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『 最後の仕事 』
第十一章 おかしいな
黒田が紙を手に取った。指先で折り目を伸ばす。今日一日の動きが、そこに並んでいる。川、玄関、座敷、料理、モデル、主人。順番を追っていくうちに、昼間は気にも留めなかった小さな違和感が一つずつ戻ってきた。
仲谷は何も言わず、香盤表の端を覗き込んだ。紙の上の「モデル到着」という文字。その下の「旅館主人登場」。さらに横には、スタッフを客として使うことまで書かれている。仲谷の眉がわずかに上がる。
片づけが終わり、皆が座敷へ戻る。
夕食前の静かな時間だ。
黒田は窓際に腰を下ろした。川の音が聞こえる場所なら、余計なことを言わずに済む。
仲谷が隣へ来た。
「でも、よかったですね」
しばらく二人とも川を見ていた。
やがて黒田が言った。
「谷ヤン」
仲谷は黒田を見る。聞きたいことはあるが、今すぐ答えを求める話でもない。
仲谷はすぐには答えない。
黒田は続けた。
「主人が、あんなええカメラ持って出てくる。モモちゃんが、ちょうど今日の撮影に使える着物で来る。三村と山科は香盤表を見たら、俺らが何も言わんでもすぐ動く。俺がハレパネ作れ言うたら、材料まで迷わず持ってくる」
「昔からあんなもんですよ」
黒田は窓の外へ目を向けた。店のことを話すなら、相手の顔を見るより川を見ている方が話しやすかった。
「俺と仲谷だけ知らんかったんちゃうか」
その言葉に、仲谷は黙った。
今日一日の画が頭の中でつながった。
家庭用ビデオカメラ。
主人の一眼デジタルカメラ。
モモちゃんの着物。
香盤表。
ハレパネ。
座敷の客役。
「僕も、ちょっとそう思います」
二人は顔を見合わせた。
そして竹森を呼んだ。
「竹森さん」
「ちょっと話があります」
竹森が来た。
森川もいる。
三村と山科もいる。
モモちゃんもいた。
旅館の主人も、少し離れて座っている。
黒田は全員を見回した。
「俺ら、騙したんか?」
竹森は答えない。
「最後の最後で、こんなことするんですか」
黒田の声が低くなる。
「仲間やと思って今日まで来たんやぞ」
その言葉に、モモちゃんが前へ出た。
「二人とも、怒るのはこれ見てからにし」
彼女は封筒を二つ差し出した。
黒田が受け取る。
仲谷も受け取る。
封を切る。
中には現金と、制作費の明細が入っていた。
「この旅館のPR動画の制作費や」
二人は顔を上げる。名前を呼ばれたからではない。封筒の中身を見て、ようやく話の意味が現実になる。
「それを、二人の仕事の分として分けてある」
黒田は明細へ目を落とす。金額だけでなく、そこに並んだ仕事の項目を確かめる。
「ほんまに仕事の金か」
「どうして僕らに?」
竹森は皆の顔を見渡す。ここから先は、自分が隠していた理由を一人ずつ受け止めてもらうしかない。
「森川、話してええな」
竹森は少し息を吸った。
「黒ちゃんは、丹波篠山の実家の味噌屋を改装せなあかん。谷ヤンは株で失敗して、生活がしんどい。森川と三村と山科から聞いた」
黒田は目を伏せた。礼を言えば済む話ではないことが、ようやく分かる。
仲谷も黙った。
竹森は続けた。
「金をそのまま渡したら、お前らは受け取らん。俺は知ってる。だから仕事にした」
旅館の主人が頭を下げた。
「以前、撮影でお世話になった皆さんですから。私も、できることならと思いました」
「私も、自分の店の着物を宣伝できる。普通の仕事や」
竹森が続ける。
「森川がシナリオを書いた。香盤表も作った。俺は旅館と話をつけた」
黒田は紙へ目を落とした。朝から皆が動いていた順番の意味が、ようやく一本につながった。
「俺らを助けるために、こんな大掛かりなことしたんか」
「大掛かりにせな、お前らが気づくやろ」
三村が吹き出した。
「黒さん、今日まで全然気づかなかったですもんね」
竹森は少し黙った。
それから、二人の顔を見て言った。
黒田が顔を上げる。怒るためなのか、礼を言うためなのか、自分でもまだ決められない。
「昔、俺が初めて自分で大きな仕事を取ってきたときや」
竹森はゆっくり話し始めた。
「予算がなかった。クライアントには大きいことを言うた。ええ画を作ります、ええスタッフでやります、ってな。ところが蓋を開けたら、金が全然足りんかった」
仲谷が黙って聞いている。
「俺は若かったし、仕事を取ったことで頭がいっぱいやった。現場が始まったら、黒ちゃんが照明の足りん分を自分で工夫して、機材を組み替えた。谷ヤンはカメラのレンズを一本やりくりして、撮る順番まで変えてくれた」
黒田は何も言わない。
「俺はそのとき、現場の端で青くなってた。失敗したら、俺の仕事がなくなるだけやない。皆に迷惑をかけると思った」
「そしたら黒ちゃんが言うたんや。『予算がないんは、お前の仕事や。ないもんはない。せやけど、画までなくなるわけやない』って」
黒田が眉を寄せる。
「そんなこと言うたか?」
「黒ちゃん、昔から同じですね」
竹森も笑う。
「谷ヤンは、その横で『撮れる画から撮ったらええ。撮れん画は考えたらええ』って言うた」
仲谷が首をかしげた。
「僕、そんな格好ええこと言いました?」
竹森は封筒を指した。
「だから今度は、俺が仕事を作る番やと思ったんや」
黒田は封筒を膝の上に置いたまま、しばらく川の方を見ていた。
「店な」
