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『 長崎 名前のない写真 』
第十九章 長崎から京都へ
京都の家に残してきた手帳がなくなった。その事実は、孝の胸に妙な重さを残した。
手帳そのものが持ち去られたことよりも、その写真が、いま自分たちが立っている長崎で撮られたものだったことのほうが気にかかる。京都の地下に誰かが入り、木箱を開け、その中から手帳を取り出した。
その一部始終を撮影した写真が、長崎にいる自分たちのところへ送られてきたのである。
相手は、こちらの動きを知っている。こちらが長崎へ戻ったことも、その場所まで把握している。
ならば、四人がここで何を見つけようとしているのかも、すでに知られているのだろう。孝はスマートフォンを握ったまま、写真を何度も拡大した。地下室の壁。木箱。開いた蓋。手帳が置かれていた場所。
そして、写真の端に写る手。そこまで拡大すると、指の一本に細い傷があるのが見えた。どこかで見た傷だった。
それが誰のものなのか、すぐには思い出せない。けれど、記憶の底には引っかかっている。長崎へ来てから会った人物の中に、同じ場所に傷のある人間がいた。孝は、自分の記憶を順番に辿った。駅。古い家。眼鏡橋。墓地。資料館。
川村。そして、四人を何度か助けてくれた人物。その人の手を、孝は以前にも見ている。
写真を撮ったときだった。
古い資料を一緒に確認していたとき、その人物が紙を押さえた手に、細い傷があった。その瞬間、孝の中で何かがつながった。しかし、まだ確信にはならない。人の手に傷があることなど珍しくない。偶然かもしれない。
それでも、疑い始めてしまった以上、以前と同じようには見られなくなっていた。川村は、四人の様子を見ながら、写真を受け取った。
長いあいだ何も言わずに眺めていたが、やがて石碑の前にしゃがみ込み、表面に残された古い傷を指でなぞった。そこには、円の中に一点という印が刻まれている。川村は、その印について知っていた。これは組織の印ではない。
まして、特定の宗教や政治的な集団を示すものでもないという。
長崎で暮らしていた人々が、ある記録を受け渡すときに使った、いわば合図のようなものだった。誰が最初に使い始めたのかはわからない。
ただ、迫害や戦争によって名前を残せなくなった人間が、自分の存在を誰かに伝えるために使った。名前を書けば危険になる。ならば、印だけを残す。その印を知っている人間だけが、そこに誰かがいたことを理解できる。
長崎では、そんな方法が何代にもわたって受け継がれていた。
孝は、そこで初めて、数字と印が別々のものではなかったことに気づいた。数字には、記録そのものを示すものと、保管場所や経路を示すものがある。印は、それを守る人間の合図だった。
その中で「一番」は、京都へ移された記録を示す番号だった。
原爆が投下された日に少年が探していた手帳も、その一番につながっている。ならば、木箱の中に入っていた手帳は、単なる資料ではない。最初の記録だった。
そこには、長崎に暮らした人々の名前が、最も古い時代から記されている。
その中に、現在まで残してはいけないと考える者がいる名前が含まれている。だからこそ、手帳は何度も移された。長崎から京都へ。京都から別の場所へ。そして再び長崎へ。何百年もの時間をかけて、人から人へ渡されてきた。
その過程で、名前を守る人間と消そうとする人間が生まれた。川村がそこまで説明したところで、沙羅が写真を指した。写真に写っている人物の名前を、もう一度確認したいという。その名前を聞いたとき、川村の表情が変わった。
どうやら、その人物について彼も知っているらしい。その女性は、戦前から長崎にいた。
家系は古く、キリシタンの歴史ともつながっている。しかし、それだけではなかった。
幕末、外国船が出入りするようになった長崎で、彼女の一族は外国人との交易に関わっていた。表向きには商売だった。
けれど、その仕事を通して、海外へ渡る人間を密かに手助けしていた時期がある。宗教上の理由で身を隠す者もいれば、政治的な理由で追われる者もいた。長崎は外国との窓口だったからこそ、情報も人も入ってくる。
