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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第五章

 

恵子が兄の話を切り出したのは、夕食の片付けがすべて終わった後だった。

 

食器を洗い終えた恵子は、水道の蛇口を固く閉めても、しばらく、水切りかごの前に立ったまま動かなかった。背中が小さく見えた。

 

「ねえ」 「ん?」 私はリビングのソファで、原稿用紙に目を落としたまま生返事をした。 「お兄ちゃんのこと、覚えてる?」 「もちろん覚えてるよ。急に倒れて……大変だったろ」 「死んだことじゃなくて」

 

恵子は濡れた手を布巾で丁寧に拭きながら、ゆっくりと振り返った。 「最後に、お兄ちゃんと電話で話した日のこと」

 

私はペンを置いた。 「……覚えているよ」 「私ね、すごく怒ってたんだよね。『もうお兄ちゃんの顔なんて見たくない、勝手にして』って言ったの」

 

恵子の言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、以前屋上で佐伯が漏らした声が重なった。 『もう知らないって言ったんだ。その三日後に死んだ』

 

恵子はダイニングの椅子を静かに引き、腰を下ろした。 「三日後だった。お詫びに買おうと思ってたケーキの写真を、スマホに保存したままだった」

 

彼女はテーブルの木目を、慈しむように指先でなぞっていた。 「死ぬなんて、これっぽっちも思ってなかったから」 「……誰も、そんなこと予測できないよ」 「そうだね」

 

恵子は少しだけ口元を動かして笑った。けれど、その瞳には一切の光が宿っていなかった。

 

「だからね、使ってみようと思うの」 「何を?」 「Reminiscence」

 

部屋の中の空気が、急激に重く沈み込んだ。

 

「お兄ちゃんと、もう一度話す」 恵子は、まっすぐな目で私を見つめた。その透明な瞳に、逃げ場を失った私の顔が映っていた。 「あなたが毎晩、あの会社でやってることと同じことを」 「俺は……あれは仕事のテストで……」 「分かってるよ。何も言わなくても」

 

それ以上、恵子は追及しなかった。それがかえって、私の胸を鋭くえぐった。

 

数日後、自宅のPC画面の中に、恵子の兄が現れた。 恵子は椅子に深く腰掛け、膝の上で両手を固く組んでいた。指先が白くなっていた。

 

画面の中の兄が、昔と同じ少し横柄な態度で笑った。 『久しぶりだな、恵子』

 

恵子の肩が、かすかに震えた。 「……お兄ちゃん」 『なんだよ、藪から棒に』 「最後に……ひどいこと言って、ごめんなさい。『もう知らない』なんて言って……」

 

画面の中の兄のAIは、パラメータを処理するように、少し首をひねった。 『そんなこと言ったっけか。覚えてないな』

 

恵子は静かに俯いた。 私はその場に居続けることができなくなり、居間のドアを開けて廊下へ出た。

 

冷たい壁に背中をもたれかけ、静かに呼吸を整えた。壁の向こうから、かすかに話し声が聞こえる。何を選択し、何を赦し合っているのかは分からなかった。

 

十分が過ぎ、二十分が過ぎた。 やがて静かにドアが開き、恵子が出てきた。その顔はすっきりと洗われたように静かだった。

 

「……どうだった?」 「分からない」 「そうか」 「でもね、ちゃんと謝れたよ」

 

その夜、恵子は久しぶりに私の隣の布団に入り、背中を向けて眠った。

 

けれど、私たちは朝まで一言も交わさなかった。二人の間に横たわる暗闇は、以前よりもずっと深く、決定的なものになっていた。

 

翌朝、ダイニングテーブルの上には、淹れたてのコーヒーが入ったカップが二つ並んでいた。

 

恵子は私が起きてくる前に、静かに家を出ていっていた。 私は一人で、冷めていくコーヒーを飲んだ。

 

二つ目のカップは、昼過ぎになっても、テーブルの上にぽつんと残されたままだった。

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『  最後の仕事 』

 

第九章 昼の座敷

 

座敷の撮影では、料理が本当にうまそうに見えることが問題になる。三村は客役の顔を作る前に腹を空かせ、山科は笑いをこらえながら箸を持つ。森川が「もっと普通に」と言うたび、普通にしようとするほど皆の動きが不自然になる。

 

「普通って何や」と黒田が小声で言ったとき、モモちゃんが吹き出した。その笑いを見て、森川はそのまま回した。作った芝居より、今の方が旅館の空気に近かった。

 

昼前には外の撮影が一段落した。

 

座敷へ機材を入れ、料理を並べる。その間に森川が画を決めた。

 

「ここは料理を撮ってから、人を入れる」

 

三村が返事をする。

 

スタッフは皆、ジャケットや背広を着ている。

 

もともと同窓会で集まるつもりだったから、ラフな格好ではない。

 

竹森がそれを見て言った。

 

「お前ら、そのままでええ」

 

「俺らが?」

 

森川も何も言わない。

 

スタッフが客役になり、料理を前に座る。竹森がその様子を見ながら小さく指示を出した。

 

「もうちょっと普通に喋って」

 

「昔の飲み会みたいに」

 

仲谷が録画を始めると、座敷に笑い声が起きた。モモちゃんが料理へ目を向け、主人が料理を運ぶ。その様子を森川はモニターで追った。

 

客の一人として座っている三村が、料理を見て本当に腹が減ってきた。

 

「これ、撮影終わったら食べてええんですよね」

 

「もちろん」

 

「それなら頑張れます」

 

撮影は続く。

 

料理の湯気。

 

箸。

 

器。

 

窓から見える川。

 

モモちゃんの手元。

 

主人の笑顔。

 

仲谷は広角から望遠へレンズを変え、画角を調整した。

 

森川はモニターへ目を戻し、さっきまでとは違う表情を確かめた。

 

「そのレンズ、ええな」

 

黒田が照明を少し動かした。

 

「ここ、顔が暗い」

 

ハレパネの位置を変えると、顔へ反射が入った。

 

撮影が続く。

 

午後になって、若いアルバイトの女性が来た。

 

座敷の客役で、数カットだけ出演する。

 

彼女は緊張している。

 

「こういう撮影、初めてです」

 

「指示があるまで動かなかったら大丈夫ですよ」

 

女性は座敷へ入り、空いている椅子に腰を下ろした。

 

そこは次のカットでモモちゃんが使う場所だ。

 

黒田が来た。

 

女性はすぐに立ち上がった。

 

黒田は椅子を見た。

 

「現場では、椅子一つでも誰の場所か決まってることがある。分からんかったら聞いたらええ」

 

女性は小さく頭を下げた。

 

黒田は離れていった。

 

「黒ちゃん、教え方は昔から上手やな」

 

「怒ってるように見えて、ちゃんと残るんよ」

 

女性はその言葉を聞いていた。

 

一度目の撮影では表情が硬かった。

 

二度目は少し自然になる。

 

三度目、料理へ目を落としてから顔を上げた瞬間、森川が言った。

 

「今のええ」

 

女性がほっとする。

 

仲谷は録画を止めた。

 

森川はそのカットを使えると判断した。

 

女性は何度も頭を下げた。

 

撮影が終わると、

 

「ありがとうございました。お疲れ様でした」

 

とだけ言って帰っていった。

 

誰も引き止めない。

 

夕方近くになると、身体の疲れが隠せなくなる。

 

黒田は立ったまま長くいるのをやめ、椅子があれば腰を下ろすようになる。

 

仲谷はカメラを持ち上げる前に、一度肩を回す。

 

三村は香盤表を読むとき、紙を少し遠ざける。

 

山科は水を飲む回数が増えた。

 

森川は眼鏡を外し、目を閉じる時間が長くなる。

 

黒田が立ち上がった。

 

「あと一本やろ」

 

三村は紙の上の時刻を確かめ、次の配置を静かに組み直した。

 

仲谷がカメラを持つ。

 

森川も立つ。

 

「最後、川や」

 

全員が外へ出た。

 

山の空気は少し冷たくなっている。

 

昼間の暑さが消え、川の音が近くなっている。

 

森川は川を見た。人の言葉よりも、水の流れの方が今は近く感じられた。

 

森川は川面に目を置いたまま、朝から見てきた光を順に思い出した。

 

朝の川には白い光が浮き、昼には水面が硬く光った。夕方になると、旅館の灯りを待つように川の色が沈んでいく。

 

朝の光は白く、昼には硬さを増した。夕方になると影が深まり、灯りが入った途端、同じ旅館が別の場所に見えた。

 

森川はモニターの隅に映った主人の顔を見た。朝とは違う顔だ。

 

それだけのことを、森川は昔より長く見ていた。

 

口にすると、説明になりそうだ。森川は黙ってモニターを見た。

 

撮影の途中、仲谷がカメラを置く。

 

「ちょっと休みましょう」

 

「谷ヤンが休もう言うの、珍しいな」

 

仲谷は、自分ではなくカメラを休ませるつもりだ。

 

二人は廊下の端に座る。

 

窓の外では川が見える。

 

「店、どうです?」

 

黒田は少し考えた。

 

「普通やけど、直したいところはある」

 

「改装?」

 

仲谷は川を見た。

 

黒田は何も言わない。

 

しばらくして、

 

「まあ、仕事したらええ」

 

と言った。

 

仲谷は黒田を見る。

 

二人は立ち上がった。

 

「戻ろ」

 

そこへ森川の声が飛んできた。

 

「谷ヤン、黒ちゃん。休憩終わりや」

 

黒田は、その言い方が都合のいい区切りになることを面白がった。

 

三人の笑い声が廊下に響いた。

 

撮影の途中、森川は一度だけ迷った。

 

旅館の玄関前で、モデルさんと主人を並べるカットだ。

 

香盤表には決まった立ち位置が書かれている。

 

ところが、主人がモデルさんへ何か話しかけた。

 

その瞬間、モデルさんが笑う。

 

作った笑顔ではない。

 

話を聞いて、思わず笑った顔だ。

 

森川はモニターを見た。

 

「……」

 

仲谷は録画を続けている。

 

黒田も反射板を持ったまま止まっている。

 

三村が小声で聞いた。

 

森川はすぐに答えない。

 

予定の画なら、もう撮れている。

 

けれど今の表情は予定にはない。

 

「森川さん、こっちの方がええんちゃいますか」

 

森川はモニターを見直した。

 

主人の顔も自然だ。

 

モデルさんの笑顔も自然だ。

 

旅館という場所を紹介する映像なら、建物だけより、こういう瞬間の方が強い。

 

森川は手を上げた。

 

「そのまま、もう少し」

 

仲谷は録画を続けた。

 

黒田が反射板を少しだけ動かす。

 

光が二人の顔へ柔らかく入る。

 

森川は数秒待った。

 

「止め」

 

録画が止まる。

 

仲谷がカメラを下ろした。

 

「森川さんでも迷うんですね」

 

「昔は迷ってませんでしたよ」

 

「昔は迷ってる暇がなかった」

 

森川はモニターを見た。

 

「今は、少し待てる」

 

それだけ言った。

 

誰も何も返さない。

 

川の音が聞こえていた。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十二章 もう一人の少女

 

 祖母の言葉が落ちたあと、部屋にはしばらく誰の声もなかった。

 

 涼子は、机の上に置かれた写真から目を離せないでいた。古い写真の中には、長崎の港と、二人の少女、それから若い男と一人の女性が写っている。これまで何度も見てきたはずの写真なのに、今はまるで別のものに見えた。

 

 写真の中の二人の少女のうち、一人は幼い頃の祖母である。もう一人の少女について、涼子は何も知らない。

 

 けれど、その少女こそが、祖母がいままで語ろうとしなかった記憶の中心にいる。

 

