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『 最後の仕事 』
第三章 撮影の前夜
紙の上に線を引くたび、森川の頭の中に旅館の廊下が少しずつ形を取っていった。
玄関から川へ出る。
川から戻る。
人が立つ場所を決め、カメラの位置を置く。
光が変われば、画も変わる。
その順番を追っているうちに、時計の針だけが先へ進んでいた。
森川は鉛筆を置いた。
窓の外では、川面に旅館の灯りが細く揺れている。
昔なら、この時間には明日の全カットを決めていた。
どこから撮り、どこで切り、誰をどこへ動かすのか。
紙の上ですべてを固めてから現場へ入る。
それが森川のやり方だった。
けれど今夜は、紙の余白を残したままにした。
現場で決めればいい、と開き直ったわけではない。
ただ、明日の自分に任せられるところまで、今夜の自分が決める必要はない。
そう思った。
撮影の前夜、森川は一人で部屋に残っていた。
皆が風呂へ行ったあと、座卓の上には旅館からもらった案内書と、三村が持ってきたメモが並んでいる。
森川は眼鏡を外し、目頭を押さえた。
若い頃なら、こんな作業は酒を飲みながらでも苦にならなかった。
今は、一度書き始めると肩が固まる。
それでも、鉛筆を紙に置けば、頭の中には次々と画が浮かんでくる。
旅館の玄関。
川の水。
木々の間から覗く建物。
深い色の着物を着た女性。
静かにこちらを見る主人の顔。
そして、料理から立ち上る白い湯気。
どれもまだ撮ってはいない。
それなのに、森川の中では、すでに一つの画になり始めていた。
森川は鉛筆を取り、浮かんだ画を紙の上へ順番に置いていった。
「最初から旅館を見せるのは、ちょっと説明臭いな」
小さく呟き、紙の端に一本の線を引く。
旅館から始めない。
まず川の音を聞かせる。
水面を撮り、そこからゆっくりと視線を上げる。木々の向こうに建物が現れ、玄関へ移る。そして最後に人物を置く。
その流れが頭の中でつながった。
森川は一度紙を見直す。
それが決まると、鉛筆の動きが少し速くなった。
「モデルさん、川上から」
森川は一度書き込んだ案を眺め、すぐに線を引いて消した。
「川沿いを歩いて旅館へ」
今度は、その言葉を残す。
そこで一度、鉛筆が止まった。
そのとき、部屋の襖が静かに開いた。
竹森だった。
「プロデューサーは寝る前に金の計算するんや」
森川が顔を上げる。
「それ、昔から変わらんな」
竹森は笑いながら座卓の横まで来て、森川の紙を覗き込んだ。
「何や。もう撮影始まってるやん」
森川は紙を隠そうとはしなかった。
「明日の朝でもええぞ」
竹森が言う。
「朝になったら撮影や」
森川はそう答え、紙を裏返した。
竹森はそれを見て、何も言わずに笑った。
「旅館のPRなら、旅館を立派に見せるだけやと面白ない」
森川が言った。
「旅館で働く人間と、来る人間」
竹森はすぐには返さなかった。
森川の紙を見たまま、しばらく考える。
「そこまで言うたら、何でも人間やな」
「映像なんて、結局そういうもんや」
森川はそう言って、紙へ視線を戻した。
建物を撮るだけでは、その場所にいる意味までは映らない。
誰かがそこで働き、誰かがそこを訪れる。
その間に生まれるものまで撮れればいい。
竹森は何も言わず、もう一度紙を眺めた。
竹森は紙を一度確かめると、立ち上がった。
旅館側との話は、自分のところで止めておくつもりらしい。細かな事情まで森川に持ち込む必要はないと考えているのだろう。
「ほな、寝る前にもう一回だけ確認しとくわ」
そう言って、竹森は部屋を出ていった。
襖が閉じると、また森川一人になった。
座卓の上には、さっきの紙が残っている。
まだ余白がある。
森川はその空白をしばらく眺めてから、再び鉛筆を手に取った。
残った余白へ、明日の撮影の順番を書き込んでいく。
場所を変えるたびに、誰が何を持って動くのか。
モデルはいつ入るのか。
主人はどこで待つのか。
料理はいつ出してもらうのか。
光が変わる時間帯には、何を先に撮るべきなのか。
森川は一つずつ紙に書き込んでいった。
昔から、脚本を書くときに台詞だけを考えることはなかった。
人が動く順番まで決めておく。
必要なものが、必要な場所にあるようにしておく。
現場で誰かが立ち止まり、次に何をすればいいのか迷う時間を、森川は嫌った。
たった一秒でも、積み重なれば現場全体の流れが変わる。
だから、撮影が始まる前にできることは、できるだけ紙の上で済ませておく。
それが、昔からの森川のやり方だった。
迷う一秒が積み重なれば、昼休みは遅れる。
光も変わる。
出演者の疲れも増していく。
そして最後には、撮れないまま残るカットが出てくる。
だから、森川は紙の上で迷っておく。
それが昔からのやり方だった。
翌朝。
竹森が用意してきた機材を見て、黒田はしばらく黙っていた。
