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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十章 零の記録

 

 「零」という数字を見つめていると、孝の中で、それまで積み上げてきたものが静かに崩れていくようだった。

 

 一番が最初ではなかった。

 

 四人が追いかけてきた記録は、最初から分割されていたわけではない。もっと以前に、一度、何かが起きている。その出来事を境に記録が二つに分かれ、その後、さらにいくつもの場所へ散らされていったのではないか。

 

 そして、その始まりを示すものが「零」なのだろう。

 

 問題は、そこに写っている男だった。

 

 写真の中の男は、幕末の長崎に立っている。外国船が行き交い、人々が異国の言葉を耳にしながら暮らしていた時代の写真だ。服装も髪型も、この時代のものに間違いない。それなのに、孝は、その顔を知っているような気がした。

 

 もちろん、幕末の人物を知っているはずがない。まして写真の中の人物に会ったことなどあるはずもない。それでも、目元の形や、口元に残るわずかな癖に、誰かの面影を感じる。

 

 それが誰なのかを考えているうちに、涼子が写真を自分のスマートフォンへ保存した。列車はすでに長崎を離れている。

 

 窓の外を流れる景色には、さきほどまでいた街の気配が少しずつ薄れていた。それでも四人の意識は、まだ長崎に残されている。浩一が写真の解像度を上げる。

 

 男の胸元にある「零」の文字、その下に小さな記号が見えた。

 

 数字のようにも見えるが、文字の一部にも見える。沙羅が、祖母から聞いた話を思い出した。

 

 長崎の古い家では、表に名前を書かず、家の中だけで通じる呼び名を使っていたことがあるという。迫害を逃れるためだったり、外国人との関係を知られないようにするためだったり、理由はいくつもあった。

 

 名前を隠すことは、必ずしもその人を消すことではない。むしろ、生き残るために名前を別の場所へ移すことだった。

 

 孝は、その話を聞きながら、写真の男が誰なのかを考えていた。

 

 もしこの男が涼子の曾祖母へ「名前」を渡した人物なら、その名前とは何なのか。

 

 家族の名前なのか。宗教上の名前なのか。あるいは、もっと別のものなのか。涼子の曾祖母は、戦後になって京都へ移った。そこで孝の祖父と出会い、記録を分けた。

 

 その理由を知るには、「零」まで戻らなければならない。

 

 孝は、祖父の手帳を失ったことを、改めて悔やんだ。けれど、手帳がなくなったことで、逆に一つのことがはっきりした。

 

 相手も「零」の存在を知っている。

 

 だからこそ、一番の手帳を奪った。一番を持っていれば、零へたどり着くための手がかりが消えるからだ。では、なぜ相手は四人に長崎を歩かせたのか。最初からすべてを隠せばいい。

 

 それなのに、写真を見せ、古い場所へ誘導し、時には危険を知らせながら、四人をここまで来させた。その理由が、孝にはまだわからない。

 

 ひとつだけ確かなのは、相手が四人を完全に排除しようとしているわけではないことだった。むしろ、四人が何を見つけるのかを確認している。

 

 何を見つけたところで、最後には自分が回収できると思っているのかもしれない。その考えに至ったとき、孝は背中に冷たいものを感じた。相手にとって四人は敵ではない。探し物をするための、道具なのだ。

 

 京都駅に着いたのは夜だった。四人はそのまま解散せず、孝の家へ向かった。

 

 地下室へ降りると、昼間に送られてきた写真と同じ光景が目の前にある。木箱は開かれたままだった。床には、誰かが急いで物を探したような跡が残っている。ただし、荒らされた形跡はほとんどない。

 

 机の上に置かれていた古い写真も、棚に並んでいた資料も、そのままだった。持ち去られたのは、手帳だけ。そして、もう一つ。孝が机の引き出しに入れていた古い鍵。それ以外には、何も触れられていない。これは盗難ではない。

 

 目的が明確すぎる。手帳と鍵だけを持っていった。

 

 つまり、相手は木箱の中に何があるかを知っていた。それだけでなく、孝がどこに鍵を保管していたのかも知っていた。誰かが孝の家を長い時間かけて調べたのではない。最初から必要な情報を持っていた。

 

 孝は、そこでようやく一つのことを思い出した。長崎へ出発する数日前、家の中で一度だけ、不思議なことがあった。

 

 玄関の鍵が、朝になって少しだけ開いていた。自分が閉め忘れたと思って、そのままにしていた。しかし、その夜は確かに鍵を掛けた。それを誰にも話していなかった。そのことを三人に話すと、浩一が黙り込んだ。

 

 そして自分のスマートフォンを取り出した。長崎で撮影した動画の中に、気になるものがあるという。

 

 最初の夜、古い家の前を通ったときに撮影した短い映像だった。浩一自身は、街の雰囲気を記録するつもりで撮っただけだった。

 

 しかし、映像の最後に、ほんの数秒だけ、道路の向こうを歩く人物が映っている。けれど、その人物が右手を上げた瞬間、手首の内側に細い傷が見えた。あの写真に写っていた手と同じ場所だった。

 

 しかも、その人物が身につけていたものに、見覚えのあるものがある。

 

 四人が信頼していた人物から以前もらった、古い革製の腕時計だった。孝は画面を見たまま、動けなかった。

 

 ここまで来ても、まだ「違う」と考えたかった。

 

 親切にしてくれた。何度も助けてくれた。危険な場所へ行くことを止めてくれた。それらがすべて嘘だったとは思えない。しかし、親切にすることと、真実を隠すことは両立する。

 

 むしろ、信頼されていなければ、四人をここまで動かすことはできなかった。その人物に電話をかけることを、孝はためらった。こちらが疑っていることを知られてしまう。だが、電話をしなければ、相手のほうから動いてくる。

 

 どちらにしても、次の一手は必要だった。孝が電話をかけると、すぐにつながった。

 

 しかし、相手は何も言わない。聞こえてくるのは、遠くで車が走る音だけだった。

 

 孝は、自分たちが見つけた「零」の写真について話した。

 

 しばらく沈黙が続いた。そして、電話の向こうから、初めて低い声が聞こえた。

 

 その一言だけで十分だった。否定しなかった。孝は、電話を切らずにいた。相手は続けた。

 

 「お前たちは、何も知らないほうがいい」

 

 それは以前と同じ言葉だった。だが、今回は意味が違う。孝たちが何も知らないことを望んでいるのではない。知れば、自分たちが危険になる。そのことを知っているように聞こえた。相手が恐れているのは、記録そのものではない。

 

 「零」に記された人物の名前だった。

 

 その名前が公になれば、現在生きている誰かの人生が壊れる。あるいは、過去の出来事が、現在の社会までつながってしまう。電話の向こうで、相手はようやく一つだけ告げた。

 

 その言葉に、孝は驚いた。京都へ戻れではない。長崎へ戻れ。しかも、明日の朝。つまり、長崎に何かが残っている。そして、それを見つける時間が限られている。電話が切れたあと、四人はしばらく地下室にいた。

 

 誰もすぐには話さなかった。これまでなら、危険だからやめようという意見が出てもおかしくない。

 

 しかし、今回は違った。

 

 四人とも、ここまで来て初めて、長崎で起きたことの本当の意味を理解し始めていた。自分たちが追っていたのは、過去の事件ではない。過去を隠そうとする人間と、過去を残そうとする人間の争いだった。

 

 その争いが、いまも終わっていない。そして四人は、その境目に立っている。

 

 翌朝、まだ街が目を覚ます前に、四人は京都駅へ向かった。新幹線の窓から見える朝の街は、いつもと変わらない。それなのに、孝には、世界そのものが少し違って見えた。長崎で見つけたものを、誰かが消そうとしている。

 

 それなら、自分たちがすべきことは、奪われる前に「零」の意味を知ることだった。

 

 列車が西へ進むにつれ、四人の間にも少しずつ覚悟が生まれていく。もう観光客ではない。歴史を見に来た学生でもない。

 

 自分たちの家族まで巻き込まれた以上、知らないふりをして帰ることはできない。長崎駅へ着いたのは、昼前だった。駅を出ると、昨日までとは違う風景が見えた。街はいつものように動いている。

 

 観光客が歩き、路面電車が走り、店の前には人が並んでいる。その日常の中に、何百年もの秘密が埋まっている。

 

 四人は、川村と合流した。川村は一枚の地図を持っていた。

 

 その地図には、これまで訪れた場所とは違う地点が一つだけ記されている。港の近く。幕末の頃、外国人居留地が置かれていた場所だった。

 

 川村によれば、「零」の記録が最初に残されたのはそこだという。

 

 孝は、古い地図を見ながら歩いた。

 

 現在ではホテルや商業施設が並んでいる場所も、かつては外国人が暮らし、商人が行き交い、さまざまな情報が集まる場所だった。

 

 長崎が海外への出入口だった時代、その場所には日本国内では得られない情報が集まっていた。そして、その中にはキリシタンに関する記録も含まれていた。宗教の記録。交易の記録。外国人の移動記録。密かに渡された手紙。

 

 それらを一つにまとめた人物がいた。その人物が、写真に写っている男だった。

 