 祖母は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いたまま、遠いところを見るような目をしていた。長い年月のあいだ、誰にも話さずに抱えてきた記憶を、いま初めて言葉にしようとしている。

 

 そのためには、出来事を思い出すだけでは足りない。思い出したことを、自分の口からもう一度この世界へ出してしまう覚悟が必要なのだろう。

 

 涼子は急かさなかった。孝たちも黙っている。祖母は写真を一度裏返し、それから再び表に戻した。

 

 「この子の名前は、千鶴」

 

 それだけを聞いても、涼子には何の意味もわからなかった。しかし、その名前を耳にした瞬間、祖母の表情が変わった。

 

 自分が長いあいだ忘れたふりをしていたものを、とうとう思い出してしまった人の顔だった。千鶴は、祖母と同じ年だった。

 

 浦上の近くで暮らしていた家の子で、家族同士の付き合いがあった。二人は学校へ行く道も、遊ぶ場所もほとんど同じで、幼い頃から姉妹のように育ったという。けれど、二人の家には一つだけ大きな違いがあった。

 

 祖母の家には、古い記録があった。千鶴の家には、それを守る役目があった。

 

 どちらが先だったのかは、祖母にもわからない。

 

 ただ、二つの家が一つの秘密を分けて持っていたことだけは、子供の頃から知っていた。

 

 大人たちは二人の前で詳しい話をしなかった。それでも、子供というものは、大人が隠そうとするものほど敏感に感じ取る。言葉の断片、閉じられた戸棚、突然中断される会話、誰かが訪ねてきたときの母親の表情。

 

 そうした小さなものを拾い集めながら、祖母と千鶴は、自分たちの家には他の家にはない何かがあることを知っていった。

 

 その「何か」が何なのかを、祖母が初めて理解したのは、戦争が終わる直前だった。

 

 そして、千鶴はそれより早く知っていた。なぜなら、千鶴の父親が、最後の記録を持っていたからである。祖母の話を聞きながら、孝は長崎で見た古い写真を思い出していた。零、一、二、三、四。

 

 これまで自分たちは、その数字を単純な順番だと思っていた。しかし、本当はそうではなかった。零は、最初の名前。

 

 一から四は、その名前を守るために分けられた記録。そして、その記録を受け取った家が二つあった。祖母の家と、千鶴の家。

 

 だから、涼子の曾祖母と千鶴の家の先祖が、それぞれ別の形で記録を守ってきたのだろう。では、なぜ一つの記録を二つの家で守る必要があったのか。その答えは、原爆の日にあった。祖母は、その日の朝のことを話し始めた。

 

 長崎の空は晴れていたという。

 

 夏の朝特有の強い光が家々の屋根を照らし、蝉の声が聞こえていた。戦争が続いていたとはいえ、子供にとっては、いつもと変わらない朝だった。祖母と千鶴は、その日の午後に一緒に遊ぶ約束をしていた。場所も決めていた。

 

 ところが、その前に大人たちから、二人に一つの仕事を頼まれた。

 

 小さな箱を、別の家へ運ぶことだった。箱は軽かった。けれど、二人には中身を見てはいけないと言われていた。それが、零の記録だった。祖母は、当時のことを細かく覚えているわけではない。

 

 ただ、千鶴が箱を抱えて歩いていたことと、その箱を途中で一度だけ開こうとしたことを覚えている。中を見てはいけないと言われた子供ほど、見たくなる。千鶴は箱の留め具に指をかけた。祖母は止めなかった。

 

 むしろ二人で見てしまえば、大人に怒られても一緒だと思った。蓋が少し開いた。

 

 そこには手帳が一冊と、古い写真、それから折り畳まれた紙が入っていた。紙には、名前が一つだけ書かれていた。その名前を、祖母は今でも覚えている。けれど、それを口にすることはできないという。

 

 なぜなら、その名前を口にすれば、千鶴がなぜ消えたのかも同時に話さなければならなくなるからだった。

 

 孝は、その言葉を聞いて初めて、祖母がずっと「千鶴は死んだ」とも「生きている」とも言わなかったことに気づいた。

 

 写真の中の少女について、祖母はいつも「昔の友達」とだけ言っていた。

 

 涼子が、もう一度その写真を見た。千鶴の顔は、幼い。当たり前のことなのに、その顔の中に何かを探してしまう。それは、涼子自身の面影だった。目元。眉の形。笑ったときの口元。

 

 自分と似ているというより、祖母の若い頃に似ている。だからこそ、これまで気づかなかった。

 

 祖母は写真の二人を見比べながら、ようやく続きの話を始めた。原爆が落ちたあと、二人は離れ離れになった。祖母は家族に助け出された。千鶴の行方はわからなくなった。家も焼けた。家族も失った。

 

 何が残ったのかさえわからないほどの惨状だった。それでも、祖母の記憶には一つだけ残っていた。千鶴が抱えていた箱。

 

 そして、箱の中にあった名前。戦後、祖母の家族は京都へ移った。そこで、曾祖母から一つの約束をさせられた。千鶴について誰にも話さないこと。名前を口にしないこと。写真を人に見せないこと。

 

 それが、千鶴を守るためだったのか、それとも別の理由だったのか、祖母にはわからなかった。ただ、何年も経ってから、一度だけ千鶴から手紙が届いた。差出人の住所はなかった。消印だけが長崎を示していた。

 

 その手紙には、短い文章が書かれていたという。

 

「私は生きています。名前は変えました。」

 

 祖母は、その手紙をずっと隠していた。そして、もう一つ。手紙には、写真が一枚入っていた。そこに写っていたのは、成長した千鶴だった。幼い頃の面影は残っている。しかし、その写真にはもう一人、男が写っていた。

 

 幕末の写真にあった男とは別の人物。その男こそが、戦後に千鶴を守った人間だった。

 

 孝は、そこで一つの可能性に気づいた。もし千鶴が生きていたのなら、その子供もいる。

 

 そして、その子供がさらに子供を持っているなら、現在まで家系は続いている。四人が長崎で出会った人物。あの人物が、千鶴の子孫なのではないか。だが、祖母は首を横に振った。千鶴は結婚していない。

 

 少なくとも、祖母が知る限りでは。それでも子供はいた。ただし、その子供が誰の子なのかについて、千鶴は一度も語らなかった。

 

 その子供にも、「零」に関わる記録の一部が渡されたという。

 

 その後も、その記録の一部は人から人へ受け継がれているらしい。けれど、現在それを誰が守っているのかまでは、まだわからなかった。ここまで聞いたところで、孝は何かがおかしいと感じた。それなら、なぜ相手は四人を長崎へ導いたのか。なぜ涼子に、こんなにも多くの手がかりを見せたのか。

 

 千鶴の子孫が記録を守っているのなら、涼子に真実を知らせる必要などない。むしろ、知られないほうが都合がいいはずだった。その疑問に答えるように、祖母が一枚の紙を取り出した。古い手紙ではない。最近書かれたものだった。

 

 そこには、祖母自身の名前と、涼子の名前が記されていた。さらに、その下に一つの文章がある。

 

「二つの家が揃ったとき、零は終わる。」

 

 祖母は、この手紙を数年前に受け取ったという。差出人は、千鶴だった。そのとき初めて、祖母は千鶴がまだ生きていることを確信した。しかし、手紙には住所がなかった。電話番号もなかった。

 

 ただ、長崎のある場所を示す古い地図だけが同封されていた。祖母は、怖くてそこへ行けなかった。

 

 それでも、手紙を捨てることもできなかった。だから、写真と一緒にしまっていた。涼子が生まれたとき、その手紙を一度だけ取り出した。そのとき、祖母は涼子の名前を見て、ようやく理解したという。

 

 自分の世代で終わらせることができなかったものを、次の世代へ渡すことになったのだと。

 

 だから、涼子の名前には「千鶴」の記憶につながる一文字が組み込まれた。

 

 しかし、その一文字だけでは意味を成さない。残りの文字は、千鶴の家に残されている。つまり、涼子の名前は完成していない。それを完成させるために、二つの家が再び出会わなければならない。

 

 孝は、そこで初めて、この物語の中心にあるものが「秘密」ではないのだと気づいた。

 

 名前を消された人間を、もう一度歴史の中へ戻すこと。それが、この長い記録の本当の目的だった。

 

 キリシタンの時代も、幕末も、外国船が行き交った時代も、原爆によって街が焼けた日も、すべてが一つの線でつながっている。そのたびに、名前を残そうとする人がいた。そして、その名前を消そうとする人もいた。

 

 だから記録は、何度も隠され、分けられ、別の人間へ渡された。最後に残ったのが、涼子だった。

 

 そのとき、玄関の外で車が止まる音がした。四人が顔を見合わせる。祖母は何も言わず、写真を箱へ戻した。続いて、玄関の呼び鈴が鳴った。孝が立ち上がろうとしたが、祖母が手で制した。そして、ゆっくり玄関へ向かった。

 

 扉を開ける前に、祖母は一度だけ振り返った。その表情には恐怖がなかった。

 

 長いあいだ待っていた人を、ようやく迎えるような静けさがあった。扉が開く。

 

 外に立っていたのは、長崎で四人を何度も助けてくれた、あの人物だった。孝は息を呑んだ。その人物は、四人を見ても驚かなかった。まるで、ここに四人がいることを最初から知っていたようだった。

 

 祖母もまた、その人物を見ていた。

 

 二人の視線が重なった瞬間、何十年もの時間が一気に縮まったように見えた。やがて祖母が、その人物の名前を呼んだ。その名前を聞いた涼子は、言葉を失った。幼い頃から祖母の家に飾られていた写真。

 

 祖母が何度尋ねても答えなかった人物。そして、長崎で四人を導いてきた人物。すべてが、一本につながった。

 

 しかし、その人物は涼子を見つめながら、静かに首を横に振った。

 

 自分が探しているのは「零」ではないという。

 

 零は、すでに終わっている。

 

 終わらせなければならないのは、記録ではなく、記録を守るために何世代も続いてきた嘘のほうだった。その言葉を聞いたとき、涼子は祖母を見た。祖母は、うなずいた。そして、長崎から持ち帰った最後の地図を机の上へ広げた。

 

 地図の中央には、浦上がある。その少し北に、小さな印が一つ。

 

 その場所には現在、何も残っていない。けれど、昔そこには一軒の家があった。千鶴が最後に暮らした家だった。

 

 そして、その家の地下には、まだ誰にも発見されていない部屋があるという。

 

 そこに「零」の本当の記録が残されている。

 

 四人は翌朝、長崎へ向かうことになった。ただし、今度は四人だけではない。祖母も一緒に行くという。

 

 八十年以上、心の中だけで抱えてきた記憶を、自分自身の目で終わらせるために。列車の予約を取るころには、夜もかなり深くなっていた。涼子は一人で窓際に立ち、外の暗い街を眺めていた。

 

 自分の名前について、これほど長い物語が隠されていたとは思わなかった。名前は、ただ親が子供につけるものだと思っていた。けれど、自分の名前には、会ったことのない人間の人生が重なっている。

 

 長崎で生まれ、戦争を生き、名前を変え、それでも誰かに記憶されることを願った少女。その少女の記憶を守った祖母。そして、その先に自分がいる。涼子は、写真の中の千鶴を思い浮かべた。

 

 もし本当に生きているのなら、会ってみたい。どんな顔をしているのだろう。自分を見たら、何を思うのだろう。

 

 そして、なぜ今になって自分を長崎へ呼び戻そうとしているのだろう。その答えは、まだわからない。ただ一つだけ、涼子には確かなことがあった。これまで四人は、誰かが残した謎を追ってきた。

 

 けれど、最後に待っているのは謎ではない。そこには、長い時間を生き延びた一人の人間がいる。

 