並べられた機材を一つずつ目で追いながら、何かを確かめるように見ている。
家庭用のビデオカメラが三台。
それぞれにバッテリーが付いている。
ハンディータイプの投光器が一台。
写真用の三脚。
それだけだった。
黒田は機材の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。
撮影の準備というより、誰かの家から集めてきた道具を並べただけに見える。
森川も黙って機材を見ていた。
「竹森さん」
黒田が機材を見たまま呼んだ。
「学校の学芸会でも、もうちょっとましな機材使うぞ」
竹森は返す言葉もなく、本当に申し訳なさそうな顔をした。
「いや、これしか用意できんかったんや」
黒田は呆れたように息を吐く。
その横で、仲谷が一台を手に取った。
電源を入れる前に、重さと手触りを確かめる。
長くカメラを触ってきた仲谷には、それだけで使えるものかどうか、おおよその見当がついていた。
「撮れるかどうかは、撮ってみんと分からん」
仲谷がカメラを置いた。
「それ、昔から言うてたな」
森川が言う。
仲谷は笑った。
「俺は光があれば何とかする」
黒田は窓の外へ目を向けた。
店のことを話すなら、相手の顔を見るより、川を眺めながらのほうが話しやすいことがある。
朝の光が川面から白く返っている。
山の影がまだ残る中で、水だけが先に明るくなっていた。
「今日は天気がええ。光はある」
黒田がそう言ったときだった。
旅館の主人が玄関から出てきた。
首から一台のレンズ交換式デジタルカメラを下げている。
さっきまで簡素な機材を眺めていた仲谷の目が、そのカメラで止まった。
「ご主人、それ、ちょっと見せてもらえます?」
主人は足を止め、首からカメラを外した。
仲谷はカメラを受け取った。
手にした瞬間、さっきまでとは違う感覚があった。機材が決まれば、頭の中にある画を現場へ移せる。
仲谷はレンズを確認する。
「何本か持ってはるんですか?」
「趣味ですから。広角が二本と、望遠が三本ほど」
主人が答える。
仲谷の顔つきが変わった。
その言葉だけで、撮れる画の幅が一気に広がったことが分かった。
カメラマンの顔だった。
「すんません。このカメラ、今日使わせてもらえませんか?」
主人は目を丸くした。
思いがけない頼みだったが、撮影に必要なものだと分かると、黙って機材を取りに戻った。
「動画が撮れます。家庭用のビデオより、ええ画になると思います」
竹森が横から口を挟んだ。
「せっかく俺がビデオカメラ用意したのに」
「役に立つんやったら、使ってください」
仲谷は丁寧に頭を下げた。
その横で、黒田が笑う。
「カメラ見たら、そらそうなります」
森川は二人を見ていた。
機材は安い。
けれど、仕事を始める人間の顔は、機材では決まらない。
そう思った。
夜が深くなってから、森川は一人で廊下へ出た。
誰もいなかった。
障子の向こうは暗く、川の音だけが続いている。
森川は窓辺に立った。
昔なら、こういう静かな時間には台本を書いた。
書き終えていない仕事があると、眠れなかった。
今は、明日の仕事がある。
それだけで、気持ちが少し違った。
森川は、自分でも可笑しくなった。
六十五になって、明日の撮影を楽しみにしている。
そんな自分を、昔なら想像もしなかった。
部屋へ戻ろうとしたとき、廊下の向こうから仲谷が来た。
「森川さんも寝られへん?」
「カメラのこと考えてました」
「明日、ええ画撮れそうです」
森川の口元が、ほんの少し緩んだ。
二人は並んで川へ目をやった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
流れる水の音だけが、暗い川辺に続いていた。
「じゃあ、明日」
それだけ言って、二人は別れた。
廊下に残った森川は、もう一度川の音を聞いた。
明日は仕事だ。
それが、妙に嬉しかった。
部屋へ戻る前に、廊下の灯りを一つ消した。
暗くなった川面に、旅館の明かりが細く映っている。
その光を見ながら、森川は思った。
明日の画は、明日になってから決めればいい。
今夜はもう、仕事のことを考えなくてもいい。
そう思って、森川は部屋へ戻った。
襖を閉めると、部屋の中は静かだった。
明日のことを考えれば、まだ決めることはいくつもある。
それでも今夜は、久しぶりに眠れそうな気がした。
遠くで、川の音が続いている。
森川はその音を聞きながら、布団へ入った。
目を閉じると、昼間の画がいくつも浮かんだ。
川面。
着物の青。
主人の顔。
黒田の反射板。
仲谷のカメラ。
それぞれ違う画なのに、森川の中では一つにつながっていた。
そのまま、森川は眠った。
部屋には、川の音だけが残った。
夜は静かに更けていった。
やがて、障子の向こうが少しずつ明るくなる。
森川は布団の中で、一度だけ目を開けた。
朝になれば、また仕事が始まる。
