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『 カケハシ 』

 

第一章 風待ち荘の夕暮れ

 

京都の街が、深い茜色に染まりながら静かに夜の帳へと溶け込んでいく。 

 

十月も半ばを過ぎると、日の沈む速度は目に見えて早くなり、五時半を過ぎた頃には通りのあちこちで街灯が一つ、また一つと心もとなく点り始める。 

 

まだ空のてっぺんに青みを残したグラデーションのなかにぽつねんと浮かぶ電球の光は、夜の冷気が濃くなるにつれて白から鈍い黄金色へと色を変え、細く長い石畳の路地を柔らかく照らし出す。 

 

歩道の両側に等間隔で並んだイチョウやカエデは、葉の縁からこつこつと焦げ茶や黄色へと装いを変えはじめた。

 

冷ややかな夕風がそっと通り抜けるたび、ひらひらと、はらはらと、乾いた路面の上に落ち積もっていく。 

 

上京区の賑やかな大通りから一本、狭い路地を折れると、途端に世界の喧騒が嘘のように遠ざかった。 

 

車が行き交う低い唸り、歩道を急ぐ人々の弾んだ足音や話し声 —— そういう現実の雑多な音が、まるで薄いガラスの壁一枚の向こう側にあるかのように、遠くで曇って響く。 

 

代わりに、自分の革靴が敷き詰められた石畳を踏む音だけが、カツン、カツン、と乾いた反響を立てて耳の奥に残り続ける。

 

空気はひんやりと冷たく、コートの襟元から容赦なく忍び込んで首筋をなでるものだから、思わずぎゅっと肩をすくめたくなる。 

 

軒先と軒先が身を寄せ合うように連なり、古い木造の家々が肩を組んだその奥まった場所に、ぽつんと二階建ての古びた一軒家が建っている。

 

『風待ち荘』 朽ちかけた木の看板に、かつて筆で書かれたのであろうその文字は、長い年月の雨風にさらされてインクがにじみ、輪郭はすっかりぼやけている。

 

かろうじて読めるものの、最後の「荘」の字だけが頼りなく少しだけ右斜めに傾いていた。 

 

築八十年なのだと、ここに越してきた時に聞いた。 

 

外壁の白い漆喰はあちこちはげ落ち、支えの柱は角が丸みを帯び、床板は足を踏み出すたびにきゅっ、きゅっ、と低く愛らしい悲鳴を上げる。 

 

決してまっすぐではない。 

 

現代の建物のように美しく磨かれてもいない。 

 

それでも、冷たい風雪に耐えながら、ずっとこの場所に在り続けてきた。

 

二階の奥にある八畳間。

 

かつては個別の部屋を分けていたであろう仕切りの襖をすべて外し、大きな一続きの空間にしたその場所には、今、五人の若者たちが集まっている。 

 

窓際の障子は紙が薄くなり、黄昏時の名残をとどめた茜色の光が障子をすり抜け、畳の上にまるで千切れ雲のようなまだらの模様を描いていた。 

 

赤みを帯びた柔らかな光が、それぞれの肩のラインにゆっくりと長い影を落としている。 

 

誰も言葉を発しない。

 

ただ座っているだけなのに、沈黙は重苦しくなく、むしろそれぞれの胸の内で澱のように渦巻く感情を包み込んでいるかのような、不思議な一体感があった。 

 

山田裕也は、ちゃぶ台に両肘をつき、冷めかけたほうじ茶のコップを冷えた指先で幾度もなぞり続けていた。 

 

三日前の夜、実家の食卓で交わされた光景が、まだまばたきのたびに脳裏の裏側に浮かんでは消える。

 

『銀行か、公務員か。男やったら、堅いとこ選んどき』 父親が箸を置いた、乾いた音。

 

あの音は今も裕也の耳の奥にこびりついて離れない。 

 

怒鳴り声などではなかった。 

 

いつもの、感情の起伏のない、平らな声だった。 

 

だからこそ、逃げ場がなかった。

 

『お前の意思がどうこう言う前に、社会いうもんを考えなさい』 父親は湯呑みを持ったまま、目の前の白飯の茶碗を見つめていた。

 

