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『 花びらの積もる道 』

 

第十一章 知ったまま

 

 三人で別れたあと、順子と千穂は遅い昼食を取った。

 

 二人とも多くは話さなかった。

 

 千穂は料理を半分ほど食べたところで箸を止め、順子に促されて、残りを少しずつ口へ運んだ。

 

 店を出たところで、千穂が言った。

 

「少し歩きたいの」

 

 順子は津山へ戻る列車まで一緒にいると言ったが、千穂は断った。

 

 母は何か言いたそうにしていたが、引き止めなかった。

 

 千穂は振り返らずに歩いた。

 

 亨が母に頭を下げたことも、母が許さないと言ったことも、三人だけの話にすると自分で決めたことも、まだ身体の中へ収まっていない。

 

 それでも、洋子へ知らせなければならないという思いは消えていた。

 

 消えたというより、置く場所が変わったのかもしれない。

 

 以前の千穂は、知らされなかった自分のために怒っていた。いまは、知らされたあとの洋子を考えている。

 

 どちらが正しいのかは分からない。

 

 ただ、自分の痛みを理由に、別の女性を同じ場所へ立たせることだけはしたくなかった。

 

 千穂と別れたあと、順子は表町へ向かった。

 

 津山へ戻る列車には、まだ時間がある。

 

 洋子の働く花屋の前まで来ると、店先には白い花と淡い桃色の花が並んでいた。

 

 順子は少し離れた場所で足を止めた。

 

 先ほど、自分は洋子に何も知らせないと決めた。

 

 その決心を確かめるために来たのだと言えば、聞こえはよい。

 

 本当は、洋子の顔を見たかった。

 

 何も知らない人の前で、それまでと変わらずにいられるのか。自分を試そうとしている。

 

 順子は店へ入った。

 

「いらっしゃいませ」

 

 洋子は花を包んでいた手を止め、顔を上げた。

 

「あら、順子さん」

 

 その笑顔は、鶴山公園で別れたときと変わらなかった。

 

「岡山へ来てたんですか」

 

「少し用事があって」

 

「寄ってくださったのね」

 

 洋子はうれしそうに言った。

 

 その声を聞き、順子は自分が試す相手を間違えていたと思った。

 

 洋子を見て黙っていられるかどうかではない。最初から、この人を試してよい理由などなかった。

 

「何か、お探しですか」

 

「部屋に置く花を」

 

「どんな色がいいでしょう」

 

「明るい色がいいわ」

 

「では、こちらはどうですか」

 

 洋子が選んだのは、黄色の花だった。

 

「順子さんのお部屋、日当たりはいいですか」

 

「午前中は入ります」

 

「なら、窓辺でも大丈夫です。お水はあげすぎないようにしてくださいね」

 

 洋子は花を包みながら、鶴山公園の話をした。

 

「この前は、順子さんに案内してもろうたでしょう。今年の桜は、もう終わりました?」

 

「いまは葉桜よ」

 

「やっぱり、花の時期は短いね」

 

「短いから、人が見に行くのかもしれないわ」

 

「来年も行ってええですか」

 

「もちろん」

 

「今度は、千穂さんも誘いましょう」

 

「千穂を?」

 

「展示でお世話になったのに、仕事の話しかしたことがありませんから」

 

「そうね。あの子も、たまには花を見る方がいいわ」

 

「仕事ばかりなんですか」

 

「自分では、そう思っていないみたいだけど」

 

 洋子は笑った。

 

「親から見たら、子どもはいつまでも働きすぎるんでしょうね」

 

「洋子さんには、お子さんは?」

 

「ええ。息子が一人。神戸の会社で働いています」

 

「もう、こちらにはいないのね」

 

「ときどき帰ってきます。帰ってきても、ほとんど寝てますけど」

 

「男の子は、そんなものかもしれないわね」

 

「順子さんのところは、娘さんでしょう。話し相手になってくれてええですね」

 

「話し相手というより、注意する相手だと思っているみたい」

 

「親から見たら、子どもはいくつになっても心配ですから」

 

 洋子が息子のことを話す目は、千穂のことを話すときの自分と同じ、母親の目だった。

 

 順子はあらためて思った。

 

 千穂に知られてしまった亨との過去を、この人にまで背負わせてはならない。

 

 それは洋子を何も知らない場所へ置いておくためだけではなかった。

 

 洋子が母親として生きてきた時間も、亨と築いてきた暮らしも、順子たち三人の過去とは別のところにある。

 

 その時間へ、自分から踏み込んではならないと思った。

 

 洋子は花の包みを順子へ渡した。

 

「また来てくださいね」

 

「ええ」

 

「今度は、何か買う用事がなくても」

 

「花屋へ来て、何も買わないの?」

 

「話をして帰るお客さんもいます」

 

「商売にならないわね」

 

「毎日やったら困りますけど、順子さんなら、ときどきは」

 

 順子は黄色い花を受け取った。

 

「では、ときどきにするわ」

 

 何も話さなかった。

 

 それでも、嘘をついたとは思わなかった。

 

 話さないことと、なかったことにするのは違う。

 

 その違いを、自分の中で守らなければならない。

 

 順子が津山の部屋へ戻ったのは、夜になってからだった。

 

 黄色い花を窓辺へ置く。

 

 寝室には、五つの段ボール箱が積まれたままになっている。

 

 順子は一番上の箱を床へ下ろし、蓋を開けた。

 

 ブティックの帳簿や、店で使っていた布が入っている。手に取ったものを、残すものと手放すものに分けていった。

 

 一箱目を終えると、二箱目を開けた。

 

 夫の服が入っている。

 

 順子は一枚ずつ広げた。

 

 亡くなった人の服を手放すことは、その人を忘れることではない。

 

 そう思えるまでに、八年かかった。

 

 残すものを選び、ほかは畳み直した。

 

 三箱目には、大学時代の手帳と亨の古い封筒が入っている。

 

 順子は封筒を取り出し、しばらく見た。

 

 京橋で受け取った新しい手紙は、まだ鞄の中にある。

 

 古い封筒を、新しい手紙のそばへ置く気にはなれなかった。

 

 順子は大学時代の手帳と病院の領収書、古い紙幣を小さな箱へ移した。

 

 捨てるためでも、誰かに見せるためでもない。

 

 今度は、自分がどこへ置いたのかを知っておくためだった。