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『 長崎 名前のない写真 』
第二十二章 もう一人の少女
祖母の言葉が落ちたあと、部屋にはしばらく誰の声もなかった。
涼子は、机の上に置かれた写真から目を離せないでいた。古い写真の中には、長崎の港と、二人の少女、それから若い男と一人の女性が写っている。これまで何度も見てきたはずの写真なのに、今はまるで別のものに見えた。
写真の中の二人の少女のうち、一人は幼い頃の祖母である。もう一人の少女について、涼子は何も知らない。
けれど、その少女こそが、祖母がいままで語ろうとしなかった記憶の中心にいる。
祖母は椅子に腰を下ろし、両手を膝の上に置いたまま、遠いところを見るような目をしていた。長い年月のあいだ、誰にも話さずに抱えてきた記憶を、いま初めて言葉にしようとしている。
そのためには、出来事を思い出すだけでは足りない。思い出したことを、自分の口からもう一度この世界へ出してしまう覚悟が必要なのだろう。
涼子は急かさなかった。孝たちも黙っている。祖母は写真を一度裏返し、それから再び表に戻した。
「この子の名前は、千鶴」
それだけを聞いても、涼子には何の意味もわからなかった。しかし、その名前を耳にした瞬間、祖母の表情が変わった。
自分が長いあいだ忘れたふりをしていたものを、とうとう思い出してしまった人の顔だった。千鶴は、祖母と同じ年だった。
浦上の近くで暮らしていた家の子で、家族同士の付き合いがあった。二人は学校へ行く道も、遊ぶ場所もほとんど同じで、幼い頃から姉妹のように育ったという。けれど、二人の家には一つだけ大きな違いがあった。
祖母の家には、古い記録があった。千鶴の家には、それを守る役目があった。
どちらが先だったのかは、祖母にもわからない。
ただ、二つの家が一つの秘密を分けて持っていたことだけは、子供の頃から知っていた。
大人たちは二人の前で詳しい話をしなかった。それでも、子供というものは、大人が隠そうとするものほど敏感に感じ取る。言葉の断片、閉じられた戸棚、突然中断される会話、誰かが訪ねてきたときの母親の表情。
そうした小さなものを拾い集めながら、祖母と千鶴は、自分たちの家には他の家にはない何かがあることを知っていった。
その「何か」が何なのかを、祖母が初めて理解したのは、戦争が終わる直前だった。
そして、千鶴はそれより早く知っていた。なぜなら、千鶴の父親が、最後の記録を持っていたからである。祖母の話を聞きながら、孝は長崎で見た古い写真を思い出していた。零、一、二、三、四。
これまで自分たちは、その数字を単純な順番だと思っていた。しかし、本当はそうではなかった。零は、最初の名前。
一から四は、その名前を守るために分けられた記録。そして、その記録を受け取った家が二つあった。祖母の家と、千鶴の家。
だから、涼子の曾祖母と千鶴の家の先祖が、それぞれ別の形で記録を守ってきたのだろう。では、なぜ一つの記録を二つの家で守る必要があったのか。その答えは、原爆の日にあった。祖母は、その日の朝のことを話し始めた。
長崎の空は晴れていたという。
夏の朝特有の強い光が家々の屋根を照らし、蝉の声が聞こえていた。戦争が続いていたとはいえ、子供にとっては、いつもと変わらない朝だった。祖母と千鶴は、その日の午後に一緒に遊ぶ約束をしていた。場所も決めていた。
ところが、その前に大人たちから、二人に一つの仕事を頼まれた。
小さな箱を、別の家へ運ぶことだった。箱は軽かった。けれど、二人には中身を見てはいけないと言われていた。それが、零の記録だった。祖母は、当時のことを細かく覚えているわけではない。
ただ、千鶴が箱を抱えて歩いていたことと、その箱を途中で一度だけ開こうとしたことを覚えている。中を見てはいけないと言われた子供ほど、見たくなる。千鶴は箱の留め具に指をかけた。祖母は止めなかった。
むしろ二人で見てしまえば、大人に怒られても一緒だと思った。蓋が少し開いた。
そこには手帳が一冊と、古い写真、それから折り畳まれた紙が入っていた。紙には、名前が一つだけ書かれていた。その名前を、祖母は今でも覚えている。けれど、それを口にすることはできないという。
