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『 長崎 名前のない写真 』
第十七章 名前のない写真
朝になっても、孝は手帳を閉じたままにしていた。
昨夜から何度も読み返しているのに、最後の頁だけは、どうしても開く気になれない。そこに記された名前が涼子であることを知ってしまった以上、四人の関係は、それまでと同じではいられないように思えた。
もっとも、涼子自身は何も知らない。
少なくとも、昨夜の手帳に記された祖父の言葉を信じるなら、そういうことになる。では、なぜ祖父は彼女の名前を残したのか。その疑問だけが、夜が明けても消えなかった。朝食のあと、孝は三人に手帳を見せた。
涼子は、自分の名前を見ても、しばらく何も言わなかった。驚いているというより、意味を探しているようだった。
彼女が手帳に書かれた自分の名前を指先でなぞる。その仕草を見ていると、孝はむしろ、自分のほうが申し訳ないような気持ちになってきた。涼子には何の責任もない。
今回の旅行だって、もともとは四人で長崎を歩き、歴史を見て回るだけの予定だった。誰かの祖先を探す旅でもなければ、危険な記録を追いかけるつもりでもなかった。それが、偶然のような出来事が重なり、ここまで来てしまった。
それなのに、最後の頁には涼子の名前がある。
まるで最初から、この四人がここへ来ることを知っていたかのように。浩一は、手帳を撮影している涼子のスマートフォンを横から覗き込んだ。名前の下には、何もない。住所も、生年月日も、家族構成もない。
ただ一行だけ、祖父の筆跡で書かれている。
「この人だけは、何も知らない。」
その文章を見て、沙羅がようやく口を開いた。祖父は、涼子を知っていたのだろうか。それは誰にもわからない。涼子自身も、孝の祖父に会った記憶はないという。
大学へ入る前に一度だけ、孝の家へ遊びに行ったことはある。しかし、そのとき祖父はすでに亡くなっていた。ならば、祖父は涼子本人を知っていたわけではない。手帳に書かれた名前は、別の意味を持っているはずだった。
孝は、そこに一つの可能性を感じた。
祖父が残したのは「涼子」という人間そのものではなく、彼女につながる何かではないか。
名前が同じなのではない。家族。土地。あるいは、名前を受け継いだ理由。そう考えると、手帳の最後の記述が少し違って見えてくる。
「この人だけは、何も知らない。」
これは警告なのではないか。
涼子自身に秘密があるのではなく、彼女が知らないところで、誰かが彼女を利用しようとしている。もしそうなら、長崎で四人が追われた理由も変わってくる。
彼らが持っている資料ではなく、涼子そのものが目的だった可能性がある。その考えに行き着いたとき、四人の間に静かな緊張が生まれた。だが、すぐに結論を出すことはできなかった。証拠がない。
何より、ここまでの出来事には、まだ一つ大きな空白が残っている。
昨夜、川村が話した「少年」の存在だった。
原爆が投下された日に、一冊の手帳を探していた少年。その少年が誰なのか。なぜ祖父に手帳を託したのか。そして、その少年と涼子の名前がどうつながるのか。それを確かめる必要がある。
孝は、長崎で撮影した写真を一枚ずつ確認した。四番の地下室。古い倉庫。墓地。そして、最初に見つけた古い家。
何度見ても、同じものしか写っていないように思える。
ところが、写真を大きく拡大していくと、最初の写真の端に小さな人物が写っていることに気づいた。古い家の前。遠くに立つ男性。しかし、手に何かを持っている。紙の束のようにも見える。孝は画像をさらに拡大した。
その男性の後ろに、もう一人いる。女性だった。
こちらも顔はわからない。ただ、服装だけが妙に気になった。現代のものではない。古い写真に写っていた女性と似ている。沙羅が、その写真を見た瞬間に息を止めた。祖母が持っていた写真と同じ女性かもしれないという。
しかし、ここでも決定的な証拠はない。
涼子は写真をじっと見たあと、何かを思い出したように、自分の鞄から小さな紙袋を取り出した。それは長崎へ来る前から持っていたものだった。中には、祖母から預かったという古い写真が入っている。
旅行に出る前、涼子は何気なく家族写真を整理していて、その一枚を見つけた。祖母に見せると、これは処分しないでほしいと言われたという。その写真を四人で確認する。古い京都の町並み。その前に数人の若者が立っている。
写真の年代は、戦後まもなくと思われる。
そして、写真の隅に、昨日まで誰も気づかなかった人物がいた。若い女性。その女性の手には、見覚えのある木箱がある。
箱の側面には「1」の印。
孝は写真を見つめた。
これで、京都の一番と長崎の記録がつながっていることは、かなり確かになった。しかし、まだ別の疑問が残る。なぜ涼子の家に、その写真があるのか。そして、その女性は誰なのか。
涼子の祖母に尋ねればわかるかもしれない。
だが、長崎にいる沙羅の祖母と同じように、涼子の祖母も何かを知っている可能性がある。問題は、それを聞いてしまっていいのかだった。過去を調べるということは、必ずしも真実を知ることではない。
誰かが長い年月をかけて、忘れることで生きてきた記憶まで掘り起こすことになる。それでも、ここまで来てしまった以上、引き返すこともできない。四人は涼子の祖母を訪ねることにした。
その日の午後、京都市内の静かな住宅街にある家を訪ねる。祖母は高齢だったが、話をする力は十分に残っていた。