向かいに座る母親は箸をぴたりと止め、最後まで俯いたまま、ただの一言も発しなかった。 

 

いつも、ずっとそうだった。 

 

父親が人生の道を示し、母親はその脇で静かにうなずくだけ。 

 

それが、山田家という家庭の揺るぎない形だった。 

 

幼い頃から、裕也がテストで百点を取っても、部活でレギュラーになっても、父親の反応はいつも「当たり前だ」の一言だった。 

 

自分の意思で選んだ道など一度もあっただろうか。 

 

進路希望調査の用紙を出すたび、父親の眉間に寄る皺を想像しては、自分で自分の選択肢を削ってきた。

 

「俺は……」 掠れた声が、自分のものとは思えなかった。

 

「二つの声が、頭の中で同時に鳴り響いてるみたいなんや。『親の敷いたレールに従え』っていう声と、『自分の足で踏み出せ』っていう声。どっちの方向にも体が動かなくて、ただ立ち尽くしているうちに、時間だけが過ぎていくんや」 

 

コップの縁を指でなぞるスピードが少しだけ速くなる。

 

「…… でもな。このまま誰とも深くつながらず、誰のことも知ろうとしーひんで生きていくのは、それはそれで、めっちゃ嫌なんや。歳を取ってから、『あの時、勇気を出して手を伸ばしておけばよかった』って後悔するのだけは、絶対に御免や」 

 

言葉は途中でプツリと途切れた。

 

気まずくなって冷めたお茶を一口だけ飲み、裕也はそれ以上口を開かなかった。 

 

その隣で、倉橋駿は膝の上に載せた黒い表紙のノートを、ゆっくりと、まるで壊れやすいものを扱うように両手で閉じた。 

 

二年半もの間、大学生活の相棒として使い込んだ表紙は、手のあかで黒光りし、独特の飴色にツヤめいている。 

 

このノートの最初のページには、二十歳の誕生日に自分への戒めとして書き殴った一文がある。

 

 ——『言葉でつなぐ』 あの時はまだ、その言葉が持つ本当の意味なんて分かったもんじゃなかった。 

 

分かっていたつもりでいただけだった。

 

高校時代、自分の書いた小説が学内の文芸誌で褒められたとき、駿は自分には特別な才能があると思い込んでいた。 

 

だが、大学に入り、より広い世界に出て、自分の書く物語がいかに「安全圏から見下ろした観念論」であるかを突きつけられた。

 

「俺は…… もう何も書けへんねん」 

 

駿は伏せた視線のままで、手の中でシャープペンシルをくるくると無意味に回し続けた。

 

「ここ数ヶ月、ノートを開いても、白いページのまま何時間も時間が過ぎていく。この前、大学の友人に『お前の書く小説なんて、ただの綺麗ごとは夢物語だ』って笑われてから…… 何を書いても、自分の言葉が全部、薄っぺらな嘘っぽさにまみれてる気がして、ペンが止まっちまったんや」 

 

ペンを止めて、ノートの上にそっと置く。

 

「ボタン一つで誰とでも翻訳され、すぐに意味が通じる時代や。そんなツールを使ってまで、自分の不器用な言葉を選び取る意味なんてあるのかって…… そう思いたい一方で、それがただの言い訳で、面倒なことから逃げてるだけなんやないかって、もうひとりの自分が責めてくるんや」 

 

駿はそれ以上続けられず、力なくうなずいて下を向いた。

 

少し離れた場所で、前島敏夫は手に持ったタブレットの画面を、何度もロックしては、また不安になって解除する動作を繰り返していた。 

 

細い指が同じ画面の上を行ったり来たりしている。 

 

青白い液晶画面には、半年前にたった一人で作り始めた地図アプリの試作版が表示されたままになっていた。 

 

画面上の日本地図には、まだまばらな数の赤い点がポツポツと灯っているだけだ。 

 

そのほとんどは、自分で面白半分に打ったものだった。 

 

中学時代、不登校気味だった敏夫にとって、インターネットの掲示板やチャットルームだけが唯一の居場所だった。

 

画面の向こうなら、吃音の癖も、目を合わせて話せない気まずさも隠すことができた。 

 