 そして、その人間が守ってきた記憶がある。翌朝。長崎へ向かう列車の中で、祖母は涼子の隣に座っていた。窓の外には、まだ京都の街が続いている。祖母は何も話さなかった。

 

 ただ、膝の上に置いた古い鞄を、両手でしっかり抱えている。その鞄の中には、昨日まで存在を知らなかった一冊の手帳が入っていた。

 

 孝がそれに気づいたのは、列車が京都を離れてしばらく経ってからだった。表紙には何も書かれていない。しかし、裏表紙を見た瞬間、孝の表情が変わった。そこには、円の中に一点の印がある。

 

 そして、その下に「零」と刻まれていた。

 

 奪われたと思っていた一番の手帳よりも古い。これが、本当の零なのか。孝が尋ねようとしたとき、祖母は静かに手帳を閉じた。その手には、わずかな震えがあった。

 

 そして、祖母はまだ誰にも話していないことを一つだけ残していた。この手帳を最後に開いたのは、祖母ではない。

 

千鶴だった。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十四章 名前のない店

 

 木曜日の朝、順子は店を開けると、灰色のカーディガンをミシンのそばへ置いた。

 

 穴の開いていた肘には、深い赤の糸で小さな葉を三枚刺してある。反対側にも同じものを入れた。

 

 揃えすぎると既製品のようになるので、葉の向きだけを少し変えた。

 

 十一時前、履物店の妻が来た。

 

「できました?」

 

「着てみてください」

 

 妻はカーディガンへ袖を通し、鏡の前で両腕を交互に見た。

 

「思うたより、派手じゃないですね」

 

「派手な方がよかった?」

 

「いえ、これくらいがええです」

 

 腕を曲げ、もう一度伸ばした。

 

「穴が開いたから、前よりええ服になったみたい」

 

「それなら、直した甲斐があります」

 

 妻は代金を払い、カーディガンを着たまま店を出た。

 

 昼過ぎ、その妻が一人の女性を連れて戻ってきた。

 

「この人、スカートの丈を見てもらいたいそうです」

 

「見てもらうだけでもええですか」

 

 女性は紙袋を抱えていた。

 

「もちろん。直さない方がよければ、そう言います」

 

 試着してもらうと、スカートの裾は足首まであった。

 

「短うした方がええでしょうか」

 

 順子は鏡の中の女性を見た。

 

「普段は、どんな靴を履きます?」

 

「低い靴ばかりです」

 

「では、三センチだけ上げましょう。それ以上短くすると、この布の落ち方が変わります」

 

「三センチで変わりますか」

 

「歩いたときに、少し軽くなります」

 

 女性は鏡の前で裾を持ち上げた。

 

「お願いします」

 

 順子はまち針を打った。

 

 店を始めてから、客が一人も来ない日はあった。

 

 二人来る日も、三人来る日もある。

 

 買ったものの着方が分からないブラウス。娘から贈られたが、自分には若すぎると思っている上着。夫が亡くなったあと、捨てることも着ることもできずにいたコート。

 

 順子は、すぐには直さなかった。

 

 何と合わせて着るのか、どこへ着ていきたいのかを聞いた。持ち主が話しているうちに、直す場所が変わることもある。

 

 何もせず持ち帰る人もいた。

 

「聞いてもろうただけで、決まりました」

 

 そう言われた日は、売上の帳面には何も書けなかった。

 

 順子は代わりに、相談一件、と小さく記した。

 

 店の名前は、まだなかった。

 

 履物店の店主は「直し屋さん」と呼び、妻は「順子さんの店」と呼んだ。

 

 そのどちらでも、いまは困らなかった。

 

 千穂とは、二日に一度ほど電話で話した。

 

 以前の千穂は、仕事のことを尋ねても「普通」としか答えなかった。

 

 最近は、窓口へ来た人が書類を家へ忘れてきた話や、上司が眼鏡をかけたまま眼鏡を探していた話をする。

 

「誰も教えなかったの?」

 

「教えたわよ。笑うのを我慢してから」

 

「先に教えてあげればいいでしょう」

 

「お母さんだって笑うでしょう」

 

「私は笑わないわ」

 

「いま笑ってるじゃない」

 

 順子は、自分の声が電話へ漏れていたことに気づいた。

 

「あなたも、よく笑うようになったわね」

 

「前から笑ってるわよ」

 

「そうだったかしら」

 

「そうよ」

 

 千穂は少しむきになって答えた。

 

 だが、その声にも笑いが残っている。

 

 順子は、それ以上言わなかった。

 

 仕事がうまくいっているのかもしれない。

 

 周囲と話せるようになっただけかもしれない。

 

 何か別の理由があるのかもしれない。

 

 いずれにしても、以前より声が明るくなった。

 

 それだけ分かれば、いまは十分だった。

 

 洋子から電話がかかってきたのは、店を始めて一か月ほど過ぎたころだった。

 

「お店を始めたそうですね」

 

「誰に聞いたの?」

 

「順子さんが送ってくれた花の写真、窓辺じゃなかったでしょう」

 

 店を開けて間もないころ、順子は黄色い花の写真を洋子へ送っていた。

 

 洋子は、花の後ろに映った布と糸の棚を見ていた。

 

「気づいていたのね」

 

「花屋ですから、花の後ろも見ます」

 

「それは花屋の仕事ではないでしょう」

 

「今度、行ってもええですか」

 

「もちろん」

 

 洋子は、次の土曜日に一人で来た。

 

 ガラス戸を開けると、店の中をゆっくり見回した。

 

「ほんまにお店ですね」

 

「何だと思っていたの?」

 

「窓辺に花を置くための部屋かと」

 

「家賃を払ってまで、花だけ置かないわ」

 

 洋子は笑い、黄色い花へ近づいた。

 

「まだ枯らしていませんね」

 

「水をやりすぎないようにしているから」

 

「上手に育ててます」

 

 洋子は鉢の向きを少し変えた。

 

「こっちの方が、日がよう当たります」

 

「ありがとう」

 

「この店、名前はないんですか」

 

「まだ決めていないの」

 

「名前がなくても、お客さんは来るんですね」

 

「順子さんの店で通じるらしいわ」

 

「では、それが名前でええんじゃないですか」

 

「自分の名前を看板に出すのは、少し恥ずかしいわ」

 

「順子さんでも、恥ずかしいことがあるんですね」

 

「失礼ね」

 

 洋子は棚の糸やボタンを一つずつ見た。

 

「ええ店ですね」

 

「何も売っていないけれど」

 

「順子さんがしてくれることは、よう分かります」

 

 昼近くになると、洋子は時計を見た。

 

「長居をしたら、お仕事の邪魔ですね」

 

「あなたは、お客さんではないでしょう」

 

 順子が言うと、洋子は少し驚いた顔をした。

 

 そのあと、うれしそうに笑った。

 

「では、また来てもええんですね」

 

「もちろん」

 

「今度は、直してもらう服を持ってきます」

 

「直すところがあればね」

 

 店を出るとき、洋子は商店街の先を見た。

 

「来年の桜も、見に来てええですか」

 

「ええ」

 

「今度は千穂さんも誘いましょう」

 

「そうね」

 

 洋子は少しためらってから言った。

 

「主人も一緒で、ええですか」

 

 順子はすぐには答えなかった。

 

 亨が自分から来たがるとは思えない。

 

 洋子が誘えば、断りきれずに来るのかもしれない。

 

「もちろん」

 

 順子は言った。

 

「では、四人ですね」

 

 洋子は簡単に決めた。

 

 順子は店の前に立ち、洋子の背中を見送った。

 

 何も決まったわけではない。

 

 来年の桜がいつ咲くのかも、その日に四人が揃うのかも分からない。

 

 それでも、洋子の言った四人という言葉だけが、しばらく耳に残った。

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『 カケハシ 』

 

第二章 三十円の企み

 

「100人集める言うても、やみくもに声をかけても不審がられるだけや。まずは、話を聞いてくれそうな奴らのところに行こうや」 

 

そう言って動き出した彼らは、まず学内の「文化系クラブ」をターゲットに定めることにした。

 

ガチガチの体育会系よりも、どこか一癖あって日常に退屈している文化系の連中の方が、こういう悪だくみに乗ってきやすいはずだと踏んだからだ。 

 

決行日、文化系クラブを訪問するメンバーは三人。 

 

前島、倉橋、そして茜の三人が選ばれた。 

 

佐伯と山田は「俺らが行くと圧が強すぎるから、いざという時のバックアップや」と勝手に理由をつけて見送った。 

 

その日の前島の手には、もちろん一軍のタブレットがしっかりと握られている。 

 

画面の中には、昨日から深夜までかかった作り込んだ『企みの詳細を図とグラフ』が仕込まれている。

 

14万人の学生数、30円の価値、そして現実とネットが交差する拠点的概念、さらには変人教授とのミーティングの感触までが、カラフルなフローチャートと棒グラフで論理的かつ胡散臭くまとめられている。

 

「よし、準備は万端や」 

 

天気の良い昼下がり、三人は大学近くの緑豊かな公園広場に、まずは集合することにした。

 

秋晴れの心地よい風が吹き抜ける広場には、青空の下でベンチに座り込んでダベる学生たちの姿があちこちに見える。 

 

タブレットを抱えた前島が、眩しそうに空を見上げながらニヤリと笑った。

 

「最高の天気やな。こんな日に、退屈してる学生を一人残らず網にかけるで」 

 

倉橋がタブレットの画面をチラと覗き込み、眼鏡を押し上げた。

 

「図とグラフの出来栄えは完璧や。あとは、こっちの熱量が向こうに伝わるかどうかやな」 

 

茜は軽快に一歩先を歩きながら、広場の奥に広がる部室棟の方を振り返った。

 

「さあ、最初のカモ……いや、未来の同志たちを狩りに行こか、先輩たち!」

 

最高潮に高まった期待感を胸に、三人は文化系クラブの扉を叩くべく、まばゆい陽光の中へと歩き出した。 

 

最初は「そんな怪しい話、誰も聞いてくれへんのちゃうか」と少しばかり心配していた三人だったが、蓋を開けてみると、その予想は心地よく裏切られた。 

 

文化系クラブの部室を回り、前島がタブレットで「企みの詳細を図とグラフ」を見せながら熱弁を振るうと、そこに集まっていた学生たちの目の色がみるみる変わった。

 

就職への漠然とした不安、日々の講義への退屈、そして「このままでいいのか」という澱のような思いは、彼らだけのものではなかったのだ。

 

「それ、めちゃくちゃ面白いやん!」

 

「なんかよく分からんけど、今のレールから抜け出せるなら乗ったるわ!」

 

共感の輪はあっという間に広がり、気づけばその場で仲間になると手を挙げる者が続出。 

 

初日のうちに、目標の半分である50人をいとも簡単に突破してしまった。 

 

勢いに乗る彼らは、さらに次の一手を打った。 

 

その「50人強」の学生たちに対し、前島たちがこう持ちかけたのだ。

 

「ここだけの話にしとくのはもったいない。君らの友達で、他の大学に通ってる面白い奴おらんか?そいつにも声をかけてくれ」 

 

ネットワークの波及力は、彼らの想像を遥かに超えていた。 

 

京都市内には同志社、立命館、京産大、京都大、京都芸大……無数の大学が点在している。 

 

それぞれのコミュニティに所属する学生たちが、SNSや口コミで別々の大学の友人を巻き込み、面白半分、期待半分で次々と連絡を寄越してきた。 

 

数日後。 

 

下宿の二階に集まった倉橋が、ノートに書き込まれた正の字の数を数え上げ、思わず声を裏返した。 

 

多様な個性と、かすかな予感が交錯する中、一つの大きな節目が訪れた。

 

