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『  最後の仕事 』

 

第五章 香盤表

 

森川は紙の前に立った。

 

書かれた時刻より、余白のほうが気になる。

 

仲谷の指が紙の上を滑る。黒田は川へ目を向け、三村はペンを手にしている。山科は主人の動きを確かめていた。

 

森川はその様子を一度に捉えた。

 

旅館の廊下には、一枚の紙がテープで貼られている。

 

三村と山科は、その前で撮影の段取りを確認していた。

 

場所と時間、人物、カットの順番。移動や備考まで細かく書き込まれている。

 

そこへ仲谷が近づいた。

 

「香盤表、これか」

 

三村が時刻の横を指でなぞる。

 

その隣に場所、その横に人物。

 

さらに移動と備考が続いていた。

 

午前十時は川沿い。

 

十時十五分、旅館前。

 

主人が入るのは、そのあとだった。

 

カメラと人のどちらが先に動くのかまで、段取りは細かく決まっている。

 

モデルの入り時間には、小さな丸がついていた。

 

黒田の担当は照明と反射板。

 

三村と山科には、移動と確認が割り当てられている。

 

紙の端には、料理の出る時間まで鉛筆で書き足されている。

 

仲谷も黒田も、こうした香盤表には慣れていた。

 

長年現場にいた二人にとって、見慣れたものだ。

 

それでも今回の紙には、少し気になるところがあった。

 

「この二つのカット、順番変わってるな」

 

黒田が紙へ目を落とした。

 

「モデルさん、どこに立つんや?」

 

「一つ目は旅館の前です」

 

「旅館の前を撮ってから川へ行くんか」

 

仲谷が紙を見ながら考える。

 

三村は黙って聞いていた。

 

「モデルさんが川沿いを歩いて旅館へ来る。そこを撮る。そのまま旅館前で一人のカット。次にご主人に出てもらって、二人を撮る」

 

「機材を一回動かすだけで済みますね」

 

「そうや。旅館前を撮ってから川へ行って、また戻ってくるのは時間がもったいない」

 

三村はその場で香盤表を書き換えた。

 

森川は少し離れたところで、そのやり取りを聞いていた。

 

仲谷の指が川を示し、三村のペンが紙の上を走る。

 

森川は黙って、その様子を見ていた。

 

やがて、紙の端を指で二度叩く。

 

三村はその音を聞くと、紙を半分に折った。

 

森川が現場で考え直すとき、昔から立てる音だった。

 

誰も口には出さなかったが、三村には分かっていた。

 

三村は森川の意図を汲んだ。

 

「ほんなら、この順番でいきましょう」

 

山科が紙を貼り直す。

 

森川は最後にもう一度、紙へ目を落とした。

 

予定どおりに進んだ一日ほど、予定の外側に何があったのかが気になる。

 

撮影は朝から始まり、昼を越えて夕方まで続いた。

 

長い一日だった。

 

それでも、無駄な動きはほとんどない。

 

昔の現場と、同じだった。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十八章 消された名前

 

 写真を見つめたまま、孝はしばらく動かなかった。

 

 そこに写っている人物を、疑ったことは一度もない。長崎へ来てから何度か顔を合わせ、困ったときには助言をもらい、四人が不用意に危険な場所へ近づかないように気を配ってくれた。

 

 土地のことにも詳しく、古い資料についても知識があり、長崎という街を歩くうえで、これほど頼りになる人はいないと思っていた。

 

 だからこそ、写真に残された小さな印が、簡単には信じられないものに感じられた。人を疑うということは、その人との過去を疑うことでもある。

 

 あのときの言葉も、あのときの親切も、すべて別の意味を持っていたのではないかと考え始めれば、記憶そのものが崩れてしまう。

 

 涼子の祖母が見せてくれた写真を、孝はもう一度、光の当たる場所へ持っていった。

 

 古い写真なので、人物の顔は鮮明ではない。それでも、胸元にある小さな印だけは、偶然ではないと思えるほどはっきりしている。円の中に一点。長崎で見た記録には、これまで一度も登場しなかった印だった。

 

 孝は写真をスマートフォンで撮影し、画像を拡大した。すると、その人物の後ろに、もう一人の男が立っていることに気づいた。顔は半分隠れている。しかし、服装と姿勢には見覚えがあった。

 

 墓地で川村の前に現れた、あの男だった。つまり、二人は以前からつながっていた。

 

 その事実がわかっただけで、これまでの出来事が急に違った形を見せ始める。

 

 長崎駅を出たところから始まった奇妙な出来事も、眼鏡橋へ向かうよう促されたことも、古い家の写真が誰かの目に留まったことも、偶然ではなかったのかもしれない。四人が長崎へ来ることを、誰かが知っていた。

 

 そして、その誰かは四人が何を見つけるのかを待っていた。しかし、それだけならまだ理解できる。

 

 本当に恐ろしいのは、その人物が四人を直接動かそうとはしなかったことだった。必要なときだけ、ほんの少しだけ道を示す。

 

 四人が自分たちの意思で歩いていると思わせながら、実際には目的地の近くへ誘導していく。

 

 それなら、四人が最初に感じた「偶然」という感覚も説明できる。

 

 孝は、自分たちの長崎旅行を最初から振り返った。最初に見た建物。写真に写った家。祖母から涼子へ届いた話。眼鏡橋へ行くことになった経緯。古い墓地。そこから見つかった記録。

 

 すべてが一本の線でつながっているように見える。けれど、その線を誰が引いたのかまではわからない。

 

 それを確かめるためには、長崎へ戻るしかなかった。京都に残っている木箱と手帳だけでは、最後のところまで届かない。涼子の曾祖母が長崎から京都へ持ち出したもの。孝の祖父が守ったもの。

 

 そして、いまも誰かが探しているもの。その始まりが、長崎のどこにあったのかを突き止めなければならない。

 

 長崎へ向かう新幹線を待つ間、四人は京都駅の構内にいた。

 

 以前なら、旅行の終わりには土産物を選び、写真を見せ合いながら長崎での出来事を振り返っていたはずだ。今は誰も、旅の終わりだとは思っていなかった。

 

 むしろ、これからが本当の始まりなのだという感覚が、四人の間にあった。長崎へ戻ることを決めたのは、誰か一人の提案ではなかった。必要だから戻る。

 

 そして、その決断をした直後、孝のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。送り主は、あの人物だった。文章は短かった。

 

「もう戻ってこないほうがいい。」

 

 孝は、その文字を何度も読み返した。以前なら、それを忠告として受け取っただろう。しかし今は違う。

 

 戻ってこないほうがいいということは、戻ってこられると困るということでもある。

 

 その人物が本当に四人を守ろうとしているのなら、もっと別の言葉があるはずだった。危険だからやめろ。資料を警察へ渡せ。京都で待て。

 

 そうした具体的な忠告ではなく、ただ「戻ってこないほうがいい」とだけ書いてある。

 

 孝は、その違いを忘れないようにした。長崎へ向かう列車の中で、四人はこれまで撮った写真を整理した。涼子は写真を年代順に並べていく。

 

 沙羅は祖母から聞いた話を書き留め、浩一は古い地図と現在の地図を重ね合わせた。そして孝は、祖父の手帳を読み返していた。そこには、人名と場所が細かく記録されている。しかし、ところどころに不自然な空白がある。

 

 ある人物について、名前を書いたあとに、住所も職業も記されていない。

 

 代わりに、三つの点が並んでいる。その人物が何をしたのか。どこへ行ったのか。なぜ記録が途中で消えているのか。その答えは、手帳の後半にあるはずだった。だが、最後の数頁は意図的に切り取られている。

 

 紙を破った跡が残っている。祖父自身が切り取ったのか、それとも誰かに持ち去られたのか。判断できない。

 

 ただ、切り取られた頁の端に、一文字だけ残っていた。

 

 「浦」。

 

 孝は、その文字を見て長崎の地図を広げた。浦上。その地名が頭に浮かんだ。

 

 原爆投下の歴史を語るとき、長崎という街の中でも特別な意味を持つ場所。

 

 キリシタンの歴史があり、教会があり、原爆によって大きな被害を受けた地域でもある。偶然とは思えなかった。四人は長崎駅に戻ると、そのまま浦上へ向かった。

 

 観光客の多い場所を離れるにつれ、街の表情が少しずつ変わっていく。坂の向こうに住宅が続き、古い家と新しい建物が混じっている。

 

 何度も災害や戦争を経験し、そのたびに街が形を変えてきたことが、建物の残り方からも感じられる。浩一が古い地図を広げた。

 

 現在の道路と、戦前の地図を重ねると、一つだけ不自然な場所が見つかった。現在の道路から少し外れたところに、昔の細い道が残っている。その先に、古い石垣がある。石垣そのものは珍しいものではない。

 

 しかし、手帳に残された記号と地図を重ねると、その場所が一致した。四人は石垣の前に立った。

 

 そこには小さな祠があった。観光案内にも載っていない。長い年月の間に誰かが守ってきた場所なのだろう。祠の脇には、一枚の古い石碑が立っている。文字はほとんど読めない。それでも、最後の一行だけは残っていた。

 

「名を失った者、ここに帰る。」

 

 涼子は、その言葉を見つめた。

 

 長崎で守られてきた「名前」が、ここでも繰り返されている。

 

 しかし、孝が気づいたのは、その石碑の文字ではなかった。石碑の裏側に、薄い金属板が埋め込まれている。円の中に一点。あの印だった。四人は誰も触れなかった。そのとき、背後から人の気配がした。振り返る。

 

 少し離れた道路の向こうに、男が立っていた。川村だった。だが、川村は四人へ近づこうとしなかった。

 

 むしろ、その場に立ったまま、祠を見つめている。

 

 孝は、その姿を見て初めて、川村が四人を追ってきたのではないことに気づいた。彼もまた、この場所を探していたのだ。川村はゆっくりと歩いてきた。そして祠の前に立つと、石碑に手を触れた。

 

 その顔には、長い年月をかけて探し続けたものをようやく見つけた人間の表情が浮かんでいた。彼が取り出したのは、一枚の古い写真だった。孝たちが見た写真と同じものだった。

 

 ただし、川村が持っている写真には、裏側にもう一行が残っている。そこには、日付と場所が記されていた。

 

一九四五年八月九日 午前十一時二分。

 

 そして、その下に、もう一つの名前。孝は、その名前を読んだ。それは、これまで手帳に一度も登場しなかった。けれど、写真の中の少年が誰だったのかを知るには十分だった。少年は、涼子の曾祖母の兄だった。

 

 つまり、涼子の家族につながる人物だった。

 

 そして、その少年こそが、原爆が投下された日に手帳を探していた人物だった。長崎から京都へ運ばれた記録は、そこから始まった。少年は生き残り、名前を変え、京都へ移った。

 

 涼子の曾祖母もまた、別の名前を使って京都へ移った。二人は、同じ記録を守るために別々の道を選んだ。

 

 だが、その記録には一つだけ、誰にも知られてはいけない名前が残されていた。その名前を消すために、何十年も前から誰かが動いていた。

 

 そして、その名前こそが、現在の四人を長崎へ引き寄せた本当の理由だった。孝は川村の持っている写真を見た。写真の隅に、少年と一緒に立つ若い女性がいる。その女性は、涼子の曾祖母ではない。別の女性だった。

 

 女性の胸元には、小さな円の中に一点の印がある。川村が写真を裏返した。

 

