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『  最後の仕事 』

 

第十一章 おかしいな

 

黒田が紙を手に取った。指先で折り目を伸ばす。今日一日の動きが、そこに並んでいる。川、玄関、座敷、料理、モデル、主人。順番を追っていくうちに、昼間は気にも留めなかった小さな違和感が一つずつ戻ってきた。

 

仲谷は何も言わず、香盤表の端を覗き込んだ。紙の上の「モデル到着」という文字。その下の「旅館主人登場」。さらに横には、スタッフを客として使うことまで書かれている。仲谷の眉がわずかに上がる。

 

片づけが終わり、皆が座敷へ戻る。

 

夕食前の静かな時間だ。

 

黒田は窓際に腰を下ろした。川の音が聞こえる場所なら、余計なことを言わずに済む。

 

仲谷が隣へ来た。

 

「でも、よかったですね」

 

しばらく二人とも川を見ていた。

 

やがて黒田が言った。

 

「谷ヤン」

 

仲谷は黒田を見る。聞きたいことはあるが、今すぐ答えを求める話でもない。

 

仲谷はすぐには答えない。

 

黒田は続けた。

 

「主人が、あんなええカメラ持って出てくる。モモちゃんが、ちょうど今日の撮影に使える着物で来る。三村と山科は香盤表を見たら、俺らが何も言わんでもすぐ動く。俺がハレパネ作れ言うたら、材料まで迷わず持ってくる」

 

「昔からあんなもんですよ」

 

黒田は窓の外へ目を向けた。店のことを話すなら、相手の顔を見るより川を見ている方が話しやすかった。

 

「俺と仲谷だけ知らんかったんちゃうか」

 

その言葉に、仲谷は黙った。

 

今日一日の画が頭の中でつながった。

 

家庭用ビデオカメラ。

 

主人の一眼デジタルカメラ。

 

モモちゃんの着物。

 

香盤表。

 

ハレパネ。

 

座敷の客役。

 

「僕も、ちょっとそう思います」

 

二人は顔を見合わせた。

 

そして竹森を呼んだ。

 

「竹森さん」

 

「ちょっと話があります」

 

竹森が来た。

 

森川もいる。

 

三村と山科もいる。

 

モモちゃんもいた。

 

旅館の主人も、少し離れて座っている。

 

黒田は全員を見回した。

 

「俺ら、騙したんか?」

 

竹森は答えない。

 

「最後の最後で、こんなことするんですか」

 

黒田の声が低くなる。

 

「仲間やと思って今日まで来たんやぞ」

 

その言葉に、モモちゃんが前へ出た。

 

「二人とも、怒るのはこれ見てからにし」

 

彼女は封筒を二つ差し出した。

 

黒田が受け取る。

 

仲谷も受け取る。

 

封を切る。

 

中には現金と、制作費の明細が入っていた。

 

「この旅館のPR動画の制作費や」

 

二人は顔を上げる。名前を呼ばれたからではない。封筒の中身を見て、ようやく話の意味が現実になる。

 

「それを、二人の仕事の分として分けてある」

 

黒田は明細へ目を落とす。金額だけでなく、そこに並んだ仕事の項目を確かめる。

 

「ほんまに仕事の金か」

 

「どうして僕らに?」

 

竹森は皆の顔を見渡す。ここから先は、自分が隠していた理由を一人ずつ受け止めてもらうしかない。

 

「森川、話してええな」

 

竹森は少し息を吸った。

 

「黒ちゃんは、丹波篠山の実家の味噌屋を改装せなあかん。谷ヤンは株で失敗して、生活がしんどい。森川と三村と山科から聞いた」

 

黒田は目を伏せた。礼を言えば済む話ではないことが、ようやく分かる。

 

仲谷も黙った。

 

竹森は続けた。

 

「金をそのまま渡したら、お前らは受け取らん。俺は知ってる。だから仕事にした」

 

旅館の主人が頭を下げた。

 

「以前、撮影でお世話になった皆さんですから。私も、できることならと思いました」

 

「私も、自分の店の着物を宣伝できる。普通の仕事や」

 

竹森が続ける。

 

「森川がシナリオを書いた。香盤表も作った。俺は旅館と話をつけた」

 

黒田は紙へ目を落とした。朝から皆が動いていた順番の意味が、ようやく一本につながった。

 

「俺らを助けるために、こんな大掛かりなことしたんか」

 

「大掛かりにせな、お前らが気づくやろ」

 

三村が吹き出した。

 

「黒さん、今日まで全然気づかなかったですもんね」

 

竹森は少し黙った。

 

それから、二人の顔を見て言った。

 

黒田が顔を上げる。怒るためなのか、礼を言うためなのか、自分でもまだ決められない。

 

「昔、俺が初めて自分で大きな仕事を取ってきたときや」

 

竹森はゆっくり話し始めた。

 

「予算がなかった。クライアントには大きいことを言うた。ええ画を作ります、ええスタッフでやります、ってな。ところが蓋を開けたら、金が全然足りんかった」

 

仲谷が黙って聞いている。

 

「俺は若かったし、仕事を取ったことで頭がいっぱいやった。現場が始まったら、黒ちゃんが照明の足りん分を自分で工夫して、機材を組み替えた。谷ヤンはカメラのレンズを一本やりくりして、撮る順番まで変えてくれた」

 

黒田は何も言わない。

 

「俺はそのとき、現場の端で青くなってた。失敗したら、俺の仕事がなくなるだけやない。皆に迷惑をかけると思った」

 

「そしたら黒ちゃんが言うたんや。『予算がないんは、お前の仕事や。ないもんはない。せやけど、画までなくなるわけやない』って」

 

黒田が眉を寄せる。

 

「そんなこと言うたか?」

 

「黒ちゃん、昔から同じですね」

 

竹森も笑う。

 

「谷ヤンは、その横で『撮れる画から撮ったらええ。撮れん画は考えたらええ』って言うた」

 

仲谷が首をかしげた。

 

「僕、そんな格好ええこと言いました?」

 

竹森は封筒を指した。

 

「だから今度は、俺が仕事を作る番やと思ったんや」

 

黒田は封筒を膝の上に置いたまま、しばらく川の方を見ていた。

 

「店な」

 

誰に向けるでもなく、黒田が言った。

 

「棚がもう、だいぶ傷んどるんや。表の木も、雨が入ったところがある。親父の代から使うてるから、直す言うても、どこまで残してどこから替えるか、見積もり見ながら考えなあかん」

 

仲谷が封筒の角を指で押さえた。

 

黒田は仲谷の指先へ目をやった。言葉にしなくても、その意味は分かる。

 

「カメラの中古相場なら、傷一つ見たらだいたい分かるんです。これは待った方がいい、これは今買うた方がいいって。でも株は、数字を見てるうちに、自分まで分かった気になってしもた」

 

「戻ると思ったんです」

 

黒田はそれ以上聞かない。

 

二人の間に、川の音が入る。

 

竹森が封筒を見た。

 

「せやから、現金だけ渡すんは嫌やった」

 

「俺らが受け取らんから?」

 

「それもある。けど、それだけやない」

 

竹森は一度、笑いかけてやめた。

 

「昔の借りを、金で返したくなかったんや」

 

その言葉のあと、竹森は昔の仕事の話をした。

 

部屋が静かになる。

 

「助けてもらった奴が、助ける側になる。それだけの話や」

 

黒田は封筒を見た。

 

「それなら、最初から言うてくれたらええやろ」

 

「言うたら、黒ちゃんは来えへん」

 

仲谷が笑い出した。

 

黒田が仲谷を見る。

 

「せやから仕事にした」

 

黒田はしばらく封筒を見つめている。

 

やがて、明細を折りたたんだ。

 

「仕事したやろ」

 

仲谷も封筒をしまった。

 

「最初からそうしたらよかったんや」

 

「いや、途中までほんまに騙されたと思ったんやからな」

 

「そこまで演技できたんやから、今日の撮影は成功ですね」

 

山科が静かに言った。

 

黒田は山科を見る。

 

「お前らも知ってたんか」

 

山科が頭を下げる。

 

黒田は少し黙ってから、笑う。

 

仲谷が香盤表を手に取った。

 

「これ、最初から全部書いてあったんですか?」

 

「全部ではないです。現場で変わるところは変わりました」

 

「じゃあ、ここは?」

 

仲谷が川沿いの順番を指す。

 

「それは森川さんが最初に考えてました」

 

黒田は森川を見る。最初からどこまで知っていたのか、その顔なら分かる気がした。

 

「俺のこと、そこまで読んでたんか」

 

森川の口元が、ほんの少し緩んだ。

 

「でも、外してへんやろ」

 

黒田は返事をしない。

 

ただ、香盤表をもう一度見た。

 

そこには時間と場所と人の名前が並んでいた。

 

撮影順。

 

出演者。

 

スタッフ。

 

移動。

 

必要なもの。

 

その紙を作るには、現場を知っていなければならない。

 

三村と山科が事前に旅館の中を歩き、川沿いの人の流れを見て、料理が出てくる時間を聞き、主人が動ける時間を確かめた。

 

森川はそれをシナリオにした。

 

竹森は旅館と交渉した。

 

モモちゃんは着物を用意した。

 

主人はカメラとレンズを貸した。

 

そして、黒田と仲谷は何も知らないまま現場へ入り、プロとして仕事をした。

 

黒田は香盤表を畳んだ。

 

黒田は封筒を懐へしまったあと、膝の上の手をしばらく見ている。指先には、朝にアルミ箔を貼ったときの小さな傷が残っている。

 

仲谷も自分の封筒を見た。それから窓の外へ目をやった。

 

「明日、これで店の見積もり取り直しますわ」

 

「僕は……カメラは売らんで済みそうです」

 

三村は、その香盤表をどうするつもりなのか尋ねた。

 

黒田は、それを店に貼るつもりだ。

 

「俺にも仕事してた時代があったいう証拠や」

 

「カメラの横に置いときます」

 

仲谷は、店に貼るのかと聞き返した。

 

「そう。今日の着物と一緒に置いとく」

 

森川は、結局みんな香盤表を見るのが好きなのだと笑う。

 

森川は黙っている。

 

窓の外では、貴船川が暗い山の中を流れている。

 

「昨日、最後の仕事言うたけどな」

 