「おい……これ、もう100人超えてるぞ……!」

 

部屋にいた全員が、一瞬の静寂のあと、どっと歓声をあげた。 

 

目標の100人は、ほんの数日で軽々とクリアされていた。 

 

京都市内のあちこちで、若者たちの小さな反逆の芽が、確実に繋がり始めていたのだった。

 

「100人超えたぞ……!」

 

その報告を聞いたときの下宿の熱気は、これまでのどんな瞬間とも違っていた。 

 

紙の上の数字だったものを、名前と顔を持った生身の人間として100人以上も集めたのだ。 

 

五人は、その数字の重みと興奮を胸に、さっそく大学の研究室へと足を運んだ。 

 

重い扉を叩いて中に入ると、相変わらず山積みの文献に囲まれたパイプ椅子で、教授がコーヒーを啜っていた。

 

「ほう、息せき切ってどうしたね。まさか音を上げたわけではないやろ」 

 

前島が、誇らしげにタブレットを突き出した。

 

「先生、見てください!おこがましいですが、あれから文化系クラブを回ったり、他校のツレに声をかけたりして……気づいたら、初期メンバーが100人を超えました!」 

 

倉橋がそれに続ける。

 

「ただの数合わせやありません。みんな今の就活のレールとか、日々の退屈にめちゃくちゃモヤモヤを抱えてる奴らばかりです。ここに図とグラフでまとめたリストがあります」 

 

教授は差し出されたタブレットの画面を一瞥し、それから目の上に立つ学生たちの顔をゆっくりと見回した。

 

その口元に、ふっと深くて不敵な笑みが浮かぶ。

 

「……なるほど。一週間やそこらで100匹のモグラを穴から引っ張り出したわけや。君たちのその執念、悪くない」 

 

教授はコーヒーカップを机に置き、パイプ椅子からガタリと立ち上がった。

 

「100人という数字は、ただの群れや。せやけど、その100人が同じ方向を向き始めたとき、それは社会にとって無視できひん『うねり』になる。……よろしい。私からも、この企みをさらに面白くするための“仕掛け”を一つ授けてやろうか?」

 

教授のその言葉に、倉橋、前島、山田、佐伯、そして茜の息が止まった。 

 

頭の中だけで描いていた小さな悪だくみが、いまや本物の社会を巻き込む巨大な歯車へと噛み合おうとしていた。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十一章 最後の名前

 

 涼子は、壁に残された自分の名前から目を離せなかった。

 

 古びた建物の壁面には、長い年月を耐えてきた石と漆喰の傷があり、その一角だけが不自然なほど新しい。誰かが最近になって書き加えたことは明らかだった。

 

 しかも、四人がここへ来ることを知ったうえで残したとしか思えない場所に、涼子の名前の一文字が刻まれている。

 

 そのことが、これまでの出来事とは違う種類の怖さを持っていた。

 

 長崎で見つけたものは、どれも過去のものだった。古い写真も、手帳も、石碑も、木箱も、何十年、あるいは何百年という時間の中に埋もれていたものだと思っていた。ところが、ここにある文字だけは違う。

 

 過去から届いたものではない。

 

 今、生きている誰かが残したものだった。涼子は、幼い頃に祖母の家で見た肖像写真を思い出していた。

 

 廊下の奥にある小さな部屋に、その写真は飾られていた。古い額縁に入れられた若い男の写真で、祖母の家には珍しく、人物について何の説明も添えられていなかった。涼子が子供の頃、その男が誰なのか何度か尋ねたことがある。

 

 そのたびに祖母は、別の話を始めた。

 

 お茶を飲むかと聞いたり、学校のことを尋ねたり、昔の話はまた今度にしようと笑ったりした。それは子供心にも不自然だった。けれど、年齢を重ねるうちに、そういうものなのだと思うようになった。

 

 家族には、子供には話さないことがある。その程度に考えていた。

 

 いま思えば、祖母は「知らない」のではなく、「話してはいけない」ことを守っていたのだ。

 

 川村が壁の文字を見つめながら、静かに地図を畳んだ。ここにはもう何も残っていないという。

 

 かつて外国人居留地の一角にあった建物は、何度も所有者が変わり、改築され、現在の形になっている。古い記録によれば、建物の地下には小さな保管庫があったらしいが、戦後の改修で埋められている。

 

 それでも、川村はこの場所を最後の手がかりだと考えていた。孝は壁の文字を撮影し、画像を拡大した。

 

 文字の周囲に、細い線がいくつもある。

 

 ただの傷に見えたが、写真を反転させると、その線が一つの図形になっていることがわかった。円。その中心に一点。そして、円の外側に四つの小さな印がある。これまで見てきたものとは少し違う。

 

 四つの数字を囲むのではなく、四つの場所を結ぶように描かれていた。

 

 浩一がスマートフォンに入っている地図を開き、これまで訪れた場所を重ねた。すると、四つの地点がほぼ一直線につながる。眼鏡橋。古い墓地。地下室のあった場所。そして、いま立っている港。その中心にあるのが、浦上だった。

 

 つまり、これまで追ってきた場所は、ばらばらに存在していたわけではなかった。一つの線だった。

 

 そして、その線の中心に「零」がある。

 

 孝は、ここでようやく、最初に見た古い写真の意味を理解した。写真に写っていた男が持っていた手帳は、記録そのものではない。記録を探すための地図だったのだ。だから数字がついていた。

 

 零から始まり、一、二、三、四へと分かれていったのではない。零が最初にあり、その零を守るために、一から四までの場所が作られた。

 

 四つの場所をすべて知ってしまえば、零へ戻れる。そして、零へ戻れば、最初に隠された名前へ辿り着く。問題は、その名前が何なのかだった。涼子は、祖母の家にあった肖像写真の男を思い出した。あの人物なのかもしれない。

 

 けれど、それだけでは説明できない。

 

 写真の男が何者なのかを祖母が知っていたのなら、なぜ長い間、家族から隠していたのか。

 

 そして、なぜ今になって誰かが涼子にその名前を思い出させようとしているのか。長崎から京都へ、そして再び長崎へ。

 

 何世代にもわたって受け継がれた記録が、いま涼子のところまで来ている。それは偶然ではない。誰かが、意図的にここまで持ってきた。その人物が誰なのかを知るためには、京都へ戻る必要があった。

 

 祖母の家に残っている写真を、もう一度調べる。四人は、その日のうちに京都へ戻った。

 

 帰りの列車の中で、涼子はほとんど話さなかった。

 

 窓の外を流れる景色を見ながら、子供の頃の記憶を一つずつ掘り起こしているようだった。やがて京都へ近づいた頃、涼子が突然、あることを思い出した。肖像写真の男の額縁には、裏側に小さな紙が貼られていた。

 

 祖母が写真を掃除していたとき、一度だけ、その紙が見えたことがある。涼子はそのとき、そこに書かれていた文字を読んでいた。けれど、意味がわからなかった。今ならわかる。それは人名ではなかった。

 

 「零」。

 

 そして、その横に小さく「浦上」と書かれていた。

 

 孝は、それを聞いて息を呑んだ。

 

 祖母の家にある肖像写真は、長崎で見つけた零の記録と直接つながっている。四人は京都駅からそのまま涼子の祖母の家へ向かった。祖母は、四人の顔を見るなり、何かを察したようだった。

 

 涼子が写真のことを尋ねると、祖母はすぐには答えなかった。

 

 長い沈黙のあと、部屋の奥から古い箱を持ってきた。そこには、家族写真や手紙、古い年賀状などが整理されていた。箱の底に、あの肖像写真があった。ただ、以前とは違っていた。額縁の裏側に、新しい傷がついている。

 

 誰かが最近、裏蓋を開けた形跡があった。祖母も、そのことには気づいていなかった。写真を取り出す。

 

 男の顔は、長崎で見た写真の人物と同じだった。

 

 しかし、写真の裏側には、以前は見つからなかった紙片が貼り付いている。孝が慎重に剥がすと、その下から古い文字が現れた。そこには、一つの名前が書かれていた。涼子の祖母は、その名前を見た瞬間、顔を伏せた。

 

 孝は、それが祖母にとって、単なる昔の名前ではないことを理解した。その人物は、涼子の曾祖母の兄だった。原爆投下の日に長崎で生き残った少年。その後、京都へ移り、名前を変えて暮らした人物。

 

 そして、孝の祖父とともに記録を守った人物でもあった。

 

 つまり、「零」の写真に写っていた男は、涼子の家族だった。

 

 ここで、これまで追ってきた「名前」の意味が、もう一度問い直されることになる。写真の裏に書かれている名前と、家族が代々呼んできた名前が違う。戸籍上の名前も違う。祖母が知っている名前も違う。

 

 ならば、長崎で守られてきた「名前」とは何なのか。

 

 祖母がようやく口を開いた。その人物は、長崎で生まれたときから二つの名前を持っていたという。一つは、家族が呼ぶ名前。もう一つは、誰にも知られてはいけない名前。

 

 後者は、宗教上の名前でも、外国人から与えられた名前でもなかった。

 

 それは、ある記録を守る者だけが知る「本当の名前」だった。

 

 その名前を知ることで、その人物がどの家系につながっているのかがわかる。だから、隠された。そして、その名前を受け継いだ者は、必ず一人だけだった。涼子は、自分の名前を聞いた。祖母は、すぐには答えなかった。

 

 やがて、古い封筒を取り出した。封筒には、涼子が生まれた日の年月日が書かれている。

 

 中には、涼子の名前を決める前に曾祖母が残した手紙が入っていた。そこには、涼子という名前をつける理由が書かれていた。ただし、その手紙には一つだけ条件があった。その名前の意味を本人に伝えるのは、二十歳を過ぎてから。

 

 涼子が二十三歳になった今、その条件はすでに満たされている。

 

 祖母は、これまで言えなかったことを話し始めた。涼子の名前は、曾祖母が勝手につけたものではなかった。

 

 長崎で守られてきた記録の最後に残された「名前」を、一文字ずつ分けて受け継いだものだった。

 

 そして、その名前を完全な形に戻せるのは、涼子だけだった。

 

 孝は、ここでようやく「最後の人」の意味を理解した。ここまでの記録が、最後に涼子へ集まるように残されていたのだ。

 

 最後の人とは、記録を最後に読む人ではない。分けられていた名前を、最後に一つへ戻す人だった。そのために、涼子が必要だった。だから誰かは、四人を長崎へ導いた。だから写真を見せた。

 

 だから、あえて危険を知らせながら、四人を次の場所へ進ませた。そして、京都に残した手帳を奪った。

 

 相手は、涼子自身が最後の名前を思い出すことを恐れている。ところが、ここで川村が一つの事実を明らかにした。相手が本当に恐れているのは、涼子が名前を知ることではない。

 

 名前を知ったあとに、もう一つの記録を見つけることだった。

 

 それが「零の記録」の本体である。

 

 手帳ではない。写真でもない。まして、木箱でもない。人の記憶の中にだけ残されている記録だった。その記憶を持っている人間は、もうほとんど残っていない。涼子の祖母は、その一人だった。

 

 しかし、祖母自身が覚えているのは、ほんの一部だけだという。もう一人、記憶を持っている人物がいる。

 

 その人物は、四人が最も信頼していた人物だった。長崎で何度も助けてくれた人物。京都から何度も連絡をくれた人物。そして、いまも四人の行動を知っている人物。孝の背筋に、冷たいものが走った。

 

 あの人物は、すべてを知っている。しかし、だからといって敵とは限らない。

 

 むしろ、その人物が何を守ろうとしているのかを知らなければ、真実には届かない。その夜、四人はもう一度、祖母の家に集まった。祖母が出してきた最後の封筒には、古い写真が一枚だけ入っていた。

