いや」

 

「誰から?」

 

 亨は少し間を置いた。

 

「市役所から」

 

「絵のこと?」

 

「うん」

 

 嘘ではなかった。

 

 市役所から電話はあった。

 

 そのあと、誰へ電話したかを言わなかっただけである。

 

「お茶、飲む?」

 

「いや、ええ」

 

「今日は、いらん日なんやね」

 

 洋子は立ち上がり、自分の湯呑みだけを台所へ運んだ。

 

「洋子」

 

「何?」

 

「明後日の午後、出かけるから」

 

「どこへ?」

 

「京橋の方」

 

「絵を描きに?」

 

 亨は洋子の背中を見た。

 

「人に会う」

 

 洋子が振り返った。

 

「市役所の人?」

 

「そうや」

 

 今度は、嘘だった。

 

「分かりました」

 

 洋子は台所へ入った。

 

 流しへ置いた湯呑みを、すぐには洗わなかった。

 

 亨は食卓へ座った。

 

 自分の前には、空の湯呑みさえなかった。

 

 明後日、四十数年ぶりに順子と会う。

 

 そのことを考えると、若い頃の顔ばかりが浮かんだ。

 

 いま会うのは、小坂順子ではない。

 

 夫を亡くし、娘を心配して、自分へ連絡してきた松山順子だった。

 

 亨は机に残した電話番号を思い出した。

 

 最後の数字は七である。

 

 忘れないようにと何度も復唱したため、ほかの数字より強く残っていた。

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『 あの人は、今 』

 

第十四章 父のカメラ

 

尾道から、また写真が送られてきた。

 

海沿いの道。

 

古い家。

 

夕方の商店街。

 

誰もいないベンチ。

 

どれも特別な写真ではない。

 

だが、恭一には父が何を撮っているのか、少し分かるようになっていた。

 

母がいた頃の尾道ではない。

 

母がいなくなった後の尾道を撮っている。

 

同じ場所なのに、人が一人いなくなると景色が変わる。

 

父は、その変化を写真に残している。

 

その写真を見ていると、恭一は父の仕事と自分の仕事が、遠くないところにある気がした。

 

父が撮っているのは、母がいなくなった後の町だ。

 

自分が探しているのも、そこに残った時間なのかもしれない。

 

第十五章 もう一人の依頼者

 

ある朝、会社に一通の封書が届いた。

 

差出人は、母の友人だった。

 

恭一は封を開けた。

 

母が最後に会いたがっていたこと。

 

自分も一度会いたかったこと。

 

けれど、四十年経ってしまったこと。

 

そして最後に、写真の男を探してほしいという依頼が書かれていた。

 

恭一は、その一行を何度も読んだ。

 

女性自身も男の行方を知らない。

 

最後に会ったのは、京都を離れる前。

 

それから四十年以上、消息はない。

 

同封されていた写真は、恭一が持っているものと同じだった。

 

ただし、裏側に文字がある。

 

恭一は写真を裏返した。

 

そこには住所が書かれていた。

 

「尾道」。

 

恭一は、しばらく意味が分からなかった。

 

京都にいた男。

 

尾道から来た母。

 

そして、男が最後に残した住所が、自分の故郷と同じ町。

 

しかも、その住所は尾道の実家から、そう遠くない場所だった。

 

第十六章 尾道の家

 

尾道へ帰るとき、恭一は父に連絡をしなかった。

 

帰省するなら、以前は新幹線の時間まで知らせていた。

 

今回は知らせないほうがいいと思った。

 

写真の裏に書かれた住所を確かめる。

 

それだけのことなのに、足取りは重かった。

 

尾道駅を出ると、海の匂いがした。

 

大阪にいると海は遠い。

 

尾道では、海が町のすぐ横にある。

 

子供の頃には気づかなかった。

 

海があることが当たり前だったからだ。

 

住所の場所には、小さな二階建ての家があった。駅から少し離れた、古い住宅街だった。

 

表札を見る。

 

写真の裏に書かれた名字と同じだった。

 

恭一は門の前に立った。

 

インターホンに手を伸ばしかけて、やめた。

 

自分なら、まず手紙を送る。

 

いきなり訪ねることはしない。

 

それが会社で決めていることだった。

 

なのに、自分のことになると簡単に約束を破りそうになる。

 

恭一は苦笑した。

 

仕事は他人のためなら冷静にできる。

 

自分のことになると、急に素人になる。

 

その日は訪ねなかった。

 

夕方、実家へ戻った。

 

第十七章 父の夕飯

 

実家の玄関を開けると、父は台所にいた。

 

冷蔵庫を開けたまま、何を取るのか忘れている。

 

恭一を見ると驚いた顔をした。

 

驚いたあと、すぐにいつもの顔に戻った。

 

夕飯はスーパーで買ってきた刺身と惣菜だった。

 

母がいた頃なら、もう少し品数があった。

 

二人分の茶碗が並んだ。

 

恭一は、そのことに気づいた。

 

父は気づいていないふりをしている。

 

こういう小さなことが、昔から父の得意なところだった。

 

夕飯を食べ終わってから、恭一は写真を出した。

 

若い母。

 

隣に女性。

 

その奥に若い男。

 

父は写真を見るなり、箸を置いた。

 

顔色が変わった。

 

写真を持つ手が少し震えている。

 

「知ってるの?」

 

父はすぐには答えなかった。

 

やがて、

 

「知ってる」

 

と言った。

 

父は台所へ立った。

 

冷蔵庫を開け、水を取り出し、一口飲んだ。

 

それから戻ってきた。

 

「その人は、昔、うちに来た」

 

母が京都へ行く前だった。

 

父も会っている。

 

母の友人としてではない。

 

写真の男とも会っていた。

 

ただし、父が知っていたのは男の存在だけではなかった。

 

第十八章 父が隠していたもの

 

父は押し入れの奥から古い箱を持ってきた。

 

中にはネガフィルムが何本か入っていた。

 

そして、小さな革のケース。

 

ケースの中には写真が一枚あった。

 

若い父。

 

若い母。

 

二人が並んで写っている。

 

場所は尾道。

 

母が京都へ行く前の日だった。

 

裏には日付がある。

 

恭一は顔を上げた。

 

「誰が撮ったの?」

 

父は答えた。

 

「あの男だ」

 

恭一は言葉を失った。

 

母の恋人だった男が、母と父の写真を撮っている。

 

父は話した。

 

男は母を尾道まで送ってきた。

 

母は京都へ行くつもりだった。

 

最後の日になって、気持ちが変わった。

 

そのとき父は、まだ母と付き合っていたわけではない。

 

ただ、母のことが好きだった。

 

男も、それを知っていた。

 

三人で話した。

 

男はカメラを取り出し、母と父を並ばせた。

 

最後に一枚だけ撮った。

 

男は京都へ戻った。

 

母は尾道に残った。

 

父と母は結婚した。

 

恭一が生まれた。時間は前へ進んだ。それでも父は、その写真だけを捨てなかった。

 

「何で今まで見せなかったの?」

 

父は少し考えて、

 

「お前には必要なかったからな」

 

と言った。

 

子供には必要なかった。

 

だが三十二歳になった今の自分には、必要なのかもしれない。

 

人は年齢によって、必要な過去が変わる。

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『 あの人は、今 』

 

第十章 父と母の時間

 

尾道へ電話した。

 

父は、母が京都へ行った理由を知っていた。

 

母には好きな男がいた。

 

写真の男だった。

 

父は、それを知っていた。

 

しかし、嫉妬したわけではない。

 

母には母の過去がある。

 

それを知ったうえで、父は母と暮らした。

 

「俺と一緒になってからは、俺の女房だった」

 