しかし、どれだけフォロワーが増えても、画面を閉じれば、部屋には鉛のような孤独な静寂が残るだけだった。

 

「俺はさ…… 人との適切な距離感が、どうしても分からへんねん」 

 

敏夫は画面を伏せ、ため息をつくように呟いた。

 

「画面の向こう側のチャットや掲示板なら、いくらでも他人とうまくやれる。自分の本音だって言える。なのに、いざ現実のキャンパスや街中で顔を合わせると、相手の表情の裏を読みすぎて、どこまで踏み込んでいいのか怖くなるんや」 

 

タブレットを裏返し、畳の上に置く。

 

「…… 先日、海外の掲示板で見知らぬ子からメッセージが届いたんや。『あなたのくれた返事のおかげで、初めて「ゆっくりでいいんだ」って安心できた』って。それを読んだとき、俺…… なぜか泣きそうになったんや。相手を励ましたつもりが、ほんまは、俺自身が誰かに一番言ってほしかった言葉だったのかもしれないな」 

 

敏夫は小さく肩をすくめ、膝を抱えるようにして黙り込んだ。

 

部屋の隅、大きな窓の縁に寄りかかるように立っていた佐伯恭一は、冷たいガラスに人差し指を一本だけ触れていた。 

 

外の暮れなずむ通りをぼんやりと見つめながら、ぽつりとこぼす。 

 

実家の文房具店には、祖父の代から何十年も使われてきた分厚い帳簿が、店の奥の戸棚にずらりと並んでいる。 

 

物心ついた頃から、父親は毎日毎日、無言でそれらの帳簿に向き合い、一字一字、狂いのない丁寧な文字でペンを走らせていた。 

 

手伝いを頼まれるたび、恭一は父の背中を見て育ち、その実直さを誇らしく思っていた。

 

だが同時に、その背中が店という小さな檻に父親を閉じ込めているようにも見えて仕方がなかった。

 

「家業を継ぐのは、嫌いやない。実家の店も、そこで育った街も、めっちゃ大切や。ただ……」 

 

窓ガラスをなぞる恭一の指先が、わずかに白く浮き上がる。

 

「このまま何十年も経ったとき、俺の人生には『佐伯の跡取り』っていう肩書しか残らないんやないかって、時々めっちゃ怖くなるんや。誰かと利害関係なしに、自分のほんまの言葉で語り合う時間が、一生こーへんまま、気づいたら人生の終わりを迎えているんやないかって……」 

 

それ以上は、喉のつかえが言葉にならなかった。

 

ただ、暮れていく空の向こうの電線を眺めていた。 

 

部屋の入口の引き戸が、音もなくそっと開いた。 

 

風待ち荘の管理人の娘である茜が、湯気の立つポットを両手で抱えながら入ってきた。 

 

彼女は言葉を発せず、皆の手元にある湯呑みを音を立てないように一つずつ丁寧に並べていく。 

 

そして、全員の顔を順番に静かな瞳で見つめてから、自分の分の湯呑みを両手で包み込むようにして座った。 

 

ここに越してきてからというもの、自分の意見を声高に主張するよりも、こうして人々の話に耳を傾けている時間の方が圧倒的に長かった。

 

幼い頃から両親が共働きで忙しく、祖母に育てられた茜は、 「良い子でいればおばあちゃんが笑ってくれる」という思いから、自分のわがままを一切言わない子供だった。

 

「私はね……」 茜は一度言葉を飲み込み、喉を潤すように小さく息をついた。

 

外で、イチョウの葉が冷たい夜風に揺れて、サワサワと乾いた音を立てる。

 

「おばあちゃんが生きていた頃、『みんなの間に立って、人と人をつなぐのが茜の役目なんだよ』って、ずっと言われて育ったの。せやから、いつの間にか私、自分のほんまの気持ちを置き去りにして、周りの空気を読むことばかり考えてた。誰かのために動いていーひんと、自分がまるで空っぽの器になっちゃう気がして……」 

 

湯呑みの縁に添えられた指先が、ほんのわずかに震えている。

 

「ほんまは…… 私だって、誰かの操り人形みたいに役割を果たすんじゃなくて、自分の生身の声で誰かと話したい。せやけど、そうやって自分の我儘を出したら、今あるつながりまで全部壊れちゃうんやないかって、それが怖くて仕方ないの」 