 そこには、祖父の筆跡ではない文字が残っていた。

 

「この人が、名前を消した。」

 

 その下に、女性の名前が書かれている。孝は、その名前を見た瞬間、言葉を失った。それは歴史上の人物の名前ではなかった。長崎で出会った誰かでもない。現在の京都にもつながっている。

 

 そして、その人物の名前を知っている人間が、四人のすぐ近くにいる。涼子が、写真を覗き込んだ。

 

 その名前を見た瞬間、彼女の表情が変わった。子供の頃から何度も聞いてきた名前だったという。祖母が決して詳しく話そうとしなかった人物。家族写真から意図的に外されていた人物。

 

 そして、涼子の曾祖母が、最後までその存在を隠していた人物。その名前が、ここにある。

 

 長崎の街を何十年も越えて、京都へ渡り、そして再び長崎へ戻ってきた。孝は、ようやく一つの事実にたどり着いた。この事件の中心にあるのは、失われた宝でも、秘密の財宝でもない。たった一人の人間の名前だった。

 

 その名前を消した者がいる。守った者もいる。そして、その名前を再び世の中へ戻そうとしている者もいる。

 

 四人は、その争いの意味さえ知らないまま、ここまで来てしまった。それでも、もう逃げることはできない。

 

 長崎という街が、何百年もの時間を抱えながら、ようやく四人の前に最後の扉を開こうとしていた。そのとき、孝のスマートフォンが鳴った。表示された名前を見て、孝は凍りついた。

 

 電話をかけてきたのは、京都に残してきた人物だった。四人が最も信頼していた人物。そして、写真の中に円の印をつけていた人物。

 

 孝は電話に出なかった。ただ画面を見つめている。やがて着信が切れた。直後に、メッセージが一通届いた。そこには、たった一枚の写真が添付されていた。京都の家の地下。誰もいないはずの場所に、木箱が開かれている。

 

 その箱の中には、昨夜まで確かにあった手帳がない。そして写真の隅に、誰かの手が写っている。

 

 その手には、小さな金属製の鍵が握られていた。長崎で見つけた四番の鍵だった。孝は、画面を見つめたまま、初めて本当の意味で理解した。自分たちが長崎へ戻ってきたことを、相手は最初から知っていた。

 

 そして、四人が長崎にいるあいだに、京都で最後の一手を打った。謎は長崎に残されているのではない。

 

長崎と京都の両方で、同時に動いている。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十章 三人

 

 順子から電話があったのは、千穂が二日目の休暇を終えようとしていた夕方だった。

 

 千穂は起きたまま、寝床に座っていた。

 

 窓の外では、向かいの建物の明かりが一つずつつき始めている。

 

「明日、岡山へ行きます」

 

 挨拶のあと、順子はすぐに言った。

 

「どうして?」

 

「亨と話しました」

 

 千穂は携帯電話を耳から少し離した。

 

 母が亨を名前で呼んだ。

 

「会ったの?」

 

「昨日、京橋の近くで」

 

「私には何も言わずに?」

 

「先に二人で話す必要があったから」

 

「何を話したの」

 

「あなたのことよ」

 

「私のことなのに、私はあとなんだ」

 

「あなたの前で、四十数年前の喧嘩を始めたくなかったの」

 

「喧嘩したの?」

 

「少し」

 

「少しで済んだんだ」

 

「千穂」

 

 順子は声を強くしなかった。

 

「明日の午後、三人で会いませんか」

 

「どうして私が」

 

「あなたが、仕事を休むことになったから」

 

「二人で話して、もう終わったんでしょう」

 

「終わってないわ」

 

「だったら、私を入れないで」

 

「来るかどうかは、あなたが決めればいい」

 

 順子はそこで言葉を切った。

 

「でも、私と亨は、あなたに話さなければならないと思っています」

 

「何を?」

 

「私たちのことを、あなたが代わりに引き受けなくていいということを」

 

「言われたら、忘れられるの?」

 

「忘れなくていい」

 

「では、何のために会うの」

 

「知らなかった頃には戻れないでしょう。戻れないなら、知ったまま、どこへ置くかを考えるしかないから」

 

「二人で置き場所を決めたの?」

 

「決めてないわ」

 

「また、私に決めさせるんだ」

 

「そう聞こえたなら、ごめんなさい」

 

 千穂は枕元に置いた腕時計を見た。止まっているように見えたが、秒針は動いていた。

 

「明日の二時に、京橋の近くにいます」

 

「行かなかったら?」

 

「帰ります」

 

「澤口さんも?」

 

「ええ」

 

「二人で待つの?」

 

「そうなるわね」

 

 千穂は、母と亨が並んで自分を待つ姿を思い浮かべた。

 

 四十数年会わなかった二人が、自分を待つために同じ場所へ立つ。

 

「分かった」

 

 千穂は言った。

 

「行く」

 

 翌日の午後、千穂は約束より十分ほど遅れて京橋へ着いた。

 

 遅れようとしたわけではない。

 

 自宅を出る前、何度も鞄の中を確かめた。携帯電話を持ったか。鍵を掛けたか。火を使っていないか。

 

 建物を出たあと、もう一度戻って鍵を確かめた。

 

 掛かっていた。

 

 順子と亨は、旭川沿いのベンチから少し離れた場所に立っていた。

 

 二人の間には、人が一人入れるほどの距離がある。

 

 近くもなく、遠くもなかった。

 

「遅くなってごめん」

 

「来てくれただけでいいわ」

 

 順子が答えた。

 

 亨は頭を下げた。

 

「休んではるところ、すみません」

 

「今日まで休みなんです」

 

 千穂の声が硬くなった。

 

「誰のせいとは言いませんけど」

 

 亨は言い返さなかった。

 

 三人は川沿いのベンチへ移った。

 

 順子が端に座った。

 

 千穂は母との間を一人分空けて座り、亨は反対の端へ腰を下ろした。

 

 三人の間には、それぞれ一人分ずつの空きがあった。

 

 旭川には、午後の光が細かく揺れている。

 

「何を話すの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子と亨は一度、互いを見た。

 

「私から話すわ」

 

 順子が言った。

 

「あなたが箱の中を見つけたとき、あなたには関係のないことだと言いました」

 

「うん」

 

「あれは違った」

 

 千穂は母を見た。

 

「あなたは私の娘だから、まったく関係がないとは言えない」

 

「では、関係があるんでしょう」

 

「あるわ」

 

「昨日は、ないと言った」

 

「間違えたのよ」

 

「お母さんも間違えるんだ」

 

「よく間違えるわ。あなたに言わないだけで」

 

 千穂は少しだけ口元を動かした。

 

「でも」

 

 順子は続けた。

 

「あなたに関係があることと、あなたが何かをしなければならないことは、同じではない」

 

「言葉を変えただけに聞こえる」

 

「そうかもしれない。でも、聞いて」

 

 順子は膝の上で両手を重ねた。

 

「私が妊娠したこと。産まないと決めたこと。一人で病院へ行ったこと。亨を許していないこと。それは、私と亨の間にあることです」

 

「でも、お母さんは一人だった」

 

「一人だったわ」

 

「澤口さんは来なかった」

 

「来なかった」

 

「だったら」

 

「あなたが、私の代わりにこの人を憎む必要はないの」

 

 千穂は亨を見た。

 

「私が憎んでるように見える?」

 

「見えるわ」

 

「お母さんの代わりじゃない。私が腹を立ててるの」

 

「それなら、腹を立てていい」

 

「どっちなの?」

 

「私のために腹を立てているなら、やめてほしい。でも、あなたが自分で腹を立てているなら、私にはやめさせられない」

 

「ずるいね」

 

「そうね」

 

 順子は否定しなかった。

 

「私も、どう渡せばいいのか分からないのよ」

 

「お母さんが渡したんじゃないでしょう。私が見つけた」

 

「そうね」

 

 順子は同じ言葉を繰り返した。

 

「それも、間違えた。私が話す前に、あなたに見つけさせた」

 

「わざとじゃないでしょう」

 

「わざとでなければ、間違いにならないの?」

 

 千穂は答えなかった。

 

 川から来た風が、三人の足元を通った。

 

 順子のスカートの裾が揺れた。

 

「澤口さんは?」

 

 千穂が尋ねた。

 

 亨は膝の上で組んだ手をほどいた。

 

「僕は、あなたのお母さんが一人で決めるしかない場所から、逃げました」

 

「母は、来なくていいと言ったんでしょう」

 

「言われました」

 

「だったら」

 

「ほんまに行くつもりやったら、病院の近くまで行けたと思います。順子に会うなと言われたら、外で待つこともできた」

 

「どうして行かなかったんですか」

 

「怖かったからです」

 

「何が?」

 

「順子の顔を見ることも、その日に失うものを見ることも、自分が責任を持つことも」

 

「それで、あとから半分のお金を送った」

 

「はい」

 

「半分で済むと思ったんですか」

 

「金を払わなあかんとしか、考えられませんでした」

 

「母は使わなかった」

 

 亨は順子を見なかった。

 

「昨日、聞きました」

 

「ずっと持ってたんです」

 

「はい」

 

「どう思いました?」

 

 亨は膝の上の手を見た。

 

「捨てられへんものを、僕が送ったんやと思いました」

 

「お金を?」

 

「お金も、その手紙も」

 

「後悔した?」

 

「しました」

 

「四十数年?」

 

「毎日やありません」

 

 千穂は顔を上げた。

 

 亨は続けた。

 

「忘れてた日もあります。仕事をして、洋子と暮らして、別のことを考えてた日もようけあります」

 

「よく、そんなことを言えますね」

 

「ずっと苦しんでたと言うたら、嘘になるからです」

 

 千穂は亨を見た。

 

 長く苦しんできたと言って泣かれたら、もっと腹が立ったかもしれない。

 

 だからといって、忘れていたと言われて楽になるわけでもなかった。

 

「謝ったんですか」

 

「昨日、謝りました」

 

「それで?」

 

「聞きました」

 

 順子が答えた。

 

「許したの?」

 

「許してないわ」

 

「では、何が変わったの」

 

 順子は川を見た。

 

「この人が、来なかった人であることは変わらない」

 

 亨が静かにうなずいた。

 

「でも、この人が、あの日だけでできているわけではないことも分かった」

 

「許してないのに?」

 

「許さないまま、そう思ったの」

 

 千穂は二人を交互に見た。

 

「よく分からない」

 

「私も昨日、初めてそう思ったばかりだから、うまく説明できないわ」

 

「お母さんが説明できないのに、私に分かるわけないでしょう」

 

「そうね」

 

 順子は少し笑った。

 

「では、いまは分からないままでいいんじゃない?」

 

 千穂は笑わなかった。

 

 ただ、鞄の中を確かめたくなる気持ちが、少しだけ遠のいた。

 

「私は、順子がそのあと幸せだったのか、知りたいと思ってました」

 

 亨が言った。

 

「どうして?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「幸せやったら、自分が少し安心できると思うてたからです」

 

「それの何が悪いんですか」

 

「さあ」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「悪いと言い切れるかどうかは、僕にも分かりません。ただ、順子が幸せやったら、自分のしたことが少し軽うなると思うてました」

 

「軽くなったんですか」

 

 今度は順子が尋ねた。

 

「いいえ」

 

「私は幸せでした」

 

 順子は言った。

 

 亨を見ず、千穂を見た。

 

