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『 影を踏む者たちの映画館 』
第一章
三島先生の葬式の日、あいにく雨が降っていた。
六月の雨は、春の終わりに残された何もかもを片端から濡らしていく。また、しとしとと続く雨が、重く湿った降り方をしている。梅雨という季節のせいにしてしまえばそれまでなのだが、その日は朝から雨雲が異常なほど低く垂れ込め、寺へ向かう電車の窓から見える街並みも、いつもより遠く、おぼろげに沈んでいた。
濡れたアスファルトに反射する信号の赤、ビニール傘をすぼめて歩く人々の背中、ビルの看板のくすんだ色。そのすべてが、厚い膜を一枚隔てた向こう側にあるように見えた。
寺の湿った門をくぐるころには、革靴の爪先からじわじわと水が染み込み、足の指先まで冷たくなっていた。
受付で記帳を済ませ、香典返しの薄い紙袋を片手に持ちながら、私は軒下で折りたたみ傘をたたんだ。傘の骨から滴り落ちる水滴が、黒ずんだ石畳の上に小さな波紋の円を幾重にも広げては消えていく。
その規則的な音に耳を澄ませていたときだった。 受付の奥、焼香の煙が薄く漂う廊下の薄暗がりに、佐伯が立っていた。
視線が交差した。
佐伯は一瞬、眩しいものを見るように目を細め、「誰だ」という顔をした。それから昔、大学の部室でよくやっていたように、顎を少し引きながら首を右へ傾けた。
「久しぶりだな」 「……久しぶり」
十七年ぶりだった。 互いの目元や頬の弛みに容赦ない歳月が刻まれているのを感じたが、その声の掠れ具合を聞いた瞬間、私の頭の中に大学の古い演劇部の部室の光景が唐突に浮かび上がった。
窓の立てつけが悪く、強い風が吹くたびに「カタカタ」と錆びたガラスが鳴っていたあの部屋だ。佐伯はいつもそこで、誰かが差し入れたパイプ椅子に深々と腰掛け、煙草を吸っていた。三島先生に見つかると怒鳴りつけられるのを知っていながら、窓をほんの数センチだけ開け、何食わぬ顔で紫煙を吐き出していたのだ。
三島先生は煙草の匂いをひどく嫌っていた。 正確には、煙草の匂いそのものというより、煙草を指に挟み、いかにも芸術家気取りで芝居や人生について語り合う青臭い学生を嫌っていたのだと思う。
学生が何かもっともらしく青臭い論理を展開すると、先生は決まって、 「既成概念を捨てろ」 と怒鳴った。
それは演出の解釈についての指導だったのかもしれないし、役者の身体論の話だったのかもしれない。あるいは単に、その日の胃の調子や機嫌が悪かっただけなのかもしれない。先生はその言葉を、あらゆる問いを突っぱねる万能の鍵のように使っていた。
私はその言葉の乱暴さに苦笑しながら、長いあいだそれを一種の冗談のようなものだと思っていたのだ。
「先生、最後まで先生だったよ」 佐伯が濡れた手すりに肘をかけ、低い声で言った。 「何かあったのか?」 「葬儀屋のスタッフに文句を言ってたらしい」 「……先生が?」 「棺に入る直前までな。祭壇の花の種類が違うって。自分が指示した菊の色じゃないって怒鳴ってたそうだ」
私は思わず、小さく息を漏らして笑った。 三島先生なら、やりかねない。
棺の中に横たわり、蓋を閉められてしまえば、もう自分の言葉で世界を否定することもできなくなる。その「沈黙」を強いられることを、先生自身が一番恐れ、嫌がっていたのではないかと、妙な考えが頭をよぎった。
本堂の奥から、読経の低い声が始まっていた。 何人もの僧侶が唱える読経の重層的な響きは、屋根の瓦を激しく叩く雨の音と混ざり合い、本堂内の湿った空気を振動させていた。
私は静かに目を閉じた。けれど、棺の中に横たわっているはずの先生の顔は、どうしても浮かんでこなかった。
代わりに浮かんだのは、大学の薄暗い廊下を、少し猫背になって歩いていく先生の後ろ姿だった。右手にはいつも、赤ペンでびっしり修正が書き込まれた束の原稿用紙を持っていた。そして廊下で誰か学生を見つけると、その場にぴたりと立ち止まり、鋭い眼光で言い放つのだ。
――既成概念を捨てろ。
それが先生の破滅的な生き方そのものだったのか、それともただのポーズだったのか、今となっては確かめる術もない。
葬儀がすべて終わり、焼香の煙が薄れると、佐伯は境内の端にある雨の当たらない軒下に移動し、ポケットから慣れた手つきで煙草を取り出して火をつけた。ライターの小さな火花が、雨の暗がりの中で一瞬だけ橙色に爆ぜた。
「吸うか?」 佐伯が箱を差し出してきた。 「やめたよ」 「いつからだ?」 「恵子と結婚してからだ。もう随分前になる」 「へえ」
佐伯はそれ以上深追いせず、火のついた煙草を指先で挟んだまま、雨の煙る境内の木々を眺めていた。
風に乗って、湿った煙草の匂いがふわっと私の鼻腔をくすぐった。 その独特の焦げ臭い匂いを嗅いだ瞬間、私の頭の中に、あかねの顔が突如として蘇った。
なぜ、その瞬間だったのかは分からない。 人間の記憶というものは、そういうふうにできている。本当に大切な日だからと思い出すのではない。日常のどうでもいい匂いや、肌を掠めた湿気、光の角度といったものに触れた瞬間、何年も鍵をかけて閉ざしていた場所の扉が、勝手に開いてしまうことがあるのだ。
あかねも煙草を吸っていた。 ……私は、確かにそう覚えていた。 十二年前に、私の前から突然姿を消した女のことだった。
「桐生」 佐伯が煙を吐き出しながら、低く呼びかけてきた。 「ん?」 「先生の生前の研究について、何か知ってたか?」 「研究……? 戯曲の分析か?」 「いや。『死んだ人間の映像をインタラクティブに再現する』研究だ」
私は佐伯の横顔を見つめた。雨の音が、急に大きくなったような気がした。
「……何だ、それ」 「お前なら、間違いなく興味を持つと思う」 「俺はもう、脚本も小説も書いてないよ」 「知ってるさ」 佐伯は人差し指で煙草の灰をトントンと落とした。 「だから言ってるんだ」 「どういう理屈だよ」 「映画を諦めた奴が、最後に『映画みたいなもの』を作るんだよ」 「映画みたいなもの?」 「本物の映画より、ずっと厄介で毒のある代物だ」
佐伯は胸ポケットから、マットブラックのシンプルな名刺を取り出し、私に差し出した。 表には会社名と、英字で一つだけ名前が刷られていた。
『PHANTASMA』
聞いたこともない会社だった。
「来週、オフィスに来いよ。面白いものを見せてやる」 「……何の会社だ?」 佐伯は吸い殻を携帯灰皿に押し込み、傘を開いた。 「人間を作る会社さ」
その言葉だけが、雨の降る境内に、妙に鮮明で冷たい残響となって残った。
