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『 花びらの積もる道 』

 

第九章 京橋

 

 約束の日、順子は昼前の列車で岡山へ向かった。

 

 車内は空いていた。

 

 向かいの座席には、買い物袋を膝へ置いた女性が座っている。眠りかけては首を上げ、そのたびに窓の外を確かめた。

 

 順子は眠れなかった。

 

 四十数年ぶりに亨と会う。

 

 その言葉を頭へ浮かべると、二十二歳の亨が出てくる。白いシャツを着て、鉛筆を耳に挟んでいる。

 

 今日会うのは、六十八歳の亨である。

 

 順子は鞄から小さな鏡を出した。

 

 口紅は薄く塗ってきた。

 

 鏡を閉じたあと、どうして塗ったのだろうと思った。

 

 岡山駅へ着くと、路面電車に乗った。表町を過ぎた辺りで降り、旭川の方へ歩いた。

 

 京橋へ近づくにつれ、川からの風が強くなった。

 

 約束の時刻まで、まだ十分ほどある。

 

 橋の西詰に立ち、旭川を眺めた。広い川面に午後の光が散り、風が吹くたび細かな波が立っている。

 

 少し離れた場所に、亨がいた。

 

 現在の写真を見たわけではない。

 

 それでも、すぐに分かった。

 

 身体が細くなり、髪には白いものが増えている。背中も、わずかに丸くなっていた。

 

 ベージュ色の上着は、少し大きく見えた。

 

 亨も順子に気づいた。

 

 二人は動かなかった。

 

 信号が変わり、何人かが二人の間を横切った。

 

 先に歩き出したのは亨だった。

 

「久しぶりです」

 

 言ってから、目を伏せた。

 

「ええ」

 

 順子も、それだけ答えた。

 

 亨は順子の顔を見た。

 

「お元気そうで」

 

「その話をするために来たんじゃありません」

 

「分かってます」

 

 二人は川沿いの道へ移った。

 

 ベンチがあった。

 

 どちらも座らなかった。

 

「千穂は、明日まで仕事を休んでいます」

 

「会場の人から聞きました」

 

「小さな間違いが続いたそうです。日付を間違えたり、手紙を入れ忘れたり」

 

「電話で話したとき、いつもの千穂さんと違うと思いました」

 

「いつものあの子を、どれだけ知ってるんですか」

 

 順子の声が強くなった。

 

「すみません」

 

「謝らないでください」

 

 亨は口を閉じた。

 

 順子は川へ顔を向けた。

 

 会ってまだ数分だった。

 

 それなのに、昔と同じだった。亨が何か言えば腹が立ち、黙れば、なお腹が立つ。

 

「千穂は、私たちが付き合っていたと知ってから、何があったのか考え続けていました」

 

「僕が何も話さへんかったから」

 

「私も話しませんでした」

 

「でも、順子には話さへん理由があった」

 

「あなたにもあったでしょう」

 

 亨は答えなかった。

 

「また黙るんですね」

 

「何を言うても、言い訳になると思うて」

 

「黙れば、言い訳にならないんですか」

 

「そうやありません」

 

「あなたは昔からそうです。違うと言うだけで、何も決めない」

 

 亨は顔を上げた。

 

「そうやったと思います」

 

 順子は次の言葉を失った。

 

 言い返されると思っていた。

 

 若かった、怖かった、順子にも責任があったと言われるかもしれない。そう思い、言い返す言葉まで用意してきた。

 

 亨は順子から目をそらさなかった。

 

「あのときも、少し考えさせてほしいと言いました」

 

「覚えています」

 

「順子の身体には、時間がなかったのに」

 

「いまさら説明しなくても、分かっています」

 

「説明やありません」

 

 亨は肩に掛けた鞄へ手を入れ、白い封筒を出した。

 

「何ですか」

 

「手紙です」

 

 封筒には、

 

〈松山順子様〉

 

と書かれている。

 

「小坂と書かなかったんですね」

 

「いまの順子に書いたつもりです」

 

「渡せば、読んでもらえると思ってるんですか」

 

「分かりません」

 

 亨は封筒を両手で持ったまま、差し出さなかった。

 

「受け取るかどうか、順子が決めてください」

 

「いらないと言ったら?」

 

「持って帰ります」

 

「二度と渡さない?」

 

「順子が欲しいと言わへんかぎりは」

 

「私から欲しいと言うと思いますか」

 

「思いません」

 

「それでも、持ってきたのね」

 

「はい」

 

 順子は封筒を見た。

 

 受け取れば、亨の言葉を聞くことになる。

 

 受け取らなければ、何が書いてあったのかを考えるかもしれない。

 

 そのどちらも、気に入らなかった。

 

「受け取ります」

 

 順子は手を出した。

 

「でも、読むかどうかは私が決めます」

 

「はい」

 

「返事もしないかもしれません」

 

「それも、順子が決めることです」

 

 封筒を受け取り、鞄へ入れた。

 

 亨の手が、わずかに震えていた。

 

「手紙に書いたことを、ここでも言うつもりですか」

 