「お父さんと暮らしたことも、あなたを産んだことも、店をしていたことも」

 

「でも、私が生まれたとき、思い出したんでしょう」

 

「思い出したわ」

 

 順子は同じ答えを返した。

 

「それでも、あなたを代わりだと思ったことはない」

 

「どうして、二つに分けられるの」

 

「分けてないのよ」

 

「では、同じなの?」

 

「同じでもない」

 

「また言葉の話?」

 

 千穂は苛立った。

 

 順子は膝の上の手をほどいた。

 

「あなたが生まれた日のことを、話してもいい?」

 

「前にも聞いた」

 

「全部は話してないわ」

 

 千穂は答えなかった。

 

「あなたは髪の多い赤ちゃんだった。看護婦さんが、こんなに髪がある子は珍しいと言ったの」

 

「それは聞いた」

 

「指を一本ずつ数えた。右手を数えて、左手も数えた。それから、もう一度右手を数えた」

 

「どうして?」

 

「十本あると分かっても、また数えたくなったのよ」

 

 千穂は自分の右手を見た。

 

「お父さんは?」

 

「あなたの足を数えてた」

 

「二本でしょう」

 

「指よ。靴下を脱がせようとして、看護婦さんに怒られた」

 

 千穂の口元が少し動いた。

 

「それで、あの子のことを思い出したの?」

 

「あなたの指を数えたときに」

 

「やっぱり」

 

「でも、数えていたのは、あなたの指よ」

 

 順子は千穂の手を見た。

 

「十本あったから、うれしかった。あの子を思い出したから、うれしくなかったわけではないの」

 

 千穂は手を握った。

 

 すぐに納得できたわけではない。

 

 ただ、母が数えたという指は、いまも自分の手についている。

 

「澤口さん」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「奥さんは、何も知らないんですよね」

 

 亨の表情が止まった。

 

「知りません」

 

「このまま、話さないんですか」

 

「いまは、そのつもりです」

 

「どうして?」

 

 亨は答える前に、順子を見た。

 

「私を見ないでください」

 

 順子が言った。

 

「洋子さんに話すかどうかは、あなたが決めることでしょう」

 

 千穂は母を見た。

 

「洋子さんって、鶴山公園を一緒に歩いた人?」

 

「そうよ」

 

「知ってたの?」

 

「昨日、亨から聞いたの」

 

「それで、何も言わなかったの?」

 

「いま言ったでしょう」

 

「そういう意味じゃない。澤口さんの奥さんだと知って、どうしたの」

 

「腹を立てたわ」

 

「それだけ?」

 

「帰ろうともした」

 

「帰らなかったんだ」

 

「あなたの話が残ってたから」

 

 千穂は亨へ顔を向けた。

 

「澤口さんは、母と奥さんが会ってることを知ってたんですか」

 

「知ってました」

 

「それなのに黙ってた」

 

「はい」

 

「なぜ?」

 

「言えば、二人の間にできたものを、僕と順子の過去に変えてしまうと思うたからです」

 

「それは、きれいな方の理由でしょう」

 

 順子が言った。

 

 亨はうなずいた。

 

「洋子に知られるのが怖かった。順子と洋子が会えへんようになるのも、自分が責められるのも怖かった」

 

「また怖かったんですね」

 

 千穂が言った。

 

「はい」

 

「怖いと言えば、何でも済むんですか」

 

「済みません」

 

「では、奥さんに話すんですか」

 

「いまは話しません」

 

「どうして?」

 

「話したら、自分が楽になる気がするからです」

 

「奥さんが知りたいかもしれないでしょう」

 

「そうかもしれません」

 

「知らないままにするのも、澤口さんが決めるんですね」

 

「そうです」

 

「矛盾してる」

 

「はい」

 

 千穂は眉を寄せた。

 

「そこで、はいと言われると腹が立つ」

 

「すみません」

 

「謝られても腹が立つ」

 

「亨」

 

 順子が言った。

 

「何も言わない方がいいわよ」

 

「黙られても腹が立つ」

 

 千穂が言った。

 

 三人は黙った。

 

 しばらくして、順子が笑った。

 

 声を立てたわけではない。

 

 だが、千穂には分かった。

 

「何がおかしいの」

 

「何をしても腹が立つんでしょう」

 

「いまはね」

 

「それなら、仕方ないわ」

 

 順子の口元には、まだ笑みが残っていた。

 

 亨も、わずかに俯いた。

 

「お母さんは、洋子さんに話さないの?」

 

「私からは話さない」

 

「どうして?」

 

 順子は川向こうを見た。

 

「洋子さんと私が鶴山公園で話したことまで、亨との昔のことにしたくないから」

 

「でも、洋子さんだけが何も知らない」

 

「そうね」

 

「不公平じゃない?」

 

「そうかもしれない」

 

「お母さんまで、それで済ませるの?」

 

「済ませてはいないわ」

 

 順子は鞄からハンカチを出した。風で目に埃が入ったらしく、目尻を押さえた。

 

「洋子さんは、夫婦でも知らないことはあると言ってた」

 

「だから、話さなくていいの?」

 

「そうではないわ」

 

「では、何?」

 

「分からないのよ」

 

 順子はハンカチを畳んだ。

 

「私に分かるのは、あの日、洋子さんが私を支えてくれたことだけ。花びらで滑ったとき、腕をつかんでくれた。それは、あの人が亨の妻だからしたことではないでしょう」

 

「そうだね」

 

「だから、その日のことは、そのままにしておきたい」

 

 千穂は川面を見た。

 

 風に揺れる光は、どれが昨日のものか分からない。

 

「私は、どうしたらいいの」

 

 千穂が尋ねた。

 

 順子も亨も、すぐには答えなかった。

 

「何も言わないんだ」

 

「あなたに黙っていてとは頼めないわ」

 

 順子が言った。

 

「でも、話してとも言えない」

 

「私が話したら?」

 

「そのときは、私が洋子に説明します」

 

 亨が答えた。

 

「私を責めない?」

 

「責めません」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

「私が洋子さんを傷つけても?」

 

 亨は口を閉じた。

 

「責めへんと言うたら、また、千穂さんが何をしてもええと僕が決めることになる」

 

「では、どうするんですか」

 

「説明します。千穂さんが話したことも、僕が黙ってたことも」

 

 千穂は二人を見た。

 

 誰も、正しい答えを持っていなかった。

 

 大人になれば分かることが増えると思っていた。母も亨も自分より長く生きているのに、分からないと言う。

 

 それが少し腹立たしく、少しだけ安心でもあった。

 

 川沿いを、自転車に乗った少年が通り過ぎた。

 

 三人の前でベルを鳴らし、振り返らず走っていった。

 

「明日から、仕事に戻ります」

 

 千穂が言った。

 

「大丈夫?」

 

 順子が尋ねた。

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「無理はしないで」

 

「間違えたら、直す」

 

 千穂は亨を見た。

 

「澤口さんの絵の返却は、もう終わりましたから」

 

「お世話になりました」

 

「次に市役所から連絡があっても、母の話はしないでください」

 

「分かりました」

 

「仕事として会ってください」

 

「そうします」

 

 千穂は立ち上がった。

 

 順子も立ち、少し遅れて亨が立った。

 

「お昼、食べた?」

 

 順子が千穂へ尋ねた。

 

「まだ」

 

「もう三時近いでしょう」

 

「食べる気がしなかったから」

 

「何か食べましょう」

 

「いらない」

 

「休みの日まで、何も食べないつもり?」

 

「お母さんは、すぐ食べさせようとするね」

 

「それしか、できないからよ」

 

 順子は亨を見た。

 

「あなたは?」

 

「私は」

 

「誘っているわけではありません」

 

「分かってます」

 

「では、そこで迷わないでください」

 

 亨は少し笑った。

 

「帰ります」

 

「そうしてください」

 

 亨は二人へ頭を下げ、歩き始めた。

 

 途中で一度、振り返った。

 

 順子は千穂の鞄の中をのぞいていた。

 

「財布、持ってるの?」

 

「持ってるよ」

 

「さっきから鞄を何度も見てるから」

 

「もう確認しなくていい」

 

「何を食べる?」

 

「何でもいい」

 

「それが、いちばん困るのよ」

 

 母娘の声が、風に乗って届いた。

 

 亨は前を向いた。

 

 順子と千穂は、亨と反対の方角へ歩き始めた。

 

 誰も過去から飛び去ったわけではない。

 

 京橋のそばには、三人が座っていた空のベンチが残った。

 

 人一人分ずつ空けて座った跡は、もう見えなかった。

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『 あの人は、今 』

 

第二十四章 男の行方

 

写真の男の行方は、なかなか分からなかった。

 

京都の住所は古い。

 

勤務先もなくなっている。

 

写真館もない。

 

それでも、美和が古い資料から一つの手掛かりを見つけた。

 

男は、京都を離れたあと、瀬戸内地方へ移った可能性がある。

 

そこから調べると、尾道という地名が出てきた。

 

恭一は画面を見つめた。

 

尾道。

 

母の故郷。

 

父の暮らす町。

 

そして自分が生まれ育った町。

 

偶然なのか。

 

それとも何か理由があるのか。

 

岩城は、偶然を疑うより先に資料を確認しようと言った。

 

恭一も同じだった。

 

仕事では、思い込みほど怖いものはない。

 

しかし、資料を辿っていくと、男が尾道に住んでいた可能性は高かった。

 

しかも住所が一つ残っている。

 

それは、恭一の実家から歩いて十分ほどの場所だった。

 

第二十五章 もう一つの依頼

 

その頃、会社に別の依頼が入った。

 

依頼者は、六十代の男性。

 

昔、世話になった女性を探してほしいという。

 

最後に会ったのは四十年以上前。

 

名前は覚えている。

 

場所も覚えている。

 

それ以外は曖昧だった。

 

話を聞いているうちに、恭一は気づいた。

 

その女性の名前が、母の友人と同じだった。

 

さらに、最後に会った場所が尾道だった。

 

会社としては、別の依頼である。

 

しかし、恭一には別々には思えなかった。

 

それでも調査記録は分けた。

 

母のことと会社のことを混ぜない。

 

その線引きがあるからこそ、恭一は自分の仕事を続けられる。

 

第二十六章 父の写真

 

尾道へ戻った恭一は、父のカメラを見た。

 

父は最近、写真を撮る量が増えている。

 

海。

 

古い家。

 

母が歩いていた道。

 

誰もいないベンチ。

 

恭一は一枚ずつ眺めた。

 

どの写真にも、人の姿はほとんどなかった。

 

それでも、そこに誰かがいた時間だけは、妙に伝わってくる。

 

母がいなくなった後の町を、父はこうして残している。

 

恭一は写真を一枚、裏返した。

 

何も書いていない。

 

それを元に戻し、静かに引き出しへしまった。

 

第二十七章 父と男

 

父は、写真の男について知っていることを話した。

 

男は母を尾道まで送ってきた。

 

そのとき、父もいた。

 

男は、母が父を選ぶことを知っていた。

 

それでも恨まなかった。

 

最後に、母と父を並べて写真を撮った。

 

父は、その写真をずっと持っていた。

 

恭一は、父に聞いた。

 

なぜ捨てなかったのか。

 

父は答えなかった。

 

しばらくして、

 

「捨てる理由もなかったからな」

 

と言った。

 

恭一は、その言葉を聞いて、父らしいと思った。

 

第二十八章 会社を続ける理由

 

