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『5年越しの手紙』

 

第六章 風が運ぶ破片と、手紙の真実

 

ケアハウスの相談室で、美穂は施設長に尋ねた。

 

「施設長さん。……明夫さんは、五年前、どうしてこちらへ戻ってこられたのでしょうか」

 

施設長は静かに記憶を辿るように語った。

 

「明夫様がこちらへ手続きに来られた五年前の冬……あの時の切迫したお顔は忘れられません。睡眠時間を削るようにして奔走されていましたよ。『自分はどうなってもいいから、祖母だけは温かく安全な場所に』と。目の下に酷いクマを作り、痩せこけておられました」

 

施設を出た美穂の足は、無意識のうちに再び『藤田医院跡地』のパーキングへと向かっていた。

 

アスファルトの前に立ち尽くしていると、隣の米屋のおばちゃんが再び美穂に気づいて箒を止めた。

 

そこへ、路地の奥から三輪自転車に乗った作業服の男性――植木屋の主人が通りかかった。

 

「おばちゃん、毎度。……なんや、二人してそんなしんみりした顔して」

 

「このお姉さん、昔の明夫くんのお知り合いなんやって。五年前にお父さんが亡くなって明夫くんが帰ってきた頃の話をしてたんよ」

 

「あ、藤田さんのところの話か……」植木屋の主人は汗を拭い、更地に視線を向けた。

 

「あの時の明夫くんは、ほんま大嵐の中にたった一人で放り込まれたようやった」

 

主人は重々しく言葉を重ねた。

 

「お父さんが心臓の病気で急に亡くなってな。後から後から、医院の建て替えローンやら、医療機器の莫大な残債やら、連帯保証の借金やらがドッと出てきたんや。おばあちゃんはショックで認知症が一気に進んでまうし、まだ大学出たばかりの明夫くんが、たった一人でその全部を背負わされたんや。警察の手続きから借金取りの対応、医院の売却までな」

 

美穂の全神経が凍りついた。

 

手持ちのバッグの革紐を強く握りしめる。

 

「東京のええ設計事務所に就職が決まってたらしいけど、それを全部投げ打って帰ってきたんよ。昼は建設現場の荒仕事、夜は書類整理と介護や。瘦せこけて、目ぇ血走らせてな……」

 

美穂の脳裏に、五年前のあの十二月の日々が蘇る。

 

東京の部屋で「どうして連絡をくれないの」と一人で泣き明かしていたあの冬。

 

明夫は、この街で一人、底の見えない絶望と戦っていたのだ。

 

米屋のおばちゃんが、思い出したように言葉を添えた。

 

「そう言えば明夫くん、一度だけうちで米買いに来た時に漏らしたことがあったわ。『東京に大切な人がいる』って」

 

「あいつ、東京の彼女のことだけは、最後まで何も悪く言わんかったな」

 

植木屋が言った。

 

「自分の苦しい事情も一切言わんと、ただ黙って一人で抱え込んで……。自分のせいで悪者になればええと思ってたんちゃうか。自分の破滅に、彼女を巻き込むわけにはいかんって」

 

秋の風が吹き抜け、更地のアスファルトの上を落ち葉が舞い上がった。

 

――自分の苦しい事情を言わずに、ただ黙って。

 

美穂は、ようやくその意味を理解した。

 

嫌われたのではなかった。

 

捨てられたのでもなかった。

 

自分の借金と崩壊した家庭の重荷で、美穂の未来を塗りつぶさせないために。

 

明夫は理由も告げず、自ら悪者になって美穂の人生から身を引いたのだ。

 

「あいつ、その後現場の会社で死ぬ気で働いて、借金も全部返し切ってな。いまじゃ咲恵さんいうええ奥さんと巡り合って、子供も生まれて、ようやく平穏になったんや。……あ、そう言えば今日もこれから、あいつの家の庭の手入れに行くんよ。この先の新しい分譲地の角の家なんやけどな」

 

「……そう、ですか」

 

美穂は深々と頭を下げた。

 

涙は出なかった。

 

胸の奥を痛く締め付けていた冷たい氷が、溶けていくのをただ感じていた。

 

*

 

阪急梅田駅へ戻った美穂は、静かな喫茶店の壁際の席に座り、一筆箋を取り出した。

 

万年筆のインクが、白い和紙にしっとりと染み込んでいく。

 

『明夫へ この封筒、梅田駅のエスカレーターの近くで落としていたのを見かけました。

駅の窓口へ預けておきます。 

今日、豊中へ行き、和子さんの施設や街の方から当時のことを聞きました。

理由も知らずに過ごした五年間は苦しかったけれど、今日、あなたがどんな思いで過ごしてきたのかを知ることができました。 

 