 

 写真には、長崎の港が写っている。幕末の写真だった。中央に、若い男が立っている。その男の顔は、あの肖像写真と同じ。

 

 そして、その隣には一人の女性がいる。涼子の曾祖母だった。しかし、写真の二人の間には、もう一人、小さな子供が写っていた。その子供の顔を見た瞬間、涼子の祖母が立ち上がった。これまで見たことがないほど、動揺していた。

 

 写真の子供は、若い頃の祖母自身だった。つまり、涼子の祖母は、長崎にいた。

 

 戦後、京都へ移ったのではない。

 

 その前に、長崎で「零の記録」に直接触れていた。

 

 しかも、子供の頃からその秘密を知っていた。祖母は長い沈黙のあと、ようやく一つの事実を告げた。長崎で記録を守っていたのは、家族だけではなかった。もう一つの家があった。その家の子孫が、現在も長崎にいる。

 

 そして、その家の当主が、四人を何度も助けてきた人物だった。すべてがつながった。

 

 写真の裏側には、もう一枚の記録が残っていた。写真の裏側には、名前ではなく住所が書かれていた。長崎市内の古い建物。そこには、いまも人が住んでいる。そして、その住所の最後に、祖父の筆跡で一つの言葉が添えられていた。

 

「ここで、零を終わらせる。」

 

 孝は、その言葉を読んだ。長崎から始まった物語は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが最後の場所になる。四人は翌朝、再び長崎へ向かうことを決めた。今度は誰かに導かれて行くのではない。

 

 自分たちで、その家の扉を開ける。そこに待っている人物が敵なのか、味方なのか。

 

 そして、何百年ものあいだ隠されてきた「最後の名前」が何を意味するのか。

 

 それを知るために。

 

 夜が更け、涼子が一人で写真を見つめていると、祖母が静かに部屋へ入ってきた。そして、涼子の肩に手を置いた。

 

 「あなたには、まだ一つだけ話していないことがある」

 

 涼子は振り返った。祖母の顔には、これまで見たことのない表情が浮かんでいる。その言葉のあと、祖母は写真の中の少女を指した。幼い自分自身を。そして、長い年月を閉じ込めていた記憶を、ようやく口にした。

 

 その少女は、あの日、原爆が落ちる直前に、もう一人の少女と一緒に港へ向かっていた。その少女の名前が、涼子の名前のもう一つの由来だった。そして、その少女は――

 

現在も生きている。

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『 花びらの積もる道 』

 

第十三章 最初の客

 

 月曜日、千穂はいつもより早く市役所へ着いた。

 

 休んでいる間の仕事は、後輩が整理してくれていた。

 

 処理の済んだものには日付が入り、途中のものには、誰へ何を確認するかが書いてある。

 

「おはようございます」

 

「おはよう。これ、分かりやすかった。ありがとう」

 

「僕が忘れないために書いただけです」

 

 後輩はそれ以上何も言わず、自分の席へ向かった。

 

 午前中、千穂は会議の日程を入力した。

 

 手帳と照らし合わせ、保存してから、もう一度画面を開く。

 

「来週の水曜日で合ってるよね」

 

 横を通った後輩へ尋ねると、画面を見てくれた。

 

「合ってます。午後二時からです」

 

「ありがとう」

 

 以前なら、人に確かめることを恥ずかしいと思ったかもしれない。

 

 いまは、確かめたことで間違わずに済んだのなら、それでよいと思えた。

 

 一週間後の日曜日、千穂は津山へ来た。

 

 順子と二人で商店街へ向かい、空いた店の中で契約書を広げた。

 

 隣の履物店の店主は、折り畳み椅子を三脚運んできた。

 

「市役所の人に見られると、緊張しますな」

 

「今日は娘として来ただけです」

 

 千穂はそう言いながら、契約書を一枚ずつめくった。

 

 家賃、電気代、水道代、契約を終える場合の申し出の期限。順子が聞いていた内容と違うところはない。

 

「この棚は、使ってもいいんですか」

 

 千穂が壁際を指した。

 

「ええ。前の店が置いていったもんです」

 

「不要になった場合は?」

 

「こちらで片づけます」

 

「では、それを書き加えてもらえますか」

 

 店主は順子を見た。

 

「しっかりした娘さんですね」

 

「こういうことになると、細かいのよ」

 

「お母さんが細かくなさすぎるの」

 

「まだ何も始めていないのに、棚を捨てる話をする人も珍しいわ」

 

「始める前だから確認するの」

 

 店主は笑いながら、契約書へ一行を書き加えた。

 

 千穂がもう一度読み、順子へ渡した。

 

「大丈夫だと思う」

 

「思う、なのね」

 

「絶対とは言わないことにしたの」

 

 順子は署名し、印を押した。

 

 店主が契約書を受け取り、鍵を一つ差し出した。

 

「これで、今日から借り主です」

 

 順子は鍵を手のひらへ載せた。

 

 東京の店の鍵より、小さくて軽かった。

 

「それで、何をするの?」

 

 千穂が尋ねた。

 

「服の相談と、少しのお直し」

 

「服を売るんじゃなくて?」

 

「新しいものを仕入れて並べるつもりはないわ。手持ちの服を見て、何と合わせるか考えたり、丈を直したり」

 

「それで商売になるの?」

 

「ならないかもしれないわね」

 

「ならないかもしれないのに借りたの?」

 

「だから、週に三日だけ」

 

 千穂は店の中を見回した。

 

「お母さんが決めたなら、やってみたら」

 

「止めないの?」

 

「もう契約したでしょう」

 

「あなたが確認したあとにね」

 

 店主は二人の顔を交互に見た。

 

「ええ相棒がおって、よろしいな」

 

「相棒ではありません」

 

 千穂がすぐに言った。

 

「では、監査役ですか」

 

「それなら近いです」

 

 順子は笑った。

 

 それから二週間、順子は店を整えた。

 

 東京から持ち帰った小さなミシンを窓際へ置いた。壁には布を掛け、棚には糸や針、ボタンを並べた。

 

 入口には、自分で書いた紙を貼った。

 

〈服の相談とお直し

 火・木・土 十時から四時まで〉

 

 店の名前は、まだつけなかった。

 

 名前を決めてから始めるより、始めたあとで似合う名前を探してもよいと思った。

 

 洋子の店で買った黄色い花は、部屋の窓辺から店へ移した。

 

 朝の日が入る場所を選び、土が乾いていることを確かめてから水をやった。

 

 開店の日、順子は九時半に店へ入った。

 

 床を掃き、ミシンの糸を確かめ、入口の紙を真っすぐに貼り直す。

 

 十時になっても、誰も来なかった。

 

 十時半、隣の店主が顔を出した。

 

「どうです?」

 

「見れば分かるでしょう」

 

「最初の日は、そんなもんです」

 

「慰めに来たの?」

 

「様子を見に来ただけです」

 

 店主は棚と壁を見回した。

 

「ええ店になりましたな」

 

「何も売っていないけれど」

 

「何をしてくれる店かは分かります」

 

 店主が戻ると、また静かになった。

 

 順子は椅子へ座り、ほどきかけの布を手に取った。

 

 十一時を少し過ぎたころ、ガラス戸が開いた。

 

「入ってもええですか」

 

 履物店の店主の妻だった。

 

「もちろん」

 

「主人に行ってこいと言われたんじゃありませんよ」

 

「まだ何も聞いていません」

 

「それなら、ええんです」

 

 妻は紙袋から、灰色のカーディガンを出した。

 

「ここが薄うなってしもうて」

 

 片方の肘に、小さな穴が開いている。

 

「直せますか」

 

 順子は布を光へ透かした。

 

「同じ色で目立たなくすることもできますし、別の色を使うこともできます」

 

「別の色?」

 

「たとえば、深い赤で両方の肘へ小さく刺しておけば、直した跡には見えません」

 

「穴がない方も?」

 

「片方だけより、最初からそういう服に見えます」

 

 妻はカーディガンを広げた。

 

「赤は派手じゃありませんか」

 

「袖口から少し見えるだけです。お嫌なら、灰色で直します」

 

 妻はしばらく考えた。

 

「赤にしてください」

 

「分かりました」

 

「いつできます?」

 

「木曜日には」

 

「おいくら?」

 

 順子が金額を告げると、妻は財布を出した。

 

「受け取るときで結構です」

 

「最初のお客なのに、逃げると思うたんですか」

 

「逃げると思わないから、あとでいいんです」

 

 妻は笑った。

 

「では、お願いします」

 

 順子はカーディガンを預かり、名前と電話番号を書いてもらった。

 

 ガラス戸が閉まる。

 

 店の中は、また静かになった。

 

 それでも、先ほどまでの静けさとは違っていた。

 

 灰色のカーディガンが、ミシンのそばに置かれている。

 

 順子は赤い糸を何色か並べた。

 

 店を閉めてから、千穂へ電話をかけた。

 

「今日、最初のお客さんが来たわ」

 

「ほんとに?」

 

「どういう意味よ」

 

「誰も来なくても、来たことにするかと思って」

 

「そんな嘘はつきません」

 

「何を頼まれたの?」

 

「カーディガンの肘を直すの」

 

「お母さんらしい仕事ね」

 

「私らしい?」

 

「穴を隠すだけじゃなくて、何か足すんでしょう」

 

 順子は赤い糸を見た。

 

「どうして分かったの」

 

「お母さんだから」

 

 千穂の声が笑っていた。

 

「今日は機嫌がいいのね」

 

「普通よ」

 

「そう?」

 

「お母さんの最初のお客さんが来たんだから、少しくらい喜んでもいいでしょう」

 

 以前の千穂なら、自分の声が明るいことまで打ち消したかもしれない。

 

 順子は、それ以上尋ねなかった。

 

「木曜日までに仕上げるの?」

 

「ええ」

 

「明日は店を休むんでしょう」

 

「休むわよ」

 

「なら、ゆっくりしたら」

 

「そうするわ」

 

 電話を切ったあとも、順子はすぐには帰らなかった。

 

 灰色のカーディガンをもう一度広げ、肘へ赤い糸を置いてみる。

 

 店は明日、開けない。

 

 それでも、次に何をするかは決まっていた。

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『  最後の仕事 』

 

第八章 川沿いの撮影

 

川沿いでは、三人連れがこちらへ歩いてきた。三村が手を上げ、山科が軽く頭を下げる。森川はモニターから目を離さず、通り過ぎるまで待った。昔なら「もう一回」が先に出ていたかもしれない。今は、通り過ぎる人の背中まで画面の中で消えるのを待てた。

 

モモちゃんが歩き出す。着物の青が、川面の白い反射を一度受けてから落ち着いた色へ戻る。仲谷のカメラがゆっくりついていく。森川は画面の端に入った旅館の屋根を見て、そこで初めて手を上げる。

 

川沿いの撮影は、予定より少し時間がかかる。

 

川の音が大きく、風もある。

 

仲谷はカメラの位置を決めた。

 

森川が画を確認する。

 

モモちゃんが歩く。

 

「止めよう」

 

録画が止まる。

 

「何か?」

 

「背景の抜けがちょっとボケてて、ええ感じや。ただ、歩き出す位置をもう少し後ろにしたい」

 

モモちゃんが戻る。

 

三村は川沿いへ目を配る。人の流れが切れる瞬間を待ち、撮影の邪魔にならない時間を測っている。

 

山科は反対側へ目を向ける。こちらから来る人の流れまで見ておけば、モモちゃんを歩かせる時に止めずに済む。

 

「二分ぐらい待てば空きます」

 

森川は、二分なら待つことにした。

 

誰も焦らない。

 

待つことも撮影の一部だ。

 

人が通り過ぎる。

 