大阪へ戻ると、会社は以前より忙しくなっていた。

 

新しい案件。

 

問い合わせ。

 

契約。

 

請求。

 

採用。

 

税理士との打ち合わせ。

 

会社はもう、二人の思いつきではない。

 

人の人生を預かる仕事になっている。

 

岩城は経営面を強くするため、業務マニュアルを作り始めた。

 

美和は調査記録の形式を統一した。

 

新しい社員は、依頼者への聞き取りを始めた。

 

恭一は、仕事の中で一つの変化に気づいた。

 

以前は「見つける」ことが成果だと思っていた。

 

今は違う。

 

依頼者が本当に欲しいものが何なのかを見極める。

 

会いたいのか。

 

生きていることを確認したいのか。

 

謝りたいのか。

 

謝らなくてもいいから、相手が幸せに暮らしていると知りたいのか。

 

人によって違う。

 

だから、最初の面談に時間を掛けるようになった。

 

調査そのものより、依頼者の話を聞く時間のほうが長いこともある。

 

それでも、恭一は急がなかった。

 

誰かの話を聞くたび、最初の頃に決めた線へ戻ってくる。それで十分だった。

 

第二十九章 岩城の不安

 

ある夜、岩城は売上表を閉じたまま、しばらく手を動かさなかった。

 

数字そのものは悪くない。依頼は増えている。けれど、増えた分だけ、扱う情報も増えていた。

 

「これ、どこまで大きくする?」

 

恭一は答えず、湯呑みを持った。

 

岩城が心配していたのは売上ではなかった。人を探す会社として名前が知られれば、調査できるものなら何でも調べてほしいという依頼が増える。中には、相手に知られれば生活を壊しかねないものもある。

 

以前の二人なら、断る理由を探すより、受ける方法を考えただろう。今は逆だった。

 

美和が作った案件管理表には、新しい欄が増えていた。

 

「本人への接触に危険はないか」

 

「依頼者に伝えない情報は何か」

 

「調査を中止する条件は何か」

 

仕事が増えるほど、やらないことが増えていく。

 

岩城は、そのことが会社の成長なのか、臆病になっただけなのか分からないと言った。

 

恭一は少し考えた。

 

「最初より、怖くなったんだと思う」

 

怖さを知ったから、手順を増やした。知らなかった頃より、仕事は遅くなった。それでも、二人とも、その遅さを手放す気にはなれなかった。

 

帰り際、岩城が戸締まりをしながら言った。

 

「小さい会社のままでいいかもな」

 

恭一は笑った。

 

大きくなることより、明日も同じ顔で依頼者の前に座れることのほうが、今は大事だった。

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『5年越しの手紙』

 

第六章 風が運ぶ破片と、手紙の真実

 

ケアハウスの相談室で、美穂は施設長に尋ねた。

 

「施設長さん。……明夫さんは、五年前、どうしてこちらへ戻ってこられたのでしょうか」

 

施設長は静かに記憶を辿るように語った。

 

「明夫様がこちらへ手続きに来られた五年前の冬……あの時の切迫したお顔は忘れられません。睡眠時間を削るようにして奔走されていましたよ。『自分はどうなってもいいから、祖母だけは温かく安全な場所に』と。目の下に酷いクマを作り、痩せこけておられました」

 

施設を出た美穂の足は、無意識のうちに再び『藤田医院跡地』のパーキングへと向かっていた。

 

アスファルトの前に立ち尽くしていると、隣の米屋のおばちゃんが再び美穂に気づいて箒を止めた。

 

そこへ、路地の奥から三輪自転車に乗った作業服の男性――植木屋の主人が通りかかった。

 

「おばちゃん、毎度。……なんや、二人してそんなしんみりした顔して」

 

「このお姉さん、昔の明夫くんのお知り合いなんやって。五年前にお父さんが亡くなって明夫くんが帰ってきた頃の話をしてたんよ」

 

「あ、藤田さんのところの話か……」植木屋の主人は汗を拭い、更地に視線を向けた。

 

「あの時の明夫くんは、ほんま大嵐の中にたった一人で放り込まれたようやった」

 

主人は重々しく言葉を重ねた。

 

「お父さんが心臓の病気で急に亡くなってな。後から後から、医院の建て替えローンやら、医療機器の莫大な残債やら、連帯保証の借金やらがドッと出てきたんや。おばあちゃんはショックで認知症が一気に進んでまうし、まだ大学出たばかりの明夫くんが、たった一人でその全部を背負わされたんや。警察の手続きから借金取りの対応、医院の売却までな」

 

美穂の全神経が凍りついた。

 

手持ちのバッグの革紐を強く握りしめる。

 

「東京のええ設計事務所に就職が決まってたらしいけど、それを全部投げ打って帰ってきたんよ。昼は建設現場の荒仕事、夜は書類整理と介護や。瘦せこけて、目ぇ血走らせてな……」

 

美穂の脳裏に、五年前のあの十二月の日々が蘇る。

 

東京の部屋で「どうして連絡をくれないの」と一人で泣き明かしていたあの冬。

 

明夫は、この街で一人、底の見えない絶望と戦っていたのだ。

 

米屋のおばちゃんが、思い出したように言葉を添えた。

 

「そう言えば明夫くん、一度だけうちで米買いに来た時に漏らしたことがあったわ。『東京に大切な人がいる』って」

 

「あいつ、東京の彼女のことだけは、最後まで何も悪く言わんかったな」

 

植木屋が言った。

 

「自分の苦しい事情も一切言わんと、ただ黙って一人で抱え込んで……。自分のせいで悪者になればええと思ってたんちゃうか。自分の破滅に、彼女を巻き込むわけにはいかんって」

 

秋の風が吹き抜け、更地のアスファルトの上を落ち葉が舞い上がった。

 

――自分の苦しい事情を言わずに、ただ黙って。

 

美穂は、ようやくその意味を理解した。

 

嫌われたのではなかった。

 

捨てられたのでもなかった。

 

自分の借金と崩壊した家庭の重荷で、美穂の未来を塗りつぶさせないために。

 

明夫は理由も告げず、自ら悪者になって美穂の人生から身を引いたのだ。

 

「あいつ、その後現場の会社で死ぬ気で働いて、借金も全部返し切ってな。いまじゃ咲恵さんいうええ奥さんと巡り合って、子供も生まれて、ようやく平穏になったんや。……あ、そう言えば今日もこれから、あいつの家の庭の手入れに行くんよ。この先の新しい分譲地の角の家なんやけどな」

 

「……そう、ですか」

 

美穂は深々と頭を下げた。

 

涙は出なかった。

 

胸の奥を痛く締め付けていた冷たい氷が、溶けていくのをただ感じていた。

 

*

 

阪急梅田駅へ戻った美穂は、静かな喫茶店の壁際の席に座り、一筆箋を取り出した。

 

万年筆のインクが、白い和紙にしっとりと染み込んでいく。

 

『明夫へ この封筒、梅田駅のエスカレーターの近くで落としていたのを見かけました。

駅の窓口へ預けておきます。 

今日、豊中へ行き、和子さんの施設や街の方から当時のことを聞きました。

理由も知らずに過ごした五年間は苦しかったけれど、今日、あなたがどんな思いで過ごしてきたのかを知ることができました。 

 

私に気を遣ってくれたのですね。正直にいってくれていたら私も役に立てたと思います。

でも、あなたにとってはそんなことを考える余裕さえもなかったんだと思います。

私は、あなたの優しさを知ることができて、私の止まっていた時間が、ようやく動き出しました。 

声はかけずに、東京へ帰ります。

 

どうか、あなたもご家族と一緒に、たくさんの幸せに包まれていますように。 

 

白石美穂』

 

手紙を封筒に納め、阪急梅田駅の遺失物取扱窓口の係員に「落とし主が現れますので」と託した。

 

手続きを終えたとき、美穂の足は自然と再び豊中へと向かっていた。

 

声をかけるつもりはない。

 

ただ一目だけ、前を向いて自分の人生を生きている彼の姿を、この目に焼き付けたかった。

 

*

 

豊中市の新しい分譲住宅地。

 

白い壁と木の温もりが残る一軒家の前に、美穂はひっそりと佇んだ。

 

玄関が開かれ、明夫と咲恵さんが姿を現した。

 

五年の歳月を経て、明夫の佇まいには確かな落ち着きがあったが、少し丸まった肩や右手を上着のポケットに入れる癖はあの頃のままだった。

 

二人は笑顔で言葉を交わしながら、花壇の手入れを始めている。

 

風に乗って届いた明夫の声は、昔よりもずっと柔らかく、温かかった。

 

美穂はその光景を電柱の陰から見つめた。

 

彼はあの暗闇を乗り越え、自分の足で立ち上がり、この愛おしい日常を手に入れたのだ。

 

明夫がふと、何かに引き寄せられるように、美穂のいる路地の方向へゆっくりと視線を向けた。

 

美穂は息を殺し、電柱の陰へそっと身体を隠した。

 

そして、二度と振り返ることなく、前を向いて駅へと歩き出した。

 

(さようなら、明夫)

 

心の中で呟いた言葉は、秋空のように澄み切っていた。

 

新大阪発、東京行きの『のぞみ』。

 

窓際の席で、美穂は流れていく夜景を見つめていた。

 

膝の上に置いた自分の両手を見つめると、涙がハラハラと溢れ出し、膝を濡らした。

 

声を出さず、ハンカチでそっと拭う。

 

その涙に悲しみや恨みは一筋もなかった。

 

自分が二十代のすべてをかけて愛した人は、どこまでも誠実で、どこまでも優しい人だった。

 

自分が知りたかった答えに辿り着いた満足感が、静かに満ちていた。

 

美穂はスマートフォンを取り出し、哲也へのメッセージ画面を開いた。

 

『哲也さん、今、静岡のあたりを通過してるよ。急なんだけど……今夜、品川で会えるかな? 伝えたい大切な話があるの』

 

数秒もしないうちに、画面が光った。

 

『品川で待ってるよ。……美穂、気をつけて帰ってきてね』

 

画面を見つめ、美穂は深く息を吸い込んだ。

 

自分の意思で、哲也の待つ「現在」へ帰るのだと確信していた。

 

*

 

阪急大阪梅田駅の遺失物取扱窓口。

 

仕事終わりに青ざめた顔で駆け込んできた明夫は、手渡された封筒の中に一枚の手紙が入っているのに気づいた。

 

見覚えのある文字。

 

『明夫へ……』

 

手紙を読み進めるにつれ、明夫の体がかすかに震え、彼はゆっくりと目を閉じた。

 

手紙の一文――『私は、あなたの優しさを知ることができて、私の止まっていた時間が、ようやく動き出しました。』を指でなぞり、夜の駅の風の中で深く、長く息を吐き出した。

 

(美穂……ありがとう)

 

過去の微かな痛みが、静かに溶けて消えていった。

 

*

 

夜九時過ぎの品川駅改札前。

 

人波の中で待っていた哲也が、美穂の姿を見つけると、パッと表情を明るくして駆け寄ってきた。

 

「美穂! お疲れ様」

 

哲也が自然な動作でキャリーケースを受け取ろうとした瞬間、美穂は自分から、哲也の温かな手を力強く、しっかりと握りしめた。

 

哲也は一瞬驚いたように目を丸くし、それから美穂の表情を見た。

 