父の言葉は、それだけだった。

 

恭一は、何も言えなかった。

 

夫婦というものは、相手の過去を全部消して一緒になるわけではない。

 

過去を抱えたまま、今を選ぶ。

 

父は、そういうふうに母と暮らしたのだろう。

 

第十一章 会社の形

 

会社は少しずつ忙しくなった。

 

半年を過ぎると、二人だけでは処理できない案件が増えた。

 

そこで、資料調査の経験がある女性を業務委託で加えた。

 

佐伯美和、四十三歳。

 

以前は出版社で資料調査をしていた。

 

人を探す仕事に興味があったわけではない。

 

むしろ、人の人生に踏み込む仕事は苦手だと言った。

 

それでも、調べることならできる、と言った。

 

恭一は、その言葉を気に入った。

 

人に興味がありすぎる人間より、人を少し怖がっている人間のほうが、この仕事には向いている。

 

三人になると、会社は少しずつ本当の会社になった。

 

依頼者との面談。

 

調査。

 

契約。

 

請求。

 

進捗管理。

 

本人への連絡。

 

断られた場合の処理。

 

何をどこまで記録するか。

 

どこから先は専門家へ相談するか。

 

会社員時代には、誰かが決めてくれていた。

 

今は自分たちで決める。

 

夢だった仕事が、普通の会社になっていく。

 

そのことに、恭一はむしろ安心していた。

 

夢だった仕事にも、家賃があり、請求書があり、月末が来る。その当たり前さが、恭一には少し嬉しかった。

 

第十二章 探される人の時間

 

ある依頼で、本人の住所までほぼ特定できた。

 

依頼者はすぐに会いたがった。

 

しかし、本人がどんな生活をしているかまでは分からない。

 

美和は慎重だった。

 

岩城は契約上の問題を気にした。

 

恭一は依頼者の気持ちを考えた。

 

結論が出るまで二日かかった。

 

依頼者から何度も電話があった。

 

会社を始めたばかりなら、すぐに答えを出していただろう。

 

今は、待つことも仕事だと分かってきた。

 

急いでいるのは、たいてい探している側だ。

 

探されている側には、探されている理由を知る時間がない。

 

その違いを忘れると、人を傷つける。

 

恭一は会社の壁に一枚の紙を貼った。

 

そこには、

 

「探される人の時間も守ります。」

 

と書いた。

 

会社を続けていくための標語というより、自分たちが迷わないための線だった。

 

第十三章 最初の社員

 

一年近く経つと、正式に一人を採用することになった。

 

二十七歳の男性だった。

 

営業経験があり、人当たりもいい。

 

面接ではよく喋った。

 

恭一は、そこが少し気になった。

 

この仕事は、人の話を聞く仕事だ。

 

自分の話をするのが得意な人より、人の話を聞いて黙っていられる人のほうが向いている。

 

採用を決めたのは、最後の質問への答えだった。

 

この会社で何をしたいか。

 

彼は少し考えて、

 

「人に喜ばれる仕事をしたいです」

 

それから、

 

「喜ばれない仕事も、ちゃんとできる人になりたいです」

 

と言った。

 

恭一は採用を決めた。

 

会社には、喜ばれない仕事がある。

 

再会を断られたことを伝える。

 

調査できない理由を説明する。

 

依頼を断る。

 

依頼者の希望より、探される側の安全を優先する。

 

そういう仕事を避けていると、いつか会社そのものが壊れる。

 

新しい社員には、最初の一週間、調査をさせなかった。

 

過去の案件記録を読ませた。

 

見つかった人。

 

見つからなかった人。

 

会えた人。

 

会わなかった人。

 

感謝された案件だけではなく、苦情になった案件も読ませた。

 

仕事を教えるというより、この会社が何をしてはいけないのかを教えた。

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『 花びらの積もる道

 

第七章 知ったあと

 

 千穂がマンションへ戻ったのは、一時間ほどたってからだった。

 

 順子は夕食の支度をせず、ダイニングテーブルの前に座っていた。

 

 床に散らばったものは箱へ戻した。亨から届いた封筒だけが、テーブルの端にある。

 

 玄関の扉が開いた。

 

「お帰り」

 

 順子が言った。

 

 千穂は返事をせず、上着を脱いだ。

 

「夕食は?」

 

「いらない」

 

「お昼も、あまり食べてないんでしょう」

 

「食べたくない」

 

「何か少しだけでも」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

 千穂は寝室へ行こうとしたが、テーブルの封筒を見て足を止めた。

 

「どうして、あのお金を持ってたの」

 

 順子は封筒へ目を向けた。

 

「使えなかったから」

 

「返さなかったの?」

 

「返せば、また亨と話さなければならなかった」

 

「捨てることもできたでしょう」

 

「できなかった」

 

「ずっと持ってたんだ」

 

「そうね」

 

 千穂は椅子を引き、順子の向かいへ座った。

 

「お母さんは、澤口さんをいまも憎んでるの?」

 

「憎んでると言えば、分かりやすい?」

 

「分からんから聞いてるの」

 

「許してはいない」

 

「同じことでしょう」

 

「同じではないわ」

 

「どう違うの」

 

 順子は答えなかった。

 

 封筒の表には、小坂順子と書いてある。

 

 夫と暮らした年月より前の名前だった。

 

「亨のことを考えながら生きてきたわけじゃないの」

 

「でも、名前を聞いただけで、あんなふうになったでしょう」

 

「忘れていたわけではないから」

 

「お父さんと一緒にいたときも?」

 

「あなたのお父さんと暮らしたことと、亨とのことは別よ」

 

「お父さんは知らなかった」

 

「ええ」

 

「それで、本当に別と言えるの?」

 

「言えるわ」

 

 順子は娘から目をそらさなかった。

 

「あなたのお父さんとの暮らしは、代わりではなかった。あなたも、あの子の代わりではない」

 

「あの子って言うんだ」

 

 千穂の声が震えた。

 

 順子は口を閉じた。

 

 性別も知らなかった。

 

 顔も、声も知らない。

 

 名前もつけなかった。

 

 それでも、心の中では長い間、あの子と呼んでいた。

 

「名前はなかったの?」

 

「なかった」

 

「考えたことは?」

 

「ないわ」

 

「一度も?」

 

「ない」

 

「どうして?」

 

「考えたら、名前ができるでしょう」

 

「そうでしょうね」

 

「名前をつける前に、いなくなったの」

 

「いなくしたんでしょう」

 

 順子の手が、膝の上で動いた。

 

 千穂も、自分の言葉に気づいたらしい。だが、言い直さなかった。

 

「そうね」

 

 順子が言った。

 

「そういう言い方もできるわね」

 

「お母さん」

 

「あなたが間違っているとは言ってないのよ」

 

 順子は立ち上がった。

 

「何か食べるものを作るわ」

 

「いらない」

 

「私が食べるの」

 

「さっきまで何もしてなかったのに?」

 

「あなたが帰ってくるかもしれないと思ったから」

 

「帰ってこなかったら?」

 

「食べなかったかもしれない」

 

「それで、私には食べろと言うの?」

 

「親は勝手なものよ」

 

 順子は冷蔵庫を開けた。

 

 豆腐と卵と、半分残った葱があった。

 

「お味噌汁でいい?」

 

「いらないと言ってるでしょう」

 

「二人分作るわ」

 

 返事はなかった。

 

 順子は鍋へ水を入れた。

 

 出汁を取っている間、背中に千穂の視線を感じた。

 

「今日は休みなさい」

 

「朝一番で帰る」

 

「仕事は?」

 

「休んでる場合じゃない」

 

「だからこそ、休んだ方がいいんじゃないの」

 