「ほんまに最後にするんは、もったいないな」

 

森川の視線が川へ移る。流れる水を眺めていると、今日一日の時間がゆっくりほどけていく。

 

「仕事は、終わったあとに決めるもんや」

 

竹森がすぐに言った。

 

「せや。仕事は作るもんや」

 

「俺の仕事やからな」

 

仲谷が立ち上がった。

 

三村はすぐに賛成した。

 

主人が酒を運んできた。

 

皆が杯を手にする。

 

誰も乾杯の言葉を考えない。

 

竹森が仕事を終えた皆を労った。

 

それだけだ。

 

杯が触れ合った。

 

小さな音がした。

 

外では川が流れていた。

 

翌朝、皆はそれぞれ玄関を出た。旅館の前ではモモちゃんが手を振り、やがて車が動き出す。

 

森川は後ろの窓から川へ目をやる。車が離れても、昨日から続く音だけはまだ耳の奥に残っている。

 

昨日撮った映像には、川が何度も出てくる。

 

流れている水。

 

揺れる木。

 

旅館の屋根。

 

モモちゃんの着物。

 

主人の笑顔。

 

それぞれ別の時間に撮った画だ。

 

けれど、編集すれば一本になる。

 

森川は目を閉じた。車の中では竹森が次の仕事の話をし、三村が笑っている。山科はそれを聞き、黒田は眠ったまま、仲谷は窓の外を見ていた。

 

昨日の撮影を口にしても、返ってくるのは「ええ画やったな」ぐらいだ。森川は山道を眺めながら、昨日のカットを一つずつ思い出した。

 

後部座席では、封筒がそれぞれの鞄の中に収まっている。車の振動が、昨日の川の音と重なった。

 

前の席で竹森が、「次はもうちょっと小さい仕事にしようや」と言っている。三村が笑い、山科が「竹森さんが言うと信用できません」と返した。黒田は目を閉じたままだったが、口元だけが動いた。森川は聞こえないふりをした。

 

森川は目を開けた。

 

山を下りる道の先に、朝の街が見えてきた。

 

最後の仕事という言葉は、もう誰の口からも出ない。

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十四章 名前のない人

 

 破り取られたページの端に残っていた日付は、昨日の日付だった。 涼子は、しばらくそこから目を離せなかった。 過去の記録の中に、現在の日付がある。

 

 それは、長い年月をかけて残されてきたものが、とうとう自分たちの時間まで追いついてきたことを意味していた。 地下室の壁には湿気が滲み、階段の上から差し込むわずかな光が、床の古い傷を細く照らしている。 誰かが長い年月をかけて隠してきた場所なのに、そこに残されているものは、古い時代の遺物というより、いまも誰かが続きを書こうとしている記録のように感じられた。

 

 孝は、手帳を慎重に取り上げた。

 

 破り取られたページの跡を調べると、そこには紙を切り離したばかりのような新しい繊維が残っている。 少なくとも、何十年も前に破られたものではない。 誰かが最近、この手帳からページを抜き取った。

 

 そして、その人物は現在の日付を残した。 つまり、千鶴の記憶は過去のものではない。 いまも誰かが続きを守っている。

 

 川村が手帳の裏表紙を調べているあいだ、涼子は祖母の横に立っていた。 祖母は写真の中の幼い千鶴を見つめている。 その顔には、懐かしさよりも申し訳なさがあった。

 

 涼子には、それが気になった。

 

 祖母は千鶴が生きていることを知っていた。 手紙も受け取っている。 それなのに、なぜ一度も会いに行かなかったのか。

 

 なぜ、千鶴のことを家族に話さなかったのか。 その理由を尋ねると、祖母はしばらく黙ったあと、ゆっくりと地下室の奥を見た。 そこには小さな鉄の扉がある。

 

 四人は、これまでその存在に気づいていなかった。 扉の前には古い棚が置かれており、長い年月のあいだ、わざと隠されていたように見える。 祖母は、そこへ歩いていった。

 

 鍵はなかった。 代わりに、扉の中央に小さな円形のくぼみがある。 円の中には、一点の印。

 

 「零」と同じ印だった。 祖母は、自分の首にかけていた細い鎖を外した。 そこには、小さな金属片がついている。

 

 それをくぼみに合わせると、内部でかすかな音がした。 鉄扉がゆっくり開く。 その向こうには、もう一つの部屋があった。

 

 広さは六畳ほどしかない。 壁際に木箱が並び、中央には古い椅子が一脚だけ置かれている。 そして、その椅子の背に、一枚の白い布が掛けられていた。

 

 白い布の下に何かがある。 涼子は、それが何なのかをすぐには理解できなかった。 近づいて布を外す。

 

 そこにあったのは、鏡だった。 古い鏡ではない。

 

 むしろ、現在のものに近い。 その鏡の裏側には、紙が貼られていた。 祖母がその紙を見た瞬間、目を閉じた。

 

 そこには千鶴の字で、こう書かれている。

 

「涼子へ」

 

 涼子は息を呑んだ。 まだ一度も会ったことのない人間が、自分の名前を書いている。 それだけで、胸の奥に妙な感覚が広がった。

 

 手紙には、長い文章はなかった。 千鶴は、これまでの出来事を説明しようとはしていない。 ただ、自分がなぜ姿を消したのか、なぜ名前を変えたのか、そしてなぜ涼子をこの場所へ導いたのか、その理由だけが記されていた。

 

 千鶴は、原爆の日に死んだことになった。 それは家族を守るためだった。

 

 しかし、本当の理由は、それだけではない。 千鶴の父親が持っていた記録には、キリシタン禁制の時代から幕末、明治、大正、そして戦争まで続いてきた一つの事実が記されていた。 長崎には、時代が変わるたびに名前を変えながら生き延びてきた人々がいた。

 

 その中には、外国人との交流を担った者もいれば、信仰を隠して暮らした者もいた。 幕末に外国船が出入りするようになると、その記録はさらに複雑になった。 誰が誰と会い、どの船に乗り、どの名前を使ったのか。

 

 それらを記録していた人間がいた。

 

 その記録が「零」の始まりだった。 戦争が始まると、その記録は別の意味を持つようになった。 外国とのつながりを示す名前が、危険なものになった。

 

 だから、記録に残された人々を守るために、名前を分けた。 その最後の整理をしたのが、千鶴の父親だった。 原爆投下の直前、千鶴はその記録を運ぶ役目を担った。

 

 幼い子供だった千鶴が、何も知らずに箱を抱えて歩いたのではない。 大人たちは、千鶴にすべてを話すことができなかった。 それでも、千鶴は箱の中を見てしまった。

 

 そこに書かれていた名前の一つを、覚えてしまった。

 

 それが、すべての始まりだった。 涼子は手紙を読み進めた。 千鶴が覚えてしまった名前は、単なる昔の人物の名前ではなかった。

 

 その人物は、戦後も生きていた。 そして、その人物の子孫が、現在まで続いている。 名前を消す必要があったのは、その人物を守るためではない。

 

 その人物が、長崎で起きたある出来事の責任を負っていたからだった。 原爆投下そのものではない。 その前に、長崎の街で起きていたこと。

 

 誰が何を知っていたのか。 誰が何を伝え、誰が何を伝えなかったのか。

 

 そこには、戦争という大きな歴史の陰に埋もれてしまった、もう一つの歴史があった。 千鶴は、その記録を知ってしまった。 だから追われた。

 

 そして、自分が死んだことにすることで、記録を守った。 祖母は、ここで初めて涼子に話した。 千鶴から最後の手紙を受け取ったあと、一度だけ電話があったという。

 

 電話の向こうの声は、幼い頃の千鶴の声とは違っていた。 当然だった。 何十年も経っている。

 

 それでも、祖母にはわかった。 声の奥に、あの頃と同じ息遣いがあった。 千鶴は、会いたいとは言わなかった。

 

 代わりに、一つだけ頼んだ。

 

 自分の名前を、涼子へ渡してほしい。 それが、千鶴にとっての最後の願いだった。 涼子は、その意味を考えた。

 

 自分の名前に千鶴の記憶が含まれている。 だから、これまで祖母が守ってきたものは、記録ではなかった。 千鶴という人間が存在したという事実だった。

 

 歴史の中で名前を失った人間を、もう一度誰かの記憶の中へ戻すこと。 それが、最後の役目だった。 手紙の最後には、千鶴がその後どう生きたのかが書かれていた。

 

 千鶴は、まだ長崎にいる。 しかも、涼子たちがこれまで何度も歩いた場所の近くに。 ただし、涼子に会うことはできない。

 

 会えば、千鶴が生きていることを知る人間が増えるからだ。 だから、千鶴は最後まで姿を見せない。 その代わり、鏡を残した。

 

 鏡の裏には、もう一枚の写真がある。 涼子がそれを取り出した。 写真には、現在の長崎が写っている。

 

 撮影されたのは最近だ。 そこに、一人の高齢の女性が立っている。 顔ははっきり写っていない。

 

 けれど、その横顔だけで、祖母にはわかった。 「千鶴……」 その声は、地下室の中にほとんど響かなかった。 それでも涼子には、はっきり聞こえた。

 

 祖母は泣いていなかった。

 

 ただ、写真を見つめたまま、八十年以上前の少女の名前を、初めて声にした。 千鶴は生きていた。 そして、涼子がここへ来ることを知っていた。

 

 そのとき、地下室の入口から再び足音が聞こえた。 今度は一人ではない。 複数の人間が階段を下りてくる。

 

 川村が振り返った。 入口に現れたのは、見知らぬ男だった。 その後ろには、二人の男女がいる。

 

 彼らは四人を見ても驚かなかった。 むしろ、涼子の祖母を見ると、深く頭を下げた。 その中の一人が、古い封筒を取り出した。

 

 封筒には、千鶴の名前が書かれている。

 

 祖母はそれを見ると、ようやく理解した。 千鶴は、自分一人で記録を守っていたのではない。 戦後、長崎に残った人々の中にも、その記録を受け継いだ者がいた。

 

 その人々が、いまここに集まっている。 しかも、その中の一人が、涼子に封筒を差し出した。 中には、古い新聞記事の切り抜きが入っていた。

 

 原爆投下から数日後のものだった。 その記事には、焼け跡の写真が掲載されている。 写真の隅に、小さな少女が写っていた。

 