「哲也さん、今まで……自分の気持ちから逃げていて、ごめんなさい。もう迷わない。……今週末、一緒に住むお部屋、見に行こう? 私、哲也さんと一緒に、これからの暮らしを作っていきたいの」

 

一瞬の静寂の後、哲也の目に溢れんばかりの光が宿り、それから心からの笑顔が弾けた。

 

「……うん! もちろん行こう! 美穂……ありがとう」

 

重なった手の温もりを確かめながら、美穂はもう、後ろを振り返らなかった。

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『  最後の仕事 』

 

第四章 朝の機材

 

翌朝、旅館の一室に機材が並べられた。

 

黒田が段ボールを床へ置き、アルミ箔の端を指で押さえて皺を伸ばす。

 

その手つきには、昔の現場で何度も見た動きが残っていた。

 

三村がガムテープを渡す。

 

黒田は礼も言わずに受け取った。

 

二人にとって、それは礼を言うようなやり取りではなかった。

 

家庭用ビデオカメラが三台。

 

それぞれにバッテリー。

 

ハンディタイプの投光器。

 

三脚が三本。

 

仲谷は黙って、それらを見ていた。

 

「学校の学芸会でも、もうちょっとマシなもん使うぞ」

 

「こんなんしか揃えられへんかったんや。堪忍な」

 

竹森が頭を下げる。

 

仲谷はカメラを一台持ち上げた。

 

拍子抜けするほど軽い。

 

「まあ、撮れんことはない」

 

「撮れる。問題は光や」

 

黒田が投光器を手に取る。

 

「暗いところでゲイン上げたら、ノイズ出るやろ」

 

少し考えてから、黒田が言った。

 

「ほんならカメラに頑張らせたらあかん。被写体を明るくしたったらええんや」

 

「名言ちゃう。普通の仕事や」

 

黒田は窓から差し込む朝の光を見たあと、部屋の隅の段ボールに目を止めた。

 

「旅館に段ボールないか聞いてこい」

 

黒田が睨む。

 

山科はすぐに立ち上がった。

 

二人はすぐに部屋を出ていった。

 

「黒ちゃん、相変わらずやな」

 

「機材が安うても、画まで安うする必要はないやろ」

 

しばらくして、三村と山科が戻ってきた。

 

段ボールとアルミ箔。

 

黒田は床に座り、アルミ箔の折り目を伸ばして端を留めていく。

 

手際よく、光を返す面を作った。

 

「こんなもんでええ」

 

山科は出来上がったものを見て、昔のハレパネより丈夫そうだと感心した。

 

「現場は材料があれば何とかなる」

 

森川は、黙ってその様子を見ていた。

 

黒田は照明を見、仲谷はカメラを確かめる。

 

三村と山科が必要なものを運ぶ間、森川は現場全体を見渡しながら、画を組み立てていた。

 

笑い声が途切れたあとも、誰も座り直さなかった。

 

黒田は反射板を持ち、仲谷はレンズを覗く。三村は紙を押さえている。

 

さっきまで酒の話をしていた部屋から、酒の気配だけが消えていた。

 

次に誰がどこへ動くのか。

 

言われる前に、身体が覚えていた。

 

主人が持ってきた一眼デジタルカメラのことは、すでに皆が知っていた。

 

仲谷はレンズを確かめ、使えると判断する。

 

黒田がハレパネを持ち上げると、竹森も自然に撮影の輪へ入った。

 

「やっぱり、腐ってもプロやな」

 

黒田が笑う。

 

古いだけで、使えないわけではない。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十七章 名前のない写真

 

 朝になっても、孝は手帳を閉じたままにしていた。

 

 昨夜から何度も読み返しているのに、最後の頁だけは、どうしても開く気になれない。そこに記された名前が涼子であることを知ってしまった以上、四人の関係は、それまでと同じではいられないように思えた。

 

 もっとも、涼子自身は何も知らない。

 

 少なくとも、昨夜の手帳に記された祖父の言葉を信じるなら、そういうことになる。では、なぜ祖父は彼女の名前を残したのか。その疑問だけが、夜が明けても消えなかった。朝食のあと、孝は三人に手帳を見せた。

 

 涼子は、自分の名前を見ても、しばらく何も言わなかった。驚いているというより、意味を探しているようだった。

 

 彼女が手帳に書かれた自分の名前を指先でなぞる。その仕草を見ていると、孝はむしろ、自分のほうが申し訳ないような気持ちになってきた。涼子には何の責任もない。

 

 今回の旅行だって、もともとは四人で長崎を歩き、歴史を見て回るだけの予定だった。誰かの祖先を探す旅でもなければ、危険な記録を追いかけるつもりでもなかった。それが、偶然のような出来事が重なり、ここまで来てしまった。

 

 それなのに、最後の頁には涼子の名前がある。

 

 まるで最初から、この四人がここへ来ることを知っていたかのように。浩一は、手帳を撮影している涼子のスマートフォンを横から覗き込んだ。名前の下には、何もない。住所も、生年月日も、家族構成もない。

 

 ただ一行だけ、祖父の筆跡で書かれている。

 

「この人だけは、何も知らない。」

 

 その文章を見て、沙羅がようやく口を開いた。祖父は、涼子を知っていたのだろうか。それは誰にもわからない。涼子自身も、孝の祖父に会った記憶はないという。

 

 大学へ入る前に一度だけ、孝の家へ遊びに行ったことはある。しかし、そのとき祖父はすでに亡くなっていた。ならば、祖父は涼子本人を知っていたわけではない。手帳に書かれた名前は、別の意味を持っているはずだった。

 

 孝は、そこに一つの可能性を感じた。

 

 祖父が残したのは「涼子」という人間そのものではなく、彼女につながる何かではないか。

 

 名前が同じなのではない。家族。土地。あるいは、名前を受け継いだ理由。そう考えると、手帳の最後の記述が少し違って見えてくる。

 

「この人だけは、何も知らない。」

 

 これは警告なのではないか。

 

 涼子自身に秘密があるのではなく、彼女が知らないところで、誰かが彼女を利用しようとしている。もしそうなら、長崎で四人が追われた理由も変わってくる。

 

 彼らが持っている資料ではなく、涼子そのものが目的だった可能性がある。その考えに行き着いたとき、四人の間に静かな緊張が生まれた。だが、すぐに結論を出すことはできなかった。証拠がない。

 

 何より、ここまでの出来事には、まだ一つ大きな空白が残っている。

 

 昨夜、川村が話した「少年」の存在だった。

 

 原爆が投下された日に、一冊の手帳を探していた少年。その少年が誰なのか。なぜ祖父に手帳を託したのか。そして、その少年と涼子の名前がどうつながるのか。それを確かめる必要がある。

 

 孝は、長崎で撮影した写真を一枚ずつ確認した。四番の地下室。古い倉庫。墓地。そして、最初に見つけた古い家。

 

 何度見ても、同じものしか写っていないように思える。

 

 ところが、写真を大きく拡大していくと、最初の写真の端に小さな人物が写っていることに気づいた。古い家の前。遠くに立つ男性。しかし、手に何かを持っている。紙の束のようにも見える。孝は画像をさらに拡大した。

 

 その男性の後ろに、もう一人いる。女性だった。

 

 こちらも顔はわからない。ただ、服装だけが妙に気になった。現代のものではない。古い写真に写っていた女性と似ている。沙羅が、その写真を見た瞬間に息を止めた。祖母が持っていた写真と同じ女性かもしれないという。

 

 しかし、ここでも決定的な証拠はない。

 

 涼子は写真をじっと見たあと、何かを思い出したように、自分の鞄から小さな紙袋を取り出した。それは長崎へ来る前から持っていたものだった。中には、祖母から預かったという古い写真が入っている。

 

 旅行に出る前、涼子は何気なく家族写真を整理していて、その一枚を見つけた。祖母に見せると、これは処分しないでほしいと言われたという。その写真を四人で確認する。古い京都の町並み。その前に数人の若者が立っている。

 

 写真の年代は、戦後まもなくと思われる。

 

 そして、写真の隅に、昨日まで誰も気づかなかった人物がいた。若い女性。その女性の手には、見覚えのある木箱がある。

 

 箱の側面には「1」の印。

 

 孝は写真を見つめた。

 

 これで、京都の一番と長崎の記録がつながっていることは、かなり確かになった。しかし、まだ別の疑問が残る。なぜ涼子の家に、その写真があるのか。そして、その女性は誰なのか。

 

 涼子の祖母に尋ねればわかるかもしれない。

 

 だが、長崎にいる沙羅の祖母と同じように、涼子の祖母も何かを知っている可能性がある。問題は、それを聞いてしまっていいのかだった。過去を調べるということは、必ずしも真実を知ることではない。

 

 誰かが長い年月をかけて、忘れることで生きてきた記憶まで掘り起こすことになる。それでも、ここまで来てしまった以上、引き返すこともできない。四人は涼子の祖母を訪ねることにした。

 

 その日の午後、京都市内の静かな住宅街にある家を訪ねる。祖母は高齢だったが、話をする力は十分に残っていた。

 

 涼子が写真を見せると、祖母はしばらく黙っていた。そして、写真の中の女性を指で示した。その女性は、自分の母親だという。つまり、涼子の曾祖母だった。四人は驚いた。

 

 写真に写っている女性が涼子の家族だったこともそうだが、さらに重要なのは、その女性が持っている箱だった。

 

 祖母によれば、母親は戦後しばらくの間、長崎から京都へ移ってきたと家族には伝えられていた人物だった。ただし、長崎から来た理由は誰にも話さなかった。京都で暮らし始めてからも、長崎のことをほとんど語らなかったという。

 

 ただ、一つだけ繰り返し言っていた言葉がある。

 

 「名前だけは、なくさないように」

 

 祖母は、その意味を子供の頃には理解できなかった。

 

 母親が亡くなったあとも、なぜそんなことを言っていたのか、ずっとわからなかったという。孝は、胸の奥がざわつくのを感じた。長崎の少年。祖父。涼子の曾祖母。そして、名前を残すという言葉。

 

 すべてが一つにつながろうとしている。しかし、まだ核心だけが見えない。

 

 涼子の祖母は、さらに一枚の写真を出してきた。母親が長崎から京都へ移ってきた直後に撮ったものだという。写真には、若い女性と数人の男性が写っている。その中に、孝の祖父がいた。孝は言葉を失った。

 

 祖父と涼子の曾祖母は、戦後の京都で一緒に写っている。しかも、二人の間には木箱が置かれていた。

 

 その箱には「1」の印がある。

 

 つまり、二人は同じものを運んできた。ただし、それだけではなかった。写真の裏には、涼子の曾祖母の筆跡で、日付と短い文章が残されていた。

 

「この箱を開けるのは、最後の人。」

 

 その下に、もう一行。

 

「最後の人は、写真の中にはいない。」

 

 孝は写真を裏返したまま、しばらく動けなかった。

 

 では、「最後の人」とは誰なのか。

 

 祖父なのか。涼子の曾祖母なのか。それとも、その二人より後の世代なのか。涼子の祖母は、そこで初めて自分の母親について語った。母親は、自分が死ぬ前に一度だけ、家族に秘密を話そうとした。けれど、その直前に突然やめた。

 

 理由を尋ねると、母親は「まだ早い」と言った。

 

 それ以来、その話をすることはなかった。ただ、亡くなる数日前、涼子の祖母に一つだけ頼んだという。

 