「お母さんに言われたくない」

 

 千穂は立ち上がり、寝室へ入った。

 

 扉は閉めなかった。

 

 味噌汁ができると、順子は二つの椀へよそった。

 

 一つを寝室の前へ置いた。

 

「ここへ置いておくわよ」

 

「いらない」

 

「冷めたら、おいしくなくなるから」

 

「いらないって」

 

「分かった」

 

 順子は椀を下げなかった。

 

 自分の分を食べ終え、食器を洗った。

 

 寝室の前を通ると、椀は空になっていた。

 

 順子は黙って台所へ運んだ。

 

 翌朝、千穂は始発に近い列車で岡山へ戻った。

 

 市役所へ着くと、誰もいない机で前日の書類を確かめた。日付、宛名、添付資料。一つずつ指で追った。

 

 確認に時間をかけたため、朝の打ち合わせに遅れそうになった。

 

「松山さん、昨日は休めましたか」

 

 上司に聞かれた。

 

「はい。ご迷惑をおかけしました」

 

「今日は大丈夫?」

 

「大丈夫です」

 

 その言葉を口にした途端、不安になった。

 

「たぶん」

 

 付け加えると、上司は何も言わず千穂を見た。

 

 午前中、展示会場から絵の返却について連絡が入った。

 

 展示は予定どおり週末に終わる。作品を持ち主へ直接返すか、市役所で預かるかを確認しなければならない。

 

 千穂は出展者の一覧を見た。

 

 澤口亨。

 

 電話番号の横に、〈自宅返却希望〉と書かれている。

 

 メールでも確認できた。

 

 千穂は受話器を取った。

 

 三度鳴って、亨が出た。

 

「澤口です」

 

「岡山市役所の松山です」

 

「ああ、千穂さん」

 

 名前で呼ばれたことに、胸の奥が反応した。

 

「展示作品の返却について、確認のお電話です。ご自宅へお持ちすることになっていますが、来週の火曜日でよろしいでしょうか」

 

「ええ。時間はいつでもかまいません」

 

「午後二時頃に伺います」

 

「お願いします」

 

 仕事の話は終わった。

 

 千穂は受話器を置かなかった。

 

「澤口さん」

 

「はい」

 

「母から聞きました」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「何を、ですか」

 

「分かってるでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「母が妊娠したことも、一人で病院へ行ったことも」

 

「そうですか」

 

 それだけだった。

 

 千穂は受話器を握り直した。

 

「それだけですか」

 

「電話で話すことやないと思います」

 

「母にも、私から話すことではないと言いましたよね」

 

「はい」

 

「二人とも、話すことじゃないと言って、ずっと誰にも話さなかった」

 

「千穂さん」

 

「母に、来なくていいと言われたから、本当に行かなかったんですか」

 

 受話器の向こうで、亨が息をした。

 

「そうです」

 

「どうして?」

 

「あのときの僕は、順子の言葉に従うたつもりでした」

 

「いまは?」

 

 亨はしばらく答えなかった。

 

「行くのが怖かったんやと思います」

 

「思います、なんですね」

 

「四十数年前の自分が何を考えてたのか、いまとなっては、きれいには説明できません」

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

「分かってます」

 

「分かってたら」

 

 その先が出なかった。

 

 亨に何を言わせたいのか、自分でも分からなかった。

 

 謝ってほしいのか。

 

 母に会ってほしいのか。

 

 今の暮らしが壊れるほど、後悔してほしいのか。

 

「火曜日の二時に、絵をお持ちします」

 

 千穂は仕事の声へ戻した。

 

「分かりました」

 

 電話を切った。

 

 受話器を置いたあと、メモ用紙へ〈火曜日 二時〉と書いた。

 

 日付も書いた。

 

 その下にもう一度、〈火曜日 二時〉と書いた。

 

午後、千穂は出展者への礼状を印刷した。

 

 一枚ずつ宛名を確かめ、封筒へ入れた。三度見直してから、庁内の発送箱へ運んだ。

 

 席へ戻ると、机の上に亨宛ての礼状だけが残っていた。

 

 封筒の数を間違え、亨の分を入れていなかった。

 

 千穂は礼状を持ち、もう一度発送箱へ向かった。

 

 廊下の途中で、上司に呼び止められた。

 

「松山さん」

 

「何でしょう」

 

「昨日、帰ってもらった理由を覚えていますか」

 

「これは、入れ忘れただけです」

 

「それが続いているんでしょう」

 

「次から気をつけます」

 

「次が来る前に、休んでください」

 

「仕事はできます」

 

「できるかどうかを、いま自分で決めない方がいい」

 

 千穂は礼状を持ったまま立っていた。

 

「明日から三日、休暇を取ってください」

 

「展示が終わる前です」

 

「ほかの人に任せます」

 

「私の担当です」

 

「松山さんにしかできない仕事ではありません」

 

 千穂は礼状を見た。

 

〈澤口亨様〉

 

 宛名は間違っていなかった。

 

 日付も、文章も合っている。

 

 ただ、封筒へ入れ忘れただけだった。

 

「分かりました」

 

 礼状を上司へ渡した。

 

「これも、お願いできますか」

 

「預かります」

 

 上司は受け取った。

 

 席へ戻り、必要な引き継ぎを書き始めた。

 

 読み返すと、〈展示終了後〉と書くところを、〈展示終了語〉と変換していた。

 

 直した。

 

 次に読むと、別のところが気になった。

 

 何度見直しても、自分の文章が合っているのか分からない。

 

「松山さん」

 

 上司が席から声をかけた。

 

「もう、それで大丈夫です」

 

「まだ途中です」

 

「続きはこちらでします」

 

「でも」

 

「引き継ぎのために、帰れなくなっていますよ」

 

 千穂は手を止めた。

 

 鞄へ書類を入れようとして、これは持ち帰ってはいけないものだと気づいた。机へ戻し、代わりに空のファイルを鞄へ入れた。

 

 何のために入れたのか分からず、それも取り出した。

 

「お先に失礼します」

 

 周囲の人が顔を上げた。

 

「お疲れさまでした」

 

 いつもと同じ挨拶だった。

 

 千穂は、それがかえってつらかった。

 

 同じ日の夕方、亨は烏城公園のベンチに座っていた。

 

 朝から曇っていた空が、旭川の上でさらに暗くなっている。

 

 スケッチブックを開いたものの、何も描かなかった。

 

「母は、きれいに説明できないことを、ずっと一人で持ってたんですよ」

 

 千穂の声が残っていた。

 

 亨は順子が東京で結婚し、娘を産み、店を営んだことを、千穂から聞いて初めて知った。

 

 順子が幸せだったのなら、それでよかった。

 

 そう思いかけた。

 

 鉛筆を指の間で回し、止めた。

 

 順子が幸せなら、あの日の自分が少し軽くなる。順子が不幸なら、自分のしたことが重くなる。

 

 どちらにしても、順子の人生を自分の秤へ載せている。

 

 亨はスケッチブックを閉じた。

 

 橋の方から、仕事帰りの人たちが歩いてくる。

 

 千穂も毎日、この町で働いている。

 

 亨は、千穂が仕事で間違いを重ねていることを知らなかった。ただ、電話の声が、最初に市役所で会った人のものとは違っていた。

 

 立ち上がり、市役所の方角を見た。

 

 行って、何を言うのか。

 

 千穂に謝るのか。

 

 順子に会わせてほしいと頼むのか。

 

 また考えようとしている。

 

 四十数年前も、そうだった。

 

 病院へ来なくていいと言われたとき、順子は本当に来るなと言ったのではないかもしれない。

 

 そう思った。

 

 だが、行って拒まれるのが怖かった。

 