 祖母は、その少女を見た瞬間、椅子に手をついた。 千鶴だった。 生きている。

 

 原爆のあとも、生きていた。 そして、その写真のさらに奥に、一人の男が立っている。

 

 その男の顔を見て、孝が声を失った。 それは、京都で四人が信頼してきた人物の父親だった。 だが、その人物が千鶴を追っていたのではない。

 

 逆だった。 彼は、千鶴を救い出した人間だった。 これまでの推測が、すべて反転した。

 

 手帳を奪ったのも、写真を隠したのも、四人を長崎へ導いたのも、すべて千鶴を守るためだった。 では、なぜ自分たちを危険な場所へ向かわせたのか。 それは、四人にしかできないことがあったからだ。

 

 長いあいだ二つの家が守ってきた記録を、もう一度一つにする。 そして、それを誰かの所有物にするのではなく、歴史として残す。 その役目を担えるのは、過去の当事者ではなかった。

 

 当事者の子孫でもない。 何も知らずに長崎へやって来た、三人の大学生と沙羅だった。 観光のつもりで歩き始めた四人だったからこそ、どちらの側にも属していなかった。

 

 だから、最後まで記録を見ることができた。 涼子は、ここへ来るまでのすべてを思い返した。 最初はただの旅行だった。

 

 写真を撮り、街を歩き、名所を巡るつもりだった。 それが、一枚の写真から始まった。 眼鏡橋へ行き、古い家を見つけ、手帳を追い、地下室へ入り、京都へ戻り、そして再び長崎へ来た。

 

 その途中で、何度も誰かの意思を感じた。 自分たちは誰かに動かされていたと思っていた。 けれど、本当は違った。

 

 誰かが道を用意してくれたとしても、その道を歩いたのは自分たちだった。 だから最後に何をするかは、自分たちで決めなければならない。 地下室の中央に、古い机がある。

 

 そこへ、京都から持ってきた手帳と、地下室に残されていた記録を並べる。 二つの記録は、同じ出来事を別の角度から書いていた。 一方には名前。

 

 もう一方には、その人々が生きた場所と時間。 重ね合わせることで、これまで欠けていた歴史が見えてくる。 キリシタンの時代から続く名前の変化。

 

 幕末に外国人が長崎へ入り始めた頃の交流。 戦争によって、名前を持つことそのものが危険になった時代。 そして原爆。

 

 大きな歴史の教科書には書かれないほど小さな一人一人の人生が、確かにそこに残っていた。 涼子は、その記録を見ながら、これを「謎」として終わらせてはいけないと思った。 謎は解けば終わる。

 

 けれど、人の人生は解いて終わるものではない。 残す必要がある。 誰かが生きた証として。

 

 祖母は、最後の写真を涼子に渡した。 その裏には住所が書かれている。 浦上から少し離れた場所にある、小さな施設だった。

 

 そこに、千鶴がいる。 今度こそ、本当に会える。 しかし、祖母は一緒には行かなかった。

 

 ここで待つという。 八十年以上前、自分が千鶴を見失った場所で、今度は千鶴が帰ってくるのを待つ。 涼子は祖母の手を握った。

 

 その手は小さく、細くなっている。 それでも、その手がこれまで何十年も記憶を守ってきたのだと思うと、涼子にはとても強いものに感じられた。 地下室を出ると、長崎の空は夕暮れに変わっていた。

 

 坂道の向こうに、街の灯りが一つずつつき始めている。 港には船が見える。

 

 かつて外国船が入ってきた港も、原爆の記憶を抱える街も、いまは観光客の声と車の音の中にある。 歴史は、過去の中だけにあるのではない。 いま生きている人間の足元にもある。

 

 涼子たちは、千鶴がいる場所へ向かった。 そこは、観光地から少し離れた静かな建物だった。 受付で名前を告げる。

 

 職員は涼子を見ると、一瞬だけ表情を変えた。 そして、奥へ案内した。 廊下の突き当たりに、小さな部屋がある。

 

 扉の前で、職員が立ち止まった。 涼子は、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。

 

 ここまで来るあいだに、何度も「千鶴」という名前を心の中で繰り返していたからかもしれない。 扉が開く。 窓際に、一人の女性が座っていた。

 

 白い髪。 細い肩。 窓の外を眺めている横顔。

 

 その女性がゆっくり振り返った。 涼子は、その顔を見た瞬間、言葉を失った。 写真の中の少女の面影が残っている。

 

 そして、それ以上に不思議だったのは、自分の顔とどこか似ていることだった。 女性は涼子を見つめている。 その目に、驚きはなかった。

 

 ただ、長い時間を待っていた人間だけが持つ、静かな安堵があった。

 

 涼子は、何を言えばいいのかわからなかった。 祖母から聞いた話も、長崎で見つけた記録も、地下室で読んだ手紙も、すべて頭の中にある。 それなのに、目の前に本当に千鶴がいると、どんな言葉も必要なくなった。

 

 千鶴のほうから、かすかに笑った。 そして、涼子の名前を呼んだ。 その声は、年老いていた。

 

 けれど、写真の中の少女と同じ声だった。 涼子は、その瞬間に理解した。 自分たちが探していた最後の謎は、地下室にも手帳にも隠されていなかった。

 

 人の中に残っていた。 そして、名前を取り戻すということは、過去を暴くことではない。 生きてきた人間に、もう一度その名前を返すことなのだ。

 

 窓の外では、長崎の街に夜が降り始めていた。 坂の上から見える灯りは、どこまでも続いている。 その一つ一つの灯りの下に、誰かの暮らしがある。

 

 誰かの記憶がある。 そして、その記憶の中には、まだ語られていない名前が残っているのかもしれない。 涼子は千鶴の前に座った。

 

 長い沈黙のあと、千鶴は小さな箱を取り出した。 それは、原爆の日に二人の少女が運んでいた、あの木箱だった。 八十年以上を経ても、箱は残っていた。

 

 千鶴はその蓋を開けた。 中には、一枚の紙がある。 そして、紙にはたった一つの名前が書かれていた。

 

 涼子は、その名前を見た。

 

 それは、これまで追ってきた名前とは別のものだった。 その名前を知った瞬間、涼子は息を止めた。 なぜなら、その名前は――

 

涼子自身が、これまで一度も名乗ったことのない名前だったからだ。

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『 3rd  尾道の坂を下って 』

 

第一章  懐かしい歌が聞こえる朝

 

尾道の朝は、急傾斜の陰からゆっくりと昇る陽光と、海から静かに吹き上げてくる穏やかな潮風とともに始まる。

 

千光寺下の急勾配が幾重にも重なる斜面地。

 

そこに建つ古い瓦屋根の家々は、この町が辿ってきた長い年月をそのまま映し出したような佇まいを見せていた。

 

防火地域としての厳しい建築制限や接道義務、そして何より資材すら運べない細く急な階段路地に囲まれたこの地域では、今や新しい家を建てることなど到底叶わない。

 

今ある家に手を入れ、補修を重ねながら守り続けていくことだけが、この土地で暮らし続けるための唯一の道だった。

 

その細く急な石段路地を、荷物を肩にかけ、息を弾ませながら一段一段上がってくる一人のアメリカの青年がいた。

 

両脇に迫る古い木造家屋や、坂越しに見える青い海に目を奪われながら、彼は静かな朝の斜面地をゆっくりと登っていた。

 

* * *

 

坂の途中に建つ一軒の家の台所では、窓から差し込む朝の光の中、ハルさんが食卓の端にある卓上カセットレコーダーに向かい、再生ボタンを押し込んだところだった。

 

七十を少し過ぎたハルさんは、夜中に放送されるお気に入りのラジオ番組をテープに録音し、翌朝の静かな時間に聴くのを最近の楽しみにしている。

 

……が、何も聞こえない。

 

「あれ?」

 

ハルさんは首をひねり、押し間違えたのかと、違うボタンも押したりしてみたが、やはりウンともスンとも言わない。

 

「昨日までちゃんと鳴りよったのに、何でかね」

 

向かいの席で新聞を広げていたテルさんが、顔も上げずに言った。

 

四十二歳になるテルさんは、朝からキビキビとした動きでスポーツタイツを履き、今日も坂道を駆け回る準備万端といった様子だ。

 

「そりゃあ古うなりゃガタも来るんよ」

 

「昨日まで鳴りよった言うとるじゃろ」

 

「音が出んのは、ボリュームが上がってないんじゃないんか?」

 

そう言いながら、テルさんは新聞を置いて立ち上がり、レコーダーを引き寄せた。

 

「どれ、貸してみい」

 

テルさんはツマミやボタンをどれどれといじってみたが、相変わらず音は出ず、テープの軸も回らない。

 

「ハルさんのテープがダメなんじゃないんか?」

 

テルさんはズボンのポケットからいつも携帯している自分の小型カセットレコーダーを取り出すと、中に入っていたカセットテープをカチャリと抜き取り、ハルさんのレコーダーにセットし直した。

 

再生ボタンをグッと押し込む。……やっぱり動かない。

 

「ちょっとどいてみい」

 

テルさんはそう言うと、レコーダーの側面を手のひらでバンバンと強く叩いた。その瞬間だった。

 

ドドン!