なぜなら、その名前を口にすれば、千鶴がなぜ消えたのかも同時に話さなければならなくなるからだった。
孝は、その言葉を聞いて初めて、祖母がずっと「千鶴は死んだ」とも「生きている」とも言わなかったことに気づいた。
写真の中の少女について、祖母はいつも「昔の友達」とだけ言っていた。
涼子が、もう一度その写真を見た。千鶴の顔は、幼い。当たり前のことなのに、その顔の中に何かを探してしまう。それは、涼子自身の面影だった。目元。眉の形。笑ったときの口元。
自分と似ているというより、祖母の若い頃に似ている。だからこそ、これまで気づかなかった。
祖母は写真の二人を見比べながら、ようやく続きの話を始めた。原爆が落ちたあと、二人は離れ離れになった。祖母は家族に助け出された。千鶴の行方はわからなくなった。家も焼けた。家族も失った。
何が残ったのかさえわからないほどの惨状だった。それでも、祖母の記憶には一つだけ残っていた。千鶴が抱えていた箱。
そして、箱の中にあった名前。戦後、祖母の家族は京都へ移った。そこで、曾祖母から一つの約束をさせられた。千鶴について誰にも話さないこと。名前を口にしないこと。写真を人に見せないこと。
それが、千鶴を守るためだったのか、それとも別の理由だったのか、祖母にはわからなかった。ただ、何年も経ってから、一度だけ千鶴から手紙が届いた。差出人の住所はなかった。消印だけが長崎を示していた。
その手紙には、短い文章が書かれていたという。
「私は生きています。名前は変えました。」
祖母は、その手紙をずっと隠していた。そして、もう一つ。手紙には、写真が一枚入っていた。そこに写っていたのは、成長した千鶴だった。幼い頃の面影は残っている。しかし、その写真にはもう一人、男が写っていた。
幕末の写真にあった男とは別の人物。その男こそが、戦後に千鶴を守った人間だった。
孝は、そこで一つの可能性に気づいた。もし千鶴が生きていたのなら、その子供もいる。
そして、その子供がさらに子供を持っているなら、現在まで家系は続いている。四人が長崎で出会った人物。あの人物が、千鶴の子孫なのではないか。だが、祖母は首を横に振った。千鶴は結婚していない。
少なくとも、祖母が知る限りでは。それでも子供はいた。ただし、その子供が誰の子なのかについて、千鶴は一度も語らなかった。
その子供にも、「零」に関わる記録の一部が渡されたという。
その後も、その記録の一部は人から人へ受け継がれているらしい。けれど、現在それを誰が守っているのかまでは、まだわからなかった。ここまで聞いたところで、孝は何かがおかしいと感じた。それなら、なぜ相手は四人を長崎へ導いたのか。なぜ涼子に、こんなにも多くの手がかりを見せたのか。
千鶴の子孫が記録を守っているのなら、涼子に真実を知らせる必要などない。むしろ、知られないほうが都合がいいはずだった。その疑問に答えるように、祖母が一枚の紙を取り出した。古い手紙ではない。最近書かれたものだった。
そこには、祖母自身の名前と、涼子の名前が記されていた。さらに、その下に一つの文章がある。
「二つの家が揃ったとき、零は終わる。」
祖母は、この手紙を数年前に受け取ったという。差出人は、千鶴だった。そのとき初めて、祖母は千鶴がまだ生きていることを確信した。しかし、手紙には住所がなかった。電話番号もなかった。
ただ、長崎のある場所を示す古い地図だけが同封されていた。祖母は、怖くてそこへ行けなかった。
それでも、手紙を捨てることもできなかった。だから、写真と一緒にしまっていた。涼子が生まれたとき、その手紙を一度だけ取り出した。そのとき、祖母は涼子の名前を見て、ようやく理解したという。
自分の世代で終わらせることができなかったものを、次の世代へ渡すことになったのだと。
だから、涼子の名前には「千鶴」の記憶につながる一文字が組み込まれた。
しかし、その一文字だけでは意味を成さない。残りの文字は、千鶴の家に残されている。つまり、涼子の名前は完成していない。それを完成させるために、二つの家が再び出会わなければならない。
孝は、そこで初めて、この物語の中心にあるものが「秘密」ではないのだと気づいた。
名前を消された人間を、もう一度歴史の中へ戻すこと。それが、この長い記録の本当の目的だった。