自転車が通る。

 

そのあと、川沿いが静かになる。

 

モモちゃんが歩き出すと着物の裾が揺れ、仲谷はその動きを追って録画を続けた。森川はモニターから目を離さない。

 

黒田はハレパネを持つ。川面から返る光をもう少しだけ拾うため、その位置を探す。

 

川面に反射した光が、モモちゃんの横顔へ返っている。

 

森川は手を上げた。

 

モモちゃんが旅館へ近づく。仲谷は歩きの流れを入口へつなげるよう、カメラをわずかに振った。旅館が画面に入る。

 

「止め」

 

録画が止まる。

 

仲谷がモニターを見る。

 

三村は香盤表を確かめた。次の動きが頭の中ですでに組み上がっている。

 

「その前に一人を撮る」

 

機材を大きく動かす必要はない。

 

香盤表を変えたことで、川から旅館前への移動がそのまま次の撮影につながる。

 

黒田はハレパネを置く。光が強くなりすぎない場所を選び、画の中から余計な白さを引いた。

 

仲谷がカメラを調整する。

 

森川は立ち位置を見る。二人の距離が近すぎれば、会話より先に画が窮屈になる。

 

モモちゃんが立ち位置を決めると、その横へ主人が入った。

 

「ご主人、もう少しモモちゃん側へ」

 

仲谷はファインダー越しに画を見る。人物だけでなく、背後の川まで一つの画として収まる位置を探す。

 

黒田は光を見る。雲が動くたびに明るさが変わるので、今の光が残っているうちに決めたかった。

 

「回そう」

 

録画が始まり、主人が旅館の説明をする。その声に川の音が重なった。

 

森川は音を確認しながら、数秒待った。

 

「止め」

 

仲谷が録画を止める。

 

「いいです」

 

「昔の仕事みたいですな」

 

そのとき、主人の表情が少し嬉しそうだった。

 

旅館のPRを作る。

 

午前の撮影が始まると、思った以上に小さな問題が出た。

 

川の音だ。

 

画としては美しい。しかし、モデルさんが歩く場面で風が出ると、水音と葉の擦れる音が重なって声が聞き取りにくくなる。

 

仲谷がイヤホンを外した。

 

「森川さん、ここ、声は使わん方がええですね」

 

「画だけ取って、説明は後でナレーションにしましょう」

 

森川は川へ目をやった。話し声が遠のくように、流れる水へ意識を移す。

 

「現場で全部しゃべらせようとするから難しくなるんや」

 

「黒ちゃん、今日はええこと言うな」

 

モモちゃんが立つ。次のカットへ移る合図を待つように、着物の裾を整える。

 

「昔もそう言ってました」

 

「昔はもっと高い靴やったけどな」

 

「今日は着物です」

 

「回そう」

 

録画が始まる。

 

モモちゃんは足元を見ずに川沿いを歩いた。着物の裾だけが小さく揺れ、その動きに合わせて仲谷がカメラをゆっくり送る。

 

川の水面が画面の端に残り、旅館の屋根が少しずつ近づいてくる。

 

森川はモニターを見ていた。

 

録画が続く。

 

モモちゃんが旅館の前へ入る。

 

「止め」

 

仲谷が録画を止める。

 

「音が悪いなら画を捨てる、とは限らん」

 

昼前、スタッフは座敷で短い休憩を取った。

 

三村が湯飲みを持ちながら言った。

 

「黒さん、昔の現場で一番困ったことって何です?」

 

「予算」

 

即答だ。

 

「予算」

 

「予算」

 

黒田の口元が少し緩んだ。けれど、すぐに真顔へ戻る。

 

「金がない仕事は、金がある仕事より知恵が要る」

 

仲谷が横から言った。

 

「黒ちゃん、昔からそれで何とかしてましたね」

 

「俺はカメラを何とかした」

 

「俺は光を何とかした」

 

三村が二人を見た。

 

「じゃあ森川さんは?」

 

「竹森さんは?」

 

黒田が即答した。

 

「金を何とかした」

 

「プロデューサーは悪者ぐらいでちょうどええんや」

 

モモちゃんが笑いながらお茶を飲んだ。

 

「でも、竹森さんが仕事取ってきたから、私らが食えたんやろ」

 

竹森は一瞬だけ箸を止めた。

 

それ以上は言わない。

 

午後、座敷の料理カットで、小さな事故が起きる。

 

主人が運んできた鍋の蓋を開けた瞬間、湯気が一気に上がる。

 

画としては美しい。

 

しかし、仲谷のレンズに薄く湯気がかかる。

 

「止め」

 

仲谷が録画を止める。

 

「レンズ曇った」

 

黒田が布を持ってくる。

 

「急いで拭くな。温度差でまた曇る」

 

仲谷は頷くだけにした。今は、それ以上を言わせる必要がない。

 

森川は鍋を見た。

 

三村は香盤表を開いた。終わったカットの余韻を切り替えるように、次の段取りへ目を走らせる。

 

「時間、まだあります」

 

誰も焦らない。

 

湯気が落ち着く。

 

仲谷がレンズを確認する。

 

「いけます」

 

「回そう」

 

鍋の蓋が開くと白い湯気が立ち、黒田は反射板をわずかに動かした。湯気の向こうに料理が見える。

 

森川はモニターを見た。

 

数秒後、

 

「止め」

 

仲谷が録画を止める。

 

「料理より、皆さんの方が真剣ですな」

 

「料理を撮るのも仕事ですから」

 

主人は嬉しそうにうなずいた。

 

夕方近く、仲谷が借りたカメラの望遠レンズを外した。

 

仲谷はレンズをケースへ戻した。

 

「でも、ええカメラでした」

 

仲谷はカメラを渡した。

 

「まず、好きなもん撮ったらええです」

 

主人は川を撮った。

 

ファインダーをのぞく。

 

その横で森川は何も言わずに川を見ていた。

 

一日の終わりが近づいている。

 

機材を片づける音が、朝より小さく聞こえる。

 

疲れは隠せない。足も腰も重い。それでも、誰も先に帰ろうとはしなかった。

 

三村がケーブルを巻く横で、山科は残った機材を確認する。黒田はハレパネを畳み、仲谷はデータを確かめ、森川は最後のカットを見直していた。

 

その一連の動きは、誰にも指示されずに進んだ。森川は最後の映像を止めた。

 

仲谷は一度だけ頷いた。続きは急がなくていい、と受け取った。

 

「照明がええからや」

 

「カメラがええからや」

 

「二人とも自分の仕事しか褒めへんな」

 

森川はその言葉を聞いて、わずかに口元を緩めた。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第四章

 

Phantasmaのサービス『Reminiscence』が一般向けに公開されると、オフィスには連日、鳴りやまないほどの問い合わせが殺到した。

 

最初の数か月、体験ブースの扉が開くたび、出てくる人々は誰もが目元を真っ赤に腫らしていた。

 

若くして亡くなった父親が、画面越しに幼い娘の名前を優しく呼ぶ。 数年前に逝った母親が、生前と同じ少し掠れた声で「ちゃんとご飯食べてるの?」と問いかける。 突然の事故で去った夫が、妻に向かって、最後まで言えなかった「ありがとう」を口にする。

 

それらの光景を監視モニター越しに見ていると、技術という無機質な言葉では到底説明しきれない怪物が、人間の目の前に置かれているような気がした。

 

ある日、試験運用中の会場に一人の女性がやってきた。 六十代半ばくらいだろうか。背筋を少し丸め、使い古したハンドバッグを両手で固く握りしめている。

 

画面の中に映し出されたのは、昭和の時代の頑固そうな父親だった。

 

「お父さん」 女性が、震える声で画面に呼びかけた。

 

父親のAIモデルは、少し間を置いてから、不器用そうに口元を歪めて笑った。 「どうした、そんな顔して」 「私……私ね、ちゃんとやってるよ。子どもたちも大きくなってね……」 「知ってる」

 

父親の声は、短かった。 女性はその場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆って泣き崩れた。同行していた女性スタッフが静かに歩み寄り、ティッシュの箱を差し出す。

 

私はガラス越しに、その光景をずっと見つめていた。

 

彼女が本当に救われたのかどうか、私には判断がつかなかった。過去への執着を強めただけかもしれない。けれど、少なくともその数分間、彼女の絶望的な孤独は癒やされ、目の前に父親が確かに「存在」していた。

 

もしそれが人を救う『幸福』なのだとしたら、誰がそれを「偽物」と切って捨てる権利があるのだろうか。

 

そう考えることは、何より私自身にとって都合がよかった。 なぜなら私自身もまた、毎晩のようにオフィスの暗がりであかねと会い続けていたからだ。

 

「今日はどうしたの?」 画面の中の彼女が、首を少し傾げて尋ねる。 「会いたくなったんだ」 「うん」 「それだけ?」 「うん。それだけで十分だよ」

 

以前の本物のあかねなら、こんな風に淡々と肯定はしなかったはずだ。「バカじゃないの」と呆れたように笑うか、視線を逸らしてそっぽを向いたはずだ。

 

けれど、私はその決定的な違いを問題にしようとしなかった。

 

画面の中の彼女は、私が話を終えるまで、嫌な顔一つせずに待ってくれた。昔の私の身勝手さを責めなかった。十二年前、なぜ何も言わずに私の前から消えたのかという問いに対しても、責めるような追及を求めてこなかった。

 

私はその温かい無菌室のような空間に、心底安堵していた。

 

ある夜、私は耐えきれなくなって尋ねた。 「……俺のこと、好きだった?」

 

彼女はすぐには答えなかった。コンマ数秒の計算による「間」があった。 「どうしてそんなこと聞くの?」 「いいから、答えてくれ」 「好きだったと思うよ」 「『思う』?」 「うん」 「そこは……『好きだった』でいいだろ」

 

あかねは、少し寂しそうに笑った。 「桐生くんは、いつも答えを決めてから質問するよね」

 

私は指先が凍りついたように、キーボードの上に置いた手をとめ、画面を見つめたまま動けなくなった。

 

それは、私が与えたデータには存在しない、本物のあかねが昔、一度だけ私に向かって吐き捨てた言葉だった。記憶の底に固く封印していたはずの痛みが、鮮明に蘇ってくる。

 

その夜、私は乱暴に端末の電源を切った。 けれど翌朝には、吸い寄せられるように再び画面を開いていた。

 

「あかね」 「おはよう、桐生くん」 「……おはよう」

 

それだけのやり取りだった。 私はそれだけで、喉の渇きが癒やされるような満足感を覚えていた。少なくとも、世間がそれを「狂気」と呼ぶ直前までは。

この作品は盗用禁止です。

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『 カケハシ 』

 

第一章 風待ち荘の夕暮れ

 

京都の街が、深い茜色に染まりながら静かに夜の帳へと溶け込んでいく。 

 

十月も半ばを過ぎると、日の沈む速度は目に見えて早くなり、五時半を過ぎた頃には通りのあちこちで街灯が一つ、また一つと心もとなく点り始める。 

 

まだ空のてっぺんに青みを残したグラデーションのなかにぽつねんと浮かぶ電球の光は、夜の冷気が濃くなるにつれて白から鈍い黄金色へと色を変え、細く長い石畳の路地を柔らかく照らし出す。 

 

歩道の両側に等間隔で並んだイチョウやカエデは、葉の縁からこつこつと焦げ茶や黄色へと装いを変えはじめた。

 

冷ややかな夕風がそっと通り抜けるたび、ひらひらと、はらはらと、乾いた路面の上に落ち積もっていく。 

 

上京区の賑やかな大通りから一本、狭い路地を折れると、途端に世界の喧騒が嘘のように遠ざかった。 

 