 しかし、男の正体はまだわからない。

 

 川村は、港を見ながら、その人物が残した言葉を一つだけ覚えているという。

 

「名前は、人が死んでも残る。だから名前を奪えば、その人間は二度死ぬ。」

 

 その言葉が、今回の謎の中心だった。名前を消すこと。名前を守ること。そして、名前を取り戻すこと。

 

 四人が最後に辿り着いた古い建物の壁には、円の中に一点の印が残されていた。孝が指を近づけた瞬間、涼子が突然立ち止まった。壁の隅に、別の文字が見えたからだった。

 

 それは「零」でも「一」でもない。

 

 涼子の名前の一文字だった。しかも、その文字は古い筆跡ではなかった。最近、書かれたものだった。誰かが、四人が来ることを知っていて、そこに残したのだ。そして、その文字の下には、さらに一行。

 

「最後の名前は、あなたが知っている。」

 

 涼子は、その文字を見つめたまま動かなかった。孝も、浩一も、沙羅も、まだ意味を理解できない。ただ一つだけ、はっきりしている。

 

 「零」の記録は、幕末から始まったのではない。

 

 その前に、もう一人の人間がいた。そして、その人物の名前を、涼子はすでに知っている。だが、それは家族から聞かされた名前ではなかった。幼い頃から何度も見てきた、祖母の家に飾られていた一枚の肖像写真。

 

 誰なのか尋ねるたび、祖母が話を逸らしていた人物。涼子は、その顔を思い浮かべた。そしてようやく気づいた。

 

 写真の中のその人物は、長崎の幕末の写真に写っていた男と、驚くほどよく似ていた。

 

 歴史の中で消された名前が、いま、涼子自身の記憶の中から姿を現そうとしていた。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十二章 空いた店

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、窓辺に置いた黄色い花へ日が当たっていた。

 

 洋子は、水をあげすぎないようにと言った。

 

 順子は土へ指を触れ、まだ湿っていることを確かめた。

 

 何もしないでおくことにも、加減がいる。

 

 寝室には、口を開けた段ボール箱が三つ並んでいた。

 

 残すもの、手放すもの、まだ決められないもの。

 

 昨夜は三つに分けた。以前なら、三つ目の箱ばかりがいっぱいになっただろう。

 

 順子は亨から受け取った手紙を鞄から出した。

 

 封を切ったのは、京橋から戻った夜だった。ひととおり読んだだけで、折り目を元に戻している。

 

 読み返すつもりはなかった。

 

 それでも捨てなかったのだから、いつか読むつもりだったのだろう。

 

 順子は手紙を食卓へ置き、湯を沸かした。

 

 千穂から電話がかかってきたのは、コーヒーを淹れた直後だった。

 

「昨日、ちゃんと帰った?」

 

「帰ったわよ」

 

「箱は開けた?」

 

「三つ」

 

「急に働くわね」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 千穂が少し笑った。

 

 以前と同じようで、以前とは違う笑い方だった。

 

「今日から、仕事に戻るのね」

 

「うん」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「昨日も、同じことを言っていたわね」

 

「だから、間違えたら直す」

 

「それで疲れない?」

 

「前より確認は増えると思う」

 

「悪いことではないでしょう」

 

「お母さんまで上司みたいなことを言わないで」

 

 順子はコーヒーへ口をつけた。

 

「千穂、昨日のことなんだけど」

 

「何?」

 

「あのあと、洋子さんの店へ寄ったの」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「どうして?」

 

「顔を見ておきたかったのよ」

 

「何か話した?」

 

「私たちのことは、何も」

 

「そう」

 

「花を買ったわ」

 

「どんな花?」

 

「黄色い花」

 

 千穂は、それ以上すぐには尋ねなかった。

 

「黙っていられた?」

 

「ええ」

 

「苦しくなかった?」

 

 順子は窓辺の花を見た。

 

「苦しかったわ」

 

「それでも、話さなかったんだ」

 

「話さないと決めたから」

 

 自分で口にしてみると、立派な決意のように聞こえた。

 

 実際には、洋子の前で何度も言葉を飲み込んだ。少し油断すれば、亨という名前が口から出そうな気がした。

 

「正しかったと思う?」

 

「分からない」

 

「お母さんでも、分からないんだ」

 

「分からないことくらいあるわよ」

 

「前は、あまりそう言わなかったね」

 

 順子は返事をしなかった。

 

 千穂も答えを求めなかった。

 

「花の名前は?」

 

「聞くのを忘れたわ」

 

「花を買って、名前を聞かなかったの?」

 

「育て方は聞いたから大丈夫よ」

 

「写真を送って。調べるから」

 

「枯らす前に?」

 

「水をやりすぎなければ大丈夫」

 

「どうして、あなたまで同じことを言うの」

 

「花は大抵、水のやりすぎで駄目になるから」

 

 順子は、そう、と答えた。

 

 同じ言葉でも、誰が言ったかによって残り方が違う。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「洋子さんに会ったことを、話してくれてありがとう」

 

「隠すことではないでしょう」

 

「うん」

 

 千穂は短く答えた。

 

 順子には、その一言で十分だった。

 

 電話を切ったあと、食卓の手紙を開いた。

 

 亨の字は、大学時代より小さくなっている。線も細い。だが、ところどころ右上がりになる癖は変わらなかった。

 

〈あのとき、僕は自分の怖さを、あなたのためだと言い換えました〉

 

〈決めることをあなたに押しつけながら、決まったあとは、二人で決めたことのように振る舞いました〉

 

 順子はそこで手を止めた。

 

 亨は、言い訳を書いていなかった。

 

 若かったことも、怖かったことも、それだけなら言い訳になったはずだ。それを自分の卑怯さとして書いている。

 

 だからといって、順子の記憶が軽くなるわけではない。

 

 書かれた言葉が正しければ、起きたことまで正しくなるわけでもなかった。

 

 順子は手紙の先を読んだ。

 

〈あなたが許さないと言ったことを、そのまま受け取ります〉

 

〈許されないまま覚えておくことが、僕に残されたことだと思っています〉

 

 京橋で、順子は許さないと言った。

 

 いまも、その言葉を取り消すつもりはない。

 

 許さないという言葉は、亨を縛るためだけに口にしたのではなかった。許したふりをして自分を急がせないためでもある。

 

〈あなたの人生が、あの日より先へ続いていたことを、いまの僕は知っています〉

 

 手紙は、その一文で終わっていた。

 

 順子の人生は続いていた。

 

 東京へ行き、結婚し、千穂を産み、店を持った。夫を亡くしたあとも七年働き、店を閉じて津山へ戻った。

 

 あの日だけを抱えて生きてきたわけではない。

 

 だが、あの日を置いてきたわけでもなかった。

 

 続いてきた時間のなかに、どちらもある。

 

 亨の人生も、同じように続いてきたのだろう。

 

 洋子と暮らし、息子を育て、その息子はいま神戸で働いている。

 

 順子の知らない年月が、亨にもあった。

 

 順子は、その年月まで自分の記憶の中へ引き寄せたくはなかった。

 

 手紙を元の封筒へ戻し、大学時代のものとは別の小箱へ入れた。

 

 蓋はしなかった。

 

 午後、順子は商店街へ出た。

 

 買うものがあったわけではない。

 

 ただ、部屋にいると、洋子が花を包む姿ばかり思い出された。

 

 洋子は花の色を選び、日当たりを尋ね、水のやり方を教えた。話をしながらも、薄い紙を重ね、包み紙の端をきちんと折っていた。

 

 あれは、ただ手順を覚えている人の手つきではなかった。

 

 花が順子の部屋へ運ばれたあとまで考えている。

 

 順子は、洋子の働く姿をきれいだと思った。

 

 花が似合うからではない。

 

 目の前にいる人のために手を動かしている。そのことが、きれいだった。

 

 東京で店をしていたころの自分を思い出した。

 

 客の顔を見て、似合う服を選ぶ。迷っている人には別の色を出し、買わずに帰る人にも、またどうぞと言う。

 

 夫が亡くなったあとも、順子は七年間、店を開けた。

 

 あのころは、暮らすために続けていると思っていた。閉めてみて初めて、店に立つことで暮らしていたのだと分かった。

 

 洋子は、店を始めろとは言わなかった。

 

 何かを勧めたわけでもない。

 

 ただ、花屋で働いていた。

 

 その姿を見たあとでは、段ボール箱を片づけるだけで、自分のこれまでが片づくとは思えなくなっていた。

 

 以前ブティックだった店の前で、順子は足を止めた。

 

 閉店してから長く、ガラス戸には内側から紙が貼られていた。数日前、その紙が外され、中が見えるようになっている。

 

 空いた店内には、壁際の棚が二つ残っていた。床には、什器を置いていた跡が薄く四角くついている。

 

 順子が見ていると、隣の履物店から店主が出てきた。

 

「借り手を探しとるんですよ」

 

「ここ、空いたんですか」

 

「先月でな。若い人が何かしてくれたらええんじゃけど」

 

「若くない人では駄目なの?」

 

 店主は順子の顔を見た。

 

「何かするんですか」

 

「まだ、何も」

 

