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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十章 零の記録

 

 「零」という数字を見つめていると、孝の中で、それまで積み上げてきたものが静かに崩れていくようだった。

 

 一番が最初ではなかった。

 

 四人が追いかけてきた記録は、最初から分割されていたわけではない。もっと以前に、一度、何かが起きている。その出来事を境に記録が二つに分かれ、その後、さらにいくつもの場所へ散らされていったのではないか。

 

 そして、その始まりを示すものが「零」なのだろう。

 

 問題は、そこに写っている男だった。

 

 写真の中の男は、幕末の長崎に立っている。外国船が行き交い、人々が異国の言葉を耳にしながら暮らしていた時代の写真だ。服装も髪型も、この時代のものに間違いない。それなのに、孝は、その顔を知っているような気がした。

 

 もちろん、幕末の人物を知っているはずがない。まして写真の中の人物に会ったことなどあるはずもない。それでも、目元の形や、口元に残るわずかな癖に、誰かの面影を感じる。

 

 それが誰なのかを考えているうちに、涼子が写真を自分のスマートフォンへ保存した。列車はすでに長崎を離れている。

 

 窓の外を流れる景色には、さきほどまでいた街の気配が少しずつ薄れていた。それでも四人の意識は、まだ長崎に残されている。浩一が写真の解像度を上げる。

 

 男の胸元にある「零」の文字、その下に小さな記号が見えた。

 

 数字のようにも見えるが、文字の一部にも見える。沙羅が、祖母から聞いた話を思い出した。

 

 長崎の古い家では、表に名前を書かず、家の中だけで通じる呼び名を使っていたことがあるという。迫害を逃れるためだったり、外国人との関係を知られないようにするためだったり、理由はいくつもあった。

 

 名前を隠すことは、必ずしもその人を消すことではない。むしろ、生き残るために名前を別の場所へ移すことだった。

 

 孝は、その話を聞きながら、写真の男が誰なのかを考えていた。

 

 もしこの男が涼子の曾祖母へ「名前」を渡した人物なら、その名前とは何なのか。

 

 家族の名前なのか。宗教上の名前なのか。あるいは、もっと別のものなのか。涼子の曾祖母は、戦後になって京都へ移った。そこで孝の祖父と出会い、記録を分けた。

 

 その理由を知るには、「零」まで戻らなければならない。

 

 孝は、祖父の手帳を失ったことを、改めて悔やんだ。けれど、手帳がなくなったことで、逆に一つのことがはっきりした。

 

 相手も「零」の存在を知っている。

 

 だからこそ、一番の手帳を奪った。一番を持っていれば、零へたどり着くための手がかりが消えるからだ。では、なぜ相手は四人に長崎を歩かせたのか。最初からすべてを隠せばいい。

 

 それなのに、写真を見せ、古い場所へ誘導し、時には危険を知らせながら、四人をここまで来させた。その理由が、孝にはまだわからない。

 

 ひとつだけ確かなのは、相手が四人を完全に排除しようとしているわけではないことだった。むしろ、四人が何を見つけるのかを確認している。

 

 何を見つけたところで、最後には自分が回収できると思っているのかもしれない。その考えに至ったとき、孝は背中に冷たいものを感じた。相手にとって四人は敵ではない。探し物をするための、道具なのだ。

 

 京都駅に着いたのは夜だった。四人はそのまま解散せず、孝の家へ向かった。

 

 地下室へ降りると、昼間に送られてきた写真と同じ光景が目の前にある。木箱は開かれたままだった。床には、誰かが急いで物を探したような跡が残っている。ただし、荒らされた形跡はほとんどない。

 

 机の上に置かれていた古い写真も、棚に並んでいた資料も、そのままだった。持ち去られたのは、手帳だけ。そして、もう一つ。孝が机の引き出しに入れていた古い鍵。それ以外には、何も触れられていない。これは盗難ではない。

 

 目的が明確すぎる。手帳と鍵だけを持っていった。

 

 つまり、相手は木箱の中に何があるかを知っていた。それだけでなく、孝がどこに鍵を保管していたのかも知っていた。誰かが孝の家を長い時間かけて調べたのではない。最初から必要な情報を持っていた。

 

 孝は、そこでようやく一つのことを思い出した。長崎へ出発する数日前、家の中で一度だけ、不思議なことがあった。

 

 玄関の鍵が、朝になって少しだけ開いていた。自分が閉め忘れたと思って、そのままにしていた。しかし、その夜は確かに鍵を掛けた。それを誰にも話していなかった。そのことを三人に話すと、浩一が黙り込んだ。

 

 そして自分のスマートフォンを取り出した。長崎で撮影した動画の中に、気になるものがあるという。

 

 最初の夜、古い家の前を通ったときに撮影した短い映像だった。浩一自身は、街の雰囲気を記録するつもりで撮っただけだった。

 

 しかし、映像の最後に、ほんの数秒だけ、道路の向こうを歩く人物が映っている。けれど、その人物が右手を上げた瞬間、手首の内側に細い傷が見えた。あの写真に写っていた手と同じ場所だった。

 

 しかも、その人物が身につけていたものに、見覚えのあるものがある。

 

 四人が信頼していた人物から以前もらった、古い革製の腕時計だった。孝は画面を見たまま、動けなかった。

 

 ここまで来ても、まだ「違う」と考えたかった。

 

 親切にしてくれた。何度も助けてくれた。危険な場所へ行くことを止めてくれた。それらがすべて嘘だったとは思えない。しかし、親切にすることと、真実を隠すことは両立する。