 もし将来、誰かが長崎のことを尋ねてきたら、その人にこの言葉を伝えてほしい。祖母は、その言葉を今まで誰にも伝えていなかった。しかし、今日になって初めて話す気になった。その言葉は、

 

「名前を守るために、名前を隠した。」

 

 だった。孝は、その意味を考えながら、祖父の手帳を思い出した。名前を残す。名前を消す。名前を隠す。それぞれは反対の行為に見える。けれど、本当は一つの目的から生まれていた。誰かの命を守るためだった。

 

 禁教の時代には名前を隠す必要があった。戦争中には外国との関係を隠す必要があった。

 

 原爆後には、残された記録そのものを守る必要があった。そして戦後になっても、過去を知られたくない人間がいた。だから名前は、消されたのではない。別の場所へ移されたのだ。

 

 そのことに気づいた瞬間、孝は長崎で見つけた数字の意味にも思い当たった。九番。十二番。四番。十七番。そして一番。これらはすべて同じ意味の番号ではないのかもしれない。場所を示す番号と、記録を分けるための番号が混在している可能性がある。

 

 そうだとすれば、四番に残されたものも、十七番の倉庫にあったものも、すべて一冊の記録につながっている。最後に残った一番だけが、京都へ運ばれた。

 

 そして、その一番を開く資格を持つ「最後の人」が、まだ現れていない。

 

 涼子が写真を見ながら、ふと自分の名前について尋ねた。祖母は、すぐには答えなかった。けれど、しばらくして、母親から聞いた話を一つだけ思い出した。涼子という名前には、特別な意味があるという。

 

 それは単に「涼しい季節に生まれたから」などという理由ではない。

 

 母親の母親、つまり涼子の曾祖母が、最後に残した名前だった。その名前を受け継ぐことで、ある人物の存在を未来へ残すつもりだった。誰の名前なのか。祖母にも、それはわからない。

 

 ただ、曾祖母は「この名前だけは消してはいけない」と言っていた。

 

 涼子は、しばらく自分の名前を聞き返すように黙っていた。

 

 そして孝は、昨夜の手帳に記された自分の名前ではなく、涼子の名前のほうに、これまでとは違う意味があることに気づいた。

 

 祖父が「この人だけは何も知らない」と書いたのは、涼子が秘密を持っているからではない。

 

 むしろ逆だった。涼子自身が、最後に残された記録を受け継ぐ人物だった。だから、何も知らないままでいる必要があった。誰にも知られないまま、名前だけを受け継ぐ。そのために、祖父は涼子の名前を手帳に残した。

 

 しかし、そこで新たな疑問が生まれる。では、なぜ今になって誰かが四人を追っているのか。

 

 なぜ長崎の記録を書き換えようとしているのか。その答えは、涼子の祖母が最後に見せた一枚の写真にあった。写真の裏側には、今まで誰も見たことのない印がある。十字でも、数字でもない。小さな円の中に、一つの点。その下に、祖父の筆跡で、

 

「この印を持つ者を信用してはいけない。」

 

 と書かれていた。そして、その写真の表には、四人の誰もが知っている人物が写っていた。長崎で四人に何度か助言をしてくれた人物。

 

 自分たちのために資料を調べ、道を教え、危険な場所へ行くことを止めてくれた人物。その人物の胸元に、小さな円の中の点が見える。孝は写真を持ったまま、涼子を見た。長崎で始まった謎は、ようやく最後の一枚へたどり着いた。

 

 けれど、そこで待っていたのは、知らない敵ではなかった。

 

四人が信じていた人物の中に、最初から事情を知っていた者がいた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第九章 京橋

 

 約束の日、順子は昼前の列車で岡山へ向かった。

 

 車内は空いていた。

 

 向かいの座席には、買い物袋を膝へ置いた女性が座っている。眠りかけては首を上げ、そのたびに窓の外を確かめた。

 

 順子は眠れなかった。

 

 四十数年ぶりに亨と会う。

 

 その言葉を頭へ浮かべると、二十二歳の亨が出てくる。白いシャツを着て、鉛筆を耳に挟んでいる。

 

 今日会うのは、六十八歳の亨である。

 

 順子は鞄から小さな鏡を出した。

 

 口紅は薄く塗ってきた。

 

 鏡を閉じたあと、どうして塗ったのだろうと思った。

 

 岡山駅へ着くと、路面電車に乗った。表町を過ぎた辺りで降り、旭川の方へ歩いた。

 

 京橋へ近づくにつれ、川からの風が強くなった。

 

 約束の時刻まで、まだ十分ほどある。

 

 橋の西詰に立ち、旭川を眺めた。広い川面に午後の光が散り、風が吹くたび細かな波が立っている。

 

 少し離れた場所に、亨がいた。

 

 現在の写真を見たわけではない。

 

 それでも、すぐに分かった。

 

 身体が細くなり、髪には白いものが増えている。背中も、わずかに丸くなっていた。

 

 ベージュ色の上着は、少し大きく見えた。

 

 亨も順子に気づいた。

 

 二人は動かなかった。

 

 信号が変わり、何人かが二人の間を横切った。

 

 先に歩き出したのは亨だった。

 

「久しぶりです」

 

 言ってから、目を伏せた。

 

「ええ」

 

 順子も、それだけ答えた。

 

 亨は順子の顔を見た。

 

「お元気そうで」

 

「その話をするために来たんじゃありません」

 

「分かってます」

 

 二人は川沿いの道へ移った。

 

 ベンチがあった。

 

 どちらも座らなかった。

 

「千穂は、明日まで仕事を休んでいます」

 

「会場の人から聞きました」

 

「小さな間違いが続いたそうです。日付を間違えたり、手紙を入れ忘れたり」

 

「電話で話したとき、いつもの千穂さんと違うと思いました」

 

「いつものあの子を、どれだけ知ってるんですか」

 

 順子の声が強くなった。

 

「すみません」

 

「謝らないでください」

 

 亨は口を閉じた。

 

 順子は川へ顔を向けた。

 

 会ってまだ数分だった。

 

 それなのに、昔と同じだった。亨が何か言えば腹が立ち、黙れば、なお腹が立つ。

 

「千穂は、私たちが付き合っていたと知ってから、何があったのか考え続けていました」

 

「僕が何も話さへんかったから」

 

「私も話しませんでした」

 

「でも、順子には話さへん理由があった」

 

「あなたにもあったでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「また黙るんですね」

 

「何を言うても、言い訳になると思うて」

 

「黙れば、言い訳にならないんですか」

 

「そうやありません」

 

「あなたは昔からそうです。違うと言うだけで、何も決めない」

 

 亨は顔を上げた。

 

「そうやったと思います」

 

 順子は次の言葉を失った。

 

 言い返されると思っていた。

 

 若かった、怖かった、順子にも責任があったと言われるかもしれない。そう思い、言い返す言葉まで用意してきた。

 

 亨は順子から目をそらさなかった。

 

「あのときも、少し考えさせてほしいと言いました」

 

「覚えています」

 

「順子の身体には、時間がなかったのに」

 

「いまさら説明しなくても、分かっています」

 

「説明やありません」

 

 亨は肩に掛けた鞄へ手を入れ、白い封筒を出した。

 

「何ですか」

 

「手紙です」

 

 封筒には、

 

〈松山順子様〉

 

と書かれている。

 

「小坂と書かなかったんですね」

 

「いまの順子に書いたつもりです」

 

「渡せば、読んでもらえると思ってるんですか」

 

「分かりません」

 

 亨は封筒を両手で持ったまま、差し出さなかった。

 

「受け取るかどうか、順子が決めてください」

 

「いらないと言ったら?」

 

「持って帰ります」

 

「二度と渡さない?」

 

「順子が欲しいと言わへんかぎりは」

 

「私から欲しいと言うと思いますか」

 

「思いません」

 

「それでも、持ってきたのね」

 

「はい」

 

 順子は封筒を見た。

 

 受け取れば、亨の言葉を聞くことになる。

 

 受け取らなければ、何が書いてあったのかを考えるかもしれない。

 

 そのどちらも、気に入らなかった。

 

「受け取ります」

 

 順子は手を出した。

 

「でも、読むかどうかは私が決めます」

 

「はい」

 

「返事もしないかもしれません」

 

「それも、順子が決めることです」

 

 封筒を受け取り、鞄へ入れた。

 

 亨の手が、わずかに震えていた。

 

「手紙に書いたことを、ここでも言うつもりですか」

 

「言わなあかんと思ってます」

 

「私は、聞きたいとは言ってません」

 

「分かってます」

 

「分かってるなら、なぜ言うんですか」

 

 亨は旭川へ顔を向けた。

 

 橋の下を、小さな船が通っていく。船尾から白い波が広がり、しばらくして消えた。

 

「来なくてええと言われたから行かへんかったと、長いこと自分に言うてました」

 

 順子の胸の奥が固くなった。

 

「それは本当でしょう。私は来なくていいと言いました」

 

「でも、行かへんかった理由は、それだけやありません」

 

 亨は一度、口を閉じた。

 

 順子は待った。

 

「怖かったんです」

 

 亨が言った。

 

「順子の顔を見るのも、その日に何がなくなるのかを見るのも。順子の言葉に従うたんやなくて、その言葉を、自分が逃げる理由にしました」

 

 川の上を、一羽の鳥が低く飛んだ。

 

 順子は、その影が水面を渡るのを見ていた。

 

「その言葉を、あのとき聞きたかった」

 

「はい」

 

「四十数年後に聞くために、私は待っていたんじゃありません」

 

「分かってます」

 

「分かってると言わないで」

 

 亨は黙った。

 

「あなたには分からない」

 

「そうやと思います」

 

「そこは、否定しないんですね」

 

「分かると言うたらあかんと思って」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨も、よく黙った。

 

 あの頃の沈黙は、答えを先へ延ばすためのものだった。

 

 いまの沈黙が何のためなのか、順子にはまだ分からなかった。

 

「謝って、何を変えたいんですか」

 

「変えられるとは思ってません」

 

「では、自分が楽になりたい?」

 

「そういう気持ちがないとは言えません」

 

 順子は亨を見た。

 

「正直に言えば、許されると思ってるんですか」

 

「いいえ」

 

「ずいぶん、用意してきた答えね」

 

「何度も考えましたから」

 

「私は、考える時間をもらえなかったのよ」

 

「はい」

 

「また、はいと言う」

 

「ほかに、何と言うたらええか分かりません」

 

「昔と同じね」

 

「そうですね」

 

 亨は頭を下げた。

 

「一人で行かせて、すみませんでした」

 

 順子は亨の白くなった髪を見た。

 

 許すという言葉は浮かばなかった。

 

 長く待っていた謝罪を、ようやく聞いたとも思わなかった。

 

 ただ、四十数年前には言わなかった言葉を、亨がいま口にした。

 

「謝っても、戻りません」

 

「はい」

 

「私は許しません」

 

「分かってます」

 

「でも、聞きました」

 

 亨が顔を上げた。

 

「それで十分です」

 

「十分かどうかを、あなたが決めないでください」

 

「すみません」

 

 順子は息を吐いた。

 

「すぐに謝るのも、昔と変わってませんね」

 

「謝らん方がええですか」

 

「そういうことではありません」

 

 亨の口元が、わずかに動いた。

 

 順子も、鞄の持ち手を握る力を緩めた。

 

 許したわけではなかった。

 

 ただ、立ち続けていることに少し疲れた。

 