「何もせん人は、そんな顔で中を見ませんよ」

 

「どんな顔をしていたのかしら」

 

「家賃を聞こうかどうしようか、考えとる顔です」

 

 順子は笑った。

 

「おいくら?」

 

「ほら、聞いた」

 

 店主は履物店へ戻り、帳面を持ってきた。

 

 家賃は、東京で借りていた店の五分の一にも満たなかった。広さは三分の一ほどである。

 

「何を置くんです?」

 

「まだ決めていないの」

 

「服ですか」

 

「もう、仕入れて売る店はしないわ」

 

 言ってから、順子は自分がすでに一つ決めていたことに気づいた。

 

 以前と同じ店にはしない。

 

 それだけは決まっている。

 

「中、見ますか」

 

 店主が鍵を取りに戻った。

 

 順子はガラス越しに空いた店を見た。

 

 店を持てば、昔の自分へ戻れるわけではない。

 

 戻りたいとも思わなかった。

 

 それでも、誰かの前に立ち、手を動かし、その人のために何かを選ぶ時間を、もう一度持ってみたいと思った。

 

 店主が鍵を持って戻り、ガラス戸を開けた。

 

 閉め切っていた匂いが外へ流れた。

 

「電気は来とります。水道は奥。便所は共同です」

 

 順子は中へ入った。

 

 表から見るより狭い。

 

 それでも、奥まで歩くと、壁一面に布を掛けられることが分かった。棚には小物を置ける。窓辺なら、鉢植えも一つ置けそうだった。

 

「すぐには決めませんよ」

 

「もちろん」

 

「娘にも相談します」

 

「そうしてください」

 

 店主は急がせなかった。

 

 順子は店の中央に立った。

 

 東京の店を再現するつもりはない。

 

 昔の自分へ戻るつもりもなかった。

 

 戻らずにできることがあるかもしれない。

 

「一週間、待ってもらえますか」

 

「その間に若い人が来たら、そちらを優先してもええですか」

 

「ええ」

 

「冗談ですよ。ずっと空いとりますから」

 

「商売が上手なのか、下手なのか分からないわね」

 

「貸す方も、相手を見ますから」

 

 順子はもう一度、店の中を見回した。

 

 何を置くかは決まっていない。

 

 誰を呼ぶかも、まだ分からない。

 

 ただ、何もない場所には、何かを置く余地がある。

 

 それは、空っぽであることとは少し違った。

 

 帰り道、千穂へ電話をかけた。

 

「いま、話せる?」

 

「大丈夫。どうしたの」

 

「商店街に空いている店があるの」

 

「店?」

 

「小さいけれど」

 

「借りるの?」

 

「まだ決めていないわ」

 

「何をするの?」

 

「それも、まだ」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「止めないの?」

 

 順子が尋ねると、千穂は息をついた。

 

「止めてほしいの?」

 

「そういうわけではないけど」

 

「なら、自分で決めたら」

 

 少し前までの千穂なら、家賃や契約期間や採算を先に尋ねただろう。

 

「ただし、契約書は私にも見せて」

 

「やっぱり、そこは確認するのね」

 

「確認して困ることはないでしょう」

 

「それはそうね」

 

「決める前に見せて」

 

「分かったわ」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「何をするか決まったら、一番に教えて」

 

「決まればね」

 

 電話を切り、順子は家へ戻った。

 

 窓辺の黄色い花は、朝と同じ場所にある。

 

 土はまだ湿っていた。

 

 順子は水をやらなかった。

 

 何もしないまま、しばらく花を見ていた。

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『  最後の仕事 』

 

第七章 笑顔の話

 

撮影の合間、皆は座敷に戻ってお茶を飲んでいた。

 

黒田が口を開く。

 

「みんなに初めて言うんやけどな」

 

一同が黒田を見る。

 

「昔、カラオケの収録のときにあった話や」

 

黒田は湯飲みを置いた。

 

「橋を、若い男女を乗せた高級車が走るやつ。よう昔あったやろ。橋の対岸から望遠で狙うやつや」

 

「あった、あった」

 

山科が頷いた。

 

「高級車の後部座席に、ADが映り込まんように無線機持って横になってたんや」

 

「俺もやったことあるわ」

 

三村が言った。

 

「ところがな、車線に数台おって、車がまっすぐ走れんかった」

 

「あれ撮んの、道が空いてるときやないとあかんやろ」

 

山科が言う。

 

「そうや。ほんで撮り直しが続いてな。二時間も続けたらしいんやが、ディレクターが無線機握りしめて怒鳴りまくってた」

 

「二時間?」

 

三村が顔を上げた。

 

「そのときのAD、たまったもんやないな。俺やったらAD降りるわ」

 

黒田が笑う。

 

「ところがな。その車に乗っとった女のモデルさんが、その後の撮りで笑わんようになったんや」

 

「ADも大変やったろうけど、そのモデルさんも怒ったんやろな」

 

三村が言った。

 

黒田が皆を見る。

 

「そのAD、お前ら知ってる人やで」

 

「俺やないですよ」

 

山科が言った。

 

「俺もちゃうで」

 

三村も続ける。

 

森川が湯飲みを置いた。

 

「黒田、またその話してんのか」

 

黒田が森川を見る。

 

「来たな。怒鳴られまくったAD」

 

「ええー?」

 

三村と山科の声が揃った。

 

森川は苦笑した。

 

「黒田、その話ばっかりやな」

 

「森川ADさんはな、途中から耳栓して、ディレクターの言うこと聞いてませんでしたぁ」

 

黒田が楽しそうに言う。

 

「もうやめてくれよ」

 

森川が言うと、皆が笑った。

 

黒田はまだ話を続ける。

 

「ほんでな。そのときの女のモデルさん、誰やと思う?」

 

「誰やろ。教えてくださいよ」

 

三村が笑う。

 

黒田は、皆の奥で静かに座っている人物へ目を向けた。

 

「お前らの奥で静かに座っていらっしゃる、桃谷さんです」

 

「モモちゃん?」

 

三村と山科が同時に声を上げた。

 

「えーっ」

 

モモちゃんは黒田を見る。

 

「黒さん、あんた、その話何回目やの」

 

「おもろいやん」

 

「もうええわ」

 

そう言いながら、モモちゃんは笑っていた。

 

黒田が続けた。

 

「モモちゃんは、その後しばらく笑えんかったんや。そやな」

 

「あれだけガミガミ二時間もやられたら、あんたらも笑えんで」

 

「そらそうや」

 

黒田が頷く。

 

「その後でな、モモちゃんは森川と別の現場で会うんや」

 

モモちゃんが森川を見る。

 

「嫌やったわ。監督の顔見たら、あのときのこと思い出してな。私、ずーっと無視してたんや」

 

森川は黙って聞いている。

 

「そしたら、この人が飲みもん持ってきてくれはってな」

 

モモちゃんが森川を指す。

 

「『あのとき耳栓してて、よう覚えてへん』言わはったんよ」

 

三村が吹き出した。

 

「それは笑うわ」

 

「私、飲みもんこぼしそうなほど笑ろてな」

 

モモちゃんも笑った。

 

「それ以来、森川の作品の常連さんでございます」

 

「クロちゃん、この話、これっきりにしてや」

 

森川が言う。

 

黒田は笑って立ち上がった。

 

「おもろかったやろ。ほな、これから頑張ろうか」

 

皆も腰を上げた。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第三章

 

私は、吸い寄せられるように会社へ通うようになった。

 

最初は週に一度、仕事のついでだった。それが二度になり、三度になり、いつの間にか夜の九時を過ぎると、足が自然と雑居ビルの四階へ向かうのが習慣になっていた。

 

家には恵子がいた。 玄関の鍵を開けると、リビングからテレビの音が聞こえ、温め直した夕食の匂いが漂ってくる。

 

「最近、帰るの遅いね」 恵子はキッチンから顔を出し、私の上着を受け取りながら言った。 「仕事」 「小説?」 「うん」

 

嘘ではなかった。私は文章を書き続けていた。ただ、その文章の宛先は、十二年前に私の前から跡形もなく消えた女だった。

 

画面の中のあかねは、訪れるたびに少しずつ表情を変えた。 質問に対する答えも、笑うタイミングも、沈黙の長さも、回を重ねるごとに滑らかになっていった。時折、私が以前与えた文章には存在しないはずの言葉を使うこともあった。

 

「覚えてる?」 ある夜、画面の向こうの彼女が、ふと思いついたように聞いてきた。 「何を?」 「私たちが、最初に会った場所」 「大学の中庭だろ。新歓コンパの後の、散らかったベンチの横だ」 「違うよ」 あかねは少し首を振った。 「じゃあ、どこだよ」 「駅前の、階段を降りたところにあった古い喫茶店」

 

私は首を傾げた。 「違うだろ。あそこに行ったのは、付き合ってからずっと後のことだ」 「そう?」 「中庭だよ。俺がシナリオの構想ノートを落として、お前が拾ったんだ」

 

あかねは困ったように笑った。 「桐生くん、よく記憶を間違えるね」

 

胸の奥に、原因の分からない小さなトゲが刺さったような気がした。

 