 行けば、自分がしたことを、病院の廊下や消毒薬の匂いの中で見なければならない。

 

 だから、順子の言葉に従った。

 

 従うという形で、逃げた。

 

 亨は家へ戻った。

 

 玄関を開けると、煮物の匂いがした。

 

「お帰り」

 

 台所から洋子の声がした。

 

「ただいま」

 

「今日は遅かったね」

 

「公園におった」

 

「絵は描けた?」

 

「いや」

 

「何しに行ったの」

 

「考えごと」

 

「家でもできます」

 

「家やと、時計が気になるから」

 

「外でも腕時計を見てるでしょう」

 

 洋子が台所から顔を出した。

 

「この頃、考えごとばかりやね」

 

「そうやな」

 

「考えて、何か決まりました?」

 

「まだ」

 

「考えるのが好きなんやね」

 

「そうやない」

 

「決めへんで済むから、考えてるんやないの?」

 

 亨は靴を脱ぐ手を止めた。

 

 洋子はもう台所へ戻っていた。

 

「ご飯、もうすぐできます」

 

「ああ」

 

「今日は肉じゃがです」

 

「そうか」

 

「嫌?」

 

「いや」

 

「返事が短いから」

 

 亨は居間へ入り、鞄を置いた。

 

 食卓には二人分の箸が並んでいる。

 

 自分の箸の先が、少しだけ洋子の方へ向いていた。

 

 亨はまっすぐに直した。

 

 台所から洋子が出てきた。

 

「何してるの?」

 

「箸が曲がってた」

 

「それくらいで、ご飯の味は変わりません」

 

 洋子は肉じゃがの鉢を食卓へ置いた。

 

 じゃがいもの一つが、煮崩れていた。

 

「それ、私が食べます」

 

「どうして?」

 

「崩れたから」

 

「僕でええよ」

 

「きれいな方がええでしょう」

 

「どっちでも同じや」

 

「ほな、崩れた方をどうぞ」

 

 洋子は煮崩れたじゃがいもを亨の小鉢へ入れた。

 

 亨は箸を取った。

 

 形は崩れていたが、味はよく染みていた。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十五章 地下にある一番

 

 京都へ戻る新幹線の窓から、夕暮れの景色がゆっくり後ろへ流れていった。

 

 長崎を離れてしまえば、これまでの出来事が少しずつ現実味を失っていくのではないかと、孝は思っていた。

 

 数日前までなら、旅行先で古い写真を見つけたことも、祖母の家に残された木箱のことも、歴史を題材にした少し不思議な出来事として受け止めていたかもしれない。

 

 窓に映る自分の顔を見ながら、孝は何度も同じことを考えていた。自分の名前が、八十年以上前の手帳に残されていた。祖父は長崎から何かを持ち帰っていた。

 

 そして、その「何か」が、現在の自分たちの家に残されている可能性がある。

 

 長崎で出会った男は、祖父から記録を受け取ったことがあると言った。その人物は、祖父が最後まで守っていたものを知っている。

 

 ならば、祖父は自分の家族に何も話さなかったのではなく、話せなかったのかもしれない。孝には、その違いが大きいように思えた。何も知らなかったのなら、祖父はただ過去を忘れた人になる。

 

 しかし、知っていて語らなかったのなら、その沈黙には理由がある。

 

 列車が京都へ近づくにつれ、その理由が少しずつ重く感じられてきた。車内では、四人ともほとんど話さなかった。

 

 これまでなら、見つかった情報を整理するために、互いの考えを口にしていたはずなのに、今はそれぞれが自分の中で考えている。

 

 涼子は撮った写真を整理し、浩一は古い地図と現在の地図を照合している。沙羅は母親とのメッセージを読み返していた。それぞれの沈黙が、むしろ四人の距離を近づけているようだった。同じものを見ている。

 

 ただ、見えているものが少しずつ違う。京都駅に着いたのは、夜だった。

 

 長崎へ出発したときには、旅行から戻れば日常に戻れると思っていた。

 

 しかし、改札を抜けた瞬間、孝はその考えが完全に間違っていたことを知った。京都の街は、何も変わっていない。

 

 駅前には人が行き交い、タクシーが並び、観光客が大きな荷物を引いて歩いている。それなのに、孝だけが以前の自分ではない。長崎へ行く前には、自分の家の歴史など考えたこともなかった。祖父が何をしていたのか。

 

 曾祖父がどこで暮らしていたのか。なぜ祖父が八月になると長崎の話を嫌がったのか。

 

 そんなことは、もう確かめようとも思っていなかった。知らないことは、知らないままでいい。それが家族というものだと思っていた。

 

 けれど、知らないことの中に、自分たちが今も暮らしている場所の秘密が隠されているのなら、話は変わってくる。翌朝、孝は父の家へ向かった。

 

 父は玄関まで出てきたが、孝の後ろに涼子たち三人がいるのを見て、少し驚いた。長崎で何があったのか。そのことを説明するには時間がかかる。しかし、父は何も尋ねなかった。

 

 おそらく、電話で聞いた話だけでも、すでに何かを察していたのだろう。居間には、祖父の箱が置かれていた。

 

 長い年月、物置の奥にしまわれていた箱。外側には傷が多く、角は擦り切れている。それでも、鍵を使わずに開けることはできなかった。父が小さな工具を使って蓋を開ける。

 

 中には、古い写真と書類、それから布に包まれた冊子が入っていた。孝は、その冊子を見た瞬間、長崎の四番を思い出した。黒い手帳とよく似ている。

 

 ただし、こちらの表紙には数字がない。代わりに、小さな十字の印が刻まれていた。父は、それを見ても何も言わなかった。孝は父の顔を見た。長い沈黙のあと、父はようやく祖父について話し始めた。

 

 祖父は戦後、長崎から京都へ戻ってきた。そのとき、何かを持って帰った。それは家族には見せなかった。

 

 ただ、父がまだ子供だった頃、一度だけ祖父が箱を開けているところを見たことがあるという。そのとき祖父は、父に気づくと、ひどく怒った。普段、声を荒らげるような人ではなかった。それなのに、そのときだけは違った。

 

 父はその理由を聞かなかった。聞けば、祖父がさらに苦しむような気がしたからだという。

 

 孝は、その話を聞きながら、祖父の姿を思い出そうとしていた。自分が子供の頃に会った祖父は、すでに高齢だった。庭に出て植木を眺めたり、新聞を読んだりする、ごく普通の老人だった。

 

 長崎の話をしているところなど、見たことがない。けれど、一度だけ覚えている。八月九日の朝だった。

 

 テレビから長崎の平和祈念式典の映像が流れていた。祖父は、その画面を見たまま、何も言わなかった。幼かった孝には、それが不思議だった。祖父はいつもなら、テレビのニュースに何かしら反応する。

 

 しかし、その日だけは、画面を見つめたまま動かなかった。今になって思えば、あの沈黙にも理由があったのだろう。

 

 父が布に包まれた冊子を開いた。最初の頁には、名前がいくつも並んでいる。長崎で見たものと同じだった。

 

 ただし、こちらには名前だけではなく、その人がどこへ移ったのかが記されている。海外。京都。大阪。東京。

 

 そして、名前の横に「消息不明」と書かれた人もいる。

 

 孝は一頁ずつめくった。記録そのものは古い。ところどころ墨が滲み、紙が破れている。しかし、最後の数頁だけは比較的新しい。そこに、祖父自身の筆跡があった。

 

 「昭和二十年八月九日以後、記録を京都へ移す」

 

 その下に、別の文章が続いている。

 

 「長崎に残すことは危険である」

 