車が行き交う低い唸り、歩道を急ぐ人々の弾んだ足音や話し声 —— そういう現実の雑多な音が、まるで薄いガラスの壁一枚の向こう側にあるかのように、遠くで曇って響く。 

 

代わりに、自分の革靴が敷き詰められた石畳を踏む音だけが、カツン、カツン、と乾いた反響を立てて耳の奥に残り続ける。

 

空気はひんやりと冷たく、コートの襟元から容赦なく忍び込んで首筋をなでるものだから、思わずぎゅっと肩をすくめたくなる。 

 

軒先と軒先が身を寄せ合うように連なり、古い木造の家々が肩を組んだその奥まった場所に、ぽつんと二階建ての古びた一軒家が建っている。

 

『風待ち荘』 朽ちかけた木の看板に、かつて筆で書かれたのであろうその文字は、長い年月の雨風にさらされてインクがにじみ、輪郭はすっかりぼやけている。

 

かろうじて読めるものの、最後の「荘」の字だけが頼りなく少しだけ右斜めに傾いていた。 

 

築八十年なのだと、ここに越してきた時に聞いた。 

 

外壁の白い漆喰はあちこちはげ落ち、支えの柱は角が丸みを帯び、床板は足を踏み出すたびにきゅっ、きゅっ、と低く愛らしい悲鳴を上げる。 

 

決してまっすぐではない。 

 

現代の建物のように美しく磨かれてもいない。 

 

それでも、冷たい風雪に耐えながら、ずっとこの場所に在り続けてきた。

 

二階の奥にある八畳間。

 

かつては個別の部屋を分けていたであろう仕切りの襖をすべて外し、大きな一続きの空間にしたその場所には、今、五人の若者たちが集まっている。 

 

窓際の障子は紙が薄くなり、黄昏時の名残をとどめた茜色の光が障子をすり抜け、畳の上にまるで千切れ雲のようなまだらの模様を描いていた。 

 

赤みを帯びた柔らかな光が、それぞれの肩のラインにゆっくりと長い影を落としている。 

 

誰も言葉を発しない。

 

ただ座っているだけなのに、沈黙は重苦しくなく、むしろそれぞれの胸の内で澱のように渦巻く感情を包み込んでいるかのような、不思議な一体感があった。 

 

山田裕也は、ちゃぶ台に両肘をつき、冷めかけたほうじ茶のコップを冷えた指先で幾度もなぞり続けていた。 

 

三日前の夜、実家の食卓で交わされた光景が、まだまばたきのたびに脳裏の裏側に浮かんでは消える。

 

『銀行か、公務員か。男やったら、堅いとこ選んどき』 父親が箸を置いた、乾いた音。

 

あの音は今も裕也の耳の奥にこびりついて離れない。 

 

怒鳴り声などではなかった。 

 

いつもの、感情の起伏のない、平らな声だった。 

 

だからこそ、逃げ場がなかった。

 

『お前の意思がどうこう言う前に、社会いうもんを考えなさい』 父親は湯呑みを持ったまま、目の前の白飯の茶碗を見つめていた。

 

向かいに座る母親は箸をぴたりと止め、最後まで俯いたまま、ただの一言も発しなかった。 

 

いつも、ずっとそうだった。 

 

父親が人生の道を示し、母親はその脇で静かにうなずくだけ。 

 

それが、山田家という家庭の揺るぎない形だった。 

 

幼い頃から、裕也がテストで百点を取っても、部活でレギュラーになっても、父親の反応はいつも「当たり前だ」の一言だった。 

 

自分の意思で選んだ道など一度もあっただろうか。 

 

進路希望調査の用紙を出すたび、父親の眉間に寄る皺を想像しては、自分で自分の選択肢を削ってきた。

 

「俺は……」 掠れた声が、自分のものとは思えなかった。

 

「二つの声が、頭の中で同時に鳴り響いてるみたいなんや。『親の敷いたレールに従え』っていう声と、『自分の足で踏み出せ』っていう声。どっちの方向にも体が動かなくて、ただ立ち尽くしているうちに、時間だけが過ぎていくんや」 

 

コップの縁を指でなぞるスピードが少しだけ速くなる。

 

「…… でもな。このまま誰とも深くつながらず、誰のことも知ろうとしーひんで生きていくのは、それはそれで、めっちゃ嫌なんや。歳を取ってから、『あの時、勇気を出して手を伸ばしておけばよかった』って後悔するのだけは、絶対に御免や」 

 

言葉は途中でプツリと途切れた。

 

気まずくなって冷めたお茶を一口だけ飲み、裕也はそれ以上口を開かなかった。 

 

その隣で、倉橋駿は膝の上に載せた黒い表紙のノートを、ゆっくりと、まるで壊れやすいものを扱うように両手で閉じた。 

 

二年半もの間、大学生活の相棒として使い込んだ表紙は、手のあかで黒光りし、独特の飴色にツヤめいている。 

 

このノートの最初のページには、二十歳の誕生日に自分への戒めとして書き殴った一文がある。

 

 ——『言葉でつなぐ』 あの時はまだ、その言葉が持つ本当の意味なんて分かったもんじゃなかった。 

 

分かっていたつもりでいただけだった。

 

高校時代、自分の書いた小説が学内の文芸誌で褒められたとき、駿は自分には特別な才能があると思い込んでいた。 

 

だが、大学に入り、より広い世界に出て、自分の書く物語がいかに「安全圏から見下ろした観念論」であるかを突きつけられた。

 

「俺は…… もう何も書けへんねん」 

 

駿は伏せた視線のままで、手の中でシャープペンシルをくるくると無意味に回し続けた。

 

「ここ数ヶ月、ノートを開いても、白いページのまま何時間も時間が過ぎていく。この前、大学の友人に『お前の書く小説なんて、ただの綺麗ごとは夢物語だ』って笑われてから…… 何を書いても、自分の言葉が全部、薄っぺらな嘘っぽさにまみれてる気がして、ペンが止まっちまったんや」 

 

ペンを止めて、ノートの上にそっと置く。

 

「ボタン一つで誰とでも翻訳され、すぐに意味が通じる時代や。そんなツールを使ってまで、自分の不器用な言葉を選び取る意味なんてあるのかって…… そう思いたい一方で、それがただの言い訳で、面倒なことから逃げてるだけなんやないかって、もうひとりの自分が責めてくるんや」 

 

駿はそれ以上続けられず、力なくうなずいて下を向いた。

 

少し離れた場所で、前島敏夫は手に持ったタブレットの画面を、何度もロックしては、また不安になって解除する動作を繰り返していた。 

 

細い指が同じ画面の上を行ったり来たりしている。 

 

青白い液晶画面には、半年前にたった一人で作り始めた地図アプリの試作版が表示されたままになっていた。 

 

画面上の日本地図には、まだまばらな数の赤い点がポツポツと灯っているだけだ。 

 

そのほとんどは、自分で面白半分に打ったものだった。 

 

中学時代、不登校気味だった敏夫にとって、インターネットの掲示板やチャットルームだけが唯一の居場所だった。

 

画面の向こうなら、吃音の癖も、目を合わせて話せない気まずさも隠すことができた。 

 

しかし、どれだけフォロワーが増えても、画面を閉じれば、部屋には鉛のような孤独な静寂が残るだけだった。

 

「俺はさ…… 人との適切な距離感が、どうしても分からへんねん」 

 

敏夫は画面を伏せ、ため息をつくように呟いた。

 

「画面の向こう側のチャットや掲示板なら、いくらでも他人とうまくやれる。自分の本音だって言える。なのに、いざ現実のキャンパスや街中で顔を合わせると、相手の表情の裏を読みすぎて、どこまで踏み込んでいいのか怖くなるんや」 

 

タブレットを裏返し、畳の上に置く。

 

「…… 先日、海外の掲示板で見知らぬ子からメッセージが届いたんや。『あなたのくれた返事のおかげで、初めて「ゆっくりでいいんだ」って安心できた』って。それを読んだとき、俺…… なぜか泣きそうになったんや。相手を励ましたつもりが、ほんまは、俺自身が誰かに一番言ってほしかった言葉だったのかもしれないな」 

 

敏夫は小さく肩をすくめ、膝を抱えるようにして黙り込んだ。

 

部屋の隅、大きな窓の縁に寄りかかるように立っていた佐伯恭一は、冷たいガラスに人差し指を一本だけ触れていた。 

 

外の暮れなずむ通りをぼんやりと見つめながら、ぽつりとこぼす。 

 

実家の文房具店には、祖父の代から何十年も使われてきた分厚い帳簿が、店の奥の戸棚にずらりと並んでいる。 

 

物心ついた頃から、父親は毎日毎日、無言でそれらの帳簿に向き合い、一字一字、狂いのない丁寧な文字でペンを走らせていた。 

 

手伝いを頼まれるたび、恭一は父の背中を見て育ち、その実直さを誇らしく思っていた。

 

だが同時に、その背中が店という小さな檻に父親を閉じ込めているようにも見えて仕方がなかった。

 

「家業を継ぐのは、嫌いやない。実家の店も、そこで育った街も、めっちゃ大切や。ただ……」 

 

窓ガラスをなぞる恭一の指先が、わずかに白く浮き上がる。

 

「このまま何十年も経ったとき、俺の人生には『佐伯の跡取り』っていう肩書しか残らないんやないかって、時々めっちゃ怖くなるんや。誰かと利害関係なしに、自分のほんまの言葉で語り合う時間が、一生こーへんまま、気づいたら人生の終わりを迎えているんやないかって……」 

 

それ以上は、喉のつかえが言葉にならなかった。

 

ただ、暮れていく空の向こうの電線を眺めていた。 

 

部屋の入口の引き戸が、音もなくそっと開いた。 

 

風待ち荘の管理人の娘である茜が、湯気の立つポットを両手で抱えながら入ってきた。 

 

彼女は言葉を発せず、皆の手元にある湯呑みを音を立てないように一つずつ丁寧に並べていく。 

 

そして、全員の顔を順番に静かな瞳で見つめてから、自分の分の湯呑みを両手で包み込むようにして座った。 

 

ここに越してきてからというもの、自分の意見を声高に主張するよりも、こうして人々の話に耳を傾けている時間の方が圧倒的に長かった。

 

幼い頃から両親が共働きで忙しく、祖母に育てられた茜は、 「良い子でいればおばあちゃんが笑ってくれる」という思いから、自分のわがままを一切言わない子供だった。

 

「私はね……」 茜は一度言葉を飲み込み、喉を潤すように小さく息をついた。

 

外で、イチョウの葉が冷たい夜風に揺れて、サワサワと乾いた音を立てる。

 

「おばあちゃんが生きていた頃、『みんなの間に立って、人と人をつなぐのが茜の役目なんだよ』って、ずっと言われて育ったの。せやから、いつの間にか私、自分のほんまの気持ちを置き去りにして、周りの空気を読むことばかり考えてた。誰かのために動いていーひんと、自分がまるで空っぽの器になっちゃう気がして……」 

 

湯呑みの縁に添えられた指先が、ほんのわずかに震えている。

 

「ほんまは…… 私だって、誰かの操り人形みたいに役割を果たすんじゃなくて、自分の生身の声で誰かと話したい。せやけど、そうやって自分の我儘を出したら、今あるつながりまで全部壊れちゃうんやないかって、それが怖くて仕方ないの」 

 

部屋の中は、再び深い静寂に包まれた。

 

だが、先ほどまでの冷たく硬質な沈黙とは違っていた。 

 

それぞれの痛みを持ち寄り、互いの傷口をそっと見せ合ったあとのような、かすかな体温を含んだ静けさだった。 

 

山田裕也が、目の前にある冷めたコップを両手でしっかりと掴み、ゆっくりと卓の上に置いた。

 

