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『 3rd 尾道の坂を下って 』
第一章 懐かしい歌が聞こえる朝
尾道の朝は、急傾斜の陰からゆっくりと昇る陽光と、海から静かに吹き上げてくる穏やかな潮風とともに始まる。
千光寺下の急勾配が幾重にも重なる斜面地。
そこに建つ古い瓦屋根の家々は、この町が辿ってきた長い年月をそのまま映し出したような佇まいを見せていた。
防火地域としての厳しい建築制限や接道義務、そして何より資材すら運べない細く急な階段路地に囲まれたこの地域では、今や新しい家を建てることなど到底叶わない。
今ある家に手を入れ、補修を重ねながら守り続けていくことだけが、この土地で暮らし続けるための唯一の道だった。
その細く急な石段路地を、荷物を肩にかけ、息を弾ませながら一段一段上がってくる一人のアメリカの青年がいた。
両脇に迫る古い木造家屋や、坂越しに見える青い海に目を奪われながら、彼は静かな朝の斜面地をゆっくりと登っていた。
* * *
坂の途中に建つ一軒の家の台所では、窓から差し込む朝の光の中、ハルさんが食卓の端にある卓上カセットレコーダーに向かい、再生ボタンを押し込んだところだった。
七十を少し過ぎたハルさんは、夜中に放送されるお気に入りのラジオ番組をテープに録音し、翌朝の静かな時間に聴くのを最近の楽しみにしている。
……が、何も聞こえない。
「あれ?」
ハルさんは首をひねり、押し間違えたのかと、違うボタンも押したりしてみたが、やはりウンともスンとも言わない。
「昨日までちゃんと鳴りよったのに、何でかね」
向かいの席で新聞を広げていたテルさんが、顔も上げずに言った。
四十二歳になるテルさんは、朝からキビキビとした動きでスポーツタイツを履き、今日も坂道を駆け回る準備万端といった様子だ。
「そりゃあ古うなりゃガタも来るんよ」
「昨日まで鳴りよった言うとるじゃろ」
「音が出んのは、ボリュームが上がってないんじゃないんか?」
そう言いながら、テルさんは新聞を置いて立ち上がり、レコーダーを引き寄せた。
「どれ、貸してみい」
テルさんはツマミやボタンをどれどれといじってみたが、相変わらず音は出ず、テープの軸も回らない。
「ハルさんのテープがダメなんじゃないんか?」
テルさんはズボンのポケットからいつも携帯している自分の小型カセットレコーダーを取り出すと、中に入っていたカセットテープをカチャリと抜き取り、ハルさんのレコーダーにセットし直した。
再生ボタンをグッと押し込む。……やっぱり動かない。
「ちょっとどいてみい」
テルさんはそう言うと、レコーダーの側面を手のひらでバンバンと強く叩いた。その瞬間だった。
ドドン!
地響きのような圧倒的な大音量で、アコースティックギターのイントロが小さな部屋中に爆発した。
ママス&パパスの『夢のカリフォルニア』の乾いたコーラスが、台所の空気を激しく震わせる。
「わっ!」
「うわっ!」
二人は度肝を抜かれ、跳ね上がるように飛び上がった。
「止めんね、うるさい!」
「ボタンが戻らんのんよ!」
引っかかった再生ボタンをテルさんが必死でカチカチ叩くが、びくともしない。
* * *
まさにその時、少し下で坂を上がっていた青年は「おやっ!?」と足を止めて辺りを見回した。
どうやら坂の上から轟いている。
聞き覚えのあるアコースティックギターの旋律とコーラス――The Mamas & Papas California Dreamin’ だった。
六〇年代に大ヒットし、彼自身も子供の頃からラジオやレコードで親しんできた、あまりにも懐かしい曲だった。
こんな日本の静かな斜面地の、古い家々が並ぶ坂道で、なぜこの歌がこれほどの大音量で流れているのだろう。
「まさかこんなところで……」
驚きと懐かしさに胸を突かれた青年は、吸い寄せられるようにその音のする方向へ足を向け、石段を急いで駆け上がり始めた。
* * *
家の中ではパニックが続いていた。
「コンセントじゃ、コンセントを抜け!」
ハルさんに急かされ、テルさんが食卓の下に潜り込んでコードを力任せに引っ張ると、ようやく「ブツッ」と音が途絶え、爆音を止めることができた。
台所に耳鳴りのような静けさが戻る。
「……はあ、はあ……びっくりした……」
胸を押さえて座り込むハルさんが、ハッとテルさんを睨みつけた。
「ちょっとあんた! あんたが聴こえん言うて、ボリュームいっぱいにしとったから、とんでもない音がしたんじゃないの!」
「何言いよるんね! ハルさんがいっぱいにしとったんじゃけえ!」
「私がそんなでかい音にするわけないじゃろうが!」
息を弾ませながら顔を真っ赤にして言い争う二人。
ふと、開け放たれた玄関に目をやると、そこに一人の見知らぬ外国人が立っていた。
懐かしい音を追って石段を駆け上がってきた青年だった。
少し息遣いを荒くしながら、ポカンと口を開けて部屋の中を見つめている。
コードを持ったまま怒鳴っていたテルさんと、胸を押さえて言い返していたハルさん。
二人の視線がピタリと止まり、玄関先の見知らぬ外国人とパッと視線が交差した。
「……なんじゃ、あんた、外国の人かね」
テルさんが呆然と呟くと、青年はハッと我に返り、少し荒い息を整えながら笑顔で家の中のレコーダーを指さした。
「Excuse me… I heard 'California Dreamin''! I love this song!」
静まり返った台所に、青年の爽やかな声が響き渡った。
青年はダニエルと名乗った。
ハルさんとテルさんが英語に戸惑っていると、ほどなく里奈が訪ねてきた。
市役所の臨時職員に採用されたことを報告しに来たのだった。
里奈は英語でダニエルに応じ、彼がアメリカのオレゴンから来たこと、尾道で小津安二郎の『東京物語』ゆかりの場所を歩いて訪ねたいと思っていることを知った。
話を聞いた里奈は、「明日なら案内できますよ」と申し出た。
ダニエルは嬉しそうにうなずき、翌朝、港近くの喫茶店「波止場」で待ち合わせることになった。