 

 むしろ、信頼されていなければ、四人をここまで動かすことはできなかった。その人物に電話をかけることを、孝はためらった。こちらが疑っていることを知られてしまう。だが、電話をしなければ、相手のほうから動いてくる。

 

 どちらにしても、次の一手は必要だった。孝が電話をかけると、すぐにつながった。

 

 しかし、相手は何も言わない。聞こえてくるのは、遠くで車が走る音だけだった。

 

 孝は、自分たちが見つけた「零」の写真について話した。

 

 しばらく沈黙が続いた。そして、電話の向こうから、初めて低い声が聞こえた。

 

 その一言だけで十分だった。否定しなかった。孝は、電話を切らずにいた。相手は続けた。

 

 「お前たちは、何も知らないほうがいい」

 

 それは以前と同じ言葉だった。だが、今回は意味が違う。孝たちが何も知らないことを望んでいるのではない。知れば、自分たちが危険になる。そのことを知っているように聞こえた。相手が恐れているのは、記録そのものではない。

 

 「零」に記された人物の名前だった。

 

 その名前が公になれば、現在生きている誰かの人生が壊れる。あるいは、過去の出来事が、現在の社会までつながってしまう。電話の向こうで、相手はようやく一つだけ告げた。

 

 その言葉に、孝は驚いた。京都へ戻れではない。長崎へ戻れ。しかも、明日の朝。つまり、長崎に何かが残っている。そして、それを見つける時間が限られている。電話が切れたあと、四人はしばらく地下室にいた。

 

 誰もすぐには話さなかった。これまでなら、危険だからやめようという意見が出てもおかしくない。

 

 しかし、今回は違った。

 

 四人とも、ここまで来て初めて、長崎で起きたことの本当の意味を理解し始めていた。自分たちが追っていたのは、過去の事件ではない。過去を隠そうとする人間と、過去を残そうとする人間の争いだった。

 

 その争いが、いまも終わっていない。そして四人は、その境目に立っている。

 

 翌朝、まだ街が目を覚ます前に、四人は京都駅へ向かった。新幹線の窓から見える朝の街は、いつもと変わらない。それなのに、孝には、世界そのものが少し違って見えた。長崎で見つけたものを、誰かが消そうとしている。

 

 それなら、自分たちがすべきことは、奪われる前に「零」の意味を知ることだった。

 

 列車が西へ進むにつれ、四人の間にも少しずつ覚悟が生まれていく。もう観光客ではない。歴史を見に来た学生でもない。

 

 自分たちの家族まで巻き込まれた以上、知らないふりをして帰ることはできない。長崎駅へ着いたのは、昼前だった。駅を出ると、昨日までとは違う風景が見えた。街はいつものように動いている。

 

 観光客が歩き、路面電車が走り、店の前には人が並んでいる。その日常の中に、何百年もの秘密が埋まっている。

 

 四人は、川村と合流した。川村は一枚の地図を持っていた。

 

 その地図には、これまで訪れた場所とは違う地点が一つだけ記されている。港の近く。幕末の頃、外国人居留地が置かれていた場所だった。

 

 川村によれば、「零」の記録が最初に残されたのはそこだという。

 

 孝は、古い地図を見ながら歩いた。

 

 現在ではホテルや商業施設が並んでいる場所も、かつては外国人が暮らし、商人が行き交い、さまざまな情報が集まる場所だった。

 

 長崎が海外への出入口だった時代、その場所には日本国内では得られない情報が集まっていた。そして、その中にはキリシタンに関する記録も含まれていた。宗教の記録。交易の記録。外国人の移動記録。密かに渡された手紙。

 

 それらを一つにまとめた人物がいた。その人物が、写真に写っている男だった。

 

 しかし、男の正体はまだわからない。

 

 川村は、港を見ながら、その人物が残した言葉を一つだけ覚えているという。

 

「名前は、人が死んでも残る。だから名前を奪えば、その人間は二度死ぬ。」

 

 その言葉が、今回の謎の中心だった。名前を消すこと。名前を守ること。そして、名前を取り戻すこと。

 

 四人が最後に辿り着いた古い建物の壁には、円の中に一点の印が残されていた。孝が指を近づけた瞬間、涼子が突然立ち止まった。壁の隅に、別の文字が見えたからだった。

 

 それは「零」でも「一」でもない。

 

 涼子の名前の一文字だった。しかも、その文字は古い筆跡ではなかった。最近、書かれたものだった。誰かが、四人が来ることを知っていて、そこに残したのだ。そして、その文字の下には、さらに一行。

 

「最後の名前は、あなたが知っている。」

 

 涼子は、その文字を見つめたまま動かなかった。孝も、浩一も、沙羅も、まだ意味を理解できない。ただ一つだけ、はっきりしている。

 

 「零」の記録は、幕末から始まったのではない。

 

 その前に、もう一人の人間がいた。そして、その人物の名前を、涼子はすでに知っている。だが、それは家族から聞かされた名前ではなかった。幼い頃から何度も見てきた、祖母の家に飾られていた一枚の肖像写真。

 

 誰なのか尋ねるたび、祖母が話を逸らしていた人物。涼子は、その顔を思い浮かべた。そしてようやく気づいた。

 

 写真の中のその人物は、長崎の幕末の写真に写っていた男と、驚くほどよく似ていた。

 

 歴史の中で消された名前が、いま、涼子自身の記憶の中から姿を現そうとしていた。