「座りませんか」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 二人は、少し間を空けてベンチへ座った。

 

近くの欄干に、鳥人幸吉について書かれた案内があった。

 

 順子が目を向けると、亨も気づいた。

 

「ここから空を飛んだ人がいるそうですね」

 

「洋子さんから聞きました」

 

 名前を口にしてから、順子は亨の顔を見た。

 

「知っているんですか」

 

「花屋の洋子でしょう」

 

「ええ」

 

「鶴山公園で話したと言うてました」

 

 亨の言い方には、説明が一つ足りなかった。

 

「洋子さんと、お知り合いなんですか」

 

 亨は答えるまでに、少し間を置いた。

 

「妻です」

 

 順子は亨を見た。

 

「何ですって?」

 

「洋子は、僕の妻です」

 

 旭川から風が吹いた。

 

 順子は膝の上の鞄を押さえた。

 

「どうして、いままで言わなかったんですか」

 

「言う機会が」

 

「ありました。いま、ありました」

 

「順子が知ってるとは思わへんかったから」

 

「私が洋子さんの名前を出さなければ、言わなかったんですね」

 

 亨は返事をしなかった。

 

「また黙るんですか」

 

「すみません」

 

「洋子さんは知ってるんですか」

 

「何を?」

 

「私が誰なのか」

 

「知りません」

 

「鶴山公園へ行くと聞いても?」

 

「名字を聞いたかとは尋ねました」

 

「どうして、そのとき止めなかったんですか」

 

「止めようとはしました」

 

「何と言って?」

 

「石段が多いとか、人が多いとか」

 

 順子は亨を見た。

 

「そんなことで止まる人ですか、洋子さんが」

 

「止まりませんでした」

 

「でしょうね」

 

 順子は立ち上がった。

 

「帰ります」

 

「待ってください」

 

「千穂の話をするために来たのに、あなたはまた肝心なことを黙っていた」

 

「洋子のことと、千穂さんのことは」

 

「別だと言うんですか」

 

 順子は亨を見下ろした。

 

「私が洋子さんと花屋で話して、鶴山公園を歩いたことを、あなたは知っていたんでしょう」

 

「はい」

 

「洋子さんは、何も知らずに私へご主人の話をした。私は、その人があなただと知らずに聞いていた」

 

「申し訳ないと思ってます」

 

「思っていただけ?」

 

 亨は立ち上がった。

 

「言えば、洋子と順子が知り合うたことまで、壊してしまうと思いました」

 

「壊れるかどうかを、あなたが決めたんですね」

 

 亨は口を閉じた。

 

「四十数年前と同じです」

 

 順子は鞄を持ち直した。

 

「人のために黙ったような顔をして、決めるのはいつも自分なのね」

 

「そうです」

 

 亨が言った。

 

 順子は足を止めた。

 

「そうです、で済ませるんですか」

 

「済むとは思ってません。でも、そのとおりです」

 

「洋子さんに話すつもりは?」

 

「分かりません」

 

「まだ考えるんですね」

 

「私一人のことやありませんから」

 

「今度は、洋子さんのため?」

 

 亨は答えなかった。

 

 順子はベンチへ戻らず、欄干の前へ立った。

 

 鳥人幸吉の案内には、飛び立った場所と、空を飛ぼうとしたことが記されている。

 

 降りたあとのことは、わずかしか書かれていない。

 

「飛ぶところは、たくさんの人が見たんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「騒ぎになったそうですから」

 

「降りたあとのことは?」

 

「詳しくは分かりません」

 

「人は、飛び立つところは見ても、そのあとどこへ歩いていったかまでは見ないんですね」

 

 亨は何も言わなかった。

 

 順子は川を見た。

 

 風に押された水が、橋脚のところで二つに分かれている。

 

「千穂の話へ戻ります」

 

「はい」

 

「あの子は、私たちのことを知って、自分が生まれたときのことまで疑っています」

 

「自分が、ですか」

 

「失った子どもの代わりではなかったのかと」

 

 亨の顔がこわばった。

 

「違うんでしょう」

 

「違います」

 

 順子は、はっきり答えた。

 

「千穂は、夫との間に生まれた私の娘です。あの子が生まれたとき、あの子としてうれしかった」

 

「それを、千穂さんに言うたんですか」

 

「言いました。でも、あの子のことを思い出したこともあると言ったから、信じられなくなっている」

 

「嘘をつかへんかったんですね」

 

「嘘をつけばよかったと言うんですか」

 

「いいえ」

 

 亨は首を振った。

 

「僕からも話します」

 

「何を?」

 

「あのとき、順子が一人で決めるしかない場所から、僕が逃げたことを」

 

「それを聞けば、千穂が元に戻ると思うんですか」

 

「分かりません」

 

「では、なぜ話すの?」

 

「千穂さんが、順子の代わりに僕を責める必要はないから」

 

「責められるのが嫌なんですか」

 

「責められても仕方ありません」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「でも、それで千穂さんが仕事まで失うたら、また誰かに僕のしたことを持たせることになります」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨には、言えなかった言葉だろう。

 

 いまの亨だから言えるのだとしても、遅すぎることに変わりはない。

 

「三人で話しましょう」

 

 順子が言った。

 

「千穂さんが嫌がったら?」

 

「嫌かどうかは、あの子に聞きます」

 

 亨はうなずいた。

 

「僕らが決めることやありませんね」

 

「そういうことです」

 

「場所は?」

 

「千穂に聞きます」

 

「分かりました」

 

 二人は、再びベンチへ座った。

 

 先ほどより、間が少し広くなっていた。

 

「洋子さんには」

 

 順子が言った。

 

 亨の肩が動いた。

 

「私からは話しません」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われることではありません」

 

「はい」

 

「でも、洋子さんに嘘をつくつもりもありません。聞かれたら、私は答えます」

 

「分かりました」

 

「あなたから話せとも、話すなとも言いません」

 

「はい」

 

「自分で決めてください」

 

 亨は苦い顔をした。

 

「それが、いちばん難しいですね」

 

「四十数年、考えたんでしょう」

 

「考えてただけでした」

 

「今度は、決めてください」

 

 順子は立ち上がった。

 

 亨も立った。

 

「駅まで送ります」

 

「結構です」

 

「路面電車の停留所まで」

 

「一人で行けます」

 

 昔なら、亨がついてくるか確かめるために、少しゆっくり歩いたかもしれない。

 

 順子は振り返らず、京橋を離れた。

 

 しばらく歩いてから、鞄の中の封筒へ手を触れた。

 

 受け取ったのは自分だった。

 

 読むかどうかは、まだ決めていない。

 

 その封筒のそばには、口紅と小さな鏡が入っていた。

 

 順子は鏡を出さなかった。

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『 あの人は、今 』

 

第十九章 またいつか

 

翌朝、父はカメラを持って出掛けた。

 

恭一は、その後ろ姿を見送った。

 

今なら、父が撮っているものが少し分かる気がした。

 

母がいた町。

母と歩いた道。

母が見ていた海。

 

同じ場所なのに、母がいなくなってからは、どこか違って見える。

 

恭一は家の中へ戻り、古いネガをもう一度調べた。

 

その中に、男が一人で写っている写真があった。

 

背景には尾道の海。

 

裏には短い言葉。

 

「またいつか。」

 

誰が書いたのか分からない。

 

母の字にも見える。

 

父の字にも見えない。

 

恭一は、その写真を持ったまま座り込んだ。

 

男は、その後どうしたのか。

 

京都へ戻ったのか。

 

別の町へ行ったのか。

 

結婚したのか。

 

子供がいるのか。

 

もう亡くなっているのか。

 

何も分からない。

 

母の友人が探してほしいと言った。

 

恭一自身も知りたいと思っている。

 

会社の仕事として調べてもいいのではないか。

 

そう思った。

 

しかし、恭一はやめた。

 

これは、まだ仕事ではない。

 

自分自身の問題だ。

 

会社の名前を使わず、自分で調べる。

 

それが父と母に対する最低限の礼儀のような気がした。

 

第二十章 岩城の話

 

大阪へ戻った夜、岩城が珍しく酒を飲んだ。

 

会社の近くの小さな店だった。二人で飲むのは久しぶりだった。

 

岩城は、辞めた会社のことを時々思い出す。

 

安定していた。給料もあった。

 

今は、売上がそのまま自分たちの生活になる。

 

恭一も同じだった。後悔はしていない。それでも、怖くないわけではない。

 

岩城はグラスを置いた。

 

「続けような」

 

恭一は頷いた。

 

仕事の話は、それ以上しなかった。

 

第二十一章 会社の一年

 

会社が一年を迎える頃には、仕事の数も増えていた。

 

大学時代の友人、昔の職場の同僚、二十年前に離婚した元夫。

 

会いたいのではなく、生きていると分かればそれでいいという依頼もあった。死んだと分かることで、ようやく諦められる人もいる。

 

恭一は、料金表を見るたびに考えた。

 

四十年分の空白を埋めるためなら、三万円は高くないのかもしれない。

 

それでも、見つかったことで人生が変わってしまう人もいる。

 

だから、料金より先に確かめることがあった。

 

その人を探して、本当に大丈夫なのか。

 

会社は少しずつ大きくなった。

 

それでも事務所は広げなかった。

 

狭いからこそ、誰が何をしているか分かる。依頼者が帰った後の空気まで、まだ三人で共有できる。

 

大きな会社にすることより、目の届く仕事を続けることを選んだ。

 

第二十二章 母の手紙

 

ある夜、尾道から小包が届いた。

 

中には、母の古い手紙が何通か入っていた。

 

どれも母が京都へ行った年のものだった。

 

一枚目。

 

京都の寒さ。

 

仕事のこと。

 

新しい部屋のこと。

 

そして最後に、

 

「こちらで、少し考えてみます。」

 

二枚目。

 

日常のこと。

 

三枚目には、

 

「あの人には、まだ言わないでください。」

 

とあった。

 

誰のことなのか。

 

四枚目には、

 

「私が戻るまで、待っていてください。」

 

とだけ書かれていた。

 

誰に宛てたものか分からない。

 

恭一は、そこで手紙を閉じた。

 

母の人生は、恭一が思っていたより長かった。

 

母は恭一の知らない場所で迷い、誰かを傷つけ、傷つけられ、それでも自分の暮らす場所を選んだ。

 

そのことを考えると、恭一は少し腹立たしかった。母が一人の女性として生きていた時間を、自分は息子という立場だけで見ていたのだと思ったからだ。

 

母の人生を、息子が全部分かるはずはない。

 

それでも、分からないことがあると知るのは、思っていたより寂しかった。

 

父に電話すると、父は言った。

 

その手紙は、自分に宛てたものではない。

 

誰宛てかも分からない。

 

ただ、一人だけ心当たりがある。

 

写真の男かもしれない。

 

恭一は手紙を見つめた。

 

四十年以上前の紙。

 

もう誰にも届かないと思っていた言葉。

 

それが今、自分の机の上にある。

 

第二十三章 京都の再会

 

恭一は、母の友人と再び会った。

 

女性は、古い写真を持っていた。

 

そこには、若い母と女性、そして写真の男が写っている。

 

四十年前の京都。

 

女性は、母と喧嘩した理由を話した。

 

二人とも若かった。

 

母には母の人生があり、女性には女性の人生があった。

 

誰か一人が悪かったわけではない。

 

ただ、二人とも自分だけが傷ついたと思った。

 

だから謝れなかった。

 

