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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第五章

 

恵子が兄の話を切り出したのは、夕食の片付けがすべて終わった後だった。

 

食器を洗い終えた恵子は、水道の蛇口を固く閉めても、しばらく、水切りかごの前に立ったまま動かなかった。背中が小さく見えた。

 

「ねえ」 「ん?」 私はリビングのソファで、原稿用紙に目を落としたまま生返事をした。 「お兄ちゃんのこと、覚えてる?」 「もちろん覚えてるよ。急に倒れて……大変だったろ」 「死んだことじゃなくて」

 

恵子は濡れた手を布巾で丁寧に拭きながら、ゆっくりと振り返った。 「最後に、お兄ちゃんと電話で話した日のこと」

 

私はペンを置いた。 「……覚えているよ」 「私ね、すごく怒ってたんだよね。『もうお兄ちゃんの顔なんて見たくない、勝手にして』って言ったの」

 

恵子の言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、以前屋上で佐伯が漏らした声が重なった。 『もう知らないって言ったんだ。その三日後に死んだ』

 

恵子はダイニングの椅子を静かに引き、腰を下ろした。 「三日後だった。お詫びに買おうと思ってたケーキの写真を、スマホに保存したままだった」

 

彼女はテーブルの木目を、慈しむように指先でなぞっていた。 「死ぬなんて、これっぽっちも思ってなかったから」 「……誰も、そんなこと予測できないよ」 「そうだね」

 

恵子は少しだけ口元を動かして笑った。けれど、その瞳には一切の光が宿っていなかった。

 

「だからね、使ってみようと思うの」 「何を?」 「Reminiscence」

 

部屋の中の空気が、急激に重く沈み込んだ。

 

「お兄ちゃんと、もう一度話す」 恵子は、まっすぐな目で私を見つめた。その透明な瞳に、逃げ場を失った私の顔が映っていた。 「あなたが毎晩、あの会社でやってることと同じことを」 「俺は……あれは仕事のテストで……」 「分かってるよ。何も言わなくても」

 

それ以上、恵子は追及しなかった。それがかえって、私の胸を鋭くえぐった。

 

数日後、自宅のPC画面の中に、恵子の兄が現れた。 恵子は椅子に深く腰掛け、膝の上で両手を固く組んでいた。指先が白くなっていた。

 

画面の中の兄が、昔と同じ少し横柄な態度で笑った。 『久しぶりだな、恵子』

 

恵子の肩が、かすかに震えた。 「……お兄ちゃん」 『なんだよ、藪から棒に』 「最後に……ひどいこと言って、ごめんなさい。『もう知らない』なんて言って……」

 

画面の中の兄のAIは、パラメータを処理するように、少し首をひねった。 『そんなこと言ったっけか。覚えてないな』

 

恵子は静かに俯いた。 私はその場に居続けることができなくなり、居間のドアを開けて廊下へ出た。

 

冷たい壁に背中をもたれかけ、静かに呼吸を整えた。壁の向こうから、かすかに話し声が聞こえる。何を選択し、何を赦し合っているのかは分からなかった。

 

十分が過ぎ、二十分が過ぎた。 やがて静かにドアが開き、恵子が出てきた。その顔はすっきりと洗われたように静かだった。

 

「……どうだった?」 「分からない」 「そうか」 「でもね、ちゃんと謝れたよ」

 

その夜、恵子は久しぶりに私の隣の布団に入り、背中を向けて眠った。

 

けれど、私たちは朝まで一言も交わさなかった。二人の間に横たわる暗闇は、以前よりもずっと深く、決定的なものになっていた。

 

翌朝、ダイニングテーブルの上には、淹れたてのコーヒーが入ったカップが二つ並んでいた。

 

恵子は私が起きてくる前に、静かに家を出ていっていた。 私は一人で、冷めていくコーヒーを飲んだ。

 

二つ目のカップは、昼過ぎになっても、テーブルの上にぽつんと残されたままだった。