それは豊かさをもたらす一方で、秘密を抱えた人間にとっても、逃げ道になった。その女性は、そうした人々の一人を助けた。その人物が残した記録を、一族が何代にもわたって守ることになった。
だが、戦争が始まると状況が変わる。
外国との関係を持つことそのものが疑われる時代になり、昔の記録は危険なものになった。そして昭和二十年。長崎が焼けた。その日、彼女の一族も大きな被害を受けた。彼女自身は生き残った。しかし、家族の何人かを失った。
それでも彼女は、記録だけは手放さなかった。焼け跡から拾い上げた手帳を抱え、京都へ向かった。
その途中で、孝の祖父と出会った。そして二人は、記録を分けて保管することを決めた。なぜ一つにまとめなかったのか。その理由は単純だった。一つの場所に集めれば、そこが見つかったときに全部失う。
だから、記録は一つの場所に集めず、いくつかの保管場所へ分けられた。そこに付けられた番号が、一番、二番、三番、四番だったという。
ただし、今回見つかった「四番」は、記録そのものを指す場合と、その記録が保管されていた場所を指す場合がある。九番や十二番、十七番も同じように、すべてが同じ種類の番号ではない。
それが、長崎に残る謎を複雑にしていた。孝は、ここでようやく理解し始めた。
自分たちが見つけた四番の場所が重要だったのは、一番から続く記録の一部が、そこに残されていたからだ。
そして京都の木箱にあった一番とつながったことで、記録全体の意味が明らかになってしまった。だから手帳が奪われた。相手は、記録を消したいのではない。記録全体がつながることを阻止したいのだ。
それなら、なぜ四人を殺そうとしないのか。なぜ遠くから誘導するだけなのか。
その疑問を孝が口にすると、川村はしばらく黙っていた。
やがて、古い石碑を見つめながら、過去にも同じことがあったのだと話した。
記録を守る人間を直接消してしまえば、その人物の死そのものが新しい疑いを生む。だから、事故に見せかける。あるいは、本人が手放したように見せる。ときには、記録を持つ人間同士を疑わせる。
そうすれば、記録は自然に散らばっていく。誰も全体を把握できなくなる。今回も、その方法が使われている可能性が高い。
四人が長崎へ来たのも、偶然ではない。
しかし、四人を長崎へ呼んだ人物が、そのまま記録を消そうとしている人物とは限らない。むしろ、別の人間が四人を利用している可能性がある。その話を聞いたとき、孝は川村を見た。では、川村自身も信用できないのではないか。
長崎で最初から四人の行動を把握していたのは、川村だけではない。誰が味方で、誰が敵なのか。それを判断する材料は、ほとんど残っていない。川村は、その疑いを否定しなかった。
むしろ、疑っていいというように、静かに四人を見た。長い時間を生きてきた人間にしか持てないような、疲れた目だった。
そして、川村は自分が持っている最後の資料を見せた。それは、一枚の紙だった。古いものではない。数年前に書かれたものだった。紙の中央には、円の中に一点の印。その下に、現在の名前が三つ並んでいる。一つ目は、川村自身。
二つ目は、孝の祖父。そして三つ目が、涼子だった。孝は、その名前を見たとき、息を止めた。
涼子は何も知らない。祖父もそう書いていた。
しかし、涼子の名前は何十年も前から記録を守る側の人間として残されている。その意味を考えているうちに、涼子自身があることに気づいた。自分の祖母が持っていた古い写真。そこに写っていた曾祖母の手には、木箱があった。
その箱には「一番」の印。
そして、写真の裏には「最後の人は、写真の中にはいない」と書かれていた。
つまり、曾祖母は自分の後に誰かが記録を受け継ぐことを知っていた。その人物が、涼子だった。けれど、なぜ涼子なのか。家系を辿っても、それだけでは説明できない。孝の祖父の家系と、涼子の曾祖母の家系がつながっている。
それだけなら、どちらか一方に記録を集めればいい。それなのに、二つの家に分けて残された。
そこには、もっと重要な理由があるはずだった。川村が、紙の裏側を見せた。そこには小さな文字が残されている。
「一番は、二人で開く。」