 さらに、その下には一人の名前があった。高瀬宗一郎。そして、もう一人。エリアス・ローレンス。この二人の名前は、長崎でも何度も出てきた。しかし、二人の名前の間には、今まで見たことのない記述がある。

 

「記録の中身を知る者は、二人だけではない」

 

 孝は頁をめくる手を止めた。さらに下には、別の名前が書かれていた。それは、祖父自身の名前だった。そして、その横に、

 

「最後の一人」

 

 と記されている。父は、その文字を見ても何も言わなかった。おそらく、初めて見るのだろう。

 

 孝は、祖父が最後まで何を守ろうとしていたのか、少しだけ理解できた気がした。祖父は、記録そのものを守っていた。その記録に書かれた人々が、誰だったのか。どこへ行ったのか。どのような人生を送ったのか。

 

 その事実を、誰かが後から消したり書き換えたりしないように。ただ、それだけだったのかもしれない。

 

 ところが、最後の頁を開いたとき、そこに別の文字があった。祖父の筆跡ではない。もっと新しい筆跡だった。そこには、

 

「一番は、まだ開けてはいけない」

 

 と書かれている。孝は思わず顔を上げた。長崎で見つけた四番。港の十七。そして、京都の一番。

 

 数字が場所を示しているなら、一番はこの家の地下にあるということになる。だが、この家には地下室などない。父もそう言った。少なくとも、自分が住んでいる限り、そんなものは見たことがない。

 

 それでも、孝は家の図面を見せてもらった。

 

 父が古い書類の束から取り出した建築図面には、現在の家には存在しない空間が描かれていた。地下ではない。家の基礎の下に、小さな空洞がある。しかも、その入口は現在の床下収納の位置と重なっている。

 

 孝は、しばらく図面を見つめた。父が知らなかったのは当然だった。

 

 その空間は、家が建てられたときから存在していたわけではない。古い家を改修した際に、誰かが意図的に作ったものだった。そして、その改修を行った年が、昭和二十一年。長崎から祖父が京都へ戻った翌年だった。

 

 部屋の空気が変わった。誰も急いで床を開けようとはしなかった。

 

 ここまで来てしまうと、単なる謎解きではない。

 

 そこに何が入っているのかを知ることは、祖父が生涯隠してきたものを知ることになる。それは、家族にとっても大きな意味を持つはずだった。父は、床下収納の蓋を開けた。その下には、確かに古い木の板がある。

 

 板を外すと、さらに下へ続く空間が現れた。

 

 高さは人が立てるほどではない。けれど、奥に何かが置かれている。古い木箱だった。その箱の側面には、長崎で見たものと同じ印が刻まれている。そして、その下に数字がある。

 

1。

 

 孝は、そこで初めて理解した。祖父は、長崎から何かを持ち帰った。それを京都の家の地下に隠した。そして、その存在を誰にも知らせないまま亡くなった。しかし、なぜか誰かがそれを知っている。

 

 だからこそ、長崎で四人を待っていた人物がいた。だからこそ、祖母は四番について知っていた。

 

 だからこそ、父の家にある箱まで、誰かが探している。孝は木箱に手を伸ばした。その瞬間、スマートフォンが震えた。長崎からだった。知らない番号。届いたのは、たった一枚の写真だった。京都の家の地下。

 

 今、四人が立っている場所を、外から撮影した写真。撮影時刻は、ほんの数分前。

 

 孝は画面を見たまま、背筋が冷たくなるのを感じた。自分たちがここにいることを、誰かが知っている。しかも、その人物は家の外にいる。窓の向こうへ目を向ける。夜の京都の街に、いくつもの明かりが見える。人の姿もある。

 

 車も走っている。けれど、その中に誰が自分たちを見ているのかはわからない。

 

 父が、ようやく木箱の蓋に手をかけた。箱は、長い年月を経ているにもかかわらず、不思議なほどきれいだった。蓋の中央には、小さな金属製の鍵穴がある。鍵はない。しかし、孝は長崎で見た古い鍵を思い出した。四番の鍵。

 

 そして、祖母の家から消えた鍵。もし、それらが同じものなら、この一番の箱も開けられる。

 

 ただ、その前に孝は箱の裏側を見た。そこには、数字ではなく一つの文章が刻まれていた。古い文字だった。それでも、読むことはできた。

 

「一番を開ける者は、最後の名前を知る。」

 

 孝は、その言葉を見つめた。長崎で守られてきた名前。消された名前。書き換えられようとしている名前。そして、自分の名前。最後の名前とは誰なのか。それがわからないまま、孝は箱の鍵穴に指を触れた。

 

 すると、外から車のブレーキ音が聞こえた。窓の向こうに、一台の黒い車が止まった。

 

 その車から降りた人物を見て、沙羅が息をのんだ。長崎の墓地で会った男だった。男は家の前に立つと、玄関を見上げた。

 

 そして、まるでここへ来ることを最初から知っていたかのように、ゆっくりと玄関のチャイムを押した。その瞬間、地下の木箱の中から、かすかな音がした。鍵がないはずなのに、内部で何かが外れたような音だった。

 

 孝は箱を見つめた。蓋の隙間から、古い紙が一枚だけ滑り出ている。

 

 そこには、祖父の字で、まだ誰も読んでいない一行が記されていた。

 

「長崎を焼いた日、私が見たのは炎ではなかった。」

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『5年越しの手紙』

 

第三章 大阪出張と、阪急梅田駅の奇跡

 

金曜日の午後五時を回ったばかりの、阪急大阪梅田駅。

 

巨大なドーム状の天井に覆われた三階コンコースは、週末の解放感と家路を急ぐ人々の熱気、そして絶え間なく交差する無数の足音に包まれていた。

 

頭上からは高らかな阪急電車の発車メロディが途切れることなく降り注ぎ、マルーン色の重厚な車体が滑り込んでくるたびに、改札口からは怒涛のような人波が押し寄せてはコンコースの海へと散っていく。

 

その濁流のような人波の中を、白石美穂は重いキャリーケースの車輪を静かに響かせながら歩いていた。

 

二泊三日の大阪出張。

 

取材はすべて順調に終了し、あとは新大阪発、午後六時三分発の「のぞみ」で東京へ帰るばかりとなっていた。

 

仕事が無事に終わった安堵感の反面、美穂の心は暗く沈んでいた。

 

今夜東京へ帰れば、また哲也と向き合わなければならない。

 

あのメッセージにどんな顔をして応えればいいのか。

 

改札へ向かう通勤客の一定のペースに身を任せ、美穂は三階改札口へと続く巨大な動くエスカレーターへ向かって歩を進める。

 

吹き抜けのガラス窓から落ちてくる秋の夕光が、コンコースの磨かれた床に長く白い影を落としていた。

 

――その、直後だった。

 

十メートルほど前方、エスカレーターの乗り口へ向かって人波を縫うように歩いていく一人の男の背中に、美穂の視線が吸い寄せられた。

 

少し丸まった両肩。

 

右手をコートのポケットに突っこみ、左肩をわずかに下げて歩く独特の歩行リズム。

 

人波の頭ひとつ分ほど低い位置にある、あの見慣れた猫背。

 

美穂の足が、見えない磁石で貼り付けられたようにピタリと止まった。

 

周囲の靴音も、電車の発車ベルも、雑踏の喧騒も、潮が引くようにすっと遠のいていく。

 

(……え……?)