涼子が写真を見せると、祖母はしばらく黙っていた。そして、写真の中の女性を指で示した。その女性は、自分の母親だという。つまり、涼子の曾祖母だった。四人は驚いた。
写真に写っている女性が涼子の家族だったこともそうだが、さらに重要なのは、その女性が持っている箱だった。
祖母によれば、母親は戦後しばらくの間、長崎から京都へ移ってきたと家族には伝えられていた人物だった。ただし、長崎から来た理由は誰にも話さなかった。京都で暮らし始めてからも、長崎のことをほとんど語らなかったという。
ただ、一つだけ繰り返し言っていた言葉がある。
「名前だけは、なくさないように」
祖母は、その意味を子供の頃には理解できなかった。
母親が亡くなったあとも、なぜそんなことを言っていたのか、ずっとわからなかったという。孝は、胸の奥がざわつくのを感じた。長崎の少年。祖父。涼子の曾祖母。そして、名前を残すという言葉。
すべてが一つにつながろうとしている。しかし、まだ核心だけが見えない。
涼子の祖母は、さらに一枚の写真を出してきた。母親が長崎から京都へ移ってきた直後に撮ったものだという。写真には、若い女性と数人の男性が写っている。その中に、孝の祖父がいた。孝は言葉を失った。
祖父と涼子の曾祖母は、戦後の京都で一緒に写っている。しかも、二人の間には木箱が置かれていた。
その箱には「1」の印がある。
つまり、二人は同じものを運んできた。ただし、それだけではなかった。写真の裏には、涼子の曾祖母の筆跡で、日付と短い文章が残されていた。
「この箱を開けるのは、最後の人。」
その下に、もう一行。
「最後の人は、写真の中にはいない。」
孝は写真を裏返したまま、しばらく動けなかった。
では、「最後の人」とは誰なのか。
祖父なのか。涼子の曾祖母なのか。それとも、その二人より後の世代なのか。涼子の祖母は、そこで初めて自分の母親について語った。母親は、自分が死ぬ前に一度だけ、家族に秘密を話そうとした。けれど、その直前に突然やめた。
理由を尋ねると、母親は「まだ早い」と言った。
それ以来、その話をすることはなかった。ただ、亡くなる数日前、涼子の祖母に一つだけ頼んだという。
もし将来、誰かが長崎のことを尋ねてきたら、その人にこの言葉を伝えてほしい。祖母は、その言葉を今まで誰にも伝えていなかった。しかし、今日になって初めて話す気になった。その言葉は、
「名前を守るために、名前を隠した。」
だった。孝は、その意味を考えながら、祖父の手帳を思い出した。名前を残す。名前を消す。名前を隠す。それぞれは反対の行為に見える。けれど、本当は一つの目的から生まれていた。誰かの命を守るためだった。
禁教の時代には名前を隠す必要があった。戦争中には外国との関係を隠す必要があった。
原爆後には、残された記録そのものを守る必要があった。そして戦後になっても、過去を知られたくない人間がいた。だから名前は、消されたのではない。別の場所へ移されたのだ。
そのことに気づいた瞬間、孝は長崎で見つけた数字の意味にも思い当たった。九番。十二番。四番。十七番。そして一番。これらはすべて同じ意味の番号ではないのかもしれない。場所を示す番号と、記録を分けるための番号が混在している可能性がある。
そうだとすれば、四番に残されたものも、十七番の倉庫にあったものも、すべて一冊の記録につながっている。最後に残った一番だけが、京都へ運ばれた。
そして、その一番を開く資格を持つ「最後の人」が、まだ現れていない。
涼子が写真を見ながら、ふと自分の名前について尋ねた。祖母は、すぐには答えなかった。けれど、しばらくして、母親から聞いた話を一つだけ思い出した。涼子という名前には、特別な意味があるという。
それは単に「涼しい季節に生まれたから」などという理由ではない。
母親の母親、つまり涼子の曾祖母が、最後に残した名前だった。その名前を受け継ぐことで、ある人物の存在を未来へ残すつもりだった。誰の名前なのか。祖母にも、それはわからない。
ただ、曾祖母は「この名前だけは消してはいけない」と言っていた。
涼子は、しばらく自分の名前を聞き返すように黙っていた。
そして孝は、昨夜の手帳に記された自分の名前ではなく、涼子の名前のほうに、これまでとは違う意味があることに気づいた。
祖父が「この人だけは何も知らない」と書いたのは、涼子が秘密を持っているからではない。
むしろ逆だった。涼子自身が、最後に残された記録を受け継ぐ人物だった。だから、何も知らないままでいる必要があった。誰にも知られないまま、名前だけを受け継ぐ。そのために、祖父は涼子の名前を手帳に残した。
しかし、そこで新たな疑問が生まれる。では、なぜ今になって誰かが四人を追っているのか。
なぜ長崎の記録を書き換えようとしているのか。その答えは、涼子の祖母が最後に見せた一枚の写真にあった。写真の裏側には、今まで誰も見たことのない印がある。十字でも、数字でもない。小さな円の中に、一つの点。その下に、祖父の筆跡で、
「この印を持つ者を信用してはいけない。」
と書かれていた。そして、その写真の表には、四人の誰もが知っている人物が写っていた。長崎で四人に何度か助言をしてくれた人物。
自分たちのために資料を調べ、道を教え、危険な場所へ行くことを止めてくれた人物。その人物の胸元に、小さな円の中の点が見える。孝は写真を持ったまま、涼子を見た。長崎で始まった謎は、ようやく最後の一枚へたどり着いた。
けれど、そこで待っていたのは、知らない敵ではなかった。
四人が信じていた人物の中に、最初から事情を知っていた者がいた。
