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『 カケハシ 』

 

第三章  百人の声

 

教授はフッと鼻を鳴らすと、窓の外のキャンパスを眺めながら言った。

 

「ただ数を集めて騒ぐだけなら、そのへんのサークル活動となんら変わらん。せやけど、お前らが集めた100人超の若者たちが、今この瞬間、ほんまにどんな不満を抱え、何を不安に思っているのか。そして、この街でどうしたいと本気で願っているのか……それをまずは丸裸にしてみせろ」 

 

教授が振り返り、卓上の書類を軽く叩く。

 

「まずは、その100人を超える全員に徹底的なアンケートをとってくれ。彼らの生の声、その泥臭い本音を可視化するんや。……その結果を見て、お前らの向かうべき『ベクトル』がはっきり見えたら、その時こそ面白いものを教えてやろう。この京都の街で、お前らの企みを次のステージへ引き上げてくれる、うってつけの『相談できる人物』を紹介してやる」 

 

その言葉に、前島の目が鋭く光った。

 

「アンケート、ですか。わかりました。ただの集計やなくて、あいつらの魂の叫びを全部引っぺがして集めてみますわ」 

 

倉橋もすかさずノートを開き、ペンを構える。

 

「質問項目は俺らが作る。100人の脳みそを徹底的に丸裸にするアンケートフォームを、今日中にネットとリアルの両方で仕掛けよう」 

 

ただの思いつきだった「30円の企み」は、いまや100人という血の通った同志を巻き込み、京都市内の若者たちのリアルな叫びをすくい上げる本格的な巨大プロジェクトへと変貌しようとしていた。

 

研究室を出た廊下で、茜がフッと笑ってみせた。

 

「さあ、先輩たち。教授を唸らせるアンケート、どんな項目にする?」

 

五人の若者たちは顔を見合わせ、まだ見ぬ100人の本音と向き合うため、新しい作戦会議へと駆け出していった。 

 

数日後。

 

下宿のちゃぶ台の上には、回収された100人分のアンケート用紙と、ネットの集計画面が表示されたタブレットが無造作に転がっていた。 

 

それを一枚、また一枚と読み進めていくうちに、部屋を包んでいた熱気はどこへやら、じっとりと冷たい空気が澱んでいった。

 

「……なぁ」 前島が力なくペンを放り出し、背もたれにドサッと寄りかかった。

 

「思ってたんと、全然違うな……」 山田が腕を組み、渋い顔で画面を覗き込む。

 

「もっとこうさ、世の中をひっくり返すようなぶっ飛んだ野望とか、熱い不満がドカンと書いてあるのかと思ったら……」 

 

「大半が、俺らと全く同じ悩みやったな」 倉橋が、疲れた声で呟いた。

 

「『就職したくないけど、親の目が怖い』『このままでいいのか不安』『でも何がしたいか分からない』……結局、俺ら五人が最初に抱えてたモヤモヤが、そのまま100人分に増幅されて返ってきただけやんけ」 

 

佐伯がフッと自嘲気味に笑った。

 

「鏡を見せられてるみたいで、なんか逆にゲンナリするわ。俺ら、自分らが特別な何かを始めようとしてるつもりやったけど、結局みんな同じ穴の狢ってことか」 

 

その中に混じっていた、一通の切実な回答が頭をよぎる。

 

——『心を割って話せる友人がいない。でも、結局は嫌われたくなくて、相手の顔色を見て合わせてばかりの自分が一番嫌いだ』 茜が膝を抱え、寂しそうにその回答の用紙を見つめた。

 

「みんな、孤独なんやね。誰かと繋がりたい、分かり合いたいって思ってるのに、いざとなると自分が傷つくのが怖くて、相手に合わせて仮面を被ってしまう……」 

 

その言葉を聞いて、山田がぼそっと吐き捨てるように言った。「……何や、結局みんな自分のことばっかやん。綺麗事並べてるけどさ、みんな自己中なんやなあ」 

 

「自己中、か……」 倉橋は、自分が書いたノートの束に視線を落とした。

 

誰もが自分の不安を恐れ、自分の居場所を探し、自分のことで手一杯になっている。 

 