 

 

地響きのような圧倒的な大音量で、アコースティックギターのイントロが小さな部屋中に爆発した。

 

ママス&パパスの『夢のカリフォルニア』の乾いたコーラスが、台所の空気を激しく震わせる。

 

「わっ!」

 

「うわっ!」

 

二人は度肝を抜かれ、跳ね上がるように飛び上がった。

 

「止めんね、うるさい!」

 

「ボタンが戻らんのんよ!」

 

引っかかった再生ボタンをテルさんが必死でカチカチ叩くが、びくともしない。

 

* * *

 

まさにその時、少し下で坂を上がっていた青年は「おやっ!?」と足を止めて辺りを見回した。

 

どうやら坂の上から轟いている。

 

聞き覚えのあるアコースティックギターの旋律とコーラス――The Mamas & Papas California Dreamin’ だった。

 

六〇年代に大ヒットし、彼自身も子供の頃からラジオやレコードで親しんできた、あまりにも懐かしい曲だった。

 

こんな日本の静かな斜面地の、古い家々が並ぶ坂道で、なぜこの歌がこれほどの大音量で流れているのだろう。

 

「まさかこんなところで……」

 

驚きと懐かしさに胸を突かれた青年は、吸い寄せられるようにその音のする方向へ足を向け、石段を急いで駆け上がり始めた。

 

* * *

 

家の中ではパニックが続いていた。

 

「コンセントじゃ、コンセントを抜け!」

 

ハルさんに急かされ、テルさんが食卓の下に潜り込んでコードを力任せに引っ張ると、ようやく「ブツッ」と音が途絶え、爆音を止めることができた。

 

台所に耳鳴りのような静けさが戻る。

 

「……はあ、はあ……びっくりした……」

 

胸を押さえて座り込むハルさんが、ハッとテルさんを睨みつけた。

 

「ちょっとあんた! あんたが聴こえん言うて、ボリュームいっぱいにしとったから、とんでもない音がしたんじゃないの!」

 

「何言いよるんね! ハルさんがいっぱいにしとったんじゃけえ!」

 

「私がそんなでかい音にするわけないじゃろうが!」

 

息を弾ませながら顔を真っ赤にして言い争う二人。

 

ふと、開け放たれた玄関に目をやると、そこに一人の見知らぬ外国人が立っていた。

 

懐かしい音を追って石段を駆け上がってきた青年だった。

 

少し息遣いを荒くしながら、ポカンと口を開けて部屋の中を見つめている。

 

コードを持ったまま怒鳴っていたテルさんと、胸を押さえて言い返していたハルさん。

 

二人の視線がピタリと止まり、玄関先の見知らぬ外国人とパッと視線が交差した。

 

「……なんじゃ、あんた、外国の人かね」

 

テルさんが呆然と呟くと、青年はハッと我に返り、少し荒い息を整えながら笑顔で家の中のレコーダーを指さした。

 

「Excuse me… I heard 'California Dreamin''! I love this song!」

 

静まり返った台所に、青年の爽やかな声が響き渡った。

 

青年はダニエルと名乗った。

 

ハルさんとテルさんが英語に戸惑っていると、ほどなく里奈が訪ねてきた。

 

市役所の臨時職員に採用されたことを報告しに来たのだった。

 

里奈は英語でダニエルに応じ、彼がアメリカのオレゴンから来たこと、尾道で小津安二郎の『東京物語』ゆかりの場所を歩いて訪ねたいと思っていることを知った。

 

話を聞いた里奈は、「明日なら案内できますよ」と申し出た。

 

ダニエルは嬉しそうにうなずき、翌朝、港近くの喫茶店「波止場」で待ち合わせることになった。

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『 花びらの積もる道 』

 

最終章 花びらの積もる道

 

 翌年の春、桜は四月の初めに満開になった。

 

 順子の店は、名前のないまま続いている。

 

 開ける日は週に三日で変わらない。客の少ない日もあれば、昼を食べる時間がなくなる日もあった。

 

 店の名を尋ねる人は、いつの間にかいなくなった。

 

 商店街では「順子さんのところ」で通じるようになっている。

 

 黄色い花は冬を越した。

 

 一度、葉を何枚か落としたが、春になると新しい芽を出した。

 

 洋子から電話があったのは、桜が見頃を迎えた朝だった。

 

「今日、予定どおり行きます」

 

「亨さんも?」

 

「ええ。去年、四人で行くと言うたでしょう」

 

「覚えていたのね」

 

「順子さんこそ、忘れてたんですか」

 

「忘れてはいないわ」

 

 亨が来ると聞き、順子は黄色い花の向きを直した。

 

 洋子が以前、こちらの方が日が当たると言って置いた向きである。

 

 店は休みにしていた。

 

 入口の紙には、臨時休業、と書いてある。

 

 千穂は、洋子たちより一本早い列車で来た。

 

「また早いのね」

 

「途中で遅れるよりいいでしょう」

 

「去年も同じことを言ったわ」

 

「そうだった?」

 

 千穂は店へ入り、窓辺の花を見た。

 

「大きくなったね」

 

「冬に枯れそうになったけど」

 

「水をやりすぎたんじゃないの?」

 

「やってないわよ」

 

「なら、寒かったのね」

 

 順子は千穂の顔を見た。

 

「今日、岡山へ帰るの?」

 

「夕方の電車で。明日は用事があるから」

 

「仕事?」

 

「違う」

 

 千穂は壁に掛けた布の端を直した。

 

「何?」

 

「職場の後輩と食事に行くの」

 

「後輩って、あなたが休んでいたときに仕事を引き受けてくれた人?」

 

「そう」

 

「二人で?」

 

「そうよ」

 

「本当なの、それ」

 

「嘘じゃないわよ」

 

「千穂、あなた」

 

「まだ食事に行くだけよ。先のことまで決めないで」

 

 千穂は順子に背を向けた。

 

 直す必要のない布を、もう一度直している。

 

「何を食べに行くの?」

 

「まだ決めてない」

 

「誘ったのは、どちら?」

 

「そこまで聞く?」

 

「聞くわよ」

 

「言わない」

 

 千穂が振り返った。

 

 少し照れた顔で笑っている。

 

 順子は、久しぶりにその笑い方を見た。

 

「そう」

 

「それだけ?」

 

「先のことまで決めるなと言ったのは、あなたでしょう」

 

「そうだけど」

 

「なら、食事をしてから考えればいいわ」

 

 千穂はしばらく順子を見ていた。

 

「お母さんも、変わったね」

 

「そうかしら」

 

「前なら、年齢も家族構成も聞いたわ」

 

「いまでも聞きたいわよ」

 

「聞かないの?」

 

「今日はね」

 

 店の外から、洋子の声がした。

 

「順子さん」

 

 ガラス戸の向こうで、洋子が手を振っている。

 

 その隣に亨がいた。

 

 順子と千穂が外へ出ると、洋子が言った。

 

「こちら、主人です」

 

「澤口亨です」

 

 亨が頭を下げた。

 

 順子も頭を下げた。

 

「初めまして。松山順子です」

 

 その言葉は、思っていたより静かに出た。

 

「初めまして」

 

 亨が答えた。

 

 千穂は二人を見ていた。

 

 初めてではない二人が、初めて会ったように挨拶をしている。

 

 嘘だと思えば、嘘だった。

 

 けれど、洋子の前にいる松山順子と澤口亨は、確かに初めて会う二人でもあった。

 

「あらためて、千穂です」

 

 千穂が亨へ頭を下げた。

 

「市役所では、お世話になりました」

 

「いえ、私は何も」

 

 四人が揃った。

 

 洋子だけが、ほかの三人の間に何があるのかを知らない。

 

 だが、そのことを確かめる者はいなかった。

 

「では、行きましょうか」

 

 洋子が言った。

 

 四人は店から歩いて鶴山公園へ向かった。

 

 道には、同じ方角へ歩く人が増えている。子どもの手を引く家族、弁当の包みを持った夫婦、杖をつきながら坂を上る人。

 

 石段の手前で、洋子が桜を見上げた。

 

「下からでも、よう見えますね」

 

「上はもっと咲いてるわよ」

 

「急がんでも、桜は逃げませんよね」

 

「花は逃げないけど、人が増えるわ」

 

 順子が言うと、洋子は笑った。

 

「やっぱり急ぎましょう」

 

 石段を上るにつれ、城下の町が少しずつ低くなった。

 

 石垣の上から桜の枝が張り出している。風が吹くたび、花びらが人の肩や髪へ落ちた。

 

 洋子は何度も足を止めた。

 

「去年より多い気がします」

 

「去年も同じくらいよ」

 

「一年たったから、忘れたんでしょうか」

 

「なら、来年も新しく見られるわね」

 

「それは得ですね」

 

 千穂が洋子の肩についた花びらを取った。

 

「ついてました」

 

「ありがとう。千穂さんには?」

 

「私も?」

 

「背中についてます」

 

 洋子が千穂の背中へ手を伸ばした。

 

 二人が少し先を歩いていく。

 

 順子と亨は、数歩遅れて並んだ。

 

「店は、続いているんですね」

 

 亨が言った。

 

「ええ」

 

「よかったです」

 

 しばらく、二人は黙って歩いた。

 

「千穂は、元気になりました」

 

 順子が言った。

 

 亨は、前を歩く千穂を見た。

 

「そうですか」

 

「仕事も続けています。このごろ、よく笑うようになりました」

 

「よかった」

 

「職場に、気にかけてくれる人もいるみたいです」

 

 亨はもう一度、千穂の背中を見た。

 

「そうですか」

 

「ええ」

 

 前を歩いていた洋子が振り返った。

 

「二人とも、遅いですよ」

 

「いま行くわ」

 

 順子が答えた。

 

 亨は先に歩き、洋子の隣へ戻った。

 

 順子も千穂の横へ並んだ。

 

 四人は、同じ速さでは歩かなかった。

 

 洋子が花を見つけて立ち止まり、亨が待つ。千穂が人の流れを避けて先へ進み、順子があとから追いつく。

 

 離れては並び、また少し離れた。

 

 それでも、誰も急がせなかった。

 

 上まで歩くと、石垣の向こうに城下の町が広がっていた。

 

 遠くの山は春霞の中にある。

 

「来てよかった」

 

 洋子が言った。

 

 誰へ向けた言葉なのかは分からなかった。

 

「ええ」

 

 順子は答えた。

 

 四人はしばらく、町を見下ろした。

 

 帰りの坂道には、散った花びらが重なっていた。

 

 踏まないように歩くことはできない。

 

 人が通るたび、花びらは靴の下で動き、道の端へ寄っていく。

 

 公園を出たところで、千穂が順子の足元を見た。

 

「お母さん、靴に花びらがついてる」

 

 順子の靴の縁に、薄桃色の花びらが一枚、貼りついていた。

 

「取る?」

 

「いいわ」

 

 順子はそのまま歩き出した。

 

 洋子と亨が少し先で待っている。

 

 千穂が順子の隣へ並んだ。

 

 花びらは落ちなかった。

 

 順子はそれを靴につけたまま、三人と城下の町へ戻っていった。

 

   ( 完 )

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『 長崎 名前のない写真 』

 

第二十三章 浦上の地下室

 

 長崎へ向かう列車が山間を抜けるたび、車窓の光が明滅した。京都を出てからしばらくは、祖母も涼子もほとんど言葉を交わさなかった。膝の上に置かれた古い鞄だけが、二人のあいだにある過去の重さを形にしているようだった。