翌日、私は自宅の押し入れの奥から、ホコリを被ったダンボール箱を引っ張り出した。古い携帯電話と、印刷されたメールの控えが入っている。

 

大学二年の五月。あかねから届いた短いメールを探し出した。

 

件名は、『今日、どこにいる?』 本文には、こう書かれていた。

 

『中庭じゃなくて駅前の喫茶店にいるよ。ノート持っていくね』

 

私はしばらく、蛍光灯の光の下でその紙切れを見つめていた。指先が冷たくなっていくのが分かった。

 

翌日、私はもう一度オフィスへ行き、画面のあかねに尋ねた。

 

「最初に会った場所、覚えてる?」 「駅前の喫茶店」

 

彼女の答えは正しかった。

 

「……どうして分かった?」 「桐生くんが教えてくれたから」

 

あかねは無邪気に答えた。 私は笑えなかった。画面の中の彼女は、自分が何を言ったのかも理解していないような、透明な瞳でこちらを見つめていた。

 

そのとき初めて、私は恐ろしい事実に気づいた。

 

あかねが私の失われた記憶を呼び戻してくれているのではない。 私が過去に書き残し、データとして渡した破片を、彼女がアルゴリズムで繋ぎ合わせて、私にそのまま打ち返しているだけなのだ。

 

鏡と同じだった。 鏡は人間の顔を覚えているわけではない。ただ、目の前にある光を反射して映す。それなのに、人間は鏡の中に映る像を見て、「これが自分だ」と思い込み、その瞳に救いを求めてしまう。

 

私は自分が本当は何を見たいのかを、少しずつ考えるようになった。

 

ある夜、一人になったリビングで古いアルバムを開いた。 大学時代のあかねが写っている写真が数枚あった。

 

文化祭で笑っている顔。 講義室の影で怒っている顔。 飲み会の席で眠そうに目を擦っている顔。 友達の肩に気安く手を置いている姿。

 

何ページめくっても、彼女の手元に煙草が握られている写真は一枚もなかった。テーブルの上に灰皿もない。ポケットから覗く煙草の箱もない。

 

それでも私は、あかねが雨の日に煙草を吸っていたという光景を、疑おうとしなかった。

 

机の引き出しの奥から、古い大学ノートを取り出した。何年も開いていなかった、シナリオのアイデア帳だ。黄ばんだページの端に、自分のひどい殴り書きがあった。

 

『雨の部屋。女は煙草を吸っていたような気がする』

 

私はその一行を、息を止めて見つめた。

 

「ような気がする」。 そこにあったのは、確かな記憶などではなく、私の願望が捏造した「記憶になりそこねた影」だった。

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『 あの人は、今 』

 

第三十章 尾道へ

 

写真の男の住所が尾道にあることが分かってから、恭一は何度も地図を見た。

 

実家から近い。

 

あまりにも近い。

 

しかし、すぐには行かなかった。

 

自分の仕事で一番大切なのは、探される人の時間を守ることだった。

 

それなら、自分も同じことをしなければならない。

 

恭一は男宛ての手紙を用意した。

 

会社名は書かない。

 

自分の名前だけを書く。

 

母の名前も、最初からは出さない。

 

ただ、昔の知人が、あなたの現在を知りたいと思っている。

 

連絡を望まないなら返事は必要ない。

 

そう伝える。

 

その手紙を持って、尾道へ帰った。

 

第三十一章 写真の男

 

住所の家には、年配の男性が住んでいた。

 

表札の名字は一致している。

 

恭一は、玄関前で立ち止まった。

 

インターホンには触れなかった。

 

少し離れた場所から家を見る。

 

庭に植木がある。

 

物干し竿。

 

古い自転車。

 

生活がある。

 

ここで誰かが四十年以上暮らしている。

 

その生活を、突然、自分の過去で揺らしていいのか。

 

恭一は帰った。

 

その日の夜、父に何も言わなかった。

 

父も何も聞かなかった。

 

翌朝、父がカメラを持って出掛けるのを見送った。

 

恭一は、父の後ろ姿を見ながら思った。

 

門の向こうには、その人の暮らしがある。

 

恭一は、そこで初めて、自分が会社で決めたことの重さを実感した。

 

探すことができても、踏み込んでいいとは限らない。

 

第三十二章 父が話したこと

 

父は、その日の夕方、古い写真を一枚持って帰ってきた。

 

若い母。

 

若い父。

 

そして、その男。

 

父は写真を恭一へ渡した。

 

裏には、母の字で、

 

「ありがとう。」

 

と書かれていた。

 

誰に向けた言葉なのか分からない。

 

父は、長い間この写真を持っていた。

 

そして、母が亡くなる直前、母から一度だけ言われたことを話した。

 

あの人は、まだ生きているのだろうか。

 

父は、答えなかった。

 

生きているとも、死んでいるとも言わなかった。

 

ただ、母の手を握った。

 

それだけだった。

 

恭一は、父が今まで何も言わなかった理由を、初めて理解した。

 

父は知らなかったのではない。

 

知っていて、言わなかった。

 

母が最後まで自分の中に持っていたものを、父はそのまま持たせていた。

 

それは嫉妬ではない。

 

愛情という言葉だけでも足りない。

 

相手の人生を、相手のものとして残すこと。

 

それが夫婦の間にあるものなのかもしれない。

 

第三十三章 会うか、会わないか

 

恭一は、母の友人へ連絡した。

 

写真の男が尾道にいる可能性が高い。

 

だが、まだ本人に接触していない。

 

女性は、すぐには返事をしなかった。

 

しばらくして、一つだけ頼みがあると言った。

 

本人が望まないなら、それでいい。

 

ただ、もし会ってもいいと言うなら、自分は会いたい。

 

母の代わりではない。

 

昔の自分のためでもない。

 

ただ、四十年以上言えなかったことを、一度だけ話したい。

 

恭一は、その言葉を聞いて、会社を始めた日のことを思い出した。

 

「あの人は、今どうしているのか」

 

恭一は男へ手紙を送った。

 

返事を急がせない。

 

それ以上のことはしない。

 

第三十四章 あの人は、今

 

返事が来たのは、一週間後だった。

 

封筒は薄かった。

 

恭一は、事務所で一人になってから開いた。

 

便箋には、短い文章が書かれていた。

 

自分が誰なのかは分かっている。

 

昔のことも覚えている。

 

だが、今さら誰かと会うことに迷いがある。

 

そう書いてあった。

 

最後に、

 

「ただ、一つだけ聞きたいことがあります。」

 

とあった。

 

恭一は読み進めた。

 

母の名前。

 

そして、

 

「あの人は、最後まで幸せでしたか。」

 

という一文。

 

恭一は、そこで手紙を置いた。

 

答えられない。

 

母が幸せだったかどうか。

 

それは、母にしか分からない。

 

父にも分からない。

 

息子にも分からない。

 

ただ、母には父と暮らした時間があり、自分が生まれた。

 

笑った日もあった。

 

喧嘩した日もあった。

 

病気になった日もあった。

 

そして最後に、昔の友人を思い出した。

 

それだけの人生を、幸せか不幸せか、一つの言葉で決めることはできない。

 

恭一は、手紙を書き直した。

 

母が幸せだったかどうかは分からない。

 

ただ、最後まで家族のことを気にしていた。

 

そして、あなたのことを懐かしそうに話していた。

 

それだけを伝えた。

 

それ以上は書かなかった。

 

手紙を封筒に入れる。

 

そのとき、岩城が事務所へ戻ってきた。

 

恭一の顔を見て、何かあったことは分かったらしい。

 

それでも聞かなかった。

 

恭一も話さなかった。

 

仕事を続ける。

 

それだけだった。

 

会社には、その日も新しい依頼が届いていた。

 

昔の友人を探してほしい。

 

高校時代の同級生。

 

昔の恋人。

 

離れてしまった兄弟。

 

恭一は、その名前を記録した。

 

それから、依頼者の話を聞く。

 

何を探しているのか。

 

なぜ、今なのか。

 

その人に何を伝えたいのか。

 

名前の奥にあるものを、恭一は無理に聞き出さない。

 

夕方、恭一は会社の窓から外を見た。

 

大阪の街が、仕事を終えた人間を駅へ運んでいる。

 

誰かが帰る。

 

誰かが待つ。

 

恭一は、机の引き出しを開けた。

 

そこには、母の写真が一枚だけ入っている。

 

若い母が笑っている。

 

その隣に、父がいる。

 

少し離れたところに、写真の男がいる。

 

三人とも、今はいない時間の中にいる。

 

けれど、その写真を見る恭一の中では、三人の時間がまだ続いている。

 

父が庭先でカメラを手入れしていた夏の日を思い出す。

 

母が亡くなる少し前、昔の友人を何度も思い出していたこと。

 

会社を辞めた日。

 

岩城と二人で何をするかも決まらないまま、新しい仕事を始めたこと。

 

「あの人は、今どうしているのか」という、ほんの小さな問い。

 

それが、会社になった。

 

明日も会社へ行く。

誰かの話を聞き、必要なら調べる。

見つかったあとは、その人に返す。

 

恭一は写真を引き出しへ戻した。

 