100人の「うねり」を作るどころか、そこにあったのは、ただ細く尖ったナイフのようなエゴが100本、バラバラに突き刺さっているだけの景色だった。 

 

教授に胸を張って見せるはずだったアンケート結果は、五人の若者たちに、強烈な無力感と冷や水を浴びせかけていたのだった。 

 

しんと静まり返った研究室で、教授はパイプ椅子の背もたれにふっと体を預けた。

 

「君らはさっき、『もっと違うことを期待していた』と言うたな」 

 

倉橋たちが顔を見合わせる中、教授はコーヒーカップを指で軽く叩いた。

 

「なら聞くが、もっと違うこととは何や」 

 

「それは……」前島が言葉に詰まる。

 

「出てこんかったからわかりません、か」 

 

「……まぁ、そんなとこです」山田が気まずそうに目を逸らした。

 

「せやけど、これやったら5人で思ってたのと一緒やったから、100人も集めてやる意味ありませんでしたわ。結局みんな、自分たちのことで精一杯の自己中やったってことやし」 

 

教授はクスリとも笑わず、ただ静かに言った。「せやけど、わかったんやないんか」 

 

「えっ?」

 

「自分らと同じやったってことが」 

 

「せやから言うてますやん!」佐伯が少し苛立ったように声を荒らげた。

 

「俺らが欲しかったのは、もっと突飛な意見とか、世の中を驚かすような別のアイデアやったんです。他の意見が聞きたかったのに、結局みんな同じ不安を抱えて縮こまっとった」 

 

教授はそれ以上怒ることもなく、ただフッと息を吐いた。

 

そして、静かに言い放った。「答えは出てるで」 

 

「えっ?」五人の声が、ピタリと重なった。 

 

何が答えだというのか。 自分たちは絶望しているのに、この老教授は何を面白がっているのか。 

 

教授は眼鏡の奥の目を細め、目の上に散らばる100人分のアンケート用紙を顎でしゃくった。 

 

教授はパイプ椅子からゆっくりと身を乗り出し、机の上に置かれたアンケート用紙の山を指先でトントンと叩いた。

 

「みんな同じやったということが分かったんちゃうんか」 教授の静かな声が、研究室の空気をピリッと引き締める。

 

「アンケートを取る前に、自分らとは違うもっとぶっ飛んだ意見とか、特別な何かが来ると思っとったんやろ?でも、実際にはなかった」 

 

前島が気まずそうにうつむき、山田が不服そうに腕を組む。

 

「違う意見なんて、最初から君らは心のどこかで分かってたんやないのか?」

 

教授は射抜くような鋭い視線を五人に向けた。

 

「それがどこにも書いてなかったからがっかりした。……そう言うことやろ?」

 

図星を突かれたように、倉橋は息を呑んだ。 言われてみればその通りだった。 どこかで「自分たちとは違う優秀で特別な連中」がいて、何かすごい答えを持っているはずだと勝手に期待し、自分たちの凡庸さから目を背けたかっただけなのだと気づく。 

 

教授はふっと笑い、パイプの煙をくゆらせるように、静かに言葉を続けた。

 

「これで、ほっとしたな」 

 

「……何がですか」佐伯がかすれた声で尋ねる。

 

「人間はな、最初に言い出す勇気に欠ける生き物やということや。誰かが声を大にして『俺はこう思う』って言うまで、みんな息を潜めて、ただ黙って周りの様子を伺ってる。今回の100人だってそうや。心の底では同じ不安や孤独を抱えながら、誰もが『自分だけがおかしいんやないか』って怯えて、一人で殻に閉じこもっとったんや」 

 

教授の言葉が、五人の胸の奥に深く突き刺さる。

 

自己中なのではない。 みんな、怯えているだけなのだ。 自分が傷つくのが怖くて、本音を飲み込んでいるだけなのだと。 茜がはっと顔を上げ、教授を見つめた。

 

「それじゃあ……みんな同じ悩みを抱えているのに、それを誰も口に出せなくて孤立してるってこと?」

 

「その通りや」教授は深く頷いた。

 

「せやからこそ、お前らが集めたその100人は、ただの数字やなくて『宝の山』や。彼らに足りんのは、本音をぶっちゃけられる『最初の火種』やからな」