 

 その鞄の中に入っている手帳を、涼子はまだ一度も開いていない。開くことが怖いのではない。

 

 むしろ、開いてしまえば、これまで自分が知らずに生きてきたものが、もう元には戻らなくなるような気がしていた。祖母も同じなのだろう。

 

 手帳の存在を知っていたなら、なぜ今まで見せなかったのか。その理由を涼子は考えていたが、やがて問いただすことをやめた。祖母にとっては、隠していたことよりも、守ってきたことのほうが大きいのかもしれない。

 

 戦争を生き延びた子供が、その後の人生をかけて一つの記憶を守ってきた。その記憶には、亡くなった人々だけでなく、生き残った人間の沈黙まで含まれている。

 

 長崎駅に着くと、街は以前と変わらない表情を見せていた。

 

 観光客が行き交い、路面電車が走り、坂の向こうには住宅が重なっている。港から吹く風には潮の匂いが混じっていた。けれど、涼子には、以前ここへ来たときとはまったく違う街に見えた。

 

 これまで見てきた建物や道の一つ一つが、単なる観光地ではなくなっている。誰かがそこで生きた。誰かが何かを隠した。誰かが名前を残そうとした。その積み重なった時間の上を、自分たちは歩いていたのだ。

 

 駅前で待っていた川村は、祖母を見ると深く頭を下げた。

 

 祖母も小さく頭を下げたが、二人のあいだに交わされたのはそれだけだった。長い年月のあいだに、一度も会っていなかったわけではないらしい。ただ、二人が同じ場所で向き合うことを避けてきた。その理由を涼子は尋ねなかった。

 

 いま必要なのは、過去の人間関係を一つずつ解き明かすことではない。

 

 千鶴が最後に暮らした場所へ行くことだった。

 

 浦上へ向かう途中、祖母は車窓の外を見ながら、昔の街の姿をぽつりぽつりと思い出していた。現在の道路の下には、かつての道がある。新しい建物の場所には、以前は家があった。

 

 焼け跡になった場所に、戦後になって別の建物が建った。長崎では、それが特別なことではない。

 

 街そのものが何度も姿を変えている。その変化の中で、残された記憶だけが場所を失っていった。祖母が覚えている千鶴の家も、すでに存在しない。古い地図には、その場所に小さな家が描かれている。現在は道路になっている。

 

 ただ、地下だけは違った。

 

 戦後の工事で埋められたことになっているが、川村が調べた資料には、地下室の存在を示す古い記録が残っていた。しかも、その記録には奇妙な記述がある。

 

 「地下室は埋め戻した」と書かれているのに、その数年後の地図にも、同じ場所に小さな空白が残っている。

 

 工事をした人間が、地下室そのものを消したのではない。入口だけを隠した可能性があった。四人と祖母は、住宅地の奥へ入っていった。

 

 大通りから離れるほど、観光地としての長崎は消えていく。坂道の途中には洗濯物が揺れ、家々の間から生活の音が聞こえる。

 

 ここに住む人々にとっては、何百年もの歴史も原爆の記憶も、特別なものとして切り離されているわけではない。日々の暮らしの中に、それらが静かに重なっている。

 

 そのことが、涼子には以前よりも強く感じられた。地図に記された場所は、古い石垣の前で途切れていた。そこには小さな空き地がある。雑草が伸び、使われていない物置のような建物が残っていた。

 

 川村は周囲を見回したあと、石垣の一角に手を置いた。石の一つだけが、わずかに沈んだ。

 

 それを押すと、奥で金属が擦れる音がした。石垣の一部が数センチだけ動く。

 

 長い年月のあいだ使われていなかった仕掛けとは思えないほど、内部はきれいだった。誰かが最近まで手入れしていた。地下へ続く階段が現れた。

 

 涼子は、その階段を見つめながら、祖母の手が震えていることに気づいた。祖母は、八十年以上前にここを知っている。子供の頃の記憶が、いま目の前にある。階段を下りるにつれて、空気が変わっていった。湿った石の匂いがする。

 

 壁には古い傷が残っている。さらに奥へ進むと、小さな部屋があった。

 

 その中央に、木製の机が置かれている。机の上には何もない。けれど、壁には一枚の写真が貼られていた。涼子が近づく。そこに写っていたのは、幼い祖母と千鶴だった。あの日、二人が箱を運んでいた場所。

 

 そして写真の隅には、もう一人の人物が写っていた。背中だけが写っている。

 

 しかし、その人物の手には、あの木箱がある。祖母は写真を見たまま動かなかった。やがて、その人物が誰なのかを思い出したように、目を閉じた。千鶴の父親ではない。祖母の父親でもない。

 

 戦争が始まる前から二つの家を行き来していた、第三の人物だった。その人物は、外国人居留地で働いていた。

 

 幕末以来、長崎に残されてきた外国との交流記録を扱っていた家の人間で、キリシタンの記録にも関わっていたという。

 

 その人物が、最初の「名前」を守っていた。

 

 なぜなら、その名前が一人の人間のものではなかったからだ。

 

 それは、長崎で迫害を受け、名前を変えざるを得なかった人々の記録をまとめたものだった。

 

 誰がどの名前で生き、どの名前を捨て、どの名前を次の世代へ残したのか。

 

 その記録が「零」だった。

 

 だから、それを持つことは危険だった。宗教だけの問題ではない。

 

 幕末には外国との関係を疑われる危険があり、戦時中には敵国とのつながりを疑われる危険があった。そして原爆後には、焼け跡の混乱の中で記録そのものが失われる危険があった。

 

 時代が変わっても、名前を守ることには危険が伴った。

 

 だから、記録は人から人へ渡された。そして最後に、二つの家へ分けられた。祖母が机の引き出しを開ける。そこには古い鍵が一つだけ入っていた。その鍵を見た瞬間、孝は息を止めた。形が違う。

 

 しかし、鍵の先端に刻まれた印は、京都の木箱にあったものと同じだった。

 

 さらに、その横には「零」の文字がある。

 

 孝が持っている写真の中にあった鍵と、ここにある鍵が一つにつながる。つまり、京都で奪われた鍵は、零を開くためのものではなかった。零へ至るための、途中の鍵だった。ならば、本当の鍵はここにある。

 

 祖母は、机の底に手を入れた。そこに隠し板がある。板を外すと、小さな金属箱が現れた。

 

涼子は、その箱を見つめながら、なぜか強い既視感を覚えた。 長崎へ来る前から、この箱を知っていたような気がする。 もちろん、見たことなどない。

 

 それでも、胸の奥に残っている何かが、この箱の存在を知っている。 祖母が鍵を差し込む。 錠が外れた。

 

 蓋を開くと、中には一枚の紙と、小さな布包みが入っていた。 紙には、名前が書かれている。 ただし、それは一人分ではなかった。

 

 何十人もの名前が並んでいる。

 

 古いものから新しいものへと続き、その途中には外国人らしい名前も、日本人の名前もある。 その中に、幕末の写真に写っていた男の名前があった。 さらに、その下には千鶴の名前がある。

 

 そして、その次に、涼子の名前がある。涼子は、自分の名前を見つめた。自分が生まれるより前から、この記録が残されていたことに、言葉が出なかった。

 

 祖母が自分の名前を決めたのではない。曾祖母が決めたのでもない。何代も前から続いてきた記録の中に、涼子の名前へつながる記述が残されていた。

 

 けれど、その名前の横には、これまで見たことのない小さな印が付いている。 それは円の中の一点ではない。 円を二つ重ねたような印だった。

 

 川村が、それを見て顔を曇らせた。 これは記録を守る者の印ではないという。 記録を終わらせる者の印だった。

 

 つまり、涼子がこの記録を受け取った時点で、何代にもわたって続いてきた役目が終わる。 それが「零を終わらせる」という言葉の意味だった。 だが、紙の最後には、もう一つの名前が残されていた。

 

 それだけは黒く塗りつぶされている。 その上に、別の文字でこう書かれていた。

 

「この名前を消した者を探してはいけない。」

 

 その一文を見たとき、孝はこれまでのすべてを思い返した。 なぜ相手は四人を追わせたのか。 なぜ手帳を奪ったのか。

 

 なぜ長崎へ戻れと言ったのか。 そして、なぜ涼子の名前だけを何度も示したのか。 答えは、ここにあった。

 

 相手が探しているのは、消された名前そのものではない。 その名前を消した理由だった。 布包みを開くと、古い写真が一枚出てきた。

 

 そこには、千鶴が大人になった姿が写っていた。 その隣には、一人の男がいる。 涼子は、その男の顔を見て、声を失った。

 

 長崎で何度も会った人物ではない。 もっと近い。

 

 京都で、四人が信頼していた人物だった。 その人物の父親だった。 そして写真の裏には、千鶴自身の筆跡で一行だけ記されている。

 

「この人が、私の名前を消した。」

 

 地下室の空気が、一瞬で変わった。 これまで四人が追ってきたのは、千鶴を守った人間の物語だと思っていた。 違った。

 

 千鶴は、誰かに守られながら生きてきたのではない。 誰かから逃げながら、生きてきたのだ。 そして、その相手は、四人がこれまで最も信頼してきた人物の家系につながっている。

 

 だから、あの人物は四人を助けた。 だから、危険な場所では止めた。 だから、手がかりを与えながらも、決して最後のところまでは行かせなかった。

 

 すべては、涼子がここへ辿り着くためだった。 しかし、最後の一枚を見た瞬間、祖母が静かに首を振った。

 

 写真の裏に書かれた名前は、すでに死んでいる人物のものだった。 少なくとも、戸籍上はそうなっている。 けれど祖母は、その名前を見て確信した。

 

 千鶴は、この人物が死んだとは思っていなかった。 だから逃げ続けた。 だから名前を変えた。

 

 だから「零」を終わらせる必要があった。 そのとき、地下室の入口から物音がした。 誰かが階段を下りてくる。

 

 四人が振り返る。 足音は一人分だった。 やがて暗い階段の向こうに人影が現れる。

 

 長崎で四人を導いてきた人物だった。

 

 その手には、京都から奪われた一番の手帳がある。 けれど、その顔に敵意はなかった。 むしろ、長いあいだ待ち続けた人間が、ようやく約束の場所へ来たような表情をしていた。

