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『 あの人は、今 』
第十九章 またいつか
翌朝、父はカメラを持って出掛けた。
恭一は、その後ろ姿を見送った。
今なら、父が撮っているものが少し分かる気がした。
母がいた町。
母と歩いた道。
母が見ていた海。
同じ場所なのに、母がいなくなってからは、どこか違って見える。
恭一は家の中へ戻り、古いネガをもう一度調べた。
その中に、男が一人で写っている写真があった。
背景には尾道の海。
裏には短い言葉。
「またいつか。」
誰が書いたのか分からない。
母の字にも見える。
父の字にも見えない。
恭一は、その写真を持ったまま座り込んだ。
男は、その後どうしたのか。
京都へ戻ったのか。
別の町へ行ったのか。
結婚したのか。
子供がいるのか。
もう亡くなっているのか。
何も分からない。
母の友人が探してほしいと言った。
恭一自身も知りたいと思っている。
会社の仕事として調べてもいいのではないか。
そう思った。
しかし、恭一はやめた。
これは、まだ仕事ではない。
自分自身の問題だ。
会社の名前を使わず、自分で調べる。
それが父と母に対する最低限の礼儀のような気がした。
第二十章 岩城の話
大阪へ戻った夜、岩城が珍しく酒を飲んだ。
会社の近くの小さな店だった。二人で飲むのは久しぶりだった。
岩城は、辞めた会社のことを時々思い出す。
安定していた。給料もあった。
今は、売上がそのまま自分たちの生活になる。
恭一も同じだった。後悔はしていない。それでも、怖くないわけではない。
岩城はグラスを置いた。
「続けような」
恭一は頷いた。
仕事の話は、それ以上しなかった。
第二十一章 会社の一年
会社が一年を迎える頃には、仕事の数も増えていた。
大学時代の友人、昔の職場の同僚、二十年前に離婚した元夫。
会いたいのではなく、生きていると分かればそれでいいという依頼もあった。死んだと分かることで、ようやく諦められる人もいる。
恭一は、料金表を見るたびに考えた。
四十年分の空白を埋めるためなら、三万円は高くないのかもしれない。
それでも、見つかったことで人生が変わってしまう人もいる。
だから、料金より先に確かめることがあった。
その人を探して、本当に大丈夫なのか。
会社は少しずつ大きくなった。
それでも事務所は広げなかった。
狭いからこそ、誰が何をしているか分かる。依頼者が帰った後の空気まで、まだ三人で共有できる。
大きな会社にすることより、目の届く仕事を続けることを選んだ。
第二十二章 母の手紙
ある夜、尾道から小包が届いた。
中には、母の古い手紙が何通か入っていた。
どれも母が京都へ行った年のものだった。
一枚目。
京都の寒さ。
仕事のこと。
新しい部屋のこと。
そして最後に、
「こちらで、少し考えてみます。」
二枚目。
日常のこと。
三枚目には、
「あの人には、まだ言わないでください。」
とあった。
誰のことなのか。
四枚目には、
「私が戻るまで、待っていてください。」
とだけ書かれていた。
誰に宛てたものか分からない。
恭一は、そこで手紙を閉じた。
母の人生は、恭一が思っていたより長かった。
母は恭一の知らない場所で迷い、誰かを傷つけ、傷つけられ、それでも自分の暮らす場所を選んだ。
そのことを考えると、恭一は少し腹立たしかった。母が一人の女性として生きていた時間を、自分は息子という立場だけで見ていたのだと思ったからだ。
母の人生を、息子が全部分かるはずはない。
それでも、分からないことがあると知るのは、思っていたより寂しかった。
父に電話すると、父は言った。
その手紙は、自分に宛てたものではない。
誰宛てかも分からない。
ただ、一人だけ心当たりがある。
写真の男かもしれない。
恭一は手紙を見つめた。
四十年以上前の紙。
もう誰にも届かないと思っていた言葉。
それが今、自分の机の上にある。
第二十三章 京都の再会
恭一は、母の友人と再び会った。
女性は、古い写真を持っていた。
そこには、若い母と女性、そして写真の男が写っている。
四十年前の京都。
女性は、母と喧嘩した理由を話した。
二人とも若かった。
母には母の人生があり、女性には女性の人生があった。
誰か一人が悪かったわけではない。
ただ、二人とも自分だけが傷ついたと思った。
だから謝れなかった。
女性は、恭一に一つのことを頼んだ。
写真の男を探してほしい。
自分も、母も、もう一度だけ、その人が今どうしているのか知りたい。
恭一は引き受けた。
今度は、会社の仕事として。
依頼者は母の友人だった。
そして、依頼の内容は自分が一番知りたいことでもあった。
会社の規則を適用する。
個人情報を勝手に渡さない。
本人の意思を確認する。
再会を約束しない。
自分の母だからといって、調査の手順を変えない。
それが、恭一にとって母への礼儀だった。
