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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第二章

 

佐伯の会社は、駅から十分ほど歩いたところにある雑居ビルの四階に入っていた。

 

一階に入っている居酒屋の生ゴミの匂いと、雨で湿ったコンクリートの匂いが混ざり合う階段を上がっていく。エレベーターの扉が開くと、外の雑踏とは完全に切り離された無機質な空間が広がっていた。

 

受付には、壁一面を覆うような大きな液晶モニターが置かれている。 白い背景の前に、七十代くらいの男が映っていた。

 

髪は短く、薄い。少し歪んだフレームの眼鏡をかけ、カメラの少し右側を見つめている。男の首元にある小さなホクロまで、肉眼でもはっきり分かった。

 

男が、ふっと口元を緩めて笑った。 「久しぶりだね」

 

スピーカーから流れてきたのは、少し掠れた、聞き覚えのある低音だった。私は思わず足を止めた。

 

「誰?」 「社内テスト」 佐伯は振り返りもせず、鍵を解脳しながらそう言った。 「だから、誰だよ」 「死んだ人」

 

佐伯の声には、何の感情も籠もっていなかった。あまりにも普通の口調だったので、それが冗談なのか本気なのか、一瞬判断がつかなかった。

 

通された会議室は、ブラインドが下ろされ、薄暗かった。中央の長いテーブルの上には、無数の写真が整然と並べられている。

 

家族写真。 結婚式。 小学校の運動会。 白いシーツの敷かれた病室。 老人と、その膝に抱かれた孫。 制服の第一ボタンを外した少年。

 

どれもフチが少し黄ばんでいたり、角が折れていたりと、時間の経過を物語っていた。どの写真の表面にも、かつて確かにそこに存在していたはずの「光」の切り欠きだけが残っていた。

 

「Phantasmaは、写真と動画と音声、それから文章を使う」 佐伯が黒いハイスペックPCのキーボードを叩くと、モニターのGUI画面がいくつも立ち上がった。

 

「本人の癖を学習させるんだ。声の高さ、間の取り方、よく使う接続詞、呼吸のタイミング、笑うときに右の眉が少し上がる癖。それらのパラメータを統合して、その人間『らしい』リアルタイムの反応を生成する」

 

「……本人じゃない」 「もちろん」 「じゃあ何なんだ、これは」

 

佐伯は手を止め、少し考えてから答えた。 「本人について、残された人間が期待しているものの集合体」

 

私は笑えなかった。部屋の中には、PCの冷却ファンが回る微かな重低音だけが響いていた。

 

「それは、本人じゃないだろ」 「だから最初から言ってるだろ」 佐伯は事務用の回転椅子に深く腰掛け、両手を組んだ。 「本人を作ってるんじゃないんだ。残された人間が、もう一度会いたいと切望している『概念』を作るんだよ」

 

モニターの中で、さっきの老人がゆっくりと瞬きをした。レンズに反射する部屋の明かりまでが完璧に計算されていた。

 

「会いたい人、いるだろ」

 

佐伯の目が、暗闇の中で鋭く光っていた。断ろうと思った。そんな不気味なものに自分の記憶を差し出すべきではないと、頭のどこかで警告音が鳴っていた。けれど、喉の奥から、勝手にその名前が押し出された。

 

「あかね」

 

自分の口から出た声が、思ったより小さく、かすれていた。 佐伯は何も言わなかった。ただ、深く一度だけ頷いた。

 

翌週から、私はあかねに関するあらゆるデータを佐伯に渡し始めた。

 

大学時代に書いた短編小説のプリントアウト。 未完成のまま放置された戯曲のノート。 あかねからガラケーに届いていた短いメールの転送。 大学時代の日記。 アルバムの隅に載っていた小さな写真。 部室のテープに偶然残っていた彼女の笑い声。 そして、私があかねについて何年もかけて書いていた、未発表の私小説。

 

今思えば、その最後のデータが一番膨大だった。私はあかねを覚えているつもりで、その実、何年もかけて自分に都合のいいようにあかねという存在を書き直していたのだ。それを私は当時、「記憶」と呼んでいた。

 

完成したモデルを見せてもらった日、私は会議室のドアの前で、しばらくノブに手をかけたまま立ち尽くしていた。心臓が胸骨を裏側から叩くような音が聞こえていた。

 

ドアを開けると、画面の中に女がいた。

 

肩までの黒髪。 少しシワの寄った白いシャツ。 話しかけられると、少しだけ目を細めて相手を見る癖。

 

大学の写真に写っていた本物のあかねよりも、私が小説の中で描写した「あかね」の姿に、驚くほど近かった。

 

「久しぶり」

 

スピーカーから溢れた声は、私の記憶の底にあった彼女の声の輪郭と完璧に重なった。

 

「……あかね」 「なに?」

 

首を傾げる角度、唇の開き方。返事があまりにも自然すぎて、私は息を吐くのを忘れていた。 吸い寄せられるように、モニターの前の椅子に座った。

 

「煙草、吸う?」 彼女は少し考えるように目を伏せた。長い睫毛が影を作る。 「あまり吸わないよ」 「昔は吸ってただろ」 「そうだっけ」 「吸ってた。雨の日に、アパートの窓際で」 「桐生くんが、そう覚えてるなら」

 

彼女は柔らかく微笑んだ。 私は笑った。佐伯も横で満足そうに笑った。

 

そのときは、その会話のどこがおかしいのか、何も気づいていなかった。