「言わなあかんと思ってます」

 

「私は、聞きたいとは言ってません」

 

「分かってます」

 

「分かってるなら、なぜ言うんですか」

 

 亨は旭川へ顔を向けた。

 

 橋の下を、小さな船が通っていく。船尾から白い波が広がり、しばらくして消えた。

 

「来なくてええと言われたから行かへんかったと、長いこと自分に言うてました」

 

 順子の胸の奥が固くなった。

 

「それは本当でしょう。私は来なくていいと言いました」

 

「でも、行かへんかった理由は、それだけやありません」

 

 亨は一度、口を閉じた。

 

 順子は待った。

 

「怖かったんです」

 

 亨が言った。

 

「順子の顔を見るのも、その日に何がなくなるのかを見るのも。順子の言葉に従うたんやなくて、その言葉を、自分が逃げる理由にしました」

 

 川の上を、一羽の鳥が低く飛んだ。

 

 順子は、その影が水面を渡るのを見ていた。

 

「その言葉を、あのとき聞きたかった」

 

「はい」

 

「四十数年後に聞くために、私は待っていたんじゃありません」

 

「分かってます」

 

「分かってると言わないで」

 

 亨は黙った。

 

「あなたには分からない」

 

「そうやと思います」

 

「そこは、否定しないんですね」

 

「分かると言うたらあかんと思って」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨も、よく黙った。

 

 あの頃の沈黙は、答えを先へ延ばすためのものだった。

 

 いまの沈黙が何のためなのか、順子にはまだ分からなかった。

 

「謝って、何を変えたいんですか」

 

「変えられるとは思ってません」

 

「では、自分が楽になりたい?」

 

「そういう気持ちがないとは言えません」

 

 順子は亨を見た。

 

「正直に言えば、許されると思ってるんですか」

 

「いいえ」

 

「ずいぶん、用意してきた答えね」

 

「何度も考えましたから」

 

「私は、考える時間をもらえなかったのよ」

 

「はい」

 

「また、はいと言う」

 

「ほかに、何と言うたらええか分かりません」

 

「昔と同じね」

 

「そうですね」

 

 亨は頭を下げた。

 

「一人で行かせて、すみませんでした」

 

 順子は亨の白くなった髪を見た。

 

 許すという言葉は浮かばなかった。

 

 長く待っていた謝罪を、ようやく聞いたとも思わなかった。

 

 ただ、四十数年前には言わなかった言葉を、亨がいま口にした。

 

「謝っても、戻りません」

 

「はい」

 

「私は許しません」

 

「分かってます」

 

「でも、聞きました」

 

 亨が顔を上げた。

 

「それで十分です」

 

「十分かどうかを、あなたが決めないでください」

 

「すみません」

 

 順子は息を吐いた。

 

「すぐに謝るのも、昔と変わってませんね」

 

「謝らん方がええですか」

 

「そういうことではありません」

 

 亨の口元が、わずかに動いた。

 

 順子も、鞄の持ち手を握る力を緩めた。

 

 許したわけではなかった。

 

 ただ、立ち続けていることに少し疲れた。

 

「座りませんか」

 

 順子が言った。

 

「はい」

 

 二人は、少し間を空けてベンチへ座った。

 

近くの欄干に、鳥人幸吉について書かれた案内があった。

 

 順子が目を向けると、亨も気づいた。

 

「ここから空を飛んだ人がいるそうですね」

 

「洋子さんから聞きました」

 

 名前を口にしてから、順子は亨の顔を見た。

 

「知っているんですか」

 

「花屋の洋子でしょう」

 

「ええ」

 

「鶴山公園で話したと言うてました」

 

 亨の言い方には、説明が一つ足りなかった。

 

「洋子さんと、お知り合いなんですか」

 

 亨は答えるまでに、少し間を置いた。

 

「妻です」

 

 順子は亨を見た。

 

「何ですって?」

 

「洋子は、僕の妻です」

 

 旭川から風が吹いた。

 

 順子は膝の上の鞄を押さえた。

 

「どうして、いままで言わなかったんですか」

 

「言う機会が」

 

「ありました。いま、ありました」

 

「順子が知ってるとは思わへんかったから」

 

「私が洋子さんの名前を出さなければ、言わなかったんですね」

 

 亨は返事をしなかった。

 

「また黙るんですか」

 

「すみません」

 

「洋子さんは知ってるんですか」

 

「何を?」

 

「私が誰なのか」

 

「知りません」

 

「鶴山公園へ行くと聞いても?」

 

「名字を聞いたかとは尋ねました」

 

「どうして、そのとき止めなかったんですか」

 

「止めようとはしました」

 

「何と言って?」

 

「石段が多いとか、人が多いとか」

 

 順子は亨を見た。

 

「そんなことで止まる人ですか、洋子さんが」

 

「止まりませんでした」

 

「でしょうね」

 

 順子は立ち上がった。

 

「帰ります」

 

「待ってください」

 

「千穂の話をするために来たのに、あなたはまた肝心なことを黙っていた」

 