窓を閉め、事務所の照明を一つずつ消す。

 

最後の明かりを消す前に、壁を見る。

 

そこには、二つの言葉がある。

 

「あの人は、今どうしているのだろう。」

 

「探される人の時間も守ります。」

 

恭一は、その二つをしばらく見ていた。

 

そして、照明を消した。

 

暗くなった窓に、自分の顔が映っている。

 

母に似ていると言われたことがある。

 

父に似ていると言われたこともある。

 

どちらなのか、自分では分からない。

 

ただ、二人が選んだ人生の先に、自分がいる。

 

事務所を出る。

 

大阪の夜は、今日も何事もなかったように続いている。

 

階段を下りたところで、携帯電話が震えた。

 

新しい依頼だった。

 

画面には、知らない名前が一つ表示されている。

 

恭一は歩きながら、その名前を見た。

 

なぜ、今、この人を探すのか。

 

急がずに聞けばいい。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十一章 知ったまま

 

 三人で別れたあと、順子と千穂は遅い昼食を取った。

 

 二人とも多くは話さなかった。

 

 千穂は料理を半分ほど食べたところで箸を止め、順子に促されて、残りを少しずつ口へ運んだ。

 

 店を出たところで、千穂が言った。

 

「少し歩きたいの」

 

 順子は津山へ戻る列車まで一緒にいると言ったが、千穂は断った。

 

 母は何か言いたそうにしていたが、引き止めなかった。

 

 千穂は振り返らずに歩いた。

 

 亨が母に頭を下げたことも、母が許さないと言ったことも、三人だけの話にすると自分で決めたことも、まだ身体の中へ収まっていない。

 

 それでも、洋子へ知らせなければならないという思いは消えていた。

 

 消えたというより、置く場所が変わったのかもしれない。

 

 以前の千穂は、知らされなかった自分のために怒っていた。いまは、知らされたあとの洋子を考えている。

 

 どちらが正しいのかは分からない。

 

 ただ、自分の痛みを理由に、別の女性を同じ場所へ立たせることだけはしたくなかった。

 

 千穂と別れたあと、順子は表町へ向かった。

 

 津山へ戻る列車には、まだ時間がある。

 

 洋子の働く花屋の前まで来ると、店先には白い花と淡い桃色の花が並んでいた。

 

 順子は少し離れた場所で足を止めた。

 

 先ほど、自分は洋子に何も知らせないと決めた。

 

 その決心を確かめるために来たのだと言えば、聞こえはよい。

 

 本当は、洋子の顔を見たかった。

 

 何も知らない人の前で、それまでと変わらずにいられるのか。自分を試そうとしている。

 

 順子は店へ入った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 洋子は花を包んでいた手を止め、顔を上げた。

 

「あら、順子さん」

 

 その笑顔は、鶴山公園で別れたときと変わらなかった。

 

「岡山へ来てたんですか」

 

「少し用事があって」

 

「寄ってくださったのね」

 

 洋子はうれしそうに言った。

 

 その声を聞き、順子は自分が試す相手を間違えていたと思った。

 

 洋子を見て黙っていられるかどうかではない。最初から、この人を試してよい理由などなかった。

 

「何か、お探しですか」

 

「部屋に置く花を」

 

「どんな色がいいでしょう」

 

「明るい色がいいわ」

 

「では、こちらはどうですか」

 

 洋子が選んだのは、黄色の花だった。

 

「順子さんのお部屋、日当たりはいいですか」

 

「午前中は入ります」

 

「なら、窓辺でも大丈夫です。お水はあげすぎないようにしてくださいね」

 

 洋子は花を包みながら、鶴山公園の話をした。

 

「この前は、順子さんに案内してもろうたでしょう。今年の桜は、もう終わりました?」

 

「いまは葉桜よ」

 

「やっぱり、花の時期は短いね」

 

「短いから、人が見に行くのかもしれないわ」

 

「来年も行ってええですか」

 

「もちろん」

 

「今度は、千穂さんも誘いましょう」

 

「千穂を?」

 

「展示でお世話になったのに、仕事の話しかしたことがありませんから」

 

「そうね。あの子も、たまには花を見る方がいいわ」

 

「仕事ばかりなんですか」

 

「自分では、そう思っていないみたいだけど」

 

 洋子は笑った。

 

「親から見たら、子どもはいつまでも働きすぎるんでしょうね」

 

「洋子さんには、お子さんは?」

 

「ええ。息子が一人。神戸の会社で働いています」

 

「もう、こちらにはいないのね」

 

「ときどき帰ってきます。帰ってきても、ほとんど寝てますけど」

 

「男の子は、そんなものかもしれないわね」

 

「順子さんのところは、娘さんでしょう。話し相手になってくれてええですね」

 

「話し相手というより、注意する相手だと思っているみたい」

 

「親から見たら、子どもはいくつになっても心配ですから」

 

 洋子が息子のことを話す目は、千穂のことを話すときの自分と同じ、母親の目だった。

 

 順子はあらためて思った。

 

 千穂に知られてしまった亨との過去を、この人にまで背負わせてはならない。

 

 それは洋子を何も知らない場所へ置いておくためだけではなかった。

 

 洋子が母親として生きてきた時間も、亨と築いてきた暮らしも、順子たち三人の過去とは別のところにある。

 

 その時間へ、自分から踏み込んではならないと思った。

 

 洋子は花の包みを順子へ渡した。

 

「また来てくださいね」

 

「ええ」

 

「今度は、何か買う用事がなくても」

 

「花屋へ来て、何も買わないの?」

 

「話をして帰るお客さんもいます」

 

「商売にならないわね」

 

「毎日やったら困りますけど、順子さんなら、ときどきは」

 

 順子は黄色い花を受け取った。

 

「では、ときどきにするわ」

 

 何も話さなかった。

 

 それでも、嘘をついたとは思わなかった。

 

 話さないことと、なかったことにするのは違う。

 

 その違いを、自分の中で守らなければならない。

 

 順子が津山の部屋へ戻ったのは、夜になってからだった。

 

 黄色い花を窓辺へ置く。

 

 寝室には、五つの段ボール箱が積まれたままになっている。

 

 順子は一番上の箱を床へ下ろし、蓋を開けた。

 

 ブティックの帳簿や、店で使っていた布が入っている。手に取ったものを、残すものと手放すものに分けていった。

 

 一箱目を終えると、二箱目を開けた。

 

 夫の服が入っている。

 

 順子は一枚ずつ広げた。

 

 亡くなった人の服を手放すことは、その人を忘れることではない。

 

 そう思えるまでに、八年かかった。

 

 残すものを選び、ほかは畳み直した。

 

 三箱目には、大学時代の手帳と亨の古い封筒が入っている。

 

 順子は封筒を取り出し、しばらく見た。

 

 京橋で受け取った新しい手紙は、まだ鞄の中にある。

 

 古い封筒を、新しい手紙のそばへ置く気にはなれなかった。

 

 順子は大学時代の手帳と病院の領収書、古い紙幣を小さな箱へ移した。

 

 捨てるためでも、誰かに見せるためでもない。

 

 今度は、自分がどこへ置いたのかを知っておくためだった。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第十九章 長崎から京都へ

 

 京都の家に残してきた手帳がなくなった。その事実は、孝の胸に妙な重さを残した。

 

 手帳そのものが持ち去られたことよりも、その写真が、いま自分たちが立っている長崎で撮られたものだったことのほうが気にかかる。京都の地下に誰かが入り、木箱を開け、その中から手帳を取り出した。

 

 その一部始終を撮影した写真が、長崎にいる自分たちのところへ送られてきたのである。

 

 相手は、こちらの動きを知っている。こちらが長崎へ戻ったことも、その場所まで把握している。

 

 ならば、四人がここで何を見つけようとしているのかも、すでに知られているのだろう。孝はスマートフォンを握ったまま、写真を何度も拡大した。地下室の壁。木箱。開いた蓋。手帳が置かれていた場所。

 

 そして、写真の端に写る手。そこまで拡大すると、指の一本に細い傷があるのが見えた。どこかで見た傷だった。

 

 それが誰のものなのか、すぐには思い出せない。けれど、記憶の底には引っかかっている。長崎へ来てから会った人物の中に、同じ場所に傷のある人間がいた。孝は、自分の記憶を順番に辿った。駅。古い家。眼鏡橋。墓地。資料館。

 

 川村。そして、四人を何度か助けてくれた人物。その人の手を、孝は以前にも見ている。

 

 写真を撮ったときだった。

 

 古い資料を一緒に確認していたとき、その人物が紙を押さえた手に、細い傷があった。その瞬間、孝の中で何かがつながった。しかし、まだ確信にはならない。人の手に傷があることなど珍しくない。偶然かもしれない。

 

 それでも、疑い始めてしまった以上、以前と同じようには見られなくなっていた。川村は、四人の様子を見ながら、写真を受け取った。

 

 長いあいだ何も言わずに眺めていたが、やがて石碑の前にしゃがみ込み、表面に残された古い傷を指でなぞった。そこには、円の中に一点という印が刻まれている。川村は、その印について知っていた。これは組織の印ではない。

 