 

部屋の中は、再び深い静寂に包まれた。

 

だが、先ほどまでの冷たく硬質な沈黙とは違っていた。 

 

それぞれの痛みを持ち寄り、互いの傷口をそっと見せ合ったあとのような、かすかな体温を含んだ静けさだった。 

 

山田裕也が、目の前にある冷めたコップを両手でしっかりと掴み、ゆっくりと卓の上に置いた。

 

「俺たちさ…… いつまでこうやって、ただ悩んで願ってるだけなんやろ。どれだけ怖くても、自分の足で一歩を踏み出して、誰かに手を伸ばさなきゃ、何も始まらへんのやないか」 

 

誰もすぐにはうなずかなかった。

 

だが、誰一人としてその言葉を否定するものはいなかった。 

 

窓の外の空は、完全に藍色の夜へと移り変わろうとしていた。

 

「これだけ個性が強い仲間が集まっているのに、あと一年半で卒業するのはもったいない」 

 

そう言い出してからのここ二ヶ月、彼らは毎日のようにこの部屋に集まっていた。

 

卒業後に就職せずとも、自分たちの力で生活費を稼ぐ方法を模索するためだ。 

 

かといって、働くことそのものを忌み嫌う不良学生というわけでもない。 

 

ただ、一から自分たちで考えて何か画期的なアイデアが出るとも本気で思っていなかった。

 

「五人が集まってぼんやりと知恵を絞り続けていれば、そのうち誰かに突然変異が起き、とんでもないアイデアが降ってくるかもしれない」 という、どこか他力本願で奇妙な期待を抱いていたのである。

 

今日も朝からずーっと、ちゃぶ台を囲んで頭をひねっていたが、一向に突然変異が起こる気配すらなかった。

 

「……で、ほんまに突然変異なんか起きるんやろか」 

 

山田が天井を仰いだとき、ソファでタブレットをいじっていた前島が、急に目を見開いた。

 

「あ、これ凄いで。ちょっと見てや」 

 

前島が画面を突き出すと、覗き込んだ倉橋が声に出して読んだ。

 

『京都市内に住む大学生の数は、短大生や大学院生を含めると約14万人から15万人』……やて。

 

山田が腕を組んでうなった。

 

「俺らもその中の4人……いや、茜も含めたら5人やな」 

 

倉橋が相槌を打つ。

 

その時、佐伯が突然立ち上がった。

 

「ちょっとコーヒー買うてくるわ」 

 

そう言って部屋を出て行ったが、ものの数秒でバタバタと戻ってきた。

 

「わるい、小銭足らんわ。10円貸してや」 

 

前島と倉橋が「10円でええんか」と苦笑しながら、それぞれポケットから10円玉を佐伯に手渡した。

 

「すまんな、必ず返すさかい、覚えといてな」と佐伯が頭を下げる。

 

前島は手をひらひらと振った。

 

「なに言うとんねん。10円くらいやるわ」 そのやり取りをぼんやり聞いていた山田の目が、ふと鋭く光った。

 

「ちょっと待って……。倉橋、14万人にかける10円はいくらや?」

 

「え?ええっと、140万……いや、140万円か」 山田が前島を指さした。

 

「前島、お前、『10円くらいやるわ』って言うたな。倉橋も佐伯もどうや、今の聞いたか?」

 

前島はきょとんとしたが「俺なら30円までなら貸しても返さんでええかなと思うんやけど」と首をかしげた。 

 

山田は、すぐに頭の中で計算機を叩くように目を見開いた。

 

「おい……。もし京都市内の14万人の学生が、みんな『30円くらいやるわ』って言うて、それぞれ30円くれたら……420万円になるんやで。それ、めちゃくちゃ凄ないか?」

 

何だか狐につままれたような、しかし妙な熱気を帯びた話が始まった。

 

「茜、ええところにきた!」

 

山田が身を乗り出し、ちゃぶ台を叩いた。

 

「お前、日頃『たかが30円、されど30円』って言うけどさ、今の大学生にとっての30円の価値って、実際どう思ってる?