誰に向けるでもなく、黒田が言った。
「棚がもう、だいぶ傷んどるんや。表の木も、雨が入ったところがある。親父の代から使うてるから、直す言うても、どこまで残してどこから替えるか、見積もり見ながら考えなあかん」
仲谷が封筒の角を指で押さえた。
黒田は仲谷の指先へ目をやった。言葉にしなくても、その意味は分かる。
「カメラの中古相場なら、傷一つ見たらだいたい分かるんです。これは待った方がいい、これは今買うた方がいいって。でも株は、数字を見てるうちに、自分まで分かった気になってしもた」
「戻ると思ったんです」
黒田はそれ以上聞かない。
二人の間に、川の音が入る。
竹森が封筒を見た。
「せやから、現金だけ渡すんは嫌やった」
「俺らが受け取らんから?」
「それもある。けど、それだけやない」
竹森は一度、笑いかけてやめた。
「昔の借りを、金で返したくなかったんや」
その言葉のあと、竹森は昔の仕事の話をした。
部屋が静かになる。
「助けてもらった奴が、助ける側になる。それだけの話や」
黒田は封筒を見た。
「それなら、最初から言うてくれたらええやろ」
「言うたら、黒ちゃんは来えへん」
仲谷が笑い出した。
黒田が仲谷を見る。
「せやから仕事にした」
黒田はしばらく封筒を見つめている。
やがて、明細を折りたたんだ。
「仕事したやろ」
仲谷も封筒をしまった。
「最初からそうしたらよかったんや」
「いや、途中までほんまに騙されたと思ったんやからな」
「そこまで演技できたんやから、今日の撮影は成功ですね」
山科が静かに言った。
黒田は山科を見る。
「お前らも知ってたんか」
山科が頭を下げる。
黒田は少し黙ってから、笑う。
仲谷が香盤表を手に取った。
「これ、最初から全部書いてあったんですか?」
「全部ではないです。現場で変わるところは変わりました」
「じゃあ、ここは?」
仲谷が川沿いの順番を指す。
「それは森川さんが最初に考えてました」
黒田は森川を見る。最初からどこまで知っていたのか、その顔なら分かる気がした。
「俺のこと、そこまで読んでたんか」
森川の口元が、ほんの少し緩んだ。
「でも、外してへんやろ」
黒田は返事をしない。
ただ、香盤表をもう一度見た。
そこには時間と場所と人の名前が並んでいた。
撮影順。
出演者。
スタッフ。
移動。
必要なもの。
その紙を作るには、現場を知っていなければならない。
三村と山科が事前に旅館の中を歩き、川沿いの人の流れを見て、料理が出てくる時間を聞き、主人が動ける時間を確かめた。
森川はそれをシナリオにした。
竹森は旅館と交渉した。
モモちゃんは着物を用意した。
主人はカメラとレンズを貸した。
そして、黒田と仲谷は何も知らないまま現場へ入り、プロとして仕事をした。
黒田は香盤表を畳んだ。
黒田は封筒を懐へしまったあと、膝の上の手をしばらく見ている。指先には、朝にアルミ箔を貼ったときの小さな傷が残っている。
仲谷も自分の封筒を見た。それから窓の外へ目をやった。
「明日、これで店の見積もり取り直しますわ」
「僕は……カメラは売らんで済みそうです」
三村は、その香盤表をどうするつもりなのか尋ねた。
黒田は、それを店に貼るつもりだ。
「俺にも仕事してた時代があったいう証拠や」
「カメラの横に置いときます」
仲谷は、店に貼るのかと聞き返した。
「そう。今日の着物と一緒に置いとく」
森川は、結局みんな香盤表を見るのが好きなのだと笑う。
森川は黙っている。
窓の外では、貴船川が暗い山の中を流れている。
「昨日、最後の仕事言うたけどな」
「ほんまに最後にするんは、もったいないな」
森川の視線が川へ移る。流れる水を眺めていると、今日一日の時間がゆっくりほどけていく。
「仕事は、終わったあとに決めるもんや」
竹森がすぐに言った。
「せや。仕事は作るもんや」
「俺の仕事やからな」
仲谷が立ち上がった。
三村はすぐに賛成した。
主人が酒を運んできた。
皆が杯を手にする。
誰も乾杯の言葉を考えない。
竹森が仕事を終えた皆を労った。
それだけだ。
杯が触れ合った。
小さな音がした。
外では川が流れていた。
翌朝、皆はそれぞれ玄関を出た。旅館の前ではモモちゃんが手を振り、やがて車が動き出す。
森川は後ろの窓から川へ目をやる。車が離れても、昨日から続く音だけはまだ耳の奥に残っている。
昨日撮った映像には、川が何度も出てくる。
流れている水。
揺れる木。
旅館の屋根。
モモちゃんの着物。
主人の笑顔。
それぞれ別の時間に撮った画だ。
けれど、編集すれば一本になる。
森川は目を閉じた。車の中では竹森が次の仕事の話をし、三村が笑っている。山科はそれを聞き、黒田は眠ったまま、仲谷は窓の外を見ていた。
昨日の撮影を口にしても、返ってくるのは「ええ画やったな」ぐらいだ。森川は山道を眺めながら、昨日のカットを一つずつ思い出した。
後部座席では、封筒がそれぞれの鞄の中に収まっている。車の振動が、昨日の川の音と重なった。
前の席で竹森が、「次はもうちょっと小さい仕事にしようや」と言っている。三村が笑い、山科が「竹森さんが言うと信用できません」と返した。黒田は目を閉じたままだったが、口元だけが動いた。森川は聞こえないふりをした。
森川は目を開けた。
山を下りる道の先に、朝の街が見えてきた。
最後の仕事という言葉は、もう誰の口からも出ない。