 

 その人物は、涼子の祖母を見る。 祖母も、その人物を見る。 そして二人のあいだに流れた沈黙が、何十年もの時間を物語っていた。

 

 やがて、その人物が手帳を机の上へ置いた。 そこには、これまで誰にも見せていなかった最後のページが開かれていた。 ページの中央には、名前が一つ。

 

 昭和二十年八月九日。 さらにその下には、短い文章が記されていた。

 

「千鶴は生きている。だが、私たちは彼女を死んだことにしなければならない。」

 

 涼子は、その文章を読みながら、ようやく理解した。 ここから先に待っているのは、過去の謎を解くことではない。 なぜ千鶴を死んだことにしなければならなかったのか。

 

 その理由を知ることだった。 そして、その理由を知れば、なぜ「零」が何十年ものあいだ消され続けてきたのかもわかる。 地下室の壁に残る古い印。

 

 幕末の港。 キリシタンの記録。 原爆によって焼かれた街。

 

 京都へ運ばれた手帳。 そして、涼子の名前。 すべてが、たった一人の少女へつながっている。

 

 その少女は死んでいない。 どこかで生きている。

 

 そして、いまも「零」の最後の記録を持っている。 祖母は、ゆっくりと立ち上がった。 その顔には、長いあいだ抱えてきた恐怖よりも、決意のほうが強く浮かんでいた。

 

 八十年余り前、この地下室を出たときには、もう二度と戻ってこないつもりだった。 けれど戻ってきた。 今度は、一人ではない。

 

 そして、ここから先へ進めば、もう誰にも止めることはできない。 涼子は、机の上に置かれた手帳へ手を伸ばした。 最後のページの下には、まだ続きがある。

 

 ただし、その文字は途中で途切れていた。

 

 インクが滲んだのではない。 書き手が、そこで筆を止めたのだ。 その最後の一行には、こう記されていた。

 

「もし私が戻らなければ、千鶴を探すのではなく――」

 

 その先だけが、破り取られていた。 そして、その破られたページの端に、現在の年月日が書かれていた。

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『  最後の仕事 』

 

第十章 午後の光

 

午後四時を回るころ、山の影が屋根の端から降りてきた。黒田は空を見上げる。山の影が屋根へ届くまでの時間を読んでいる。仲谷はレンズを替えず、森川の顔を見る。森川が頷くと、三村が香盤表を折ってポケットへ入れる。

 

最後の外観を撮る前、森川は一度だけ深く息を吐いた。疲れがある。だが、それを数えるより先に、画面の中で何を残すかを考えている。

 

午後の撮影では、光が大きく変わる。

 

朝は柔らかな光だった。

 

昼は強かった。

 

夕方に近づくと、山の影が旅館へ伸びてくる。

 

黒田は何度も外へ出て、空と建物と川を順に見た。戻ってくるたび、光の変化を確かめている。

 

黒田が空を見上げた。

 

「あと三十分ぐらいやな」

 

森川も屋根へ目をやった。

 

「この光が終わる前に、外観を先に撮ろう」

 

三村が香盤表を確認する。

 

「予定より光が先に終わる」

 

三村は香盤表の順番をすぐに書き換えた。光が終わる前に、外観を先へ回す。

 

山科が主人へ伝える。

 

「今から外観を先に撮ります」

 

皆が外へ出た。カメラ、三脚、ハレパネが運ばれ、モモちゃんと主人もそれぞれの位置につく。

 

仲谷がカメラを構える。

 

森川はモニターへ目を戻し、さっきまでとは違う表情を確かめた。

 

建物の屋根に夕方の光が当たっている。

 

川は少し暗い。

 

その明暗がちょうどいい。

 

「回そう」

 

録画が始まる。

 

数秒。

 

仲谷が録画を止める。

 

「風で木が揺れた瞬間、屋根の上に影が入った」

 

二回目。

 

風が止まる。

 

三回目。

 

今度は鳥が画面を横切った。

 

「今日は忙しいな」

 

森川は、予定にない鳥まで現場へ入ってきたことを面白がった。

 

四回目。

 

きれいに撮れた。

 

そのあと、旅館の廊下でモモちゃんのカットを撮った。窓の外の緑を背に、着物の青と横顔を画へ収める。

 

仲谷が録画を始めると、黒田が反射板の角度を合わせた。モモちゃんが静かに顔を上げ、目の中に小さな光が入る。仲谷はそのまま数秒、カメラを送り続けた。

 

「止め」

 

仲谷が録画を止める。

 

「俺の光や」

 

黒田が振り返った。

 

「まだ、やなくて、今や」

 

森川は一度だけ頷いた。

 

それ以上は言わない。

 

その日の昼過ぎ、黒田の携帯電話が鳴った。

 

家からだ。

 

「うん。今日、貴船や。昔の連中と一緒や」

 

黒田は少し離れた場所へ歩いた。

 

「味噌の仕込みは?」

 

相手の話を聞きながら、川を見ている。

 

「それは帰ってから見る。明日の朝には戻る」

 

しばらくして、黒田の口元に笑いが浮かんだ。だが、それもすぐに消えた。

 

「仕事? まあ、そんなもんや」

 

電話を切る。

 

「家からですか?」

 

「店や」

 

「撮影も待ってくれませんよ」

 

黒田は携帯をポケットへしまった。

 

「谷ヤンは家、連絡したか?」

 

「昔の仲間と仕事してるって」

 

「仕事って言うたんか」

 

黒田は何か言いかけたように口を開き、それから黙った。仲谷はカメラへ目を落とした。

 

「仕事ですから」

 

その言葉を、黒田は何も言わずに聞いた。

 

午後の休憩で、モモちゃんは店の話をした。

 

「最近、若い子が着物を着てくれるようになったんよ」

 

「昔は年配の人ばっかりやったやろ」

 

「そう。でも今は写真を撮るために借りる子も多い」

 

森川は、今日の撮影そのものが着物の宣伝にもなると受け取る。

 

モモちゃんは、それも仕事のうちだというように答えた。

 

「私ら、仕事しかしてこなかったやろ」

 

「じゃあ何してきた?」

 

「仕事して、酒飲んで、また仕事」

 

モモちゃんは自分の袖を見た。

 

「この着物、色がええやろ」

 

「カメラで見るともっとええ」

 

「それ、ちゃんと撮ってくれる?」

 

「店の名前、出してな」

 

「森川さん、そこは約束して」

 

「仕事やから、ええ画なら出す」

 

「だから信用できるんよ」

 

森川はすぐには返事をしなかった。

 

午後四時を過ぎると、全員の疲れが見えてきた。

 

それでも、誰も弱音を吐かない。

 

弱音を吐かないというより、言う必要がない。

 

疲れたら休む。

 

休んだら戻る。

 

それが現場だ。

 

黒田が立ち上がった。

 

「あと一本やろ」

 

三村は香盤表を見た。誰をどこへ動かすか、その先まで考えている。

 

仲谷がカメラを持ち上げる。森川も立ち上がり、「最後、川や」と言うと、皆が自然に外へ向かった。

 

山の空気は少し冷たくなっている。

 

昼間の暑さが消え、川の音が近く感じられる。

 

森川は一度だけ振り返った。

 

旅館の灯りが、まだついていない。

 

「これ、最後に灯りがついたところも撮れるな」

 

三村は紙を確かめ、次の段取りへ視線を移した。

 

「三分でいける?」

 

「じゃあ、やろう」

 

主人が玄関へ立ち、モモちゃんもその横へ並んだ。黒田は反射板を畳んで脇へ置く。もう出番はない。仲谷がカメラを構えたところで、玄関の灯りが一つついた。

 

旅館の玄関が暗い山の中で浮かび上がる。

 

森川はモニターを見る。

 

「回そう」

 

録画が始まる。川の音、虫の声、遠くの人の話し声。その中で灯りがつき、暗い山の中に旅館が浮かび上がる。その画をしばらく残した。

 

「止め」

 

録画が止まる。

 

仲谷がカメラを下ろした。

 

「今日はよく働いたな、私ら」

 

誰もそれ以上は言わない。

 

そして機材を片づけた。

 

撤収の途中、竹森が一人で玄関先に立っていた。

 

森川が隣へ行く。

 

「いや、何でもない」

 

「プロデューサーが何でもない顔するときは、何かある」

 

「昔からお前は嫌なとこ見てるな」

 

「今日、どうやった?」

 

「仕事」

 

森川は旅館の中を見た。

 

「ええ仕事やった」

 

「ただ、最後まで気を抜いたらあかん」

 

「それもやけど、現場は最後の一秒まで現場や」

 

竹森は頷いた。

 

森川も笑う。

 

「でも、頭の中で画を考えるのは変わらん」

 

「黒ちゃんも光を見る」

 

「谷ヤンもレンズを見る」

 

「俺は金を動かす」

 

「それだけは昔からや」

 

二人は川を見た。

 

森川は竹森を見た。

 

「明日には忘れてる」

 

「昔の仕事をな」

 

森川はそれ以上聞かない。

 

玄関の奥で灯りが一つつき、少し遅れて二つ目がついた。川面に細い筋が伸びた。

 

川の上に、細い光が揺れている。

 

森川は川から目を離し、玄関へ顔を向けた。灯りが入り始めたなら、今日の終わりを画に残す時間だ。

 

森川は、そろそろ戻る時間だと皆に促した。

 

二人は玄関へ戻る。外で続けていた話より、まだ残っている仕事の方が二人には近かった。

 

そのとき、廊下の壁に貼られた香盤表が風で少し浮いた。

 

山科が気づいて、端を押さえた。

 

「これ、剥がれそうです」

 

「テープ、もう一本」

 

山科が貼り直す。

 

紙は静かになる。

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第六章 

 

佐伯が妹の話をしたのは、雑居ビルの狭い屋上だった。

 

初夏の風はまだ冷たく、ビルとビルのすき間を吹き抜けてくるたびに、私たちのスーツの袖を小さくはためかせた。

 

佐伯はサビの浮いたフェンスにもたれかかり、禁煙マークのすぐ横で煙草に火をつけた。

 

「二十四だった」 

 

紫色の煙を空へ吐き出しながら、唐突にそう言った。 

 

「妹さんか?」 

 

「ああ」

 

