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『 花びらの積もる道 』

 

第十二章 空いた店

 

 翌朝、順子が目を覚ますと、窓辺に置いた黄色い花へ日が当たっていた。

 

 洋子は、水をあげすぎないようにと言った。

 

 順子は土へ指を触れ、まだ湿っていることを確かめた。

 

 何もしないでおくことにも、加減がいる。

 

 寝室には、口を開けた段ボール箱が三つ並んでいた。

 

 残すもの、手放すもの、まだ決められないもの。

 

 昨夜は三つに分けた。以前なら、三つ目の箱ばかりがいっぱいになっただろう。

 

 順子は亨から受け取った手紙を鞄から出した。

 

 封を切ったのは、京橋から戻った夜だった。ひととおり読んだだけで、折り目を元に戻している。

 

 読み返すつもりはなかった。

 

 それでも捨てなかったのだから、いつか読むつもりだったのだろう。

 

 順子は手紙を食卓へ置き、湯を沸かした。

 

 千穂から電話がかかってきたのは、コーヒーを淹れた直後だった。

 

「昨日、ちゃんと帰った?」

 

「帰ったわよ」

 

「箱は開けた?」

 

「三つ」

 

「急に働くわね」

 

「あなたに言われたくないわ」

 

 千穂が少し笑った。

 

 以前と同じようで、以前とは違う笑い方だった。

 

「今日から、仕事に戻るのね」

 

「うん」

 

「大丈夫?」

 

「大丈夫かどうかは、戻ってみんと分からん」

 

「昨日も、同じことを言っていたわね」

 

「だから、間違えたら直す」

 

「それで疲れない?」

 

「前より確認は増えると思う」

 

「悪いことではないでしょう」

 

「お母さんまで上司みたいなことを言わないで」

 

 順子はコーヒーへ口をつけた。

 

「千穂、昨日のことなんだけど」

 

「何?」

 

「あのあと、洋子さんの店へ寄ったの」

 

 電話の向こうが静かになった。

 

「どうして?」

 

「顔を見ておきたかったのよ」

 

「何か話した?」

 

「私たちのことは、何も」

 

「そう」

 

「花を買ったわ」

 

「どんな花?」

 

「黄色い花」

 

 千穂は、それ以上すぐには尋ねなかった。

 

「黙っていられた?」

 

「ええ」

 

「苦しくなかった?」

 

 順子は窓辺の花を見た。

 

「苦しかったわ」

 

「それでも、話さなかったんだ」

 

「話さないと決めたから」

 

 自分で口にしてみると、立派な決意のように聞こえた。

 

 実際には、洋子の前で何度も言葉を飲み込んだ。少し油断すれば、亨という名前が口から出そうな気がした。

 

「正しかったと思う?」

 

「分からない」

 

「お母さんでも、分からないんだ」

 

「分からないことくらいあるわよ」

 

「前は、あまりそう言わなかったね」

 

 順子は返事をしなかった。

 

 千穂も答えを求めなかった。

 

「花の名前は?」

 

「聞くのを忘れたわ」

 

「花を買って、名前を聞かなかったの?」

 

「育て方は聞いたから大丈夫よ」

 

「写真を送って。調べるから」

 

「枯らす前に?」

 

「水をやりすぎなければ大丈夫」

 

「どうして、あなたまで同じことを言うの」

 

「花は大抵、水のやりすぎで駄目になるから」

 

 順子は、そう、と答えた。

 

 同じ言葉でも、誰が言ったかによって残り方が違う。

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「洋子さんに会ったことを、話してくれてありがとう」

 

「隠すことではないでしょう」

 

「うん」

 

 千穂は短く答えた。

 

 順子には、その一言で十分だった。

 

 電話を切ったあと、食卓の手紙を開いた。

 

 亨の字は、大学時代より小さくなっている。線も細い。だが、ところどころ右上がりになる癖は変わらなかった。

 

〈あのとき、僕は自分の怖さを、あなたのためだと言い換えました〉

 

〈決めることをあなたに押しつけながら、決まったあとは、二人で決めたことのように振る舞いました〉

 

 順子はそこで手を止めた。

 

 亨は、言い訳を書いていなかった。

 

 若かったことも、怖かったことも、それだけなら言い訳になったはずだ。それを自分の卑怯さとして書いている。

 

 だからといって、順子の記憶が軽くなるわけではない。

 

 書かれた言葉が正しければ、起きたことまで正しくなるわけでもなかった。

 

 順子は手紙の先を読んだ。

 

〈あなたが許さないと言ったことを、そのまま受け取ります〉

 

〈許されないまま覚えておくことが、僕に残されたことだと思っています〉

 

 京橋で、順子は許さないと言った。

 

 いまも、その言葉を取り消すつもりはない。

 

 許さないという言葉は、亨を縛るためだけに口にしたのではなかった。許したふりをして自分を急がせないためでもある。

 

〈あなたの人生が、あの日より先へ続いていたことを、いまの僕は知っています〉

 

 手紙は、その一文で終わっていた。

 

 順子の人生は続いていた。

 

 東京へ行き、結婚し、千穂を産み、店を持った。夫を亡くしたあとも七年働き、店を閉じて津山へ戻った。

 

 あの日だけを抱えて生きてきたわけではない。

 

 だが、あの日を置いてきたわけでもなかった。

 

 続いてきた時間のなかに、どちらもある。

 

 亨の人生も、同じように続いてきたのだろう。

 

 洋子と暮らし、息子を育て、その息子はいま神戸で働いている。

 

 順子の知らない年月が、亨にもあった。

 

 順子は、その年月まで自分の記憶の中へ引き寄せたくはなかった。

 

