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『 花びらの積もる道 』
最終章 花びらの積もる道
翌年の春、桜は四月の初めに満開になった。
順子の店は、名前のないまま続いている。
開ける日は週に三日で変わらない。客の少ない日もあれば、昼を食べる時間がなくなる日もあった。
店の名を尋ねる人は、いつの間にかいなくなった。
商店街では「順子さんのところ」で通じるようになっている。
黄色い花は冬を越した。
一度、葉を何枚か落としたが、春になると新しい芽を出した。
洋子から電話があったのは、桜が見頃を迎えた朝だった。
「今日、予定どおり行きます」
「亨さんも?」
「ええ。去年、四人で行くと言うたでしょう」
「覚えていたのね」
「順子さんこそ、忘れてたんですか」
「忘れてはいないわ」
亨が来ると聞き、順子は黄色い花の向きを直した。
洋子が以前、こちらの方が日が当たると言って置いた向きである。
店は休みにしていた。
入口の紙には、臨時休業、と書いてある。
千穂は、洋子たちより一本早い列車で来た。
「また早いのね」
「途中で遅れるよりいいでしょう」
「去年も同じことを言ったわ」
「そうだった?」
千穂は店へ入り、窓辺の花を見た。
「大きくなったね」
「冬に枯れそうになったけど」
「水をやりすぎたんじゃないの?」
「やってないわよ」
「なら、寒かったのね」
順子は千穂の顔を見た。
「今日、岡山へ帰るの?」
「夕方の電車で。明日は用事があるから」
「仕事?」
「違う」
千穂は壁に掛けた布の端を直した。
「何?」
「職場の後輩と食事に行くの」
「後輩って、あなたが休んでいたときに仕事を引き受けてくれた人?」
「そう」
「二人で?」
「そうよ」
「本当なの、それ」
「嘘じゃないわよ」
「千穂、あなた」
「まだ食事に行くだけよ。先のことまで決めないで」
千穂は順子に背を向けた。
直す必要のない布を、もう一度直している。
「何を食べに行くの?」
「まだ決めてない」
「誘ったのは、どちら?」
「そこまで聞く?」
「聞くわよ」
「言わない」
千穂が振り返った。
少し照れた顔で笑っている。
順子は、久しぶりにその笑い方を見た。
「そう」
「それだけ?」
「先のことまで決めるなと言ったのは、あなたでしょう」
「そうだけど」
「なら、食事をしてから考えればいいわ」
千穂はしばらく順子を見ていた。
「お母さんも、変わったね」
「そうかしら」
「前なら、年齢も家族構成も聞いたわ」
「いまでも聞きたいわよ」
「聞かないの?」
「今日はね」
店の外から、洋子の声がした。
「順子さん」
ガラス戸の向こうで、洋子が手を振っている。
その隣に亨がいた。
順子と千穂が外へ出ると、洋子が言った。
「こちら、主人です」
「澤口亨です」
亨が頭を下げた。
順子も頭を下げた。
「初めまして。松山順子です」
その言葉は、思っていたより静かに出た。
「初めまして」
亨が答えた。
千穂は二人を見ていた。
初めてではない二人が、初めて会ったように挨拶をしている。
嘘だと思えば、嘘だった。
けれど、洋子の前にいる松山順子と澤口亨は、確かに初めて会う二人でもあった。
「あらためて、千穂です」
千穂が亨へ頭を下げた。
「市役所では、お世話になりました」
「いえ、私は何も」
四人が揃った。
洋子だけが、ほかの三人の間に何があるのかを知らない。
だが、そのことを確かめる者はいなかった。
「では、行きましょうか」
洋子が言った。
四人は店から歩いて鶴山公園へ向かった。
道には、同じ方角へ歩く人が増えている。子どもの手を引く家族、弁当の包みを持った夫婦、杖をつきながら坂を上る人。
石段の手前で、洋子が桜を見上げた。
「下からでも、よう見えますね」
「上はもっと咲いてるわよ」
「急がんでも、桜は逃げませんよね」
「花は逃げないけど、人が増えるわ」
順子が言うと、洋子は笑った。
「やっぱり急ぎましょう」
石段を上るにつれ、城下の町が少しずつ低くなった。
石垣の上から桜の枝が張り出している。風が吹くたび、花びらが人の肩や髪へ落ちた。
洋子は何度も足を止めた。
「去年より多い気がします」
「去年も同じくらいよ」
「一年たったから、忘れたんでしょうか」
「なら、来年も新しく見られるわね」
「それは得ですね」
千穂が洋子の肩についた花びらを取った。
「ついてました」
「ありがとう。千穂さんには?」
「私も?」
「背中についてます」
洋子が千穂の背中へ手を伸ばした。
二人が少し先を歩いていく。
順子と亨は、数歩遅れて並んだ。
「店は、続いているんですね」
亨が言った。
「ええ」
「よかったです」
しばらく、二人は黙って歩いた。
「千穂は、元気になりました」
順子が言った。
亨は、前を歩く千穂を見た。
「そうですか」
「仕事も続けています。このごろ、よく笑うようになりました」
「よかった」
「職場に、気にかけてくれる人もいるみたいです」
亨はもう一度、千穂の背中を見た。
「そうですか」
「ええ」
前を歩いていた洋子が振り返った。
「二人とも、遅いですよ」
「いま行くわ」
順子が答えた。
亨は先に歩き、洋子の隣へ戻った。
順子も千穂の横へ並んだ。
四人は、同じ速さでは歩かなかった。
洋子が花を見つけて立ち止まり、亨が待つ。千穂が人の流れを避けて先へ進み、順子があとから追いつく。
離れては並び、また少し離れた。
それでも、誰も急がせなかった。
上まで歩くと、石垣の向こうに城下の町が広がっていた。
遠くの山は春霞の中にある。
「来てよかった」
洋子が言った。
誰へ向けた言葉なのかは分からなかった。
「ええ」
順子は答えた。
四人はしばらく、町を見下ろした。
帰りの坂道には、散った花びらが重なっていた。
踏まないように歩くことはできない。
人が通るたび、花びらは靴の下で動き、道の端へ寄っていく。
公園を出たところで、千穂が順子の足元を見た。
「お母さん、靴に花びらがついてる」
順子の靴の縁に、薄桃色の花びらが一枚、貼りついていた。
「取る?」
「いいわ」
順子はそのまま歩き出した。
洋子と亨が少し先で待っている。
千穂が順子の隣へ並んだ。
花びらは落ちなかった。
順子はそれを靴につけたまま、三人と城下の町へ戻っていった。
( 完 )