 

呼吸が止まる。

 

忘れようと必死に蓋をしてきたはずの身体が、皮膚の隅々で覚えている歩き方だった。

 

男はそのまま何事もないように、動くエスカレーターのステップへ足を踏み入れた。

 

美穂との距離が十段ほど離れた、その瞬間だった。

 

男が肩にかけたビジネスバッグの脇から、ひらりと一枚の薄い長形の封筒が滑り落ちた。

 

白い紙片は風に煽られ、クルリと宙を舞ってから金属のステップへと転がった。

 

男はそれに気づく様子もなく、上へ上へと吸い込まれていく。

 

「あの、すみません! 落とし物――」

 

かすれた声を出したが、金曜夕方の喧騒の中にあっけなくかき消された。

 

美穂はキャリーケースを引きずりながら駆け寄り、ステップに落ちた白い封筒をなりふり構わず拾い上げた。

 

見上げると、男の影はすでに三階コンコースの人波の中に紛れ込み、改札の奥へと消えかけている。

 

「待ってください……!」

 

美穂は重いキャリーケースを持ち上げ、動くエスカレーターのステップを一段飛ばしで駆け上った。

 

太ももが激しく痛み、胸の奥で心臓が早鐘を打つ。

 

息を切らしながら三階の改札前に辿り着いたときには、波のように押し寄せる通勤客の群れの中に、あの猫背の影はもうどこにも見当たらなかった。

 

改札口の前に広がる人工的な光の中で、美穂は肩で激しく呼吸をしながら立ちつくした。

 

震える手つきで、拾い上げた封筒を眺めた美穂の指先が、凍りついたように止まった。

 

上質な白い和紙の封筒。

 

表面の中央に、角張った、けれどどこか丸みのあるペン字で、はっきりと宛名が書かれていた。

 

【藤田 明夫 様】

 

あの猫背も、歩き方の癖も、そしてこの文字も。

 

あの日、何の理由も告げずに自分の前から忽然と姿を消した恋人――藤田明夫、その人だった。

 

封筒の軽さが、かえってズシリと重く美穂の掌にのしかかる。

 

なぜ彼が今、大阪にいるのか。

 

なぜあの時、何も言わずに去っていったのか。

 

五年間固く封印していた時間が、脈を打ち始めていた。

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『  最後の仕事 』

 

第二章 夕食の席

 

座敷の襖が閉まるたび、外を流れる川の音が少し遠くなる。

 

料理の皿が置かれる音。徳利が卓の上に触れる音。誰かが笑い、その勢いで咳き込む声。

 

静かな旅館の夜に、それらが小さく重なっていく。

 

仕事の現場とはまるで違う音なのに、森川には妙に馴染んでいた。

 

三村が昔の話を始めると、山科がすぐ横から細かな間違いを訂正する。

 

黒田はそれを聞くと、「そこは違うやろ」と言いたげに眉を寄せる。

 

仲谷だけは面白そうに二人のやり取りを眺め、酒を一口飲んだ。

 

竹森だけは、皆の話にすぐ口を挟まず、どこへ転がっていくのかを眺めながら箸を動かしていた。

 

森川はその横顔を見て、昔もこうだったと思う。

 

騒ぎが大きくなっても慌てない。

 

誰かが言い過ぎれば、頃合いを見て話を戻す。

 

それでいて、自分から場を仕切ろうとはしない。

 

そんな竹森の様子を眺めているうちに、三村がふと思い出したように口を開いた。

 

「黒さん、あの工場の仕事、覚えてます?」

 

黒田が顔を上げる。

 

三村は笑いながら続けた。

 

「社長が撮影中に急に歩く方向を変えたやつです」

 

山科も思い出したように言う。

 

「森川さんが怒ってましたよね」

 

俺が怒ったんやない。予定が変わったから困っただけや」

 

森川がそう言うと、仲谷が酒を飲みながら笑った。

 

「お前ら、歳取って口が達者になったな」

 

「昔は、森川さんが『もう一回』と言うたら、誰も何も言えませんでしたね」

 

仲谷が言う。

 

黒田がすぐに反応した。

 

「谷ヤンも言えんかった?」

 

そう言って箸を置く。

 

さっきまでの笑い話を聞き流す気はないらしい。湯気の向こうの仲谷を正面から見て、返事を待った。

 

黒田は箸を置き、湯気の向こうにいる仲谷を正面から見た。

 

「昔の現場は、誰かが強く言わんと進まんかったからな」

 

森川は何も言わず、その言葉を聞いていた。

 

しばらくして、三村が別のことを思い出したように口を開く。

 

「そういえば、明日モモちゃんも来るんやろ?」

 

森川が顔を上げた。

 

「モモちゃん?」

 

「桃谷さんです」

 

山科が笑った。

 

「森川さん、忘れました?」

 

山科がからかうように笑う。

 

森川は少し考えてから答えた。

 

「覚えてる」

 

すると黒田が横から口を挟んだ。

 

「昔、森川さんが何回も『もう一回』言うてたモデルや」

 

「何回も言うた覚えはない」

 

森川が返す。

 

「言うてましたよ」

 

仲谷が笑った。

 

森川は何も言わず、手元の酒に目を落とした。

 

仲谷が言った。

 

「今は着物屋をやってるらしいで」

 

三村も続ける。

 

「明日は、自分の店の着物で来るらしい」

 

森川は少し考えた。

 

記憶の中に、深い青の着物が浮かぶ。

 

その前で、カメラに向かって笑っていた顔。

 

「へえ」

 

森川はそれ以上、聞かなかった。

 

昔、一緒に仕事をした人間が、今もどこかで仕事をしている。

 

それだけのことだ。

 

「今は?」

 

黒田は少し考えた。

 

「今は、強く言うより、よう見ることやろ」

 

湯飲みを手に取り、すぐには口をつけない。

 

「誰が疲れてるか。誰が困ってるか。誰が黙ってるか」

 

一つずつ言葉を置くようにして、黒田は続けた。

 

「そういうのを見てたら、現場は止まらん」

 

森川は黙って聞いていた。

 

昔なら、声を張って人を動かすことが仕事だと思っていた。

 

今の黒田が言う「見る」という言葉には、長い時間を現場で過ごしてきた人間にしか分からない重みがあった。

 

仲谷は小さく頷いた。

 

反論することも、話を急いで続けることもせず、黒田の言葉が途切れるのを待っている。

 

「カメラも同じですよ」

 

仲谷が言った。

 

「画面だけ見てたら、撮れないことがある」

 

「人の顔を見てたら、次に何が起こるか分かることがある」

 

森川は顔を上げた。

 

酒の席の何気ない話だと思っていた。

 

けれど、その言葉の中に、撮影するときの感覚に触れるものがあった。

 

黒田は頷いた。

 

「それは昔から変わらんことや」

 

「じゃあ、僕ら進歩してないですね」

 

仲谷が冗談めかして言った。

 

森川は酒を置いた。

 

ここからは笑い話として流す気にはなれなかった。

 

昔と今で、自分たちの何が変わったのか。皆がそれぞれ何を抱えているのか。

 

今夜のうちに少し聞いておきたかった。

 

「昔は、それを言葉にせんでも分かった」

 

森川が言う。

 

「今は、言葉にせんと分からんことが増えた」

 

一瞬、皆が黙った。

 

誰もすぐには返さなかった。

 

やがて黒田が笑う。

 

「森川、珍しく正直やな」

 

「歳取ったって認めた」

 

「身体のこと言うたんやない」

 

森川が返す。

 

黒田は肩をすくめた。

 

「それも結局は同じことやろ」

 

森川は少しだけ笑った。

 

「まあ、そうかもしれんな」

 

その言葉で、張りつめかけた空気がほどけた。

 

また笑いが起きた。

 

窓の外では、川が途切れることなく流れている。

 

その音を聞きながら、料理の皿が少しずつ空いていき、徳利も次第に軽くなっていった。

 