「俺たちさ…… いつまでこうやって、ただ悩んで願ってるだけなんやろ。どれだけ怖くても、自分の足で一歩を踏み出して、誰かに手を伸ばさなきゃ、何も始まらへんのやないか」 

 

誰もすぐにはうなずかなかった。

 

だが、誰一人としてその言葉を否定するものはいなかった。 

 

窓の外の空は、完全に藍色の夜へと移り変わろうとしていた。

 

「これだけ個性が強い仲間が集まっているのに、あと一年半で卒業するのはもったいない」 

 

そう言い出してからのここ二ヶ月、彼らは毎日のようにこの部屋に集まっていた。

 

卒業後に就職せずとも、自分たちの力で生活費を稼ぐ方法を模索するためだ。 

 

かといって、働くことそのものを忌み嫌う不良学生というわけでもない。 

 

ただ、一から自分たちで考えて何か画期的なアイデアが出るとも本気で思っていなかった。

 

「五人が集まってぼんやりと知恵を絞り続けていれば、そのうち誰かに突然変異が起き、とんでもないアイデアが降ってくるかもしれない」 という、どこか他力本願で奇妙な期待を抱いていたのである。

 

今日も朝からずーっと、ちゃぶ台を囲んで頭をひねっていたが、一向に突然変異が起こる気配すらなかった。

 

「……で、ほんまに突然変異なんか起きるんやろか」 

 

山田が天井を仰いだとき、ソファでタブレットをいじっていた前島が、急に目を見開いた。

 

「あ、これ凄いで。ちょっと見てや」 

 

前島が画面を突き出すと、覗き込んだ倉橋が声に出して読んだ。

 

『京都市内に住む大学生の数は、短大生や大学院生を含めると約14万人から15万人』……やて。

 

山田が腕を組んでうなった。

 

「俺らもその中の4人……いや、茜も含めたら5人やな」 

 

倉橋が相槌を打つ。

 

その時、佐伯が突然立ち上がった。

 

「ちょっとコーヒー買うてくるわ」 

 

そう言って部屋を出て行ったが、ものの数秒でバタバタと戻ってきた。

 

「わるい、小銭足らんわ。10円貸してや」 

 

前島と倉橋が「10円でええんか」と苦笑しながら、それぞれポケットから10円玉を佐伯に手渡した。

 

「すまんな、必ず返すさかい、覚えといてな」と佐伯が頭を下げる。

 

前島は手をひらひらと振った。

 

「なに言うとんねん。10円くらいやるわ」 そのやり取りをぼんやり聞いていた山田の目が、ふと鋭く光った。

 

「ちょっと待って……。倉橋、14万人にかける10円はいくらや?」

 

「え?ええっと、140万……いや、140万円か」 山田が前島を指さした。

 

「前島、お前、『10円くらいやるわ』って言うたな。倉橋も佐伯もどうや、今の聞いたか?」

 

前島はきょとんとしたが「俺なら30円までなら貸しても返さんでええかなと思うんやけど」と首をかしげた。 

 

山田は、すぐに頭の中で計算機を叩くように目を見開いた。

 

「おい……。もし京都市内の14万人の学生が、みんな『30円くらいやるわ』って言うて、それぞれ30円くれたら……420万円になるんやで。それ、めちゃくちゃ凄ないか?」

 

何だか狐につままれたような、しかし妙な熱気を帯びた話が始まった。

 

「茜、ええところにきた!」

 

山田が身を乗り出し、ちゃぶ台を叩いた。

 

「お前、日頃『たかが30円、されど30円』って言うけどさ、今の大学生にとっての30円の価値って、実際どう思ってる?

自動販売機のジュースには足らんし、ゲーセンの1プレイにも足りひん。財布に落ちてても拾うかどうか微妙なとこやろ?」 

 

茜は目を丸くしたが、すぐに腕を組んで小首をかしげた。

 

「んー、確かにね。自販機の端数にもならんし、コンビニの募金箱にチャリンとするか、下手したらポケットの中でジャラジャラ邪魔になるだけの存在かも。みんな『たかが30円』って思ってるよ、絶対に」

 

 「やろ!そこやねん!」 

 

前島がタブレットを放り出し、身を乗り出した。

 

「みんなが『たかが30円』って思って、ポイッと手放せるその30円をやで……もし京都の学生14万人から集められたとしたら、それは単なる『はした金』やなくて、とんでもないエネルギーに化けるんちゃうか?」

 

倉橋がペンを走らせながら、興奮気味に呟く。

 

「14万人が30円を出しても誰も痛まない。せやけど、集まれば420万円になる。この『誰も痛まないのに、巨大な価値が生まれる』っていう構造……これ、もしかして……」 

 

茜は五人の異様な熱気に気圧されながらも、ふっと不敵な笑みを浮かべて言った。

 

「……なにそれ。面白そうやん。詳しく聞かせてよ、先輩たち」 

 

前島は、しばらくタブレットの画面を見つめていたが、やがて顔を上げた。

 

「でもな。いきなり14万人から集める話にするんやなくて、まず俺ら五人で始めてみたらええんちゃうか」

 

「五人で?」

 

「そうや。30円ずつ。毎日でもええし、気が向いた時でもええ。とにかく、自分らで30円を出して、少しずつ貯めていくんや」 

 

山田が腕を組んだ。

 

「それで、どれくらいになるんや?」

 

前島は指を折った。

 

「30円で5人やから、一日150円。一ヶ月で4500円。一年で54000円や」 

 

「五万四千円か」と佐伯がつぶやいた。

 

「毎日ちゃんと入れたら、やけどな」

 

「せやな。毎日やなくてもええ。百円貯まる日もあれば、三十円だけの日もある。それでも、続けてみる」 

 

倉橋がノートを開いた。30、150、4500、54000と、数字を縦に並べていく。

前島はその数字を眺めながら言った。

 

「そして、将来、人と人が繋がるための手段にそれを使うことにしたらええと思わへんか」

 

「手段って?」

 

「まだ分からへん」 

 

山田が笑った。

 

「分からへんのに始めるんかい」 

 

「分からへんから始めるんやろ。これからいろんな人に会う。いろんな人と話す。その中で、これがあったら誰かと誰かを繋げる、いうもんが出てくるかもしれへん。その時に使うんや」 

 

佐伯がちゃぶ台の上の十円玉を指先で転がした。

 

「ほんなら、基金いうても、金を集めることが目的やないんやな」 

 

「うん」 

 

茜が立ち上がった。

 

「ほんなら、今から始めよ」 

 

「今から?」

 

「そう。言うてるだけやったら、また突然変異を待ってるだけになるやん」 

 

茜は部屋の隅から小さなガラス瓶を持ってきた。

 

蓋を開け、ちゃぶ台の真ん中に置く。

 

「これでええやろ」 

 

前島が笑った。

 

「ええな」 

 

最初に財布を開いたのは前島だった。

 

十円玉を三枚取り出し、瓶へ落とした。 

 

カチン、カチン、カチン。 倉橋も三枚。山田も三枚。佐伯も三枚。最後に茜が三枚。 瓶の底に硬貨が重なった。

 

「百五十円」

 

と倉橋が言った。

 

「これだけか」と山田が瓶を覗き込む。

 

「これだけや」と前島が笑う。

 

「でも、ゼロやない」と茜が蓋を閉めた。

 

「名前、どうする?」

 

「30円基金でええやろ」と前島が即答した。

 

「そのまんまやな」 

 

「そのまんまやねん」 

 

倉橋はノートの新しいページを開き、『30円基金』と書いた。

 

「これ、他の奴にも話すんやろ?」と佐伯が聞いた。

 

「うん。でも、出してくれとは最初から言わんとこ」 

 

「なんでや?」

 

「何に使うかも決まってへんのに、金だけくれ言うても変やろ」 

 

山田が頷いた。

 

「そらそうや」 

 

「まず話す。俺らが何をしたいんか。何のために30円を貯めているんか。それを聞いて、面白いと思った奴だけ入れてくれたらええ」 

 

その翌日、五人は大学の食堂で、いつも同じ席に座っている学生に話をした。

 

前島がタブレットを見せる。

 

「これ、昨日から始めたんや」 

 

学生は画面を見て、首を傾げた。

 

「30円基金?」

 

「そう」 

 

「何それ」 

 

前島が昨日の話を最初から説明した。

 

学生は黙って聞いていたが、話が終わると財布を出した。

 

「ほんなら、30円だけ入れとくわ」 

 

「え?」

 

「何や。俺が出したら困るんか?」

 

「いや、そうやなくて……」 

 

学生は十円玉を三枚、前島の手のひらに置いた。

 

「まだ何に使うか決まってへんのやろ?」

 

「うん」 

 

「決まったら教えてくれや。面白かったら、また出すし」 

 

それだけ言って、学生は席を立った。

 

前島は手のひらの30円を見たまま動かなかった。

 

「入れへんの?」と倉橋が笑う。

 

「いや……入れる」 

 

風待ち荘に戻ってから、前島は瓶の蓋を開けた。

 

カチン、カチン、カチン。 百五十円の横に、三枚の十円玉が転がった。

 

「百八十円」と佐伯が言った。

 

「増えたな」と山田が笑う。

 

「たった三十円やけどな」 

 

「たった三十円やから、出してくれたんやろ」と茜が瓶を持ち上げた。

 

その日の午後、今度は別の学生に話をした。

 

「30円基金?」

 

相手は笑った。

 

「何に使うん?」

 

「まだ決まってへん」 

 

「決まってへんのに集めるん?」

 

前島は少し考えてから答えた。

 

「人と人が繋がるために使いたいんや。何か必要になった時、その時に使う」 

 

「それ、えらい曖昧やな」 

 

「そうやな」 

 

「俺は、使い道が決まってからでええわ」 

 

「分かった」 

 

前島はそれ以上すすめなかった。

 

帰り道、倉橋が言った。

 

「断られても、嫌な顔せえへんな」 

 

「出す出さへんは、その人の勝手やろ」 

 

「そうやけど」 

 

「そのうち、何に使うか決まった時に、もう一回話せばええ」 

 

その二人の会話を後ろで聞いていた山田が、急に財布を取り出した。

 

「俺、もう30円入れとこ」 「何でや?」

 

「さっきの奴、使い道が決まったら考える言うたやろ。俺らも、ちゃんと考えなあかんと思うてな」 

 

「お前、今日はえらい真面目やな」 

 

「うるさいわ」 

 

笑いながら、山田は十円玉を三枚、瓶の中へ落とした。

 

それを見ていた茜が、ぽつりと言った。

 

「30円って、不思議やね」 

 

「何が?」

 

「大した金額やないのに、出す人によって、入れる時の顔が違う」 

 

誰も答えなかった。

 

瓶の中には、二百円を少し超えた硬貨しかない。 

 

それでも、その日から五人は、誰かと話すたびに30円基金のことを口にするようになった。

 

「何に使うか決まってからでええわ」と言う者もいた。

 

「30円だけなら」と財布を開く者もいた。

 

「そんな金で何ができるんや」と笑う者もいた。

 

そのたびに五人は、いちいち言い返さなかった。 

 

ただ、自分たちが何を考えているのかを話した。 

 

そして、話を聞いた相手が最後に財布を開くかどうかは、その人に任せた。 

 

30円を受け取った日には、その30円を瓶に入れた。 

 

受け取らなかった日は、何も入れなかった。 

 

それだけだった。 

 

けれど、五人にとっては、それでよかった。 

 

人と話す。 話を聞く。 自分たちの考えを話す。 そして、もしその話に何かを感じた人がいたら、30円だけ参加してもらう。 

 

そんな小さなやり取りを重ねながら、五人は少しずつ、風待ち荘の外へ出ていった。