この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 長崎 名前のない写真 』
第十八章 消された名前
写真を見つめたまま、孝はしばらく動かなかった。
そこに写っている人物を、疑ったことは一度もない。長崎へ来てから何度か顔を合わせ、困ったときには助言をもらい、四人が不用意に危険な場所へ近づかないように気を配ってくれた。
土地のことにも詳しく、古い資料についても知識があり、長崎という街を歩くうえで、これほど頼りになる人はいないと思っていた。
だからこそ、写真に残された小さな印が、簡単には信じられないものに感じられた。人を疑うということは、その人との過去を疑うことでもある。
あのときの言葉も、あのときの親切も、すべて別の意味を持っていたのではないかと考え始めれば、記憶そのものが崩れてしまう。
涼子の祖母が見せてくれた写真を、孝はもう一度、光の当たる場所へ持っていった。
古い写真なので、人物の顔は鮮明ではない。それでも、胸元にある小さな印だけは、偶然ではないと思えるほどはっきりしている。円の中に一点。長崎で見た記録には、これまで一度も登場しなかった印だった。
孝は写真をスマートフォンで撮影し、画像を拡大した。すると、その人物の後ろに、もう一人の男が立っていることに気づいた。顔は半分隠れている。しかし、服装と姿勢には見覚えがあった。
墓地で川村の前に現れた、あの男だった。つまり、二人は以前からつながっていた。
その事実がわかっただけで、これまでの出来事が急に違った形を見せ始める。
長崎駅を出たところから始まった奇妙な出来事も、眼鏡橋へ向かうよう促されたことも、古い家の写真が誰かの目に留まったことも、偶然ではなかったのかもしれない。四人が長崎へ来ることを、誰かが知っていた。
そして、その誰かは四人が何を見つけるのかを待っていた。しかし、それだけならまだ理解できる。
本当に恐ろしいのは、その人物が四人を直接動かそうとはしなかったことだった。必要なときだけ、ほんの少しだけ道を示す。
四人が自分たちの意思で歩いていると思わせながら、実際には目的地の近くへ誘導していく。
それなら、四人が最初に感じた「偶然」という感覚も説明できる。
孝は、自分たちの長崎旅行を最初から振り返った。最初に見た建物。写真に写った家。祖母から涼子へ届いた話。眼鏡橋へ行くことになった経緯。古い墓地。そこから見つかった記録。
すべてが一本の線でつながっているように見える。けれど、その線を誰が引いたのかまではわからない。
それを確かめるためには、長崎へ戻るしかなかった。京都に残っている木箱と手帳だけでは、最後のところまで届かない。涼子の曾祖母が長崎から京都へ持ち出したもの。孝の祖父が守ったもの。
そして、いまも誰かが探しているもの。その始まりが、長崎のどこにあったのかを突き止めなければならない。
長崎へ向かう新幹線を待つ間、四人は京都駅の構内にいた。
以前なら、旅行の終わりには土産物を選び、写真を見せ合いながら長崎での出来事を振り返っていたはずだ。今は誰も、旅の終わりだとは思っていなかった。
むしろ、これからが本当の始まりなのだという感覚が、四人の間にあった。長崎へ戻ることを決めたのは、誰か一人の提案ではなかった。必要だから戻る。
そして、その決断をした直後、孝のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。送り主は、あの人物だった。文章は短かった。
「もう戻ってこないほうがいい。」
孝は、その文字を何度も読み返した。以前なら、それを忠告として受け取っただろう。しかし今は違う。
戻ってこないほうがいいということは、戻ってこられると困るということでもある。
その人物が本当に四人を守ろうとしているのなら、もっと別の言葉があるはずだった。危険だからやめろ。資料を警察へ渡せ。京都で待て。
そうした具体的な忠告ではなく、ただ「戻ってこないほうがいい」とだけ書いてある。
孝は、その違いを忘れないようにした。長崎へ向かう列車の中で、四人はこれまで撮った写真を整理した。涼子は写真を年代順に並べていく。
沙羅は祖母から聞いた話を書き留め、浩一は古い地図と現在の地図を重ね合わせた。そして孝は、祖父の手帳を読み返していた。そこには、人名と場所が細かく記録されている。しかし、ところどころに不自然な空白がある。
ある人物について、名前を書いたあとに、住所も職業も記されていない。
代わりに、三つの点が並んでいる。その人物が何をしたのか。どこへ行ったのか。なぜ記録が途中で消えているのか。その答えは、手帳の後半にあるはずだった。だが、最後の数頁は意図的に切り取られている。
紙を破った跡が残っている。祖父自身が切り取ったのか、それとも誰かに持ち去られたのか。判断できない。
ただ、切り取られた頁の端に、一文字だけ残っていた。
「浦」。
孝は、その文字を見て長崎の地図を広げた。浦上。その地名が頭に浮かんだ。
原爆投下の歴史を語るとき、長崎という街の中でも特別な意味を持つ場所。
キリシタンの歴史があり、教会があり、原爆によって大きな被害を受けた地域でもある。偶然とは思えなかった。四人は長崎駅に戻ると、そのまま浦上へ向かった。