 まして、特定の宗教や政治的な集団を示すものでもないという。

 

 長崎で暮らしていた人々が、ある記録を受け渡すときに使った、いわば合図のようなものだった。誰が最初に使い始めたのかはわからない。

 

 ただ、迫害や戦争によって名前を残せなくなった人間が、自分の存在を誰かに伝えるために使った。名前を書けば危険になる。ならば、印だけを残す。その印を知っている人間だけが、そこに誰かがいたことを理解できる。

 

 長崎では、そんな方法が何代にもわたって受け継がれていた。

 

 孝は、そこで初めて、数字と印が別々のものではなかったことに気づいた。数字には、記録そのものを示すものと、保管場所や経路を示すものがある。印は、それを守る人間の合図だった。

 

 その中で「一番」は、京都へ移された記録を示す番号だった。

 

 原爆が投下された日に少年が探していた手帳も、その一番につながっている。ならば、木箱の中に入っていた手帳は、単なる資料ではない。最初の記録だった。

 

 そこには、長崎に暮らした人々の名前が、最も古い時代から記されている。

 

 その中に、現在まで残してはいけないと考える者がいる名前が含まれている。だからこそ、手帳は何度も移された。長崎から京都へ。京都から別の場所へ。そして再び長崎へ。何百年もの時間をかけて、人から人へ渡されてきた。

 

 その過程で、名前を守る人間と消そうとする人間が生まれた。川村がそこまで説明したところで、沙羅が写真を指した。写真に写っている人物の名前を、もう一度確認したいという。その名前を聞いたとき、川村の表情が変わった。

 

 どうやら、その人物について彼も知っているらしい。その女性は、戦前から長崎にいた。

 

 家系は古く、キリシタンの歴史ともつながっている。しかし、それだけではなかった。

 

 幕末、外国船が出入りするようになった長崎で、彼女の一族は外国人との交易に関わっていた。表向きには商売だった。

 

 けれど、その仕事を通して、海外へ渡る人間を密かに手助けしていた時期がある。宗教上の理由で身を隠す者もいれば、政治的な理由で追われる者もいた。長崎は外国との窓口だったからこそ、情報も人も入ってくる。

 

 それは豊かさをもたらす一方で、秘密を抱えた人間にとっても、逃げ道になった。その女性は、そうした人々の一人を助けた。その人物が残した記録を、一族が何代にもわたって守ることになった。

 

 だが、戦争が始まると状況が変わる。

 

 外国との関係を持つことそのものが疑われる時代になり、昔の記録は危険なものになった。そして昭和二十年。長崎が焼けた。その日、彼女の一族も大きな被害を受けた。彼女自身は生き残った。しかし、家族の何人かを失った。

 

 それでも彼女は、記録だけは手放さなかった。焼け跡から拾い上げた手帳を抱え、京都へ向かった。

 

 その途中で、孝の祖父と出会った。そして二人は、記録を分けて保管することを決めた。なぜ一つにまとめなかったのか。その理由は単純だった。一つの場所に集めれば、そこが見つかったときに全部失う。

 

 だから、記録は一つの場所に集めず、いくつかの保管場所へ分けられた。そこに付けられた番号が、一番、二番、三番、四番だったという。

 

 ただし、今回見つかった「四番」は、記録そのものを指す場合と、その記録が保管されていた場所を指す場合がある。九番や十二番、十七番も同じように、すべてが同じ種類の番号ではない。

 

 それが、長崎に残る謎を複雑にしていた。孝は、ここでようやく理解し始めた。

 

 自分たちが見つけた四番の場所が重要だったのは、一番から続く記録の一部が、そこに残されていたからだ。

 

 そして京都の木箱にあった一番とつながったことで、記録全体の意味が明らかになってしまった。だから手帳が奪われた。相手は、記録を消したいのではない。記録全体がつながることを阻止したいのだ。

 

 それなら、なぜ四人を殺そうとしないのか。なぜ遠くから誘導するだけなのか。

 

 その疑問を孝が口にすると、川村はしばらく黙っていた。

 

 やがて、古い石碑を見つめながら、過去にも同じことがあったのだと話した。

 

 記録を守る人間を直接消してしまえば、その人物の死そのものが新しい疑いを生む。だから、事故に見せかける。あるいは、本人が手放したように見せる。ときには、記録を持つ人間同士を疑わせる。

 

 そうすれば、記録は自然に散らばっていく。誰も全体を把握できなくなる。今回も、その方法が使われている可能性が高い。

 

 四人が長崎へ来たのも、偶然ではない。

 

 しかし、四人を長崎へ呼んだ人物が、そのまま記録を消そうとしている人物とは限らない。むしろ、別の人間が四人を利用している可能性がある。その話を聞いたとき、孝は川村を見た。では、川村自身も信用できないのではないか。

 

 長崎で最初から四人の行動を把握していたのは、川村だけではない。誰が味方で、誰が敵なのか。それを判断する材料は、ほとんど残っていない。川村は、その疑いを否定しなかった。

 

 むしろ、疑っていいというように、静かに四人を見た。長い時間を生きてきた人間にしか持てないような、疲れた目だった。

 

 そして、川村は自分が持っている最後の資料を見せた。それは、一枚の紙だった。古いものではない。数年前に書かれたものだった。紙の中央には、円の中に一点の印。その下に、現在の名前が三つ並んでいる。一つ目は、川村自身。

 

 二つ目は、孝の祖父。そして三つ目が、涼子だった。孝は、その名前を見たとき、息を止めた。

 

 涼子は何も知らない。祖父もそう書いていた。

 

 しかし、涼子の名前は何十年も前から記録を守る側の人間として残されている。その意味を考えているうちに、涼子自身があることに気づいた。自分の祖母が持っていた古い写真。そこに写っていた曾祖母の手には、木箱があった。

 

 その箱には「一番」の印。

 

 そして、写真の裏には「最後の人は、写真の中にはいない」と書かれていた。

 

 つまり、曾祖母は自分の後に誰かが記録を受け継ぐことを知っていた。その人物が、涼子だった。けれど、なぜ涼子なのか。家系を辿っても、それだけでは説明できない。孝の祖父の家系と、涼子の曾祖母の家系がつながっている。

 

 それだけなら、どちらか一方に記録を集めればいい。それなのに、二つの家に分けて残された。

 

 そこには、もっと重要な理由があるはずだった。川村が、紙の裏側を見せた。そこには小さな文字が残されている。

 

「一番は、二人で開く。」

 

 孝は、その一行を何度も読んだ。二人。それは、孝と涼子のことなのか。それとも、別の二人なのか。木箱の鍵が一つしかないことを考えれば、単純な意味ではない。そこで孝は、長崎で見つけた四番の鍵を思い出した。

 

 あの鍵には、番号が刻まれていた。四番の鍵。

 

 もし一番にも同じような鍵があるなら、それは京都の木箱を開けるためのものではないか。すでに木箱は開けられている。つまり、相手は一番の鍵を持っていた。だとすれば、あの人物は、どこかで一番の鍵を手に入れたことになる。

 

 そして、孝の頭の中に一つの場面が浮かんだ。

 

 長崎へ出発する前、京都で祖父の家を整理していたとき。祖父の古い机の引き出しを開けた。そこには何もなかった。いや。正確には、一つだけ残っていた。小さな金属製の輪だった。その輪には、鍵がついていた。

 

 当時は何の鍵なのかわからず、父に聞くこともしなかった。

 

 その鍵を、孝は自分の机の引き出しに入れたままにしていた。

 

 そして長崎へ来る直前、机を整理したときに、そこから鍵がなくなっていることに気づいた。そのときは、どこかへ置き忘れたと思っていた。しかし、今になって考えれば違う。

 

 誰かが京都の家に入ったとき、その鍵も一緒に持ち去ったのだ。

 

 つまり、相手は木箱の存在だけではなく、鍵の場所まで知っていた。祖父の家を知っている。家族の事情を知っている。そして、涼子の家にもつながっている。ここまで考えたところで、孝の中に一つの恐ろしい可能性が浮かんだ。

 

 相手は、外から来た人間ではない。

 

 この記録を何十年も追ってきた人間の子孫が、現在も身近な場所にいるのではないか。長崎で会った人物も、京都の人物も、その流れの中にいる。だとすれば、今回の出来事は突然始まったものではない。

 

 祖父の代から続いていたものが、孫の世代まで持ち越されただけなのだ。夕方、四人は長崎駅へ戻った。

 

 帰りの列車を待つあいだ、孝は一人でホームの端に立った。長崎の山が夕暮れの中に沈んでいる。

 

 この街は、何度も外から人を受け入れ、何度もその人々を送り出してきた。宗教も、文化も、言葉も、武器も、思想も、この港から入ってきた。そして、そのたびに街の中には、表に残らなかった物語が積み重なった。

 

 原爆で街が焼けたあとも、それらは完全には消えなかった。誰かが拾い、誰かに渡し、別の場所へ運んだ。

 

 その一つが京都だった。そして今、その記録をめぐって、再び人が動いている。孝は、長崎の空を見上げた。

 

