この作品は盗用禁止です。
AIに登録してネット監視していますので、ご注意ください。
『 長崎 名前のない写真 』
第二十一章 最後の名前
涼子は、壁に残された自分の名前から目を離せなかった。
古びた建物の壁面には、長い年月を耐えてきた石と漆喰の傷があり、その一角だけが不自然なほど新しい。誰かが最近になって書き加えたことは明らかだった。
しかも、四人がここへ来ることを知ったうえで残したとしか思えない場所に、涼子の名前の一文字が刻まれている。
そのことが、これまでの出来事とは違う種類の怖さを持っていた。
長崎で見つけたものは、どれも過去のものだった。古い写真も、手帳も、石碑も、木箱も、何十年、あるいは何百年という時間の中に埋もれていたものだと思っていた。ところが、ここにある文字だけは違う。
過去から届いたものではない。
今、生きている誰かが残したものだった。涼子は、幼い頃に祖母の家で見た肖像写真を思い出していた。
廊下の奥にある小さな部屋に、その写真は飾られていた。古い額縁に入れられた若い男の写真で、祖母の家には珍しく、人物について何の説明も添えられていなかった。涼子が子供の頃、その男が誰なのか何度か尋ねたことがある。
そのたびに祖母は、別の話を始めた。
お茶を飲むかと聞いたり、学校のことを尋ねたり、昔の話はまた今度にしようと笑ったりした。それは子供心にも不自然だった。けれど、年齢を重ねるうちに、そういうものなのだと思うようになった。
家族には、子供には話さないことがある。その程度に考えていた。
いま思えば、祖母は「知らない」のではなく、「話してはいけない」ことを守っていたのだ。
川村が壁の文字を見つめながら、静かに地図を畳んだ。ここにはもう何も残っていないという。
かつて外国人居留地の一角にあった建物は、何度も所有者が変わり、改築され、現在の形になっている。古い記録によれば、建物の地下には小さな保管庫があったらしいが、戦後の改修で埋められている。
それでも、川村はこの場所を最後の手がかりだと考えていた。孝は壁の文字を撮影し、画像を拡大した。
文字の周囲に、細い線がいくつもある。
ただの傷に見えたが、写真を反転させると、その線が一つの図形になっていることがわかった。円。その中心に一点。そして、円の外側に四つの小さな印がある。これまで見てきたものとは少し違う。
四つの数字を囲むのではなく、四つの場所を結ぶように描かれていた。
浩一がスマートフォンに入っている地図を開き、これまで訪れた場所を重ねた。すると、四つの地点がほぼ一直線につながる。眼鏡橋。古い墓地。地下室のあった場所。そして、いま立っている港。その中心にあるのが、浦上だった。
つまり、これまで追ってきた場所は、ばらばらに存在していたわけではなかった。一つの線だった。
そして、その線の中心に「零」がある。
孝は、ここでようやく、最初に見た古い写真の意味を理解した。写真に写っていた男が持っていた手帳は、記録そのものではない。記録を探すための地図だったのだ。だから数字がついていた。
零から始まり、一、二、三、四へと分かれていったのではない。零が最初にあり、その零を守るために、一から四までの場所が作られた。
四つの場所をすべて知ってしまえば、零へ戻れる。そして、零へ戻れば、最初に隠された名前へ辿り着く。問題は、その名前が何なのかだった。涼子は、祖母の家にあった肖像写真の男を思い出した。あの人物なのかもしれない。
けれど、それだけでは説明できない。
写真の男が何者なのかを祖母が知っていたのなら、なぜ長い間、家族から隠していたのか。
そして、なぜ今になって誰かが涼子にその名前を思い出させようとしているのか。長崎から京都へ、そして再び長崎へ。
何世代にもわたって受け継がれた記録が、いま涼子のところまで来ている。それは偶然ではない。誰かが、意図的にここまで持ってきた。その人物が誰なのかを知るためには、京都へ戻る必要があった。
祖母の家に残っている写真を、もう一度調べる。四人は、その日のうちに京都へ戻った。
帰りの列車の中で、涼子はほとんど話さなかった。
窓の外を流れる景色を見ながら、子供の頃の記憶を一つずつ掘り起こしているようだった。やがて京都へ近づいた頃、涼子が突然、あることを思い出した。肖像写真の男の額縁には、裏側に小さな紙が貼られていた。
祖母が写真を掃除していたとき、一度だけ、その紙が見えたことがある。涼子はそのとき、そこに書かれていた文字を読んでいた。けれど、意味がわからなかった。今ならわかる。それは人名ではなかった。
「零」。
そして、その横に小さく「浦上」と書かれていた。
孝は、それを聞いて息を呑んだ。
祖母の家にある肖像写真は、長崎で見つけた零の記録と直接つながっている。四人は京都駅からそのまま涼子の祖母の家へ向かった。祖母は、四人の顔を見るなり、何かを察したようだった。
涼子が写真のことを尋ねると、祖母はすぐには答えなかった。
長い沈黙のあと、部屋の奥から古い箱を持ってきた。そこには、家族写真や手紙、古い年賀状などが整理されていた。箱の底に、あの肖像写真があった。ただ、以前とは違っていた。額縁の裏側に、新しい傷がついている。
誰かが最近、裏蓋を開けた形跡があった。祖母も、そのことには気づいていなかった。写真を取り出す。
男の顔は、長崎で見た写真の人物と同じだった。
しかし、写真の裏側には、以前は見つからなかった紙片が貼り付いている。孝が慎重に剥がすと、その下から古い文字が現れた。そこには、一つの名前が書かれていた。涼子の祖母は、その名前を見た瞬間、顔を伏せた。