女性は、恭一に一つのことを頼んだ。

 

写真の男を探してほしい。

 

自分も、母も、もう一度だけ、その人が今どうしているのか知りたい。

 

恭一は引き受けた。

 

今度は、会社の仕事として。

 

依頼者は母の友人だった。

 

そして、依頼の内容は自分が一番知りたいことでもあった。

 

会社の規則を適用する。

 

個人情報を勝手に渡さない。

 

本人の意思を確認する。

 

再会を約束しない。

 

自分の母だからといって、調査の手順を変えない。

 

それが、恭一にとって母への礼儀だった。

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『  最後の仕事 』

 

第三章 撮影の前夜

 

紙の上に線を引くたび、森川の頭の中に旅館の廊下が少しずつ形を取っていった。

 

玄関から川へ出る。

 

川から戻る。

 

人が立つ場所を決め、カメラの位置を置く。

 

光が変われば、画も変わる。

 

その順番を追っているうちに、時計の針だけが先へ進んでいた。

 

森川は鉛筆を置いた。

 

窓の外では、川面に旅館の灯りが細く揺れている。

 

昔なら、この時間には明日の全カットを決めていた。

 

どこから撮り、どこで切り、誰をどこへ動かすのか。

 

紙の上ですべてを固めてから現場へ入る。

 

それが森川のやり方だった。

 

けれど今夜は、紙の余白を残したままにした。

 

現場で決めればいい、と開き直ったわけではない。

 

ただ、明日の自分に任せられるところまで、今夜の自分が決める必要はない。

 

そう思った。

 

撮影の前夜、森川は一人で部屋に残っていた。

 

皆が風呂へ行ったあと、座卓の上には旅館からもらった案内書と、三村が持ってきたメモが並んでいる。

 

森川は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

 

若い頃なら、こんな作業は酒を飲みながらでも苦にならなかった。

 

今は、一度書き始めると肩が固まる。

 

それでも、鉛筆を紙に置けば、頭の中には次々と画が浮かんでくる。

 

旅館の玄関。

 

川の水。

 

木々の間から覗く建物。

 

深い色の着物を着た女性。

 

静かにこちらを見る主人の顔。

 

そして、料理から立ち上る白い湯気。

 

どれもまだ撮ってはいない。

 

それなのに、森川の中では、すでに一つの画になり始めていた。

 

森川は鉛筆を取り、浮かんだ画を紙の上へ順番に置いていった。

 

「最初から旅館を見せるのは、ちょっと説明臭いな」

 

小さく呟き、紙の端に一本の線を引く。

 

旅館から始めない。

 

まず川の音を聞かせる。

 

水面を撮り、そこからゆっくりと視線を上げる。木々の向こうに建物が現れ、玄関へ移る。そして最後に人物を置く。

 

その流れが頭の中でつながった。

 

森川は一度紙を見直す。

 

それが決まると、鉛筆の動きが少し速くなった。

 

「モデルさん、川上から」

 

森川は一度書き込んだ案を眺め、すぐに線を引いて消した。

 

「川沿いを歩いて旅館へ」

 

今度は、その言葉を残す。

 

そこで一度、鉛筆が止まった。

 

そのとき、部屋の襖が静かに開いた。

 

竹森だった。

 

「プロデューサーは寝る前に金の計算するんや」

 

森川が顔を上げる。

 

「それ、昔から変わらんな」

 

竹森は笑いながら座卓の横まで来て、森川の紙を覗き込んだ。

 

「何や。もう撮影始まってるやん」

 

森川は紙を隠そうとはしなかった。

 

「明日の朝でもええぞ」

 

竹森が言う。

 

「朝になったら撮影や」

 

森川はそう答え、紙を裏返した。

 

竹森はそれを見て、何も言わずに笑った。

 

「旅館のPRなら、旅館を立派に見せるだけやと面白ない」

 

森川が言った。

 

「旅館で働く人間と、来る人間」

 

竹森はすぐには返さなかった。

 

森川の紙を見たまま、しばらく考える。

 

「そこまで言うたら、何でも人間やな」

 

「映像なんて、結局そういうもんや」

 

森川はそう言って、紙へ視線を戻した。

 

建物を撮るだけでは、その場所にいる意味までは映らない。

 

誰かがそこで働き、誰かがそこを訪れる。

 

その間に生まれるものまで撮れればいい。

 

竹森は何も言わず、もう一度紙を眺めた。

 

竹森は紙を一度確かめると、立ち上がった。

 

旅館側との話は、自分のところで止めておくつもりらしい。細かな事情まで森川に持ち込む必要はないと考えているのだろう。

 

「ほな、寝る前にもう一回だけ確認しとくわ」

 

そう言って、竹森は部屋を出ていった。

 

襖が閉じると、また森川一人になった。

 

座卓の上には、さっきの紙が残っている。

 

まだ余白がある。

 

森川はその空白をしばらく眺めてから、再び鉛筆を手に取った。

 

残った余白へ、明日の撮影の順番を書き込んでいく。

 

場所を変えるたびに、誰が何を持って動くのか。

 

モデルはいつ入るのか。

 

主人はどこで待つのか。

 

料理はいつ出してもらうのか。

 

光が変わる時間帯には、何を先に撮るべきなのか。

 

森川は一つずつ紙に書き込んでいった。

 

昔から、脚本を書くときに台詞だけを考えることはなかった。

 

人が動く順番まで決めておく。

 

必要なものが、必要な場所にあるようにしておく。

 

現場で誰かが立ち止まり、次に何をすればいいのか迷う時間を、森川は嫌った。

 

たった一秒でも、積み重なれば現場全体の流れが変わる。

 

だから、撮影が始まる前にできることは、できるだけ紙の上で済ませておく。

 

それが、昔からの森川のやり方だった。

 

迷う一秒が積み重なれば、昼休みは遅れる。

 

光も変わる。

 

出演者の疲れも増していく。

 

そして最後には、撮れないまま残るカットが出てくる。

 

だから、森川は紙の上で迷っておく。

 

それが昔からのやり方だった。

 

翌朝。

 

竹森が用意してきた機材を見て、黒田はしばらく黙っていた。

 

並べられた機材を一つずつ目で追いながら、何かを確かめるように見ている。

 

家庭用のビデオカメラが三台。

 

それぞれにバッテリーが付いている。

 

ハンディータイプの投光器が一台。

 

写真用の三脚。

 

それだけだった。

 

黒田は機材の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。

 

撮影の準備というより、誰かの家から集めてきた道具を並べただけに見える。

 

森川も黙って機材を見ていた。

 

「竹森さん」

 

黒田が機材を見たまま呼んだ。

 

「学校の学芸会でも、もうちょっとましな機材使うぞ」

 

竹森は返す言葉もなく、本当に申し訳なさそうな顔をした。

 

「いや、これしか用意できんかったんや」

 

黒田は呆れたように息を吐く。

 

その横で、仲谷が一台を手に取った。

 

電源を入れる前に、重さと手触りを確かめる。

 

長くカメラを触ってきた仲谷には、それだけで使えるものかどうか、おおよその見当がついていた。

 

「撮れるかどうかは、撮ってみんと分からん」

 

仲谷がカメラを置いた。

 

「それ、昔から言うてたな」

 

森川が言う。

 

仲谷は笑った。

 

「俺は光があれば何とかする」

 

黒田は窓の外へ目を向けた。

 

店のことを話すなら、相手の顔を見るより、川を眺めながらのほうが話しやすいことがある。

 

朝の光が川面から白く返っている。

 

山の影がまだ残る中で、水だけが先に明るくなっていた。

 

「今日は天気がええ。光はある」

 

黒田がそう言ったときだった。

 

旅館の主人が玄関から出てきた。

 

首から一台のレンズ交換式デジタルカメラを下げている。

 

さっきまで簡素な機材を眺めていた仲谷の目が、そのカメラで止まった。

 

「ご主人、それ、ちょっと見せてもらえます?」

 

主人は足を止め、首からカメラを外した。

 

仲谷はカメラを受け取った。

 

手にした瞬間、さっきまでとは違う感覚があった。機材が決まれば、頭の中にある画を現場へ移せる。

 

仲谷はレンズを確認する。

 

「何本か持ってはるんですか?」

 

「趣味ですから。広角が二本と、望遠が三本ほど」

 

主人が答える。

 

仲谷の顔つきが変わった。

 

その言葉だけで、撮れる画の幅が一気に広がったことが分かった。

 

カメラマンの顔だった。

 

「すんません。このカメラ、今日使わせてもらえませんか?」

 

主人は目を丸くした。

 

思いがけない頼みだったが、撮影に必要なものだと分かると、黙って機材を取りに戻った。

 

「動画が撮れます。家庭用のビデオより、ええ画になると思います」

 

竹森が横から口を挟んだ。

 

「せっかく俺がビデオカメラ用意したのに」

 

「役に立つんやったら、使ってください」

 

仲谷は丁寧に頭を下げた。

 

その横で、黒田が笑う。

 

「カメラ見たら、そらそうなります」

 

森川は二人を見ていた。

 

機材は安い。

 

けれど、仕事を始める人間の顔は、機材では決まらない。

 

そう思った。

 

夜が深くなってから、森川は一人で廊下へ出た。

 

誰もいなかった。

 

障子の向こうは暗く、川の音だけが続いている。

 

森川は窓辺に立った。

 

昔なら、こういう静かな時間には台本を書いた。

 

書き終えていない仕事があると、眠れなかった。

 

今は、明日の仕事がある。

 

それだけで、気持ちが少し違った。

 

森川は、自分でも可笑しくなった。

 

六十五になって、明日の撮影を楽しみにしている。

 

そんな自分を、昔なら想像もしなかった。

 

部屋へ戻ろうとしたとき、廊下の向こうから仲谷が来た。

 

「森川さんも寝られへん?」

 

「カメラのこと考えてました」

 

「明日、ええ画撮れそうです」

 

森川の口元が、ほんの少し緩んだ。

 

二人は並んで川へ目をやった。

 

しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

流れる水の音だけが、暗い川辺に続いていた。

 

「じゃあ、明日」

 

それだけ言って、二人は別れた。

 

廊下に残った森川は、もう一度川の音を聞いた。

 

明日は仕事だ。

 

それが、妙に嬉しかった。

 

部屋へ戻る前に、廊下の灯りを一つ消した。

 

暗くなった川面に、旅館の明かりが細く映っている。

 

その光を見ながら、森川は思った。

 

明日の画は、明日になってから決めればいい。

 

今夜はもう、仕事のことを考えなくてもいい。

 

そう思って、森川は部屋へ戻った。

 

襖を閉めると、部屋の中は静かだった。

 

明日のことを考えれば、まだ決めることはいくつもある。

 

それでも今夜は、久しぶりに眠れそうな気がした。

 

遠くで、川の音が続いている。

 

森川はその音を聞きながら、布団へ入った。

 

目を閉じると、昼間の画がいくつも浮かんだ。

 

川面。

 

着物の青。

 

主人の顔。

 

黒田の反射板。

 

仲谷のカメラ。

 

それぞれ違う画なのに、森川の中では一つにつながっていた。

 

そのまま、森川は眠った。

 

部屋には、川の音だけが残った。

 

夜は静かに更けていった。

 

やがて、障子の向こうが少しずつ明るくなる。

 

森川は布団の中で、一度だけ目を開けた。

 

朝になれば、また仕事が始まる。