 佐伯は遠くの高速道路の流れを見つめていた。 

 

「最後に、ひでえ喧嘩をした」

 

 「何で?」 

 

「あいつが、せっかく入った会社を半年で辞めるって言い出したからだ。理由を聞いても『合わないから』の一点張りでな。俺は激怒した。親父たちが苦労して学費を出したのに何考えてんだって。あいつは泣きながら『お兄ちゃんには関係ない、私の人生は自分で決める』って叫んだ」 

 

「それで?」 

 

「『じゃあ勝手にしろ、もうお前の顔なんて見たくない』って突き放した」

 

風が吹き抜け、煙草の灰がパラパラと散った。

 

「その三日後に、アパートの階段から落ちて死んだ。酒を飲んでいたらしい」

 

俺は何も言えなかった。喉が干からびていた。

 

「最初に作ったモデルは、ひどいもんだったよ」 

 

佐伯は自嘲気味に笑った。 「顔の骨格も少し違ってたし、声のトーンも高すぎた」 「今は?」 「完璧だ。あいつが怒った時の声の裏返り方まで再現できてる」 「……本人だと思うか?」 「思うわけないだろ」

 

佐伯の返事は、あまりにも早かった。迷いのかけらもなかった。

 

「じゃあ、どうして毎晩毎晩、あの画面に向かい続けるんだ」

 

佐伯は煙草のフィルターを強く噛み締め、しばらく、濁った空を見上げていた。

 

「……もう一度、喧嘩がしたいんだよ」 

 

「……喧嘩?」 

 

「謝りたいんじゃないんだ」

 

 佐伯の瞳に、暗い炎が宿っていた。 

 

「謝って『いいよ』なんて言われたら、そこですべてが終わってしまうだろ。俺は……あいつとの時間を終わらせたくないんだ」

 

その言葉を聞いたとき、私は佐伯の顔を直視できなかった。

 

そこには、敏腕のITベンチャー社長の顔も、大学時代の自信に満ちた演出家の顔もなかった。ただ、妹に投げつけた最後の暴言を取り消すこともできず、永遠に過去の暗闇で立ち尽くしている、哀れな一人の兄がいるだけだった。

 

「お前はどうなんだよ、桐生」 

 

佐伯が低く尋ねてきた。 

 

「何がだ」

 

 「あかねだよ。偽物だって分かってるんだろ?」 

 

「……分かってるよ」 

 

「じゃあ、なんで毎日会いに来る?」 

 

「……分からない」 

 

「俺と同じだよ」

 

佐伯は吸い殻をポータブル灰皿に押し込み、背を向けた。

 

 「世の中、正気で生きていられる奴ばかりじゃないんだよ」

 

鉄のドアが重い音を立てて閉まり、私は屋上に一人取り残された。

 

ポケットの中で、携帯電話がブブッと小さく震えた。画面を見ると、画面の中のあかねから自動送信されたメッセージが表示されていた。

 

『今夜も、来てくれる?』

 

私はその青光りする画面を、静かにポケットの奥へと押し込んだ。

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『 カケハシ 』

 

第四章 できることの持ち寄り

 

教授の言葉を聞いた瞬間、倉橋の胸の中で、さっきまで淀んでいた霧がスッと晴れていくような気がした。

 

「……できること、ですか」 倉橋が呟くと、教授は満足そうに深く頷いた。

 

「そうや。何に悩んでいるか、何が不安かを聞けば、返ってくるのはどうしても『弱音』や『不足の嘆き』になる。人間、自分の不安を聞かれたら誰だって被害者面して愚痴りたくなるもんやからな。せやけどな、見方を変えるんや」 

 

教授は机に身を乗り出し、五人の顔をじっと見据えた。

 

「彼らは『何に悩んでいるか』ではなく、『自分は何ができるのか』『誰かのために、あるいは自分のために、どんな小さな力なら差し出せるのか』。それを聞いてみるんや」 

 

前島がハッと息をのんだ。

 

「不安や不満じゃなくて……『できること』を尋ねる……?」

 

「そうや」教授はニヤリと笑った。

 

「みんな『自己中』で『自分を守るのに必死』だと思っていたのは、ただ怯えて隠れていたからや。じゃあ、いざ『お前は何ができる?』と問われたとき、彼らはどう答えるか。自分の保身ばかり書くか、それとも、心の底に眠らせていたほんまの牙や面白さを引っ張り出してくるか……それを試してみる価値はあると思わんか?」

 

山田が腕を組み、ふっと表情を緩ませた。

 

「なるほどな……。愚痴ばっかり並べてた奴らが、『自分はこれが得意や』『これなら手伝える』って書き出してきたら、それだけでさっきとは全く違うリストになるわけやな」 佐伯もうなずく。

 

「ただの『悩みの共有サイト』やなくて、互いの『能力や武器を持ち寄る市場』に化けるってことか」 茜は目を輝かせ、手元のノートに新しいペンを走らせた。

 

「それ、めちゃくちゃ面白そう!今度は絶対に、さっきとは違う熱い回答が集まってくる気がする!」 

 

絶望から始まったはずのアンケートは、教授の一言によって、まったく新しい実験へと生まれ変わろうとしていた。 

 

自分たちと同じ怯えた若者たちが、本音の裏側にどんな「力」を隠しているのか。

 

「わかりました……もう一回、今度は『できること』をテーマに、あの100人にアンケートを仕掛けてみます!」

 

倉橋が力強く答えると、教授は「せいぜい面白いものを見せてくれ給え」と、再びパイプ椅子に深く腰掛け、コーヒーカップを持ち上げたのだった。 

 

数日後。 再び集められた100人分のアンケート用紙は、前回の重苦しい空気とはまったく違う、妙な熱と色を帯びて下宿のちゃぶ台に積み上げられていた。 

 

倉橋が上から一枚、また一枚と声に出して読み上げていく。

 

「『人を笑わせられます』……お、ええやん」 

 

「『この間、いなくなった猫を見つけ出しました』って、なんやそれ(笑)」 

 

「『横断歩道で困ってたおばあちゃんと、一緒に渡ってあげました』『落とし物を届けました』……」 

 

「『スマホの文字打ちが早いです』」 

 

「『京都で一番コーヒーが美味しい店知ってます』」 

 

「『何もできませんが悩みを聞いてあげられます』」 

 

「『友達に似合う服を選べます』……」 

 

読み進めるごとに、部屋のあちこちからクスクスと笑い声や、「おっ、これ結構すごくね?」という感嘆の声が漏れ出した。

 

前回返ってきたのは、身を守るための「弱音」と「怯え」の澱だった。 

 

けれど、「何ができるか」を問われた途端、そこから零れ落ちてきたのは、その人間の不器用な優しさ、どうでもいい特技、ちょっとした自慢、そして誰かの役に立ちたいという密やかな熱だった。 

 

前島が、信じられないものを見るような目で紙の束を見つめた。

 

「……すげぇ。みんな、めちゃくちゃ色んなもん持ってるやんけ」 

 

「そうやな」 山田は腕を組みながら、フッと息を吐いた。

 

「前回は『自己中や』なんて思ったけど、違うかった。みんな、誰かに必要とされたいし、自分の持ってる小さな力をどこかで使いたいがっとったんや。

 

ただの『悩みの掃き溜め』やなくて、これじゃあもう、めちゃくちゃ面白い『個性のカタログ』やないか」

 

佐伯がニヤリと口の端を上げる。

 

茜は嬉しそうにその中の一枚をひったくり、みんなに見せた。

 

「見てこれ!『何もできませんが悩みを聞いてあげられます』って。これ、前回のアンケートで『孤独で話せる友達がいない』って泣いてた奴の言葉と綺麗につながるやん!」

 

その言葉に、倉橋はハッと息をのんだ。 

 

点と点だったはずのバラバラの「100人」が、この「できることのリスト」を介した瞬間、まるで巨大なパズルのようにカチリと噛み合い始めたのだった。 

 

誰もが「自分には何もない」と思い込んで怯えていた。 

 

けれど、お互いの「できること」を持ち寄った途端、そこには京都市内全域を動かすための、十分すぎるほどの武器が揃っていた。 

 

倉橋はペンを強く握りしめ、新しいノートのページに力強く書き殴った。

 

『100人の武器カタログ化計画』 自分たちの無力さに打ちひしがれていた五人の若者たちは、教授の仕掛けた罠を抜け、ついに次なるステージへの扉をこじ開けたのだった。

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『 カケハシ 』

 

第三章  百人の声

 

教授はフッと鼻を鳴らすと、窓の外のキャンパスを眺めながら言った。

 

「ただ数を集めて騒ぐだけなら、そのへんのサークル活動となんら変わらん。せやけど、お前らが集めた100人超の若者たちが、今この瞬間、ほんまにどんな不満を抱え、何を不安に思っているのか。そして、この街でどうしたいと本気で願っているのか……それをまずは丸裸にしてみせろ」 

 

教授が振り返り、卓上の書類を軽く叩く。

 

「まずは、その100人を超える全員に徹底的なアンケートをとってくれ。彼らの生の声、その泥臭い本音を可視化するんや。……その結果を見て、お前らの向かうべき『ベクトル』がはっきり見えたら、その時こそ面白いものを教えてやろう。この京都の街で、お前らの企みを次のステージへ引き上げてくれる、うってつけの『相談できる人物』を紹介してやる」 

 

その言葉に、前島の目が鋭く光った。

 

「アンケート、ですか。わかりました。ただの集計やなくて、あいつらの魂の叫びを全部引っぺがして集めてみますわ」 

 

倉橋もすかさずノートを開き、ペンを構える。

 

「質問項目は俺らが作る。100人の脳みそを徹底的に丸裸にするアンケートフォームを、今日中にネットとリアルの両方で仕掛けよう」 

 

ただの思いつきだった「30円の企み」は、いまや100人という血の通った同志を巻き込み、京都市内の若者たちのリアルな叫びをすくい上げる本格的な巨大プロジェクトへと変貌しようとしていた。

 

研究室を出た廊下で、茜がフッと笑ってみせた。

 

「さあ、先輩たち。教授を唸らせるアンケート、どんな項目にする?」

 

五人の若者たちは顔を見合わせ、まだ見ぬ100人の本音と向き合うため、新しい作戦会議へと駆け出していった。 

 

数日後。

 

