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『 最後の仕事 』
第九章 昼の座敷
座敷の撮影では、料理が本当にうまそうに見えることが問題になる。三村は客役の顔を作る前に腹を空かせ、山科は笑いをこらえながら箸を持つ。森川が「もっと普通に」と言うたび、普通にしようとするほど皆の動きが不自然になる。
「普通って何や」と黒田が小声で言ったとき、モモちゃんが吹き出した。その笑いを見て、森川はそのまま回した。作った芝居より、今の方が旅館の空気に近かった。
昼前には外の撮影が一段落した。
座敷へ機材を入れ、料理を並べる。その間に森川が画を決めた。
「ここは料理を撮ってから、人を入れる」
三村が返事をする。
スタッフは皆、ジャケットや背広を着ている。
もともと同窓会で集まるつもりだったから、ラフな格好ではない。
竹森がそれを見て言った。
「お前ら、そのままでええ」
「俺らが?」
森川も何も言わない。
スタッフが客役になり、料理を前に座る。竹森がその様子を見ながら小さく指示を出した。
「もうちょっと普通に喋って」
「昔の飲み会みたいに」
仲谷が録画を始めると、座敷に笑い声が起きた。モモちゃんが料理へ目を向け、主人が料理を運ぶ。その様子を森川はモニターで追った。
客の一人として座っている三村が、料理を見て本当に腹が減ってきた。
「これ、撮影終わったら食べてええんですよね」
「もちろん」
「それなら頑張れます」
撮影は続く。
料理の湯気。
箸。
器。
窓から見える川。
モモちゃんの手元。
主人の笑顔。
仲谷は広角から望遠へレンズを変え、画角を調整した。
森川はモニターへ目を戻し、さっきまでとは違う表情を確かめた。
「そのレンズ、ええな」
黒田が照明を少し動かした。
「ここ、顔が暗い」
ハレパネの位置を変えると、顔へ反射が入った。
撮影が続く。
午後になって、若いアルバイトの女性が来た。
座敷の客役で、数カットだけ出演する。
彼女は緊張している。
「こういう撮影、初めてです」
「指示があるまで動かなかったら大丈夫ですよ」
女性は座敷へ入り、空いている椅子に腰を下ろした。
そこは次のカットでモモちゃんが使う場所だ。
黒田が来た。
女性はすぐに立ち上がった。
黒田は椅子を見た。
「現場では、椅子一つでも誰の場所か決まってることがある。分からんかったら聞いたらええ」
女性は小さく頭を下げた。
黒田は離れていった。
「黒ちゃん、教え方は昔から上手やな」
「怒ってるように見えて、ちゃんと残るんよ」
女性はその言葉を聞いていた。
一度目の撮影では表情が硬かった。
二度目は少し自然になる。
三度目、料理へ目を落としてから顔を上げた瞬間、森川が言った。
「今のええ」
女性がほっとする。
仲谷は録画を止めた。
森川はそのカットを使えると判断した。
女性は何度も頭を下げた。
撮影が終わると、
「ありがとうございました。お疲れ様でした」
とだけ言って帰っていった。
誰も引き止めない。
夕方近くになると、身体の疲れが隠せなくなる。
黒田は立ったまま長くいるのをやめ、椅子があれば腰を下ろすようになる。
仲谷はカメラを持ち上げる前に、一度肩を回す。
三村は香盤表を読むとき、紙を少し遠ざける。
山科は水を飲む回数が増えた。
森川は眼鏡を外し、目を閉じる時間が長くなる。
黒田が立ち上がった。
「あと一本やろ」
三村は紙の上の時刻を確かめ、次の配置を静かに組み直した。
仲谷がカメラを持つ。
森川も立つ。
「最後、川や」
全員が外へ出た。
山の空気は少し冷たくなっている。
昼間の暑さが消え、川の音が近くなっている。
森川は川を見た。人の言葉よりも、水の流れの方が今は近く感じられた。
森川は川面に目を置いたまま、朝から見てきた光を順に思い出した。
朝の川には白い光が浮き、昼には水面が硬く光った。夕方になると、旅館の灯りを待つように川の色が沈んでいく。
朝の光は白く、昼には硬さを増した。夕方になると影が深まり、灯りが入った途端、同じ旅館が別の場所に見えた。
森川はモニターの隅に映った主人の顔を見た。朝とは違う顔だ。
それだけのことを、森川は昔より長く見ていた。
口にすると、説明になりそうだ。森川は黙ってモニターを見た。
撮影の途中、仲谷がカメラを置く。
「ちょっと休みましょう」
「谷ヤンが休もう言うの、珍しいな」
仲谷は、自分ではなくカメラを休ませるつもりだ。
二人は廊下の端に座る。
窓の外では川が見える。
「店、どうです?」
黒田は少し考えた。
「普通やけど、直したいところはある」
「改装?」
仲谷は川を見た。
黒田は何も言わない。
しばらくして、
「まあ、仕事したらええ」
と言った。
仲谷は黒田を見る。
二人は立ち上がった。
「戻ろ」
そこへ森川の声が飛んできた。
「谷ヤン、黒ちゃん。休憩終わりや」
黒田は、その言い方が都合のいい区切りになることを面白がった。
三人の笑い声が廊下に響いた。
撮影の途中、森川は一度だけ迷った。
旅館の玄関前で、モデルさんと主人を並べるカットだ。
香盤表には決まった立ち位置が書かれている。
ところが、主人がモデルさんへ何か話しかけた。
その瞬間、モデルさんが笑う。
作った笑顔ではない。
話を聞いて、思わず笑った顔だ。
森川はモニターを見た。
「……」
仲谷は録画を続けている。
黒田も反射板を持ったまま止まっている。
三村が小声で聞いた。
森川はすぐに答えない。
予定の画なら、もう撮れている。
けれど今の表情は予定にはない。
「森川さん、こっちの方がええんちゃいますか」
森川はモニターを見直した。
主人の顔も自然だ。
モデルさんの笑顔も自然だ。
旅館という場所を紹介する映像なら、建物だけより、こういう瞬間の方が強い。
森川は手を上げた。
「そのまま、もう少し」
仲谷は録画を続けた。
黒田が反射板を少しだけ動かす。
光が二人の顔へ柔らかく入る。
森川は数秒待った。
「止め」
録画が止まる。
仲谷がカメラを下ろした。
「森川さんでも迷うんですね」
「昔は迷ってませんでしたよ」
「昔は迷ってる暇がなかった」
森川はモニターを見た。
「今は、少し待てる」
それだけ言った。
誰も何も返さない。
川の音が聞こえていた。