私に気を遣ってくれたのですね。正直にいってくれていたら私も役に立てたと思います。

でも、あなたにとってはそんなことを考える余裕さえもなかったんだと思います。

私は、あなたの優しさを知ることができて、私の止まっていた時間が、ようやく動き出しました。 

声はかけずに、東京へ帰ります。

 

どうか、あなたもご家族と一緒に、たくさんの幸せに包まれていますように。 

 

白石美穂』

 

手紙を封筒に納め、阪急梅田駅の遺失物取扱窓口の係員に「落とし主が現れますので」と託した。

 

手続きを終えたとき、美穂の足は自然と再び豊中へと向かっていた。

 

声をかけるつもりはない。

 

ただ一目だけ、前を向いて自分の人生を生きている彼の姿を、この目に焼き付けたかった。

 

*

 

豊中市の新しい分譲住宅地。

 

白い壁と木の温もりが残る一軒家の前に、美穂はひっそりと佇んだ。

 

玄関が開かれ、明夫と咲恵さんが姿を現した。

 

五年の歳月を経て、明夫の佇まいには確かな落ち着きがあったが、少し丸まった肩や右手を上着のポケットに入れる癖はあの頃のままだった。

 

二人は笑顔で言葉を交わしながら、花壇の手入れを始めている。

 

風に乗って届いた明夫の声は、昔よりもずっと柔らかく、温かかった。

 

美穂はその光景を電柱の陰から見つめた。

 

彼はあの暗闇を乗り越え、自分の足で立ち上がり、この愛おしい日常を手に入れたのだ。

 

明夫がふと、何かに引き寄せられるように、美穂のいる路地の方向へゆっくりと視線を向けた。

 

美穂は息を殺し、電柱の陰へそっと身体を隠した。

 

そして、二度と振り返ることなく、前を向いて駅へと歩き出した。

 

(さようなら、明夫)

 

心の中で呟いた言葉は、秋空のように澄み切っていた。

 

新大阪発、東京行きの『のぞみ』。

 

窓際の席で、美穂は流れていく夜景を見つめていた。

 

膝の上に置いた自分の両手を見つめると、涙がハラハラと溢れ出し、膝を濡らした。

 

声を出さず、ハンカチでそっと拭う。

 

その涙に悲しみや恨みは一筋もなかった。

 

自分が二十代のすべてをかけて愛した人は、どこまでも誠実で、どこまでも優しい人だった。

 

自分が知りたかった答えに辿り着いた満足感が、静かに満ちていた。

 

美穂はスマートフォンを取り出し、哲也へのメッセージ画面を開いた。

 

『哲也さん、今、静岡のあたりを通過してるよ。急なんだけど……今夜、品川で会えるかな? 伝えたい大切な話があるの』

 

数秒もしないうちに、画面が光った。

 

『品川で待ってるよ。……美穂、気をつけて帰ってきてね』

 

画面を見つめ、美穂は深く息を吸い込んだ。

 

自分の意思で、哲也の待つ「現在」へ帰るのだと確信していた。

 

*

 

阪急大阪梅田駅の遺失物取扱窓口。

 

仕事終わりに青ざめた顔で駆け込んできた明夫は、手渡された封筒の中に一枚の手紙が入っているのに気づいた。

 

見覚えのある文字。

 

『明夫へ……』

 

手紙を読み進めるにつれ、明夫の体がかすかに震え、彼はゆっくりと目を閉じた。

 

手紙の一文――『私は、あなたの優しさを知ることができて、私の止まっていた時間が、ようやく動き出しました。』を指でなぞり、夜の駅の風の中で深く、長く息を吐き出した。

 

(美穂……ありがとう)

 

過去の微かな痛みが、静かに溶けて消えていった。

 

*

 

夜九時過ぎの品川駅改札前。

 

人波の中で待っていた哲也が、美穂の姿を見つけると、パッと表情を明るくして駆け寄ってきた。

 

「美穂! お疲れ様」

 

哲也が自然な動作でキャリーケースを受け取ろうとした瞬間、美穂は自分から、哲也の温かな手を力強く、しっかりと握りしめた。

 

哲也は一瞬驚いたように目を丸くし、それから美穂の表情を見た。

 

「哲也さん、今まで……自分の気持ちから逃げていて、ごめんなさい。もう迷わない。……今週末、一緒に住むお部屋、見に行こう? 私、哲也さんと一緒に、これからの暮らしを作っていきたいの」

 

一瞬の静寂の後、哲也の目に溢れんばかりの光が宿り、それから心からの笑顔が弾けた。

 

「……うん! もちろん行こう! 美穂……ありがとう」

 

重なった手の温もりを確かめながら、美穂はもう、後ろを振り返らなかった。