「洋子のことと、千穂さんのことは」

 

「別だと言うんですか」

 

 順子は亨を見下ろした。

 

「私が洋子さんと花屋で話して、鶴山公園を歩いたことを、あなたは知っていたんでしょう」

 

「はい」

 

「洋子さんは、何も知らずに私へご主人の話をした。私は、その人があなただと知らずに聞いていた」

 

「申し訳ないと思ってます」

 

「思っていただけ?」

 

 亨は立ち上がった。

 

「言えば、洋子と順子が知り合うたことまで、壊してしまうと思いました」

 

「壊れるかどうかを、あなたが決めたんですね」

 

 亨は口を閉じた。

 

「四十数年前と同じです」

 

 順子は鞄を持ち直した。

 

「人のために黙ったような顔をして、決めるのはいつも自分なのね」

 

「そうです」

 

 亨が言った。

 

 順子は足を止めた。

 

「そうです、で済ませるんですか」

 

「済むとは思ってません。でも、そのとおりです」

 

「洋子さんに話すつもりは?」

 

「分かりません」

 

「まだ考えるんですね」

 

「私一人のことやありませんから」

 

「今度は、洋子さんのため?」

 

 亨は答えなかった。

 

 順子はベンチへ戻らず、欄干の前へ立った。

 

 鳥人幸吉の案内には、飛び立った場所と、空を飛ぼうとしたことが記されている。

 

 降りたあとのことは、わずかしか書かれていない。

 

「飛ぶところは、たくさんの人が見たんでしょうね」

 

 順子が言った。

 

「騒ぎになったそうですから」

 

「降りたあとのことは?」

 

「詳しくは分かりません」

 

「人は、飛び立つところは見ても、そのあとどこへ歩いていったかまでは見ないんですね」

 

 亨は何も言わなかった。

 

 順子は川を見た。

 

 風に押された水が、橋脚のところで二つに分かれている。

 

「千穂の話へ戻ります」

 

「はい」

 

「あの子は、私たちのことを知って、自分が生まれたときのことまで疑っています」

 

「自分が、ですか」

 

「失った子どもの代わりではなかったのかと」

 

 亨の顔がこわばった。

 

「違うんでしょう」

 

「違います」

 

 順子は、はっきり答えた。

 

「千穂は、夫との間に生まれた私の娘です。あの子が生まれたとき、あの子としてうれしかった」

 

「それを、千穂さんに言うたんですか」

 

「言いました。でも、あの子のことを思い出したこともあると言ったから、信じられなくなっている」

 

「嘘をつかへんかったんですね」

 

「嘘をつけばよかったと言うんですか」

 

「いいえ」

 

 亨は首を振った。

 

「僕からも話します」

 

「何を?」

 

「あのとき、順子が一人で決めるしかない場所から、僕が逃げたことを」

 

「それを聞けば、千穂が元に戻ると思うんですか」

 

「分かりません」

 

「では、なぜ話すの?」

 

「千穂さんが、順子の代わりに僕を責める必要はないから」

 

「責められるのが嫌なんですか」

 

「責められても仕方ありません」

 

 亨は川へ目を向けた。

 

「でも、それで千穂さんが仕事まで失うたら、また誰かに僕のしたことを持たせることになります」

 

 順子は亨の横顔を見た。

 

 若い頃の亨には、言えなかった言葉だろう。

 

 いまの亨だから言えるのだとしても、遅すぎることに変わりはない。

 

「三人で話しましょう」

 

 順子が言った。

 

「千穂さんが嫌がったら?」

 

「嫌かどうかは、あの子に聞きます」

 

 亨はうなずいた。

 

「僕らが決めることやありませんね」

 

「そういうことです」

 

「場所は?」

 

「千穂に聞きます」

 

「分かりました」

 

 二人は、再びベンチへ座った。

 

 先ほどより、間が少し広くなっていた。

 

「洋子さんには」

 

 順子が言った。

 

 亨の肩が動いた。

 

「私からは話しません」

 

「ありがとうございます」

 

「お礼を言われることではありません」

 

「はい」

 

「でも、洋子さんに嘘をつくつもりもありません。聞かれたら、私は答えます」

 

「分かりました」

 

「あなたから話せとも、話すなとも言いません」

 

「はい」

 

「自分で決めてください」

 

 亨は苦い顔をした。

 

「それが、いちばん難しいですね」

 

「四十数年、考えたんでしょう」

 

「考えてただけでした」

 

「今度は、決めてください」

 

 順子は立ち上がった。

 

 亨も立った。

 

「駅まで送ります」

 

「結構です」

 

「路面電車の停留所まで」

 

「一人で行けます」

 

 昔なら、亨がついてくるか確かめるために、少しゆっくり歩いたかもしれない。

 

 順子は振り返らず、京橋を離れた。

 

 しばらく歩いてから、鞄の中の封筒へ手を触れた。

 

 受け取ったのは自分だった。

 

 読むかどうかは、まだ決めていない。

 

 その封筒のそばには、口紅と小さな鏡が入っていた。

 

 順子は鏡を出さなかった。