孝は、それが祖母にとって、単なる昔の名前ではないことを理解した。その人物は、涼子の曾祖母の兄だった。原爆投下の日に長崎で生き残った少年。その後、京都へ移り、名前を変えて暮らした人物。
そして、孝の祖父とともに記録を守った人物でもあった。
つまり、「零」の写真に写っていた男は、涼子の家族だった。
ここで、これまで追ってきた「名前」の意味が、もう一度問い直されることになる。写真の裏に書かれている名前と、家族が代々呼んできた名前が違う。戸籍上の名前も違う。祖母が知っている名前も違う。
ならば、長崎で守られてきた「名前」とは何なのか。
祖母がようやく口を開いた。その人物は、長崎で生まれたときから二つの名前を持っていたという。一つは、家族が呼ぶ名前。もう一つは、誰にも知られてはいけない名前。
後者は、宗教上の名前でも、外国人から与えられた名前でもなかった。
それは、ある記録を守る者だけが知る「本当の名前」だった。
その名前を知ることで、その人物がどの家系につながっているのかがわかる。だから、隠された。そして、その名前を受け継いだ者は、必ず一人だけだった。涼子は、自分の名前を聞いた。祖母は、すぐには答えなかった。
やがて、古い封筒を取り出した。封筒には、涼子が生まれた日の年月日が書かれている。
中には、涼子の名前を決める前に曾祖母が残した手紙が入っていた。そこには、涼子という名前をつける理由が書かれていた。ただし、その手紙には一つだけ条件があった。その名前の意味を本人に伝えるのは、二十歳を過ぎてから。
涼子が二十三歳になった今、その条件はすでに満たされている。
祖母は、これまで言えなかったことを話し始めた。涼子の名前は、曾祖母が勝手につけたものではなかった。
長崎で守られてきた記録の最後に残された「名前」を、一文字ずつ分けて受け継いだものだった。
そして、その名前を完全な形に戻せるのは、涼子だけだった。
孝は、ここでようやく「最後の人」の意味を理解した。ここまでの記録が、最後に涼子へ集まるように残されていたのだ。
最後の人とは、記録を最後に読む人ではない。分けられていた名前を、最後に一つへ戻す人だった。そのために、涼子が必要だった。だから誰かは、四人を長崎へ導いた。だから写真を見せた。
だから、あえて危険を知らせながら、四人を次の場所へ進ませた。そして、京都に残した手帳を奪った。
相手は、涼子自身が最後の名前を思い出すことを恐れている。ところが、ここで川村が一つの事実を明らかにした。相手が本当に恐れているのは、涼子が名前を知ることではない。
名前を知ったあとに、もう一つの記録を見つけることだった。
それが「零の記録」の本体である。
手帳ではない。写真でもない。まして、木箱でもない。人の記憶の中にだけ残されている記録だった。その記憶を持っている人間は、もうほとんど残っていない。涼子の祖母は、その一人だった。
しかし、祖母自身が覚えているのは、ほんの一部だけだという。もう一人、記憶を持っている人物がいる。
その人物は、四人が最も信頼していた人物だった。長崎で何度も助けてくれた人物。京都から何度も連絡をくれた人物。そして、いまも四人の行動を知っている人物。孝の背筋に、冷たいものが走った。
あの人物は、すべてを知っている。しかし、だからといって敵とは限らない。
むしろ、その人物が何を守ろうとしているのかを知らなければ、真実には届かない。その夜、四人はもう一度、祖母の家に集まった。祖母が出してきた最後の封筒には、古い写真が一枚だけ入っていた。
写真には、長崎の港が写っている。幕末の写真だった。中央に、若い男が立っている。その男の顔は、あの肖像写真と同じ。
そして、その隣には一人の女性がいる。涼子の曾祖母だった。しかし、写真の二人の間には、もう一人、小さな子供が写っていた。その子供の顔を見た瞬間、涼子の祖母が立ち上がった。これまで見たことがないほど、動揺していた。
写真の子供は、若い頃の祖母自身だった。つまり、涼子の祖母は、長崎にいた。
戦後、京都へ移ったのではない。
その前に、長崎で「零の記録」に直接触れていた。
しかも、子供の頃からその秘密を知っていた。祖母は長い沈黙のあと、ようやく一つの事実を告げた。長崎で記録を守っていたのは、家族だけではなかった。もう一つの家があった。その家の子孫が、現在も長崎にいる。
そして、その家の当主が、四人を何度も助けてきた人物だった。すべてがつながった。
写真の裏側には、もう一枚の記録が残っていた。写真の裏側には、名前ではなく住所が書かれていた。長崎市内の古い建物。そこには、いまも人が住んでいる。そして、その住所の最後に、祖父の筆跡で一つの言葉が添えられていた。
「ここで、零を終わらせる。」
孝は、その言葉を読んだ。長崎から始まった物語は、まだ終わっていない。むしろ、ここからが最後の場所になる。四人は翌朝、再び長崎へ向かうことを決めた。今度は誰かに導かれて行くのではない。
自分たちで、その家の扉を開ける。そこに待っている人物が敵なのか、味方なのか。
そして、何百年ものあいだ隠されてきた「最後の名前」が何を意味するのか。
それを知るために。
夜が更け、涼子が一人で写真を見つめていると、祖母が静かに部屋へ入ってきた。そして、涼子の肩に手を置いた。
「あなたには、まだ一つだけ話していないことがある」
涼子は振り返った。祖母の顔には、これまで見たことのない表情が浮かんでいる。その言葉のあと、祖母は写真の中の少女を指した。幼い自分自身を。そして、長い年月を閉じ込めていた記憶を、ようやく口にした。
その少女は、あの日、原爆が落ちる直前に、もう一人の少女と一緒に港へ向かっていた。その少女の名前が、涼子の名前のもう一つの由来だった。そして、その少女は――
現在も生きている。