 手紙を元の封筒へ戻し、大学時代のものとは別の小箱へ入れた。

 

 蓋はしなかった。

 

 午後、順子は商店街へ出た。

 

 買うものがあったわけではない。

 

 ただ、部屋にいると、洋子が花を包む姿ばかり思い出された。

 

 洋子は花の色を選び、日当たりを尋ね、水のやり方を教えた。話をしながらも、薄い紙を重ね、包み紙の端をきちんと折っていた。

 

 あれは、ただ手順を覚えている人の手つきではなかった。

 

 花が順子の部屋へ運ばれたあとまで考えている。

 

 順子は、洋子の働く姿をきれいだと思った。

 

 花が似合うからではない。

 

 目の前にいる人のために手を動かしている。そのことが、きれいだった。

 

 東京で店をしていたころの自分を思い出した。

 

 客の顔を見て、似合う服を選ぶ。迷っている人には別の色を出し、買わずに帰る人にも、またどうぞと言う。

 

 夫が亡くなったあとも、順子は七年間、店を開けた。

 

 あのころは、暮らすために続けていると思っていた。閉めてみて初めて、店に立つことで暮らしていたのだと分かった。

 

 洋子は、店を始めろとは言わなかった。

 

 何かを勧めたわけでもない。

 

 ただ、花屋で働いていた。

 

 その姿を見たあとでは、段ボール箱を片づけるだけで、自分のこれまでが片づくとは思えなくなっていた。

 

 以前ブティックだった店の前で、順子は足を止めた。

 

 閉店してから長く、ガラス戸には内側から紙が貼られていた。数日前、その紙が外され、中が見えるようになっている。

 

 空いた店内には、壁際の棚が二つ残っていた。床には、什器を置いていた跡が薄く四角くついている。

 

 順子が見ていると、隣の履物店から店主が出てきた。

 

「借り手を探しとるんですよ」

 

「ここ、空いたんですか」

 

「先月でな。若い人が何かしてくれたらええんじゃけど」

 

「若くない人では駄目なの?」

 

 店主は順子の顔を見た。

 

「何かするんですか」

 

「まだ、何も」

 

「何もせん人は、そんな顔で中を見ませんよ」

 

「どんな顔をしていたのかしら」

 

「家賃を聞こうかどうしようか、考えとる顔です」

 

 順子は笑った。

 

「おいくら?」

 

「ほら、聞いた」

 

 店主は履物店へ戻り、帳面を持ってきた。

 

 家賃は、東京で借りていた店の五分の一にも満たなかった。広さは三分の一ほどである。

 

「何を置くんです?」

 

「まだ決めていないの」

 

「服ですか」

 

「もう、仕入れて売る店はしないわ」

 

 言ってから、順子は自分がすでに一つ決めていたことに気づいた。

 

 以前と同じ店にはしない。

 

 それだけは決まっている。

 

「中、見ますか」

 

 店主が鍵を取りに戻った。

 

 順子はガラス越しに空いた店を見た。

 

 店を持てば、昔の自分へ戻れるわけではない。

 

 戻りたいとも思わなかった。

 

 それでも、誰かの前に立ち、手を動かし、その人のために何かを選ぶ時間を、もう一度持ってみたいと思った。

 

 店主が鍵を持って戻り、ガラス戸を開けた。

 

 閉め切っていた匂いが外へ流れた。

 

「電気は来とります。水道は奥。便所は共同です」

 

 順子は中へ入った。

 

 表から見るより狭い。

 

 それでも、奥まで歩くと、壁一面に布を掛けられることが分かった。棚には小物を置ける。窓辺なら、鉢植えも一つ置けそうだった。

 

「すぐには決めませんよ」

 

「もちろん」

 

「娘にも相談します」

 

「そうしてください」

 

 店主は急がせなかった。

 

 順子は店の中央に立った。

 

 東京の店を再現するつもりはない。

 

 昔の自分へ戻るつもりもなかった。

 

 戻らずにできることがあるかもしれない。

 

「一週間、待ってもらえますか」

 

「その間に若い人が来たら、そちらを優先してもええですか」

 

「ええ」

 

「冗談ですよ。ずっと空いとりますから」

 

「商売が上手なのか、下手なのか分からないわね」

 

「貸す方も、相手を見ますから」

 

 順子はもう一度、店の中を見回した。

 

 何を置くかは決まっていない。

 

 誰を呼ぶかも、まだ分からない。

 

 ただ、何もない場所には、何かを置く余地がある。

 

 それは、空っぽであることとは少し違った。

 

 帰り道、千穂へ電話をかけた。

 

「いま、話せる?」

 

「大丈夫。どうしたの」

 

「商店街に空いている店があるの」

 

「店?」

 

「小さいけれど」

 

「借りるの?」

 

「まだ決めていないわ」

 

「何をするの?」

 

「それも、まだ」

 

 電話の向こうで、千穂が黙った。

 

「止めないの?」

 

 順子が尋ねると、千穂は息をついた。

 

「止めてほしいの?」

 

「そういうわけではないけど」

 

「なら、自分で決めたら」

 

 少し前までの千穂なら、家賃や契約期間や採算を先に尋ねただろう。

 

「ただし、契約書は私にも見せて」

 

「やっぱり、そこは確認するのね」

 

「確認して困ることはないでしょう」

 

「それはそうね」

 

「決める前に見せて」

 

「分かったわ」

 

「お母さん」

 

「何?」

 

「何をするか決まったら、一番に教えて」

 

「決まればね」

 

 電話を切り、順子は家へ戻った。

 

 窓辺の黄色い花は、朝と同じ場所にある。

 

 土はまだ湿っていた。

 

 順子は水をやらなかった。

 

 何もしないまま、しばらく花を見ていた。