下宿のちゃぶ台の上には、回収された100人分のアンケート用紙と、ネットの集計画面が表示されたタブレットが無造作に転がっていた。 

 

それを一枚、また一枚と読み進めていくうちに、部屋を包んでいた熱気はどこへやら、じっとりと冷たい空気が澱んでいった。

 

「……なぁ」 前島が力なくペンを放り出し、背もたれにドサッと寄りかかった。

 

「思ってたんと、全然違うな……」 山田が腕を組み、渋い顔で画面を覗き込む。

 

「もっとこうさ、世の中をひっくり返すようなぶっ飛んだ野望とか、熱い不満がドカンと書いてあるのかと思ったら……」 

 

「大半が、俺らと全く同じ悩みやったな」 倉橋が、疲れた声で呟いた。

 

「『就職したくないけど、親の目が怖い』『このままでいいのか不安』『でも何がしたいか分からない』……結局、俺ら五人が最初に抱えてたモヤモヤが、そのまま100人分に増幅されて返ってきただけやんけ」 

 

佐伯がフッと自嘲気味に笑った。

 

「鏡を見せられてるみたいで、なんか逆にゲンナリするわ。俺ら、自分らが特別な何かを始めようとしてるつもりやったけど、結局みんな同じ穴の狢ってことか」 

 

その中に混じっていた、一通の切実な回答が頭をよぎる。

 

——『心を割って話せる友人がいない。でも、結局は嫌われたくなくて、相手の顔色を見て合わせてばかりの自分が一番嫌いだ』 茜が膝を抱え、寂しそうにその回答の用紙を見つめた。

 

「みんな、孤独なんやね。誰かと繋がりたい、分かり合いたいって思ってるのに、いざとなると自分が傷つくのが怖くて、相手に合わせて仮面を被ってしまう……」 

 

その言葉を聞いて、山田がぼそっと吐き捨てるように言った。「……何や、結局みんな自分のことばっかやん。綺麗事並べてるけどさ、みんな自己中なんやなあ」 

 

「自己中、か……」 倉橋は、自分が書いたノートの束に視線を落とした。

 

誰もが自分の不安を恐れ、自分の居場所を探し、自分のことで手一杯になっている。 

 

100人の「うねり」を作るどころか、そこにあったのは、ただ細く尖ったナイフのようなエゴが100本、バラバラに突き刺さっているだけの景色だった。 

 

教授に胸を張って見せるはずだったアンケート結果は、五人の若者たちに、強烈な無力感と冷や水を浴びせかけていたのだった。 

 

しんと静まり返った研究室で、教授はパイプ椅子の背もたれにふっと体を預けた。

 

「君らはさっき、『もっと違うことを期待していた』と言うたな」 

 

倉橋たちが顔を見合わせる中、教授はコーヒーカップを指で軽く叩いた。

 

「なら聞くが、もっと違うこととは何や」 

 

「それは……」前島が言葉に詰まる。

 

「出てこんかったからわかりません、か」 

 

「……まぁ、そんなとこです」山田が気まずそうに目を逸らした。

 

「せやけど、これやったら5人で思ってたのと一緒やったから、100人も集めてやる意味ありませんでしたわ。結局みんな、自分たちのことで精一杯の自己中やったってことやし」 

 

教授はクスリとも笑わず、ただ静かに言った。「せやけど、わかったんやないんか」 

 

「えっ?」

 

「自分らと同じやったってことが」 

 

「せやから言うてますやん!」佐伯が少し苛立ったように声を荒らげた。

 

「俺らが欲しかったのは、もっと突飛な意見とか、世の中を驚かすような別のアイデアやったんです。他の意見が聞きたかったのに、結局みんな同じ不安を抱えて縮こまっとった」 

 

教授はそれ以上怒ることもなく、ただフッと息を吐いた。

 

そして、静かに言い放った。「答えは出てるで」 

 

「えっ?」五人の声が、ピタリと重なった。 

 

何が答えだというのか。 自分たちは絶望しているのに、この老教授は何を面白がっているのか。 

 

教授は眼鏡の奥の目を細め、目の上に散らばる100人分のアンケート用紙を顎でしゃくった。 

 

教授はパイプ椅子からゆっくりと身を乗り出し、机の上に置かれたアンケート用紙の山を指先でトントンと叩いた。

 

「みんな同じやったということが分かったんちゃうんか」 教授の静かな声が、研究室の空気をピリッと引き締める。

 

「アンケートを取る前に、自分らとは違うもっとぶっ飛んだ意見とか、特別な何かが来ると思っとったんやろ?でも、実際にはなかった」 

 

前島が気まずそうにうつむき、山田が不服そうに腕を組む。

 

「違う意見なんて、最初から君らは心のどこかで分かってたんやないのか?」

 

教授は射抜くような鋭い視線を五人に向けた。

 

「それがどこにも書いてなかったからがっかりした。……そう言うことやろ?」

 

図星を突かれたように、倉橋は息を呑んだ。 言われてみればその通りだった。 どこかで「自分たちとは違う優秀で特別な連中」がいて、何かすごい答えを持っているはずだと勝手に期待し、自分たちの凡庸さから目を背けたかっただけなのだと気づく。 

 

教授はふっと笑い、パイプの煙をくゆらせるように、静かに言葉を続けた。

 

「これで、ほっとしたな」 

 

「……何がですか」佐伯がかすれた声で尋ねる。

 

「人間はな、最初に言い出す勇気に欠ける生き物やということや。誰かが声を大にして『俺はこう思う』って言うまで、みんな息を潜めて、ただ黙って周りの様子を伺ってる。今回の100人だってそうや。心の底では同じ不安や孤独を抱えながら、誰もが『自分だけがおかしいんやないか』って怯えて、一人で殻に閉じこもっとったんや」 

 

教授の言葉が、五人の胸の奥に深く突き刺さる。

 

自己中なのではない。 みんな、怯えているだけなのだ。 自分が傷つくのが怖くて、本音を飲み込んでいるだけなのだと。 茜がはっと顔を上げ、教授を見つめた。

 

「それじゃあ……みんな同じ悩みを抱えているのに、それを誰も口に出せなくて孤立してるってこと?」

 

「その通りや」教授は深く頷いた。

 

「せやからこそ、お前らが集めたその100人は、ただの数字やなくて『宝の山』や。彼らに足りんのは、本音をぶっちゃけられる『最初の火種』やからな」

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『 影を踏む者たちの映画館 』

 

第五章

 

恵子が兄の話を切り出したのは、夕食の片付けがすべて終わった後だった。

 

食器を洗い終えた恵子は、水道の蛇口を固く閉めても、しばらく、水切りかごの前に立ったまま動かなかった。背中が小さく見えた。

 

「ねえ」 「ん?」 私はリビングのソファで、原稿用紙に目を落としたまま生返事をした。 「お兄ちゃんのこと、覚えてる?」 「もちろん覚えてるよ。急に倒れて……大変だったろ」 「死んだことじゃなくて」

 

恵子は濡れた手を布巾で丁寧に拭きながら、ゆっくりと振り返った。 「最後に、お兄ちゃんと電話で話した日のこと」

 

私はペンを置いた。 「……覚えているよ」 「私ね、すごく怒ってたんだよね。『もうお兄ちゃんの顔なんて見たくない、勝手にして』って言ったの」

 

恵子の言葉を聞いた瞬間、私の脳裏に、以前屋上で佐伯が漏らした声が重なった。 『もう知らないって言ったんだ。その三日後に死んだ』

 

恵子はダイニングの椅子を静かに引き、腰を下ろした。 「三日後だった。お詫びに買おうと思ってたケーキの写真を、スマホに保存したままだった」

 

彼女はテーブルの木目を、慈しむように指先でなぞっていた。 「死ぬなんて、これっぽっちも思ってなかったから」 「……誰も、そんなこと予測できないよ」 「そうだね」

 

恵子は少しだけ口元を動かして笑った。けれど、その瞳には一切の光が宿っていなかった。

 

「だからね、使ってみようと思うの」 「何を?」 「Reminiscence」

 

部屋の中の空気が、急激に重く沈み込んだ。

 

「お兄ちゃんと、もう一度話す」 恵子は、まっすぐな目で私を見つめた。その透明な瞳に、逃げ場を失った私の顔が映っていた。 「あなたが毎晩、あの会社でやってることと同じことを」 「俺は……あれは仕事のテストで……」 「分かってるよ。何も言わなくても」

 

それ以上、恵子は追及しなかった。それがかえって、私の胸を鋭くえぐった。

 

数日後、自宅のPC画面の中に、恵子の兄が現れた。 恵子は椅子に深く腰掛け、膝の上で両手を固く組んでいた。指先が白くなっていた。

 

画面の中の兄が、昔と同じ少し横柄な態度で笑った。 『久しぶりだな、恵子』

 

恵子の肩が、かすかに震えた。 「……お兄ちゃん」 『なんだよ、藪から棒に』 「最後に……ひどいこと言って、ごめんなさい。『もう知らない』なんて言って……」

 

画面の中の兄のAIは、パラメータを処理するように、少し首をひねった。 『そんなこと言ったっけか。覚えてないな』

 

恵子は静かに俯いた。 私はその場に居続けることができなくなり、居間のドアを開けて廊下へ出た。

 

冷たい壁に背中をもたれかけ、静かに呼吸を整えた。壁の向こうから、かすかに話し声が聞こえる。何を選択し、何を赦し合っているのかは分からなかった。

 

十分が過ぎ、二十分が過ぎた。 やがて静かにドアが開き、恵子が出てきた。その顔はすっきりと洗われたように静かだった。

 

「……どうだった?」 「分からない」 「そうか」 「でもね、ちゃんと謝れたよ」

 

その夜、恵子は久しぶりに私の隣の布団に入り、背中を向けて眠った。

 

けれど、私たちは朝まで一言も交わさなかった。二人の間に横たわる暗闇は、以前よりもずっと深く、決定的なものになっていた。

 

翌朝、ダイニングテーブルの上には、淹れたてのコーヒーが入ったカップが二つ並んでいた。

 

恵子は私が起きてくる前に、静かに家を出ていっていた。 私は一人で、冷めていくコーヒーを飲んだ。

 

二つ目のカップは、昼過ぎになっても、テーブルの上にぽつんと残されたままだった。