話題は仕事から家のことへ移り、家の話が一段落すると、いつの間にかまた仕事の話へ戻っている。

 

誰かが「昔は」と口にすれば、別の誰かが「今は」と返す。

 

そのたびに、話の中の時間だけが昔と現在を行き来した。

 

けれど、誰も過去へ戻りたいとは言わなかった。

 

昔の話をしているのに、懐かしさに浸っているわけでもない。

 

あの頃、自分たちは何を考えていたのか。

 

なぜ、あんなふうに仕事をしていたのか。

 

そんなことを、今の自分たちの目で確かめるように話していた。

 

森川は皆の話を聞きながら、ふと明日のことを考えた。

 

明日、本当に撮影する。

 

そのことだけは決まっている。

 

だが、何を撮るのか。

 

どこから始めるのか。

 

具体的なことは、まだ何も決まっていない。

 

森川は酒を口に運びながら、そのことをぼんやり考えていた。

 

夕食は、川の見える座敷で始まった。

 

料理が一品ずつ運ばれてくる。

 

鮎。

 

山菜。

 

湯葉。

 

小さな鍋。

 

卓の上に料理が揃うにつれて、皆の箸も自然に動き始めた。

 

「うまいな」

 

三村が言う。

 

「昔なら、撮影終わってからこんな料理食べられへんかったな」

 

黒田が笑う。

 

「終わったら終わったで、次の仕事が待ってたからな」

 

「そもそも、こんなところで飯食う余裕なんかなかった」

 

昔の仕事を思い出したのか、皆がそれぞれに笑った。

 

料理の湯気の向こうで、話は自然と昔の現場へ戻っていった。

 

「予算がなかったからな」

 

黒田が言う。

 

「予算があっても、竹森さんが削った」

 

三村が続ける。

 

「削らんと仕事にならんこともあった」

 

竹森は平然と答える。

 

「昼飯抜きになった仕事もあった」

 

仲谷が言うと、山科が笑った。

 

「誰のせいです?」

 

「クライアントや」

 

竹森が即答する。

 

一拍置いて、皆が笑った。

 

森川は酒を飲みながら、そのやり取りを聞いていた。

 

昔の現場の空気が、料理の湯気と一緒に少しずつ戻ってくるようだった。

 

三村が一つ話すたび、黒田が別の場面を足し、山科が細かなところを直していく。

 

同じ仕事の話なのに、誰が語るかによって記憶の形が少しずつ違っていた。

 

森川は箸を止め、そのやり取りを聞いていた。

 

自分では忘れていた台詞や、その場で自分が取った態度まで、三村はよく覚えている。

 

「森川さん、あの社長が怒った仕事、覚えてます?」

 

森川はすぐには答えなかった。

 

「撮影中に社長が歩く方向を変えたやつやろ」

 

「そうそう。あれです」

 

「あれは社長が勝手に変えたんや」

 

黒田が言う。

 

「森川さん、怒ってましたよ」

 

「俺が怒ったんやなくて、予定が変わったから困ったんや」

 

森川が言い直すと、三村が笑った。

 

「そこは今でも同じですね」

 

森川は苦笑する。

 

自分では忘れていたことを、他人の記憶によって思い出していく。

 

そんな時間が、今夜は妙に心地よかった。

 

仲谷は酒を飲みながら、皆の話を聞いていた。

 

「俺、あのとき黒ちゃんに怒られた」

 

「森川さんがカット変えたんですよ」

 

黒田がすぐに説明する。

 

「黒ちゃんにとっては、照明変える仕事やった」

 

「そういうことや」

 

黒田は当然のことのように言い、少し得意そうに胸を張った。

 

仲谷が笑う。

 

「カット変えるだけで、そんな大事になるんか」

 

「なるんや」

 

黒田は譲らない。

 

その横で、竹森が静かに酒を置いた。

 

竹森の様子から、何か話が変わる気配を感じ取ったらしい。

 

「みんなには言うてなかったんやけど」

 

竹森が言った。

 

黒田の眉が上がる。

 

それまで動いていた箸も、そこで一度止まった。

 

「何やて?」

 

黒田が聞き返す。

 

「撮影?」

 

仲谷も身を乗り出す。

 

黒田は竹森を見て、笑いながら睨んだ。

 

竹森は何食わぬ顔で座っている。

 

その顔を見れば、何か隠していたことだけは明らかだった。

 

「この旅館のPR動画や」

 

竹森が言った。

 

「PR?」

 

黒田が聞き返す。

 

旅館の主人が恐縮したように頭を下げた。

 

仲谷は何も言わず、森川へ目を向けた。

 

長い付き合いの中で、何かを決めるときには、いつも最後に森川の判断を待つことがあった。

 

「森川さん、本あるんですか?」

 

仲谷が尋ねる。

 

森川はすぐには答えなかった。

 

竹森が先に手を叩いた。

 

「大丈夫や。我らが森川大先生がおる」

 

「大先生って……」

 

森川が苦笑する。

 

「急に持ち上げるな」

 

「でも、ギャラ出るんやろ?」

 

黒田が聞いた。

 

さっきまでの笑顔が少しだけ消える。

 

竹森は答えを急がず、酒を手に取った。

 

「明日見せる」

 

「竹森さんが何か隠してるときの顔してます」

 

山科が言う。

 

竹森は笑っているだけで、否定しなかった。

 

その様子を見ていた黒田が、酒を一口飲む。

 

しばらく黙ってから、ぽつりと言った。

 

「俺らの最後の仕事ちゅうことやな」

 

誰もすぐには返さなかった。

 

一瞬だけ、座敷の空気が静まった。

 

襖の向こうでは、川の音だけが変わらず続いていた。

 

しかし、竹森がすぐに言った。

 

「明日やってみてから考えたらええ」

 

先のことまで、今夜決める必要はない。

 

黒田は笑った。

 

けれど、その笑みはすぐに引いた。

 

「歳考えたら、そうなるやろ」

 

森川は二人の会話を黙って聞いていた。

 

「最後」という言葉が引っかからなかったわけではない。

 

それでも、今はまだ、その先まで考える気にはならなかった。

 

ただ、昔の仕事の続きが一日だけ戻ってきた。

 

明日、もう一度カメラの前に立つ。

 

それぐらいの気持ちだった。

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『  最後の仕事 』

 

第一章 貴船の午後

 

車が旅館の前で止まると、森川はすぐには降りなかった。

 

開いた窓から、濡れた石と木の葉の匂いが入り込んでくる。

 

街中では気にならなかった川の音が、運転席の三村がエンジンを切った途端、急に近くなった。

 

森川は窓の外へ目を向けた。

 

流れの速い水が石にぶつかる音が、静かな山の中に続いている。

 

森川がドアへ手を伸ばすと、三村が先に外へ出た。

 

「荷物、これだけ?」

 

三村が車内を覗き込む。

 

森川の鞄は一つだけだった。

 

「軽いな」

 

「昔からや」

 

森川は笑って、座席から立つ。

 

そのとき、手が一度だけ座席の端に触れた。

 

森川はそのまま鞄を持ち、車を降りた。

 

京都の街を北へ抜けるころには、車の音も少しずつ遠くなっていた。

 

建物の間から山が見え始め、やがて山の斜面を覆う木々が視界いっぱいに広がっていく。

 

道路も次第に細くなり、曲がりくねった道が続いた。

 

森川俊一は助手席から、流れていく景色を黙って眺めていた。

 

窓を少し開けると、冷たい空気が車内へ入り込んでくる。

 

街中とは違う湿り気を含んだ匂いに、森川は窓の外へ目を向けた。

 

やがて車が旅館の前で止まる。

 

そこで初めて、貴船川の音がはっきりと耳に届いた。

 