自動販売機のジュースには足らんし、ゲーセンの1プレイにも足りひん。財布に落ちてても拾うかどうか微妙なとこやろ?」 

 

茜は目を丸くしたが、すぐに腕を組んで小首をかしげた。

 

「んー、確かにね。自販機の端数にもならんし、コンビニの募金箱にチャリンとするか、下手したらポケットの中でジャラジャラ邪魔になるだけの存在かも。みんな『たかが30円』って思ってるよ、絶対に」

 

 「やろ!そこやねん!」 

 

前島がタブレットを放り出し、身を乗り出した。

 

「みんなが『たかが30円』って思って、ポイッと手放せるその30円をやで……もし京都の学生14万人から集められたとしたら、それは単なる『はした金』やなくて、とんでもないエネルギーに化けるんちゃうか?」

 

倉橋がペンを走らせながら、興奮気味に呟く。

 

「14万人が30円を出しても誰も痛まない。せやけど、集まれば420万円になる。この『誰も痛まないのに、巨大な価値が生まれる』っていう構造……これ、もしかして……」 

 

茜は五人の異様な熱気に気圧されながらも、ふっと不敵な笑みを浮かべて言った。

 

「……なにそれ。面白そうやん。詳しく聞かせてよ、先輩たち」 

 

前島は、しばらくタブレットの画面を見つめていたが、やがて顔を上げた。

 

「でもな。いきなり14万人から集める話にするんやなくて、まず俺ら五人で始めてみたらええんちゃうか」

 

「五人で?」

 

「そうや。30円ずつ。毎日でもええし、気が向いた時でもええ。とにかく、自分らで30円を出して、少しずつ貯めていくんや」 

 

山田が腕を組んだ。

 

「それで、どれくらいになるんや?」

 

前島は指を折った。

 

「30円で5人やから、一日150円。一ヶ月で4500円。一年で54000円や」 

 

「五万四千円か」と佐伯がつぶやいた。

 

「毎日ちゃんと入れたら、やけどな」

 

「せやな。毎日やなくてもええ。百円貯まる日もあれば、三十円だけの日もある。それでも、続けてみる」 

 

倉橋がノートを開いた。30、150、4500、54000と、数字を縦に並べていく。

前島はその数字を眺めながら言った。

 

「そして、将来、人と人が繋がるための手段にそれを使うことにしたらええと思わへんか」

 

「手段って?」

 

「まだ分からへん」 

 

山田が笑った。

 

「分からへんのに始めるんかい」 

 

「分からへんから始めるんやろ。これからいろんな人に会う。いろんな人と話す。その中で、これがあったら誰かと誰かを繋げる、いうもんが出てくるかもしれへん。その時に使うんや」 

 

佐伯がちゃぶ台の上の十円玉を指先で転がした。

 

「ほんなら、基金いうても、金を集めることが目的やないんやな」 

 

「うん」 

 

茜が立ち上がった。

 

「ほんなら、今から始めよ」 

 

「今から?」

 

「そう。言うてるだけやったら、また突然変異を待ってるだけになるやん」 

 

茜は部屋の隅から小さなガラス瓶を持ってきた。

 

蓋を開け、ちゃぶ台の真ん中に置く。

 

「これでええやろ」 

 

前島が笑った。

 

「ええな」 

 

最初に財布を開いたのは前島だった。

 

十円玉を三枚取り出し、瓶へ落とした。 

 

カチン、カチン、カチン。 倉橋も三枚。山田も三枚。佐伯も三枚。最後に茜が三枚。 瓶の底に硬貨が重なった。

 

「百五十円」

 

と倉橋が言った。

 

「これだけか」と山田が瓶を覗き込む。

 

「これだけや」と前島が笑う。

 

「でも、ゼロやない」と茜が蓋を閉めた。

 

「名前、どうする?」

 

「30円基金でええやろ」と前島が即答した。

 

「そのまんまやな」 

 

「そのまんまやねん」 

 

倉橋はノートの新しいページを開き、『30円基金』と書いた。

 

「これ、他の奴にも話すんやろ?」と佐伯が聞いた。

 

「うん。でも、出してくれとは最初から言わんとこ」 

 