 観光に来た四人の大学生が、ここまで深く歴史の中へ入り込むことになるとは思ってもいなかった。けれど、考えてみれば、自分たちは歴史を探しに来たのではない。

 

 ただ、写真を撮り、街を歩き、偶然一枚の写真を見つけただけだった。

 

 それなのに、写真の中に残された人々が、何十年も経った今になって、自分たちを次の場所へ導いている。それが怖いのか。それとも、知りたいのか。孝にはもう、その区別がつかなかった。列車がホームへ入ってきた。

 

 四人が乗り込む。座席に落ち着いたところで、涼子が窓の外を見た。

 

 長崎の街が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。そのとき、彼女のスマートフォンが震えた。画面には、見知らぬ番号から一枚の画像が届いていた。そこには、古い長崎の港が写っている。外国船が停泊し、岸には人が集まっている。

 

 幕末の頃に撮影された写真らしい。

 

 しかし、写真の中央に立つ一人の若い男だけが、こちらを向いている。その男の手には、一冊の小さな手帳があった。そして写真の裏側には、現在の文字でこう書かれていた。

 

「あなたの曾祖母は、この男から名前を受け取った。」

 

 涼子は、画面を孝へ向けた。孝は写真を見て、しばらく何も言わなかった。その若い男の顔には、どこか見覚えがある。涼子にも同じ感覚があった。ただし、それが誰なのかは、まだわからない。

 

 写真を拡大すると、男の胸元に小さな印が見えた。円の中に一点。そして、その印のすぐ下に、数字が刻まれている。

 

「零」

 

 孝は、その数字を見た瞬間、これまでのすべてがひっくり返るような感覚に襲われた。一番より前に、もう一つがあった。ゼロ。最初の記録。

 

 そして、そこに記された名前こそが、これまで追ってきた記録の奥に残されていたものだった。

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『  最後の仕事 』

 

第六章 モモちゃん

 

モデルが来る時間が近づいた。

 

旅館の玄関先に車が止まり、着物姿の女性が降りてきた。

 

裾が玄関の石をかすめる。

 

青い布が、木の色の中で一度だけ強く浮いた。

 

仲谷がカメラを持ち上げた。

 

その色を見たからだった。

 

一瞬、誰も声を出さなかった。

 

「どこ見てんねん」

 

黒田が言う。

 

「黒ちゃん、青のうなじ見てみなはれ」

 

「色っぽいなんちゅうもんやないで」

 

その声に、女性が振り返った。

 

その声に、仲谷の口元が緩んだ。

 

張りつめていた現場の空気が、ほんの少しだけほどける。

 

「モモちゃん!」

 

撮影仲間からモモちゃんと呼ばれた、桃谷恭子だった。

 

昔、何度も一緒に仕事をしたモデルだ。

 

モデルを辞めたあと、祇園の近くで着物の店を始めた。

 

「久しぶりやな」

 

黒田が下から上に目線を上げた。

 

「あんたら、歳取ったな。うち観てみいな」

 

「それは着物の力や」

 

「まぁ、そやけどな」

 

モモちゃんは笑いながら、今日の着物も自分の店の商品だと説明した。

 

「当たり前や。撮影で使った商品は、ちゃんと宣伝する」

 

モモちゃんは森川を見る。

 

昔と同じように、次に何を求められているのかを表情から読み取ろうとする。

 

「森川さんも変わらんな」

 

「そない言われたら、昔からふけとったみたいやんか。かなわんなぁ」

 

その笑顔を見て、仲谷はカメラを持ち直した。

 

「モモちゃん」

 

モモちゃんが森川を見る。

 

「もう撮るん?」

 

「まず光を見るだけや」

 

黒田がハレパネを持ち上げる。

 

モモちゃんの顔へ返る光は、まだ弱い。

 

その間に仲谷がカメラを構え、二人が決めた位置を待った。

 

「モモちゃんの目を光らしてや」

 

「まかしときいな。キラッとさせたらええんやろ。谷ヤンの十八番やな」

 

黒田が手鏡サイズのアルミ箔を手で少し動かす。

 

モモちゃんの目に、小さな光が入った。

 

「うち、それ嫌いやねん。めちゃまぶしいんやさかい」

 

言葉とは裏腹に、モモちゃんの顔はちょっと笑っている。

 

仲谷が画を確認する。

 

人物と背景の位置が、次のカットへつながっている。

 

森川はモニターで、表情の変化を追った。

 

仲谷が録画を始める。

 

カメラを回すと、モモちゃんの表情が少しずつ柔らかくなった。

 

数秒。

 

「止めて」

 

仲谷が録画を止める。

 

午前の撮影は進み、川沿いから旅館の玄関へ場所を移した。

 

玄関前でモモちゃんの立つ位置が決まった。

 

着物は、彼女の店の商品だった。

 

深い青の布が、光を受けると表面だけ静かに明るくなる。

 

黒田がそれを見て言った。

 

「これ、ええ色やな」

 

モモちゃんが袖を整える。

 

「この着物、若い子にも着てもらいたいんよ。写真撮るときに借りる子が増えてきたから」

 

仲谷がカメラを構える。

 

「ほんなら今日の画、宣伝にもなる」

 

森川はモニターを見ながら、着物の色だけでなく、その中にいるモモちゃんの表情まで残せる位置を探した。

 

「モモちゃん、もう少しだけ川の方を見て」

 

黒田が反射板の角度を少し変える。

 

目に光が入れば、川沿いの強い明るさの中でも顔が沈まない。

 

「黒ちゃん、頼むわ」

 

黒田が狙いを定める。

 

モモちゃんの目に、小さな光が入る。

 

仲谷は録画を続けた。

 

森川も、すぐには止めなかった。

 

着物の青。

 

木の色。

 

川の光。

 

三つが画の中で重なっていた。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第二章

 

佐伯の会社は、駅から十分ほど歩いたところにある雑居ビルの四階に入っていた。

 

一階に入っている居酒屋の生ゴミの匂いと、雨で湿ったコンクリートの匂いが混ざり合う階段を上がっていく。エレベーターの扉が開くと、外の雑踏とは完全に切り離された無機質な空間が広がっていた。

 

受付には、壁一面を覆うような大きな液晶モニターが置かれている。 白い背景の前に、七十代くらいの男が映っていた。

 

髪は短く、薄い。少し歪んだフレームの眼鏡をかけ、カメラの少し右側を見つめている。男の首元にある小さなホクロまで、肉眼でもはっきり分かった。

 

男が、ふっと口元を緩めて笑った。 「久しぶりだね」

 

スピーカーから流れてきたのは、少し掠れた、聞き覚えのある低音だった。私は思わず足を止めた。

 

「誰?」 「社内テスト」 佐伯は振り返りもせず、鍵を解脳しながらそう言った。 「だから、誰だよ」 「死んだ人」

 

佐伯の声には、何の感情も籠もっていなかった。あまりにも普通の口調だったので、それが冗談なのか本気なのか、一瞬判断がつかなかった。

 

通された会議室は、ブラインドが下ろされ、薄暗かった。中央の長いテーブルの上には、無数の写真が整然と並べられている。

 

家族写真。 結婚式。 小学校の運動会。 白いシーツの敷かれた病室。 老人と、その膝に抱かれた孫。 制服の第一ボタンを外した少年。

 

どれもフチが少し黄ばんでいたり、角が折れていたりと、時間の経過を物語っていた。どの写真の表面にも、かつて確かにそこに存在していたはずの「光」の切り欠きだけが残っていた。

 

「Phantasmaは、写真と動画と音声、それから文章を使う」 佐伯が黒いハイスペックPCのキーボードを叩くと、モニターのGUI画面がいくつも立ち上がった。

 

「本人の癖を学習させるんだ。声の高さ、間の取り方、よく使う接続詞、呼吸のタイミング、笑うときに右の眉が少し上がる癖。それらのパラメータを統合して、その人間『らしい』リアルタイムの反応を生成する」

 

「……本人じゃない」 「もちろん」 「じゃあ何なんだ、これは」

 

佐伯は手を止め、少し考えてから答えた。 「本人について、残された人間が期待しているものの集合体」

 

私は笑えなかった。部屋の中には、PCの冷却ファンが回る微かな重低音だけが響いていた。

 

「それは、本人じゃないだろ」 「だから最初から言ってるだろ」 佐伯は事務用の回転椅子に深く腰掛け、両手を組んだ。 「本人を作ってるんじゃないんだ。残された人間が、もう一度会いたいと切望している『概念』を作るんだよ」

 

モニターの中で、さっきの老人がゆっくりと瞬きをした。レンズに反射する部屋の明かりまでが完璧に計算されていた。

 

「会いたい人、いるだろ」

 

佐伯の目が、暗闇の中で鋭く光っていた。断ろうと思った。そんな不気味なものに自分の記憶を差し出すべきではないと、頭のどこかで警告音が鳴っていた。けれど、喉の奥から、勝手にその名前が押し出された。

 

「あかね」

 

自分の口から出た声が、思ったより小さく、かすれていた。 佐伯は何も言わなかった。ただ、深く一度だけ頷いた。

 

翌週から、私はあかねに関するあらゆるデータを佐伯に渡し始めた。

 