キリシタンの時代も、幕末も、外国船が行き交った時代も、原爆によって街が焼けた日も、すべてが一つの線でつながっている。そのたびに、名前を残そうとする人がいた。そして、その名前を消そうとする人もいた。
だから記録は、何度も隠され、分けられ、別の人間へ渡された。最後に残ったのが、涼子だった。
そのとき、玄関の外で車が止まる音がした。四人が顔を見合わせる。祖母は何も言わず、写真を箱へ戻した。続いて、玄関の呼び鈴が鳴った。孝が立ち上がろうとしたが、祖母が手で制した。そして、ゆっくり玄関へ向かった。
扉を開ける前に、祖母は一度だけ振り返った。その表情には恐怖がなかった。
長いあいだ待っていた人を、ようやく迎えるような静けさがあった。扉が開く。
外に立っていたのは、長崎で四人を何度も助けてくれた、あの人物だった。孝は息を呑んだ。その人物は、四人を見ても驚かなかった。まるで、ここに四人がいることを最初から知っていたようだった。
祖母もまた、その人物を見ていた。
二人の視線が重なった瞬間、何十年もの時間が一気に縮まったように見えた。やがて祖母が、その人物の名前を呼んだ。その名前を聞いた涼子は、言葉を失った。幼い頃から祖母の家に飾られていた写真。
祖母が何度尋ねても答えなかった人物。そして、長崎で四人を導いてきた人物。すべてが、一本につながった。
しかし、その人物は涼子を見つめながら、静かに首を横に振った。
自分が探しているのは「零」ではないという。
零は、すでに終わっている。
終わらせなければならないのは、記録ではなく、記録を守るために何世代も続いてきた嘘のほうだった。その言葉を聞いたとき、涼子は祖母を見た。祖母は、うなずいた。そして、長崎から持ち帰った最後の地図を机の上へ広げた。
地図の中央には、浦上がある。その少し北に、小さな印が一つ。
その場所には現在、何も残っていない。けれど、昔そこには一軒の家があった。千鶴が最後に暮らした家だった。
そして、その家の地下には、まだ誰にも発見されていない部屋があるという。
そこに「零」の本当の記録が残されている。
四人は翌朝、長崎へ向かうことになった。ただし、今度は四人だけではない。祖母も一緒に行くという。
八十年以上、心の中だけで抱えてきた記憶を、自分自身の目で終わらせるために。列車の予約を取るころには、夜もかなり深くなっていた。涼子は一人で窓際に立ち、外の暗い街を眺めていた。
自分の名前について、これほど長い物語が隠されていたとは思わなかった。名前は、ただ親が子供につけるものだと思っていた。けれど、自分の名前には、会ったことのない人間の人生が重なっている。
長崎で生まれ、戦争を生き、名前を変え、それでも誰かに記憶されることを願った少女。その少女の記憶を守った祖母。そして、その先に自分がいる。涼子は、写真の中の千鶴を思い浮かべた。
もし本当に生きているのなら、会ってみたい。どんな顔をしているのだろう。自分を見たら、何を思うのだろう。
そして、なぜ今になって自分を長崎へ呼び戻そうとしているのだろう。その答えは、まだわからない。ただ一つだけ、涼子には確かなことがあった。これまで四人は、誰かが残した謎を追ってきた。
けれど、最後に待っているのは謎ではない。そこには、長い時間を生き延びた一人の人間がいる。
そして、その人間が守ってきた記憶がある。翌朝。長崎へ向かう列車の中で、祖母は涼子の隣に座っていた。窓の外には、まだ京都の街が続いている。祖母は何も話さなかった。
ただ、膝の上に置いた古い鞄を、両手でしっかり抱えている。その鞄の中には、昨日まで存在を知らなかった一冊の手帳が入っていた。
孝がそれに気づいたのは、列車が京都を離れてしばらく経ってからだった。表紙には何も書かれていない。しかし、裏表紙を見た瞬間、孝の表情が変わった。そこには、円の中に一点の印がある。
そして、その下に「零」と刻まれていた。
奪われたと思っていた一番の手帳よりも古い。これが、本当の零なのか。孝が尋ねようとしたとき、祖母は静かに手帳を閉じた。その手には、わずかな震えがあった。
そして、祖母はまだ誰にも話していないことを一つだけ残していた。この手帳を最後に開いたのは、祖母ではない。
千鶴だった。