「なんでや?」

 

「何に使うかも決まってへんのに、金だけくれ言うても変やろ」 

 

山田が頷いた。

 

「そらそうや」 

 

「まず話す。俺らが何をしたいんか。何のために30円を貯めているんか。それを聞いて、面白いと思った奴だけ入れてくれたらええ」 

 

その翌日、五人は大学の食堂で、いつも同じ席に座っている学生に話をした。

 

前島がタブレットを見せる。

 

「これ、昨日から始めたんや」 

 

学生は画面を見て、首を傾げた。

 

「30円基金?」

 

「そう」 

 

「何それ」 

 

前島が昨日の話を最初から説明した。

 

学生は黙って聞いていたが、話が終わると財布を出した。

 

「ほんなら、30円だけ入れとくわ」 

 

「え?」

 

「何や。俺が出したら困るんか?」

 

「いや、そうやなくて……」 

 

学生は十円玉を三枚、前島の手のひらに置いた。

 

「まだ何に使うか決まってへんのやろ?」

 

「うん」 

 

「決まったら教えてくれや。面白かったら、また出すし」 

 

それだけ言って、学生は席を立った。

 

前島は手のひらの30円を見たまま動かなかった。

 

「入れへんの?」と倉橋が笑う。

 

「いや……入れる」 

 

風待ち荘に戻ってから、前島は瓶の蓋を開けた。

 

カチン、カチン、カチン。 百五十円の横に、三枚の十円玉が転がった。

 

「百八十円」と佐伯が言った。

 

「増えたな」と山田が笑う。

 

「たった三十円やけどな」 

 

「たった三十円やから、出してくれたんやろ」と茜が瓶を持ち上げた。

 

その日の午後、今度は別の学生に話をした。

 

「30円基金?」

 

相手は笑った。

 

「何に使うん?」

 

「まだ決まってへん」 

 

「決まってへんのに集めるん?」

 

前島は少し考えてから答えた。

 

「人と人が繋がるために使いたいんや。何か必要になった時、その時に使う」 

 

「それ、えらい曖昧やな」 

 

「そうやな」 

 

「俺は、使い道が決まってからでええわ」 

 

「分かった」 

 

前島はそれ以上すすめなかった。

 

帰り道、倉橋が言った。

 

「断られても、嫌な顔せえへんな」 

 

「出す出さへんは、その人の勝手やろ」 

 

「そうやけど」 

 

「そのうち、何に使うか決まった時に、もう一回話せばええ」 

 

その二人の会話を後ろで聞いていた山田が、急に財布を取り出した。

 

「俺、もう30円入れとこ」 「何でや?」

 

「さっきの奴、使い道が決まったら考える言うたやろ。俺らも、ちゃんと考えなあかんと思うてな」 

 

「お前、今日はえらい真面目やな」 

 

「うるさいわ」 

 

笑いながら、山田は十円玉を三枚、瓶の中へ落とした。

 

それを見ていた茜が、ぽつりと言った。

 

「30円って、不思議やね」 

 

「何が?」

 

「大した金額やないのに、出す人によって、入れる時の顔が違う」 

 

誰も答えなかった。

 

瓶の中には、二百円を少し超えた硬貨しかない。 

 

それでも、その日から五人は、誰かと話すたびに30円基金のことを口にするようになった。

 

「何に使うか決まってからでええわ」と言う者もいた。

 

「30円だけなら」と財布を開く者もいた。

 

「そんな金で何ができるんや」と笑う者もいた。

 

そのたびに五人は、いちいち言い返さなかった。 

 

ただ、自分たちが何を考えているのかを話した。 

 

そして、話を聞いた相手が最後に財布を開くかどうかは、その人に任せた。 

 

30円を受け取った日には、その30円を瓶に入れた。 

 

受け取らなかった日は、何も入れなかった。 

 

それだけだった。 

 

けれど、五人にとっては、それでよかった。 

 

人と話す。 話を聞く。 自分たちの考えを話す。 そして、もしその話に何かを感じた人がいたら、30円だけ参加してもらう。 

 

そんな小さなやり取りを重ねながら、五人は少しずつ、風待ち荘の外へ出ていった。