孝は、その一行を何度も読んだ。二人。それは、孝と涼子のことなのか。それとも、別の二人なのか。木箱の鍵が一つしかないことを考えれば、単純な意味ではない。そこで孝は、長崎で見つけた四番の鍵を思い出した。
あの鍵には、番号が刻まれていた。四番の鍵。
もし一番にも同じような鍵があるなら、それは京都の木箱を開けるためのものではないか。すでに木箱は開けられている。つまり、相手は一番の鍵を持っていた。だとすれば、あの人物は、どこかで一番の鍵を手に入れたことになる。
そして、孝の頭の中に一つの場面が浮かんだ。
長崎へ出発する前、京都で祖父の家を整理していたとき。祖父の古い机の引き出しを開けた。そこには何もなかった。いや。正確には、一つだけ残っていた。小さな金属製の輪だった。その輪には、鍵がついていた。
当時は何の鍵なのかわからず、父に聞くこともしなかった。
その鍵を、孝は自分の机の引き出しに入れたままにしていた。
そして長崎へ来る直前、机を整理したときに、そこから鍵がなくなっていることに気づいた。そのときは、どこかへ置き忘れたと思っていた。しかし、今になって考えれば違う。
誰かが京都の家に入ったとき、その鍵も一緒に持ち去ったのだ。
つまり、相手は木箱の存在だけではなく、鍵の場所まで知っていた。祖父の家を知っている。家族の事情を知っている。そして、涼子の家にもつながっている。ここまで考えたところで、孝の中に一つの恐ろしい可能性が浮かんだ。
相手は、外から来た人間ではない。
この記録を何十年も追ってきた人間の子孫が、現在も身近な場所にいるのではないか。長崎で会った人物も、京都の人物も、その流れの中にいる。だとすれば、今回の出来事は突然始まったものではない。
祖父の代から続いていたものが、孫の世代まで持ち越されただけなのだ。夕方、四人は長崎駅へ戻った。
帰りの列車を待つあいだ、孝は一人でホームの端に立った。長崎の山が夕暮れの中に沈んでいる。
この街は、何度も外から人を受け入れ、何度もその人々を送り出してきた。宗教も、文化も、言葉も、武器も、思想も、この港から入ってきた。そして、そのたびに街の中には、表に残らなかった物語が積み重なった。
原爆で街が焼けたあとも、それらは完全には消えなかった。誰かが拾い、誰かに渡し、別の場所へ運んだ。
その一つが京都だった。そして今、その記録をめぐって、再び人が動いている。孝は、長崎の空を見上げた。
観光に来た四人の大学生が、ここまで深く歴史の中へ入り込むことになるとは思ってもいなかった。けれど、考えてみれば、自分たちは歴史を探しに来たのではない。
ただ、写真を撮り、街を歩き、偶然一枚の写真を見つけただけだった。
それなのに、写真の中に残された人々が、何十年も経った今になって、自分たちを次の場所へ導いている。それが怖いのか。それとも、知りたいのか。孝にはもう、その区別がつかなかった。列車がホームへ入ってきた。
四人が乗り込む。座席に落ち着いたところで、涼子が窓の外を見た。
長崎の街が、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。そのとき、彼女のスマートフォンが震えた。画面には、見知らぬ番号から一枚の画像が届いていた。そこには、古い長崎の港が写っている。外国船が停泊し、岸には人が集まっている。
幕末の頃に撮影された写真らしい。
しかし、写真の中央に立つ一人の若い男だけが、こちらを向いている。その男の手には、一冊の小さな手帳があった。そして写真の裏側には、現在の文字でこう書かれていた。
「あなたの曾祖母は、この男から名前を受け取った。」
涼子は、画面を孝へ向けた。孝は写真を見て、しばらく何も言わなかった。その若い男の顔には、どこか見覚えがある。涼子にも同じ感覚があった。ただし、それが誰なのかは、まだわからない。
写真を拡大すると、男の胸元に小さな印が見えた。円の中に一点。そして、その印のすぐ下に、数字が刻まれている。
「零」
孝は、その数字を見た瞬間、これまでのすべてがひっくり返るような感覚に襲われた。一番より前に、もう一つがあった。ゼロ。最初の記録。
そして、そこに記された名前こそが、これまで追ってきた記録の奥に残されていたものだった。