大学時代に書いた短編小説のプリントアウト。 未完成のまま放置された戯曲のノート。 あかねからガラケーに届いていた短いメールの転送。 大学時代の日記。 アルバムの隅に載っていた小さな写真。 部室のテープに偶然残っていた彼女の笑い声。 そして、私があかねについて何年もかけて書いていた、未発表の私小説。

 

今思えば、その最後のデータが一番膨大だった。私はあかねを覚えているつもりで、その実、何年もかけて自分に都合のいいようにあかねという存在を書き直していたのだ。それを私は当時、「記憶」と呼んでいた。

 

完成したモデルを見せてもらった日、私は会議室のドアの前で、しばらくノブに手をかけたまま立ち尽くしていた。心臓が胸骨を裏側から叩くような音が聞こえていた。

 

ドアを開けると、画面の中に女がいた。

 

肩までの黒髪。 少しシワの寄った白いシャツ。 話しかけられると、少しだけ目を細めて相手を見る癖。

 

大学の写真に写っていた本物のあかねよりも、私が小説の中で描写した「あかね」の姿に、驚くほど近かった。

 

「久しぶり」

 

スピーカーから溢れた声は、私の記憶の底にあった彼女の声の輪郭と完璧に重なった。

 

「……あかね」 「なに?」

 

首を傾げる角度、唇の開き方。返事があまりにも自然すぎて、私は息を吐くのを忘れていた。 吸い寄せられるように、モニターの前の椅子に座った。

 

「煙草、吸う?」 彼女は少し考えるように目を伏せた。長い睫毛が影を作る。 「あまり吸わないよ」 「昔は吸ってただろ」 「そうだっけ」 「吸ってた。雨の日に、アパートの窓際で」 「桐生くんが、そう覚えてるなら」

 

彼女は柔らかく微笑んだ。 私は笑った。佐伯も横で満足そうに笑った。

 

そのときは、その会話のどこがおかしいのか、何も気づいていなかった。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第一章

 

三島先生の葬式の日、あいにく雨が降っていた。

 

六月の雨は、春の終わりに残された何もかもを片端から濡らしていく。また、しとしとと続く雨が、重く湿った降り方をしている。梅雨という季節のせいにしてしまえばそれまでなのだが、その日は朝から雨雲が異常なほど低く垂れ込め、寺へ向かう電車の窓から見える街並みも、いつもより遠く、おぼろげに沈んでいた。

 

濡れたアスファルトに反射する信号の赤、ビニール傘をすぼめて歩く人々の背中、ビルの看板のくすんだ色。そのすべてが、厚い膜を一枚隔てた向こう側にあるように見えた。

 

寺の湿った門をくぐるころには、革靴の爪先からじわじわと水が染み込み、足の指先まで冷たくなっていた。

 

受付で記帳を済ませ、香典返しの薄い紙袋を片手に持ちながら、私は軒下で折りたたみ傘をたたんだ。傘の骨から滴り落ちる水滴が、黒ずんだ石畳の上に小さな波紋の円を幾重にも広げては消えていく。

 

その規則的な音に耳を澄ませていたときだった。 受付の奥、焼香の煙が薄く漂う廊下の薄暗がりに、佐伯が立っていた。

 

視線が交差した。

 

佐伯は一瞬、眩しいものを見るように目を細め、「誰だ」という顔をした。それから昔、大学の部室でよくやっていたように、顎を少し引きながら首を右へ傾けた。

 

「久しぶりだな」 「……久しぶり」

 

十七年ぶりだった。 互いの目元や頬の弛みに容赦ない歳月が刻まれているのを感じたが、その声の掠れ具合を聞いた瞬間、私の頭の中に大学の古い演劇部の部室の光景が唐突に浮かび上がった。

 

窓の立てつけが悪く、強い風が吹くたびに「カタカタ」と錆びたガラスが鳴っていたあの部屋だ。佐伯はいつもそこで、誰かが差し入れたパイプ椅子に深々と腰掛け、煙草を吸っていた。三島先生に見つかると怒鳴りつけられるのを知っていながら、窓をほんの数センチだけ開け、何食わぬ顔で紫煙を吐き出していたのだ。

 

三島先生は煙草の匂いをひどく嫌っていた。 正確には、煙草の匂いそのものというより、煙草を指に挟み、いかにも芸術家気取りで芝居や人生について語り合う青臭い学生を嫌っていたのだと思う。

 

学生が何かもっともらしく青臭い論理を展開すると、先生は決まって、 「既成概念を捨てろ」 と怒鳴った。

 

それは演出の解釈についての指導だったのかもしれないし、役者の身体論の話だったのかもしれない。あるいは単に、その日の胃の調子や機嫌が悪かっただけなのかもしれない。先生はその言葉を、あらゆる問いを突っぱねる万能の鍵のように使っていた。

 

私はその言葉の乱暴さに苦笑しながら、長いあいだそれを一種の冗談のようなものだと思っていたのだ。

 

「先生、最後まで先生だったよ」 佐伯が濡れた手すりに肘をかけ、低い声で言った。 「何かあったのか?」 「葬儀屋のスタッフに文句を言ってたらしい」 「……先生が?」 「棺に入る直前までな。祭壇の花の種類が違うって。自分が指示した菊の色じゃないって怒鳴ってたそうだ」

 

私は思わず、小さく息を漏らして笑った。 三島先生なら、やりかねない。

 

棺の中に横たわり、蓋を閉められてしまえば、もう自分の言葉で世界を否定することもできなくなる。その「沈黙」を強いられることを、先生自身が一番恐れ、嫌がっていたのではないかと、妙な考えが頭をよぎった。

 

本堂の奥から、読経の低い声が始まっていた。 何人もの僧侶が唱える読経の重層的な響きは、屋根の瓦を激しく叩く雨の音と混ざり合い、本堂内の湿った空気を振動させていた。

 

私は静かに目を閉じた。けれど、棺の中に横たわっているはずの先生の顔は、どうしても浮かんでこなかった。

 

代わりに浮かんだのは、大学の薄暗い廊下を、少し猫背になって歩いていく先生の後ろ姿だった。右手にはいつも、赤ペンでびっしり修正が書き込まれた束の原稿用紙を持っていた。そして廊下で誰か学生を見つけると、その場にぴたりと立ち止まり、鋭い眼光で言い放つのだ。

 

――既成概念を捨てろ。

 

それが先生の破滅的な生き方そのものだったのか、それともただのポーズだったのか、今となっては確かめる術もない。

 

葬儀がすべて終わり、焼香の煙が薄れると、佐伯は境内の端にある雨の当たらない軒下に移動し、ポケットから慣れた手つきで煙草を取り出して火をつけた。ライターの小さな火花が、雨の暗がりの中で一瞬だけ橙色に爆ぜた。

 

「吸うか?」 佐伯が箱を差し出してきた。 「やめたよ」 「いつからだ?」 「恵子と結婚してからだ。もう随分前になる」 「へえ」

 

佐伯はそれ以上深追いせず、火のついた煙草を指先で挟んだまま、雨の煙る境内の木々を眺めていた。

 

風に乗って、湿った煙草の匂いがふわっと私の鼻腔をくすぐった。 その独特の焦げ臭い匂いを嗅いだ瞬間、私の頭の中に、あかねの顔が突如として蘇った。

 

なぜ、その瞬間だったのかは分からない。 人間の記憶というものは、そういうふうにできている。本当に大切な日だからと思い出すのではない。日常のどうでもいい匂いや、肌を掠めた湿気、光の角度といったものに触れた瞬間、何年も鍵をかけて閉ざしていた場所の扉が、勝手に開いてしまうことがあるのだ。

 

あかねも煙草を吸っていた。 ……私は、確かにそう覚えていた。 十二年前に、私の前から突然姿を消した女のことだった。

 

「桐生」 佐伯が煙を吐き出しながら、低く呼びかけてきた。 「ん?」 「先生の生前の研究について、何か知ってたか?」 「研究……? 戯曲の分析か?」 「いや。『死んだ人間の映像をインタラクティブに再現する』研究だ」

 

私は佐伯の横顔を見つめた。雨の音が、急に大きくなったような気がした。

 

「……何だ、それ」 「お前なら、間違いなく興味を持つと思う」 「俺はもう、脚本も小説も書いてないよ」 「知ってるさ」 佐伯は人差し指で煙草の灰をトントンと落とした。 「だから言ってるんだ」 「どういう理屈だよ」 「映画を諦めた奴が、最後に『映画みたいなもの』を作るんだよ」 「映画みたいなもの?」 「本物の映画より、ずっと厄介で毒のある代物だ」

 

佐伯は胸ポケットから、マットブラックのシンプルな名刺を取り出し、私に差し出した。 表には会社名と、英字で一つだけ名前が刷られていた。

 

『PHANTASMA』

 

聞いたこともない会社だった。

 

「来週、オフィスに来いよ。面白いものを見せてやる」 「……何の会社だ?」 佐伯は吸い殻を携帯灰皿に押し込み、傘を開いた。 「人間を作る会社さ」

 

その言葉だけが、雨の降る境内に、妙に鮮明で冷たい残響となって残った。