この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 花びらの積もる道 』
第十四章 名前のない店
木曜日の朝、順子は店を開けると、灰色のカーディガンをミシンのそばへ置いた。
穴の開いていた肘には、深い赤の糸で小さな葉を三枚刺してある。反対側にも同じものを入れた。
揃えすぎると既製品のようになるので、葉の向きだけを少し変えた。
十一時前、履物店の妻が来た。
「できました?」
「着てみてください」
妻はカーディガンへ袖を通し、鏡の前で両腕を交互に見た。
「思うたより、派手じゃないですね」
「派手な方がよかった?」
「いえ、これくらいがええです」
腕を曲げ、もう一度伸ばした。
「穴が開いたから、前よりええ服になったみたい」
「それなら、直した甲斐があります」
妻は代金を払い、カーディガンを着たまま店を出た。
昼過ぎ、その妻が一人の女性を連れて戻ってきた。
「この人、スカートの丈を見てもらいたいそうです」
「見てもらうだけでもええですか」
女性は紙袋を抱えていた。
「もちろん。直さない方がよければ、そう言います」
試着してもらうと、スカートの裾は足首まであった。
「短うした方がええでしょうか」
順子は鏡の中の女性を見た。
「普段は、どんな靴を履きます?」
「低い靴ばかりです」
「では、三センチだけ上げましょう。それ以上短くすると、この布の落ち方が変わります」
「三センチで変わりますか」
「歩いたときに、少し軽くなります」
女性は鏡の前で裾を持ち上げた。
「お願いします」
順子はまち針を打った。
店を始めてから、客が一人も来ない日はあった。
二人来る日も、三人来る日もある。
買ったものの着方が分からないブラウス。娘から贈られたが、自分には若すぎると思っている上着。夫が亡くなったあと、捨てることも着ることもできずにいたコート。
順子は、すぐには直さなかった。
何と合わせて着るのか、どこへ着ていきたいのかを聞いた。持ち主が話しているうちに、直す場所が変わることもある。
何もせず持ち帰る人もいた。
「聞いてもろうただけで、決まりました」
そう言われた日は、売上の帳面には何も書けなかった。
順子は代わりに、相談一件、と小さく記した。
店の名前は、まだなかった。
履物店の店主は「直し屋さん」と呼び、妻は「順子さんの店」と呼んだ。
そのどちらでも、いまは困らなかった。
千穂とは、二日に一度ほど電話で話した。
以前の千穂は、仕事のことを尋ねても「普通」としか答えなかった。
最近は、窓口へ来た人が書類を家へ忘れてきた話や、上司が眼鏡をかけたまま眼鏡を探していた話をする。
「誰も教えなかったの?」
「教えたわよ。笑うのを我慢してから」
「先に教えてあげればいいでしょう」
「お母さんだって笑うでしょう」
「私は笑わないわ」
「いま笑ってるじゃない」
順子は、自分の声が電話へ漏れていたことに気づいた。
「あなたも、よく笑うようになったわね」
「前から笑ってるわよ」
「そうだったかしら」
「そうよ」
千穂は少しむきになって答えた。
だが、その声にも笑いが残っている。
順子は、それ以上言わなかった。
仕事がうまくいっているのかもしれない。
周囲と話せるようになっただけかもしれない。
何か別の理由があるのかもしれない。
いずれにしても、以前より声が明るくなった。
それだけ分かれば、いまは十分だった。
洋子から電話がかかってきたのは、店を始めて一か月ほど過ぎたころだった。
「お店を始めたそうですね」
「誰に聞いたの?」
「順子さんが送ってくれた花の写真、窓辺じゃなかったでしょう」
店を開けて間もないころ、順子は黄色い花の写真を洋子へ送っていた。
洋子は、花の後ろに映った布と糸の棚を見ていた。
「気づいていたのね」
「花屋ですから、花の後ろも見ます」
「それは花屋の仕事ではないでしょう」
「今度、行ってもええですか」
「もちろん」
洋子は、次の土曜日に一人で来た。
ガラス戸を開けると、店の中をゆっくり見回した。
「ほんまにお店ですね」
「何だと思っていたの?」
「窓辺に花を置くための部屋かと」
「家賃を払ってまで、花だけ置かないわ」
洋子は笑い、黄色い花へ近づいた。
「まだ枯らしていませんね」
「水をやりすぎないようにしているから」
「上手に育ててます」
洋子は鉢の向きを少し変えた。
「こっちの方が、日がよう当たります」
「ありがとう」
「この店、名前はないんですか」
「まだ決めていないの」
「名前がなくても、お客さんは来るんですね」
「順子さんの店で通じるらしいわ」
「では、それが名前でええんじゃないですか」
「自分の名前を看板に出すのは、少し恥ずかしいわ」
「順子さんでも、恥ずかしいことがあるんですね」
「失礼ね」
洋子は棚の糸やボタンを一つずつ見た。
「ええ店ですね」
「何も売っていないけれど」
「順子さんがしてくれることは、よう分かります」
昼近くになると、洋子は時計を見た。
「長居をしたら、お仕事の邪魔ですね」
「あなたは、お客さんではないでしょう」
順子が言うと、洋子は少し驚いた顔をした。
そのあと、うれしそうに笑った。
「では、また来てもええんですね」
「もちろん」
「今度は、直してもらう服を持ってきます」
「直すところがあればね」
店を出るとき、洋子は商店街の先を見た。
「来年の桜も、見に来てええですか」
「ええ」
「今度は千穂さんも誘いましょう」
「そうね」
洋子は少しためらってから言った。
「主人も一緒で、ええですか」
順子はすぐには答えなかった。
亨が自分から来たがるとは思えない。
洋子が誘えば、断りきれずに来るのかもしれない。
「もちろん」
順子は言った。
「では、四人ですね」
洋子は簡単に決めた。
順子は店の前に立ち、洋子の背中を見送った。
何も決まったわけではない。
来年の桜がいつ咲くのかも、その日に四人が揃うのかも分からない。
それでも、洋子の言った四人という言葉だけが、しばらく耳に残った。