観光客の多い場所を離れるにつれ、街の表情が少しずつ変わっていく。坂の向こうに住宅が続き、古い家と新しい建物が混じっている。
何度も災害や戦争を経験し、そのたびに街が形を変えてきたことが、建物の残り方からも感じられる。浩一が古い地図を広げた。
現在の道路と、戦前の地図を重ねると、一つだけ不自然な場所が見つかった。現在の道路から少し外れたところに、昔の細い道が残っている。その先に、古い石垣がある。石垣そのものは珍しいものではない。
しかし、手帳に残された記号と地図を重ねると、その場所が一致した。四人は石垣の前に立った。
そこには小さな祠があった。観光案内にも載っていない。長い年月の間に誰かが守ってきた場所なのだろう。祠の脇には、一枚の古い石碑が立っている。文字はほとんど読めない。それでも、最後の一行だけは残っていた。
「名を失った者、ここに帰る。」
涼子は、その言葉を見つめた。
長崎で守られてきた「名前」が、ここでも繰り返されている。
しかし、孝が気づいたのは、その石碑の文字ではなかった。石碑の裏側に、薄い金属板が埋め込まれている。円の中に一点。あの印だった。四人は誰も触れなかった。そのとき、背後から人の気配がした。振り返る。
少し離れた道路の向こうに、男が立っていた。川村だった。だが、川村は四人へ近づこうとしなかった。
むしろ、その場に立ったまま、祠を見つめている。
孝は、その姿を見て初めて、川村が四人を追ってきたのではないことに気づいた。彼もまた、この場所を探していたのだ。川村はゆっくりと歩いてきた。そして祠の前に立つと、石碑に手を触れた。
その顔には、長い年月をかけて探し続けたものをようやく見つけた人間の表情が浮かんでいた。彼が取り出したのは、一枚の古い写真だった。孝たちが見た写真と同じものだった。
ただし、川村が持っている写真には、裏側にもう一行が残っている。そこには、日付と場所が記されていた。
一九四五年八月九日 午前十一時二分。
そして、その下に、もう一つの名前。孝は、その名前を読んだ。それは、これまで手帳に一度も登場しなかった。けれど、写真の中の少年が誰だったのかを知るには十分だった。少年は、涼子の曾祖母の兄だった。
つまり、涼子の家族につながる人物だった。
そして、その少年こそが、原爆が投下された日に手帳を探していた人物だった。長崎から京都へ運ばれた記録は、そこから始まった。少年は生き残り、名前を変え、京都へ移った。
涼子の曾祖母もまた、別の名前を使って京都へ移った。二人は、同じ記録を守るために別々の道を選んだ。
だが、その記録には一つだけ、誰にも知られてはいけない名前が残されていた。その名前を消すために、何十年も前から誰かが動いていた。
そして、その名前こそが、現在の四人を長崎へ引き寄せた本当の理由だった。孝は川村の持っている写真を見た。写真の隅に、少年と一緒に立つ若い女性がいる。その女性は、涼子の曾祖母ではない。別の女性だった。
女性の胸元には、小さな円の中に一点の印がある。川村が写真を裏返した。
そこには、祖父の筆跡ではない文字が残っていた。
「この人が、名前を消した。」
その下に、女性の名前が書かれている。孝は、その名前を見た瞬間、言葉を失った。それは歴史上の人物の名前ではなかった。長崎で出会った誰かでもない。現在の京都にもつながっている。
そして、その人物の名前を知っている人間が、四人のすぐ近くにいる。涼子が、写真を覗き込んだ。
その名前を見た瞬間、彼女の表情が変わった。子供の頃から何度も聞いてきた名前だったという。祖母が決して詳しく話そうとしなかった人物。家族写真から意図的に外されていた人物。
そして、涼子の曾祖母が、最後までその存在を隠していた人物。その名前が、ここにある。
長崎の街を何十年も越えて、京都へ渡り、そして再び長崎へ戻ってきた。孝は、ようやく一つの事実にたどり着いた。この事件の中心にあるのは、失われた宝でも、秘密の財宝でもない。たった一人の人間の名前だった。
その名前を消した者がいる。守った者もいる。そして、その名前を再び世の中へ戻そうとしている者もいる。
四人は、その争いの意味さえ知らないまま、ここまで来てしまった。それでも、もう逃げることはできない。
長崎という街が、何百年もの時間を抱えながら、ようやく四人の前に最後の扉を開こうとしていた。そのとき、孝のスマートフォンが鳴った。表示された名前を見て、孝は凍りついた。
電話をかけてきたのは、京都に残してきた人物だった。四人が最も信頼していた人物。そして、写真の中に円の印をつけていた人物。
孝は電話に出なかった。ただ画面を見つめている。やがて着信が切れた。直後に、メッセージが一通届いた。そこには、たった一枚の写真が添付されていた。京都の家の地下。誰もいないはずの場所に、木箱が開かれている。
その箱の中には、昨夜まで確かにあった手帳がない。そして写真の隅に、誰かの手が写っている。
その手には、小さな金属製の鍵が握られていた。長崎で見つけた四番の鍵だった。孝は、画面を見つめたまま、初めて本当の意味で理解した。自分たちが長崎へ戻ってきたことを、相手は最初から知っていた。
そして、四人が長崎にいるあいだに、京都で最後の一手を打った。謎は長崎に残されているのではない。
長崎と京都の両方で、同時に動いている。