「森川さん」

 

声に振り返ると、三村徹が玄関から出てきたところだった。

 

三村は森川の鞄を見ると、黙って手を伸ばした。

 

「自分で持つわ」

 

「でも、持ちます」

 

笑いながら言われ、森川はそれ以上断らなかった。

 

鞄を三村に渡した。

 

その様子を見ていたように、山科薫が廊下から出てきた。

 

「森川さん、部屋もう開いてます」

 

山科はそう言いながら、玄関に置かれた靴を端へ寄せ、森川の靴を置く場所を空けた。

 

続けて傘立ての傘を一本だけ脇へ寄せ、自分の傘をその横に揃える。

 

「昔もそうやったな」

 

「何がです?」

 

「人の靴まで並べる」

 

山科は少し笑った。

 

「並んでないと気になるんですよ」

 

そのとき、玄関の奥から大きな声が響いた。

 

「おう、森川」

 

黒田武雄が現れた。

 

「おう、森川」

 

黒田が差し出した手を、森川も握り返す。

 

昔と変わらず、大きな手だった。

 

「歳取ったな」

 

「お前に言われたないわ」

 

黒田は声を上げて笑い、すぐに玄関脇の段ボールへ目を向けた。

 

「これ、どこ置くん?」

 

「それは明日の機材です」

 

山科が答える。

 

黒田は「そうか」と頷くと、段ボールを持ち上げた。

 

「ほんなら、邪魔にならんとこへ置いとくわ」

 

黒田は段ボールを抱えたまま、少し呆れた顔をする。

 

「なんや、仕事みたいやな」

 

「明日は仕事ですから」

 

山科が答える。

 

黒田が何か言い返そうとしたところで、玄関に人影が現れた。

 

少し遅れて仲谷慎一が入ってきた。

 

「遅れました」

 

「珍しいな」

 

黒田が振り返る。

 

仲谷は電車が一本遅れたのだと説明し、皆に順番に挨拶した。

 

それから、ふと窓の方へ顔を向ける。

 

「川、見える?」

 

山科が窓際へ行き、外を確かめる。

 

「見えますよ」

 

仲谷が後ろから覗いた。

 

「ええ光やな」

 

黒田が横から言う。

 

「まだ撮影、始まってへんぞ」

 

「分かってる」

 

仲谷は笑った。

 

そのやり取りを聞きながら、山科も窓の外を眺める。

 

そこへ最後に竹森龍男が現れた。

 

玄関先に集まった皆の様子を見回し、竹森は呆れたように笑う。

 

「お前ら、もう仕事始めてるやん」

 

山科が、黒田が勝手に機材を動かそうとしていただけだと説明した。

 

竹森はそれを聞いて、いかにも黒田らしいと笑っいる。

 

「まあ、ええやん」

 

そう言って皆を座敷へ促した。

 

「今日は仕事の話なしや。飲んで食べて、昔の話したらええ」

 

「竹森さんが言うと信用できへんな」

 

黒田がすかさず返す。

 

「お前、仕事の話ばっかりするからや」

 

竹森が笑うと、黒田も肩をすくめて笑い返した。

 

玄関に残っていた仕事の空気が、少しずつほどけていった。

 

森川は、座敷へ向かう皆の顔を順番に見た。

 

三村はいつものように手際よく動き、山科は細かなところまで気にしている。

 

黒田はまだ仕事の続きをするように段ボールを見ていた。

 

仲谷は窓の外へ目を向け、竹森はそんな皆を少し離れたところから眺めている。

 

それぞれ歳を重ねた。

 

写真に収めれば、昔とは別人に見えるかもしれない。

 

それでも、こうして同じ場所に並ぶと、不思議なほど昔の現場が近く感じられた。

 

座敷の窓からは川が見える。

 

仲谷が窓際へ寄り、流れを眺めながら呟いた。

 

「昔、ここで撮影したことあったな」

 

三村も窓の外へ目をやった。

 

「二十年ほど前やったか」

 

記憶をたどるように、ゆっくりと言った。

 

森川は川へ目をやった。

 

流れを眺めていると、背後から黒田の声が聞こえる。

 

「まだ仕事ちゃう言うてるやろ」

 

森川が振り返る。

 

黒田は例の段ボールを前にしたまま、悪びれる様子もない。

 

「置く場所だけ決めたらええやん」

 

「それを仕事言うてるんや」

 

森川が返すと、皆が笑った。

 

さっきまで残っていた仕事の緊張が、そこでようやく消えた。

 

座敷には湯気の立つ茶が用意されていた。

 

廊下の向こうからは、料理の支度をする音がかすかに聞こえてくる。

 

器の触れ合う音や、人の行き交う気配が、静かな旅館の中に柔らかく響いていた。

 

今夜は、この部屋を囲むだけだ。

 

酒を飲み、料理を食べ、昔の仲間と他愛のない話をする。

 

それなら、それでいい。

 

森川が貴船へ来るまでの数週間、仲谷から届く連絡はどれも短かった。

 

最初のメッセージも、余計な説明はなかった。

 

「久しぶりに集まりませんか」

 

それだけだった。

 

森川はその一文を何度か読み返した。

 

仕事の依頼という感じではない。

 

何か大きな用事があるようにも思えなかった。

 

だから森川は、昔の仲間と酒を飲むために貴船へ行くのだと思っていた。

 

黒田と酒を飲んでいたときにも、そんな話が出た。

 

もう六十五を過ぎた。

 

いつまで元気でいられるかなんて、誰にも分からない。

 

身体が動くうちに、一度くらいみんなで集まって騒ごう。

 

昔、撮影で世話になった貴船の旅館なら、安く泊めてもらえるらしい。

 

そんな話を、酒の合間に何度かしていた。

 

森川は仲谷から届いた文面をもう一度読み返し、しばらく画面を見つめていた。

 

同窓会。

 

その言葉を頭の中で繰り返す。

 

昔の仲間が集まるだけなのに、なぜか少しだけ妙な響きがあった。

 

まだ何も始まっていないのに、そこには時間の長さまで含まれているように思えた。

 

昔の仲間が集まれば、自然と昔の話になる。

 

「あのときは大変やったな」

 

そんな話をしているうちに、誰かが決まって言う。

 

「もう、あれから何年や」

 

そこから年齢の話になる。

 

身体の具合や、昔より酒が弱くなったこと。

 

いつまで仕事ができるのか。

 

そんな話が続いて、最後には誰かが言うのだ。

 

「次はいつ集まれるか分からんからな」

 

森川は、そういう話を嫌っているわけではなかった。

 

自分たちが歳を重ねたことくらい、分かっている。

 

ただ、今の自分たちを、昔の写真の横へ並べるようなことはしたくなかった。

 

過ぎた時間を数えるより、今ここにいることだけを考えていたかった。

 

森川は返信欄を開いた。

 

少し考えてから、一行だけ送った。

 

その夜、竹森から電話があった。

 

「森川、来るんやな」

 

電話の向こうから、竹森の声がした。

 

「珍しいな。お前が何も企んでへんとは」

 

「何も企んでへんわ」

 

「ほんまか?」

 

竹森が笑う。

 

森川も笑った。

 

それだけ話して、電話を切った。

 

森川はスマートフォンを机の上へ置いた。

 

もう返事を待つ必要はない。

 

行くと決めた。

 

それ以上、理由を考える必要もなかった。

 

窓の外は、すっかり暗くなっていた。

 

明日の予定も、その次の日の予定も、今は何もない。

 

仕事の段取りも決まっていない。

 

ただ貴船へ行って、酒を飲んで、昔の仲間と話す。

 

それだけの予定だった。

 

それで十分だと、森川は思った。